第十七話 「白の衝撃」(前編)
「練習試合…ですか?」
「…そう…」
部の資料室、古い写真が詰め込まれたアルバムを開いている漆黒のヨークシャーテリアは、聞き返した私に陰気にも感じら
れる低い声で応じた。
ヨギシ先輩は、その名前のイメージ通りに夜の岸辺のようなひとだ。
全身を覆う真っ黒なモサモサの被毛は目を隠して暗い印象を与えるし、ボソボソ声は湿った夜風のよう。
一見、ただ陰気で根暗で背の低い、資料室と図書室がお友達なわんこ先輩と思われがちだが、実はその小振りなモサモサボ
ディには熱い物を秘めている。
私達革命軍、…とはいっても全部で十人しか居ないけれど…、とにかく、革命の志士をまとめ上げているのは、メンバー中
唯一の新聞部三年生であるこの先輩なんだから。
新聞部の体制と在り方に疑問を抱いた数名の部員達…つまり私達と、帰宅部を含む他の部からの参加者で構成された革命軍
は、ある行動を計画しており、密かな会合を繰り返している。
その中で議長を務めるのもまたヨギシ先輩。ひょっとしなくとももしかしなくとも、間違いなくメンバー中一番の切れ者。
私なんか足下にも及ばない深い考察力と洞察力、観察力を併せ持っている上に、行動力も備えている。
おそらく、このひとでなければ、部内の上層部に全く気付かれずに革命の志士を集めて纏め上げる事なんてできなかっただ
ろう…。
そんな革命の指導者と参加者である先輩と私は、今は新聞部員としての活動中。
「いつです?」
「…明後日…」
「随分また急ですね」
「キカナイが…言い忘れて…いたそうだ…。まぁ…、いつもの…事だが…」
プロレスラーのようなガタイの相撲部主将を思い出し、何と返事をして良いか解らない私が黙り込むと、
「取材に…行く…。予定が…無いなら…同行しろ…」
「はい。今のところ大丈夫ですが…、何処とですか?」
訊ねた私に、ヨギシ先輩は一言「川向こう…」と応じた。
「我が校の…運動部の…例に漏れず…、相撲部も…、古くから…あちらと交流がある…。…もっとも…、お互い弱小だが…」
うわー辛辣…。相撲部のひと達とは仲が良いようなのに、こういう所では意見に緩衝材を入れないのね…。
「その弱小から…脱却できるだけの…逸材を…、ウチの相撲部は…、一昨年の春に…手に入れた…。全国の土俵を…狙えるだ
けの…大器を…」
ヨギシ先輩はボソボソ声で続けて、私はピンと来た。
「カバヤ先輩ですね?」
超高校級の重戦車、面識がある相撲部の河馬獣人を思い出しながら言った私に、ヨークシャーテリアは顎を引いて頷く。
やっぱり、カバヤ先輩はヨギシ先輩の目から見ても強い選手なんだ…。
けれど、だったら何故?どうしてこれまで一つも大きな戦果を残せていないのかしら?
疑問に思いつつも、訊いてみるべきか黙っていようか少し迷った私の耳に、ヨギシ先輩の声が忍び込んだ。
「どれほど素晴らしい…大皿でも…、割れていれば…皿としての用途には…耐えない…。どんな大器も…、欠けていれば…」
…欠けている…?それは…カバヤ先輩の事?
