第六話 「合同練習と協力者」
「確か、結構強ぇトコ…だったよな?」
お借りしている控え室で、柔道着に着替え終えた体格の良い大熊が尋ねると、
「うん。去年は個人戦で二人が県大会突破。団体戦は県内三位。陽明と同じか、それよりちょっと下クラスなのかな?」
ぼくが答えるまでもなく、ジャージ姿の小柄な猫がそう丁寧に答えてあげた。
今年マネージャー初経験のイヌイは、ぼくが渡したデータを見やすく整理してくれた。
驚いた事に、ここ数年の公式戦で活躍した選手のデータや残した記録などは、尋ねればデータを見るまでもなくポンと出て
くる。
信じ難い事だが、ぼくが集めた各大会の記録を、整理作業に勤しみながら丸暗記してしまったらしい。
アブクマが我が事のように誇らしげに話してくれたが、さすがは満点で入試を突破した秀才だ。
…あれ…、丸々二年分の公式試合全部の分があったから、かなりの量だったんだけれどもなぁ…。
ぼくらは今、練習試合…、というよりも、こっちは人数が少な過ぎるから、実質は合同練習のために、お招きにあった県南
部の学校にお邪魔している。
ここは結構名前の知られた強豪だ。ぼくはともかく、アブクマにとっては申し分ない練習相手だろう。
帯を締めたぼくは、もちろん他校との練習試合も初経験のイヌイに、記録の取り方を説明する。
本当はビデオなんかがあれば良いんだが、残念ながら我らが万年弱小柔道部には、そんな豪華な機材を用意する予算なんて
無い。
もっとも、あったらあったで交換できなかった分の道場の畳を全部替えるのに使っていただろうけれど…。
…来年は、残りの畳を替えてなおもタップリ余るくらいの予算がつくと良いな…。
マネージャーとして外側から全体を見られるイヌイに、注意して見ておいて欲しい選手やポイントを伝えたぼくは、違和感
を覚えて振り向いた。
が、壁の両面に並べられたロッカーと、その間に据えられたベンチ、そこに姿勢よく上品に座る理事長が目に入るだけ。違
和感の正体が判らない。
…さっきから何か気になっているんだけれどなぁ…。
「それじゃあ、悪いけれど頼むよイヌイ。あまり気負わずにな?」
「はい。僕なんかより、実際に参加する主将とサツキ君こそ、たっくさん稽古して来てくださいね。僕も理事長もしっかり応
援してますから」
にこやかに微笑みながら言ったイヌイに、ぼくは頷い…、
「理事長だ」
振り向いたぼくの視線の先で、我らが顧問、星埜恵(ほしのめぐみ)理事長が「はい?」と首を傾げた。
「あれ?いつの間に…?」
イヌイも不思議そうに首を傾げている。
六十四歳のはずだけれど、せいぜい四十代後半ぐらいにしか見えない理事長に、ぼくは慌てて歩み寄る。
「ここは男子更衣室ですよ理事長!?」
「ええ、そうですねぇ?」
「だから…!えぇとその…!いつからここに!?」
ひょっとして…、き、着替えてる時も居たんですか理事長!?
