第十一話 「痛い目を見る」
「ウシオ君を除けば、それぞれともあまり親しくはないし、それほど詳しくも知らない。そう…、一般生徒が知っている程度
だな。あまり有意義な話はできないと思うぞ?」
美人の雪豹はそう言うと、ストローを咥えてアイスティーを啜り始めた。
あまり乗り気でなさそうなヒョウノ先輩の言葉は、いつも通りに簡潔だった。
今日の夕食、私とユリカとヒョウノ先輩の三人は、商店街のファーストフード店に陣取って、テーブルを囲んでいる。
部活後、一緒に下校しながら空手について色々と教えて貰っていたんだけれど、一度にあまり詰め込んでも覚え切れないだ
ろうという理由から、今日の所はひとまず終了。
それで、話が済んだ今、今度は名物生徒について訊ねてみたところ。
「いえ、良いんです。少し興味があっただけなので」
あまり詳しく知らないという事は、先に話をしてくれていたユリカから聞いている。
それでも、私やユリカ、他の一年生の友人達より、三年生のヒョウノ先輩の方が詳しい事は明らか。少しでも話が聞けるの
は嬉しい。
「それに、私も一般生徒と同じ程度…いえ、新聞部員としてはお恥ずかしながら、普通よりも知識に乏しいと思いますから…」
「皆が知っているありきたりの事で良ければ話すが…、その程度で良いのかな?」
微笑みながら「是非お願いします」と応じた私は、まずは特に情報が乏しい名物生徒数名について訊ねてみる事にした。
ウシオ団長やミナカミ先輩の事は、わざわざヒョウノ先輩に聞く必要もないわ。本人達に直接聞けるもの。
まず一人目は…、いつもオドオドしていてリーダーシップの欠片も見えないのに、どういう訳か生徒会を円滑に動かしてい
る、羊獣人の椎木巣貫(しぎすたかし)生徒会長。
この人に至っては何で生徒会長をやっているのか、何で当選したのか、そもそも自薦だったのか他薦だったのかすら知らな
いのよね…。
「他薦だったらしいよぉ」
先輩が口を開こうとしたそのタイミングで、ココアをジュゴーっと啜っていたユリカがそう教えてくれた。
「ユリカの言うとおり、わたしもそう聞いている。生徒会役員はクラスから最低一人選出になるが、どうやら彼は人身御供…
文字通りのスケープゴートにされたらしいな」
「ひどい話だねぇ〜。ありがちだけど」
ヒョウノ先輩は微苦笑を浮かべ、ユリカは気の毒そうに眉尻を下げる。
「ともあれ、就任以来滞りなく生徒会を動かし、会長職をやりおおせている訳だからな。頼りなくは見えても、彼は決して無
能ではないよ」
ヒョウノ先輩の評価はそれほど悪くない。
生徒会長については、これまで小耳に挟んでいた評判も悪くないし、一見頼りないだけで、実は敏腕会長なのかも?
