第七話 「運命の地区予選」(前編)
「すげぇ人数だなぁ。柔道やってるヤツこんなに居んのに、なんで星陵に入ってくれねぇんだ?」
柔道着姿の選手達で埋め尽くされた体育館を眺め回し、大熊は不思議そうに呟いた。
一市八町二村の選手が集った総合体育館のアリーナは、人いきれと熱気で熱く、そして騒がしい。
それにしても、アブクマには気負っている様子も昂ぶっている様子も見られない。まったく普段通りだ。…この胆力が羨ま
しい…。
「それはまぁ、強い学校に行きたいだろうからな」
応じるぼくは、平静を装ってはいるものの、もう心臓がバクバク言っている…。
落ち着けサトル…。平常心、平常心…!
高校で初の公式戦だというのに、まったく緊張した様子の見えない後輩に比べ、ぼくは何とまぁ硬くなっている事だろう…。
「主将。受け付け終わりました!」
声に振り向くと、こちらに向かって歩いてくる、クリーム色の小柄な猫の姿。
人混みの中をするすると巧みに抜けて来るイヌイは、デジタルビデオカメラを手にしている。
「ありがとうイヌイ。…ところで、どうしたんだい?それ」
「理事長が、「二人の勇姿を保存しておきましょう」って、私物のビデオを持って来てくれたんです!最新型ですよコレ?手
ブレ防止機能とか、便利そうな機能がいっぱいついてるから、経験の無い僕でも綺麗に撮れそうです!」
「お、凄ぇじゃねぇか!気ぃきかせてくれたんだなぁ理事長、ぬははっ!」
嬉しそうに言ったイヌイに、アブクマが笑いかける。
私物って…、勘違いじゃなければコレ、この間発売になったばかりの新製品のはずだけど…。
まさか理事長、今回のためにわざわざ買ってくれたんじゃ…!?
やばい…!そこまでして用意されたカメラで、ぼくなんかの試合が撮られる…!?
…やばい、やばいぞっ…!無様なところを撮影されたらどうしよう…!?
…さて、まだいくらかでも余裕がある内に自己紹介を済ませておこう。…この後どうなるか判ったものじゃないからな…。
ぼくは岩国聡。星陵ヶ丘高校で学ぶ、人間の三年生。
スポーツマンらしい五分刈りにしている事以外にはあまり特徴のないぼくだが、柔道部の主将であり、第二男子寮の寮監を
任されている。
そんなぼくは、ついに運命の時を迎えた。
総体の地区予選…。負ければそこで終わりの、最後の大会を…。
「いよいよ…明日だな…」
昨夜、点呼を終えた後の事。
座卓にスケジュール表を広げ、応援団の予定を確認していたルームメイトは、そうボソっと呟いた。
「こんな大事な日に…、何故ボート部の試合が重なるのか…」
「仕方ないさ。シゲの方をしっかり応援してやってくれ」
座卓を挟んで向かいに座り、明日の予定表を確認しながら笑ったぼくの顔を、ウシオは上目遣いにちらりと見た。
「…ワシは、また…、お前を応援に行ってやれん…」
「…仕方ないさ…」
ぼくがそう繰り返すと、少し俯き、深くため息を吐きながら、ウシオは続けた。
「ワシは…、皆を支える為に応援団に入った…。なのにどうだ?一番応援してやりたいヤツの晴れ舞台には、一度も応援しに
行けとらん…!」
大柄な牛は悔しげに、そして苛立たしげに、顔を歪ませる。
「ウシオ…」
ぼくは言葉に詰まった。
手にしているシャープペンが折れそうなほど、強く握り締められたウシオの拳を見るまでもなく判る。
本気で、真剣に、ぼくの事を考えてくれているのが、よく判る…。
「…ウシオ…。一つだけ、お願いしても良いかな?」
顔を上げて頷いたウシオに、ぼくは少し照れ臭くなりながら言ってみた。
「心の中でいいから、明日の午後一時半ごろ、ぼくにエールをくれないか?時間通りに進めば、だいたいその直後ぐらいがぼ
くの一試合目にあたる」
正直に言うと、ぼくはビビっている。負ければそこで終わり、全てが譲れない大会に挑む直前になって。
だからせめて、一試合でも多くやりたいから、だからぼくは…。
「そんな事でいいのか?」
戸惑ったように言ったウシオに、ぼくは頷いた。
「ウシオの応援だから、それでいい…」
しばらく黙り込んでいたウシオは、やがて大きく一度頷くと、少し間をあけてさらに二度頷いて顔を綻ばせた。