「え?さっき俺達が着替えてる時に入って来たじゃねぇっすか」
首を傾げるアブクマは、どうやら理事長が居た事に気付いていたらしい。
「ああ。あらあらまぁまぁ。そうね、着替え中に入って来るのはまずかったかしら?」
理事長は穏やかに微笑み、ぼくは諦めてため息をついた。
いやまぁ、着替えで全部脱ぐ訳じゃないが、女の人に裸を見られるのは、やっぱりちょっと…。
ここらで自己紹介しておこう。
ぼくは岩国聡。星陵ヶ丘高校で学ぶ三年生、人間だ。
柔道部の主将であり、第二男子寮の寮監も任されていたりする。
うちの道場の五倍はある立派な道場で、相手校と合同で、一通りの基礎稽古を終えたぼくとアブクマは、イヌイが用意して
くれたドリンクボトルから水分を補給した。
いつもは痩せられるお茶が入っているアブクマのボトルの中身も、今日のところはスポーツドリンクだそうだ。
「強豪の稽古って、サツキ君のメニューより軽めだね?」
あちらさんに聞こえないよう、声を潜めて囁いたイヌイに、アブクマも拍子抜けしたような顔で頷いている。
「もしかしてよぉ、お客さんって事で俺らに気ぃ遣ってんのかもなぁ」
…いや、たぶん違うと思う…。
最初はぼくもそんな事を考えた。何せいつものメニューより随分軽いから。
だが、相手校の様子を見るに、疲労の色が濃い選手が多い。
おそらく、彼らが普段こなしているメニューよりキツいはずだ。
あちらさんのこっちを見る目にも、少々驚きの色が浮かんでいるように見えるし…。
もっとも、一番驚いているのはたぶんぼくだろう。
強豪が疲労を隠せないような稽古を終えてなお、まだ余裕が残っている。
連日、アブクマと同じメニューをこなして鍛えられた成果なのか、ぼくの身体は、自分でも信じられない程スタミナがつい
ていた。
そして、いよいよ試合が始まった。
と言っても、部員が多い向こうに対してぼくらは二人だけ。ほとんどかかり稽古だ。
試合場は二面用意されて、その一方にぼくとアブクマが交互に立つ。
もう一方は向こうの部員達同士で、試合形式の稽古をするらしい。
公式の試合では人間と獣人は分けられているものの、今回に限ってはそういった区別はない。
二面用意された試合場に立ったぼくと向き合っているのは、身長170ほどの猪だった。
…のっけから強そうなんだけれど…、ぼくが顔を知らないって事は一年生だろうか?
始めの号令と同時に、ぼくと猪は組み合った。
いきなり襟を取りに来られ、咄嗟に遮ったぼくの右袖、肘の内側辺りを猪の左手が掴む。
それと同時にぼくは相手の右襟を捕らえた。腕力差で手を振り切られないよう、素早くしっかりと左手の指を噛ませて掴む。
相手はぼくより背が高く、もちろん体重もある。力だって相当なものだ。
かなり握力があって、取られた袖は簡単には振りほどけそうもない。
以前のぼくだったなら。
左襟を取られているぼくは、相手の右襟を左手で捉えたまま、素早く体を左側へ振った。
少し上体を沈み込ませながら、少し乱暴に内側に捻り込みながら右腕を引く。
相手の手は内側に捻れて、捻ったぼくの腕に被さるような形になった後、あっけなく外れた。
筋力というものは、どんな時でも全力が発揮できる訳じゃない。
力を出すにふさわしい関節の角度が確保されてこそ、筋肉は始めて正常に力を発揮する。
ぼくよりずっと強い腕力を持っているこの猪も、無理な角度に手首が回っていれば、いつも通りの力は出せない。
アブクマから説明を受けた時、その理屈は理解できたものの、ほんの一ヶ月で意図的にこんな事ができるようになるとは思っ
てもいなかった…。
行ける…!
何となく手応えに欠けている乱取りの時に、もしかしてと思ったけれど、勘違いじゃないらしい。
体が軽い。無用な緊張が無い。スムーズに、そして機敏に動く。
自由になった右腕で相手の左襟を取ったぼくは、猪が左手を出して来ると同時にぐっと前に出た。
両襟を掴んだ腕を曲げ、体を押し付けて体勢を崩しにゆくと、猪は慌ててぼくの道着の右肩を掴み、腰を落としかける。
力比べではかないっこないし、もちろんそんな事は狙っていない。
押しの手を緩めたぼくは、一転して腕を体に付けたまま引く。
我ながらなかなか素早い体移動。あわをくったか、猪はたまらずに右足を前に出した。
右足に体重が乗ったその瞬間を逃さず、ぼくは左足を斜め前に出しつつ、体を左前方に傾ける。
大外刈り。ぼくの狙いをそう読んだんだろう猪は、今度は体重を左足に逃がす。
そのタイミングで、相手の右手側に体を滑り込ませたぼくは、ほぼ横を向く形になりつつ、ちょんと右足を出した。
「あ!」
びっくりしたような声が、猪の口から漏れた。
そのまま襟を斜め下に引き落としてやると、ぼくが出した右足に右脛をひっかけられ、踏ん張れなかった猪の体が、躓くよ
うにして前に泳ぎ、ごろっと畳に転がった。
大外刈りに行くと見せかけて、支え釣り込み足に連携させる…。何のことは無い、教科書通りのありふれた連携なんだけれ
どね、これ。
判定は技あり。ぼくはすかさず動き、転がった相手を押さえ込んだ。
アブクマや彼とやり慣れたせいだろうか?
