第二十話 「止まれない重戦車」(前編)

県の体育館は、一種異様な雰囲気に包まれていた。

他の競技と明らかに異なるその雰囲気は…、敷地内のあちこちに体格の良い大男達が群れていたり、その中にマワシ姿が半

分近く混じっていたりするせいだろう。

カッと照りつける空梅雨の太陽がジリジリと肌を焼き、体育館を囲む雑木林からは、大小雑多に入り混じるノイズのような

蝉の声。

眼鏡を外し、ハンカチで額と眉間、鼻を撫でて汗を拭った私は、愛用のカメラを構えてファインダーを覗き、正面口の立て

看板を二度撮影した。

「正面、オーケーです」

傍らのヨギシ先輩は私の言葉に頷くと、「…行くぞ…」とボソリと呟き、さっさと体育館の横手へ回って行く。

…黒くてモフモフなくせに、暑そうなそぶりも全く見せないわね…。

もはや精神論で説明するのも難しいほど、ヨギシ先輩は暑さに強い。

天然の防寒具のせいで、私達人間と比べれば格段に厚着なはずなのに…、一体どうなっているのかしら?

おっと、忙しくなる前に自己紹介自己紹介っと…。

私は新庄美里。星陵の一年生で新聞部所属。眼鏡がトレードマークの人間女子。



開会式直前の今、我らが星陵相撲部は、体育館脇の非常口付近に陣取り、雨よけが作った日陰の中で涼を取っていた。

私達を見て喜んだ部員達は、クーラーボックスからスポーツドリンクやお茶を取り出し歓待しようとしたが、ヨギシ先輩が

ボソボソと断った。

私達はお客さんじゃない。自分達の部活動でここに居る。そんな事をキカナイ主将に言い聞かせて。

その間に私は、日陰の中で黒味が増している、暗褐色の巨体に視線を向けた。

アキレス腱を伸ばしているカバヤ先輩は、私の視線に気付くと僅かに口の端を上げ、右足を軽く上げてからドンッと地面に

下ろした。

調子は上々、って事かしらね…。

今更止めるなんて事、私にはできないし、その資格も無い。

だから今は、カバヤ先輩が無事に大会を終える事を、ただ願っている。

良い写真が撮れなくたっていい。書く事に困るような大会になってもいい。とにかく、無事にだけ終えてくれれば…。

私はふと視線に気付き、首を巡らせる。

どうやら出所はヨギシ先輩らしい。確認はできないけれど、前髪に隠れた目をこちらに向けているようだった。

心の中で「余計な事は言いませんよ」と呟きながら、私は頷いた。



考えてもみれば、カバヤ先輩の他校生との試合を見るのは今日が初めてだわ。

二階ギャラリー席最前列に陣取った私は、ヨギシ先輩と並んで取材観戦に熱中する。

お昼も過ぎた頃、人間の部個人戦の一回戦が終わり、獣人の部が始まった。

…なお、団体戦は…、残念ながら一回戦敗退…。

キカナイ主将の落ち込みようったらもう…、正直見ていられなかったわ…。

獣人の部、個人戦の一回戦、第二試合。土俵に上がった暗褐色の巨体に、私は見とれてしまった。

既にふつふつと浮いた汗で表面を湿らせた体は、照明で光沢を帯びている。

筋肉の上に分厚い脂肪を纏った、言ってしまえば極度の肥満体なのに、見苦しいとは感じない。

決して小さくない、ううん、かなり大きな対戦相手のホルスタインが、カバヤ先輩の大きさと重厚さの前では小さく見えた。

丸々と太った体を窮屈そうに屈め、相手選手と向き合う河馬。

二階のギャラリーから見張る私がカメラを持つ手に力を込めると、傍らのヨギシ先輩が囁いた。

「…逃すな…」

私が頷く間も無く、向き合った大男達が立った。

「ハッケヨイ!」

両者の体がぶつかり合い、行司の声が響く。

胸を合わせたホルスタインがマワシを捉えたその直後、被せるようにして上手マワシを掴んだカバヤ先輩の両腕が、相手を

ぐわっと吊り上げた。

何て馬鹿力!いや河馬力?軽く100キロを越えるだろうホルスタインが、背を逸らした河馬に、簡単に吊り上げられてし

まった。

つま先が土俵から離れた相手をお腹の上に乗せるような格好で、カバヤ先輩はそのままのっしのっしと突き進む。

ホルスタインはもがいて逃れようとしたけれど、被せるようにしてしっかりかけられた上手がそれを許さない。

やがて抵抗むなしく、ホルスタインは徳俵の向こう側へずしっと下ろされた。

「ふぅっ…」

大きく息をつく河馬に、場内の視線は釘付けだ。

何これ…?対戦相手がまるっきり子供扱いじゃない…!

「…撮れた…のか…」

呆然としていた私は、ヨークシャーテリアのボソボソ声で我に返った。

「…あ…!」

ぶつかった瞬間は撮ったけれど、より重要な決着の瞬間を逃しちゃった!あまりにも圧倒的だったからついつい見とれてし

まって…!