なにはともあれ、メモメモ、と…。
さて二人目は…、卓球部の名選手、今年初の県大会出場を決めた二年生、明るい茶色と泥棒ヒゲのような口周りの黒が目を
引く小柄な垂れ耳犬獣人、多門保仁(たもんやすひと)先輩。
アブクマ君同様、今年の定期戦をきっかけに名物生徒入りして、今年は練習試合、公式戦通して無敗の選手だ。
「去年も先輩が強かった為に選手層が厚く、大会には出られなかったが、実際のところは他校の三年生よりずっと強いと評判
だった選手だな。星陵でなければ一年の時から公式試合の枠に食い込んでいただろう」
「口周りがさぁ、大判焼きとか食べた後に餡子くっつけてる風になってて、ちょっと可愛いよねぇ?あの先輩」
見た目についてのユリカの意見はさらりと流し、ヒョウノ先輩が続ける。
「中学時代から活躍していた彼は、ただでさえレギュラークラスの実力者だったが…、実は昨年、先輩方の意向により、練習
試合にも殆ど出されなかった」
「え?どうしてですか?」
少し身を乗り出して口を挟んだ私に、ヒョウノ先輩は説明を続けてくれた。
「彼の上手さは中学時代からそれなりに知られた物になっていたが、実際の所、ずば抜けて強いという訳でもなかった。学年
が進むにつれて勝てなくなって行ったと聞く。というのも、…わたしも専門ではないので詳しくないが、スタイルがあまり合っ
ていなかったかららしい」
「スタイル…ですか…」
「そう。そこに気付いた我が校の顧問と昨年の三年生は、もっと上達するはずだと確信し、持ち味を活かす為に、戦略からス
タイルまで、大幅な見直しをさせたそうだ。これに、実に一年かかった訳だが…」
ヒョウノ先輩は一度言葉を切ると、何やら考え込んで「ん〜…」と声を漏らしているユリカに目を向ける。
「…そう言えば…、ユリカのスランプの時は、そこまではかからなかったな?」
「だねぇ。まぁほら、あん時まだ小学生だったし、適応能力っての?あちこち直してもすぐ体に馴染んだもんねぇ」
「上級者になればなるほど…、その型に慣れていれば慣れているほど…、修正にも時間がかかる物さ」
二人の会話をきょとんとして聞いていた私は、ルームメイトに訊ねてみる。
「ユリカ、スランプになった事があったの?」
「むか〜しね、小学校の頃」
ちょっと興味あるなぁ…。
今でこそ強いけれど、ユリカもヒョウノ先輩も、初めから実力者だった訳じゃないものね。
その内、二人の昔の話も聞かせて貰いたいなぁ…。
「さて、タモン君の事に話を戻すが…」
ヒョウノ先輩が話を再開したので、私とユリカは雪豹の顔に注目する。
「結果として、一年間温められた事は彼にとって吉と出た。周りからは、高校に入ってから弱くなっただの、中学時代が最盛
期だっただの、好き勝手に言われていたものだが…。今年、彼と対戦した選手は皆驚いただろう。試合に出ないまま、彼は自
分をじっくりと練り上げていたのだから」
ヒョウノ先輩は、少し愉快そうに口元を緩めた。
「他校に殆ど知られないまま、手塩に掛けて育てられた彼は、一年間の研鑽でその力を十分に高め、難なく県大会出場を決め
た。まぁ、秘密兵器にされたおかげで周囲に中学時代までのデータしか知られていなかった事も、今回は強力なアドバンテー
ジになった事だろう。問題は、情報が知れ渡ってからも勝ち続けられるかどうか…。彼が本物ならば難しくはないが」
雪豹はそう言って話を締め括ると、音も無くアイスティーを啜って空にした。
なるほどなるほど…。あまり知らないと言っていた割に、ヒョウノ先輩は結構詳しい。これは助かるわ。
それじゃあ三人目は…、暗褐色の重戦車、間もなく全国出場がかかった大会に挑む三年生、河馬獣人の蒲谷重太郎(かばや
じゅうたろう)相撲部副主将。
春の身体測定ではアブクマ君に抜かれたものの、昨年までの校内の最重量記録保持者でもある。
「カバヤ君か…」
ヒョウノ先輩はぽつりと言ったきり、少しの間黙り込んだ。
「悪いが、彼についてもあまり詳しくは無いな…」
口を開いたヒョウノ先輩は、淡々とした口調で続ける。
「こう言うのもなんだが…、彼は目覚ましい成績を残している訳でもない。新聞部員としてのキミが興味をそそられ、取材に
行くような人物ではないよ。ただ、デカくて珍しいというだけの理由でなら別だが」
私とユリカは思わず顔を見合わせていた。
…あれ?何だかちょっと、先輩からピリピリした感じがする…?
ヒョウノ先輩は静かに腰を上げると、空になったトレイを手に取る。
「済まないが、わたしはそろそろ失礼する。他の生徒の話については…、そうだな、今度道場に来る時までに、少し友人達か
ら聞いておく事にするよ」
「あ、はい…。有り難う御座います」
私がお礼を言うと、「では、また」と言い残し、先輩はさっさとトレイを下げ、店を出て行った。
…表情には特に変化が無かったけれど…、何となく不機嫌そう?
