第十三話 「濡れ衣」(後編)

「…そういう経緯で…。窓に近付いたら覗き犯だと勘違いされちゃったのよ…」

ドア前の段に腰を下ろし、かいつまんで事情を説明した私の横で、小山のような大きな熊が「う〜ん…」と唸った。

「話は大体判った。…けどよ、別に逃げなくても良かったんじゃねぇのか?」

と、アブクマ君は不思議そうな顔をしながら言う。

「野郎だったならともかくよぉ、女子だってんなら話は別じゃねぇか?自分が窓の外に居たんだって説明すりゃあ、話はこじ

れねぇで済んだんじゃ…」

「凄い剣幕だったのよ。…いえ、見てはいないから剣幕って言うのもアレだけど…。声がもう殺気立ってて…。それで、怖く

なって逃げちゃったの…」

最後の方は消え入りそうな声でボソボソと言うと、アブクマ君は「なるほどなぁ…」と頷いた。

…いっそ怒ってくれた方が気も楽なのに、大きな熊はそうしなかった…。

皆の前では本当の事を言えなかった卑怯な私を責める事もまた、しようとはしなかった…。

「話は判った。ホントのトコは、極端に言やぁウッチーの意見と似たようなもんだったんだな?あの「窓の鳥」ってヤツ。別

に下心があって覗こうとした訳じゃねぇって意味でもよ」

私のせいで不名誉な、あらぬ疑いをかけられたというのに、事情を知ったアブクマ君は完全にいつも通りで、その反応は至

極落ち着いた物だった。

「…怒らないの…?」

堪らずポツリと訊ねた私に、アブクマ君はキョトンとした顔を向けた。

「怒る?何でだよ?」

「だって、私が逃げたせいで…、黙っていたせいで貴方が疑われて…。覗き呼ばわりだなんて、アブクマ君の誇りがどんなに

傷付いたか…」

「別に気にしちゃいねぇさ。わざと濡れ衣着せられたんならともかく、中身はつまり事故だろ?おまけに相手は知らねぇ誰か

とかじゃねぇんだ。シンジョウじゃあ怒る気にもなれねぇよ」

肩を竦めたアブクマ君は、少し不思議そうに首を傾げた。

「ところでよ。そもそも何だってソフト部の窓が気になったんだ?連中、どんな事話してたんだよ?」

その問いで、私はぐっと言葉に詰まった。

…そう、まだアブクマ君には「何故部室内の話に興味を持ったのか」を話していない…。

これは、私の中では伏せたままにしておきたい事柄だったから…。

「…あの…ね…」

私は俯き、ボソボソとその事を説明した。

…つまり…、私の胸の発育が、同年代と比べてやや芳しくないらしく…、高校に入ってから急に気になり出した事を…。

「…ちょっと前…つまり中学の頃は…そうでもなかったのよ…。皆まだ胸も目立っていなかったし、その中でなら私は平均以

上だと思っていたから…。でも、いつの間にか周りには私より小さい子が居なくなっていて…、それでだんだん…、気になる

ようになって来て…」

この事は、間違ってもアブクマ君やイヌイ君以外の男子にだったら言わなかったと思う。

私がアブクマ君に素直に打ち明けられたのは、彼はこんな話を聞いたところで変な気を起こさないだろうから…。

口にするのも屈辱な、ささやかながらも目を瞑り難いコンプレックスは、しかし以前キスシーンを激写してしまったアブク

マ君に打ち明ける分には、おあいこで納得できた。

「…ふぅん…」

私の説明を聞き終えたアブクマ君は、納得したように鼻を鳴らして頷き、黙り込んだ。

「怒らないの?下らない理由で迷惑をかけられた…、って…」

「怒らねぇよ。下んねぇ理由なんかじゃねぇ」

そう応じたアブクマ君は、言うとおり、確かに怒っている様子ではなかった。

何を思うのか、大きな熊は神妙な顔で空を見上げている。

「…笑わないの…?」

「笑えねぇよ。…そんな風な気持ちは…、全然判んねぇでもねぇしな…」

私がチラリと見遣ると、アブクマ君も横目をこちらに向けて来た。

そして、やおら手を上げると太い指を頬に当て、恥かしげにポリポリと掻きながら、丸い耳をペタンと寝せる。