「うむ!引き受けた!」
笑みを浮かべて「頼んだ」と言ったぼくは、少し照れ臭い気持ちになりながら俯く。
「…それで…、その…。もう少しだからさ…。悪いね…、待たせて…」
そう告げただけで理解したんだろう、ウシオは眉を上げてぼくを見つめた後、丈夫そうな歯を剥いてニィッと笑った。
「ワシの方は良い。少しでも長く待たせるよう、お前は力の限り勝ち進め、サトル!」
「…ありがとう…」
不思議なもので、ウシオの力強い声と励ましを耳にしただけで、緊張から尻込みしそうになっていたぼくの気持ちが奮い立つ。
ルームメイトから勇気を貰いながら、ぼくは思う。
…丸々二年待たせてしまった…。ごめんなウシオ…。そして、ありがとう…。
団体戦の予選が終わるまでは、個人戦にしかエントリーしていないぼくらは暇だ。
理事長を交えた四人で、二階客席から試合の様子を見ておく。
「お!次陽明のAっすよ!」
そう言いながらアブクマが身を乗り出した。
ネコヤマと親しくなったせいか、それともお隣さんだからなのか、アブクマは、それはもう真剣に陽明を応援している。
陽明は団体に二組エントリーしているが、Bは惜しくも僅差で、二回戦敗退となってしまった。
まぁ、ネコヤマの言葉じゃないが、試合もかちあっていないから敵じゃあないわけだし、おまけに副主将をこっそり無断借
用させて貰っている事だし、ここは義に則って応援しておかないと。
ぼくらが応援した三回戦を、結局は難なく突破して、陽明は団体戦準決勝進出を決めた。
「さて…、そろそろ軽く昼食を摂って、アップを始めよう。午後からはぼくらも試合だ」
「へへっ…!うっす!」
ぼくの言葉に、アブクマは不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「あ。ネコヤマ先輩ですよ」
イヌイがそう呟いたので、通路のどん詰まりで柔軟をしていたぼくは顔を上…、
「ぎゃふぅうううううっ!」
げかけて悲鳴を上げた!
背中を押していたアブクマがネコヤマを目にして身を起こしたんだ。ぼくの背中についた手を支えにして!
「のわっ!?す、済んません主将っ!だだ、大丈夫っすか!?」
モロに全体重を浴びせられ、膝と肩が密着した状態に折り畳まれたぼくの上から慌てて退くと、アブクマはオロオロと謝った。
「へ、平気…、なんとか…!」
…っくぅ〜っ!いきなり無理矢理伸ばされた膝裏が痛い!
涙目になりながら応じたぼくは、すぐ傍に歩み寄ったガッシリした長毛の山猫に視線を向ける。
「健闘を祈っているよ」
表情に乏しい顔のまま、言葉少なくそう言ったネコヤマに、ぼくらは口々に応じた。
「ありがとう。君も頑張ってくれ」
「応援してるっすよ、先輩!」
「頑張ってください!」
ネコヤマは小さく頷くと、踵を返して去ってゆく。
自分の試合ももうじきなのに、あの一言を言う為に、わざわざぼくらを探してくれたのか…。
そっけない態度に秘められた戦友の励ましに、胸がちょっと熱くなった…。
「粋なひとですよね。ネコヤマ先輩って」
「ぬはは!だよなっ!」
「粋…か…。確かに」
笑みを浮かべるイヌイとアブクマに、ぼくは微笑みながら頷いた。
高鳴る鼓動を深呼吸で落ち着かせる。
向かい合う相手は、ぼくより少し背が高く、筋肉質な体付きの三年選手だ。
…実は、試合が順調に進んで、予定より少し早く順番が巡ってきたせいで、心の準備がイマイチだったりする…。
壁時計を見れば、時刻は午後一時二十九分になるところだ。
ウシオに言った時間より少し早くに、審判から合図が発された。
ぼくと相手は気合いの声を上げ、腕を掲げて構える。
足を使って少し横へ移動したぼくは、組み合う直前に視界の隅に捉えた。
仁王立ちになり、真剣な眼差しでこっちを見つめる、大きなアブクマの姿を。
右手でビデオカメラを構え、胸の前に上げた左手で、拳を握り締めているイヌイの姿を。
両手を胸の前で祈るように組んで、心配そうにぼくを眺めている理事長の姿を。
…負けられない…!少しでも長く柔道を続けたい!