そこそこ強い選手のはずなのに、ぼくは全くプレッシャーを感じていなかった。
「んあ〜…!きっつぅ〜…!さすがにちっと堪えたなぁ…」
更衣室で道着の上を脱いだアブクマは、肩を回しながらため息をついた。
疲れはあるようだけれど、その表情はすっきりしていて満足気だった。
疲労については無理もない。二人交代で一時間以上も試合しっ放しだったんだから。
おまけに、アブクマにはあっちのトップクラスばかりが挑戦していたからなぁ。
もっとも、遠慮も手加減もなく、全員豪快にぶん投げてやっていたけれど…。
つくづく思う。アブクマはウチに居るのが勿体ない、規格外の選手だ。
「大丈夫ですか主将?」
イヌイは濡らしたタオルを手に、ぼくに歩み寄った。
…なんとも情けない事に、ぼくはすっかりグロッキー。ベンチの上にひっくり返っている。
汗かき過ぎ…!動き過ぎ…!連戦し過ぎ…!
でも、結果は五勝三敗。一年生の混じった練習試合とはいえ、これまでのぼくからは信じられない戦績だ。
物も言えないぼくの額に、イヌイは畳んだタオルをそっと乗せてくれた。…ひんやりして気持ちいい…。
「ありがとう…イヌイ…」
何とか礼を言うと、イヌイは柔らかく微笑んだ。
「いいえ。お疲れ様でした、主将」
…少しは強くなれたんだな…、ぼくでも…。
水分補給にと、イヌイからスポーツドリンクを手渡されて嬉しそうにしているアブクマに視線を向け、ぼくは感謝の念を強
くする。
本当に、何と礼を言ったらいいのか判らない。
ぼくが強くなれたのはアブクマと、そして彼のおかげだ…。
一週間前の事だった。
練習試合の翌日で、部活は休みにしていたその日、ぼくはイヌイに連れられて道場へ向かった。
何で道場に行くのかと聞いても、イヌイは悪戯っぽく、そして楽しげに笑いながらはぐらかすばかりで、理由を説明しては
くれなかった。
まぁ、たぶんアブクマが稽古したがっているんだろうと目星をつけていたんだけれど。
何故かちょっと急ぎ足のイヌイに先導される形で校門を潜り、木立を抜け、道場の前に出たぼくは、
「あれ?」
道場入り口前、コンクリートのたたきに座っているアブクマ、その隣の見覚えのある顔を目にして、思わず声を漏らした。
茶色い熊と並んで座り、ペットボトルの麦茶を飲んでいるのは、もさっと長毛な黒い猫獣人。
ただの猫じゃない。身長は170を越え、体重も130近いがっしり固太りしたガタイ…。山猫の血が色濃い体格の良い猫
獣人だ。
「ネコヤマ?」
ぼくが意外に思いながらその名を口にすると、川向こうの学校、陽明商業最強の選手である黒猫は、片眉を僅かに上げてぼ
くを見た。
「お?やっと来たっすね主将」
アブクマは腰を上げると、イヌイに視線を向けた。
「悪ぃキイチ、鍵開けてくれ。持って来んの忘れちまってよ。いやぁ、待った待った」
「ちょっとぉ…。お客さんをお招きしながら、ソレは無いんじゃないのサツキ君?」
普通にやりとりしているイヌイとアブクマを交互に見ながら、ぼくは戸惑う。
…何でネコヤマがここに居るんだ?