耳を傾ける私の存在など眼中にないように、ヨギシ先輩は写真を指で描く円で囲みながら続ける。
「重大な欠陥を…抱えている事…。自覚しながら…、立ち止まれなかった…。立ち止まる事が…できなかった…。立ち止まる
事を…良しとしなかった…。その結果が…今のアイツだ…」
いつも通りのヨギシ先輩のボソボソ声には、しかし今は、熱のような物が僅かに籠もっていた。
けれど、先輩の事をやっと理解し始めたばかりのこの時の私には、その微細な変化にかろうじて気付けても、それが何なの
かという事までは解らなかった。
…その熱の正体が、憤りだという事までは…。
この時ヨギシ先輩がとても怒っていたという事を、そして、その怒っていた理由を私が知る事ができたのは、革命前に関わっ
たこの最後の一件が、終わる頃になってからだった…。
私は新庄美里。星陵の一年生で、眼鏡がトレードマークの新聞部女子。
…水面下で着々と進む極秘計画に参加している、革命の志士の一人…。
「野球部の壮行記事を?私がですか?」
「ああ」
目を丸くして問い返した私に、三年生のイケメン男子は頷いた。
ここは、他の部にはまず無い、新聞部の優遇ぶりを象徴するかのように、小さな文化部の部室と同じ間取りの部長室。
四方の壁やその手前の棚には、これまでに新聞部が取ったコンクールの表彰状や盾が所狭しと飾られている。
この部屋の主、新聞部の部長である布川昭義(ふかわあきよし)先輩は、椅子に腰かけたままデスクの上に肘を乗せ、組ん
だ手に顎を乗せている。
「何故、私に?」
革命の計画が漏れたのかもしれない。
そんな最悪の可能性すら心の隅に留めたまま、私は慎重に部長の表情を見定める。
ヨギシ先輩と資料室で練習試合の話をした翌日の今日…、私はまだ、自分が何故部長に呼ばれたのか知らないのだ。
「これでも君の事を買っているんだ。君の記事は良い」
フカワ部長はそう言って、私に微笑みかけた。
普通の女子ならくらっと来るんでしょうけれど、警戒しているせいか、私はその魅惑的なスマイルにも心をときめかせる事
は無かった。
「それと、野球部の壮行記事と同時に、レスリング部の取材もおこなって欲しい。地区大会で消えたが、あちらも記事を書い
て欲しいようでね。実に模範的な態度でお願いに来てくれた」
部長は含み笑いを漏らす。その目に宿る光が嫌な物に見えたのは、私の気のせいではないと思う。
部長が口にした「模範的な態度」というのが、どういう態度を指すのか…、考えなくとも想像がついた。
きっと、地区大会で消えて引退することになったレスリング部主将、ごっつい体といかつい顔の猪は、後輩達のためにプラ
イドを捨てて懇願に来たんだろう…。来年も、廃部にならない程度の部員が確保できるよう、記事で大きく扱って貰う為に…。
「野球部の壮行記事を書く我が部のホープが、来る新人戦を目標に努力する弱小運動部の記事を書く…。扱いとしては満足し
て貰えるだろう。いささかサービスし過ぎかもしれないとは思うけれどね」
私は、胸の内側がジリッと焦げるような不快な熱さを感じつつ、しかし顔色を変えずに立ち続ける。
このひとは自覚しているんだろうか?その傲慢な物言いを、傲慢な目線を、傲慢な考えを…。
部活に上も下も無い。なんでそんな事が解らなくなっているんだろう?
私の内心を見透かせていないらしい部長は、少し身を乗り出した。
「シンジョウ君。君には才能がある。何も記事に限っての話だけじゃない。水上重善を陥落させた手際や、空手部を懐柔する
に至った手腕…。君は取材を円滑に進める才能に恵まれている」
つきたくなったため息を堪え、私は黙って部長の言葉を浴びる。
解っていない。まるっきり。
手腕とか、手際とか、才能とか……、そういう物じゃない。ミナカミ先輩や空手部の皆が私の取材に応じてくれたのは、決
してそんな物のおかげじゃない。何でこのひとにはそれが解らないんだろう?
