第十八話 「白の衝撃」(中編)
土俵上で、白い巨漢がマワシをスパーンと叩いた。
真っ白で豊かな被毛に覆われたお腹が、叩かれた弾みにゆさっと揺れる。
先程までの快活で気楽そうな雰囲気から一転し、溢れんばかりの闘志を両目に湛え、力士の表情になったグレートピレニー
ズが、仕切り線の前でぐっと屈んだ。
ずんぐり肉厚の巨躯は、屈んで構えればさながら装甲車両のよう。
重心は低く深く、平均的な男子のウエストよりも太い大腿部が、膝を曲げればさらに太く重そうに見える。
対するキカナイ主将の顔には、気合いと同量の色濃い緊張。
人間男子としてはかなり大柄で、プロレスラーみたいな逞しい体付きをしている主将さんが、グレートピレニーズと向き合
えば小さく見えてしまう。
気迫のこもった両者の睨み合いは、短時間で終わった。
静止から始動、そして急加速が、大男達はそのサイズを鑑みれば意外なほどに早い。
立ったと思った次の瞬間には、キカナイ主将の右腕が素早く伸びて、殴りつけるような喉輪が、白犬のふさふさした毛に覆
われた喉をがっしりと捉えていた。
普通なら喉仏が潰れてしまうか、首を痛めてしまうんじゃないかと思うような、強烈な喉輪だ。
私は見た。その刹那に満たない瞬間は、それでも印象が極めて強烈だったせいで目に焼き付いた。
白犬の唇がめくれ上がり、鼻面に皺が寄り、牙が剥き出しになっていた。
闘志を前面に押し出したその獰猛そうな顔付きは、しかし不思議と美しい。
間近で向き合えばそこそこ怖いのだろうけれど、凛々しく雄々しく猛々しいその表情は、恐れよりも勇壮さを見る者に与え
る、決して醜くも怖ろしくも無い顔つきだった。
キカナイ主将の顔つきもまた、鋭くて凛々しい。軽口を叩いたり冗談を言っていたりする時の表情とは、根っ子から違って
いる。
大男のぶつかり合いを目の当たりにし、感動を覚えた私は、漠然とだけれど理解した。
…ああ…。「闘う」って、こういう事なんだ…。
アブクマ君にイワクニ主将、ユリカや空手部員達に、相撲部員達…。皆が、試合に臨む時は普段と違う顔をする。闘う時に
は違う顔を見せる。
…闘う…時に…?
私が何か掴みかけた次の瞬間、それを思わず手放させるほど衝撃的に、勝負はついた。
喉輪を仕掛けられたまま、グレートピレニーズの右腕がぐわっと大気をかき分けた。
首に手をかけられて少しのけぞった状態から、かなり強引に繰り出された突っ張りがキカナイ主将の胸を真っ直ぐに捉える。
それだけだった。ほんのそれだけ…、首を固定された状態から、腰から上の上体のひねりと腕力だけで突き出された右腕が、
100キロはあるだろうキカナイ主将の体を、直前の前傾姿勢から真逆に変えた。
喉輪が外れて、後ろ向きに、文字通り吹っ飛んだ主将は、たたらを踏んで土俵にお尻から落ちる。
あっけにとられている私の横で、ヨギシ先輩が呟いた。少し前に発したのと似たような言葉を。
「…「解った」…ようだな…?」
「…はい…」
あんまりといえばあんまりな勝負のつき方に絶句していた私は、なんとか返事をする。キカナイ主将に手を貸して、片手で
軽々と引き起こしてのけた巨漢を眺めながら。
グレートピレニーズの顔からは、さっきまでの獰猛な表情が嘘のように消えていた。今は目を細くして、さも楽しげにニッ
カリと歯を剥いて笑っている…。
「…カバヤ以外では…、まず…歯が立たない…。キカナイですら…見ての通り…、力業で…あっさり…ねじ伏せられる…。技
を…引き出す事すら…ろくにできず…」
あまりにも圧倒的だった。ビックリし過ぎて上手く感想が纏められない…。
そんな衝撃的な一瞬の勝負を、たった今終えたばかりのグレートピレニーズは、水を持って行った柴犬君に笑顔でお礼を言っ