戸惑っているのはユリカも同様らしく、不思議そうに首を捻っていた。
「変なの…、お姉ちゃんがああいう言い方すんの、初めて聞いた…。成績残してないとか…、いつだって、良い結果出せなかっ
た部員を叱ったりもしないし、一生懸命さえやれば結果に拘んないのに…」
「もしかして、仲が悪いのかしら?」
「かも…。露骨に嫌がってた感じ」
そう、ユリカの言うとおりだ。
ヒョウノ先輩の態度には、口にしたくない、話題にしたくない、というような…、拒否の感触があった。
「…もしかして、あまり良いひとじゃないのかしら…?それとも、相撲部と空手部って以前何かあったの?険悪な関係になる
ような事…」
「うんにゃ、聞いた事もないよぉ?」
そう応じたパンダっ娘は、しかしすぐさま耳を倒して、自信が無さそうに付け加えた。
「一年のあたしが知らないだけかもだけど…。相撲部の稽古場、ウチらの道場と離れてるから顔も合わせないし…、先輩方の
相撲部員への態度とか、見たこと無いもん」
私とユリカは互いの目をちょっと見つめ、視線をテーブルに落とす。
…たぶん、ユリカも私と同じ事を考えてる…。
つまり、新聞部といくつかの部の不仲同様、空手部と相撲部の間にも何か険悪になるような事があったんじゃないかという
事を…。
私は新庄美里。星陵高校一年生、眼鏡が手放せない人間女子。
新聞部と不仲の各部との関係改善について考え始めた、普通のとはちょっと違う意味で悩める女子高生…。
「空手部と相撲部の確執?」
昼休みの校舎裏に、潜められた声が染み渡る。
私が頷くと、イチゴジャム入りのコッペパンを囓っていた伊達眼鏡の狐は、さも面倒臭そうに顔を顰めた。
壁を背にしたウツノミヤ君と正面に立つ私が、向き合いながらそれぞれ昼食のパンを食べている恰好だ。
「そういう話題こそ、新聞部たる君が詳しい領分じゃないのか?」
「詳しくないからこうして訊ねているのよ」
そう応じながらも、私は常に周囲へ目を配り、誰かに聞かれていないか注意している。
昼休みだから校外でくつろいでいる生徒は私達だけじゃない。そこらにちらほらと生徒の姿が見える。
ぱっと見て、話の内容を聞かれる程の距離には誰も入っていないけれど、上級生の犬獣人が一人居るから、声は自然と小さ
くなった。
獣人達の五感は、種によって若干異なるものの、基本、私達人間を上回っていると考えて良い。
私の幼馴染である犬獣人の三兄弟も、物凄く鼻が良いし聴覚も鋭い。自分の感覚を物差しにしてもイマイチ信頼性が無いの
よね…。
まぁ、獣人であるウツノミヤ君の声と同じボリュームで喋れば、この場ではまず問題無いと思うけれど…。
「空手部はともかく、何だってまた今度は相撲部の事を?キミの受け持ちじゃあないはずだが」
また面倒な事を頼むつもりじゃあないだろうな?…とでも言いたげな顔で、ウツノミヤ君は牛乳を啜る。
「受け持ちと関わって来る事かもしれないから知りたいのよ」
「そもそも、空手部絡みの事なんだろう?ササハラに聞けば良いじゃないか?」
「ユリカも知らないって」
「ササハラを通して先輩にでも…」
「それはユリカ自身も言っていたけれど、止めておいたわ」
「何故だ?」
胡乱げな表情の狐に、私は肩を竦める。
「ある先輩の態度から、もしかしたら不仲なのかもしれないと感じたんだけれど…。ユリカとも親しい先輩だから、そんな露
骨な調べ方をしたら、私達が嗅ぎ回っている事がすぐにばれるわ」
「ばれてまずいことなのか?…ああ、その先輩がはっきりと口にした訳じゃ無いんだな?痛くもない腹を探られて不快になる
かも、と?」
性格はアレだけれど頭の回転はすこぶる良い腹黒狐は、説明もしていないのに事情の一部を言い当てた。
何となく癪だったけれど、当たっているから首肯しておく。