「…俺だって…その…、胸じゃあねぇけど気にしてるトコあるしよ…。こういうのって、コンプレックスがねぇヤツにゃ判ん

ねぇだろうが、ダチにも言い辛ぇもんな…。まして昨日のシンジョウの状況だったら、逃げちまうのも納得だ…。面識もねぇ

集団に理由を訊かれて、大勢を前に言わせられんのは…、キッツイよな…」

「ごめんなさい…」

「良いって、もう」

また謝った私に応じたアブクマ君は、「それより…」と、表情を少し改める。

「今の話、このまま黙っとけよな?」

「…え?」

きょとんとした私に、アブクマ君は続ける。

「あっちはせっかく勘違いしてくれてんだし、自分が犯人だってわざわざ教えてやる必要もねぇさ。誰も迷惑してねぇんだし」

「誰もって…、アブクマ君自身が迷惑しているじゃない!」

「迷惑の内に入んねぇさ。的外れな事言われても気になんねぇしよ」

軽く肩を竦めたアブクマ君は、私にニカッと笑いかける。

「名乗り出たら、ぜってーに覗きの理由まで聞かれんだろ?言い辛ぇだろが?…つまりよぉ、のこのこ自分から恥かきに行く

事もねぇだろ?」

「恥をかきにって…、そ、それじゃあ貴方の不名誉な噂はどうするのよ!?それこそ耐え難い恥じゃない!?」

もしかしてアブクマ君は、自分が置かれている状況がどんな物か、はっきり認識していないんじゃないだろうか?

そんな事を考えた私が思わず声を大きくすると、「ん〜…、そこなんだけどよ…」と、大きな熊は困っているような顰め面

になった。

「俺ぁ、今回疑われてる事とか、別に恥と思ってねぇんだよなぁ…。気ぃ揉んでくれてるウッチーにゃ悪ぃけど、あんまり気

になんねぇっつぅか…、どうでもいいっつぅか…」

「どうでも良くなんかないでしょ!?覗き魔よ!?痴漢よ!?変質者よ!?婦女の敵の疑いをかけられているのよ!?」

「…さすがに変質者とか婦女の敵とか言われると、ちょっと嫌だけどよ…」

言い募る私に鼻の頭をコリコリ掻きながら応じたアブクマ君は、次いで少し表情を緩める。

「…キイチが信じてくれてんだ。他の連中にどう思われたって、へでもねぇよ」

アブクマ君はニンマリと顔を弛ませ、さも嬉しそうに言った。

「おまけに、シンジョウは俺が犯人じゃねぇって知ってるし、ウッチーやオシタリ、主将もハナっから俺を疑わなかった。俺

にゃそれだけで十分だぜ。ぬははははっ!」

照れ臭そうに頬を掻きながら笑ったアブクマ君は、「だからよ…」と先を続けた。

「だから、シンジョウは黙ってろよ。俺ぁ別に何でもねぇんだ。秘密にしときてぇ事、言いたくねぇ事の一つや二つ、誰にで

もあんだしよ。ましてその…、体のホレ…、サイズとか…、コンプレックスとか…、知られたくねぇもんだしな…」

そう、もぞもぞと身じろぎして恥かしげな苦笑いを浮かべて言うアブクマ君を見ていたら、私は…。

「…シンジョウ?おい、シンジョウ?どうした?」

私を見つめているアブクマ君の顔が、滲んでぼやけた。

…涙が…、零れた…。

嬉しくて、悔しくて、情けなくて、申し訳なくて…。

「ごめん…なさい…」

謝る私の前で、大きな熊が慌てた様子でわたわたと両手を動かしている。

「ど、どうしたんだよ!?お、おい!泣くな!泣くなって!…ああもう!何だよこれ!」

オロオロとしているアブクマ君の前で、私は声を殺して泣いた。

どうにか隠しおおせないかとあれこれ考えていた、自分の矮小さが情けなくて…。

その体と同じように大きなアブクマ君の心に、胸を打たれて…。

その理解が、優しさが、気遣いが、嬉しくて、痛くて…。

情けない…!

友達が、先輩が、恋人が信じてくれているから平気。

そんな言葉が出るほどに強く、誇り高く、懐の深いアブクマ君が、眩しくて羨ましかった。

それに比べ、誰かが濡れ衣を着せられたと知ってもなお、個人的で些細な理由から名乗り出たくないと考えた私の、なんと

小さく弱い事だろう?

