第九話 「運命の地区予選」(後編)
県大会出場をかけたアブクマの試合…、準決勝が近付いて来る。
壁際に立って太い腕を組み、黙って試合場を眺めている彼には、相変わらず緊張した様子は無かった。
口数は少なくなったけれど、幸い、ぼくが負けてしまった事による動揺は見られない。
どうやら気持ちの切り替えは上手く行ったらしい。
実に落ち着いたもので、ただ静かに時間が来るのを待っている。
ぼくが負けた事でアブクマにまで悪影響を及ぼすのは勿論不本意だから、ちょっと安心した。
しばらくそうして待った後、アブクマはおもむろに腕を解き、口を開いた。
「んじゃ、やって来るっす」
黙って頷いたぼくとイヌイ、そして理事長を残して、アブクマは試合場へ向かった。
広いその背中が、少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいだろうか?
…もし本当にそうだったとしたら…、それは間違いなくぼくのせいだ…。
「…終わったっすね…」
「終わっちゃいましたね…」
「うん。終わったな…」
大会からの帰り道、駅で理事長と別れた後、ぼくらは三人並んで寮へ向かった。
ぼくを挟んで右にアブクマ、左にイヌイ。
いつも部活を終えて帰る時にはあれこれ話をして、本当に疲れているのか疑わしいほど騒がしいのに、今日はとても静かだ。
ちらりと横目で伺えば、勝ったアブクマは元気が無い。耳は倒れ気味だし、目には瞼が半分かかっている。
大きな体が重いかのように、足取りも心なしか引き摺るようで、いつもの力強さが無い…。
アブクマはあの後、準決勝、決勝戦と連勝し、優勝して県大会行きを決めた。
ぼくらの期待に応えるかのように、どちらも相手を圧倒し、鮮やかな一本勝ち。
こんな後輩を持てて誇らしいと思うと同時に、先に抜けてしまって申し訳ないという気持もある。
イヌイもまたちょっと寂しげだ。耳は後ろに倒されて、長くてしなやかな尻尾がプランと下に垂れ、可愛い顔は俯き加減…。
いつもなら試合内容などについてあれこれ質問して来るのに、今日は口数が少ない。
ネコヤマは難なく県大会進出。
同階級で最も手強いと見ていた相手が、調子が悪かったらしく早々と消えた事もあって、危ない試合は一つもなかった。
余談だけれど、ぼくが敗れた相手も優勝で県大会行きを決めた。
負けはしたけれど、気分的にはいくらかでも報われたかな…。
…周りの皆は上へ行くのに、ぼくはここで足を止めてしまった。
精一杯やった結果だけど、もう一緒に進めないのはやっぱり少し寂しい…。…でも…。
「なぁ二人とも?」
沈黙を破って口を開くと、二人は窺うようにぼくの顔を見た。
「喜ぶべき所であって、落ち込む所じゃないんだぞ?何せ、我が部で八年ぶりに県大会出場者が出たんだから!ほらほら!胸
を張って威張り散らそうアブクマ!」
「…そうなんですか…」
「…威張れる程立派な試合なんて…できてねぇっすよ…」
ぼそぼそと応じる二人の声には、やっぱり元気が戻っていない。
…ここで「そうなの?やったー!」的に元気が出てくれると、ぼくとしては助かるんだけれど…。
「そう、八年ぶりなんだ。…それでも、中学の時に全国を経験したアブクマサンには、勝てて当然で、県大会出場如きは割と
どうでも良い事かな?」
ぼくが肩を竦めて言うと、アブクマは足を止め、牙を向いて鼻面に皺を寄せた。
「んな事ぁ言ってねぇ!勝てて当然なんて思ってもねぇ!毎試合全力だ!勝ち上がれて嬉しいに決まってんだろが!」
怒った大熊のなんとド迫力な事か…!
