第八話 「運命の地区予選」(中編)
本当にぼくと同学年なのかと疑いたくなるような大男が、弧を描いて宙を舞った。
続いてドシン!とスパン!が同時に聞こえる独特の衝撃音。
「一本!」
審判の手がサッと上がり、大柄な月ノ輪熊相手に十八番の大腰を決めた、さらに大きな茶色い熊は、相手に手を貸して立ち
上がらせる。
参加人数が少ない獣人の部は、ぼくら人間の部の個人戦よりも進行が早い。
この勝利でアブクマは準決勝進出…、つまりベスト4入りを果たした!
「おめでとうアブクマ!」
出迎えたぼくが上げた手に、アブクマは大きな手をパチンとあわせた。
「へへへ!一足先に、準決行き決めさして貰ったっすよ!主将もすぐ来てくれよな?」
大きな両手をぼくの肩に置き、アブクマはニンマリ笑った。
アブクマはぼくの勝利を信じ切っている。初戦を除けば、ここまで非常に順調に勝ち進んでいるから。
自分でも驚きだ…。まさかこのぼくがベスト8まで残るだなんて…。
あと一つ、次の準々決勝を抜ければベスト4か…。
県大会出場枠は三位まで。準決勝で勝てば県大会進出が決まり、そこで負けても三位決定戦を制すれば県大会に行ける。
…あと二回勝てれば…、県大会…。
そんな事を考えたぼくは、慌てて首を横に振った。
いけないいけない!先の事はそこに至ってから考えろ!今は目前の試合に集中だ!
ネコヤマに貰ったアドバイスを思い出しながら、ぼくは気を引き締める。
欲張って先々まで考えれば、目の前の試合をただのステップとして軽く見てしまう。
勝てて当然の強者ならともかく、弱兵のぼくにはそんな思い上がりが足元をすくう要因になる。
気を引き締めろ。これまで同様、一試合ずつ丁寧に、他の事は考えずに挑んで行くんだ!
「…どうしたんですか主将?」
傍らから声をかけられ視線を脇に向けると、ぼくを見上げる小柄なクリーム色の猫と目があった。
「どうって…、何が?」
「「集中…」とか、「丁寧に…」とか、ブツブツ言っているから…、どうかしたのかなぁって…」
「え!?ぼく喋ってたのかい?」
イヌイが頷き、ぼくは恥かしくなって頭をガリガリ掻いた。…口に出ちゃってたのか…。
「落ち着いてきたつもりでいたけれど、緊張してるんだなぁ、やっぱり…」
苦笑したぼくに微笑み返したイヌイは、
「試合場に居るからですよ。少し廊下で落ち着きましょう?ね?」
と、気の利いた提案をしてくれた。…これじゃあどっちが先輩だか判らないな…。
「だな。今から気ぃ張ってたら、主将も試合前に気疲れしちまうよ」
イヌイの意見にアブクマも頷き、ぼくの背を軽く押して促す。
新人マネージャーにも関わらず、イヌイは気の利かせ方も仕事ぶりも、長らくマネージャーをやって来たかのように板につ
いている。
この短期間ですっかり一人前のマネージャーになったなぁイヌイ…。
感心しながらイヌイに続いて廊下に出たぼくは、「あ」と声を漏らして立ち止まったイヌイの背にぶつかる。
「ひゃっ!」
前のめりになったイヌイの両肩を慌てて掴んだぼくの背を、後ろから来たアブクマのお腹がボインと押す。
「うわっ!」
イヌイもろとも前につんのめったぼくの襟を、後ろから伸びた大きな手が捕まえた。
「っと!悪ぃっす!…急に立ち止まんねぇでくれよ…」
それぞれ前の相手を捕まえて三人一つなぎになりながら、ぼくはイヌイの頭越しに前方に立っている相手を見て、彼が立ち
止まった理由を悟る。
「ネコヤマ…」
やや太り気味のがっしりした体躯に黒い長毛を纏った山猫が、ドア正面の壁に寄りかかって腕組みしていた。
「お疲れさんっす、先輩!」
「ベスト4進出、おめでとうございます!」
口々に声をかけたアブクマとイヌイに、ネコヤマは小さく頷いて応じた。
「ありがとう。そして、アブクマ君も準決勝進出、おめでとう」
落ち着いた声音には相変わらず感情の揺れが出ていない。昂ぶっても緊張してもいない、いつも通りの声だ。