私にあったのはちっぽけな縁だけ。あとは普通に接していただけで、先輩達は応えてくれた。
きっと誰でもできる。きっかけさえあれば、私以外のどの部員でも、空手部とのわだかまりを解くことができたはず…。
ミナカミ先輩にだって、ちゃんと「部活動」を取材する適した部員をあてがえば良かっただけなのに…。
なのにそれが為されなかったのは、上層部の目線と立ち位置のせいだ。
取材を断るミナカミ先輩に対して、言い分を聞かずにただ取材させろというだけでは、上手く行くはずがない。
あちらから頭を下げるのをただ待っていたのでは、こっちに原因がある空手部との深い溝を埋める事なんてできやしない。
私が苛立ちと憤りを抑え込んでいる間にも、無理解な部長は話し続けた。
「君には近い内に、定期新聞や臨時号の全体構成立案にも加わって貰いたい。一年の中でも君の働きぶりと記事、そして結果
は群を抜いている。評判も上々だ。より興味を引く記事と構成を、君の意見を取り入れながら作って行きたいと思っている」
…大抜擢…ね…。驚くほどの…。
少し前の私なら、手放しで喜んで、舞い上がっていた事でしょうね…。
部長が自分を買ってくれている…。記事を認めてくれている…。と…。
歪んだ内情も全く見えず、他の部が自分に向けている媚びや警戒にも気付かず、脳天気に取材に駆け回っていた、入部した
ての頃の私だったなら、間違いなく…。
でも、今の私には、部長が口にした数々の言葉全てが、新聞部の傲慢さを象徴する物としか捉えられなかった。
偉大な仕事の成果を残し、刻んで、揺ぎ無い立場を築いて来た先達の栄光…。
その上にあぐらをかき、新聞部が情報と報道を権力として奮うようになったのは、一体いつからだったんだろう?
ここ数年の事じゃない。きっと、ずっと前からそういう風になってきて、今ではその体質が年々受け継がれて行くようになっ
て、いつしか誰もそれに疑問を持たなくなってしまったんだ…。
…だからこそ、断ち切らなければいけないのよ…。一石投じる誰かが必要なのよ…。
そしてそれは、ヨギシ先輩が居る今年でなければならない。
あの先輩抜きで蜂起する困難さを考えれば、今年が最も条件に適っている。
憤りを飲み下し、私は落ち着いて考える。カモフラージュの為に部内の仕事は普通にこなしておけと言われている私だけれ
ど、さすがにこの大仕事を抱えながら革命の準備なんてできるはずもない。
それに何より、革命軍の決起予定日は、壮行記事の掲載より前だ。反旗を翻した部員の記事が使われるはずが無いから、や
るだけ無駄…。
…いやちょっと待って?もしかしたらこれ、何かに利用できるんじゃないかしら?
例えば、引き受けるだけ引き受けておいて、記事を用意せずに決起しちゃうとか…。
…ヨギシ先輩に相談してみようかしら?あの先輩ならきっと上手い利用方法を考えてくれるはず…。
「申し訳ありません部長。少しだけ考える時間を頂けませんか?これだけ責任重大な仕事…、私なんかに務まるかどうか、自
信が持てなくて…」
私は礼を失さないよう、緊張気味の一年生の演技を続けたまま部長に願い出て、時間を貰った。
…ヨギシ先輩、今日は部室に顔を出していない…。けれど明日は丁度一緒に練習試合の取材に行く予定だ。都合が良いわ…。
夕方にはやむという予報に反して、傘を叩く雨音は一向に弱まらない。
それどころか、昼過ぎから振り出した雨は次第に強まっているような気もする。
豪雨一歩手前の雨の中、川向こう…つまり陽明商業高等学校の敷地内を、私はヨギシ先輩と一緒に歩いている。
「…断れ…」
「そうですか…。利用できないものかと考えたりもしたんですけれど…。何か思いつきませんか?」
武器を手に入れたかもしれないと期待していた私は、ちょっとがっかりしながら先輩に訊ねる。
「考えが…浮かばないでもない…。十二ほど…手が浮かんだが…」
「十二!?何でそんなにたくさん…!」
絶句した私に、先輩はボソボソと応じる。
「手段が十二個…思い浮かぼうと…、実行に移せないのでは…、無意味…」
「実行に移せない?」
