第十五話 「夜岸先輩」(中編)
土と汗の匂いが混じる湿った空気が鼻に、威勢の良いかけ声と息遣いが耳に届く。
熱気に溢れた相撲部の稽古場では、大半が地区大会で敗れたにもかかわらず、稽古に精を出す大柄な男子達がぶつかり合っ
ていた。
その稽古風景をしばらく眺め、やがて盛大にため息をついた私は、ふと気になって先輩の顔を窺う。
相変わらず目が前髪に隠れていて、ヨギシ先輩の表情は読めない。
困ったわね…。このヨークシャーテリアがエネルギッシュに取材している様子も想像し辛かったけれど、最初に少し主将さ
んから話を聞いたきり、全く動きがない…。
まさかと思うけれど、休憩する為にわざわざここに来た訳じゃないわよね?
ちょっと刺激を加えてみたいけれど、適当な話題が…、あ、そうだ。
「あの…、相撲部って有名な先輩居ますよね?三年のカバヤ先輩…。今日はお休みなんでしょうか?」
訊ねた私に、しかしヨギシ先輩はすぐには答えず、首を巡らせて目があった部員を手招きした。
部外者なのに横柄な態度…というよりは、気心知れた客とでも言った感じかしら?
手招きされた白い豚獣人は、柱を打っていた手を休めると、どてどてとこちらに駆け寄った。
「は、はいっ…?何でしょ…?」
身長は170そこそこぐらいかしら?身長よりもムッチリ肉が付いた横幅の方で結構大柄に見える色白な豚獣人は、体格に
見合わないキーが高めの声で、おずおずとヨギシ先輩に話しかける。
その丸っこいフォルムと白さは、失礼ながら、季節になるとコンビニのレジ付近に並ぶ肉まん餡まんを連想させた。
私の方を時折ちらちらと見ては、恥ずかしげに身じろぎしているのが印象的。
…やっぱり、女子が来る事は珍しいんでしょうね。ちょっと落ち着かなくなっているみたい…。
「…カバヤは…?」
「え、えっとぉ…。副主将は…、今日は病院に行かれるそうで…、お休みしてますです…」
もじもじと太った体を小刻みに揺すりつつ説明してくれる白豚さん。…話すのは苦手なのかしら?
「…判った…有り難う…」
ヨギシ先輩が頷くような小さい会釈をすると、白豚さんはペコッと頭を下げ、「し…、失礼しまっす…」と言い残して、ど
てどてと走り去る。
「…だそうだ…」
ヨギシ先輩はぼそっと言いつつお茶を啜る。
「病院って…、カバヤ先輩、怪我をなさったんですか?」
「…している…ずっと前から…」
「え?前から?何処をです?」
「…膝…」
先輩の聞き取りづらい声に耳を傾けながら、私は思いだした。
確かに、先日も左膝にサポーターをしていたわね…。
相撲って、ぶつかったり投げたり転がしたりで結構激しいし、稽古で痛めたのかしら?
大会も近い事だし、早めに治さないといけないでしょうね…。
ヨギシ先輩はそれきり黙り込み、私は話題を探す。
…けれど、相撲には詳しくないし、質問をきっかけに会話するにしても、判らない事だらけで何から訊いて良いか判らない。
何か話題は…、あ、そうだ。
「ところでさっきの先輩…、あぁ、あの柱の所の豚さんですけれど…」
柱を突くように手で叩いている白豚の先輩に視線を向けつつ、私は話題作りの為に尋ねてみた。
ヨギシ先輩に敬語を使っていたから、きっと三年生じゃないわよね?