…羨ましくなる程の平常心…。なんでぼくの周りの皆は全く緊張していないんだろう?まるでぼくだけ小心者みたいじゃな
いか?…いや実際小心なんだけれども…。
「おめでとう、ネコヤマ」
歩み寄ったぼくが声をかけると、ネコヤマは「ありがとう」と表情を変えずに応じた。
「次で勝てばキミもベスト4入りだね。陰ながら応援しているよ」
「ははは!ありがとう。ぼくにしてみればベスト8入りでも奇跡的な快挙なんだけれどな?」
「キミは相変わらず奥ゆかしい…」
少し可笑しそうに口元を緩めたネコヤマは、壁から背を離してぼくの脇を歩き抜けた。
「できれば、県大会にも一緒に挑みたいものだね」
「…う、うん…!」
ネコヤマは頷いたぼくの肩を、彼にしては珍しい事だけれど、励ますようにポンと叩いて行った。
歩き去って行くその背中を眺めながら、ぼくは思った。
陽明の選手達…、アリーナの向こう側に集合していたような…?
もしかしてネコヤマ、わざわざこっちに来て声をかけるタイミングを伺っていたんだろうか?
ネコヤマの姿が見えなくなった後、ぼくは首を巡らせて、さっきから黙っていた二人に目をやった。
「どうしたんだい?黙り込んで…」
「いや、なんつぅか…。大人の雰囲気っぽくて、口挟むのも悪ぃ気がしたっつぅか…」
妙な事を言いながら頭を掻いたアブクマの横で、イヌイもコクコクと頷いていた。
じっとりと汗をかいた手を道着の腿に擦りつけたぼくは、ごくりと唾を飲み込んだ。
たった今試合を終えたばかりの選手達が礼を交わし、引き上げて来る。
…いよいよ、ぼくの番だ…。
係に呼ばれて試合場の手前まで足を運んだぼくは、こちらに引き返して来た選手が目に涙を溜めている事に気付いた。
…見知った顔だ…。確か、ぼくと同じ三年生…。
三年間の部活動を終えた選手に道を空け、ぼくは無言で会釈する。
相手もぼくの顔に覚えがあったのか、交わした視線を少しだけ固定した後、小さく頷くようにして頭を下げ、横を通り過ぎ
て行った。
他人事じゃない…。ぼくだって負けたらそこで終わり…。この試合が最後になるかもしれないんだ…。
ネコヤマに言われたのに、またもぼくの視線は目の前の試合の先に向く。
いけない…!試合に集中しろ!
目の前の相手を無視してその先を見るほど、ぼくは上等な選手じゃないだろ?
気負うな、上がるな、今まで通りに一試合毎に丁寧に当たれ…!
色違いの畳に囲まれた試合場の前に足を進めたぼくは、両手を顔の高さに上げた。
そして、両頬を挟むようにして勢い良く叩く。
バチィン!と、激しい音!
アブクマに倣い、願掛けのつもりで叩いた頬は、痺れて、次いでカーッと熱くなる。
まるで、両頬を叩いた勢いで余計な考えや気持が吹き飛んで行ったかのように、すっきりしつつも気合が入った。
ぼくの目は前に向く。遠くじゃない、すぐ目の前に向いている。
これからぼくが戦う相手に視線を真っ直ぐに向け、ぼくは踏み出した。
試合場の中央で向き合った相手は、去年二位で県大会進出を決めた猛者。
背丈はぼくと同程度だけれど、ぼくなんかよりずっと鍛えられた体をしている。
分厚い胸に太い首。ぼくと同じような骨格に、纏っているのは引き締まった筋肉。
おそらくリミットぎりぎりまで絞っているんだろう。贅肉の無い筋肉質の体は、一体どれほど鍛え、どれほど減量に心を裂
いて造り上げられたのか…。
不思議だった。これまでにこうして何度も対戦相手と向き合って来たのに、ぼくは今初めて相手の努力に思いを馳せて、敬
意を抱いている。
勝負する時、本当はこんな事を思っちゃいけないのかもしれない…。
立場は違って、互いを倒そうとしているのに、目の前の相手にも自分と同じく積み重ねてきた物がある…。
そう考える事は手足の動きを、挑む心を、鈍らせる事になるのかもしれない…。
それでも、今のぼくは大丈夫だ。
心は揺れない。目の前の相手と試合するという意識はぶれていない。敬意を払って全力を尽くすのみだ…!
