第一話 「気になる観察対象」

机の上に広げた資料と睨めっこしていた私は、椅子の背もたれに体重をかけ、ぐ〜っと伸びをした。

そして眼鏡を外して、疲れてきた目を擦り、眉間を指で軽く揉む。

少し目が疲れて来ちゃった…。

今日は部活も無かったから、ホームルーム後はまっすぐ寮に帰ってきて、以降はずっと考え事に時間を割いていたのよ。

…さて、自己紹介しておきましょうか。

私は新庄美里(しんじょうみさと)。星陵ヶ丘高校一年。分厚い眼鏡がチャームポイントの新聞部女子。

件の生徒、忍足慶吾(おしたりけいご)君の学校残留については、どうにかこうにか打つ手が見つかった。

それでこそ、土日を使って彼の地元まで行って、色々調べ回った甲斐があったというものよ。

打開策は、問題の生徒のルームメイトであるウツノミヤ君が、イヌイ君と話し合って見つけたもの。

もちろん私にも異論は無いわ。星陵の特例措置制度を使うその案は、現時点では最も確実な手段に思える。

あの三人の説得が成功する事を信じて、私は、私にしかできない事をすべきだと考えたの。

…オシタリ君の事は、元を辿れば、同郷の二人と同じクラスに居るから、単に厄介ごとの火種になるかどうかを判断する為

に調べ始めたのよね…。

校内で集められた情報では、以前は手の付けられない不良だったらしい事、中学三年になってから静かになった事、その程

度しか調べがつかなかった。

二人には一応忠告したけれど、後にアブクマ君と話をしたところ、イヌイ君も私と同じように、彼に対して違和感を覚えて

いたらしいわ。

曰く、以前のイヌイ君がそうだったように、他者と距離を取ろうとする理由があるのではないか?と…。

二人とも、オシタリ君については悪印象を抱いていない。

そして私は、彼らが抱いた印象を信用するつもりになった。

だからこそ私は意を決し、オシタリ君を密かに観察する事にした。

私は机に頬杖をつき、資料に貼り付けてある、隠し撮りしたシェパードの横顔が写っている写真を眺めた。



あれは、観察開始から数日経った、昼下がりからショボショボと寂しげな雨が降り出した日の出来事だった。

その日をきっかけに、彼はただの観察対象ではなく、同年代の生徒になった…。

「降るなんて聞いてないわよ…」

私は昇降口の中から、校庭に降り注ぐ、止まない雨を眺めてぼやいた。

今朝の予報じゃ快晴だったのに…。

しかもこんな日に限って、いつも鞄に入れていた折り畳みの傘を寮に忘れて来てしまった…。

鞄の中には愛用のデジタル一眼レフ。

目の粗いナイロンの鞄は水を通してしまうから、濡れるのを覚悟で寮まで走った場合、この子の安全は保証できない…。

一応専用ケースに収納してはあるけれど、これが素早く取り出せるようにしてあるデザインのケースで、結構隙間だらけな

のよね。

…賭けに出るにはあまりに不安だわ。これからは別にビニール袋を持ち歩こう…。

これは、雨が止むまでは帰れそうにないわね…。

途方に暮れていたその時、私の横に誰かが立った。

心臓が止まるかと思った。

コツリ、と靴音を鳴らして隣に立った、鋭い顔つきのジャーマンシェパードは、紛れもなく私が観察していたオシタリ君本

人だったのだから。

オシタリ君は外を眺めたまま、私に向かってずいっと傘を突きだした。

「…使え…」

ぼそっと呟いた彼に、戸惑いながら視線を向ける。

どうやら私がちょくちょくこっそり、彼を観察していた事には、まだ気付いていないらしい。

「でも、貴方の分は…?」

私の言葉には応えず、オシタリ君は強引に傘を押し付け、ドアを開けて雨の中へ駆け出して行った。

私の手元には、コンビニなどで売っている、透明なビニールの傘が残された。

オシタリ君が、押し付けるようにして貸してくれた傘を手にしたまま、私は彼が走り去り、姿を消した方向を、しばらく見

つめていた。



あの日の事を思い出し、頬杖をついてぼんやりとしていた私は、写真から視線を外した。

そして、纏め終えた資料をチェックし、出来映えに満足して頷く。

「よし、これで行けるわ…」

資料には、調べ上げた彼の事が纏めてある。

作業の内容は、この中から使える事柄を抜き出す事だったのよ。

筆箱を鞄にしまおうとした私は、鞄の中で携帯のランプが点滅している事に気付いた。

作業に夢中になっている間に、携帯に着信があったらしい。

マナーモードにしたままで、音に気付けなかったな…。

鞄の中から取りだした携帯には、着信とメール受信の記録が表示されている。

「イヌイ君?」

スライドさせてボタンを出し、メールを呼び出すと、

Aチーム、Bチーム、共に作戦成功!あとは本人の説得のみ!』

との連絡が入っていた。さすが!