アブクマ君と比べると、自分の心根が何とも弱々しく、卑しく感じられて…、情けなくて悔しかった…。

「な、泣くなよシンジョウ…!な!?おいってば…!」

膝を抱えてふさぎ込んだ私の背に、アブクマ君はオロオロしながらも、その大きく分厚く頼もしい手を当てて、おっかなびっ

くりそろそろと撫でてくれた。

抜けるような青い空の下、大きな熊に慰められながら、私は…、数年ぶりに人前で泣いた…。

言おう。

全部正直に、ソフトボール部に打ち明けよう。

私のささやかなプライドが何だって言うの?

自分のコンプレックスが知られる事なんかより、この気の良い友人に濡れ衣を着せたままでいる方がよっぽど辛い。

そもそも、こんな事はあってはいけなかった。

真実を探求するジャーナリストが、自ら偽りの中に身を潜めて、他人を身代わりにして安寧を求めるなんて…。

どうかしていたわ。体裁を取り繕う事を考えて、大事な物をないがしろにしてしまう所だった。

けじめは…、ちゃんとつけなければならない…。

「ごめんなさい…。もう平気…」

震える声でそう言った私に、泣き顔を見ないよう気遣ってくれたのか、空に視線を逃がしていたアブクマ君が「お、おう」

と頷く。

そしてそろっと私の顔を窺うと、少し驚いたように目を大きくした。

「どうかしたの?」

「え?いや…。本当に平気なのか?いつもの顔だ…」

どうやら私は、涙は拭えていないけれど、平素の表情を取り戻したらしい。

キ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜ン…。

「ぬお!?ヤベぇっ!チャイムだ!」

鐘の音が響き、アブクマ君が慌てた声を上げて腕時計を確認する。

話に集中していた私は、今が昼休みの終わり際だったという事をすっかり忘れていた。

眼鏡を外して涙を拭った私に、ガバッと立ち上がったアブクマ君が手を差し伸べる。

「走んぞシンジョウ!」

「え、ええ…!」

大きな手が、おずおずと上げた私の腕を掴み、殆ど吊るすような格好で素早く立ち上がらせてくれた。

そのしっかりとした感触が、力のこもり具合が、掴まれた手首から私に安心を吹き込む。

安心…。そう、立ち上がらせてくれたその手の、力強く頼もしい感触が、私をほっとさせてくれた…。

…ごめんなさい、アブクマ君…。そして有り難う…。

貴方の疑惑は晴れるわ。真犯人が名乗り出る事で。

私…、けじめをつけて来る…!



私が教室に駆け込んだのは、丁度先生が教壇に立ち、皆が起立したタイミングでの事だった。

ギリギリ間に合った私は、何人かのクラスメートの視線を受けながらも、そそくさと自分の席に寄る。

ユリカが何か気になっている様子で視線を向けているのが判ったけれど、説明は後で…。

ユリカには、全部ちゃんと話しておかないとね…。



いつもなら気だるい昼過ぎの授業を、私はまんじりともせずに過ごし、終わりを待った。

そして、ようやくやって来た休み時間、チャイムが鳴るなり机を離れて廊下へ飛び出した私は、三年生の教室へ向かう。

ソフトボール部の部長へ会いに行く。少しでも早くアブクマ君にかけられた疑惑を払う!