「す、済みません…」

しょぼくれる私を責める事も無く、ヨギシ先輩は「…次は…撮れ…」と呟いた。

「はい…。以後気をつけます…」

顔を真っ赤にして謝りながら、私はトーナメント表を確認する。えぇと次は…。

「…五つ後に…アイツが出る…。最大の注意を…払うのは…ソコだ…」

言われて通路を見遣れば、確かに、ストレッチしながら待機している白いモッサリ。

グレートピレニーズはマネージャーの柴犬君と何か話ながら、緊張した様子も無く笑顔を見せている。

…あらあら、柴犬君の方がよほど緊張しているように見えるわ…。尻尾をきりっと巻き上げて、そわそわと辺りを見回した

りなんかしちゃって…。

そのまま観察していた私は、次に土俵に上った選手を見て、一度眉根を寄せた。

…ああ!見覚えがあると思ったら、陽明の一年生ルーキー、ずんぐりおっとりの猪君だ。

ふと見れば、柴犬君のそわそわは最高潮。

あんまりうろうろしていたせいか、見かねたらしいグレートピレニーズが両肩を捕まえて、何か言い聞かせて大人しくさせ

ている。

土俵に視線を戻すと、猪は土佐犬と向き合って腰を落としていた。

相変わらず開いているかどうか判らない糸目のままだけれど、自分より大きな相手を前に、眉が吊り上がった凛々しい力士

の表情を浮かべている。

記事用に撮る必要は無いんだけれど、気付けば私はファインダーを覗いていた。

切り取られてズームした視界の中で、猪が立つ。

内腿に、胸に、そしてお腹に蓄えられた脂肪が、その素晴らしい立ち上がりの速度と勢いで、脈打つように揺れていた。

それはまるで、砲弾のようだった。

頭から突っ込んでいった猪君は、土佐犬にぶちあたるなり、相手を一気に後退させる。

が、相手もさるもので、前傾姿勢で足を踏ん張り、大きく出遅れたにもかかわらず、徳俵まであと半分という余裕を残して

猪君の突進を止める。

あぶない!と私が思ったその時には、猪君のマワシのお尻付近を掴まえている土佐犬が、ぐっと身を捻っていた。

左横に流される猪君。このまま転がされてしまうかと思ったその瞬間、彼の脚が素早く横へ移動し、先回りする格好で振ら

れた体を支える。

「…ほう…」

感心したような声がヨギシ先輩の口から漏れ、踏ん張った猪君は腰と背筋を使って、投げを打ったばかりで重心が傾いてい

る土佐犬を崩しにゆく。

胸に顔を押しつけた格好でしっかりマワシを掴んだ猪君は、土佐犬の足がずりっと滑り、ととっと踏み直しをかけた瞬間を

逃さなかった。

再び始まる爆発的な突進。揺すりから押しへの切り替えは、驚くほど速かった。

おまけに、おそらくは相手の体重移動のタイミングを完璧に捉えていたんだろう。

土佐犬は背を弓なりにしていて、今度こそ踏ん張りがきかなくなっている。

猪君の再突進は止まらない。俵に足をかけた土佐犬だったけれど、最後はがぶり寄りで押し切られ、土俵を割った。

「…順当に行けば…、カバヤと…当たるな…」

呟くヨギシ先輩の視線の先で、土俵を降りて引き返した猪君は、ぱちんと柴犬君とハイタッチする。身長差があるせいで手

を一杯に、真っ直ぐ伸ばしている柴犬君が、反則的に可愛い。

さらに猪君は、グレートピレニーズに肩を叩かれて笑いかけられ、糸目の端を下げて照れくさそうに頭を掻く。

「強敵ばっかりですね…」

「…運悪く…、こちらのブロックに…、実力者が…集中している…。しかも…、カバヤと当たるまで…、実力者同士の…潰し

合いが…、殆ど…無い…」

ヨギシ先輩は陰気な声であまり有り難くない現状を述べる。

…まぁヨギシ先輩としては、カバヤ先輩には一戦でも早く敗退して欲しいんでしょうけれど…。

私の方はどうなのかというと…、実はちょっと複雑。

確かに、膝の事を考えれば早く休んで欲しいとは思うけれど…。でも、事故からずっと頑張ってきたカバヤ先輩の、最後の

大会なんだ。

まるまる五年越しの執念…。諦めきれなかった強さの証明…。

自分の為だけじゃない。あの事故の際に庇われて責任を感じている友人に、「あの事故は何でもなかった」と結果で示す為

にも、捨てきれなかった夢…。

傷だらけの夢を抱えて、痛む足を引きずって土俵に上がるカバヤ先輩の心境と覚悟を思えば、カバヤ先輩自身の膝のためだ

としても、単純に負けた方が良いとは言えない…。

応援したい気持ちの中にも負けて欲しい気持ちも混じって、複雑な気分を持て余しながら、私は写真を撮り、記録を付ける。

一試合終えたカバヤ先輩には、ヨギシ先輩が話を聞きに行った。

一人残った私は、やがて土俵に上がった白い姿をじっと見つめる。

おそらくカバヤ先輩にとって最難関になるだろうと、ヨギシ先輩が太鼓判を押しているグレートピレニーズ…。

対戦相手もまた犬。体格はグレートピレニーズの方が上だけれど、相手の秋田犬は骨太で筋肉質ながっしり体型。肥満とい

うよりは堅太りだ。

…実家近所に済む幼馴染みの犬三兄弟、その一番上のお兄さんを思い出すわね…。

見合った両者は、やはりその巨躯からは意外なほど早い立ち上がりを見せる。

申し合わせたようにがっぷり四つに組んだ両者は、しかしその直後に離れた。

…上手投げ…!?