ている。
「あー!駄目ですよ先輩!」
自分の手からヤカンを取り上げて、注ぎ口に直接口をつけてぐびぐびやり始めた白犬の前で、柴犬君が悲鳴のような声を上
げた。
「稽古中にそんながぶ飲みしたら駄目じゃないですか!」
「…っぷはーっ!かてー事言わねーで飲ませれ。特別暑いし蒸すんだよ今日。んぐっ…、んぐっ…」
「せめてコップで飲んで下さいよぉ…」
「ほい、ごっつぁん」
「あーっ!空っぽーっ!…お腹打って戻しちゃっても知りませんよぉ…?」
返されたヤカンの蓋を取って中身を確かめた柴犬君は、肩を落としてため息を付いた。
…何だかやけにほのぼの…。微笑ましい光景ね。
グレートピレニーズと柴犬君のやりとりを眺めていた私は、ドジャジャジャッという激突音と擦過音に注意を引かれて土俵
に視線を戻す。
土俵上にはこちらの人間男子と、あちらの猪。
褐色の猪は頭から突っ込む形でぶつかり、上背で勝る大男をそのまま土俵際まで一気に押し込んでいる。まるでラッセル車
だわ。
まさに電車道。こちらの三年生にあっという間に土俵を割らせた猪は、さっき柴犬君達と話をしていたのんびり口調の選手
だった。
が、どこかぽやーっとしていたさっきとは違って、薄く開いた糸目からは、気迫のこもった眼光が発せられている。
「…あっちが…、一年の方…」
「もう一人の大器、ですか…」
「…荒削りだが…、得意の型に…はまれば…、今でもあの通り…。勢いがあり過ぎて…、うっちゃるのも…一苦労だ…」
私とヨギシ先輩が言葉を交わしている間に、礼をして土俵を降りた猪は、途端に気が抜けたようなぽやんとした顔付きに戻
る。…なんかこう…、スイッチが切れた感じ?
休憩に入ったずんぐり猪は、「お疲れ様ー」と歩み寄る柴犬君に緩んだ笑みを向け、
「あーっ!空っぽにされたんだったっ!」
目の前で大声を上げられ、ビクッと背筋を伸ばした。
「ごめん、すぐ汲んで来るから…」
しょぼんと耳を倒した柴犬君に、どこに関節があるか解らないほど太い指で奥の引き戸を示しながら、猪は話しかけた。
「それならぁ、水汲み、おれも一緒に行こぉ」
「え?大丈夫だよ一人で。だから休憩してて」
「いい、手伝うよぉ」
遠慮する柴犬君の手からヤカンをもぎ取り、猪は「行こぉ?」と率先して歩き出す。
「あ、ありがとう…。やっぱり優しいねっ!」
柴犬君に笑いかけられた猪は、照れたように耳をパタつかせ、マワシの後ろから三角形に立っている短い尻尾をピコピコ動
かした。
一年生同士、仲が良いんでしょうねぇ。
見送っていた私は、ふいに視界が暗くなった事に気付いて、顔を前に戻した。
そしてちょっと首と上体を引く。のけぞるようにして。
いつの間にか私達の目前には、毛もマワシも真っ白な、白い巨大な塊が出現していた。
「ども」
私の頭をあっさり鷲掴みにできそうな大きな手をさっと上げ、グレートピレニーズはヨギシ先輩に挨拶した。
「美人ジャーマネもコンチワ」
「ジャーマネじゃありませんよ私」
私が即座に切り返すと、白犬は軽く首を傾げる。
「…コレは…新聞部員…。今日は…勉強の為に…、取材同伴…。さっきのは…、キカナイの…半ば願望混じりな…ジョーク…」
…コレって…。
「あー、なるほどなるほど!だよなー、暑苦しくてむさ苦しくて見苦しい相撲部に美人ジャーマネなんて入る訳ねーもんなー、
だははははっ!」
ヨギシ先輩の説明で納得したのか、グレートピレニーズはお腹を揺すって豪快に笑う。
「んで…、今日カバヤさんは?遅れて参加すか?」
白犬の問いに、黒犬は首を横に振った。
「今日は…、欠席…。病院だ…」
病院?やっぱり風邪とかなのかしら?