襟を掴んだ右手に力がこもる。袖を取った左手が汗ばむ。
慎重に行きたいところだったけれど、相手の動きが良い事も合って、組み手と位置争いは激しくなった。
崩しあい、先手を奪い合う中で、やがてぼくは好機を見出した。
右手の指はしっかりと襟を取っている。相手は少し腰が引けていて、仕掛けるには良い体勢。この試合で最高の好位置だ…!
ぼくは、腰を後ろに下げかけた相手の襟を、強引に引き付けに行った。
次の瞬間、腰を逃がしながら出された相手の左足が、ぼくが出した右足を、外から内へスパッと払った。
出足払い!?思い切り良く払って来た相手の足に、完全に畳から足を外されたぼくの体が、殆ど浮くようにして右側へ傾く。
反射的に放していた右手を畳についたけど…、判定は…技あり!危なかった!
ほっと息をつく暇も無い。正座を崩したような格好で転倒しているぼくに、相手はすかさず覆いかぶさって来た。
身を捌いて寝技を嫌い、身を起こそうとしたぼくの左足が、相手の右脇に抱え込まれる。
尻餅をついたぼくは、不利な状況で寝技に捕らえられてしまった。
逃れようとして失敗したのが痛い!片足を取られ、尻が畳に付いた、踏ん張りが利かない状態!
畳の上ですばやく方向を変えた相手の右手が背中側へと滑り込んで来る。縦四方で抑え込むつもりだ!
焦りながら右手で相手の奥襟を掴んだ直後、ぼくは自分の過ちに気付いた。
上から被せられる前に押し留めようとした相手の上体が、くるりと横向きに反転する。
外側から膝裏に回っていた相手の左腕が素早く股へと移動し、もう一方の右腕がぼくの首後ろに回る。
読み違えた、横四方固め!?何て事だ!ぼく自身が得意にしている初歩的な連携の一つに、まんまと引っかかってる!
相手の抑え込みはほぼ完璧だ。もがけども、もがけども、相手の上体はぼくの上半身から腰までをしっかりと御して離れない!
焦るぼくの視界の隅に、何か声を張り上げているアブクマとイヌイ、そして祈るように胸の前で手を組んでいる理事長の姿
が入る。
嫌だ…。負けたくない…。まだ負けたくないっ!
必死にもがくぼくだけど、しかし相手の方が体力的には上。おまけにぼくは寝技について、駆け引きも実技もイマイチ!ぜ
んぜん崩れてくれない!
まだ、まだもう少しだけ…!まだ公式戦で一勝あげてもいないのに!このまま終わるのは嫌だ!
焦るばかりで、脱出方法が浮かんで来ない。このままじゃ、25秒の抑え込みで合わせ一本になる!
ぼくが絶体絶命の窮地にある、その時だった。聞き慣れた声が耳に届いたのは。
奮えぇー…!奮えぇー…!サっトっルっ…!
体が、反射的に動いた。
一瞬。ほんの一瞬だけ、ぼくの体が脱力する。
警戒したのか、もがいていたぼくを御していた疲れがあるのか、腕の力はそのままに、相手の体からほんのちょっとだけ緊
張が抜けたのが判った。
その瞬間を逃さず、ぼくの体はほとんど勝手に動き、相手の背中にかぶせるようにして腕を伸ばし、帯を腰の後ろで掴む。
掴んだ直後には腰を畳から離し、ブリッヂの体勢に入る。そのまま思い切り体を捻って回転、相手をひっくり返した。
アブクマとの稽古ではウェイト差が有り過ぎてできなかった、寝技の返し…。
体格差があり過ぎる事を気にして彼が連れて来てくれた、幾分身長が近いネコヤマとの反復練習で体に刷り込まれた動きが、
あまり意識せずにできていた。
立場は逆転し、今はぼくがひっくり返った相手の上に被さる格好。
慌てて足で畳をしゃかしゃかと蹴り、反転しようとする相手を、ぼくはすかさず抑え込んだ。
春からの短期間で体に最も馴染ませられた寝技。アブクマが得意とする上四方固めで抑え込んだぼくは、祈るような気持ち
で相手を抑えつける。
千載一遇のチャンス。必死になって抑え込み続けたぼくは、審判の号令を耳にして、体の力を抜いた。
一本…!逆転勝ちだ…!それも苦手な寝技で、ギリギリ…!