体重では確かに上回るでしょうけれど、決して小さくはない相手を、グレートピレニーズは一瞬で土俵に転がしていた。

無防備だった訳じゃない。抵抗は…たぶんあったと思う。

でも、相手はろくに抗う事もできずに、為す術もなくマワシから指を離し、強引に打たれた投げで仕留められた。

「…全身の連動が…、あの怪力を生み出す…」

突如聞こえたボソボソ声で、私は弾かれたように振り返る。

いつの間にか音も無く戻って来ていたヨギシ先輩は、ギャラリーの通路に立ったまま今の試合を見ていたらしい。

「…単純に…馬力がある…だけではない…。あの…常軌を逸した…駆動力は…、満遍なく…徹底的に鍛えられた…、全身から

生み出される…。アイツは…、自分の体を…最大効率で…動かす事にかけて…天才的な冴えを…見せる…。体勢が…十分だろ

うが…不安定だろうが…、状況に応じた…最大限の力を…常に発揮する…。下半身の強さと…平衡感覚の…賜だ…」

「カバヤ先輩より、あちらの方が腕力があると?」

「腕力だけならば…カバヤの方が上でも…、相撲は…腕だけで取る物では…、当然…無い…」

「なるほど…。つまり全身の力、総合的な力で言えば、カバヤ先輩の方が下だと…」

「…膝を庇えば…当然…。脚は…全ての技術の…土台だ…」

ヨギシ先輩は椅子にかけ、土俵を降りて通路に向かうグレートピレニーズを眺める。

笑顔のグレートピレニーズは、待っていた柴犬君の前で背を丸めて少し屈み、両手をぽんっと合わせた。

さらにその脇を歩き抜け、後ろに居た黒豚の主将さんが上げた腕に太い腕をがつっとぶつけ、続く猪君とはハイタッチ。

いつのまにか集合して居並んでいた部員達皆に祝われている。

「なんだか盛り上がってますね…」

「…昨年の三位を…ああも簡単に…転がせばな…」

………。

私はすぐさま昨年の資料を引っ張り出し、トーナメント表と付き合わせる。

…うわほんとだ!昨年の三位ってそれ、立派な優勝候補じゃないのよ!?なのにあんなにもあっけなく!?

「…シンジョウ…」

「はい?」

資料から顔を上げた私に、ヨギシ先輩は前髪に隠れた目を向けてきた。

「…注目選手は…数試合来ない…。今の内に…飲み物でも…摂って…一息…入れてこい…」

「まだ大丈夫ですよ」

「…トーナメントが進めば…チェックする試合の…密度が上がり…、そうそう…席を立てなくなる…。行ってこい…」

遠慮した私に、言い含めるように繰り返したヨギシ先輩は、少し顔を上げて空気を嗅ぐ。

「…外での…取材とは…違う…。人いきれで…気分が悪くなる部員を…、何人も見てきた…。この会場は…、空調の機能が…

現状に追いついていない…」

…言われてみれば、確かに屋外や他の会場と比べて、湿度が高くて肌がジトつくけれど…。

「…通路に…出るだけで…、随分…違う…。気分転換に…違う空気を…吸ってこい…」

「はい。では失礼して…。すぐ戻りますから」

私はヨギシ先輩にお辞儀して後を託し、ギャラリーの階段を昇って通路に出た。

…それはそうと、ヨギシ先輩自身は本当に平気なのかしら?痩せ我慢じゃなく?

