第十六話 「夜岸先輩」(後編)
「頭を低くしろ!顎が浮いとったら力が逃げるぞ!もう一丁だ!」
「うっす!」
重低音の声が響くと、たった今土俵に転がされた体格の良い人間の二年生は、すぐさま仕切の位置に戻って腰を落とす。
向きあって腰を沈めたのは、さらに体格の良い…というよりも、大男揃いの部員達の中でも飛び抜けた巨体を誇る河馬。
仕切りの姿勢から立ち上がり、頭からぶつかって行った二年生は、ズドンッ!とカバヤ先輩の胴へ突っ込んだ。
が、遅れて立ち上がって脚が伸びきらないまま受けたカバヤ先輩は、その強烈なぶちかましでも揺るがず、突っ込んだ方が
当たり負けしてザザッと後退した。
直後、カバヤ先輩は上から太い腕を被せるようにしてマワシを取り、右脚をズッと土俵に擦って前に出しながら、横へごろ
んと転がす。
「まだ顎が浅い!もっと深くせい!相手を仰向けにひっくり返してやるぐらいの思い切りを持たんか!もう一丁っ!」
「う、うっす!」
土俵に転がされ、汗まみれの体に土をたっぷり付けながら立ち上がった二年生は、再び自分の倍以上あるカバヤ先輩と向き
あった。
再びぶつかり合う二人の男子。二年生の男子も相当な大男だけれど、相手がカバヤ先輩では子供のようだ。
ドシンとぶつかって行った二年生を受け止めたカバヤ先輩の巨体を覆う分厚い贅肉が、ぶつかった勢いで波打つ。
それだけで物凄い衝撃を想像させるのに、大きな河馬は後輩の大男を簡単に受け止め、僅かにも下がらず転がしてしまう。
ド迫力のぶつかり稽古を眺める私は、驚きと感動の入り交じった、不思議な感覚を抱いていた。
裸でぶつかり合うからなのか、それとも独特の空気がそうさせるのか、空手部の組み手や柔道部の乱取りともまた違った緊
迫感がある。
テレビなんかで眺める相撲と違い、間近で見る稽古はかなり迫力があった。
期待の星らしい二年生に稽古を付けているカバヤ先輩は、土俵の上では普段にも増して存在感がある。
表情も厳しくなり、大きくなった声にも迫力が滲んでいた。
「どうよ?ウチの最強選手の稽古は?」
小休止に入って、持ち上げたヤカンに直接口を付けて水を飲んでいた主将さんは、私にそう声をかけてきた。
「凄いですね…。あの…、記者としての未熟さを改めて知るようで恥ずかしいんですが…、凄いとしか…、感想が…」
私は恥じ入りながらそう応じる。
そう、凄いとしか感じられない。「どう凄い」「どこが凄い」といった事が、上手く表現できない。
言葉にしようにも、感動やら驚きやらが多過ぎて、そして大き過ぎて、情報が整理できていない…。そんな感じだった。
そんな私の横で、稽古を見ているんだか見ていないんだか判然としない、縫いぐるみのように動きに乏しいヨギシ先輩は、
ゆっくりと腰を上げた。
「…部に…戻る…」
「お?もう帰るのか?女子も一緒だし、送り役とか必要じゃないか?」
慌ててメモを閉じてバッグに突っ込んだ私の前で、ぐっと身を乗り出しつつそう訊ねた主将さんに、
「…間に合ってる…」
ヨークシャーテリアはゆっくりと、左右に首を振った。
相撲部員達の威勢の良い声に送られて稽古場を後にした私は、のろのろとゆっくり歩むヨギシ先輩の後ろについて行く。
私達が稽古場を出る際には、土俵上のカバヤ先輩も、少しだけ表情を和らげて目礼してくれた。
私は歩きながらも、少し掴めて来た相撲部の雰囲気と、ヨギシ先輩とカバヤ先輩のやりとり、ぶつかり稽古などについてじっ
くり反芻する。
見上げれば空は既に濃紺。いつの間にか随分時間が経っていたみたい。
…そういえば、主将さんの名前は何て言ったかしら…?覚えていないわ…。
「主将さん、何てお名前でしたっけ?」
「…キカナイ…」
振り向きもしないヨギシ先輩の短い返答を聞き、私は相撲部内で用いられているあだ名の事を思い出した。
「ああ…、話を聞かないからですか?」
「…いや…、本名が木賀内…」
…まぎらわしい…。
「…記事は…、明後日までに書く…。構成チェックは二日後だ…」
「はい…!」
ヨギシ先輩の斜め後ろで、私は決意を込めて深く頷いた。
先輩のテスト…、しっかりクリアしなくちゃ…!