はじめの合図と共に、ぼくらは両手を構えつつ声を上げた。
足早に歩く程度の歩調で互いに歩み寄ったぼくらは、間合いに入ると同時に互いの襟を捕まえにゆく。
手を払い、腕を揺する短い攻防の後、ぼくらの右手が互いの襟を取り、左手が肩を掴む。
全く同じ体勢になったぼくらは、身を揺すって横へ移動しつつ、相手の隙を窺った。
つかみ合ったまま互いに反時計回りに横移動したぼくらは、お互いの位置が入れ替わった所で一旦動きを止め、足を出すフェ
イントをかけ、腰を引き、戻し、揺さぶり、そしてまた横移動を再開する。
足運び、体重移動、視線、力の入り具合、感じられる全ての事から仕掛けるべきタイミングを、あるいは、仕掛けてもあっ
さり返されないタイミングを伺う。
実力が拮抗した柔道の試合では、完全な隙を突くなんてまずできない。
意識は互いに一人しか居ない相手に向いている。多少隙が出来るとすれば、仕掛ける前後のタイミングと、体勢が崩れた時だ。
だから、不用意に仕掛けてそれを読まれれば、一瞬で捻じ伏せられる事もあり得る。
柔道の試合において、本当に綺麗に技が決まるのは、先の先を取られた場合と、後の先を取られた場合である事が多い。
テレビ放映されているような試合で、大半の場合、崩れながら技が決まるのは当然の事と言える。
達人同士じゃ隙がそうそう無い上に、黙って投げられるほど鈍くないんだから。
時間にして五秒程、互いの出方を窺ったり、隙を作り出そうとフェイントをかけたり、崩しを試みたりした後、先に仕掛け
たのはぼくの方だった。
左足を出すふりをしようと、少し腰を前に出した相手のタイミングに合わせて、素早く右足を出して、相手の右足のくるぶ
しを足裏で狙う。
フェイントとはいえ多少の体重移動は伴っている。左足でフェイントをかけようとした今は、右足に重心が寄っている。
ぼくの足は狙い通りに相手の足を捉え、払った。が、異常に軽いその感触に、直後ぼくは戦慄する。
左足を出そうとするフェイント、ぼくはそう読んだ。でも実際には違う。
フェイントはフェイントでも、足払いしたそうなそぶりを見せて軸足を狙わせつつ、逆の足に体重を移すというフェイント…!
相手が行動を起こしてから重心を移動するんじゃ間に合わない。彼がさっきから見せていたフェイントは、常にこのトラッ
プを孕ませた物だったんだ!
一見交互に両脚へ体重をかけているように見せかけて、実はそうと悟らせずにこまめに重心移動のタイミングをずらし、仕
掛けた相手をハメるカウンタートラップ。
ネコヤマも時々見せる高等技術だけれど、ぼくはまんまと騙されてしまった!
左足だけで体を残した相手の右足が素早く戻る。
待ち構えていた相手と、仕掛けてミスし、動揺したぼくでは、足を戻すのも、次の行動へ移るのも、速さが全く違う。
予想外の軽さで体勢が崩れたぼくの足が戻る前に、相手は前に体重をかけながら、残る軸足に浮いたままの右足を絡ませて
来た。
掴んだ肩に体重をかけて押し崩しに来るが、ぼくは堪えられる体勢に無い。
寝技に持ち込まれるのを覚悟して、身を捻って半身になって肩から床に倒される。
一本だけは何とか免れたものの、判定は技あり…!
縦四方固を狙って来た相手から、予期していたぼくは畳を蹴り、下半身を引っ張り出すようにして逃れる。
なおも食らいつこうとする相手と、体勢を立て直したぼくを、審判が分ける。
直感…!きっと寝技はまずい…!