「あ、あの…。状況説明が欲しいんだけれど?」
たたきに座ったまま、黙って茶を啜っているネコヤマを横目に、ぼくは二人に説明を求めた。
道場の畳の上で車座になった後、アブクマは事情を話し始めた。
少し前、川向こうの商店街へ調味料を買いに行ったアブクマは、入った店でばったりネコヤマと出会い、親しくなった。
説明を要約すると、おおよそそんな感じだ。
「ネコヤマ先輩、料理趣味なんすよ」
初耳だったが、同じく料理が好きなアブクマは、それまでは定期戦で一度顔を合わせただけのネコヤマと、いっぺんに意気
投合してしまったらしい。
姿勢良く正座しているネコヤマはというと、相変わらずボトルのお茶を時折飲みながら、ずっと黙っている。
表情に乏しくて、何を思っているのか全く察しが付かない。
「親父さんの郷が置縄らしくてさ、あっちの料理に凄ぇ詳しいんすよ。家にお邪魔してラフテーの作り方とか教えて貰っちまっ
た。あ、今度の休みにでも作ってみるから、主将にもご馳走するっすよ」
機嫌良さそうにニコニコしながら喋り続けるアブクマの袖を、横から手を伸ばしたイヌイがクイクイッと引っ張った。
「サツキ君。本題本題…」
「おっと…」
釘を刺されたアブクマは、耳を伏せて頭を掻く。
「ネコヤマ先輩にさ、主将の練習相手になってくれねぇかって、頼んでみたんすよ」
「…は?」
予想外の言葉をさらっと言うと、アブクマは真面目な顔になって続ける。
「俺との稽古じゃあ、主将の持ち味は伸びねぇんじゃねぇかと思ってさ…。俺と主将じゃ得意な組み方も体格も、立ち上がり
から試合運びまで違い過ぎる。たぶん俺が粗過ぎんのが原因で、主将の綺麗なトコが雑になんだよな…」
大熊は黒い山猫に視線を向けると、小さく頷いた。
「そこ行くと、ネコヤマ先輩は上手く噛み合うんじゃねぇかと思ったんすよ。スピードあるし、フォーム綺麗だし、俺よかな
んぼかでも体格も近ぇし」
いや、あまり近くもないよ…。と戸惑いながら思っているぼくに、言葉を切ったアブクマは視線を向ける。
「ネコヤマ先輩はオーケーしてくれたっすよ。もちろん、やるかどうかは主将次第だがよ」
「ぼく次第と言われても…。彼には彼自身の稽古があるだろう?それに、学校も違うし…」
「敵だから、かな?」
それまで黙っていたネコヤマが、唐突に口を開いた。
結構体格の良い見た目からは意外なほど、高めで澄んだ、優しげな声だった。
「オレが敵だから、キミと稽古するには支障があると?」
「いや、敵とまで言う訳じゃ…」
何と返事をしたものか悩むぼくに、ネコヤマは茶を啜ってから付け加えた。
「通う学校が違う事を除き、オレ個人の感情でいうなら、階級も違い、人間であるキミは、敵という分類には入らない」
その口から滑り出る言葉は、まるで何かを解説している小難しい本の文言のように堅い。が、何故かその口調は、この黒猫
に似つかわしく感じられた。
「オレとしてはキミと稽古をする事に抵抗は無い。そちらとの合同稽古となれば、オレもアブクマ君とやれる。副主将という
立場もあり、他の部員の手前大っぴらにはできないので秘密の稽古という事にはなるものの、これはオレにとっても得る物が
大きい。非常に魅力的だ」
それまでの沈黙とは打って変わって、淀みなくすらすらと喋ったネコヤマは、口を閉ざすと茶を啜る。
呆気に取られて話を聞いていたぼくに、イヌイが小声で囁いた。
「自分にも利があるって、言ってくれてるんですよ。どうでしょうか主将?」
「ど、どうって…」
それはまぁ、有り難い提案だ。アブクマが気を回してくれているのにも感謝したい。
でも、ネコヤマはあっちの副主将で、トップ選手…。
もしもバレたら、他の部員や顧問はいい顔をしないはずだ。
彼自身の希望もあるとはいえ、そこまでのリスクを背負わせていいものか…。
「オレもキミも、今年が最後だ」
ぼくが悩んでいる間に、ネコヤマは再び口を開いた。
「なりふり、構っていられないんじゃないのかな?」
何と返答すべきか考えているぼくの前で、茶のボトルをあおってすっかり空にすると、ネコヤマは付け加えた。
「悔いを残したくはないね。お互い」
呟いたネコヤマの顔を眺めながら、気付けばぼくは深く頷いていた。
…もちろんだ。悔いなんて残して終われない…。
ぼくが柔道に打ち込めるのは、今年が最後なんだ…。
