第十九話 「白の衝撃」(後編)

「ああ、あったな事故。すぐそこだよ。と言っても、事故に遭ったのはこの辺りの子じゃないが」

無精ヒゲで口周りを青くしているコンビニの店長さんは、顎に下から手を添えてジョリジョリしながら頷く。

ここは川を渡った隣町、昔カバヤ先輩が事故にあったという交差点の角から、一軒隣のコンビニだ。

ユリカは正確な位置を知らなかったけれど、いつの事だったかはきちんと聞いていたから、地方の新聞記事を片っ端から当

たって位置は掴めた。

ただ…、事故の経緯はともかく、少年の名前は伏せられていた。

だから、相撲部の大会前日となった今日、直に知る人の話を聞いて裏を取れないかと考えた私は、最後の調査として足を働

かせ、現場を見に来ている。

四十代になったかならないかという歳の頃、髪を短く刈り込んだ人間男性は、私の細かな質問にも丁寧に答えてくれた。

主にユリカへのおみやげ用として、インスタントのミルクココアや菓子類を三千円あて買い込んだのが効いたかもしれない。

こういう時、良き客として振る舞うことは良い情報を引き出す重要なファクター。姑息なようだけれどギブアンドテイクの

原則に則った行動よ。情報を頂くんだから、買い物ぐらいしなくちゃ。

…あ。よくよく考えたら、駄目じゃない私ってば…。

こんな風にこまめにお菓子とか買って行ってあげるせいで、ユリカはモリモリ食べてプクプク大きくなるのよ…。

ユリカの食い意地だけが原因じゃない。私の間違った気遣いと甘やかしもまた、パンダっ娘を肥育しているんだわきっと。

反省しつつ、これらは食べても太らないオシタリ君にあげようと考えを改めている私の前で、店長さんは記憶を手繰りなが

ら、その日起こった事を話し始めた。

「時期は梅雨入り前だったかなぁ…。まず聞こえたのはブレーキ音だった。丁度お客さんも居なくてね、バイト君もいたから

レジを任せて、何事かと驚いて外に出ようとしたんだ。ドアを開けた途端に、現場に居合わせた人達の悲鳴とかが聞こえて来

てね、慌てて走り出したっけ…」

店長は駐車場に目をやった。どうやら当時の事を思い出しているらしい。

このコンビニにはそこそこ広い駐車場があって、民家への騒音を抑えるために高い壁も建ててあるから、歩道際まで出ない

と交差点は見えない。その時の店長は慌てて道路まで走って、その惨状を目撃したそうだ。

斜めに停車しているワゴン車と、横断歩道の上に横たわる大柄な少年、そして、歩道の白い模様を染めていく赤…。

車から飛び降りた運転手と野次馬が騒ぎ出していて、事故だと察して大慌てで駆け寄った店長は、野次馬の一人に簡単な事

情を聞くなり、とにもかくにも救急車を呼んだそうだ。

「とにかく体格の良い子でなぁ、駆けつけた救急隊員に四人がかりで車に乗せられていたっけ。後で小耳に挟んだら、あれで

中学生だったって言うんだから驚きだった。それに河馬なんて珍しいしなぁ、忘れようが無いよ」

店長さんは腕組みをして目を閉じ、しみじみと続ける。

「凄かったなぁ…。何が凄いって、その度胸と咄嗟の行動さ。大人だってできるもんじゃないよ。ひかれそうになった友達庇っ

て、車の前に飛び出すなんてなぁ…」

私は神妙に頷く。…そう、カバヤ先輩が遭った事故は、自分の不注意が原因じゃない。そこは調べた新聞で私も知った。

カバヤ先輩は、横断歩道を渡ろうとして車にひかれかけた友人を庇い、重傷を負ったんだ…。

話に夢中になっていたのか、それとも他の何かに気を取られていたのか、その子は信号が赤である事に気付かずに渡ろうと

した。

そしてその子に、運悪く脇見運転をしていたトラックが迫ったその時、カバヤ先輩は咄嗟に前へ出て、その子の腕を掴んで

引き寄せた。

そうして、自らの大きな体を盾にして、背中でトラックに撥ねられた…。

「一緒にはねられたはずの白い子は泣きじゃくってたなぁ。河馬の子にすがりつこうとして暴れてね。大声で名前を呼びなが