「悪いがボクは知らないな。これまでに小耳に挟んだ事もない、全くの初耳だ」
「そう…」
目を伏せて、次は誰を当たってみようかと考え始めた私に、ウツノミヤ君は少し間をあけてから話しかけてきた。
「そうやって、色々な事に首を突っ込んでいると…」
顔を上げた私に、ジャムパンの空き袋をクシャッと握り潰し、牛乳パックを潰しながら、ウツノミヤ君は続ける。
「その内、痛い目を見るかもしれないぞ?」
「それは「ちょろちょろ嗅ぎ回るな」って、釘を刺しているのかしら?」
「一応忠告のつもりだけれどな。…ま、どう取っても結構。キミの自由だ」
それだけ言うと、ウツノミヤ君は壁から背を離して横を向き、「じゃ」と片手を上げて挨拶を残して、さっさと私から離れ
て行った。
「…痛い目、ねぇ…」
呟いた私は、しかし彼の言葉を、それほど真面目に受け止めてはいなかった。
その日の放課後、私は愛用のカメラの他に、自分の物ではないカメラを手に、学校敷地内の部室が並ぶ辺りを歩いていた。
次号のメイン記事になる取材の予定で出たのに、部室にカメラを忘れていった先輩が居るのよ…。
今日は文章構成作業をするつもりでいた私は、たまたま部室に残っていたおかげで、届け物を言いつかった訳…。
立ち並ぶ女子運動部の部室裏側を右手に見ながら、私は歩調を早める。
もうしばらくすると何処の部活も練習を始める…。少し急がないといけな…、
「やだぁー!ミホ、また胸大きくなったんじゃない!?」
…ぴくっ…。
「えー?そんな事ないってばー」
「いやいや明らかに増量してるよこれ!」
…この声は…?
私は首を巡らせ、開けっ放しになっている窓に視線を止めた。
ここは確か…、ソフトボール部の部室ね…。
私はそっと壁により、頭より少し高い位置に縁がある窓を見上げ、耳をそばだてた。
「何でミホばっか〜?」
「あれじゃない?彼氏に揉まれてんじゃないのぉ〜?」
「ちょ、ちょっとやめてよ!そんな事してないってば!」
「くぅ〜!羨ましい!」
私も羨ましい。
「揉ませてみそ?ほれほれ」
「やだ止めてって…キャハハハハハっ!」
「むー!けしからん!けしからんサイズ!」
けしからんですか。
けしからんサイズのソレは、ユリカのアレよりけしからんですか?
無意識に自分の胸に手を当てていた私は、爪先立ちになって耳を傾けた。
「…あ…」
「ん?」
「窓のとこ!誰か居る!」
「やだうそ!?」
「きゃぁあああああああああああああああああああああああっ!」
響き渡った甲高い悲鳴で、私は弾かれたように窓から離れた。
しまった!ついつい爪先立ちになって聞き入っていたせいで、頭が窓から見えちゃってた!?
「覗きよ!」
「痴漢よ!」
「変態よ!」
窓の向こうで響き渡る怒号と悲鳴に追われ、私は反射的に駆け出す。
が、息を切らしながらしばらく走った後、私は気が付いた。
…確かに覗き未遂かもしれないけれど、別に痴漢行為を働こうと思って窓に近付いた訳じゃないし、素直に謝った方が…。
「どっちに行った!?」
「わかんない!でもそう遠くまで行ってないはず!」
「見つけ出してとっちめてやる!」
「タコ殴りよ!」
「百叩きよ!」
「今宵のバットは血に飢えてるわよ!」
だめだ!今出て行ったらタコ殴りで百叩きで血を見るはめになるかも!
同じ女子とはいえ、私は今カメラを持っている。もしも見つかったら、言い逃れするどころか、どんな疑いがかけられるか
判った物じゃないわ!
昼休みにウツノミヤ君が「痛い目を見るかもしれないぞ」と言っていたあの声が、私の耳元でリピートしていたのは言うま
でもない。
部室裏は直線。真っ直ぐ走って突っ切る前に、裏手に回ったソフトボール部に見つかってしまう!…そうだ、脇道…!脇道
に入らないと!