ウシオ顔負けの怒声を発したアブクマは、ハッとして言葉を切ると、しょぼんと項垂れた。
「…済んません…。でも俺、勝って当り前みてぇな事はこれっぽっちも思ってねぇす…。けど、あんまし喜べねぇのは…」
「良かった。怒る元気はまだあるようだな」
言葉を遮って言ったぼくを、アブクマとイヌイはキョトンとして見つめる。
察しの良いイヌイは、ぼくがわざと心無い言い方をした事にもすぐに気づいたらしく、済まなそうに耳を伏せた。
「ご、ごめんなさい、主将…。ぼくらが落ち込んでちゃ、いけないんですよね…」
アブクマはやや遅れて気付いたのか、「あ…」と声を漏らして目を大きくし、元気無く俯く。
「同情して落ち込まれるよりも、素直にアブクマの県大会行きを喜んでくれた方が、ぼくは嬉しい。…二人ともそんなんじゃ、
ぼく一人喜ぶ訳にも行かないじゃないか?」
微苦笑しながらそう言って、ぼくはアブクマを見遣った。
「あまり喜べないのは、ぼくが一緒に県大会に挑めないから…だな?その点については悪いと思っているよ」
「悪ぃだなんて…」
「でも、今日限りで引退っていう訳じゃないんだし、少しは嬉しそうにして欲しいんだ」
「それでもよぉ…。…ん?」
しょぼくれていたアブクマが顔を上げ、伏せていた耳を立てて目を丸くする。
「引退じゃ…、ない…?」
呟いたイヌイも、目を大きくしてぼくを見つめている。
「それはまぁ、選手としての活動は終わりだけれど?でもぼくは一応主将なんだから、勝ち残っている部員が居る以上は、主
将としての勤めは続けるさ」
アブクマとイヌイは口をポカンとあけて顔を見合わせた。
「そ、それじゃあ主将…?つまりその…、部活にはまだ?」
ぼくに視線を戻したイヌイは、おずおずと、期待を込めた眼差しを向けながら訊ねて来た。
「うん。出るよ。もっぱら稽古相手として、そして裏方としての活動になるけれど」
アブクマは口をポカンと開けて、少しの間固まっていたけれど、
「じゃ、じゃああれっすか?俺が勝ち残ってる間は、引退しねぇって事すか!?」
ぼくが頷くと、目をまん丸にしたアブクマは、しばらく口をパクパクさせた後、
「お、おおお俺っ…!主将は三年生だし…、卒業した後の進路の事もあるから…、てっきり、負けたらすぐ引退しちまうもん
だと…!ほ、本当っすか!?嘘じゃねぇっすよね!?後になって冗談だったとか無しだぜ主将!?」
ぐばっと身を乗り出して、ぼくの両肩を掴んで揺さぶった。
「いやいや、一応事務的な事はあるからな。顧問をして貰っているとはいえ、理事長もあまり詳しくは無いし。これからはイ
ヌイと一緒にバックアップだ」
アブクマの顔が、みるみる明るくなった。
「そ、それじゃあ…!本当に…!ホントのホントに、まだ辞めねぇんすね主将っ!?」
「ああ。こんなぼく相手でもアブクマの稽古の足しにはなるだろうし、経験が少ないのにイヌイもこれまで忙しくさせ過ぎた。
部員不足のウチじゃあ、人手があって困る事はな…うわっ!?」
アブクマが突然ぼくの両脇に手を入れ、ぐいっと持ち上げた。
子供を高い高いするようにしてぼくを持ち上げたまま、大きな熊がぐるぐる回って笑い声を上げる。
「やった!俺…、俺…!まだ主将と一緒に柔道やれんだっ!ぬははははっ!やった!やったぜっ!」
全身で喜びをあらわすアブクマと、尻尾をピンと立ててフルフルさせながら満面の笑みを浮かべるイヌイ。
「ちょ、ちょっと!下ろしてくれアブクマ!」
恥ずかしさに耐えかねて、ぼくはアブクマに訴えた。
上機嫌で笑いながら、なおも三回余り回転してからやっと下ろしてくれたアブクマに、ぼくは少しばかり決まりが悪い思い
をしながら苦笑いを向ける。
「勝ったアブクマに負けたぼくが抱き上げられるっていうのも、なんだか妙な具合だな」
「ぬははっ!んじゃ俺の事胴上げでもしてくれるっすか?」
胴上げするように太い両腕を前から上にあげ、楽しげに笑ったアブクマに、
『いや、それは絶対無理っ!』
ぼくとイヌイは声を揃えながら、慌てて首をブンブン横に振った。
「冗談だって…。そんな真顔で引かねぇでくれよ…」
アブクマは耳を倒して顔を顰め、ガリガリと頭を掻いた。
「ただいま」
自室のドアを開けたぼくは、座卓を挟んで座っている牛と狼の姿を目にし、目を丸くした。
鍵が開いていたからウシオが帰って来ている事は判っていた。けど、シゲまで?