ところが…。
相撲部の記事についてチェックする以上、勉強をしなければいけないというのに、翌日の放課後、私は空手部の道場にお邪
魔していた。
男子空手部が、県下ベスト3に入る強豪校と練習試合をするから。
県大会進出を果たせなかったから、男子空手部の三年生は本来であればもう引退しているんだけれど、向こうは県大会に残っ
ている学校だ。だから一、二年生だけじゃなく、三年生もカムバックして参加する事になっている。
相手校にとっては県大会目前の最終調整となる大事な練習試合。こっちの三年生にとっては、本当に最後の他流試合になる
のよね…。
相手は男子校だから、女子は通常の稽古。…とは言っても、試合も稽古も同じ道場内なんだから、当然手の空いた部員は応
援している。
ユリカも例外ではなく、「アイトアイトーっ!」と、口元に手を添えて声を張り上げていた。
写真を撮りつつメモを取る私の横には、手が空いた女子部員が入れ替わり立ち替わりやって来て、判定や試合内容について
丁寧に解説してくれた。
ヒョウノ先輩から個人的にも教えて貰っているとはいえ、勉強中の身にとっては本当に有り難いサポートだわ…。
練習試合の内容の方は、こちらが優勢とは言えなかった。
けれど、「善戦した」とヒョウノ先輩が評価していたし、男子部員達も満足そうだった。
県下有数の強豪だし、良い稽古になったと皆が満足そう。…そしてちょっぴり悔しそう…。
試合後、あちらさんを送り出したらいよいよ今日の主題。主将さんに話を伺わなくちゃ。
本日限定現役復帰。三年生の男子空手部元主将さんを取材するのは、確実なのは今回が最後。
…実は、個人的にはもう一度インタビューできれば良いなって思っている。
勝ち残っているヒョウノ先輩の引退が決まり次第、三年生部員一人一人に一言ずつ貰って、ご苦労様って記事を書きたいと
思っているんだけれど…、企画が通るかどうか微妙なのよね…。
まぁ、空手部との関係改善は新聞部上層部も望んでいる事だし、そうでなくとも県大会の結果発表から全国大会までの間は、
林間学校なんかを除けば大イベントはしばらく無いし、スペースが取れる可能性はゼロではない。
着替えが済んだ後、主将さんは疲れた様子も見せずに、快く取材に応じてくれた。
中肉中背、体格は普通だけれどスポーツ刈りが似合う人間男子は、名残惜しそうな様子を見せながら、高校最後の他流試合
について詳しく話を聞かせてくれた。
私の方も少し慣れて、訊くべきポイントが判って来たせいか、以前ほどインタビューに手間取らないし、的外れな質問をす
る事も無くなった。…と思う。
「えぇと…、質問は以上です。お疲れの所、有り難うございました!」
道場の隅、座布団の上に正座した私は、向きあう主将さんにお辞儀する。
「いやいや、毎回熱心な取材を有り難う」
そう言った主将さんは、苦笑いしながらポツリと零した。
「…できれば、もっと早くにこういう取材を受けたかったな…」
「………」
言葉に詰まった私を見て、主将さんはちょっと慌てたように手をパタパタ振った。
「あ、いや…、変な事言っちゃって悪いな。意地張って取材拒否してたのはこっちなのに、虫が良いよな?ははは!」
主将さんは誤魔化すように笑ったけれど、私は愛想笑いを浮かべる事もできなかった。
その取材拒否の原因を作ったのは、誹謗中傷の記事を載せた新聞部なんだから…。