「…そんなに悪いんすか?」
「良くは…、無い…」
「そっか…」
白犬は広い肩をがっくり落とし、項垂れる。
あまりにも残念そうで、寂しそうで、哀しそうにすら見えて、大きな体がこの時ばかりは小さく見えた。
が、グレートピレニーズはすぐさまニカッと歯を剥いて笑う。
「邪魔してすんません。ジャンジャンバリバリ取材どーぞ」
くるりと背を向けた白犬は、ぶっとい腕を胸の前でかっぽんかっぽん交差させながら戻って行く。気を取り直すように。
「…カバヤ先輩は病院って…、この時期に体調崩しちゃったんですか?」
遠ざかって行く白い背中を見送りながら訊ねると、ヨギシ先輩は左右に首を振った。
「膝の調子が…悪い…」
私は大きな河馬紳士の膝に巻かれたサポーターの事を思い出す。
膝を痛めているらしい事はヨギシ先輩から聞かされて知っていたけれど…、学校を休む程酷いの?
それとも、大会直前だから、大事を取って調子を整える方を優先しただけかしら…?
「カバヤ先輩の膝の調子が悪い事、相手校の選手に教えちゃって良かったんですか?」
「隠すまでもなく…知られている…。それに…、あいつは…カバヤと親しい…。答えなくとも…本人に訊く…。相撲部でなく
…我々に訊いたのは…、立場を弁えての…一応の気遣いだ…」
「親しい?」
「カバヤ本人曰く…マブダチ…」
…そうですか…。マブダチですか…。
長い長い練習試合兼合同稽古は、その後も延々と続いた。
私とヨギシ先輩はメモを埋めながら、大会前最後の他流試合に打ち込む両校の選手達を見守った。
その夜、寮の自室にて…、
「事故に遭った!?」
私が思わず大きな声を上げたら、ポテチをパリポリ食べていたユリカは「確かそうだよぉ?」と、投稿ビデオ番組に目を向
けたまま頷いた。
そして、戯れる幼いスピッツ達が遊びをエスカレートさせ、障子紙をべりべりと頭と鼻先で押し破って専用出入り口をこし
らえてゆく様子に、腹を抱えて笑い転げる。
今日の取材資料を纏めて膨大な取り組みの勝敗を数字と決まり手の箇条書きにしていた私は、手を休めた際に思い出して、
「カバヤ先輩の膝ってどんな状態なのかなぁ…」と、ぽつりと漏らしたんだけれど…。この呟きに、ユリカが予想外の合いの
手を入れて来たのよ。
私は机から離れて、ごろ寝しながら画面を眺めているパンダっ娘の脇に正座する。
「ちょっと待って…。もう一回良い?カバヤ先輩の膝は稽古や試合…つまり相撲で痛めたんじゃなく、事故で痛めたもの…。
そういう事?」
私の問いに、笑い過ぎた名残の涙を目尻に溜めたユリカは、あっさりと頷いた。それはもう当然の事のように。
「うん。かなり前って事だったけど、車に轢かれたんだってさぁ」
「それ、結構有名な話?」
「ん〜…、どうなんかなぁ?あたしも先輩達が話してるのをちょこっと聞きかじっただけだし…」
私の問いに答えながら、ユリカが眉根を寄せて「あれ?」と呟く。
「もしかして結構重要な事?話してた方が良かった?」
「う〜ん、どうかしら…?前だったらそれほど重要視しなかったでしょうけれど、今はちょっと重要かしらね…」
私が考えながら答えたら、ユリカはのそっと身を起こして、私と向き合う形でパンダ座りする。どうやら詳しく話をしてく