「おかえり、イワクニ」
「おかえりなさいサトルさん」
口々に言った二人がついている座卓に歩み寄ったぼくは、バッグを傍らに下ろしてストンと腰を下ろした。
机の上にはウーロン茶のボトル。シゲがあいていたコップに茶を注いで、ぼくの前に置いてくれた。
礼を言ってコップを引き寄せ、目の前に置き直して見下ろしたぼくは、
「…準々決勝で、負けたよ…」
ぼくから口を開くのを待っているように、自分達からは訊ねようとしない二人に、結果だけを告げた。
「そうですか…」
シゲは軽く目を閉じて少し俯き、手を添えているコップを見つめたウシオは、無言のまま耳だけピクリと動かした。
「けど、アブクマは勝ち進んでくれた。次は県大会だ」
ぼくが笑みを浮かべると、シゲはパッと顔を上げ、ウシオも目を大きくしてこっちを見る。
「それは…、めでたい…!」
「ははは!やるなぁアイツ!」
口の端を少し上げたウシオと、目を細めて笑ったシゲに、ぼくは今日の試合の様子を話して聞かせ、そしてシゲからボート
部の戦績を聞いた。
シゲは見事にダントツ一位のタイムで突破。シゲの他にもダブルとフォアが一組、それぞれ県大会にコマを進める快進撃!
総出で行った応援団も、さぞ応援し甲斐があったろうなぁ。
日が重ならなければ、ぼくも是非応援しに行きたかったところだ…。
しばらく歓談した後、「じゃ、おれはそろそろ…」と、シゲが席を立った。
「おれ今日は別口で約束があるんで、夕食は二人でどうぞ」
今日は休日で寮では夕食が出ない。こういう時はいつも三人で、時にはシゲのルームメイトにして応援団員のアトラも誘っ
て外食に行くんだが…。
「珍しいな?友達とかい?」
「いえ、シンジョウがですね…、ほら、新聞部のあの女子。取材ついでに飯奢ってくれるって言うんで」
…後輩の女子に食事を奢らせるのか…?
いつもながら、シゲの女子に対する態度は少々変わっているような気がする。
いや、男友達のソレと同じ扱いになっている、と言うべきか…。平等って言えば平等だけれど…。
「じゃあ、ごゆっくり」
軽く手を上げてシゲが退室すると、途端に部屋が静かになった。
ぼくとウシオはしばし言葉を発さず、黙り込んだままグラスを見つめている。
長い沈黙を破ったのは、ウシオの方だった。
「残念…だったな…」
「ん…。でもほら、アブクマは勝ち進んでくれたから。快挙だよ、本当に」
笑いかけたぼくに、ウシオはしかし笑顔を返してはくれなかった。
「不思議だけれど、ウシオの応援、聞こえたような気がする。ちゃんと約束した時間通りに」
「まさか…。いくら何でも聞こえるはずが…」
「でもぼくには聞こえたんだ。おかげで、負けかけた初戦を逆転して、公式戦で初白星をつけられた」
言葉を遮って言ったぼくを、少し顔を上げたウシオが一瞥する。
「ありがとう。最後の最後で、満足の行く大会にできた」
「…満足…、か…」
呟いたウシオに、ぼくは大きく頷いた。
「そうだ。夕飯どうする?冷凍パスタ類がしばらく手を付けないまま余ってるから、ぼくはそれで済ませても良いと思うけれ
ど…。出かけようにも少し疲れてるし…。ウシオはどうする?」
正直あまり食欲は無かった。けれど、それでまた妙に気遣われるのも何だか嫌だったから、ぼくは食事の話を振ってみた。