らなぁ…。そりゃあ凄い暴れっぷりだった。周りの大の大人が三人がかりでやっとこさ引き止めたよ…」

自分もその子を押さえつけた中に加わっていたという店長さんは、「大人が簡単に突き飛ばされたよ」と苦笑いする。

「…これも後で知ったんだが、河馬の子がクッションになったみたいでなぁ。診察を受けたら、白い子は道路に投げ出された

時に膝をすりむいただけの、ほんのかすり傷しか負っていなかったそうだ。…だが、河馬の子は酷い状態だった…。右足があ

り得ない角度にねじ曲がっててなぁ…。タイヤに巻き込まれた膝から下は完全に後ろ向きになって、折れた骨が肉を内側から

突き破ってて…、まるで、ねじくれたボロぞうきん…、いや、もっと酷い有様だった…。…おっと…!」

私が軽く顔を顰めた事に気付き、言葉を切った店長さんは「悪い悪い」と頭を掻く。

「いいえ、平気です。大丈夫…」

私は先を促して、さらに詳しく話を聞き、そして理解した。

カバヤ先輩の膝が、中学時代に負ったその傷で、どんな状態になったのか。そして…。



コンビニを出た私は、駐車場を抜けて歩道に出ようとした所で足を止め、壁際に引っ込んだ。

気付かれてはいないだろうと考えつつも、私は慎重に、高い壁の端から歩道を窺う。

驚きは、それほどでもなかった。

決戦を明日に控えた今日、この場所にその姿がある事は、事情を知った今なら当然にも思えたから。

私がそっと様子を窺っている事にも気付かずに、暗褐色の巨体と白い巨体は、並んで歩道に経ち、交差点を眺めていた。

「明日か」

若草色の涼しげなメッシュティーシャツにジャージのズボン、サンダル履きという格好の大きな河馬が、麦茶の缶を口元に

寄せながら呟いた。

「明日だぜぃ」

白いVネックの袖無しシャツに紺色のハーフパンツ、踵を潰したスニーカーをつっかけた大きな白犬が、コーヒーの缶を口

から離して呟いた。

何を思うのか、両者の目は眩しい物でも見るように細められ、交差点に向けられている。

私は二人の横顔を見る位置で、石を投げられても文句が言えないような露骨な覗きを働きながら、大男達の会話に耳をそば

だてた。

「泣いても笑っても、最後の夏か…」

「勝って笑って引退してートコだろ?」

「できれば…、な」

カバヤ先輩は少し黙った後、何かに気付いたように「あ」と声を漏らした。

「花を持たせようなどと、いらん気を利かせて手加減なんぞしよったら…、絶対に許さんからな?」

「冗談やめれー。手加減して勝てる相手じゃねーだろ」

「勝つ気か」

「負ける気で挑んだら勝てるもんも勝てねーじゃん。今度こそ転がしてやるから覚悟しとけって!」

「それは頼もしい」

「んな事より、…約束、忘れてねーよなカバヤさん?」

グレートピレニーズはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、カバヤ先輩は苦笑いしながら頷く。

「忘れとらんよ。儂に勝ったら、約束通り特盛り鰻重を食わせてやろう」

「おっし!」

「当然、そっちも忘れとらんだろうな?」

「モチのロンよ。デラックスジャイアントパフェセット、驕ってやるぜぃ!」

笑いあう二人の巨漢をこっそり窺いながら、私は考える。

ヨギシ先輩は、全部知っていたんだ…。知っていて私に教えなかったんだ…。

でも、教えようとしなかったその態度から、そして、ヨギシ先輩が言葉の節々に覗かせていたその事から、私は察した。

友人のはずのヨギシ先輩は、カバヤ先輩に負けて欲しいと思っている。早く引退して欲しいと思っている。相撲を、やめて

欲しいと思っている…。

それほどまでに、カバヤ先輩の膝は…。



「…何の…用だ…」

夕暮れ間際、学校近くの文房具店前で、ヨギシ先輩は私の顔を見るなりボソリと呟いた。