よろよろと立ち上がり、のろのろと位置に戻ったぼくは、相手と礼を交わす。
勝った実感は、なかなか沸いてこない。ただ、危なかったっていう思いだけがある…。
引き返したぼくを、アブクマがガバっと抱き締めた。
上から巨体を被せるようにして物凄い力で抱き締められ、ぼくは体内の空気を一気に絞り出される。
「ぬははははっ!勝った!勝ったんすよ主将っ!やったじゃねぇか大逆転だぁあああああっ!!!」
嬉しそうに大声を上げるアブクマの背を、回した手でベシベシ必死に叩き、むせ返ったぼくはタップする。
「おめでとうございます主将!やった!ホントに良かった!」
ピンと立てたしなやかな尻尾の先をプルプル震わせ、イヌイが満面の笑みでそう言った。
「おめでとうイワクニ主将。ハラハラしちゃったわぁ」
理事長がほっとしたように微笑みながら、労いの言葉をかけてくれる。
ぼーっとしていたぼくに、ようやくジワジワと勝った実感が沸いてきた。
笑みを浮かべ、ぼくは深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます!ありがひょうアブクマ、イヌイ!」
あ。噛んだ…。
ぼくはふとある事を思い出し、笑みを浮かべて労ってくれた三人から視線を外すと、壁の時計を見た。
午後一時半を、少し過ぎている時計を。
あの時、声が聞こえたような気がした。
場内の大歓声で、アブクマやイヌイの声援も届かなかったぼくの耳に…。
気のせい…?いや…、きっとそうじゃない…。
ぼくは目を細めて時計を見つめながら、心の中で呟く。
…ありがとう、ウシオ…。約束通りに送ってくれたエール、ちゃんと届いたよ…。
「一本!」
すぐ後の試合、開始から十五秒程度で、アブクマは相手を背負い投げで仕留めた。
「…今の馬君、去年の県大会出場者だったんだけどなぁ…。あやかりたいものだよ」
呟いたぼくの横で、イヌイが小さく笑う。
「主将も昨年予選四位の相手をやぶったじゃないですか?」
「え?あれ?そ、そうだった?」
「そうですよ?気付いていなかったんですか?」
「…いや…、言われてみれば、何となく覚えがある顔のような気もする…」
どうりで強かった訳だ…。
「…って…、ちょっと待って…。ぼく、そんな選手に勝てたのか?」
「…勝ったじゃないですか?ついさっき…」
イヌイは呆れたようにそういうと、引き返してきたアブクマに顔を向け、高く手を上げた。
肩の高さに上げた手で、ちょっとアンバランスなハイタッチを決めたアブクマは、口々に労ったぼくと理事長に笑みを向けた。
「調子はバッチリっす。思いっきり行けるっすよ!」
「あらあら、頼もしいわねぇ」
「上がるとかそういうのは無いのかい?」
「あんましねぇっすね、俺鈍感だから。…まぁ、鈍感なせいで失敗する事も多いんだけどよ…」
アブクマは何故か、困っているような微妙な笑みを浮かべた。
「とにかく、二人とも一回戦突破、おめでとうございます!」
イヌイは可愛らしい顔に満面の笑みを浮かべてそう言うと、手にしたビデオカメラを掲げて見せた。
「二人の格好良いところ、バッチリ録画できてますよ?」
アブクマは照れたように笑い、ぼくは苦笑いする。
見事な一本背負いを決めたアブクマはともかく、ぼくは格好良いとは言い難いなぁ…。
トーナメント形式だから、一回戦は結構長い。
緊張からかいやに喉が渇いたぼくは、体育館の非常口から外に出た。
ちなみにイヌイはマークしている選手の試合を録画中。本当に働き者だ…。
アブクマの方は、イヌイが人混みで押し潰されないよう同行しつつ試合を見ると言っていた。
「子供じゃないんだから平気だってば!」
と、イヌイは不満げだったが…、本当に仲が良いよなぁあの二人。
イヌイが用意してくれていたスポーツドリンクで、水分補給しながら休憩していると、後ろでヒタッと小さな足音がした。
首を巡らせると、黒くて長い被毛を纏った、幅と厚みがある山猫が立っている。
「一回戦突破、おめでとうネコヤマ」
「ありがとう。キミも、おめでとう」
口元を少しだけ緩めて、微かな笑みを見せたネコヤマは、ついさっきあっさりと一回戦を突破してのけた。
「…思い出すね…」
「うん?」
横に並んで呟いたネコヤマを、ぼくは横目で見遣る。
「キミと最初に試合をしたのは、一年半前、秋の四校合同練習の時だった」
「…覚えていたのかい!?」
かなり驚いて聞き返したぼくに、ネコヤマは頷いて見せた。
それは、ぼくらがまだ一年生だった頃の事だ。
中学時代から地区内屈指の選手だったネコヤマは、陽明でも期待されている新人で、一年生の時から個人戦の出場枠に加え
られ、県大会出場を成し遂げていた。
今もそうだけど、もちろん当時のぼくも全く歯が立たず、開始から一分と経たずに大外刈りで仕留められた。
あのたった一度の試合を、覚えていたのか…。
並居る強豪の中、一際弱かったから覚えて居て貰えたのかな…?