三年生の教室が並ぶフロアに辿り着いた時には、既に廊下にはひとがひしめいていた。

部長の名前は知っているけれど、考えて見ればクラスは知らなかったわ…。

次の授業がどうなっているかは判らないけれど、移動する物だったらまずい。急がないと居なくなってしまうかも…。

キョロキョロと見回して廊下に姿が無い事に気付いた私は、手近な教室で訊いてみる事にした。

あまり知られたくないとか言っていられる状況じゃない。すぐにでも会って正直に事情を…。

先輩方の教室という事もあって、少し緊張しながらドアに歩み寄った私は、手をかける前に戸がスライドした事で、ちょっ

とびっくりする。

内側からドアを引き開けたその先輩も、開けた途端に私の姿が目に入った事で、少し驚いたらしい。

開いた戸をすっかり塞いでしまっている先輩の、体の大きさに比して小さな目が、昨日と同じように瞬いた。

「また出会い頭…。妙な縁でもあるのか?」

ハケのような耳をパタッと一度動かし、カバヤ先輩は何処か面白がっているように目を細める。

「き、昨日はどうも…、とんだ失礼を…」

思い出して耳まで真っ赤になりながら、私は深々と頭を下げた。

「いやいや、どうか気にせんでくれ」

そう言った先輩の目が私の左胸…、シャツの胸ポケットにチラリと向けられた。

胸元に縫い込まれた校章の色で、私の学年を再確認しているらしい。

このフロアは三年生の教室がメインで、一年生が授業に使う実習教室などは無い。

先輩が疑問に思うのも当然で、一年生はめったにこの階を歩かないのよね…。

「このクラスに何か用かね?」

そう言いながらカバヤ先輩は体を斜めにし、私の後ろから来た三年生が「さんきゅ」と言いながら、その脇を抜けて教室へ

入って行く。

…ここにいつまでも立っていると邪魔になるわね…。ここは手短に行きましょう。

とにかく、一度とはいえ面識のある先輩に会えたのはラッキーだったわ。

「あの…、ソフトボール部の部長さんにお会いしたかったんですが、クラスが判らなくて…」

「ソフトボール部?」

聞き取り辛いほど低いカバヤ先輩の声が、訝しげにほんのちょっと高くなった。

昨日の今日だし、あの出来事を思い出さない訳がない。

私がソフトボール部長に会う理由も、この先輩には察せられた事でしょうね。

…先輩も、もう覗き騒ぎの事は知っているでしょうし…。

アブクマ君が疑われている事まではまだ広まっていないけれど、私が逃げたせいで他人が疑われていると知ったら、昨日庇っ

てくれたこの先輩はどう感じるだろう?

善意で手を差し伸べてくれた先輩に、言い逃れの片棒を担がせてしまった事が、今更ながら申し訳なく感じられる…。

カバヤ先輩は短い間、何か考えるようにして黙り込み、私の顔を見下ろしていたけれど、やがて首を巡らせて振り返り、教

室内を見回した。

「ソフトボール部の部長ならこのクラスにおる。今はちと席を外しとるようだがね」

カバヤ先輩の言葉に、私は少しだけほっとした。…このまま待ってみましょう。

「…もっとも、既に引退しとるんで、正確には元部長だが…」

…あっ!

振り返ってこっちを見たカバヤ先輩が、耳をピッと立て、やや胡乱げな表情でそう言った瞬間、私は思わず両手で口を押さ

えた。

何てトンマなの私は!ソフトボール部は先の大会で敗れたから、三年生は引退したんじゃない!

つまり昨日居たのは一、二年生部員。部長は既に二年生に代替わりしている!

しまった!トップが代替わりした部活のリストには目を通していたのに、ド忘れしていたわ!

おまけに、新しい二年生の部長の名前を覚えていない…!