休日だというのに学校で調べ物などをしていたヨギシ先輩は、突然の呼び出しにもすぐ応じてくれた。

作業を邪魔されて若干不機嫌そうではあるけれど、話をしておかなくちゃ…。

「カバヤ先輩の事故について、調べました」

私の言葉で全部察したらしいヨークシャーテリアは、前髪に隠れがちな目を僅かに細めた。

「カバヤ先輩の膝、本当は凄く悪いんですね?だから先輩は、カバヤ先輩が早く負けて引退してくれれば良いと思っている…」

先日先輩が呟いていた、「引導を渡してくれるかもしれない」という言葉…。

あれには、あのグレートピレニーズなら、カバヤ先輩を負かしてくれるかもしれない…、引退を決意させてくれるかもしれ

ない…、そんな期待が込められていたんだ。

「全部調べました。カバヤ先輩の戦績も、各大会の結果も、昨年もその前も途中棄権か不参加で大会を終えている事も…。あ

れは全部、膝の故障が原因なんですね?試合ができない程に悪化したから、参加できなかったり、棄権したり…」

「…その…通りだ…」

ヨギシ先輩は諦めたようにため息をつき、口を開いた。

「一昨年は…、準決勝で…膝に限界が来て…棄権した…。昨年は…、大会前の練習試合で…、膝を悪化させ…出場できなかっ

た…。今年は…その失敗を踏まえ…、大会前の調整を…大人しい物にしたが…」

ヨギシ先輩は私の目を見上げて、一層低めた声でぼそりと言う。

「…カバヤの膝は…、このまま酷使すれば…日常の歩行もままならなくなる程…、悪い…」

予想はしていたけれど、私はこの言葉にショックを受けた。

「どうして…、どうして誰も止め…」

「…止めて…聞くなら…、カバヤは今…土俵に上がって…いない…」

私の言葉を、夜風のような囁きが遮った。

「…ある者は…、説得を試みた…。またある者は…、殴ってでも…止めようとした…。だが…、あのカバの逆立ちは…、どん

な忠告にも…制止にも…首を縦には…振らなかった…」

…そうか…。カバヤ先輩が関わったっていう暴力事件の真相は…、そういう事だったんだ…。

「…いかに頑固な…アイツでも…、完膚無きまで…負ければ…諦めると思ったが…、不幸な事に…、故障さえ無ければ…誰に

も…負けない程…、アイツは…強い…」

ヨギシ先輩は一度言葉を切ると、首を左右に振った。

「…今…カバヤの膝は…、これまでで…最悪の…状態…。それでも…、最後の…大会だから…、最後の…夏だから…、アイツ

は…止まらない…。膝が壊れてでも…相撲を取る…つもりだ…」

なおさら止めなくてはいけないだろうと思う私に、ヨギシ先輩は続けた。

「一試合でも…早く…、アイツと…カバヤが当たり…、負けてくれれば…。そう願っている…」

「口で説得しても…、駄目なんですね…?」

「努力は…したが…な…」

ヨギシ先輩は、これで話は終わりだとばかりに私に背を向けると、別れの挨拶も無く歩き出した。

「…有り難うございました…」

会釈してお礼を言った私は、振り返りも立ち止まりもせずに歩き去るヨークシャーテリアを見送って、姿が見えなくなって

からその場を後にした。

次に行くべき場所は決まった。

無駄かもしれないけれど、じっとしては居られなかった…。



食欲をそそる香ばしい匂いが、その店の周辺に漂っていた。

蒲谷屋(かばやや)。その微妙に言い辛い名前の老舗料理屋は、カバヤ先輩のご実家だ。

その、木の板に店名が横書きされた立派な看板が上に掲げられている、暖簾が下がったお店側入り口の前で、私は決心が揺

らがないよう自分を叱咤する。

ヨギシ先輩が言っても聞き入れなかった事を、私が言って聞いて貰えるとは思えない。

私は部外者である上に、出会って間もない一年生…。カバヤ先輩から見たら他人に毛が生えたようなものだ。

それでも、こっちから見ればカバヤ先輩は他人じゃない。大きな借りがある。大きな恩がある。

カバヤ先輩の膝がそんなにも悪いなら、一言声をかけて説得を試みるべきじゃないの?