「楽しそうに柔道をやる選手だ。そう思った」
ポツリと言ったネコヤマは、目を閉じる。
「陽明の柔道部は厳しい。オレのように、楽しみながら柔道を続けていられるヤツは、実はあまり多くない。同級生も、何人
も辞めていったよ」
ぼくは言葉を挟まず、横目でネコヤマを見ながら黙っておく。
「キミは、柔道が好きで好きでしょうがないんだろうな。オレと同じで」
無言のまま答えずにいると、ネコヤマは目を開けた。
「なのに、今日のキミは違う」
「違う?な、何が?」
呟くように言ったネコヤマに、ぼくは思わず問い返していた。
「キミはさっきの試合、自分の柔道をしていなかった。妙に力んで、持ち味が活かせていなかった。ミスリードを誘うスタイ
ルのキミが、終始相手にペースを握られ続けたのは、そのせいだ」
普段の寡黙さとは打って変わって、急に流暢に話し出したネコヤマが淀みなく続ける。
「「勝ちたい」が先に立って、攻めを意識し過ぎていた。稽古中は一度もあんな事はなかったのにね」
「それは、勝ちたいじゃないか。誰だって負けたくはないだろう?」
「キミは、勝ちたかったのかい?それとも、残りたかったのかい?」
それは、どっちも同じ事だ。勝てば残れるんだから…。
そう答えようとしたぼくは、ネコヤマの言いたい事に気付いて、別の事を口にした。
「残るために勝ちたい…。その意識が、まずいっていう事なのか?」
「まずいとまでは言わないけれど、そのせいで余計なプレッシャーを抱え込んでいるような気がする」
ネコヤマは言葉を切り、ぼくは考え込む。
…彼の言うとおりかもしれない…。
目先の事に囚われるなと良く言うけれど、今のぼくは逆だ。
続く先の方ばかり見て、そっちに囚われて目の前の試合に集中できなくなっていたのか…?
だから、稽古では対処できた事にも上手く対応できない?
大舞台と観客の数から来るプレッシャーが原因じゃなく、欲が原因…?無心に試合に打ち込む事ができなくなっている?
「次からは試合中は相手にだけ集中してみる。先の事はとりあえず置いておく事にして…。アドバイスありがとう、ネコヤマ」
「礼には及ばないよ。ただ、キミの意識が普段どおりになればと思って声をかけに来ただけだからね」
目を細めて微かに微笑んだネコヤマは、次いでちょっとビックリする事を口にした。
「できれば、キミとはもっと早くに友達になりたかった」
「へ?」
間抜けな声を漏らして目を丸くしたぼくから視線を外すと、ネコヤマは無表情で顎に手を当てつつ呟く。
「…いや、友達と呼ぶのは少々馴れ馴れしかったかな…」
「い、いや!そんな事ないよ!?うん!もう友達だよな、ぼくら…」
「…良かった…」
首をブンブン横に振りながら慌てて言うと、ネコヤマはちょっと嬉しそうに微笑んだ。
「出稽古に行くようになって、改めて思った。キミは柔道が好きで好きで堪らない。オレと同類なんだって。自信を持って欲
しい。今のキミは相当強い。長年の努力は芽吹き、愛し続け、煮詰め続けて来たキミの柔道は、今キミに応えてくれている」
面と向かってそういう事言われると、なんだかちょっと恥かしくなるぞネコヤマ…。
「良い後輩を持った事で、キミは大きくなったんだろうね」
微笑みながら言ったネコヤマに、ぼくは五分刈り頭をガリガリ掻きながら頷く。
「少しうらやましいよ。あんな出来ている、かわいい後輩が、オレも欲しかった」
「いやまぁ、イヌイは確かにかわいいし、アブクマも時々やけにかわいいけれど…」
「うん?」
「いやこっちの話…」
苦笑いしたぼくの顔を少しの間見つめると、ネコヤマは微かな笑みを浮かべて、小さく頷いた。
「うん。硬さが取れたようだね」