れるらしい。
「かなり前ってどれぐらい?それと、状況とかも解る?」
「えっとぉ…、五年ぐらい前って言ってたかなぁ?何かの時に先輩達が話してたの聞いたんだけど、中学生の頃、川向こうで
交通事故にあったんだってさ。そんでもって…」
ユリカは思い出すようにして眉根を寄せながら、その話を聞かせてくれた。
話を小耳に挟んだだけのユリカは、話を行ったり来たりさせながらも、腕組みをしたり首を捻ったり、目を上に向けたり唸っ
たりしながら、必死に思い出して伝えて来る。…一生懸命さがちょっと可愛い…。
「…なるほどね…。ありがとうユリカ」
「いえいえ、どぉいたしましてぇ〜」
「とても判りやすかったわ。本当に助かった」
「むふ!そんな褒められたら照れるからぁ〜っ!」
お礼を言う私から顔を逸らし、ユリカは首の後ろをモソモソと掻いた。
「そう言えばさ、カバヤ先輩ん家って、鰻売ってる屋さんなんだってねぇ?」
「鰻売ってる屋さんって呼ぶのは正確じゃないかも…。まぁ鰻料理がメインではあるみたいだけれど…」
「鰻かぁ…。鰻ねぇ…。ナギナギ…」
ユリカはしきりにウナギナギナギ呪文のように繰り返す。口の端からヨダレが…。
「ユリカ、鰻好きなの?」
「ん?そりゃまぁ好きだけど…」
ユリカはじゅるっとヨダレを啜って、眉根を寄せて首を傾げた。
はて?「だけど」何なんだろう?
「何を悩んでるの?ユリカ…」
「ん〜、何かねぇ、誰かが鰻好きだって言ってたと思うんだけど、思い出せない…。サツキだったかなぁ…?」
「さぁ?けれど、私が押さえているアブクマ君の好物リストには入ってないわね」
…まぁ、大概の物は文句も言わずに食べるけれど、胃袋容量がポリバケツじみてるあの熊さんは…。
そうそう、ポリバケツといえば…。
私は、すぐ目の前に座った、鰻が好きなひとを思い出そうとしているパンダの顔から、視線を下の方へスライドさせた。
豊満なお腹と胸でパツパツに張ったタンクトップの生地は、メッシュの細かな目が、ややいびつに引き延ばされている。
…それヤバいわユリカ…。アブクマ君と同じような出具合になって来てる…。
肌着が主に横方向に引き延ばされ、さらに段がついた下っ腹に巻き込まれた布地がおへその下でピチピチになって、おへそ
のくぼみが布地越しにはっきり判るその脂肪の乗り具合は…、いよいよ、マズい領域に踏み込みつつあると思う…。
「…ねぇユリカ…」
「うん?」
「最近体が重いとか…、無い?」
「あ〜、夏ばて心配してくれてんの?だいじょぶだよぉ〜」
「え、えぇと…、そうじゃなくてね…?」
「あ、ちょっと待ってて、岩塩ポテチ食べてたら喉乾いちゃった…」
私の言葉を遮ったユリカは、のそ〜っとお尻を上げ、一旦四つん這いになって「よっこいしょ〜」と、漏らす。
「………」
そしてキッチンの方へのったのったと歩き出し、「おいっちにぃさんしぃ」と呟きながら上体を捻り、ダイナマイトボディ
をゆっさゆっさ揺する。
「……………」
さらには、ハーフパンツの前を掴み、ゴムを引っ張って広げてバフバフし、股間に風を送り込んでいる。
「…………………」
言葉が出ず、結果的に無言で見送っている私は、今一体どんな顔をしているだろう?