勿論、高校最後の大会が大事なのは判ってる。判ってるけど…。

今無理をして一生まともに歩けなくなるなら…、先輩にかけるべき言葉は決まってる!

私は自分を納得させるように頷き、自宅側の入り口はどちら側にあるのだろうかと、左右を見回した。

通り側には、お店の正面口と厨房の勝手口らしい出入り口しか見えない。左右にも民家が軒を連ねているから、お店の後ろ

側が見えなかった。

確か一本奥にも道があったはず…。そっち側にお住いの玄関があるのかしら?

とにかく後ろに回ろうと考えた私は、比較的近い右手側の路地入り口の方を向き、動きを止めた。

大きな大きな河馬が、向こうからゆっくりと歩いて来る。

妙に遅い足取りでのっしのっしと、オレンジからすみれ色に変わって行く空を見上げながら。

何を思っているのか、正面に居る私に気付く事無く、体の割に小さい目は空を見上げて細められている。

立ち尽くす私の5メートルほど手前で、ようやく気付いたカバヤ先輩は足を止めた。

高い位置にある顔がゆっくりと角度を変え、先に向いていた視線に追いつく。

我が家の前に立つ女子が私だと確認し、耳をパタタッと動かした大きな河馬は、目を笑みの形に細めた。

「シンジョウ君。もしや、ウチに飯を食いに来てくれたのかね?」

低くて良く通る落ち着いた声が、興味深そうな響きを伴って大きな口から漏れた。

「あ…、いいえ、そういう訳では…」

予想外の事を問われた私は、気勢を削がれかけた。

この優しい笑みを消すのが勿体ない。そう思ってしまって…。

私が言おうとしている事は、カバヤ先輩にとって、耳にたこができるほど聞き飽きた事だろう。

機嫌が良くなるはずもない。パッと出の部外者である私が偉そうに何を言うのかと、不快になるだろう。

カバヤ先輩だって覚悟をしての事なんだ。今更一年の小娘に言われたところで、考えを改めるはずも…。

それでも…、自己満足に過ぎないとしても…、私は…。

「どうかしたかね?そのように硬い表情をして…。美人が台無しだぞ?」

冗談めかしながらも、カバヤ先輩は私の様子を気遣った。だから…、なおさら辛くなったけれど、私は言う事にした…。

「カバヤ先輩。「膝の事」でお話があります」

膝にアクセントを置いた私の言葉で、カバヤ先輩の顔から笑みが消えた。

「…ヨギシから聞いたのかね?それともウシオから?」

「いいえ、自分で調べました。ヨギシ先輩は…、私には関係ない事だって、訊いても教えてくれませんでしたし…」

私はカバヤ先輩の目を見上げ、意を決して口を開いた。

「単刀直入に言わせて頂きます。無理をするのをすぐに止めて下さい」

「それは、明日の大会には出るな…という事かな?」

「はい!今度の大会が先輩にとってどんなに大切かは、部外者ですが理解できています!それでもあえて言わせて頂きます!