自分では平静なつもりだったけれど、結構慌てているらしいわね…。

私の反応を見て察したのだろう、カバヤ先輩は気の毒がっているような微苦笑を浮かべた。

「どうやら現部長に会いたかったようだな?一年生」

「…はい…。し、失礼しました…」

赤面しながら頭を下げて、すごすごと引き返し始めた私は、背中に、おそらくはカバヤ先輩のものだろう視線を感じていた。

…あの先輩には、恥ずかしいところばかり見られているわね…。



「…ミサトぉ?」

帰りのホームルームが終わった後、私の机の横にのっそりと立ったパンダっ娘は、窺うような目で見つめて来た。

「何かあったんでしょ?」

「何の事?」

とぼけた私に、ユリカは少し怒ったように口をへの字にした。

「お昼、一人でさっさと居なくなっちゃったかと思えば、目ぇ赤くしてギリギリに戻って来るし…。前の休み時間も思い詰め

たような顔してふっと居なくなって、ガッカリして戻って来た。何もなくてあんな風になんかなんないでしょ?ミサトは」

一息に並べ立てられたユリカの意見に、なるほど良く見ているなぁ、と感心させられる。

「もしかしてアレ?誰かに呼び出し食らってんの?でもってイヂメられてんの!?だったらあたしに言ってよね!?」

ずいっと身を乗り出したユリカは、私に顔を近付けてそう言った。

ああ…。ユリカは私が泣いていた事に気付いて、苛めにでもあったのかと心配してくれていたんだ…。

「なんなら空手部総出でギッタギタにしてやるんだから!ミサトがイヂメられたなんて知ったら、他の皆も絶対に黙ってない

もん!」

鼻息を荒くしているパンダっ娘に、私は有り難い気分になりながら笑いかけた。

「違うのよユリカ。苛められたわけじゃないの。私が、悪い事をしちゃったのよ…」

私は鞄を取って立ち上がりながら、胡乱げなユリカに続ける。

「詳しい話をしてあげたいけれど、それは寮に帰ってからね。今は、急いで行かなくちゃいけないの」

納得してはいない様子だったが、ユリカはしぶしぶ頷いた。

「ホント?ホントにイヂメじゃない?遠慮しないで言ってよね?」

「ホントもホント。帰ったら全部説明するから…」

ユリカに約束した私は、教室を出て昇降口に向かった。

部活が始まる前にソフトボール部の部室へ行って、全部正直に打ち明ける為に…。



多くの部員達が壁際に並んだソフトボール部の部室で、昨日の事の起こりから全ての事情を話し終えた私を見つめ、

「…事情は判ったわ…」

新部長となった人間女子、二年生のスガワラ部長が口を開いた。

入り口を背にして立った私を遠巻きに眺める部員達の中には、もちろんキムラさんの姿もある。

彼女はビクビクした様子で周囲を窺いつつ、チラチラと私を見ていた。

…一体、キムラさんは今、どんな気分なのかしらね…。

結果的にアブクマ君に濡れ衣を着せ、力になりたいと言って近付いた私をどう思っているのかしら…?騙された気分よね、

きっと…。

スガワラ部長はしばらく私をじっと見つめた後、口を開いた。

「一つ訊きたいんだけど、良いかしら?」

「はい」

返事をした私に、部長は腕を組みながら訊ねて来る。

「柔道部のあの…、アブクマ君に頼まれたから貴女が来たの?」

!?

予想外の角度から切り込まれた私は、言葉に詰まった。

その様子がかえって疑いを深めてしまったらしく、部長は疑惑の眼差しになる。

「そうなの?新聞部のシンジョウさん。貴女は確か、アブクマ君とも親しかったはずよね?」

…詳しい…。それに、…こう言っては失礼だけれど…、この先輩、予想以上に頭が切れる。

自白に来た私を、アブクマ君が言い逃れに寄越したスケープゴートかもしれないって、初めから疑っていたんだ…!

一度疑われてしまった今となっては、納得させるのに骨が折れそう…。

そこまで考えた私は、ある事に気付いて愕然とした。

この、アブクマ君の身代わりで来たっていう誤解…、私一人じゃ疑惑を晴らせない!証明のしようが無い!

自白という手段で全てが解決すると思い込んで、こんな状況まで想定していなかった私は、不覚にも「自分の証言を裏付け

る証拠」の必要性までは思い至らなかった!

下手な言い訳は逆効果…、と言っても、黙っていても疑惑が深まる…。

嫌な沈黙の中、私は必死に頭を巡らせたけれど、気ばかり焦って良い案が浮かばない。

ああ!こんな事ならイヌイ君とウツノミヤ君が居たあの状況で、全部正直に話しておくべきだった!

賢いイヌイ君と目ざといウツノミヤ君なら、こうなるかもしれないと予想して、効果的な対策も立ててくれたかもしれない

のに!

「やっぱりそうなのね?…おかしいと思ったのよ…」

スガワラ部長の目が、私を憐れむような物に変わった。

「胸の大きさを気に病んでって言っていたけれど、貴女の胸はそう小さくもないわよね?むしろそれなりに立派…」

…え?…あ!普段はパットを入れているから、外見上はやや大きいぐらいに見えているんだった!

「頼まれたんでしょう?…貴女はいい子ね…。友達を庇う為にそんな嘘までついて…」

「ち、違うんです!今はパットを入れていて…」

「いいのよシンジョウさん。もう頑張らなくても…。正直、昨日は証拠もなくて確信は持てなかったけれど、これではっきり

したわ」

スガワラ部長は私に向けていた憐れむような目を、突如怒りに燃え上がらせた。

「…親しい女子に、プライドまで投げ打ってこんな真似をさせる…。柔道部のアブクマ…、間違いなく黒ね」

「ち、ちがっ…!」

何て事なの!解決しに来たのに、かえって話がこじれていく!