何これ?何これっ?アブクマ君と仲が良いから?それとも他の何かが要因?
淑女査定にマイナスをかけるどころじゃないわ。いつの間にかユリカがどんどん「おっさん化」してるっ…!
冷蔵庫の前で屈み込み、物色し始めたパンダっ娘のフォルムは、何故か私に鏡餅を連想させた…。
翌日、朝から二度目の休み時間、私は食堂前の自販機脇でアブクマ君と向き合っていた。
「いや、そいつぁ俺が原因って訳じゃねぇぞ?ぜってー違う」
緑茶の缶を煽って空っぽにした大きな熊は、眉を八の字にして、困ったような顔をしながら言った。
着々と進行していくユリカの「おっさん化」の原因がアブクマ君なんじゃないかと思って、たまたま顔を合わせたから声を
かけてみたんだけれど…。
「ユリカの前じゃそんな真似してねぇぞ俺?」
「普段はしてるのね?」
「まぁな。…鋭いなぁお前…。それにこう、何つぅのかなぁ…」
大きな熊は少し言い辛そうに口ごもり、視線を左右に走らせてから小声で言った。
「シンジョウぐれぇ細ぇと想像つかねぇだろうけど…、俺らみてぇなデブはよ、ちっと動けばすぐ汗が滲んで来んだ。ほれ、
こんな具合に、天然の重し兼防寒具がついてるからな」
アブクマ君はワイシャツ越しにムニ〜ッとお腹の肉を摘んで見せた。
「動かすにゃ重くて熱は逃げてかねぇ、おまけにあちこち蒸れる体だからなぁ。口からかけ声が出ちまったり、楽な姿勢を探っ
たり、体をほぐしたり…。こいつら全部、デブだから自然とやっちまう事なんじゃねぇかな?」
確かに、言われてみればそんな気もする…。
「手触りの良さは認めないでもないけれど…、太っていると大変そうね…」
…ひょっとすると相撲部の皆様方もそうなのかしら?私はその点がちょっと気になった。
「おう、大変だ。…けど痩せんのはもっと大変だろうから、こっちの大変さのがまだマシだよなぁ…、とか思えちまうんだよ
な。ダメなデブの見本だなこりゃ。ぬははははっ!」
アブクマ君はお腹を揺すって笑う。
耳をペタンと寝せた困っているようなその表情は、小山のような巨漢をユーモラスに見せた。
「ってな訳で、疑いは晴れたか?」
「ええ、ごめんなさいね?言いがかりつけて…」
「良いって事よ。茶ぁ奢って貰っちまったしな」
瞬く間に空っぽにした缶を揺すり、アブクマ君はニィッと歯を見せた。顔はいかついけれど、こういう表情もよく似合う。
…あれ?何かしらこのデジャヴ?この笑顔…、というか表情かしら…?昨日もどこかで…?
私は不意に思い出し、「あ」と声を漏らした。
「どした?」
「え?あ、うん…。アブクマ君?貴方は試合の時、ちょっと顔付きが変わるわよね?」
「ん?まぁ、そうかもしんねぇけど…、何だよ急に?」
大きな熊は首を傾げ、私は重ねて訊ねた。
「その時って…、どんな感じなの?気持ちとか、頭の中とか…」
「気持ちったってなぁ…、やってやるぜ!…って、そんな感じか?頭の中って言われても…、う〜ん、どうだろなぁ…?」
アブクマ君は小さくかぶりを振り、何かを思い出しているように目を細くする。
「そりゃあ、普通は試合の事や相手の事で頭は埋まってんだろうなぁ…。県大会で、主将の事とか先々の事とか考えてた時は、
確かに動き悪くなってたし…。「適正な状態」っつぅ事なら、やっぱ相手と試合の事にだけ脳みそが向いてる状態なんだろう
なぁ」
「なるほど…。やっぱり、特別な心理状態になるのかしら…?だから顔付きも雰囲気も変わるのかしら…?「闘う」って…、
そういう事なのかしら…?」
最後の方は、問いかけというより自問になっていた。視線を下に向けて考え込む私に、
「ん?闘うってのがどういう事か…、そいつが気になるって、そういう事なのか?」
と、アブクマ君はちょっと不思議そうな顔で訊ねてきた。
私が「ええ」と頷くと、大きな熊はずいっと身を乗り出し、まじまじと私の顔を見つめた。心なしか顔つきが険しくなって
いる。…っていうか近い近いっ!