あれだけモフモフなくせに、いつも暑がったりしない謎生物だけれど…。



ペットボトルのスポーツドリンクを購入した私は、自販機前で通路を見渡す。

…来るまでに若干迷ったわ…。自販機、結構遠いのね。

マワシ一丁、あるいはそれにジャージを引っかけただけの大男達が闊歩する会場内は、最初はシュールに思えた。

けれど、雰囲気に慣れたのか、それとも感覚が麻痺したのか、今では行き交う半裸の大男達とすれ違っても特にどうとも感

じなくなった。

たぶん、堂々としているからなんでしょうね。これが皆恥ずかしげだったりしたら、私の方もつられて赤面するかもしれな

いわ…。

それと、マワシ姿がユニフォームだっていう認識が私の中で出来上がってきているから、あの格好も気にならなくなったの

かも。

ドリンクを半分飲んで、天然の毛皮を着込んでいるから本当は暑いだろうヨギシ先輩にも一本買っていく事にする。

一見判り辛いけれど私の体調にも一応気を配ってくれているみたいだし、これくらいはしないとね。

ボトルを手に、一番近い階段は何処だろうかと考えながら歩き出した私は、

「納得しろだって!?」

唐突に上がった怒声を耳にして立ち竦んだ。

行く手の角で何人かが立ち止まり、声が上がったらしい場所に顔を向けている。

声はそれきり止んで、立ち止まっていた選手達も流れてゆくけれど…。

一体何事?気になった私はそっと近付く。

そして曲がり角からこっそり覗けば、細い通路を壁のように塞いでいる、でっかい河馬の後ろ姿…。

私は慌てて顔を引っ込め、壁に背を預けて隠れる。

「……から聞いた。…膝の調子………、…棄権…ろ…!」

押し殺された声は、少し聞き取り辛かった。

手前に立つカバヤ先輩の巨体が壁になっているのと、通路に反響している、まるで潮騒のような人の声に邪魔されて。

「断る。今更引き下がるなど、冗談ではない」

あっちを向いて喋っているカバヤ先輩の声は、それでもはっきりと聞こえた。

不思議と良く通る低音の声は、けれど私と話をする時とは少し違う、厳しい響きを伴っている。

…狙って現場に張り込んだりしている訳じゃないけれど…、最近、盗み聞きが板について来ているわよね、私…。

「最後の夏だ。半端で投げ出せるものか」

きっぱりと言い切るカバヤ先輩の、反論を許さない調子の宣言。

相手はしばし黙り込んだ後、弱々しい声を出した。

「…オレは、そんな決着…………、望んじゃ……」

「どうしてもと言うならば、力ずくで止めて見せろ」

ぴしゃりと言ったカバヤ先輩は「そろそろ行くぞ」と続けたので、私は慌てて左右を見回す。

やがて、のっそりと角を曲がって出てきた大きな河馬は、すぐ傍の、トイレ入り口側に折れた細い通路に身を潜めた私には

気付かず、そのままのっしのっしと歩き去って行った。

ほっと息をついて通路から出た私は、じっとりと汗をかいたボトルを握りしめながらカバヤ先輩が歩いて行った方を眺める。

…もう…、誰に止められたって、簡単には止まれないのよね…、きっと…。

「お?ジャーマネさん改めジャーナリストさんじゃん?何してんだ?」

そんな、真後ろから突然かけられた声に、私は文字通り飛び上がった。

振り向けば、見上げるような白い巨体。

見下ろすグレートピレニーズは、私の驚きようで逆にビックリしたのか、目を丸くしている。