部長の怒りが伝染したのか、周囲の部員達も嫌悪感をあらわにし、顔を顰めていた。

「スガワラ!柔道場に行こう!」

「正式に抗議しましょう!部長!」

「もう確定でしょ?先生にも話そう!」

皆が殺気立つ中で、キムラさんだけが一人おろおろとしている。

どうすれば…?どうすればいいの…!?どうしたらこの状況を好転させられる!?

必死になって考えた私は、はたと気が付いた。

アブクマ君に頼まれたのではないという証明はできないけれど、私の言葉が嘘でない証明はできる。

…そう…。私の胸をさらせば良い…。

ブラジャーを外し、カップを取った、素の胸を見せれば良い。

ここまで来て何の恥じらいがあるのよミサト?アブクマ君に濡れ衣を着せたままでいる方が、よっぽど恥よ!

アブクマ君への怒りの言葉を口々に吐き出し、今にも出て行こうとしている部員達を留めるべく、私は少し後退してドア前

に寄る。

そして、シャツの胸元に指をかけ、ボタンが千切れ飛ぶのも構わずはだけようとしたその時…。

ドンドンッと、ドアが叩かれる大きなノックの音に続き、「たのもぉ〜…」と、ややくぐもった低い声が外側から響いた。

ピタリと騒ぎを収めた部員達が困惑した様子で視線を注ぐそのドアを、私は意外さと驚きをもって振り返る。

「…どうぞ…」

怪訝そうな顔をしたスガワラ部長が声を発すると、ドアがゆっくりと開き、そこを完全に塞いでしまう程に大柄で恰幅の良

い巨体が現れる。

暗褐色の体に鮮やかなピンク色の腹部が印象的な河馬獣人…カバヤ先輩だ。

昨日と同じくマワシ姿にジャージの上を肩にひっかけただけという、露出度の高い独特の恰好をした先輩は、室内の様子を

見回してから、ソフトボール部員達に軽く頭を下げた。

「先に詫びておくが、行儀悪く話を立ち聞きさせて貰った。済まん」

センサーを思わせる、自在に角度を変える小さな耳をパタタッと動かしつつ、カバヤ先輩は顔を上げる。

「え、ええ…。聞いていたんですか…」

正直に切り出されて詫びられた部長の方は、非礼を責めるどころか呆気に取られている。

謝っている方のカバヤ先輩は、その貫禄のある体格と堂々とした態度のせいか、頭を下げたにも関わらず、糾弾される側に

は全く見えない。

この堂々とした先輩が誰かに叱られたり、責められたりする様子など、私には想像も付かなかった。

「それで、差し出がましいとは思ったが、あえて口を挟みたくなり、戸を叩かせて貰ったんだが…」

河馬の大きな頭部が少し下向きになり、目前に居る私の顔に小さな目がひたっと据えられた。

「部外者の分をわきまえん出過ぎた行為と承知の上で、この女子の言い分について儂から証言と弁護をしたい。構わんかね?」

カバヤ先輩の口調はあくまでも丁寧で、後輩であるソフトボール部員達に対しても、相手を立てた物だった。

そのやや古風ですらある口上は、先輩とはいえ成人すらしていない高校生…私達のたった二つ上でしかない大きな河馬には、

どういう訳かこれ以上ないほど似つかわしくも感じられる。

非礼を詫び、顔を立てられる形で話を切り出され、提案された部長は、反対する事もなく「どうぞ…」と、遠慮がちな声で

促した。

私達が先生に対する物と同様か、あるいはそれ以上に丁寧な態度に見える…。

「では、儂が知っとる限りの事を証言させて貰う」

カバヤ先輩はそう切り出し、昨日の出来事…部室の間に逃げ込んだ私を庇ってくれた経緯について、仔細に説明してくれた。

その話を聞いている内にも、部員達の間に軽い驚きとざわめきが広がって行く。

「…つまり、この女子が先に言っとったのは本当の事で、覗きに近い行為を働いたのが彼女という点については、状況から見

て儂が保証できる」

カバヤ先輩が説明を終え、そう話を締め括った時には、部員達の視線は私に集中していた。

困っているような、そして呆気に取られているような、さらには憐れんですらいるような視線が…。

