第二話 「定期戦取材」(前編)
青天に輝き、照りつける太陽の下でカメラを握り直した私は、歓声で沸き返るスタンドを見回した。
七回の裏が終わり、相手校ナインが守備の為にグラウンドへ散っていく。
「締まってこーぜぇーっ!」
赤毛の猿が声を張り上げ、散ったナインが大声で応じた。
この回にマウンドに上がったセントバーナードのピッチャーと、今声を張り上げた赤毛の猿のキャッチャーは、オーダー表
を見るに一年生バッテリーらしい。
あっちの監督、試合投げたみたいね。…まぁ、14対2じゃあ仕方ないか…。
ともあれ、実際に戦っている相手校の選手達は、まだ終わったって顔をしていない。
マウンドの上で緩んだ笑みを浮かべているポッチャリ系セントバーナードはともかく、キャッチャーマスクの奥で目をキラ
キラさせる赤猿君などからは、「さぁ出番だ!」という高揚感が感じられる。
私は新庄美里。星陵ヶ丘高校一年。分厚い眼鏡がチャームポイントの、新聞部所属の女子よ。
今日は、川向こうの学校との、年に一度の定期戦が行われている。
毎年この時期に行われているこの恒例行事には、来たる高校総体に向けての前哨戦の意味もある。
各会場に別れて全校生徒が応援する中、今日一日、それぞれの運動部が鎬を削る。
そんな熱気に満ちた一日を、新聞部である私は、取材の為にあっちこっちの会場をうろついて過ごしていた。
…それにしても、今日は凄くアツいわ…。熱気うんぬんじゃなく、単純に気温が…。
カッと照りつける太陽。雲一つ無い青空。
まだ五月上旬だっていうのに、今日はちょっと歩いただけで汗ばむほどの暑さ…。
そんな中、今私はこの野球場で、ウチの硬式野球部の試合を見守っていた。
もっとも、見たいのは試合だけじゃないのよね…。
正直、県下最高レベルのウチの野球部の試合は確かに興味深いんだけれど、校内新聞の記事は先輩方が書く。
私がしっかり見ておきたかったのは、応援団の方だ。
両校の応援合戦は、迫力満点で見応えがある。
我が校の応援団長は、牛獣人の潮芯一(うしおしんいち)先輩。
向こうの応援団長は、…アブクマ君に近い感じだから、たぶん羆系かしら?焦げ茶色の熊獣人だったわ。
双方かなりの大男で、団長直々に演舞を行えば、応援席は嫌がおうにも盛り上がる。
かくいう私も、スタンドのこっち側とあっち側で行われる、それぞれのエールと見事な演舞に、鳥肌が立つほどの興奮を覚
えたわ。
高校だからなのか、それとも強豪を抱える学校の応援団だからなのか、東護中の応援委員会とは違うわね…。
さて、とりあえず試合状況の写真はバッチリ。義務は果たしたわ。
自分で志願した事だし、別の会場二つを当たらなくちゃ。
移動の為に荷物を纏めていた私は、スタンドの向こう側から上がった、一際大きな歓声を耳にして顔を上げた。
スコアボードを見ると…、あれ?二者三振?
マウンドに目を遣れば、ボックスに立ったこっちのバッターと、相方の赤猿キャッチャーを、眠そうな目で見据えるセント
バーナード。
セントバーナードは片足を上げて、背番号がバッターに見える程体を捻る。
太めな割に柔軟なのね…。私がそんな事を考えた次の瞬間、限界まで捻られたセントバーナードの全身が周りの空気を吹き
飛ばすような勢いで戻り、振り抜かれた左手からボールが矢のように飛び立つ。
なんとも豪快なトルネード!物凄い勢いで放られた一球は、鋭いスライダーだった。
バットがブンッと空を切り、白球はキャッチャーミットに飛び込んで、小気味の良いズパーンという音が響いた。
あら〜…。ひょっとして、さっきの三年生よりも良いピッチャーなんじゃないの?最初から投げさせれば良かったのに…。
驚いているのはこっちのチームだけじゃないわ。あちらさんの監督までビックリした顔をしている。
結局、三者三振に仕留めたセントバーナードは、相変わらず緩んだ笑みを浮かべたまま、ドスドスとベンチに戻って行く。
駆け戻りながら並んだキャッチャーの赤猿に背中をバシッと叩かれたら、誇らしげに歯を剥いて笑っていた。
むぅ…。次代を担う新戦力!期待の一年生バッテリー、力闘の定期戦!