「ケンカの予定でもあんのか?頭数要るなら遠慮しねぇで言えよ?手ぇ貸すぜ。重さだけなら四人分はあるからよ」
「ちっがーう…」
呆れ混じりの深いため息を付いた私は、勘違いで話がこじれても困るので、アブクマ君やユリカ、そして相撲部の皆が、試
合の際には表情と雰囲気が変わっている事に気付き、少し気になっていたのだという事を説明する。
「あぁ〜!なるほどなぁ、そういう事かよ。俺ぁまたてっきり…、ぬははははっ!」
そのてっきり、どうかしてるわよアブクマ君…。
「そういう事ならよ、そいつの…何だ?心理状態とか頭ん中とか、わざわざそんなトコから考えなくっても良いと思うぜ」
「え?」
疑問の声を漏らした私に、アブクマ君は少し首を傾げ、言葉を選びながら話して聞かせてくれた。
「シンジョウが気になってるソイツはよ、たぶん、試合だからとか、格闘技だからとか、そういう事じゃねぇよ。柔道空手に
相撲…、剣道やレスリング、そういったもんに限らねぇ。シンジョウはよ、ボート部の取材も何回か行ってんだよな?」
「え?ええ…」
何でそんな事を?疑問に重いながらも頷いた私に、アブクマ君は問いを重ねた。
「シゲさんの顔はどうだった?…つっても普通に応援してると見られねぇからなぁ…。レース中はたぶん俺らと同じ顔してる
はずだぜ?漕いでる最中の顔、見えた事ねぇか?」
私は記憶を手繰る。けれど、遠目に映した物が殆どで、ミナカミ先輩の顔がはっきり思い出せない。
「例えば…、野球部はどうだ?マウンドに立ってるピッチャー、ボックスに立ってるバッター、どんな顔してる?」
…あ…。
私はふと思い出した。定期戦で見た、マウンドの上に立つ相手校のピッチャー…、大きなセントバーナードと、その女房役
だった赤毛の猿の顔を…。
おっとりして緩んだ顔付きの彼も、投球の際には目の色が変わっていて…、赤毛の猿も確か、やる気満々で目の光が…。
「たぶんだけどよ、格闘技とか、スポーツとか、そういうモンだけの事でもねぇんだと思う。競う相手が居るかどうかも問題
じゃねぇ。ようは…、えぇとアレだ…、「自分が闘う何か」が見えてるかどうかだろ?」
アブクマ君は腕組みをして一生懸命考えながら言葉を紡ぐ。その目には、試合の時に見えるものとも似た光が浮かんでいた。
「そうやって、「闘う相手」を前にした時、顔付きってのは自然に変わって来んじゃねぇのか?シンジョウもよ、手強い記事
なんか書いてる時は、試合中の俺らと同じ目ぇしてんのかもしんねぇぞ?」
「…つまり、試合に限らず、スポーツに限らず、自分が闘うべき物が見えていれば、表情が変わる…?」
「たぶんな。…俺にこういった難しい事訊かねぇでくれよぉ…」
苦笑いしたアブクマ君の顔を見ながら、その言葉を反芻した私は、
「…ああ…。そうか…。そうだったのね…」
昨日相撲部の練習試合を見ていて掴みかけ、指の隙間から逃げていった感覚を、思い出す事ができた。
そう。私達にも「闘う」べき時は近付いている。
…私にも、皆のように闘う事ができるだろうか…?