「な、なら昨日…、逃げないで説明してくれれば…」

決まり悪そうにちらっと私を見たスガワラ部長が、張りのない声で呟くと、カバヤ先輩は「しかしなぁ…」と、苦笑を浮か

べた。

「皆が殺気立っとったあの状況では、逃げたくなるのも無理はなかろうて。儂が客観的に見ても、突き出すのが得策とは思え

んかった。あの様子では、この一年生がバットでタコ殴りにされかねんと思って誤魔化したが…、まぁ、結果的には騙した事

に変わり無い。済まなんだ」

部長は私とカバヤ先輩の顔を交互に見比べ、小さくため息をつく。

「判りました…。彼女の話を信用します…」

思わぬ証人の出現で言い分が聞き入れられ、ほっとした私は、改めて姿勢を正して頭を下げた。

「不安がらせてしまった上に混乱させて…、本当に申し訳ありませんでした…。どんな処分も受けます」

どんな叱責も、罰も、謹んで受けよう…。

それを望んでここへ来た私は、自分が犯人だと認めて貰えた事で、ようやく気が楽になった。

…が、スガワラ部長は困ったような顔で私を見つめた後、部員達の顔を見回し、それから肩を竦めた。

「今回は不問という事で手を打ちましょう…。実質的に、悪意ある覗きなんかじゃなかった訳だし…。騒ぎ立てるのもどうか

と思うし…。天下の新聞部を敵に回すのは嫌だもの」

部長はそれからふっと、面白がっているような表情を浮かべると、しげしげと私の顔を見つめる。

「一つ訊きたいんだけど…、シンジョウさん?貴女、このまま黙っていようとは思わなかったの?例えば…、時間が経てば噂

も消えるだろうとか、そう考えて傍観を決め込もうとは…」

「最初はそう思いました。けれど、事情を話して、本当の事を伝えてもなお、私の個人的な事情を優先して「黙っていろ」と

言ってくれたアブクマ君が疑われている事は、私の下らないコンプレックスを暴露する事なんかより、ずっと嫌でした」

部長を真っ直ぐに見返しながら応じた私は、たった今気付いたばかりの、自白の根っこにあった物についても口にする。

「私は真人間じゃないし、腹黒いし、善人でも無いけれど…、他のどんな悪い事をやっても、友達を裏切るのだけは嫌です」

そう。私は嘘だってつくし、隠し事だってする。

手助けと称して問題に首を突っ込んで、ついでに他人の秘密を突き止めては、こっそり優越感に浸って悦に入るようなエゴ

イスト。

自分でも認めているほどに、手に負えない独善者だ。

けれど、「仲間には優しい」と公言している通り、友達が大事だ。

我が身可愛さにアブクマ君を裏切るなんて行為、絶対にしたくない。

これは、胸の秘密をばらしても譲れない、私のささやかな信念だ。

私の返答をしばらく吟味していた部長は、やがて「結構…」と、呆れと笑いの混じった表情を浮かべた。

そして、同意を求めるように部員達の顔を見回すと、私に視線を戻して苦笑を浮かべる。

「正直に名乗り出た事に免じてこの騒ぎの事は伏せておきましょう。胸の事はまぁ、私達の年代だと気になる関心事だしね…」

「…儂は少し外しておいた方が良いかな?」

私の後ろにどっしり控えた河馬が、話の中身への配慮からか、しばらく遠慮しようと口を開くと、部長は苦笑いを深くした。

「いいえ大丈夫です。この件についての話は終わりですから。ご迷惑をおかけしました」

カバヤ先輩にペコリとお辞儀した部長は、次いで私に目を戻す。

「もう良いわよシンジョウさん。カバヤ先輩に良くお礼を言っておくのよ?」

「あ…、は、はい!申し訳ありませんでした!」

私が腰を折って深く頭を下げると、スガワラ部長はパンパンと手を叩いた。

「さあ練習!準備急いでね!」

号令と同時に部員達が慌ただしく動き始め、私はそっとドアに寄る。

が、入り口を塞いでいる恰幅の良い河馬が、そこから退かずに私に顎をしゃくった。

その仕草で促され、振り向いた私の前には、クラスメートのキムラさんが…。