マワシ一丁に学ランの上だけ羽織った格好の白犬は、「あーあー、取材ねー」と、納得顔で頷いた。

「そっちは随分動くんだなぁ新聞部?ウチなんか取材にこねーよ」

声をかけられた瞬間に、覗き見を咎められたような気分になった私は、白い巨犬の言葉でほっとした。

落ち着きなさいミサト…。冷静に、冷静にいくのよここは…。

「そうなんですか?特定の部活しか取材しないとか、そういう活動なんでしょうか?」

当たり障りのない話題に私が合わせると、グレートピレニーズはふるるっと首を横に振って、垂れ耳と長い被毛、ついでに

太鼓腹と胸まで揺する。

「いや、相撲部に限った事じゃなく、取材なんてまずしてねーなー。翌日辺りに大会の結果聞きに来るだけだぜぃ。そっちみ

たいに精力的には活動してねーんだわ。あ、でも今年はサッカー部強ぇからな、あっちはこまめに見に行ってるっぽい」

私は少し考え、陽明のサッカー部、鉄壁の守備を絶賛されている三年生の虎獣人キーパーの顔を思い浮かべた。

…ああいうガッシリ体型の虎、中学の先輩にも居たのよねぇ、柔道部に。取材拒否…っていうか無視されたけど…。

「おっと、オレそろそろ行かねーと。呼び止めてゴメンなジャーマネさん」

「ジャーマネじゃないです」

「そうだったそうだった。ジャーナリストさん!」

白犬はニカッと笑うと、巨体を揺すって歩き去る。

その背を見送った私は、

「…まずい…!ずいぶん時間経ってるわ…」

我に返って、大慌てで二階席へ駆け戻った。



我らが相撲部のもう一人の獣人、あんこ型白豚のシロアン先輩は、私が戻ってくる前に負けていた。

…ヨギシ先輩曰く、驚くほど短時間だったという以外には見所のない負け方だったらしい…。

二回戦が終わった後に見に行ったら、隅っこの方で屈んで小さくなってしょげていた…。

そして今、先程豪快な寄り倒しで二回戦を突破したカバヤ先輩が、三度土俵に上がった。

ここまでは順調に…というよりも、圧倒的な力を見せつけて、一方的に勝負を制している。

けれど、今度の相手は…。

「…油断ならない…、相手だ…」

ヨギシ先輩がぼそりと呟き、私は対戦相手を見つめたまま頷いた。

私達が見守る土俵上で、陽明の猪君が、糸目はそのままに眉をキリッと吊り上げ、カバヤ先輩と視線を交わす。

猪君もまた、二回戦を難なく勝ち抜いている。

立った勢いそのままに突進し、相手に堪える事を許さず、一気に押し出して。

あの時は見ていて気持ちが良い、爽快な勝ちっぷりだったけれど…、今は…。

「痛めた膝で…、カバヤ先輩、あの突進を踏み堪えられるんでしょうか?」

「…堪えられなければ…負けるだけだ…」

心配になった私に、むしろその方が良いと言わんばかりの口調で応じるヨークシャーテリア。

…やっぱり、応援する気はまるでないらしいわねこのひと…。

ため息をついて、私はカメラを構える。

四角い視界の中央で向き合い、屈み込んだ二人は、拳をついて…。

うそっ!?

立ち上がる一瞬を狙ってシャッターを切った次の瞬間、私は思わず腰を浮かせ、我が目を疑った。

立ち上がりは僅かに猪君の方が早かった。

やや遅れたカバヤ先輩が、飛び出すように前進した猪君に頭から突っ込まれ、ぐらっと揺れて仰け反る。そしてその巨体が、

猪君の勢いに負けて後退した。

カバヤ先輩の足がザザッと滑る…!