私と同級生でもないから、たぶん二年生。
他にも部員はいるけれど、今居る獣人が一人だけだからかしら?一際目を引く選手だ。
「何ていう先輩なんです?」
「…シロアン…」
「はい?」
…変な名前…。
壁の名札に目をやって、そんな妙チクリンな名前なんてあったかしら?と探していると、ヨークシャーテリアはボソボソと
続けた。
「…アンコ型で白いから…白アン…」
「…あだ名ですか…」
しかも陰口か悪口に使われそうなあだ名だ…。
「…相撲部は…あだ名で呼び合う事が多いらしい…。しこ名のような物だそうだ…」
「へぇ…。って、カバヤ先輩も何かあだ名で呼ばれているんですか?」
「…カバジュウ…。家が鰻屋だから…焼ける音と…鰻重をかけて…。下の名前にも…ジュウがつく…」
…誰がつけるのか判らないけれど…、ちょっとユニークかも…。
帰ったらユリカに、ユリサッサとでも声をかけてみようかしら?
稽古風景を眺めながら、私はやがて、いつまでここに居るのかと疑問に思い始めた。
先輩は、主将さんから簡単に話を聞いた以外には、取材らしい事は特にしていない。
ただゆっくりとお茶を啜りながら、稽古を眺めている。
「…どうだ…?」
やがて、かなり経ってお茶を飲み終えたヨギシ先輩が、唐突に私の方を向いた。
「え?どうって…」
「…取材…、学べるか…?」
そう問われた私は、口実として「勉強の為に」と言い、同行したいと申し出ていた事を思い出す。
「あ、えっと…」
為に成ります。…とは言い難い。お世辞を言うにも、先輩は殆ど何もしていないし…。
「…何を…したい…?」
私が返答に詰まっていると、ヨギシ先輩はそう質問を変えて来た。
先輩の黒い前髪の奥…、その暗がりから、僅かに目が覗いている。
ムクムクした縫いぐるみのような外見とは裏腹に、その眼光は突き刺すように鋭くて、私は息を飲んだ。
気圧されている?
…正直に言うと、私はこのつかみ所のない暗い先輩を、心の何処かで安く見積もっていたのかもしれない…。
イワクニ先輩に勧められたとはいえ、観察しても良く判らないこの先輩に、ほんの少し見ただけで低い評価を下していたの
かもしれない。
そんな先輩が見せたあまりにも鋭い視線に、私は気圧されてしまった。
「…何がしたくて…俺について来た…?」
相変わらずボソボソと話す先輩の声からは、しかしよくよく注意すれば、訊ねているという雰囲気が全く漂って来ない。
それはまるで、考えを纏めながら自問しているようですらあった。
私は悟った。この先輩は今、私を観察している。私が何を考えているのか考察している。
「…確認か…。だが…何故…?何のための確認だ…?」
ヨギシ先輩が確認という言葉を口にした途端、私は呪縛が解かれたように、やっと声が出せた。
と言うのも、先輩の刺すような視線が感じられなくなって、急に緊張が薄れたから。
「あ、あの…。三年生のイワクニ先輩、ご存じですか?柔道部の…」
まるで言い訳をして赦しを乞うような気分になりながら、私は一気に喋った。
ちょっとした縁で親しくして貰っているイワクニ先輩に、ヨギシ先輩と話してみろと勧められた事を。
これまで話をした事も無く、先輩がどんなひとか判らなかったので、まずはヘルプや勉強にかこつけて話しかけてみた事を。
「…なるほど…」
私が説明を終えると、先輩はぼそりと呟き、腰を上げた。
気分を悪くさせたのだろうかとちょっと心配になった私を、立ち上がった先輩は首だけ巡らせてちらりと振り返る。
「…取材は…終わりだ…。帰るぞ…」
「は、はい…」
気まずくなりながら立ち上がった私には視線も向けず、先輩は稽古場の中央へ顔を向け、ぼそりと囁いた。
「今日は…帰る…」
気合いの声にかき消されて、傍の私にすらほとんど聞き取れないその声は、当然誰にも聞こえなかっただろう。
けれど、私達が立ち上がった事で察したのか、部員達は揃って手を休めた。
会釈して出口へ向かう私達に歩み寄り、プロレスラーみたいな体格の主将さんが小声で囁いて来る。
「女子も一緒な事だし、念のため部室まで送ろうか?」
「…間に合ってる…、稽古続けてくれ…」
ヨギシ先輩のボソボソ声に、呆れているような響きが伴われていたのは、私の気のせいかしら?