「…あ〜…。あ、そうだ!他に訊いておきたい事は無いか?取材受けるの最後なんだし、ついでに訊きたい事があれば…」
話題を変えようとしたのか、主将さんは強引に笑顔を作って口調を明るいものにする。
その気遣いは、嬉しいと同時にちょっぴり痛かった…。
それでも私は、うつうつとしていても気分を滅入らせるだけなので、それに乗って和らげた表情を作る。
「記事にする取材としてはこれで十分なんですが…、少し突っ込んだ事をお訊きしても良いでしょうか?」
「うん?どうぞどうぞ。答えられる事なら何なりと」
主将さんはホッとしたようにそう言ったけれど、
「主将さん、彼女とかいらっしゃいますか?」
私の問いで露骨に顔を引き攣らせた。
「それ…、答えないとダメ?」
「ダメって事は無いですよ当然。完全に取材外です。単なる好奇心です。でも教えて頂けるなら嬉しいです」
あまり期待していない私が悪戯っぽく笑うと、主将さんは周囲を見回して、傍で聞いている部員が居ないか確かめてから、
「…いやぁ…その…、何て言うか…。…フリー…」
と、ボソボソ正直に呟いた。
「意外…。ずっとなんですか?」
「ん。ずっと…」
「好きになった子とかも居ないんですか?」
「いや居る。居るけどさ…」
お?主将さんもしかして、割と教えてくれるタイプ?
「誰ですかズバリ…?」
私が声を潜めて訊ねると、さすがにこれ以上は教えてくれないのか、主将さんは黙り込んでしまう。
が、その目がちらりと、私の後方に泳いだ。
素早く振り返った私は、「あ!」という主将さんの動揺ボイスを後頭部で聞きつつ、彼の視線が向いた先を見据えた。
その拍子に目があった、むっちりしたパンダっ娘が意味もなくへら〜っと笑い、肩の高さに手を上げて指をひらひらさせる。
…アレじゃないわね…。
私は主将さんが誰を見たのか確信しながら、ユリカを無視して顔を戻す。
主将さんは、何かを誤魔化すように腕を組んで、そっぽを向いていた。
「…ひょっとして…、ヒョウノ先輩ですか…?」
小声で訊ねてみたら。主将さんの顔が露骨にヒクッと引き攣った。…分かり易いわねぇ本当に…。
主将さんの視線が向いたのは、ユリカがくっついて回っている女子空手部の主将、ヒョウノ先輩の方だった。
男子と女子の空手部主将。お似合いにも思えるけれど…。
諦めたのか、顔を戻した主将さんは、少し俯きながらもこくりと、小さく頷いた。
「告白してみたんですか?」
「…玉砕…」
あらら…。断られたんだ…。
今度はこっちから気まずくしてしまった私は、何と慰めて良いか判らず口ごもり、
「いやもう未練は無いんだけどな。サッパリふられてせいせいしたから」
結局、主将さん本人の苦笑いで、話題はうやむやに打ち切られた。
あ。ヒョウノ先輩といえば…。
「あの、もう一つ伺いたい事があるんですが…」
「他に失恋談は無いぞ?」
警戒したように、先手で釘を刺してくる主将さん。
「いやそうじゃなくて…、相撲部と空手部って、仲悪く無いですよね?」
単刀直入に訊ねてみた私に、主将さんは一瞬訝しげな顔をする。
「へ?いや、別に仲が悪くは…、良くも悪くも無いかな?特に付き合いある訳じゃないが…。なんだいそんな事訊いて?」
「あ、いえ…」
私は曖昧に応じながら、頭の中で今までの情報を整理する。
主将さんは誤魔化してる風じゃない。藪から棒な質問で面食らったような反応を見せたあれは、演技じゃないと思う。
それじゃあ…、一体どうして…?