「どう上手くやっても…、多かれ…少なかれ…、野球部と…レスリング部に…迷惑がかかる…。彼らを…巻き添えにしない…
得策と呼べるだけの物は…、無い…」
「そうでしたか…」
私はちょっと呆れた。他の部への影響を考えられなかった自分に。
例えば私が記事すっぽかし計画を実行したとして…、記事を抜かされた野球部とレスリング部は困るだろう。
「どうにかすれば、上手いこと出し抜く手段になると思ったんですけれどね…」
「じきに…、別の手で…出し抜く…。ところで…」
先輩は、この話題はここまで、とでもいうように話を変えた。
「カバヤが…、こちらの相撲部にとって…、上を狙える…数年ぶりの逸材だったように…」
残り少なくなった稽古場までの道のりを縮めながら、ヨギシ先輩は雨音にかき消されそうな声で囁く。
「…あちらにも…、昨年今年と…活きの良い選手が…入部している…」
「昨年と今年…、一年生と二年生ですか。要チェック選手なんですね?」
雨の飛沫に煙った傘の陰で、ヨギシ先輩は顎を引いて頷く。
「一年生は…、まあ、これからだろう…。キカナイもカバヤも…、目の良い選手は…皆そう言っている…。だが…」
ゴロロッと雷が鳴って、私は身を竦めた。
不機嫌な空のうなり声がしばらく尾を引いてからやむと、ヨギシ先輩は再び口を開く。
「二年生の方は…、既に脂が乗っている…。カバヤが…まともな相撲を…取らせて貰えて…、それでも…負けるとすれば…、
この近辺で…あの二年生だけだろう…」
「二年生なのに…、他の三年生達より強いんですか?」
「…間違い…なく…。実際…、カバヤを除けば…、あの二年生に勝てた選手は…、こちらに…一人も居ない…」
その陰気な口調で、練習試合直前になってから悪い情報伝えるの止めて下さい先輩…。
「今日は…良く見ておけ…シンジョウ…。もしかしたら…その二年が…、カバヤに…引導を…渡してくれるかも…しれない…」
「引導とか縁起でもない表現しないで下さいよ…」
小声で抗議した私は、けれど内容の方に注意が行っていたせいで気付けなかった。
注意さえしていれば、その口ぶりから、先輩の本当の望みが少しだけ覗えたのに…。
稽古場の中は、むわっと湿っぽかった。
土や汗の匂いと湿気は、こっちの稽古場と同じ物だけれど…、今日は熱と湿気が大きく違う。
雨天の湿気に加え、大男達が密閉空間に集まっているせいだ。
こちらとあちらの部員数は同等。いつもはこっちの相撲部の稽古場のように、適度にばらけているんでしょうけれど…、今
日は倍も居るせいで大男密度が高いのね…。
遅れて訪問したヨギシ先輩と私は、皆の着替えが終わり際で、これから準備運動というタイミングで稽古場に入ったらしい。
両校の顧問は奥の座敷に座っていて、のんびり歓談中。…練習試合とはいえ姉妹校。赤の他人じゃないからか、これから取っ
組み合うのに、所々で数人の部員達はフレンドリーに立ち話をしている。
良い雰囲気…。本気でぶつかり合う練習試合というよりも、合同練習みたいな感じね。
大会も目前だし、調整目的の練習試合だからというのもあるんでしょうけれど。
私を促したヨギシ先輩が歩いていく先では、こっちの主将さんとあっちの主将さんが話をしている。
陽明の主将さんは黒豚さんだった。偏見かもしれないけれど、豚獣人らしいぽってり太った体付きで…、えぇと、何て言う
か…、据わったような目をしている…。
「…今日は…、よろしく…」
ボソボソ声で挨拶したヨークシャーテリアに頷くと、ビア樽みたいな黒豚主将は私に視線を向ける。
その目が、あからさまに疑問と興味の光を帯びた。
気付けば黒豚さんだけじゃなく、あちらの生徒さん達全員が、私達の方を見て会話を止めていた。
やがて黒豚主将は、珍しい物でも見たような訝しげな目をこちらの主将さんに向け、視線で問う。
プロレスラーのような体格のキカナイ主将はその視線を受けると、「ああ、紹介しようか」と何故か得意げに胸をそらした。
「くっくっくっ…!じゃじゃーん!何を隠そう、ウチのマネージャーです!」
両校の生徒から入り混じって上がったどよめきが、稽古場を満たした。
嘘つかないで下さい主将さん!何堂々と言い放ってるんですか!