残留が決まったなら、私の方は、行動を起こすだけね。

きっと、彼の学園生活を変えてみせるわ!

『よくやった!誉めて遣わす!…と、二人にも伝えておいてね?本当にご苦労様。連絡有り難うイヌイ君!』

イヌイ君にメールを返信し、私は椅子から立ち上がり、背伸びをした。

冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだし、祝杯…、という訳でもないけれど、ボトルに直接口をつけて煽る。

あとは、私がしっかり頑張らなくちゃね…!

「ただいまぁ〜」

ドアが開く音に続いて、最近耳慣れてきた声が聞こえた。

ボトルから口を離して、私は「おかえり」と微笑みかける。

帰還の挨拶を口にしたルームメイトは、入り口に立ったまま、「おやぁ〜?」と、不思議そうな声を上げた。

ぬいぐるみみたいなむっくりした体に、メリハリの利いた純白と漆黒のツートンカラー。

全体的に愛くるしい印象を受けるカラーリングの彼女は、種族の特徴という事もあるだろうけれど、私よりも頭半分ほど上

背がある。

「機嫌良さそうだねぇ、なんかあったん?」

私二人半以上のボリュームがある体を捻り、ドアを閉めている彼女は、笹原百合香(ささはらゆりか)。

私も知り合いになるのは初めての、この国では珍しいジャイアントパンダだ。

「まぁ、ちょっとね。今日は早かったわね?部活は?」

「顧問と主将が急用でねぇ。今日はサッサカサーっと解散になっちゃったぁ」

なんとなく物足りなそうな表情で肩を竦めると、ユリカは私に歩み寄って、脇から冷蔵庫に手を伸ばす。

そして、パック入りのココアを掴んでベリっと口を開けると、

「ほい、お疲れさ〜ん!」

「お疲れ様」

私が手にしたボトルと、トンと軽く打ち合わせる。

「でぇ、上手く行ってるん?」

「それなりに上手く行きそうかしら。…あ、ユリカにも手伝って貰う事になると思うけれど、良いかしら?」

「もちもち。どぉ〜んと任せなさい!」

ユリカは笑みを浮かべながら、拳でドンと胸を叩いた。そのはずみで、見事なサイズの胸がボヨンと揺れる。

…と言っても、見事なサイズなのは胸だけじゃなく、お腹やお尻もそうなんだけど…。

はっきり言うと、ユリカはポッチャリ(それもダブルプラスぐらい)だ。

種族的な事もあるだろうけれど、ボンキュッボンじゃなく、ボンボンボン。

でも、ぬいぐるみみたいでとても可愛いし、ポワポワの毛とあいまって体の手触りも良好。丸い顔立ちだって愛嬌がある。

彼女は、こっちに来て最初にできた友人であり、クラスメートでもあり、一番の仲良しだ。

快活で人懐っこいこのパンダっ娘は、しかしその見た目に反して空手部所属の有段者だったりする。

実は彼女、中学時代は地元にある道場で何度も大会に出て、好成績を残しているツワモノらしい。

…ま、本人は自己紹介する時も言わなかったし、これは私が自分で調べた事なんだけれどね…。

ココアをグビグビやりながら、リビングのテーブルへと歩いて行ったユリカは、

「あ、そうだ」

と、思い出したように口を開く。

「例のシェパードの情報、また聞いてきたよぉ。もうミサトが調べ終わったヤツかもしれないけど」

「あらありがと。聞かせてくれる」

「うん。えぇっとねぇ…、出所は二年の先輩の…」

テーブルの横に腰をおろしたユリカに、私は向かい側に座って、新しい情報を聞かせて貰った。

彼女には、私がやっている事を話して、協力して貰っている。

…というのも、深夜まで資料と格闘して、机に広げた資料に突っ伏して寝てしまった私を、ユリカが起こそうとしてくれた

際に、調べ物の中身を見られてしまったのよね…。

私が「違う意味」で気になる男の子の事を調べていると思い込んで、やたらと挙動不審になって、

「みっ、見てないよぉ!?アタシ何にも見てないよぉ!?」

と繰り返すユリカの誤解を解くためには、事情を話さざるをえなかった訳で…。

…まったく…。本当にそんなんじゃないんだから…。



あれは、傘を借りた翌日の事。私は昇降口で、彼が出てくるのを待った。

たぶん、顔を覚えていなかったんだろうと思う。

自分を見つめている私に気付き、立ち止まった彼は、胡乱げに目を細めていた。