大事になる前に棄権して下さい!」

最後の大会だからこそ、負けたら引退だからこそ、カバヤ先輩は膝を気遣わずに闘うだろう。

こんな立派な体をしているんだもの、私が想像している以上に、いためた膝には負荷が掛っているはず…。

きっぱりと言った私を無表情に見下ろしていたカバヤ先輩は、ふと表情を緩め、困っているような哀しんでいるような微苦

笑を浮かべた。

「…夕暮れとはいえまだ暑い。こうして突っ立っておったらヤブ蚊も刺しに来る。…寄って行きなさい。君の話は中で聞こう」

大きな河馬は片手を上げて、私に暖簾を指し示した。



「ただいま」

暖簾を潜ったカバヤ先輩に、私は「お邪魔します…」と続く。

鰻の良い香りが立ちこめる店内は、夕食時という事もあって混み合っていた。

四人がけのテーブルが八組に、あわせて二十人ぐらいが座れそうな小座敷。カウンターには十席設けられていた。

予想以上に広い。有名な老舗だって小耳に挟んではいたけれど…、なるほど、繁盛してるのねぇ…。

目玉は鰻料理らしいけれど、品書きにはトンカツや牛丼、天ぷらなど、知り合いの男共プラスごろ寝パンダが大喜びしそう

な、いかにも重たそうなメニューがずらりと並んでいた。

席やテーブルの間が広く空けられ、歩行スペースが大きく取られているのは、経営者の体格を考えれば当然の配置とも言え

るわね。

何せカウンター向こうには、カバヤ先輩と全く同じ大きさの河馬おじさんと、やや小柄な…しかし体型はそっくりな河馬お

ばさんの姿が見えている。

割烹着姿の二人は、カバヤ先輩が小座敷に視線を向けてから顔を戻すと、その訊ねるような仕草に対して揃って頷いた。

カウンターとテーブルにはお客さんが多いけれど、座敷席は空いている。

カバヤ先輩は給水器からコップ二つに水を汲み、私を促して小座敷に上がり込むと、テーブルに二人分のコップを置いて、

どっしりと腰を据える。

事前に断りも入れずにお邪魔した手前、贅沢が言える立場じゃないけれど…、お店じゃなくお家の方に上がらせて頂きたかっ

た…。…ひょっとして私、邪魔になっているんじゃないかしら…?