やっとその事に思い至った私は、素早く視線を走らせて脱出路を探す。
既に男子運動部の部室の並びに入っている。滅多に来ないところだから道に詳しくはないけれど、作りは女子運動部の部室
並びと変わらなかったはず…。
行き止まりに成っている通路はない。そう判断した私は、覚悟を決めて手近な所にあった脇道…、つまり部室と部室の間に
ある、狭い通り道へ飛び込んだ。が…。
「きゃっ!」
よく確認せずに角を曲がった私は、ずっしり重くてそのくせ弾力のある何かにぶつかり、ボヨンと跳ね返される形で後ろに
たたらを踏む。
…顔打っちゃった…!
幸い眼鏡は飛んだりしなかったけれど、少し上向きにずれて額に乗った。
極端に悪い私の目は、眼鏡の恩恵を受けられなくなり、視界がぼんやりと滲んだ不明瞭な物に変わっている。
壁?いや、柔らかかったから壁じゃないわね。独特な感触だったけれど、マット?何かしら一体?
それは細い通路をほぼ塞ぐ程の幅があって、外側が黒っぽくて中央の大部分がピンクだった。
運が良いのか悪いのか…、もしかしたらこれの陰に隠れて、追っ手をやり過ごせるかも?
乗り越えるか、横の狭い隙間から後ろに回るかして、身を隠すか向こうへ逃げるかしよう…。
そう決めながらずれた眼鏡のフレームを摘んで引き下ろし、明瞭な視界を取り戻した私は、眼鏡に指をかけたその姿勢で硬
直した。
それは…、何処かの部の備品だとばかり思っていた、通路を塞ぐその物体が…、ひとだったから…。
とんでもなく横幅がある暗褐色の体に、血色の良いピンク色の腹部。
幅広のマズルの上には、瞼がかかって半眼になった、大きな体と頭部に比してずいぶん小さい目。
手足は太く、全体のボリュームからすれば短く、丸々とした胴体との対比から、手足の生えたボールを連想させた。
そのひとは、この国では非常に珍しい河馬獣人だった。
名物生徒、三年の蒲谷重太郎先輩。相撲部の副主将さん。
アブクマ君、ウシオ団長と並ぶこの学校の三大巨漢の一人。…昨年度までは語呂が若干悪い「二大巨漢」だった訳ね…。
身長はアブクマ君やウシオ副寮監より少し低い。アブクマ君を縦に少し縮めて、胴体を中心に横へ伸ばしたような体型…、
相撲用語で言えばあんこ型だ。
アブクマ君を見慣れている私でもカチンコチンに硬直してしまったのは、ボリュームに圧倒された訳じゃなく…、その…、
恰好が…恰好だったから…。
…カバヤ先輩は…半裸だった…。
裸の上半身には黒いジャージの上着を、袖を通さず肩にかけて、下はマワシと、右膝の黒いサポーターだけ…。
つまり私は先輩の、さらけ出されていたピンク色の腹部…、す…すはっ…!素肌にぶつかっ…!
顔を真っ赤にして硬直していた私の耳に、
「何処へ行ったのかしら覗き魔!」
「部室の間も見て!隠れているかも!」
「絶対に逃がしちゃ駄目!」
「捕まえて八つ裂きよ!」
「痴漢、かっこわるい!」
と、かなり殺気だった声が届いて、自分が危機的状況にある事を思い出させた。
声は部室裏の直線から聞こえた。もう引き返せない!
あわあわと左右を見回した私は、逃げ場がない事を絶望的な気分で悟った。
一方、私の前に立ちはだかっている半裸の巨漢は、ハケかヘラを思わせる形状の小さな耳をパタタッと動かし、視線を上の
方へ彷徨わせながら、聞こえてくる怒声に注意を払っている。
やがて、その深い思慮に沈んでいるような半眼は、私が手にしている先輩のカメラに向けられ、次いで何か問いたげに顔へ
と向けられた。
違います!痴漢じゃないです!少なくともそんなつもりじゃなかったんです!