「あの…、個人的に誰かと仲が悪い部員とか、ご存じですか?」
「なんだいなんだい?ひょっとして、おれの知らない所で部員同士のいざこざでも…?」
顔を曇らせた主将さんに「いいえ!そんなんじゃないんです!」と、私は慌てて弁解する。
…少し遠回しに訊いてみたけれど、それで余計な心配をさせちゃまずいわね…。
「先日…、ヒョウノ先輩に相撲部の事を訊いたら、あんまり良い顔をされなかったので、何かあるのかなぁと…」
素直にそう言ったら、主将さんは「あぁ…」と、何かに納得したような声を漏らした後、不意に顔つきを厳しくする。
「その事には深入りするな」
「え?」
予想外の答えが返ってきた事で、私は鼻白んだ。
「良いか?たぶんカバヤの事でも尋ねたんだろうけどね、ヒョウノにその事は訊いちゃダメだ。つついても面白い話なんか聞
けないし…、いや、ヒョウノからは絶対に話を聞けないだろうが…、とにかく、触らぬ神に祟りなしだ。判ったな?」
はぐらかしも誤魔化しも無い、あからさまな警告と制止の言葉。
真顔でじっと見つめてくる主将さんに、
「はい…。判りました…」
釈然としない物を感じながらも、頷くしかなかった。
「ますます判らなくなったわ…」
ローテーブルについて記事を纏めながらボヤいた私を、寝転がってテレビを眺めていたユリカが振り返った。
「何がぁ〜?」
「相撲部との事。今日、男子の主将さん…元主将さんに訊いてみたけれど、不仲とかそういう事は無いみたいなのよねぇ…。
ヒョウノ先輩が個人的に嫌っているって事なのかしら…?」
ユリカはきょとんとした後、「あ」と、目と口を丸くした。それからゴロロロッと床を転がって来ると、私の腿に顎を乗せ、
腰に腕を回してひしっと抱き付いて来る。
「何?どうかしたの?」
「ご…ごめ…!言い忘れてた…!」
ユリカは耳を伏せて、上目遣いに私を見上げて来る。
「お姉ちゃんと河馬さん先輩の話、三年生の先輩から昨日ちょっと聞けたんだけど…、ミサトから縫いぐるみ先輩の話を聞い
てたら、頭からスポーンと…!ごごごごめっ…!」
怒られると思ったのか、赦しを乞うような目で見上げてくるユリカのムニムニほっぺを、私は両手でギュッと挟んだ。
「でかしたユリサッサ!偉いっ!表彰物よっ!」
両頬をぶに〜っと押されて変な顔になりながら一瞬キョトンとしたユリカは、即座に顔を緩ませて短い尻尾をフリフリする。
「悪いけど早速聞かせて頂戴!」
私が催促すると、ご免なさいポーズだったユリカはすぐさま身を起こして、ちょっと得意げに胸を張る。
予想もしていなかったパンダっ娘経由の情報は、内容の方も、私が予想もしていないような物だった。
「…暴力事件と来たか…」
話をメモに纏めていたペンを止め、呻いた私に、ユリカは神妙な顔で頷く。
「実際には事件ってトコまで行かなかったっぽいけどね。先生方にもバレなかったし、見た先輩方も数人なうえに皆黙ってた
から、大事にはなんなかったってさ。だから停学になった先輩とかも出なかったらしいけど…」
「信じ難いわね…、あの先輩が…」
ユリカから訊いた、今の三年生が一年生だった頃に起きたという事件の内容は、私にかなりのショックを与えた。
知っている先輩二名が関与している、その事件の話は…。
「原因は…、何だったの?」
「わかんないって。それこそたぶん本人達しか知らないんじゃないかって、先輩は言ってたよ?」
「そう…」
私はため息をつく。
知ればすっきりできるかもと思っていた自分の甘さには、ほとほと呆れたわ…。
…その事件があった頃にはもう、ヒョウノ先輩とカバヤ先輩の間には、確執ができていたのかしら…?