が、歩数にして二歩分ぐらい下がった所で、河馬はその太い足でしっかりと土を踏み締め、突進を食い止めた。

嫌な汗をかいた私は、ひとまずほっとした。

けれどそれも一瞬。止められた猪君は、カバヤ先輩のマワシにしっかり指を食い込ませたその状態で、強引に投げを打った。

腰を落としたカバヤ先輩に堪えられると、そこから連絡してズリッと前に出した足をからめに行く。

左足をやや引いてこれを嫌ったカバヤ先輩は、上手マワシを取ったその状態から、崩れた体勢の猪君を投げに行った。

ところが、猪君は素早く足を戻していて、とっとっ…と二歩ステップを踏んだものの、これを堪え切る。

「…残した右足を…引きつけられないせいで…、投げに込められる力が…不完全だ…。あれでは…、下半身の強いあの猪には

…堪えられて…当然…」

ヨギシ先輩の解説が、夢中になっている私の耳に忍び込む。

…なるほど…。言われてみれば、カバヤ先輩は引いている右足をあまり前に出さず、後ろに残したまま投げを仕掛けていた。

だから腰がちょっと引けた格好になっていて、投げも不完全なんだ…。

投げを堪えた猪君は、体勢も不十分なそこから腰と足の踏ん張りを利かせて、カバヤ先輩の巨体を横に振ろうとした。

果敢に攻める猪君と、受けては返すカバヤ先輩。息もつかせぬその攻防に館内が湧く。両選手の一挙手一投足で、観客席か

ら大きなどよめきが何度も上がる。

私はそう長い事相撲部に関わってきたわけじゃないし、観戦経験も乏しいけれど、それでも解った。

この試合がとんでもなくハイレベルで、希に見る名勝負になっている事に。

「…見誤った…」

ヨギシ先輩が呟く。

「…思っていたより…ずっと強い…」

私は返事もできずに食い入るように土俵上の二人を見つめている。

肥満。はっきり言ってスタイリッシュでもないし、ハンサムでもない。不格好って言える太った大男達。

なのに…、それなのに…、内股の肉が波打ち太鼓腹が揺れる、暑苦しくむさ苦しいはずの取っ組み合いは、しかし迫力があっ

て不思議に神々しい。

昔々、相撲は神事の一部で、神様に奉納される物だったという話を、私は唐突に思い出した。

今でこそ競技になっているけれど、神前で力を示し奉納する相撲の原初の姿を、組み合う二人から垣間見たような気がした。

何度と無く投げを打ち合い、押し合い張り合い揺さぶり合う二名の力士。

感動を覚えている私は、長い取り組みで呼吸が乱れきった二者の微妙な変化に気付いた。

…カバヤ先輩の…、右足が…。

気のせいかと思ったけれど、違う。河馬は体勢を入れ替える際に、右足だけ引きずるような動きを見せている。

気になり始めて間もなく、猪君が強引にマワシを引き、まるでドラム缶でも引き倒そうとでもするかのように腰を入れて横

へ振った。