「キカナイ…。一応…ソレ…、ウチのホープだから…」
さすがに黙っていられなかったのか、前髪の下でビカァッと鋭く激しく目を輝かせるヨークシャーテリア。
ボソボソ声に怒気が滲んだように感じたのは、私の気のせいではないだろう。
「やだなぁ冗談だって!冗談!ははは!そんな怒んなよ?なっ!…ちっ…、既成事実こしらえてうやむやの内に女子マネゲッ
トしちゃろーとか考えたのに…」
聞こえてます。聞こえてますよ主将さん。しっかりと。
だがしかし、ヨークシャーテリアのボソボソ抗議はあちらさんの耳には届いていない。どよめきに続いてひそひそと小さな
囁き声が…。
「…女子マネ…」
「女子だって…」
「実は…、今学期まだ女子とまともに口きいた事ない…」
「俺なんて避けられてる…」
「汗臭いとか…」
「土臭いとか…」
「暑苦しいとか…」
「デブいとか…」
「じめっとするとか…」
「羨ましい…」
「羨まし…」
「羨ますぃ…」
「じぇらしぃ…」
亡者の怨嗟にも似たその囁き声には、どこか哀切さが漂っていて、薄気味悪さよりも同情心をかき立てた。
…何だかこう…、お通夜の席みたい…。
横に視線を向ければ、私の目での問いかけに頷くヨークシャーテリア。
「…さが…なんだろうな…。相撲部は…、女子に概ね…不評…。こちらでも…、あちらでも…」
…つまり…。貴重なんだろうか?女子との接触機会が…。
「うお!?何この空気っ?」
突然そんな声が聞こえたのは、稽古場奥の引き戸の所からだった。
見上げるような真っ白い巨体が戸口に立っていて、高い位置にある頭が稽古場を見回している。
デジャヴかしら?何となく「似てる」と思ったけれど、その印象はしっかり掴む前に指の隙間から逃げていった。
別室から出てきたのは、もさもさの白くて長い被毛を纏う、大柄な肥満男子だった。
どっしりした体に垂れ耳のその犬獣人は、グレートピレニーズ。
たっぷりした毛量を抜きにしてもかなりボリュームがある、とても太った巨漢で、戸口をほぼ塞いでいる。
次いで、戸口に突っ立ったままの巨体の後ろから覗くように、ひょこっと斜めに小柄な男子が顔を出した。
マワシ姿の大男達の中、たった一人だけ小柄なジャージ姿。…あら可愛い。柴犬かしら?