「ねぇ、ミサト?」
「うん?」
「あたしはさ、その河馬さん先輩の事良く知らないから、贔屓の意見しか出て来ないけど…」
パンダっ娘は、難しい顔をして少し俯く。
「お姉ちゃんは…、訳も無く暴力なんて振るわないよ…。だからさ、その…」
ユリカは言い辛そうに口ごもり、完全に下を向く。
ヒョウノの先輩を弁護したい。けれどそれは、同時に自分が良く知らない先輩の方が悪かったと主張する事にも繋がる。
だから人の良いパンダっ娘は、はっきりと感想を言う事が出来ないのだ。
「うん。言いたいことは判るわ…」
頷いた私もまた、ユリカに負けず劣らず複雑な気分だった。
ユリカほど親しい訳じゃないけれど、ヒョウノ先輩がいいひとだという事は重々承知している。
それほど詳しく知っている訳じゃないけれど、カバヤ先輩も同じ、いいひとだと感じている…。
どういう事なの…?どうしてあの二人が…?それとも、ユリカが聞いてきた話自体が間違っているの?
鉛でも飲んだような重苦しい気分になりながら、私はメモの上で、無意味にペンを走らせた。
ボールペンの先端から滲む、紙に染み込み切らなくなったインクの匂いが鼻を突く。
二人の先輩の名前を囲む丸が、私の気分を表しているように黒々と、濃くなって行った…。
空手部の取材をおこなってから二日後、私は新聞部の資料室で、長机を挟んでヨークシャーテリアと向きあっていた。
構成チェックを終えた原稿を返して、目を通して貰っていたんだけれど…。
…静かな所でやりたいと言うから、この資料室に場所を移したものの、沈黙が重苦しい…。
「…あの…、…どうでしょうか…?」
長い沈黙に耐えかねて口を開いた私に、ヨギシ先輩はチラッと目を…たぶん向けた。前髪で見えないけれど。
「…80点…」
ぼそりと呟いたヨークシャーテリアは、予想外の高評価を貰えた事でビックリしている私に、向きを変えた原稿をズイッと
出して来た。
「…構成チェックで…、思った事は…?」
「え?」
「…何でも良い…。チェックで…感じた事は…?」
「えぇと…」
私はチェック中に思った事を、おずおずと口にした。前髪に隠れた先輩の目が放つ眼光を意識しながら。
まずは用語の間違い。おそらくはテストの為にわざと間違えていたんでしょうけど。
次にレイアウトそのもの。列挙する順番に少し違和感を覚えたわ。
最後に表現。あまりにも専門用語が多くて、硬くて淡々としていたから一般用語を主体にした文章を案として提示してみた。
以上三点について感じたことを述べると、ヨギシ先輩は顎に手を当てて、何か考え込むような顔になる。
「…悪くない…」
ぼそっと呟いた先輩は、私に向かって手を広げ、指を三本立てて見せる。
「…まず一点目…。意図的に…試した部分がある事は…、否定しない…。二日間の稽古見学…。キカナイ主将の…お節介な解
説を…きちんと聞いていれば…、気付く物ばかりだったはずだ…」
そう言って、先輩は指を一本折る。
「…二点目…。これは単に…センスの確認…。正確さが最重要の新聞において…読み易さを…どれだけ確保できるか…。これ
は…、書き手のセンスで…大きく差が出る…」
二本目の指を折り、先輩は続ける。
「…最後は…、君自身を試したかった…。これまでも…君が手がけた文章には…センスが窺えた…。が…、極端に専門用語を
廃する文面から…、勉強不足や…語彙の少なさも疑った…。だから…試してみた…。が…、どうやら違うようだ…」
最後の指を折った先輩は、握り拳の形になった手を引っ込める。
そして、鞄から新たに一枚原稿を取り出し、私に押して寄越したチェック済みの記事にぱらっと重ねた。
それは、恐らくテスト用ではない原稿。
私が指摘を入れた部分が直っている…、いいえ、非の打ち所の無い、指摘を入れた物以上に完成された原稿だった。
「…君のチェックは…期待以上だった…」
腕の差を見せつけられ、愕然としながら二枚の原稿を確認している私に、先輩は静かに言う。
「…満点に及ばなかった分の…二十点は…、単に…相撲への…知識不足による…ロス…。下地が出来ていれば…おそらくは…
満点だっただろう…」
お世辞かしら?と思って、恐る恐る視線を上げて窺った私は、目を疑った。
ヨギシ先輩は、肩を小さく揺すって、静かに笑っていた。
「…まだ一年生…。少ないはずの…経験を鑑みれば…、飛び抜けた…熱と才能だ…。末恐ろしい…。そして頼もしい…」
口の端をちょっとだけ上げて笑っていたヨギシ先輩は、言うべき言葉が思い浮かばない私に、「イワクニから…聞いた…」
と囁きかけた。
その、辺りを憚るような普段以上のボソボソ声をキープして、先輩は私に尋ねて来た。
「今の…新聞部に…、不満が…あるそうだな…?」
唐突にその言葉を投げつけられた私は、息を飲んだきり返事に窮した。
「…もしも…。君にその気があるなら…、覚悟があるのなら…」
前髪の奥で、ヨークシャーテリアの瞳がキラリと輝き、私の様子を窺う。
「俺達の革命に…、参加してみるか…?」
………。
その沈黙は、どれほど続いただろうか?