彼に歩み寄り、私は外交用スマイルを浮かべて傘を差し出した。

「ありがとう。昨日は助かったわ」

傘を見てようやく思い出したらしい。彼はちょっとだけ目を大きくしてから、無言で傘を受け取った。

そして一言も言わずに私の脇をすり抜ける。

「あ、待って!何かお礼を…」

オシタリ君は足を止め、僅かに首を巡らせた。

「いらねぇ…。それより、あんまりオレに関わるな。変な目で見られちまうぜ?」

それだけ言い残すと、オシタリ君は傘と鞄を片手に持ち、空いた片手をポケットに突っ込み、歩き去って行った。

私はまた、その場に立ちつくしたまま、彼の姿が見えなくなるまで見送った…。



「も〜っしも〜し!」

顔を俯け、メモを取りながら回想に耽っていた私は、身を乗り出したユリカの顔があまりにも近くて、思わず仰け反った。

「な、なによユリカ?」

「なによ?はアタシのセリフだよぉ。どしたん?ボーっとしちゃってさぁ?」

「え?あ、うん…。何でもないの…」

ユリカは「なんでもないんなら別に良いけどぉ…」と呟くと、苦笑いを浮かべた。

「ねね?ところで、そろそろ食堂行っとかない?アタシもぉお腹減っちゃってぇ…」

見た目通りに食欲旺盛なユリカは、ポッコリしたお腹を撫で回しながら、ちょっと切なそうに言う。

時計を見ると、まだ午後六時ちょっと前。早いけれど、まぁ良いか…。

「ちょっと早くない?でもまぁ、切りも良いところだし、行きましょうか?」

苦笑を返した私に、ユリカは「えへへぇ〜!」と、笑みを深くしながら頭を掻いて見せた。



奇妙な感覚を自覚したのは、先週末の事だった。

ふざけあい、声を上げて笑いながら帰ってゆく生徒達の後ろ姿を、屈み込み、靴紐を結んでいたオシタリ君は、短い間だけ

れど、手を止めて見つめていた。

彼の横顔にほんの一瞬だけ浮かんだ表情に、私は胸が苦しくなった。

刹那、目にしただけだったけれど…、あの寂しげな表情を、私は今でも鮮明に覚えている…。

彼は、変な目で見られるから、自分に関わるなと言った。

でも本当は…、彼だって寂しいはず…。

その一瞬を切り取った写真のように、瞼の裏に焼きついて離れないあの横顔が、私にそう訴える…。

それでも他人との関わりを拒むのは、相手への気遣いからなのだと、私は確信していた。

憎まれ、疎まれるように仕向け、距離を置く…。

迫害を受け、孤独だった頃の彼が身に付けた、あまりにも哀しく厳しい世渡りの仕方…。

手を差し伸べてあげたい。そう思った。

こんな同情心が、恵まれている私の思い上がりに過ぎない事は、良く解っているけれど…。

つっけんどんに私に傘を押し付けた時の彼の仏頂面は、今では何故か、あの寂しげな横顔に置き換わって思い出される。

…本当に「傘」を差し出されるべきは、きっと彼の方だ…。



「へぇ…。不良だって聞いてたけど、ちょっと違うのね?」

「そうみたいよ。本当は優しい人みたい」

翌日の昼休み。私は学食で買って来た昼食を教室で食べながら、クラスメート達と談笑していた。

私は彼の事を調べて知った、彼がかつておこなったいくつかの善行を、クラスメートを中心にそれとなくばらまき始めた。

これはユリカも、約束どおりに快く手伝ってくれた。

いつもは一緒にお昼を食べているけれど、今日は別行動。

ジャイアントパンダは今も、私が加わっているのとは別の輪に混じって、情報を流してくれている。

彼女は彼女で、部活の友人や、私とは違う顔見知り等を当たってくれるそう。

噂の力を舐めてはいけない。

特に、交友関係を深めようと、共通の話題に耳を澄ませている高一の女子には、学校内の特定の誰かの噂というものは、あっ

という間に浸透して行くものなのよ。

この短期間で彼の悪い噂が広まったのも、こういった事情があるからなのよね…。

思えば、中一の時にアブクマ君の悪い噂が広まったのも、この法則に当てはまったからね、きっと…。

私一人が発信している事を悟られないよう、あっちのグループ、こっちの集まり、といった具合に混ざり込み、あくまでも

それとなくオシタリ君の話題に誘導しては、彼にプラスイメージをもたらす噂を流す。

迷子の子供の手を引いて、交番の前に連れて行った。(交番の前に置いて行くのが実に彼らしい)