…な〜んていう見出しが思い浮かんだけれど、考えてみたら他校の生徒じゃない…。
さて、時間も押しているわ。興味深いけれど、そろそろ移動しないと…。
メモ帳やカメラ、筆記用具や試合日程資料やその他もろもろ、取材用具が詰まったスポーツバッグを肩からかける。
そして私は、スタンド内側へ潜るように続く階段を降りて、球場内部の通路に入った。
階段を降りた先、解説席や放送室、医務室に通じるドアが並んだ通路で、
「…ん?」
「あ」
出くわしたお互いの顔を見つめ、私とその生徒は同時に声を漏らした。
「どうかしたの?まだ試合中よ?」
「これからばっくれるトコだよ」
私の問いに、シェパードは顔を顰めながらぼそっと応じた。
この目つきの鋭いジャーマンシェパードは忍足慶吾君。私と同じ一年生。
「良いの?団体行動しなくて…。希望書通りに応援しなきゃ」
「…好きで野球希望した訳じゃねぇ。載ってねぇんだよ希望が。それに、ウツノミヤはさっきあいつらの方に行ったぜ?」
オシタリ君は不機嫌そうに応じる。
「たぶん引率の先生に申請したんでしょうね。何て言って認めて貰ったか解らないけど…」
なんとなく解った。オシタリ君、きっとあっちの応援に行きたいのね。
「アブクマ君の応援をしに行きたいんでしょう?」
笑いながらそう言うと、オシタリ君はムスっと不機嫌そうな顔になった。
「デブグマの事はどうだって良い…。イヌイがだな、応援が一人じゃつまんねぇだろうからよ…」
ふふっ!はいはい。結局は柔道部が気になってるんでしょ?オシタリ君!
「でも、勝手に抜け出したのがバレたら欠席扱いになっちゃうわよ?」
「ふん!」
どうでもいい、という風にシェパードは鼻を鳴らす。
特例制度を使っているんだから、先生方の印象をもうちょっと気にするべきなんだろうけれど…。まぁ良いわ。
「それじゃあ、交換条件でどう?荷物持ち、手伝ってくれるかしら?」
私がそう提案すると、オシタリ君は胡乱げに目を細めた。
「取材の手伝いっていう事でなら、貴方が別の会場に応援に行っていた事、正当化できるから」
オシタリ君は少し考えていたようだったけれど、結局は首を縦に振った。
「…別にばっくれたのがバレてもどうもしねぇが、あんたには借りがあるしな…。良いぜ、荷物貸せよ」
カメラとメモ帳だけは取り出して、私は有り難く、オシタリ君にバッグを持って貰う事にした。
「しかしでかい鞄だな…。何が入ってんだ?」
バッグを軽々と担いだオシタリ君は、訝しげに眼を細めてそれを見下ろした。
「カッパとか傘、カメラ用の三脚、あとは資料とかね」
「新聞の取材ってのも、結構大荷物になるもんなんだな…」
少し感心したように呟いたオシタリ君に背を向けて、私は歩き出す。
「校内新聞、読んでくれてる?」
「………」
私の問いに、オシタリ君は無言だった。
私達新聞部は、各階に三、四箇所はある大掲示板に、作成した校内新聞を毎週張り出しているんだけれど、…読んでないわ
ねこれは…。
「私が今日取材する記事も、小さくだけど載せて貰えるはずなのよ。来週は読んでくれる?」
「まぁ…、気が向いたらな…」
私の問いに、オシタリ君は低い声でぼそっと答えた。
「柔道部の方は、始まるまで少し時間があるわ。先に一箇所寄りたいけれど、良いかしら?」
「あんたの好きにしろよ。邪魔はしねぇ」
そう応じながら、ジャーマンシェパードは私の横に並ぶ。
「柔道、詳しいのか?」
「ルールなんかは、おおまかにはね」
「…そうか…。オレはさっぱりだ…」
「簡単にで良ければ、解らない所は解説してあげるわ」