私は黙り込んだまま、同じく黙っている先輩の顔を見つめ、考え続ける。
革命?部に不満?覚悟?
ヨギシ先輩のボソボソとした、しかし不思議に胸に食い込んで来る言葉が、私の中で反響する。
やっと判った。イワクニ先輩が、私にあんな助言をした理由が…!
ヨギシ先輩と話せ…。つまり、同じ考えを持つ先輩と話せと…、そういう事だったんだ…!
「革命…というのは…、どういう事でしょう?」
慎重に言葉を選ぶ私に、ヨギシ先輩はボソボソ声で続けた。
「今の…新聞部の体制を…ひっくり返す…」
簡潔で分かり易いその言葉は、私の心を揺さぶった。
「俺や…、不満を抱えている…他の部員と一緒に…、部の上部にほえ面かかせてみないか…?」
胸が高鳴った。
私の中で燻っていた熱は、方向を示された事で沸々と、その温度を上げて行く。
私と同じように考えていた部員が居る…!
部の体制に疑問を持っていた部員が居る…!
消えない不満を持ちながらも、これまでは具体的にどう行動すれば良いか判らなかった。
ユリカには自然に変わっていく物だって言われたけれど、変化が見えない事には時に苛立ちもしていた。
そこへ投げ込まれた、革命という言葉…。
「…無理にとは…言わない…。権威の塊…新聞部…その上層部を敵に回しての…苦闘が待っている…」
周囲にひとが居ないにも関わらず入念に抑え、低く細く潜めた声で、先輩は続けた。
「…だが…、個人的に言うなら…、君程の記者が…加わってくれるなら…、非常に助かる…」
その言葉は、ヨギシ先輩のお世辞混じりでもあったのかもしれないけれど、私を奮い立たせるに足る、嬉しい物だった。
「もしも、私程度でも役に立てるなら…」
先輩と同じく潜めた声で、私は決意を口にした。
「是非…、お手伝いさせて下さい…!」
真っ直ぐに見つめる私に、ヨギシ先輩はもそっと、首周りの豊富な被毛を揺すりながら静かに頷き、手を差し出して来た。
「…よろしく…。シンジョウ…」
その黒くてモサモサした手を、私はギュッと握り締める。
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
これからひっくり返そうとしている新聞部の片隅で、私は、共に辛く苦しい革命に身を投じる事になる先輩と固い握手を交
わした。
まだ聞かされていないから、活動の具体的な内容は解らないけれど、やっと方向性を見出した私は、気を昂ぶらせずにはい
られなかった。
この時の私はまだ、今日という日が…いえ、ヨギシ先輩に信用されるまでのこの数日間が、いかに大事な物だったのか、判っ
ていなかった。
新聞部のみならず、学校中を巻き込んでの大騒動に発展する革命に参加するきっかけとなった、この数日…。
同時に、これからの生涯ずっと敬愛し続ける事になる、最高の指導者にして理解者と縁を結んだ数日…。
革命、部活、恋に勉強…。
アクシデント続きとなる私の学校生活は、あるいは、この数日がターニングポイントだったのかもしれない。