ぼくは先輩方が卒業してからの一年間、一人で稽古してきた。
つまり、実際にかけあう稽古でこそ効果的に身に付けられる寝技が、だいぶおろそかになっていた。
ネコヤマに協力して貰って一年のブランクから復帰し、以前よりもいくらかマシになったとはいえ、強豪と渡り合える代物
には勿論なっていない。
この選手にはぼくの寝技は通じない。防戦一方になるのは目に見えている…。
…けれど…、立ち技でならまだ戦える…!
格は相手の方が上だけれど、臆する気持は全く無い。合図と同時に前に出て、ぼくは相手と再び組み合った。
さっきと同じパターンになるかと思いきや、今度はけんか四つに組むなり、先に相手が仕掛けて来た。
ぐっと襟を引かれて反射的に踏ん張ったぼくの右足に、相手の左足が間髪入れずに伸びる。
が、崩しが来た時に意識していたぼくは、右足を素早く引き、相手の脚払いをすかしつつ外から回り込む。
直前まで足があった空間を薙いだ相手の足を、ぼくの右足が外から払う。
足払いにさらに加速を付けられる格好で、相手の左足が右足の向こうまでスパンと跳ねる。
あの黒山猫が得意とする技の一つ、燕返だ。
…もっとも、ぼくの場合は散々練習して、何とか形に出来たのは右足だけ。だから右足を大げさに残して踏ん張って見せた
んだけれど…。
彼ほど自在には使えないが、ネコヤマ曰く、相手の行動を洞察するぼくの柔道とは相性が良いらしい。
予想外の反撃で左足が大きく跳ねられた状態…、軸足一本では咄嗟に体勢を維持する事ができなかったらしく、相手は横倒
しになって膝と腰から落ちる。
判定は…、技あり!賭けた甲斐はあった、これで五分五分!
そして、仕掛けたメリットはもう一つ。こっちにもカウンターがあると相手に見せてやった事で、抑止効果としての一撃に
なったはずだ。
警戒して半端な仕掛け方をしてきてくれたら、ぼくの狙い通りなんだけど…。
寝技を嫌っていると悟られるのはまずい。ぼくが形だけでも押さえ込みに行った直後、相手はすばやく腰を引いて膝を立てた。
強引に攻めるのは勿論危険だし、寝技勝負を挑むつもりはない。牽制して袖を取り合うぼくと相手を、程無く審判が分けた。
三度向き合うぼくと相手。お互い技ありを取って、現在判定は五分。
審判の合図でまた前に出て、ぼくと相手は互いに探りを入れつつ慎重に組み合った。
フェイントをかけると見せかけて何もしない。あるいはそれに合わせて仕掛けるふりをしてスッと足を引く。
時には反撃しづらいタイミングで攻められて凌ぎ、隙が無い所で強引に攻めに出て凌がれる。
一瞬たりとも気が抜けない、一度も手を離さず、組んだままでの技の応酬。
互いの集中力と体力を削りあいながら、濃密な時間が過ぎてゆく。
緊張と疲労で大量に汗をかき、息が上がる。でも、それは相手も同じ事だ。
客観的に見ても、県大会出場に相応しいだけの実力を持つ選手を相手取って、こんなぼくが善戦している…。
依然として衰えない闘志を目に、気迫を腕に込めたままの相手に、ぼくは積み重ねて来た全てをぶつけ、鎬を削る勝負を演
じている。
ありがたい…。心底そう思う。こんなぼくを支えてくれた後輩達に、友人に、ウシオに、心の底から感謝している。
ぼくは、ここまでになれたよ?
無様にしがみ付いて、あがき続けてきたけれど…、諦めが悪いっていうのも、捨てたもんじゃないだろう?
出足払いをすかされたぼくに、相手が大内刈りをしかけて来る。
左足にからまれた右足を素早く回しほどいたけれど、さらに詰め寄りながら大外刈りに連携させて来た。
今度はきちんと読んでいたぼくは、素早くからめに来た相手の左足を、先んじて右足を引きつつ身を斜めに構えて空を切らす。
相手のやや崩れた体勢に、足を斜めに踏みしめたぼくの体勢…。
この試合中、最大のチャンスが訪れた。
左足を踏み込んだ状態から、軸足となる右足を相手の足元へ素早く送る。
引き手を寄せつつ釣り手を上げ、左足の腿裏を相手の股間に押し付けるようにして、一気に振り上げる!