声にこそ出せなかったものの、ブンブンと首を横に振ると、大きな河馬は「んむ…」と低く呻いて頷き、やおらその太い腕
を私へ伸ばして来た。
身を引く間もなく野球グローブのような大きな手で腕を掴まれた私は、そのままグイッと引っ張られる。
体を横向きにした河馬は、横歩きで大きく一歩踏み出しつつ、引っ張った私を後ろに押しやり、位置を入れ替えた。
手を離されて前のめりによろめき、小さく「きゃっ!」と漏らした私は、河馬を振り返ってその顔を見上げる。
横向きのまま首を捻って私を見下ろす巨漢は、口元に太い人差し指を立てた手を当てて見せると、向こう側を向いて一歩踏
み出し、通路の口を塞いだ。
いよいよ迫っていた複数の足音が角に差し掛かったその瞬間、驚きで高く跳ねた「あっ!」という声が、河馬の巨体の向こ
う側で上がった。
河馬の巨体が壁になっているせいで向こう側は全然見えないけれど、どうやらソフト部の面々がすぐそこに居るらしい。
走ってきたせいで上がっていた息遣いと、息を飲む気配が伝わってくる。
もっとも、息が上がっているのは私も同じ…。走ってきたのと、緊張しているせいで…。
腕を掴まれた際には、てっきりそのままソフトボール部に突き出される物だとばかり思ったけれど、どうやらこの巨漢の考
えは違うらしい。
心臓をバクバクいわせながら、私は息を殺して、巨体の向こうの気配を窺う。
覗き込もうとしたタイミングで通路の奥から踏み出して来た河馬の巨体を目にしたソフトボール部員達の、驚きから生じた
沈黙は、やがて発されたおずおずとした響きの声で破られた。
「あ、あの…。カバヤ先輩?こっちに誰か…、怪しいヤツが走って来ませんでしたか?」
「いや、見とらんな」
聞き取り辛いほど低い特徴的な声が、遠慮がちな女子の声に応じる。
「怪しいと言えば、こんな恰好でうろついとる儂も十分怪しいが」
「先輩のは…だってそれ、ユニフォームじゃないですか」
冗談めかした巨漢の言葉に、少し和らいだ女子の声にも微かな笑いが混じる。
「それで、こりゃあ一体何の騒ぎだい?」
河馬の問い掛けに、ソフト部の面々は再び鼻息を荒げ始めたらしく、殺気だった声が複数上がる。
「覗きです!」
「変質者です!」
「どスケベです!」
「女子の敵です!」
「タコ殴りです!」
「八つ裂きです!」
チームワーク抜群のソフトボール部員達が、口々に殺気立った言葉を叫ぶ。
…ん?何この音?…風切り音?…素振り?バット素振りしてるの!?それって撲殺準備!?
私は生唾を飲み込み、自分の喉が緊張で乾いている事を実感した。
私の姿は大きな河馬の巨体ですっぽり隠れているけれど…、例えば、屈んだりして河馬の股の間からこっちを覗かれたりし
たらアウトだ…!そこまではしない事を祈る…!
「ほお…。覗きとは災難だったな。いやいやけしからん。…それで、どんなヤツだったか、姿も見えたかい?」
巨漢の問いが耳に届き、私は身を固くして神経を張り詰める。
逃げてしまったけれど、姿を見られたかどうかが問題よ!