そんな風に言葉を交わしながら、左右にドアが並ぶ通路を歩いていた私達は、響いて来る足音を耳にして、足を止めた。
私達が歩いて来たのとは反対方向、出口に続いている方の角を曲がって、誰かが飛び出してきた。
巨体を揺すってドスドスと走って来るのは、ばかでっかい灰色熊だった。
ひょっとして…、いや、ひょっとしなくてもアブクマ君ぐらいある。こんな大きい子、彼以外にも居るなんて…。
上に高いだけじゃなくかなり太っていて、走るのに合わせて丸いお腹が弾んでいるのが、制服越しにも解った。
大兵肥満の灰色熊は、学生服に腕章、鉢巻きという格好…。応援団だ。それも陽明の。
両校伝統の団服じゃなく、通常の制服を着ているところを見るに、体格からはそう見えないけれど、きっと一年生ね。
息を切らせて走ってくる灰色熊は、後ろを振り返って、後方を気にしている。
…ん?違う。誰かを背負ってるの?
灰色熊は犬獣人を背負っていた。コーギーカーディガンかしら?愛くるしい顔立ちの、小柄な子だ。
って…、前見てよ前っ!灰色熊は私達に気付かず、猛ダッシュの勢いを全く緩めずに走って来る!
「おい」
首を捻って、背負った相手の顔を見ていた灰色熊は、オシタリ君の発した声で、顔を前に戻した。
そしてようやく私達に気付き、驚いたように目を丸くしながら急ブレーキをかける。
踏ん張った足の裏でギュギギギギィッと音をたて、靴底をすり減らしながら、私達の僅か1メートル程手前で止まった灰色
熊は、
「あ…!う…!ご、ごめん…!」
乱れた息の隙間からぼそぼそと謝り、軽く頭を下げる。
「詫びなんぞ良い」
オシタリ君はぶっきらぼうにそう応じると、私に視線を向け、それからちょっと上に目を向ける。
「シンジョウ、そこだ」
「え?」
何が「そこ」なのか解らなくて首を傾げた私の手を掴むと、オシタリ君はグイッと引っ張る。
突然のことでちょっとドキッとした私には見向きもせず、シェパードは傍のドアのノブを掴んで、引き開けた。
「おらっ、急ぎなんだろうが?」
オシタリ君が灰色熊に視線を戻したその時になって、私はようやく理解した。
私が立っていたのは、医務室の前だったんだ…。
「わ、悪い…!ありがとう!」
グリズリー君は私達にペコっとお辞儀すると、オシタリ君が支えたままのドアを抜けて、医務室に入って行く。
背負われている小柄なコーギー君は、意識が朦朧としてるみたいだった。フサフサの尻尾はだらりと力なく下がっている。
それでも、手にはしっかりと、ピカピカ輝く真新しいトランペットを握り締めていた。
あっちの学校の吹奏楽部の子かしら?…今日は季節外れの暑さだし、熱中症かも…。
グリズリー君がハカハカ乱れた息の間から、せっぱ詰まった声で事情を説明するのが聞こえてくると、オシタリ君は静かに
医務室のドアを閉じた。
「…行こうぜ」
何事も無かったようにそう言うと、鞄を担ぎ直した彼は、さっさと歩き出す。
咄嗟の状況で、凄く自然に対応して、急患を医務室に通してあげたシェパードは、実にクールだった。
「良いトコあるじゃない?丁寧にドア押さえて、部屋に入れてあげたりして…」
後ろを追いかけ、足を速めて横に並びながら話しかけたら、シェパードは「ふん…!」と鼻を鳴らして、
「でけぇ図体が通路塞いでて、邪魔だっただけだ」
不機嫌そうにそっぽを向きながら、そう呟いた。
球場を出た私達は、橋を渡って川向こうへ移動した。
「星陵も無駄に広いし大きいけれど…」
「…ああ…。こっちもこっちで相当だぜ…」
私とオシタリ君は、正門前で校舎を眺めながら呟いた。