「…お願いしたい。いいかな?」
ぼくの言葉に、ネコヤマは無言で頷いてくれた。
それ以来、ネコヤマは部活のない時間帯を利用して、こっちの道場に出稽古に来てくれるようになった。
人目を忍んで、学校の裏門側に来るネコヤマを、ぼくらの内誰かが迎えに行ってこっそり道場まで連れてくる
別に悪い事をしている訳じゃないが、あっちの部に知られれば良く思われないだろうから。
「キミは面白い」
ある日、アブクマとイヌイがまだ来ない道場で二人きりになった際、ネコヤマは唐突にそう言った。
「失礼だが、身体的な点で言えば恵まれている訳ではないね。肉体的なポテンシャルだけ見るなら、贔屓目で見て並より少し
下といった所だろう」
口数の少ないネコヤマだが、口を開けばその意見に遠慮が無い。
が、あまりにもスパッと言うものだから、腹が立つどころか小気味が良い。
「が、試合経験もそう多くはないはずなのに、技の引き出しは多いし、対処の幅もすこぶる広い。本当に面白い」
「それはたぶん…、頻繁に、何回も繰り返して試合の動画を見ているせいかな?実戦で学んだものじゃないさ」
ぼくがそう応じると、ネコヤマは目を細くして、興味深そうにぼくを見つめて来た。
どれぐらい見ているのかと聞かれたぼくが、暇さえあればしょっちゅう、気に入った試合は何十回と繰り返し見ていると答
えると、ネコヤマは何かに納得したように、小さく頷いた。
「なるほど、納得できた。きっとその見取り稽古の賜だね」
ネコヤマはますます興味深そうにぼくを見つめて続けた。
「良い試合を何度も繰り返し見て来たキミは、画面の中の選手に、自分がそう動けたらと、自分の姿を重ねていたんじゃない
かな。それを繰り返す事が一種のイメージトレーニングになって、頭の中に、良い選手達が見せた技や対処の組み立てが刷り
込まれているんだと思う」
「…確かに、ぼくもあんな風に試合ができたら…、とか思うよ。いつもね。でも、ただ見ていた、それだけの事だけれど?」
「ただ見ていたなら効果は無い。けれど、真剣に観ていたから効果があったんだろうね」
ネコヤマはワイシャツと肌着を脱ぎ、もっさりした被毛に覆われた、猫族にしては珍しい固太りの身体をあらわにする。
ぼくもそれに倣って着替えを始めながら、彼の話の続きを聞く。
「そのおかげなんだろうけれど、やけに目が…、選択眼が良い。向かい合った相手の次の動きをかなり正しく予測する、良い
勘をしている。今は、頭で悟っても体が対処できていないのが、惜しまれるところだね」
「その点は確かにそうだ。頭ほど、体は動いてくれないよ」
「それは鍛え方次第、だろうね」
ネコヤマはお腹が乗っかったズボンのベルトを外す手を止め、思い出したように付け加えた。
「それと、判りやすい欠点がある。綺麗な試合ばかり観てきたせいか、キミは変則的な動きや、非効率的な動きに対処できな
い。つまり、キミは型にはまらない相手や、下手な相手に対して極端に弱い。これからは、できればあまり上手くない選手の
試合もじっくり観る事だね」
「動画を観たからって強くなれる訳じゃ…」
「たぶんなれるさ。キミの場合は」
ぼくの言葉を遮り、ネコヤマはやけにきっぱりと言った。
「キミの最大の武器はおそらく、観察眼と想像力、そして一人で繰り返してきた稽古で身についた、理想的な体移動と足捌き
だ。キミはきっと、身体能力を活かす選手じゃなく、ココで戦うべき選手なんだろうね」
ネコヤマは自分の頭をちょいちょいと指さしてそう言うと、口の端っこを少しだけ上げて、微かに笑った。
出稽古を終えて星陵に戻り、部屋に帰り着いたぼくは、携帯にメールが届いていた事に気付き、画面をあらためる。
メールのタイトルは「お疲れ様」、ネコヤマからだ。
『どうだった?』
たった一言の簡潔な内容に、ぼくは思わず小さく吹き出した。平素は寡黙な彼らしい、実にあっさりした文面だ。
報告として、今日の合同練習の内容を簡単に記したぼくは、
『個人的には大満足の内容だった。君との稽古、驚くほど成果が出ているよ。ありがとう』
最後にそう、一文を添えて送信する。
少ししてから返って来たレスは、
『それは何より』
という、またしても簡潔なものだった。
ありがとうアブクマ。ありがとうイヌイ。ありがとうネコヤマ…。
ぼくは、強くなれている…!