お通夜ムードのあちらさんサイドを見回し、グレートピレニーズは分厚い胸の前で丸太のような腕を組み、眉根を寄せつつ
太い首を傾げた。
そこへ、横にも張っている巨漢の脇腹と戸口の隙間から覗いている可愛い柴犬が、小声で話しかける。
「まざらなくて良いんですか?」
「いやー…、流石にまぜれって言えねー感じ。ってか、むしろまざりたくねーんだけど?この雰囲気…」
「いや、そうじゃなくて…、準備運動です…」
「ああ。そっちはまざるけど…」
少し横に退いて柴犬を通してあげた巨犬は、手前側に居た褐色の猪を手招きする。
こっちの猪もかなり体格が良い。文字通りの猪首に分厚い体躯。
特大寸胴みたいな体つきで、猪特有の立派な牙が生えているけれど、目は異様に細い…っていうか完全な糸目。どこかぼーっ
としているような表情は優しげで、穏やかな雰囲気がある。
白犬が招く仕草に気付いてのそのそと寄って行った太い猪に、柴犬君が声を潜めて訊ねた。
「…何かあった?何だか皆、そのぉ…、暗くない…?」
「…んっとぉ…。急に皆、元気無くしちゃってぇ…」
褐色のごつくて丸い猪は、柴犬君の問いにやけにのんびりとした口調で応じる。そしてそのまま視線を私の方へ…。
「よくわかんないけどぉ、あっちのマネージャーさんが、女子なんだって聞いたら急に…」
違いますっ!!!
揃って三人の視線が向けられ、私が心の中で叫ぶように否定すると、でっかいグレートピレニーズが快活な笑い声を上げた。
「だはははーっ!なーるほど!美人ジャーマネ確保されて、あっちとさらに差が付いたって、そんで皆ヘコんでんのかぁ」
だから違いますってば!!!
「だが問題無しだぜぃっ!可愛さならウチのジャーマネも負けてねー!だろっ?」
グレートピレニーズは野球グローブのような分厚い手で、傍らの小犬の背を叩いた。
彼にしてみれば軽く叩いただけかもしれないけれど、体格差のある柴犬は前のめりになってよろけて、太い猪に捕まえられ
ている。
あ。やっぱりあの柴犬君がマネージャーなんだ。どうりで一人だけジャージ…。
白い巨犬は柴犬君から抗議の視線を向けられたものの、それには気付かず稽古場をぐるりと改めて見回した。
「…おろ?居ねーじゃん?」
眉根を寄せた白犬は、傍の猪に小声で何か訊ねる。
猪が太い首を軽く捻って、やがて左右に振ると、白い巨犬は「うぇ!?」と大きな声を上げつつ軽くのけぞる。そしてしょ
ぼんと項垂れ、広い肩をがっくり落とした。
傍目からもはっきり解る程ガッカリしている。ふさふさの尻尾が力無くクタッと下がっているし…。
一体どうしたのかと首を傾げていると、ヨギシ先輩が呟いた。
「カバヤが…居ないからだ…。カバヤを…ライバル視…しているからな…」
今日、カバヤ先輩は欠席している。…あんな体していても風邪とか引くのかしら?
それにしても、表情がころころと変わるわねぇあのグレートピレニーズ…。なんとも単純そうで、人の良さが伝わってくる。
「…和むな…シンジョウ…。「アレ」が「そう」だ…」
ぼそりと横合いで囁かれ、私は気を引き締めて背筋を伸ばす。
何が「アレ」で「そう」なのか、直前に聞かされていた私にはすぐ理解できた。
「どう…見える…?」
「どうって…。豪快そうで快活そうなひとですね。嫌いじゃないタイプです」
「そこじゃない…。お前は時々…面白過ぎるぞ…」
…面白くもなさそうな顔付きと声で何をおっしゃいますか…。
「分析中の時間稼ぎに、解っていてボケてみました」
そう応じながらも、私は真っ白でばかでっかい犬を観察している。
体格は…そう、カバヤ先輩よりはさすがにいくらか小さい。身長も幅も。けれど両校合わせても他のどの部員よりも大きい。
まず目を引くのは、その巨体を支える大腿部の太さとふくらはぎの盛り上がり。ふさふさの真っ白な被毛に覆われているの
に、それでも見れば解る。
そして、どこもかしこもとにかくどっしり太い。腕や脚、胴だけでなく、首までが。