「ワシも部屋で食う。すっかり皆と食う事に慣れたせいか、最近では一人で外食というのも味気なく感じるようになってな…」
腰を上げたぼくらは揃ってキッチンに入って冷凍室を覗き込んだ。
ぼくはオーソドックスにミートソースを、ウシオはホウレン草のペペロンチーノとボンゴレビアンコを選んでレンジに入れ、
お湯を入れるだけで出来上がるインスタントのコーンスープを取り出す。
ぼくがヤカンを火にかけている間、低く唸っているレンジを眺めていたウシオが、ポツリと言った。
「サトル…。寂しく…ないのか?」
「そりゃ寂しいよ。まだ少し引退まで猶予はあるけれど、試合に出るのはこれで最後だしな。ああ、でも練習試合には参加す
るよ?部員数が部員数だ。申し込んで来てくれてる学校も、アブクマ一人が目当てとはいえ、こっちからの参加が一人だけじゃ
あちょっと…」
「…サトル…」
「うん?」
「本当に、満足か?」
「………」
一瞬返答に詰まったぼくは、レンジを見たままのウシオの顔を見上げた。
「ははっ!満足だって言ってるじゃないか?だってアブクマが…」
「サトル…」
ぼくの言葉は、ウシオの声で遮られた。
「お前は、良く頑張って来た。昨年のこの時期に先輩方が抜け、一人だけになってしまった時も、そのまま柔道部を廃部には
させず、アブクマとイヌイが入ってくれるまで一人で踏ん張って来た。試合での成績や結果などは、誤解を恐れず言うが、ワ
シにとっては二の次の事だ…。お前が人並み以上にずっと頑張って来た事を、ワシは理解している…」
「…ウシオ?」
ウシオはやっとこっちに顔を向けて、ぼくの目をじっと見つめた。
「もう…、十分だろう…?主将として背筋を伸ばすのも、肩に力を入れ続けるのも…。だから…」
ウシオは一旦言葉を切り、ややあってから静かに口を開いた。
「…だから、せめてワシの前でだけは…、本音を吐き出していい…。もう、強がらんでいい…。お前は、ここまでずっと頑張っ
て来ただろう?」
ひゅくっと、音が鳴った。
鳴ったのは、ぼくの喉だった。
一度しゃっくりが出たら、止まらなくなって、視界が滲んだ…。
「あ…アホウシ…!せ、せっかく…、ここまで堪えて…来られたのに…!そんな…こ、事っ…言われたら…!我慢…、できな
く…!」
両目から零れ落ちた涙が、頬を伝って首を降り、シャツの襟元を湿らせた。
試合を終えてからここまで、どうにかこうにか涙を止めていた堰は、親友にしてルームメイト、そして最大の理解者である
ウシオの言葉で、あっけなく崩壊した。
とうとうと涙を流すぼくに、ウシオは黙って手を伸ばす。
羨ましいくらい太い腕が背中に回り、ぼくは大牛に抱き締められた。
「う…!く…、うううぅぅううううっ!」
丁度顔の高さに来るウシオの胸を涙で濡らしつつ、ぼくは棒立ちのまましゃくり上げ続ける。
「ウシオ…!ぼく、頑張った…!頑張ったけど!満足できる結果だけど!それでもっ…!それでもぼく!まだまだ柔道が…!
後輩達と…、一緒にっ…!柔道がしたかった!」
後輩達の前では決して言えなかった本音を、ぼくはウシオの胸に吐き出した。
「アブクマと、イヌイと、一緒にっ…!友達も…できたばかりなのにっ…!もう一年…!もう一年あったら…、どんなに…!