六階建ての校舎は、三つの別棟が左右と後方に配置された、まるで要塞を思わせる無骨で味気ない造り。
校舎正面には陽明の校章。燃える火の輪の中に陽の字のエンブレム。
「…とにかく、まずは空手部の方へ行くわよ?」
「空手部?」
怪訝そうな顔をしたオシタリ君に頷きながら、私は陽明の校庭へと、足を踏み入れた。
「うん。こっちで女子空手部の試合があるの」
空手部の道場は、校舎の裏手側、正面から見て左後方に建っていた。
なお、反対にあたる右手側には、鏡に映したように同じ外観の柔道場がある。
裏を突っ切っていけば、校舎真裏側の別棟を迂回する形で、最短距離で移動できるわね。
私とオシタリ君が道場内に入ったその時には、もう組み手の試合が始まる直前だった。
ドンピシャ。っていうより、ちょっと危なかったわ…。
簡単に説明すると、高校空手道競技、組み手は、8ポイント先取した方が勝者になる。
ポイントの入り方は決まっていて、単発の手技、上段や中段突きは「有効」で1ポイント。
中段蹴りや、それぞれが「有効」になる手技のコンビネーションは「技あり」で2ポイント。
そして、上段蹴りなどの「一本」は3ポイント。
ちなみに試合時間は二分。短いようだけれど、実は目まぐるしく動く上に、一瞬で攻防が行われるから、中身はかなり濃い。
ぼーっとしていると、見所を逃して、あっという間に終わってしまうのよね。
なお、今回は両校の定期戦の伝統に則った団体戦方式。
お互いに選出した五名の選手が、それぞれ一試合ずつ行う、全五試合のシステムになっているわ。
しかも、本来なら団体戦に出場枠が無くて、個人戦にしか出られない獣人の生徒も、このオーダーに入れられる。
これは空手部に限らず、参加する全ての部活に言える事だけれど、二十数年前にこの定期戦が始められた時からの決まり事
で、「両校の交流」と「磨きあい」を主眼に置いているからだそうよ。
身体能力が高いせいで、出場競技が限定されてしまう獣人の選手達も、今日だけは垣根を越えて競技する事が出来る。
…アブクマ君も「団体戦なんて滅多にできねぇんだよなぁ!」って、喜んでいたっけ…。
審判を正面に見る試合場の真横側、関係者や新聞部用のスペースに陣取ってカメラをチェックしながら、簡単に組み手のル
ールと、私の事情を説明すると、
「…なるほどな」
オシタリ君は小さく頷きながら呟いた。
「ルームメイトの応援がてら、取材を買って出たって訳か」
「そういう事。女子空手道部も、柔道部も、元々あまり注目されていないから、一年の私にあっさり任せて貰えたわ」
「まぁ、あいつらんトコは三人だけだしな。注目はされねぇか」
「あぁそれと、こっちが終わる方が先だから、柔道部の試合にはゆうゆう間に合うから、安心してよね?」
「別に間に合わなくたって構わねぇんだよ。オレは試合が見てぇ訳じゃねぇんだからな?」
私達が声を殺して話をしている内に、防具を着けた二人の女子が、道場の中央、試合場の両脇に立った。
相手校の選手、180センチ近い大柄なホルスタインと向き合うのは、これまた体格の良いジャイアントパンダ。
空手部一年、笹川百合香。私のルームメイトだ。
「相手の方が、少しばかりでけえな」
「陽明の空手部主将のマキバさん。178センチ102キロ。去年の総体では惜しくも地区ブロック進出こそ逃がしたけど、
県大会準々決勝まで勝ち進んでるわ。この辺りではこっちの主将と並ぶ、トップクラスの実力者よ…」
ぼそぼそと囁くシェパードに、私は努めて冷静に答える。が、ちょっと声が震えた。
…うそでしょ?聞いてないわよ…!