「ええと…、はっきり見てはいないんですけど…」
「たぶん足が二本あって…」
「腕も二本あって…」
「頭はあります!間違いなく!」
…ほっ…。
私が安堵して胸を撫で下ろしていると、
「まぁ、校内で覗きが出ただけで由々しき事態だ。応援団の方にも声をかけておこう。逃げ足が速い事も含めて」
巨漢は私の事など一言も口にせず、「ところで、犯人がまだこの辺りに居るとは思えんが…」と、一同にさりげなく退散を
促すような事を言う。
「そ、そうですね…」
「失礼しました」
口々に声を掛けた女子達の足音が遠ざかると、私の体から力と緊張が抜けて行った。
「んむ…。それで…」
低い呟きを耳にして、私はビシッと姿勢を正す。
のっそりと体の向きを変え、私と向き合った巨漢…カバヤ先輩は、さっきまでの訝しむような半眼じゃなく、興味深そうに
キョロッと丸くした小さな目で、私の顔を見つめて来た。
「覗き魔…というには少々妙に思えて女子連中を誤魔化してはみたが、君、悪気があって覗いたのかね?おまけに盗撮まで?」
「いえ!悪気なんてとんでもない!このカメラを確認して頂ければ証明になりますが、盗撮だってしていません!」
慌てて首を横に振ると、カバヤ先輩は「ふむふむ…」と頷く。
「恐らく誤解だったんだろうが…、女子連中も覗きの被害にあったと思い、ショックでいきりたっとったんだろう。今はまだ
名乗り出ん方が良いだろうな、弁解するにしろ、裸を見られて頭に血が集中した状態では何をされるか解ったもんじゃあない」
そう言ったカバヤ先輩は、幅広の口をカパッと開けて笑った。
「ははは!試合も稽古もこのナリでやる儂らには、実際のところ、彼女らの気持ちまでは良く理解できんのだが」
どう答えて良い物か判らなかった私に、カバヤ先輩は軽く片手を上げてみせた。
「では、儂はそろそろ…。もう稽古が始まっとるんでね」
「あ!」
踵を返しかけた先輩に、私はペコリとお辞儀した。
「す、済みませんでした!助かりました!」
詫びつつお礼を言った私に、先輩は喉の奥まで覗けそうな大口を開け、声を上げて笑った。
「がっはっはっはっ!いやいや、こっちこそ道を塞いでいて悪かった。野郎のむさくるしい裸とぶつかってさぞ気色悪かった
ろう?これでチャラという事にしてくれんかな?」
カバヤ先輩は「では」と言い残すと、のっしのっしと、やけにゆっくりした歩調で歩いて行く。
その広い背中にペコッと一礼した私は、ソフト部が戻って来る前に、そそくさとその場を離れた。
カメラを届けに行くだけなのに、大冒険と長い回り道を強いられた私は、部室に帰り着いた時にはヘトヘトに疲れていた…。
そして、疲れ切ってデスクに向かったものの、記事の纏めをする気にもなれなくて、あのドキドキ体験について思い出す。
今までは遠目に何度か見ただけで、言葉を交わすのは今日が初めてだったけれど、カバヤ先輩はいいひとそうだった。
ソフト部の声と私の様子から、状況を何となく察したらしいのに、説明もできずに首を振って否定していた私を信じて、庇っ
てくれたし…。
だからこそ気になった。ヒョウノ先輩がああまで言って話をしたく無さそうにしていたのは、一体何故なんだろう?って…。
それと、今になって考えてみれば、あの状況でカバヤ先輩が覗き犯人と勘違いされなかったのも不思議だ。
…そうだ。空手部と相撲部の関係についてもだけれど、新聞部と相撲部はどうなのかしら?
新聞に記事はあるから、とりあえず取材拒否はされていない。
けれど、関係が良好なのか、そうでもないのかは、それだけじゃあ判断が…。
先輩方に直接訊いてみてもいいけれど、それでもしも関係が良好でなかったら、妙な事に首を突っ込むつもりかと警戒され
かねない。
ただでさえ、一年生なのに専属取材を一つ任されている上にボート部の取材にも加えられている私を、あまり良く思ってい
ない先輩も居るようだし…。調べられそうな事は自分で調べた方が…。
そうだ!過去の記事を漁ってみよう!文面からある程度推測できるかもしれないし…。
私は本来の作業そっちのけで席を離れ、相撲部についての記事を探し始めた。
だがこの頃には既に、私の不注意から起こった事件は、意図していなかった方向へ飛び火してしまっていた…。
私がカバヤ先輩のおかげで窮地を逃れ、カメラを届けて部室に帰るまでの間に、実は部室の並びを抜けた所で騒ぎが起こっ
ていた。
「そうやって、色々な事に首を突っ込んでいると、その内、痛い目を見るかもしれないぞ?」
そんな、まるで今日のアクシデントを見越していたような、ウツノミヤ君のあの言葉…。
あの通りに痛い目を見たのは、むしろ首を突っ込んだ私本人ではなく、たまたま悪いタイミングと状況でソフトボール部に
見つかって誤解を受けた、その男子生徒の方だった…。