何度も練習してきて、右でも左でも動作だけはスムーズにできる、ぼくが大好きな技の一つ、内股。
だが、今回は直前になって勝手が違う事に気付いた。
軸足となっている右足のふくらはぎが痙攣し、膝が微かに震える…。
軸足がぶれ、気が削がれ、直前で僅かに勢いが鈍ったぼくの左足は、何も無い空間に跳ね上がった。
内股透かし。相手の右足がぼくの左足より先に後ろへ跳ね上げられ、襟を掴んでいる手がぼくの体を押し下げる。
ダンッと、肩口から床に叩きつけられるようにして畳に落ちたぼくは、激しく動く視界の中で、相手の顔をはっきりと見た。
音も耳に入らない、刹那の、しかしスローモーションで流れて行く視界の中にあったのは、突然の事で何が起こっているか
判っていないような、そんな驚いている顔…。
ああ…、そうか…。
きっと彼は、ぼくの動作の一瞬の停滞に反応して、無意識に返し技を繰り出したんだ…。
彼がここまでになるまで、どれほどの鍛錬をおこなってきたのか、想像に難くない…。
…けれど、意識して返せない程には、ぼくの内股も良く仕上がっていただろう?
勝負は紙一重だった。そう、自惚れても良いかな?
不思議と満ち足りた気分になりながら床に転がったぼくの耳に、審判の、技ありの声が届いた。
あわせ一本。この瞬間、ぼくの大会は終わった。
「はは…。ダメだった…」
せめて笑顔でと顔を歪めたぼくの口からは、力ない声が漏れた…。
虚勢で良いから笑おうとした顔は、せめてそれなりの作り笑いを浮べる事ができただろうか?
…いや、たぶん失敗してるな…。ぼくの顔を見つめるイヌイの表情が、理事長の沈痛な顔が、それを物語っている。
これで、終わりなんだな…。ぼくの三年間は…。
「お疲れ様でした。イワクニ君…」
理事長が微笑を浮べて、ぼくに労いの言葉をかけてくれた。
「主将…。お疲れ様でした…!」
イヌイは、まるでぼくを励ますように、何度も、何度も頷いた。
ずっと黙り込んでいたアブクマは、ぼくが顔を見上げると、顎を引いてほんの小さく頷いた。
そして、太い両腕をぼくの背に回し、ギュッと、力を込めて抱き締めた。
「…立派な…試合だったっすよ…」
「ははは…!うそつけぇ!負けちゃったんだぞぼくは…!」
「それでもっ…、良い試合だった…!あれが俺らの主将だって、他のヤツらに胸張れる…、そんな試合だったっ…!」
アブクマの声は…、少し震えていた。
…そうか…。ぼくは、後輩達が恥かしくない試合は、できたんだな…。
ぼくは大きく息を吸ってアブクマの背に手を回し、バシッと強く叩いた。
「さぁ…!気持ちを切り替えろ、アブクマ!」
身を離したアブクマの顔を見たら、胸が詰まった。
大きな熊は、今にも泣き出しそうな顔をして、ぼくの顔を瞳に映している…。
こっちまで泣きたくなるのを堪えて、ぼくは主将としての勤めを果たすべく、口を開いた。
「次はアブクマの番だぞ!いつも通りに、胸のすくような試合を見せて、県大会行きをもぎ取って来い!」
「う…うっす…!」
殊更に声を張って言ったぼくに、アブクマは少し驚いたような表情を浮かべてから、目を吊り上げて力強く頷いた。
その顔つきは気合十分。どうやら気持ちは上手く切り替わったらしい。
一緒に進む事はもう叶わないけれど…、ぼくはここから精一杯応援するよ。
だからもう、足引っ張りの先輩なんか振り返らず、思いっきり頑張れアブクマ!