ビーズクッションを抱えて丸くなり、横になっている私の顔を、
「ん〜…」
俯せに寝そべり、頬杖をついて間近で見つめているパンダは、神妙な顔で見つめている。
「やっぱり…、第一印象悪かったわよね…?」
「…良くは…、なかったんじゃないかなぁ…?」
夕食後、私は寮の部屋でユリカに今日の出来事を話していた。
…これまで話した事のなかったヨギシ先輩と、接触を試みた事を…。
心配をかけたくなかったから、近付こうとした経緯や目的は伏せて、どんな状況だったか説明したんだけど…。
「観察されてるって気付いたら、それは良い気分じゃないわよね…」
「おもしろ半分で付きまとわれたとか、勘違いされてるかもよぉ?」
うっ…!そ、それはあるかも…。
「ミサトも変わってるよねぇ」
相当変わっているルームメイトは、自分の事を棚に上げて「むふ〜っ!」と笑う。
「何だって急に「話をしてみたくなって」「取材に付き合ってみる」事にしたん?普通はほら、もうちょっと自然に興味持つ
とかじゃん?急に興味持ってアタックするとかさぁ、そーとーヘン」
そーとーヘン…!?
「あれ?ミサト?」
事情を全部話した訳じゃないから、客観的に見れば確かに「急に興味を持ってちょっかいを出してみた」的に感じられるか
もしれないけど…。相当変わり者のユリカに「そーとーヘン」と評価された事実は、私に少なからぬショックを与えた。
…自分が変わり者だっていう自覚は確かにあるけれど…。ユリカよりはまだ常識人のはずよ?私は…。
クッションを抱いて膝を抱え、猫のように丸まった私を、ユリカが首を傾げながら見つめる。
「まぁまぁ、そんなヘコまないでさぁ。また明日しぜ〜んに話しかけてみれば良いじゃん?」
ヘコんでるのはあなたの発言のせいなんだけどね…。
そもそも、自然に会話が成立するなら苦労しないのよ…。
「み〜さ〜とぉ〜?元気出してほ〜ら」
ユリカは床に手をついて四つん這いになると、のそのそと身を寄せて来て私の頭を撫でる。…子供じゃないんだから…。
「でさぁ、まだ大事な事聞いてないんだけど…」
パンダっ娘は私の髪を太い指ですきながら、口調を改めた。
「その先輩、二枚目?」
「全体的なフォルムはモコモコな縫いぐるみのよう。前髪で目が隠れてて一見すると根暗っぽい」
私の返答を聞いたユリカは真顔で頷き、「じゃあパス」と呟いた。
…ダメだこの子…。
結局、仲直りする為の有効な意見は、ユリカからは得られなかった。
…期待した私が間違っていたのかしら?
翌日の放課後、部室に入った私はムクムクのヨークシャーテリアの姿を探したけれど、デスクにはついていなかった。
まだ来ていないのかとも思ったけれど、机の上に鞄がある…。
何処かへ取材に行っちゃったのかしら?
それとなく同級生の部員に尋ねてみたら、「資料室に入って行くのを見たような見なかったような気がする」という曖昧な
情報が。
…資料室ね、一応覗いてみましょうか。
スチール製の棚が並ぶ、他の部の部室並みに広い資料室に足を踏み入れた私は、棚と棚の間を覗きながら、黒いムクムクの
姿を探した。
けれど、情報が誤りだったのか、それとも既に出て行ったのか、ヨギシ先輩は何処にも居ない。
しばらくうろついた後、私はため息をついて傍らの棚に目を遣る。
先にも調べに来た事のある、過去の高体連関係の資料が収まった棚に手を伸ばし、分厚い大会結果資料を手に取った私は、
見るとも無く斜め読みしつつ呟いた。
「何処に行ったのかしら?ヨギシ先輩…」
「…俺に…何か用か…?」
「ひゃうわぁあああああっ!?」
背後からボソリと低い声が流れて来て、私は悲鳴を上げる。
ビックリした拍子に床に落としてしまった資料もそのままに、弾かれたように振り返ると、黒いムクムクがすぐ後ろに立っ
ていた。
前髪に隠れて見えない目から、それでも視線が注がれているのを感じる…。
いつのまにこんなに近くへ!?居なかったわよ今さっきまで!?