その瞬間だった。私の目が、カバヤ先輩の表情の変化を捉えたのは。

引きつった口元。細められた目。後ろに回った耳…。

それは、明らかな苦悶の表情だった。

左足が前に出過ぎていたせいで、右脚一本で踏ん張ったカバヤ先輩は、その巨体をぐらつかせる。

弁慶の泣き所。故障を抱えた膝に、カバヤ先輩の巨体の重みと、猪君の体重、そして崩しの勢いが、一点集中していた。

「…見誤っていた…」

ヨギシ先輩が、また呟いた。

「…予想以上に強い…。カバヤは…」

…え?

その言葉の意味を問い返す前に、勝負はついた。

崩されたかに見えたカバヤ先輩の右腕が、猪君の肩…やや背中側にかかる。

いや、私の認識だとかかったかどうかの刹那に、その手は一気に地面近くまで下がった。

その下にあった、猪君の体ごと…。

肩を押さえつけられ、俯せに叩き付けられた猪君の、「えふっ!」という悲鳴とも息とも付かない音が、土俵上に響いた。

崩しに入った猪君は、カバヤ先輩の体勢が不安定になったのを逃さず、前に出て投げを打ちに行った…らしい。

けれど前に出た瞬間、カバヤ先輩は瞬時に腕を抜き、前傾姿勢になった猪君を、文字通り叩き潰していた。

「カバヤ先輩が…、予想以上に強い…って…?」

訊ねた私に、ヨギシ先輩が応じる。

「…カバヤは…、右脚をろくに使わず…相撲を取っている…。今の勝負ですら…、あの…猪を相手にしてすら…、右に重心が

寄る技を…仕掛けていない…」

思い返してみて何となく理解した私は、視線を走らせて敗者の姿を追った。

思いきりはたき込まれたせいで胸やお腹を土まみれにした猪君は、柴犬君達に声をかけられながら、腕で目をグシグシ拭っ

ている。

…あれ?もしかして泣いてる?

グレートピレニーズにポンポン肩を叩かれたり、他の部員達に慰められたりしていた猪君は、やがて柴犬君に手を引かれて

通路の方へ引っ込んで行った。

姉妹校の選手だし、応援したいところではあるけれど、これも勝負なのよね…。

残念だったけど、胸を張って誇っても良い勝負だったと思うわ。また来年頑張って…。

反対側を見遣れば、部員達に迎えられ、乱暴に体中ベチベチ叩かれているカバヤ先輩。

カバヤ先輩は笑っていたけれど、最後の一発はさすがに痛かったのか、広い背中にバチィンと強烈な平手を入れたキカナイ

主将は、お返しにボカッと拳骨で頭を殴られて悶絶していた。

…足は…、引きずったりはしていないわね?どうやら顔を歪めるほどの痛みが出たのは、負担が強くなったあの時だけだっ

たみたい。

「さて…。これでベストエイト進出ですね。次は準々決勝…!」

私は気を取り直してトーナメント表に線を引く。

三回戦を突破したカバヤ先輩と、程なく三回戦に挑むグレートピレニーズとの線は、徐々に近付いて来ていた。