直前でオーダーの変更があったのかしら?私の手元の資料では、ユリカと当たる先鋒は主将なんかじゃないのに!
「で、オトモダチは何センチなんだ?」
「170センチの、119キロ…」
私が答えると、オシタリ君は少し黙った後、ぼそっと呟く。
「…体重じゃかなり勝ってる。大丈夫だ」
…それは何が大丈夫なのよっ!?
「心配すんな。寸止めルールなんだろ?」
そんな事言っても…。相手めがけてキックやパンチを出すんだから、当たらないとも限らないじゃない…!
ユリカ…。強いって聞いているけれど、あんなのと戦って大丈夫かしら…!?
「…おい、落ち着け。手ぇ震えてるぜ?」
オシタリ君の言葉で、私は初めて気が付いた。
カメラを構えた私の手が、小刻みに震えている事に…。
何で?そう自問した直後、それに思い至った。
私は、格闘技の試合…、それも友人が出る試合をナマで取材するのは、これが初めてだった。
相手の主将なんかと試合をさせられて、ユリカが怪我でもしないかと、恐くなってしまったんだ…。
喉が渇いて、胸が不快に高鳴る。…ユリカ…、大丈夫なの…?
私のルームメイトは今どんな心境にあるのか…、怯えてはいない?怖がっていない?
あんなのと試合をさせられるのが可哀相になって、心配しながら見つめている私に、試合場に進み出ようとした直前のパン
ダは気が付いた。
ちょっと首を捻って私を見たユリカは、胸の前にグローブをはめた拳を上げ、親指を立てる。
フェイスガードの透明なグラスの向こう側、パンダはいつもと同じ表情で、にへら〜っと、緩んだ笑みを浮かべていた。
「見ろよあれ、大丈夫だって言ってんだろうぜ?応援、きちんとしてやれよ」
隣のオシタリ君が、相手に向き直って歩き出すユリカの姿を眺めながら、低く押し殺した声で私に囁いた。
…情けない…!試合に臨む本人が平常心で居るのに、私ときたら…!
「ありがとう。もう大丈夫よ」
考えてみれば、さっきからずっと私を励ましてくれていたシェパードに小声で礼を言い、
「しっかり、見ていなくっちゃ…!」
私はカメラを構えて、ファインダー越しに試合場を、そしてユリカを見据えた。
試合場の中央で向き合った白黒ツートンカラーの二人が、審判のはじめの合図に続いて、同時に気合いの声を発した。
左足をちょっと前に出し、右足を少し後に引き、やや半身に構えた体を前後に揺らしながら進み出るホルスタイン。
それに対して、時計回りにすっすっと横へ、リズミカルなステップを刻むユリカ。
二人とも、体の大きさに反して軽快なフットワークを見せている。
先に仕掛けたのは、相手選手の方だった。
マスク越しに発せられる、ややくぐもった気合いの声。
前に出していた左足を大きく踏み出し、送り出された左の拳が、ユリカの胸めがけて宙を走る。
当たった!?そう思った時には、ユリカは左足を前に出す格好で体を半身にし、拳の先から身を捌いていた。
が、続けてホルスタインの右拳が、ユリカの顔に向かって伸びる。
そう見えてユリカは女の子なのよ!?顔なんて狙わないで!…って、相手も女子だった…。
しかしユリカは落ち着いたもので、左足でトッと床を蹴って後退し、パンチの射程から逃れる。そして…、
「しっ!」
ユリカの口から、呼吸音と声が混じったような、鋭い気合いの声が発せられた。
退いたように見せたパンダが、バックステップから一転して素早く踏み込み、右のパンチを繰り出した。
電光石火!あんまり急激な動きに、ユリカの豊満な胸やお腹が大きく弾むのが、道着越しにもはっきり判った。
ファインダーとヘッドガードのグラス越しに見えた、攻めに転じたユリカの横顔は、鋭く、真剣で、頬が膨らんだ丸顔なの
にも関わらず、とても綺麗で凛々しかった…。
素早く飛んだ拳の先から、寸前で顔を逃したホルスタインは、その表情が強ばっている。
しまった!あんまりに速かった上にすっかり見とれていて、今の撮り逃がしちゃった!