試合場を出たぼくらは、アブクマの試合の時間になるまで一旦休憩する事にした。
理事長は廊下に出てすぐ、知り合いらしい他の学校の先生に声をかけられて、話し込み始めた。
相手の先生は珍しい事に犀。陽明の教頭先生だ。でっかいなぁ…。小柄な理事長の三倍以上のボリュームがある。
立派な二本角の犀は、ウシオ並の立派な体格、老いを感じさせない頑健な骨太体型だ。
話の中身から察するに、理事長が教鞭を取っていた頃の同僚だったのかな?…まぁ、話には混ざれないし、邪魔しても失礼だ。
ここはそっと外しておこう…。
理事長に断りを入れて離れた後、少しぐらい休めば良いのに、イヌイはカメラを片手に再び試合場へ向かう。
熱心だなぁ…。後でカメラ係の交代でも提案してみよう。…ぼくの手も空いた事だし…。
イヌイの後を追いかけたそうにしたアブクマは、ぼくを気遣ってか、並んで壁際に寄った。
「アブクマ、イヌイに同行したいんだろう?行って来なよ」
「え?いや…、俺は別に…。キイチはホラ、一人でも平気みてぇだし、一緒に行っても俺役に立たねぇし…」
ごもごもと呟くアブクマに、ぼくは笑いかけた。
「飲み物でもとって休憩して来る。ちょっと一人になって、試合の事とか、振り返りたいから…」
「…そんなら、外しとくっす…」
頷いたアブクマは、壁から離れて廊下を歩き出した。
人混みに紛れてもなお頭が抜けて見えている後輩を見送ったぼくは、踵を返して逆方向に向かう。
…本当に、終わったんだな…。
廊下をゆきかう選手の大半は、もう試合を終えてジャージや制服に着替えている。
あれだけ多かった柔道着姿の生徒が随分と減った事で、大会も終わりに差し掛かっている実感が湧いて来る。
…あれ?
人混みの向こうに狐の姿が見えて、ぼくは足を止めた。
知り合いのような気がして、目を凝らしてみたけれど、相手はぼくに気付かないまま、紛れて見えなくなった。
ウツノミヤだと思ったんだけれど…、見間違いだろうか?
…人違い…だろうな、うん。応援に来てくれていたならアブクマには声ぐらいかけてくだろうし、距離もあってちらっと見え
ただけだから、ちょっと似た感じの生徒を見間違えたんだろう。
気を取り直して再び足を進め、ロッカーに寄って財布を取り出し、自販機コーナーに向かったぼくは、ふと足を止める。
まるで待ち構えていたようにそこに居たのは、黒い山猫。
「ネコヤマ…」
黙ってこちらを見ていたネコヤマは、顎を引いて小さく頷きかけて来た。
それぞれ飲み物を手にして、ぼくらは体育館横手の非常口に向かった。
開け放たれたドアから会場に篭った熱気が抜けてゆき、涼しい風が吹き込んで来る。
歓声が遠く聞こえる、人気の無い非常口のすぐ内側。ぼくらは狭い通路を挟んで向き合うようにして壁に寄りかかり、無言で
缶のプルタブを開ける。
「良い試合だった」
麦茶を一口啜るなり、ポツリとそう言ったネコヤマに、ぼくは苦笑いを返した。
「ははは…、皆そう言ってくれるよ。でも大丈夫、負けたのは確かに残念だけれど、そんなにガックリしてる訳じゃないから、
慰めてくれなくとも…」
ネコヤマがふるふると首を横に振って、ぼくは言葉を切った。
「良い…試合だった」
繰り返したネコヤマを前に、ぼくは何を言って良いか判らなくなる。
「オレが、世辞を言える程出来たヤツに見えるかい?」
片方の眉を上げて、ネコヤマはそう言った。
「…本当に、良い試合ができたかな…?」
「うん。素晴らしい一戦だった」
声が少し震えたぼくに、ネコヤマは頷いてくれた。
「誇って良い。休まず重ねてきた稽古が、キミの後輩達やオレに、あの素晴らしい試合を見せてくれた」
「そんな事…、真顔で…言うなよ…。泣きたくなるじゃないか…!」
「キミは泣かなくていい。むしろ、胸を張っていい」
耳を倒して口の両端を少し上げ、優しげな笑みを浮べて言ったネコヤマに、
「…ありがとう…」
ぼくは泣き笑いの顔で頷いた…。