「…ごめんなさい、キムラさん…。あんな風に言い寄った私が、実は真犯人だったの…。怒ったでしょう?」

何と罵られても仕方がないと、覚悟を決めて謝った私に、しかし何故か彼女は、眩しい物でも見るような目をしながら首を

横に振った。

「う…、ううん…。怒ってなんか…!…シンジョウさん、立派だった…。私、同じような状況で、ああいう風にできる自信無

いし…。アブクマ君の為に、言い辛い事もちゃんと言ってたし…」

そう、ごもごもと口ごもりながら言ったキムラさんは、少し躊躇った後、私に耳打ちして来た。

「…私も…、胸が気になって…。その…、パット入れてるの…」

「へ!?」

素っ頓狂な声を上げつつ、やや大きめに見える彼女の胸へ思わず視線を向けた私に、顔を離したキムラさんは「な、ないしょ

だよ?」と、顔を真っ赤にしながら念を押して来た。



「先輩!」

走って追い縋った私を、のっしのっしと歩いていた河馬が、足を止めて振り返る。

キムラさんと話している間に、一足早く立ち去っていた恩人へ、私は深々と頭を下げた。

「ありがとうございました。そして、ご迷惑をおかけしました」

「そうかしこまらんで良いよ、一年生」

「本当に助かりました。何てお礼を言えばいいか…」

顔を上げた私を興味深そうな目で見ながら、カバヤ先輩は笑みを浮かべた。

「正直な所…、昨日のあの様子が頭にこびりついとったんでな、名乗り出ようもんならバットで百叩きにされるんじゃあない

かと心配になって、こっそり聞き耳を立てとったんだが…。いやはや、行儀の悪い真似をしたが、居合わせて良かった」

目を僅かに細めて口の両端を少し上げるだけの、そのほのかな笑みは、大人びて貫禄のあるカバヤ先輩に似合っていた。

「あの…、こういう事をお尋ねするのもどうかとは思いますが…、どうして私を助けてくれたんですか?」

私がおずおずと訊いてみると、先輩はピンク色の布袋腹を揺すって愉快げに笑った。

「はっはっはっ!厳密には助けたのとはちと違う。共犯者が機に乗じて詫びに行っただけだ。昨日誤魔化しに手を貸した以上、

君が名乗り出るなら、それに乗じて儂が嘘をついた事も打ち明け、赦して貰おうと思ってな」

そして、悪戯っぽく片目を瞑って、冗談めかして付け足す。

「それと、ソフトボール部の前主将は儂の級友だ。その後輩達にバットで百叩きなどという校内暴力事件を起こして欲しくは

ない。おまけに、無骨な金属バットで君のようなべっぴんさんが台無しにされるのを見過ごすのは、少々しのびない」

軽く社交辞令すら織り込んだその言葉に、私は思わず小さく笑ってしまった。

「では、儂はこれで…」

「あ、はい!ありがとうございました!」

踵を返した大きな河馬は、再び深々と頭を下げた私にバナナの房のような手を肩越しに振って応じ、のっしのっしと歩いて

行った。

その後ろ姿がいくつめかの角を曲がり、部室の陰に消えるまで見送った私は、最後にもう一度頭を下げてから、柔道場に向

かって歩き出す。

アブクマ君とイワクニ主将、そしてイヌイ君の三人には、疑惑が晴れた事をすぐにも教えてあげなくちゃ。

足早に歩きながらも、落ち着いて考えを巡らせる事ができるようになった私の頭は、さっき耳にしたある一言について、慎

重な分析を始めていた。

それは、私を許すと言ってくれたスガワラ部長の言葉に含まれていた、ちょっと引っかかる一言…。

「天下の新聞部を敵に回すのは嫌だもの」

あの言葉は、新聞部とソフトボール部の力関係を如実に物語っていた。

許して貰った身で言えた義理じゃないけれど、新聞部だという事で過ちを見逃して貰えるのは正しい在り方じゃないと思う。

新聞部と他の部活とのパワーバランスは、私が思っている以上に偏った物になっているのかも…。

…なにはともあれ、なんとか決着を見た今回の件は、私だけに落ち度がある。

改めて、アブクマ君にはちゃんとしたお礼とお詫びを考えなくちゃ…。