電車で老人に席を譲った。(これは星陵の他の生徒も見ていた)

お手製張り紙で捜索願が出ていた迷子の子猫を、飼い主の所へ連れて行った。(彼、意外にも猫好きらしいのよね)

小さな、数少ない善行でも、彼のイメージアップの効果は絶大だ。

例えば、ちょっと考えてみて欲しいんだけれど…、道に落ちていた財布を、ある生徒が交番に届けたとする。

その生徒が品行方正な優等生だった場合と、札付きのワルだった場合、インパクトが大きいのはどちらかしら?

意外性というのは、噂の広がりに拍車をかける重要な要素。

今回のそれは、幸か不幸か申し分ない意外性を兼ねているのよね。

本来なら客観的に物事を観察すべきところであって、こうやって意図的に噂をばらまくのは主義に反するけれど、今回はまぁ、

仕方ないわよね…。

アブクマ君もイヌイ君も、オシタリ君は悪い人ではないと感じていた。

今では私も同感だし、イヌイ君をカツアゲの被害から救ってくれた事からも、今の彼が決して、噂で言われているようなた

だの不良では無い事が判る。

無言で傘を押し付けた、彼が見せたあの不器用な優しさは、きっと、本当の彼の一面であるはずだから…。



「ミサトぉ〜、アブクマ君が用事あるってさぁ〜」

彼と先生の説得が成功した翌日、その昼休みの事だった。

教室の後ろのドアの所でユリカが声を張り上げ、私は首を巡らせる。

大きなユリカを軽く上回る、高校生離れした巨体の大熊の姿が、彼女の向こうに見えた。

ひったくり退治の武勇伝ですっかり有名人になってしまったアブクマ君は、ドアの傍でたむろっていた女子達が向ける好奇

の視線は無視して、…というよりも、たぶん気付きもせずに、私に向かって手を上げて見せた。

廊下に出た私は、とりあえずは彼に労いの言葉をかけた。

「説得ご苦労様。これで一安心ね」

「だな。色々と頑張ってくれて、ありがとよ」

オシタリ君が担任の先生と理事長を保証人として、特例制度の適用申請をおこなった事は、授業中に届いたイヌイ君からの

メールで知った。

…確か一番前の席なのに、よくもまぁ先生の目を盗んでメールなんて送れるわね…。

本当にアブクマ君の言うとおり、見た目によらず肝が太いわ彼…。

「それで、どうしたの?」

「おう。オシタリが、お前に会いてぇってよ」

…え?

アブクマ君はニカッと、丈夫そうな歯を見せて笑った。

「一言礼が言いてぇんだと。二次保証してくれた事なんかをな」

「私は、貴方達ほど役に立っていないのに…」

「でもねぇさ。あいつにゃ内緒にしてるけどよ、お前の情報が無けりゃあ俺達もたぶん動かなかったしな。実際に地元まで行っ

てんだろ?シンジョウは影の、そして一番の功労者じゃねぇか」

「でも…」

アブクマ君はニィ〜っと笑みを深くした。

「察してやってくれ、感謝してんだよあいつ。あのオシタリが、凄ぇ言い辛そうに「会わせろよ…」って言って来たんだ」

…あのシェパードが?ちょっと想像し辛いけれど、見たかったかも…。

「今、あいつ屋上で待ってるからよ、会いに行ってやってくんねぇかなぁ?」

「え!?今待ってるの!?」

裏方に徹しようと思っていたのに…。うそでしょ?まさかあっちからアプローチしてくるなんて…。

「シンジョウ?」

「えっ!?な、何っ!?」

声が微かに上ずった。アブクマ君は眉根を寄せて目を細め、私の顔を覗き込む。…ちょっと!顔近いわよ顔っ!