特に首は、長い被毛に覆われている事もあって、あるんだか無いんだか疑わしい程…。真後ろから見たら、きっと筋肉で山
型に盛り上がった肩に頭部がそのまま繋がって見えるでしょうね。
マワシをスパンと叩いた際にゆさっと揺れるお腹は迫力満点。出具合とかが。
筋肉と脂肪が乗った、体型の関係上やや垂れている胸も、極めて分厚く圧巻のボリュームだ。
さらに、単純に太っているから太いのとは違う、腰回りや肩幅から覗える、度を越した骨太具合…。
観察に観察を重ねた私は、初めに抱いた印象に立ち返った。「似てる」という、白い巨体を目にした瞬間に感じた、その印
象に…。
…そう、似てる。パワフルな重機でも見るようなこの感じ…。アブクマ君から受ける印象に凄く良く似てる。
向き合うだけで圧倒されるような巨体。しかも分厚い毛皮と脂肪の下に、高密度、高出力を誇る筋肉がみっしり詰め込まれ
て、それらが頑強な骨格に十二分に搭載されている…。
余分に見える肥えた体は、けれどその実、あるベクトルで見ればきっと非常に近付いているんでしょう。「完成」に。
だからこそ、不格好なはずなのに、目にした瞬間に感動や感心のため息が出そうになる…。
「…「解った」…ようだな…」
「ええ…。大きく抜け出ているんですね…?あの選手…」
「…そうだ…。解ったなら…、上出来だ…。それでこそ…、稽古見学に…連れ回した…甲斐がある…」
ヨギシ先輩のボソボソ声が、やや満足げな響きを帯びた。…褒められちゃった…。
「親しい知り合いに、似たような感じがする子が居ますから…、それで気付けました」
「…阿武隈沙月…か…」
頷いた私に、ヨークシャーテリアは続ける。
「アスリートにも…、格闘家にも…、素人目でもはっきり解る逸材…、そういう者は…、希に居る…。本能的に…理解する…。
「こいつは凄い」…と…」
練習試合直前だというのにリラックスムードで、快活に部員達と話しながら腰に手を当てて体を左右に捻り、大きなお腹を
ゆさっゆさっと揺らしてストレッチしているグレートピレニーズの姿は、どこかコミカルで微笑ましい。
しかし今の私には、一挙手一投足が強烈な不安を覚えさせた。
アブクマ君の試合を見ているときに感じる頼もしさと、全く逆。
これからウチの部は「こんなの」と戦わなきゃいけないんだ…。そんな不安が沸き上がる。
普段は穏やかだけれど、土俵に登ったカバヤ先輩からは、誰も勝てないだろうと感じさせる程の迫力があった。
技量やスペックに関してヨギシ先輩も太鼓判を押しているから、この評価は、あながち雰囲気に飲まれた私の勘違いという
訳でもないと思う。
それでもなお…、何か冗談でも言い合ったのか、傍の部員と言葉を交わして豪快な笑い声を上げているグレートピレニーズ
を見ていると…、「この選手と戦ったら、もしかしたら…」などと思わされてしまった…。
練習試合は、ほぼ総当たりで行われた。
どういうローテーションが組まれているのかは解らないけれど、滞りが一切無く、実にスムーズに入れ替わり立ち替わり大
男達が土俵に登る。
数をこなす為か、全ての勝負は待った無し。全選手が見合って一度目で立つ。
こちらとあちらの顧問は、数度の立ち合いごとに入れ替わって行司役。
ちょっと他の部ではお目にかかれない、流れ作業を思わせる見事なローテーションだわ…。
選手達はこのスタイルの練習に慣れているらしくて、順番待ち、立ち合い、休憩、股割り等の柔軟と鉄砲、そしてまた順番
待ち…、という流れを完璧にこなしている。
合間に基礎トレーニングを挟んでいるものの、順番待ちの際に二度目の休憩が取れるせいか、土俵に極端な疲労状態で登る
選手は居ない。
始まるなり一気に室温と湿気が高まったような気がするわ…。
いえ、これは気のせいじゃないわね…。汗を流してぶつかり合う大男達がひしめくこの稽古場内は、確実にどっちも上昇し
ている…。
ハンカチを取り出して、湿った首筋を押さえた私は少し考える。…これ、私の汗?それとも結露?