ステップするように後退したホルスタインを追って、ユリカは右腕を素早く胸元に引きつけながら、後ろに残していた右足
で床をトンっと蹴った。
左足を大きく踏み出して、ジャイアントパンダのずんぐりした体が素早く前に出る。
ユリカの太い左腕が、風切り音すら発して伸びた。
「せぇっ!」
裂帛の気合と共に繰り出された追突きが、後退していたホルスタインの眼前でピタリと静止する。
その一瞬後には拳が引かれて、二度目の「しっ!」という気合の声と共に右ストレート…、いや、上段突きって言わなきゃ
いけないのか…、とにかく右のパンチが入れ替わりに飛んで、相手の顔面の前で止まる。
左手が引いたその空間に、寸分違わず滑り込む、速くて正確な一打だった。
審判が声を上げて技ありの宣言をしたけれど、私はちょっとの間ぼーっとしていた。
脇腹につけた拳を握りこんでガッツポーズを取る、普段の様子からは想像もつかないほど格好良いルームメイトに見とれて
しまって…。
…見直したって言うか…、何ていうか…、ユリカ、凄く格好良いじゃない…!
普段の弛みきった様子からは一転して、試合中は別人のように凛々しいパンダは、そのまま相手校の主将を完全に圧倒し、
8対0で下してしまった。
…ユリカは、どうやら私が想像していたよりもずっと上手な、物凄く強い選手らしい…。
「速ぇもんだな…。撮れたか?」
「あ!」
隣で呟いたオシタリ君の声で、私は我に返ってカメラのウィンドウを確認した。
…撮れてる…!
夢中になって見入っていたけれど、私はほとんど無意識の内に、シャッターチャンスを捉えていたらしい。
ウィンドウの中には、最後の一本を決めた上段蹴りを放つユリカの勇姿が、しっかりと納められていた。
…うん!格好良いのが撮れてるわよ。お疲れ様、ユリカ!
結局、ユリカの活躍で勢い付いたか、こちらの副将以外が四勝をもぎ取って、試合は終了した。
「ホントに来てくれたんだぁ?」
「当然でしょ?約束したじゃない」
労いの言葉をかけに行ったら、パンダは本当に嬉しそうに、にへら〜っと笑みを浮かべて、私の手をぎゅぅっと握った。
試合中の凛々しかった彼女は何処へ行ったのか、いつもの弛んだ表情に戻ってしまっている。
「んでぇ…、何でオシタリ君と一緒なん?」
道場の出口で私を待っているシェパードに視線を向けたユリカは、口元を隠すように手を上げ、ぼそぼそっと尋ねて来た。
何故か目が笑っている。
「ああ、荷物持ちをしてくれるっていう事で…」
私が事情を説明したら、ユリカは「はへぇ?」と、何故か拍子抜けしたような顔をする。
「どうかしたの?」
「うんにゃ、なんでもないよぉ」
首を傾げて見せたら、ユリカは曖昧に笑った。…何かを誤魔化されてるみたいで、釈然としないわね…。
結局、他の選手のインタビューを手早く聞いた私は、ユリカには簡単に労いの言葉をかけるだけにして、空手部の試合会場
を後にした。
もちろんユリカには、寮に帰ったら今日の試合の流れの解説を含めて、じっくり取材させて貰う約束をして、ね。
う〜ん、ルームメイト特権!