「顔赤いぞ?」

「そ、そんな事無いわよ!」

「風邪でも引いたのか?無理すんなよ、なんなら顔合わせはまた今度にするか?」

「い、いいえ、行くわ!」

心配そうに言うアブクマ君に慌てて答えた私は、その脇を通り抜けて、足早に屋上へと向かった。



ドアを開けると強い風が吹き込み、私は髪を押さえて目を細めた。

屋上の手すりの手前。濃い青色の日本海を背景に、彼が立っていた。

鋭い顔つきに切れ長の目。背は平均より少し高く、引き締まった体付きのシェパード。

 前をはだけた学ランの下には、群青色のシャツを着ている。それが、やけに目に鮮やかに映った。

…ずっと観察してきたけれど、まともに向き合って会話するのは、初めてだったわね…。

表情を押し殺したようなその顔に、ほんの一瞬だけ、微かな驚きの色が浮かんだ事に、私は気が付いた。

「…あんたが…「シンジョウ」だったのか…」

オシタリ君が低い声で呟く。どうやら、私の事を覚えていたらしい。

私が頷くと、彼は首を横に向けて視線を逸らし、ポリッと頬を掻いた。

「迷惑だろうとは…思ったけどよ…、一言、礼言っときたくてな…。オレと話してるトコを見られて、妙な噂なんか立てられ

てもかなわねぇから…、済まねえが、わざわざ来て貰った…」

彼はぼそぼそとそう言うと、居心地悪そうにポケットに両手を突っ込んだ。

「…その…、…ありがとよ…」

視線を逸らしたままボソっと呟くだけの、不器用な、でも実に彼のイメージ通りのお礼だった。

恥ずかしがっているんだろう。それっきり黙り込み、視線を逸らしたまま居心地悪そうにしている彼に、私は微笑んだ。

「傘のお返しよ。気にしないで」

オシタリ君は横を向いたまま、ちらりと私に視線を向けた。

「おかげで私の大切なカメラ、壊れないで済んだのよ。感謝してるわ」

オシタリ君は、口の端を微かに吊り上げて、片方の眉を上げて笑みを作った。

「…酔狂なヤツだな、あんた…」

実に彼らしい笑みを浮かべて呟いたシェパードに、私は笑みを深くした。



…後で追跡調査をおこなってから気付いた事だけれど…、追加で流した噂は、私の予想を遙かに上回るスピードで浸透して

いったようだ。

どうやら一週間も経たずに、ほぼ学校全体の女子に知れ渡っていたらしい。

まるで個にして全、情報を共有する集合生物か群体みたい。

女子高生とは、まことに恐るべき生物である。…って、私もその一人だったわね…。

そんな風に、噂が計算外の速度で浸透していった事もあって、長い時間をかけて少しずつ変わってゆけば良いと思った彼の

評価は、短期間で劇的に変化していった。

結構顔が良い事も手伝ったんだろう。

鋭い顔つきにちょいワル風味がウケたのか、オシタリ君は女子の間でも好意的な目で見られる男子の一人になった。

気が合うのか、よくアブクマ君とつるんで歩いているし、ルームメイトのウツノミヤ君とも、ガミガミ言い合いながらも上

手く行っているようだ。

少しずつだけれど、他の生徒とも話をするようになってきていると、イヌイ君から伝え聞いている。

とりあえずは、一件落着かしら?…にしても…。

「おじちゃ〜ん!ネギミソチャーシューメン大盛り追加、お願いしまぁ〜っす!」

「あいよぉっ!」

お食事処「はんにばる」で、私の前の席に座るユリカは、また、ラーメンのおかわりをオーダーした。

「いやぁ〜!美味いわねぇここ!通っちゃうわねコレ!」

「ゆ、ユリカ…?その辺にしておいた方が…」

「ん?あぁ、ゴメン!二杯目分からは自分で払うから、心配しないでよぉ」

ジャイアントパンダはニコニコしながらそう言うと、ラーメンのスープをズゾォ〜っと啜り込んだ。

「いえ、払うわよ。そっちは大丈夫。…心配してるのはお金の事じゃなくて…」

私はざるそばのつゆをかき混ぜながら、「ふぅ…」と、ため息をつく。

協力してくれたお礼にと、私は先日教えて貰ったこの食堂で、ユリカに食事を奢る事にした。

…んだけど、今頼んだので三杯目よ?ただでさえこの食堂のメニューは、どれもかなり量が多めなのに…、お腹大丈夫なの

ユリカ?あと体重とか…。

「そういえば、オシタリ君さぁ」

「ん?」

私の心配をよそに、ユリカは面白がっているような笑みを浮かべて口を開いた。

「携帯の待ち受けのさ、ミサトんちのワンちゃんと似てない?模様とかさぁ、そっくり」

…なるほどね。放っておけなかった理由が良く解ったわ…。

確かに…、我家の番犬、ロバートとまったく同じ模様をしているわね…、彼…。