ふと横を見れば、時折手元に視線を落としてメモを取るヨギシ先輩は、暑そうなそぶりすら見せない。
…こんなにモフモフなのに、この環境でも平気なのかしら?
まぁ、暑い暑いと言いながらダレているヨギシ先輩なんて、想像もつかないけれど…。
「お飲み物、どうぞ」
唐突に声をかけられ、私とヨギシ先輩は揃って横を向く。
つい今さっきまで選手や顧問に水を差し入れていた柴犬君が、ミネラルウォーターのショートボトルを二つ手にして、私達
に差し出していた。
「…ありがとう…」
ヨギシ先輩は頷くように小さく頭を下げ、それらを受け取って一本私に寄越す。
柴犬君は感心したような表情で、私達の顔と手元のメモを見比べた。
「取材だなんて凄いですね…。こっちの新聞部なんて、活動してるんだかどうだか判んないぐらいなんですけど…。そっちの
相撲部って、かなり期待されてるんでしょうね?」
「…いや…、どちらかと言えば…マイナー…。新聞部が…活発で…でしゃばりなだけ…」
ヨークシャーテリアのそんな返答に、柴犬君は可愛く微苦笑した。
そして「失礼します」とぺこっとお辞儀し、奥の部屋に引っ込んで、コップをたくさん乗せたお盆とヤカンを持って来る。
働き者ねぇ…。考えてみれば、さっきからずっと稽古場の中をちょろちょろ動き回っていて、殆ど止まっていない。
小さな可愛いマネージャーか…。どことなくイヌイ君を連想させるわね。
私がそんな事を考えている内に、柴犬君はこっちの選手達にまで水を配り始めた。
各選手が休憩に入った所を見計らって、冷たい水を持って回るせいか、数回に分けて何度も回る羽目になっている。
自分の手間を惜しまずに選手を労っているのねぇ…。感心感心。
一方、土俵上では、あちらの主将の黒豚さんとこちらの二年生白豚…通称シロアン先輩ががっぷり四つに取っ組み合って、
黒白豚合戦の真っ最中。
もっとも、組み合っていたのはそれほど長い事じゃなくて、上手投げであっさり転がされたシロアン先輩は「みにゃっ!」
と豚にあるまじき可愛い悲鳴を上げながら土まみれになったけれど。…声がネコっぽい…。
「あっちの主将さんもかなり強いんじゃないですか?」
期待株は一年二年だけと認識していた私が、意外に思って口を開くと、
「弱くは…ない…。決して…。だが、それ以上に…シロアンが…、群を抜いて…弱い…」
うっわぁ…、物凄い言い方…。
「…次だ…。見ておけ…」
ヨギシ先輩のボソボソ声に促されて、私は注意を土俵に戻す。
件の選手が丁度円をまたいで土俵に足を踏み入れたところだった。
対するはこちらの主将、レスラーみたいなガタイのキカナイ先輩。
歩くたびにゆさっと揺れる、ボリューム満点の真っ白な巨体が、仕切りの位置で腰を落とした。
人間とはいえ大柄で体格の良いキカナイ主将が、グレートピレニーズの前では小さく見える…。
ひとまず全体像を見た私は、グレートピレニーズを注視した。
雰囲気が変わっている。
快活に笑っていたあの表情は消えて、闘志を漲らせて双眸をぎらつかせる巨犬の姿は、さっきよりもっと大きく見えた…。
私は我知らずペンを硬く握り、緊張しながら土俵上に注目する。
見せて頂きましょう。ヨギシ先輩が太鼓判を押す、あちらのエースを…。