もしも時間が貰えるなら…、ぼく、なんだってするのに…!」
馬鹿げた事を言っている…。女々しいとは、自分でも思う…。
大牛の分厚い胸に手を這わせ、シャツを掴んで縋り付く。
ウシオはそんなぼくを、逞しい両腕で優しく抱き締めたまま、背中をさすってくれた。
甘えていると理解しつつも、抱き締められながら、ぼくはただただ嗚咽を漏らし続けた…。
皿にあけたパスタの匂いが、リビングに立ち込める。
げんきんな物で、さんざん泣いたら疲れたのか、それとも、ウシオに本音を吐露してスッキリしたのか、さっきまで殆ど無
かった食欲は、パスタの匂いを嗅いだら湧いてきた。
泣いて擦って少し腫れぼったくなった目を、座卓を挟んで向かいに座ったウシオに向ける。
「ごめん。情けない所を見せたな…」
「なんの。そんな事を謝るような間柄でもなかろうに?」
恥ずかしくて苦笑いしたぼくに、口元に笑みを浮かべながらゆっくり首を左右に振るウシオ。
笑いあったぼくらは、同時に食事に取りかかった。
「食え。こっちも美味いぞ?」
ウシオは自分のボンゴレとペペロンチーノを小皿に分けて、薦めてくれた。
「ん、ありがとう。こっちも…」
ぼくの方もミートソースを小皿に分けて、ウシオに食べて貰う。
いつからだったろう?今ではもう当たり前になっているけれど、違うメニューを食べる時、ぼくらがこうして互いに食べて
いる物を薦め合うようになったのは…。
思い出せないけれど、やっぱりあの頃…、二年前くらいからか?
それからしばし、バラエティ番組を眺めて他愛ない話をしつつ、ぼくらは食事を摂った。
先に食べ終えたぼくは、プラスチックのフォークを皿に置き、CMに入ったテレビにちらっと向けた視線を外して、ウシオ
の方を向く。
ウシオは皿を持ち上げて、最後に残ったペペロンチーノを一気に掻き込んでいた。
「…ウシオ…」
「ん?」
声をかけたぼくは、皿を机に置きつつこっちを見たウシオに続ける。
「随分待たせたけれど…、約束を果たすよ」
ぼくの宣言を聞いたウシオは、目をまん丸にして、パスタを咥え込んだ口から「んもぉっ!?」と、本物の牛みたいな声を
漏らした。
急いで口の中の物を飲み込んだウシオは、相当驚いた様子でぼくの顔をまじまじと見つめる。
「だ、だが…、アブクマは勝ち進んどるだろう?引退はまだ…」
「けれど、それは主将としての勤めで、選手としての活動は今日で終わった。もう、良いんだ…」
ぼくは目をまん丸にしているウシオに微笑みかけた。
「ウシオは約束を守ってくれた。二年もの間、文句も言わずに…。確かに部活そのものの引退はまだだけれど、これ以上待た
せるのは、いくら何でもワガママの度が過ぎる…」
ぼくらが一年生の時に交わした、丸々二年越しの約束…。
「約束通り、今日からぼくはウシオの恋人だ」
部活を引退したら恋人として付き合おう。
…それが、ぼくとウシオが二年前に交わした約束…。
ぼくの言葉を耳にして、ウシオはまん丸にしていた目をさらに大きく見開き、凍り付いたように動きを止めた。
あまりにも長い沈黙に居心地の悪さを感じ始めた頃、ウシオはようやく声を発した。
「…サトル…、本当に…?」
黙って頷いたぼくに、ウシオは重ねて訊ねて来る。
「本当に良いのか?二年も経った今でも、ワシの気持ちに応えてくれるのか?」
「そう、二年も経ってる。ウシオにとっては、浮気もしないで我慢し続けての二年だ。今更になって「やっぱり嫌だ」なんて
言ったら、ぼくは相当な極悪人だ。勿論、否は無いよ」
眉を潜めて言ったぼくに、ウシオは「そ、そうか…」と、小さく頷いた。
…もう二年前の事だ。ぼくはウシオから恋人としての交際を申し込まれた。
真顔で「お前に惚れた」なんて言われた時には、男同士という事もあって、勿論かなりビックリしたさ…。
けど、どうしてだろう?ホモとかはスタンダードじゃないって意識はあったけれど、不思議と不快に思わなかった。
それまで女子と付き合った経験が無かったからなのか。