「それで、話の続きだが…」

カバヤ先輩はそう言って私を促し、じっと目を見つめて来た。

体の割に小さな目は穏やかだ。突然押しかけ、ズカズカと内情にまで踏み込んできた無礼な後輩に対する苛立ちのような物

は、全く窺えない。

たぶんこの人は、滅多に怒る事なんて無いんだろう…。私は漠然とそんな事を考えた。

それから私は、テーブルを挟んで座る小山のような巨漢に、これまでに調べてある程度の事情は判ったという事、膝の状態

についても知った事を話した。

間違った所はないか確認を取りながら進める私の話に、カバヤ先輩は相槌を打ちながら、真面目に耳を傾けてくれた。

「…ウシオやヨギシが気に入る訳だ…。行動力があり、驚くほど頭が切れて、察しも良い。まさか儂とアイツの関係にまで推

測が立っているとは思わなんだ…」

神妙な顔で頷いたカバヤ先輩の前で、推測が当たっていた事をあっさり認められた私は、

「いえ…、親しい連中には、恋愛中の子も居ますから…」

と、内心の動揺を押し隠しながらボソボソ応じた。

…恥ずかしがる事もなくあっさり認めちゃうんだもの…、私の方が面食らっちゃったわよ…。

「おまけに行動も言葉も何とも真っ直ぐで、こんな話題を出すにも全く物怖じせんとは…。噂通りの「男前」よなぁ」

「こう見えても、実は一応女子なんですよ?私」

「おっとこれは済まん。言葉のあやというヤツで、悪気は無いのだ。勘弁してくれたまえ」

カバヤ先輩は困り顔で笑い、首を横に向けた。

つられて横を向けば、カバヤ先輩と何から何までそっくりなでっかい河馬が、黒塗りの箱を持って私達の方へやってくる所

だった。

ドンッと私とカバヤ先輩の前に置かれた立派な箱からは、鰻の良い香りが…。

戸惑って見上げた私に、恰幅の良い河馬のおじさんはにっこり笑いかける。

「あ!お、お構いなく!私はそんなに長居するつもりは…」

恐縮した私に、おそらく四十代後半と思われる河馬のおじさんは首を横に振った。

「いやいや、丁度飯時じゃ、遠慮せず食って行っとくれお姉ちゃん。…しかし驚いたのぉ、ジュウタロウが女の子を連れて来

るとは…」

「勘違いせんでくれよ親父?儂とシンジョウ君は親父が期待しとるような間柄では決して無いぞ?こちらは新聞部の記者さん

でヨギシの後輩。そして儂は取材対象。そういう縁があるだけだ」

「のぼせるなジュウタロウ。お前がべっぴんさんの彼女など連れて来られるはずがないと、親父様はちゃ〜んと理解しとる。

伊達に十八年もお前の親をやっとらん」

「それもそうか。儂は親父似だからな。おなごが寄りついてくれん事など、若い頃の己の経験から重々判っとるんだろう」

河馬の親子は、まるで友人同士がそうするように軽口を叩きあった。

「では、ゆっくりして行っとくれ、お姉ちゃん」

カバヤ先輩をそのまま中年にしたようなお父さんは、そう言ってまたにっこり笑い、踵を返した。

「親父も言ったが遠慮せんでくれ。儂の事を心配して来てくれたのに、もてなしがお冷やの一杯だけでは男が廃る」

お父さんが戻って行くと、カバヤ先輩はそう言いながら鰻重の蓋を開けた。

途端に溢れ出た鰻とタレの匂いが、私の口内に唾液を溢れさせるけれど…、話はまだ終わっていない。

「あの…、先輩」

「食わんというのは無しで頼む。ウチの飯はもともとそう美味い物でも無いが、冷めると不味い。それに、シンジョウ君が食

わんなら、その鰻は引き取り手が付かずに路頭に迷う事になってしまうぞ?それを哀れと思うなら食ってやってくれ」

冗談めかして小さな目を片方瞑り、器用にウィンクして見せた先輩は、「ん?」と首を傾げた。

「もしや…、君は獣人が作った物は口にせん主義かな?」

「いいえ、そんな事は…。私の地元は排他主義が全く無い所でしたから、区別する悪主義は持っていません」

「そうか。…いや、考えてもみればウシオやシゲ君に気に入られとる上に、ヨギシともつるんどる…。そもそも排他主義者だっ

たら儂の事など気にとめんか…。下らん事を訊いて済まんね」

カバヤ先輩は耳をぱたんと倒して苦笑いすると、箸を取りながら視線を下げた。

「…君の気持ちは有り難い。本当に有り難いと思っとる。…が、棄権はできん…。儂は、強くなければいかんのだ…。でなけ

れば…、アイツが己を責める…」

…先輩のそんな言い分は、痛いほど良く判った…。

自分を庇ったせいで、大怪我をしたせいで、カバヤ先輩が勝てない…。そうなったら、庇われた方は気にするし傷つく。

だから先輩は、強くならなければいけなかった…。そして、強くあらねばならなかった…。

あの時の怪我なんて何でもない。そう、体を張って示さなければならなかったんだ…。

だから立ち止まれずに、事態はこんなところまで来てしまった…。

「儂は馬鹿なので、他にどうすれば良いか判らなかった。せめてヨギシの半分でも頭が切れれば…、ウシオのように相棒が居

れば…、もっと良い方法が見つかったのかもしれん…。しかしもう、ここまで来たらやり直しは利かん。儂は儂のやり方でゆ

く。…そして、あいつに「答え」を出してやらんと…」

それを間違っていると断言することは、私にはできない…。

カバヤ先輩の判断は、間違っているのかもしれないけれど、それでも部分的には正しくもあって…。

きっとそれは、当事者間でなければ解決できない…、ううん、カバヤ先輩でなければ決着させられない問題なんだ…。

…私は…無力だ…。

知ってどうこうできると自惚れていた訳じゃない…。どうにもならないだろうと思ってもなお、動かずにはいられなかった

だけ…。駄目で元々、言うだけ言うつもりだっただけ…。

それでも、恩のあるこの好漢に何もしてあげられない事が、悔しくて、申し訳ない…。

「まぁ話は後にしよう。まずは食えシンジョウ君。新聞部も体力勝負だとヨギシから聞いとる。明日はヨギシと一緒に取材に

来てくれるのだろう?たっぷり食って、体力を付けてくれ」

カバヤ先輩はそう言って、ニッと笑みを浮かべて見せた。

こんな気分なのに、ごちそうになった鰻重はとても美味しかった…。

だからなおさら、無力な自分が情けなくて申し訳なくて、私は落ち込んだ…。

ヨギシ先輩ですら動きようが無かったこの件は…、所詮私程度ではどうこうできない物だったんだろうか…?