あの時、闘うのは自分達も同じなんだって、心のどこかで悟って…、漠然とした不安が私の胸を掠めて通り過ぎて行ったん
だ…。
「ねぇ、アブクマ君?」
「ん?」
「私も「闘うべき時」が来たら、貴方やユリカみたいに、勇敢に闘えるかしら…?」
アブクマ君はきょとんとした後、不意に目つきを鋭くした。
「シンジョウ。何か隠してんだろ?」
ボリュームを落として低めた声は、真剣だった。
「困ってる…のか?何だか…、ちっと不安そうだったぞ今?」
「…困っては…いないかしら?けれどまぁ…」
…今は言えない…。行動開始は間近…、でも今はまだ…。私は歯切れ悪く応じた後、「ごめんなさい」と頭を下げた。
「今はまだ言えないの…。近い内に話すから…」
休憩の終了を告げるチャイムが、私の言葉を遮った。
チャイムに耳をピクつかせ、仕方がない、というように大仰にため息をついたアブクマ君は、体の向きを変えながら言う。
「なら、言うまで待つ。けど手ぇ要るなら絶対言えよ?友達なんだからよ」
不意打ちを食らって戸惑い、「…う、うん…」と小声で応じた私に、アブクマ君は背を向けた。それから数歩進んで、思い
出したように振り返る。
「さっき、自分も闘えるか?って言ってたけどな、その点は心配要らねぇと思うぜ?」
大きな熊は口の端を少し吊り上げて笑う。
「お前ぐれぇ度胸あるヤツ、そうそう居ねぇよ。何なら俺が保証してやらぁ」
…はい?
私は一瞬呆けたようになって立ち尽くしたけれど、響くチャイムの中で我に返り、慌てて大きな背中を追いかけた。
…友達…か…。
私は柄でもなく、そんな言葉で少し嬉しくなっていた。
その放課後、部長に野球部とレスリング部の記事について辞退させて貰う旨報告した後、カバヤ先輩が事故にあった事を知っ
ているか訊ねると、
「…その辺りは…、踏み込む必要も…特に無い…」
ヨークシャーテリアは書きかけの草稿から顔も上げずに応じた。
私達は先輩と隣り合ったデスクについている。…といっても、ヨギシ先輩の隣が留守だったからお邪魔しているだけなんだ
けれど…。
「それはまぁ…、記事にする訳でも無いんですけど…。でも気になるんですよ。知っているならちょっと話を…」
私は言葉を切って目を丸くし、鼻先に突きつけられた草稿を凝視した。
「…無駄話は…、そこまでだ…。チェックを…」
書き始めてから10分と経っていない…。どこまで有能なのよこのひと?
私は仕方なく、校内美化活動の記事…その下書きに目を通し始める。
この先輩の草稿にミスなんて本来は無いんだけれど、私への指導と称してわざと間違いを入れてくる事もあるから油断はで
きない。
念入りにチェックし、顔を上げた私は、
「大丈夫です。ミスは無…、ああっ!」
数分の間に黒犬の姿が忽然と消えている事に気付き、愕然とした。
部室内を見回すけれど、影も形もない。動く気配だってしなかった。…忍者かあのモサワンコ…!?
どうやら、カバヤ先輩の事故については知っているようだけれど…、私に話してくれるつもりは無いようね…。
面倒くさいのか話したくないのかは解らないけれど、煙のように姿をくらます辺り、あのクロムクがかなり本気である事は
窺える。
…仕方ないわね、自力で調べましょうか。
革命にも部の活動にも関係はないけれど、何がどう転ぶか解らない。知っておくに越した事は無いと思うのよね。
それなりの縁と大きな恩のあるひとの事だし…。