それとも、幼稚園の頃に先生に淡い恋心を抱いたぐらいしか恋の経験が無かったせいか。
…いや、今になって思えば先生へのアレは恋とは違うかな、たぶん…。
とにかく、原因は解らないけれど、驚きはしたが不快には思わなかったぼくは、ウシオの申し出に対して半端な返答をした。
それは、「部活に集中したいから、引退するまで待って欲しい。それで良いなら付き合おう」という物。
…うん。よくよく考えると、かなり身勝手な提案だ…。
その時は特に何とも思わず、あくまでも柔道が一番だったからそう返答したんだけれど、要約すれば「二年待てば交際して
やる」って事だし…、普通に考えれば遠回しに断っているように取れる…。
その時ウシオは、少し考えた後に頷いた。
自分と付き合う事で、ぼくが大好きな事に打ち込めなくなるのは心苦しい。一番したいことを優先しろ。と…。
枷になりたくない、好きな事をさせてやりたいという理由から、ウシオはぼくの身勝手な提案を受け入れて、二年間ずっと、
待ち続けて来たんだ…。
黙りこくって俯き加減になり、ボリボリと頭を掻くウシオ。
とっ…、とふっ…、とっ…、と妙な音が、ウシオの後ろ側から聞こえてくる。
ぼくからは見えないけれど、きっと、先っぽに房がある尻尾が床を叩いている音だろう。
持ち上げた尻尾をぱたん、ぱたんと、左右へ不規則に振るのは、今ではもうぼくにはお馴染みになった、ウシオが照れてい
る時の癖…。
「恋人としての交際なんて初めての経験だし、至らない事ばかりだと思うけれど、よろしくおねがいします」
ぼくがぺこっと頭を下げると、ウシオはもそもそと座りなおして正座し、同じように頭を下げた。
「い、いや…、ワシもその、初経験だ…。しばらくは失敗ばかりだと思うが…、よ…、よろしくおねがいします…」
深々と頭を下げあったぼくらは、同時に顔を上げる。
「…何と言うのか…、こう…、交際の挨拶というより、これでは見合いの席の挨拶のようだな…?」
「あ…。ん〜…、言われて見れば硬かったかな?もしかして、ちょっとズレてる?」
少し恥かしくなって頬を掻いたぼくに、ウシオはニカッと、歯を剥いて笑った。
「なんの。こういうのも、ある意味ワシららしいかもしれん」
「らしいかい?」
「うむ。らしい」
何だか少し可笑しくなって、ぼくらは低く笑い声を漏らした。
「それじゃあ…、恋人としての過ごし方、レクチャーよろしく。勿論、できる限り自分でも考えるし勉強するけれど、…先に
も言った通り、ぼくはその手の事には疎いから…」
「ワシもそう詳しい訳でもないんだが…。まぁ、当てにし過ぎんようにしてくれ」
困り顔で応じたウシオに、ぼくは含み笑いを漏らしながら笑みを向けた。
「ふふっ…!手探りでのスタートか」
「そういう事だな」
「じゃあ、さっそくデートの計画でも立てようか?」
「…でっ…!?」
絶句したウシオに、ぼくは肩を竦めて見せる。
「するだろう普通?恋人なんだし…。という訳で、入浴後はさっそく計画を練ろう!あ、参考にタウン誌買って来た方が良い
か?…うん、そうだな…。じゃあまず書店へ、それから入浴してデートの打ち合わせだ!それでどうだいウシオ?」
「なぁ、サトル…」
ウシオは何やらもじもじしながら、ぼくを上目遣いに見つめて来た。
「…で、デートも結構なんだが…。それよりも先にだな…、そのぉ…」
もごもごと口ごもりながら、ウシオはちらちらとぼくの顔を窺う。…何だろう…?
「…わ、ワシの事も…、二人きりの時ぐらいは…、下の名で呼んで貰えん物かなぁ…などとこう…、思っていたりいなかった
り…、その…、しとるわけで…」
思わず、小さく「プッ!」っと吹き出してしまったぼくは、そんな他愛の無い要求をするだけでモジモジと恥かしがってい
る大牛に、
「それじゃあ…、今日からはウシオに倣って、二人きりの時は名前で呼ぶようにするよ。それでどうかな?うし…、えっと…、
し…、シンイチ…!」
まだ唇に馴染んでいない下の名で呼びかけると、シンイチは耳を倒して顔を上げ、「う、うむっ…!」と、嬉しそうな笑顔
で頷いた。