驚きすぎて心臓がドッキンドッキン言っているものの、私は動揺を悟られないよう、努めて平静を装って口を開く。
「昨日はその…、強引に取材に同行して、済みませんでした…。改めて考えたら、やはりご迷惑だっただろうと思えて来て…」
ぺこりと頭を下げ、まずは昨日の事を詫びる私に、しかしヨギシ先輩は答えない。
けれど、ここで引き下がる訳には行かない。
イワクニ先輩が紹介してくれた以上、この先輩と話をする事には、きっと何か特別な意味があるはず…。
「図々しいお願いですが、できればまた取材に同行させて貰えませんか?出来る限りのお手伝いはしますから」
私がそう申し出ても、ヨギシ先輩は変わらず無言のままだった。
やっぱり…、私の事を気に入らないのかも…。
すっかり忘れていたけれど、一年生でありながら二つの部を担当…しかも空手部については専属で任されている私は、特定
の先輩からは良く思われていない。
メイン担当を任されている部活を持たない先輩達の目には、生意気に映るらしいから…。
先輩だけじゃない。出世頭みたいに見てあれこれ話を振ってくれる同級生もいるけれど、羨ましいのか、距離を取ろうとす
る同級生も居る。
改めて考えれば、そんな私はヨギシ先輩から気に食わないと思われている可能性がある。
もしそうだとしたら、相撲部への取材に同行を申し出た私の行動は、先輩にはどう見えていたのだろう?
また他の部にも顔を売ろうとしている、野心家のお調子者にでも見えているのでは…?
居心地の悪い沈黙は、かなり長く続いた。
「…構成チェック…やれる自信は…?」
唐突な、しかも意表を突く問いに面食らった私は、しかし…、
「やらせて下さい!」
先輩の観察するような視線を感じつつも、深く頷いた。
私は引き下がらない。引き下がるもんですか。
まだどんなひとなのか良く判らないけれど、この先輩の事が気になる。
このまま食らいついていた方が良いという予感があった。
私らしくないけれど、その曖昧な予感はかなり強く、逆らい難いものに感じられていた。
「…それなら…、連れて行く…」
呟いたヨギシ先輩は、踵を返しつつボソボソ続ける。
「…現場の雰囲気を…知らなければ…、構成チェックも…ろくな物にならない…」
構成チェックとは、つまり書き上がった記事の内容やレイアウト、表現を最終チェックする作業。
書いた本人では気付けない、あるいは気付きにくいミスも、他人の目なら簡単に見つけられる。
このチェックを経た記事は実際に新聞に刷られる事になるから、ミスは許されない。
先輩は、自分が手がけている記事のそんなチェックを、一年生の私にやらせると言っている。
本来なら構成チェックは先輩方がやる。ほぼ専門でチェックを引き受けてくれている、目の利く先輩が何人か居るから。
それを一年生の私が引き受ける…。責任は重大だけれど、引き下がる訳には行かない。
ヨギシ先輩はきっと、私を試そうとしているんだ。
昨日と同じく相撲部の稽古場へ向かった私は、前回にも増して大きなどよめきで迎えられた。
時間も早いからまだ集合し切っていないらしく、半分ぐらいしか部員が居ないのに、昨日より大きい…。
二日続けて来た事で、担当記者だという勘違いがいよいよ進行してる…。
主将さんなんかもう張り切っちゃって、「さっき買ってきたソーダ出して来い!」なんて叫…ん?
…さっき買ってきた…?
…もしかして、接客用に…?
…ひょっとしてわざわざ私達用に…?
まずいっ!本当に勘違いされてる!
「あの…、主将さん?私は担当という訳じゃ…」
これ以上誤解が深まる前に何とかしないとまずい!焦りを感じ始めておずおずと声をかけると、
「あぁあぁ、しばらくは見習いってかサブ担当ってトコなんだな!まぁ担当は担当だからさ!気兼ねなくのんびりしてってく
れよ!」
と、私の話を途中で遮った主将さんは、都合の良い方向に解釈しつつ、「ごゆっくり!」と言い残し、腕を胸の前でカッポ
ンカッポン交差させつつ稽古場の中央へと歩き去って行く。
…うあ…、物凄く上機嫌…。言い出し辛い…!
助けを求める訳じゃないけれど、チラリと横目で窺ったら、
「…聞かないから…ひとの話…」
ヨギシ先輩はぼそりと呟き、静かにソーダを啜った。
本当の担当である先輩がこの諦めムードでは、この勘違いをどうこうして貰えるという甘い期待なんてできるはずもない。
後で自分の口からはっきり言おう…。
…「後で」とか考えている辺り、既に逃げ腰になっているわよね、私…。
だって、こんなに喜ばれているとさすがに言い出し辛いっていうか、がっかりさせたくないっていうか…。
構成チェックという大仕事を控えているのに、私の気持ちは違う方向で乱れ気味だ。
これじゃあいけないと自分を戒めていると、引き戸ががららっと開き、私はそちらへ注意を向ける。
相撲部の残り半分…、体格の良い男子達が口々に挨拶しながら、どやどやと稽古場に入って来た。
中には白い豚さん…シロアンというあだ名であるらしい先輩の姿もある。
けれど私の目は、最後尾から二番目…体格の良い男子達の中でも抜きん出て大きな巨体に釘付けになっていた。
向こうも私に気付いたらしく、足を止めて僅かに眉を上げる。
「どうしたんですか副主将?」
最後尾で戸を閉めた部員が、立ち止まっている巨漢の脇に回り込み、その視線を追って私とヨギシ先輩の方を見る。
「ああ!ほらあの子ですよ!さっき皆で話をしてた、新聞部の敏腕新人女性記者!」
…ちょっと待って下さいたぶん二年生の先輩…。
…さっき…皆で話をしてた…?
部室…っていうか更衣室として使われてるんでしょうけれど…、そこで一体どんな話が!?
新人は正しいけれど、敏腕とか…、話に尾ひれがついてるわよ!?
まずい!後から来た部員達も、私が居るのを見て物凄く喜んでるっぽい!
あああああどうしよぉおおおおっ!手を振ってくれる部員達の笑顔とか見たら、ますます言い出し辛くなって来ちゃった!
再び動揺し始めた私は、のっしのっしと巨体を揺すって歩いて来る巨漢に目を向けつつ、軽く一度深呼吸した。
袖を通さずジャージの上を広い肩に羽織ったマワシ姿。右膝には黒いサポーター。
先日と全く同じ格好をしている、とんでもなく横幅のあるまん丸な巨漢は、私とヨギシ先輩の前で足を止める。
立ち上がって迎えた私に、カバヤ先輩は頷きかけるような軽い会釈をしてくれた。
「先日はどうも、シンジョウ君」
「お邪魔していますカバヤ先輩。先日はお世話になりました」
深々と頭を下げた私は、頬が赤くなっていないか心配になりながら顔を上げた。
色々とご迷惑をおかけした上に、最終的には助けて貰ったこの先輩に、私は感謝と敬意、そして恥ずかしさが均等に混じっ
た気持ちを抱いている。
先の覗き魔事件でこの先輩のフォローが無かったらと思うと…、冷や汗が出て来るわ…。
「…面識…あったのか…?」
ヨギシ先輩がボソボソと訊ねると、カバヤ先輩は詳しい説明をせず、「少々縁があってな」と頷くだけに留め、上がりに腰
を下ろした。
木材にギシィッと悲鳴を上げさせ、ヨークシャーテリアの隣に座った大きな河馬は、同じ三年生なのに、並んで座るとヨギ
シ先輩とのとんでもないボリューム差が実感できる。
「後輩を連れて来るとは珍しい…。どういう風の吹き回しだ?ヨギシよ」
独特な幅広マズルの端をほんの少しだけ上げたカバヤ先輩は、面白がっているように訊ねた。
「文化部はまだまだ時間があるだろうに、もう引退後の担当を決めたという事か?」
「…チェックを…頼む事になった…。相撲を…、知って貰う…必要がある…」
カバヤ先輩は「ほぉ…」と、何故か少し驚いているような声を漏らし、ヨークシャーテリア越しに私を見た。
「期待の後輩という訳か」
「…さあな…」
短く応じたヨギシ先輩の横で、カバヤ先輩は微かに口元を歪めた。
「珍しく嬉しそうにしとると思ったら…、そうか、お気に入りの後輩を見つけたか」
妙な事を言い出した先輩の顔を、私はまじまじと見つめた。
ヨギシ先輩は少し首を横へ向けただけだったけれど、前髪に隠れた目は、たぶんカバヤ先輩の顔を見ている。
「…別に…嬉しくはない…」
「いいや、嬉しがっとる」
否定したヨギシ先輩に、しかしカバヤ先輩はきっぱりと反論した。
「お前さんがそこまで機嫌良さそうにしているのも珍しい。シンジョウ君の事、よほど気に入ったと見える」
…はい?
私が首を傾げていると、しばし沈黙したヨギシ先輩が、視線を前に戻して呟く。
「…俺は…、機嫌良さそうに見えるのか…?」
「ふむ。相当な」
カバヤ先輩は面白がっているように眼を細めて即答する。
「…なら…、機嫌が良いのかもな…。気付けなかったが…」
私は、おや?と目を丸くした。
ぼそぼそと呟いたヨークシャーテリアの口の端が、ほんの少し持ち上がって笑みを浮かべたような気がして…。
続いてヨギシ先輩が「…調子は…?」と訊ねると、カバヤ先輩は「上々だ」と応じた。
そこから始まったいくつかの質問は、取材とはいえないような調子の確認だったけれど、私は一言も聞き漏らさないよう耳
をそばだて、手早くメモを取る。
テストされているんだから、しっかりやらなくちゃ…!
しかし、カバヤ先輩とヨギシ先輩のやりとりは、昨日の主将さんとの会話同様に短いもので、割とすぐに終わった。
部員達が散らばり、柔軟を始める体勢になると、「では」とカバヤ先輩が腰を浮かせ、圧迫から解放された木材がギシィッ
とため息を漏らす。
大きなお尻の後ろ、マワシの結びに空けられた尻尾出しスペースからチョコンと顔を出している、ずんぐり三角の尻尾が意
外にもラブリィ。
私が見とれた、稽古に向かおうとする広い背中に、ヨギシ先輩がぼそりと語りかけた。
「…覚悟を…決めろ…」
「うむ。負けたら終わり…、最後の大舞台だからな」
足を止め、反面振り返って重々しく頷いたカバヤ先輩に、ヨギシ先輩は首を左右に振る。
「…必要な覚悟は…それとは違う…」
大きな河馬は、しかしヨークシャーテリアに言葉では応じず、お返しのように小さくかぶりを振って前に向き直り、のっし
のっしと歩き去った。
…この時のやり取りの意味は私には判らなかったし、さほど重要とも思えなかったから、すぐに忘れてしまった。
後日、事情を知った後では、思い返して「ああ、なるほど…」とも思えたけれど…。