第二十一話 「止まれない重戦車」(後編)

白い巨犬が、高々と足を振り上げた。

四股を踏んで、ぐっと腰を沈めたその巨体は、より重厚さを増す。

ぼよんと垂れたお腹がゆさっと揺れる様はコミカルでユーモラスだけれど、踏み締められたあの足の下につま先でもあった

ら、大変な事になるでしょうね…。

土俵上、グレートピレニーズの対戦相手は長身の馬。

引き締まった体は、力士というよりも、まるでスプリンターのよう。

ボリュームは間違いなく白犬の方が上だけれど、身長は馬の方がやや高い。

「何で相撲してるのか、不思議に思える選手なんですけれど…」

「…皆…、そう思うだろう…」

ヨークシャーテリアはボソボソと囁く。

「…だが…、弱い訳では…ない…。あの…脚を見ろ…」

言われて注視すれば、異常なほど発達した太腿とふくらはぎ。足を動かすたび、筋肉の束が皮膚の下でうねるのがはっきり

判る。

「…相撲は…腕力だけでとるものではないと…先に言ったが…。脚力もまた…、重要なファクターだ…。判るな…?」

「はい。「脚の筋力は腕のそれを軽く凌駕する」ですね?全身を使う相撲でも、脚の…下半身の力は当然重要。…ですよね?」

「…結構だ…。重い体を…支える為に…必須なだけでなく…、ああいった…筋肉質な…選手は…、機動力と推進力を…武器と

して活かせる…。先の猪の…突進力とは…また違う…。あれが戦車なら…こちらは戦闘機…」

ヨギシ先輩の説明の間に、二者は土俵上で向き合い、深く腰を沈めている。

写真を撮る必要はあまり無いんだけれど、私はカメラを構え、レンズ越しに拡大して見つめた。

気迫漲るグレートピレニーズの横顔と、眼光鋭い馬の横顔。しかし両者の睨み合いは長くは続かない。

「ハッキヨイ!」

行司の声は、二人がぶつかり合う音と、漏れた呼気の音に重なった。

馬の方が一瞬だけ速かった。立ち上がり、前進し、激突したその位置は、土俵の中央から僅かにグレートピレニーズ寄り。

ガポンとぶつかりしっかり組み合った両者は、そのままズズッと白犬側に少し滑る。

けれど、グレートピレニーズが後退したのはそこまでだった。

踏ん張る馬の脚が、みきみきっと筋肉の筋を浮かべる。

まるで彫像のようにくっきりと美しい筋肉の隆起を浮かべたその脚は、しかしグレートピレニーズを動かす事ができない。

根っこが生えたようにどっしり踏ん張り、突進を食い止めたグレートピレニーズは、そのままのしっと一歩踏み出し、立ち

合いで相手に与えたアドバンテージをチャラにした。

…いえ、違うわ。

一歩じゃない、もう一歩…、いや、さらに一歩…、また一歩…。

のしっ、のしっと、一歩ずつ着実に前進する白犬。

ずりっ、ずりっと、少しずつ後退させられていく馬。

両者の荒い息遣いが、いつの間にか大きくなっている。

馬の全身には、盛り上がった筋肉の陰影がくっきり浮かび上がっていた。

対する白犬は、歯茎まで剥き出しにして歯を食いしばっている。ギチッと牙を噛み合わす音がここまで聞こえてきそう。

ゆっくり、緩慢に、しかし力強く一歩ずつ移動してゆく両者の間に、一体どれだけの力が働いているのだろう?

それは、感動的なまでにシンプルでピュアなパワーゲームだった。

どっちも投げを打たないし、変わりもしない。

力を振り絞っていてその余裕が無いのか、それとも意地で競り合っているのか、それとも別の理由があるのか、私には判ら

なかったけれど、それでもこうは感じた。

とんでもなく格好良い、と。

ゆったりした、しかし力がこもった移動は、程無く土俵際に達した。

徳俵に足をかけ、最後の踏ん張りを見せる長身の馬。

しかし抵抗もそこまで。息が上がり、ふいごのように上下しているお腹を突き出すようにして、白犬は馬を土俵外へと押し

やった。

息すら飲み込むように堪えて沈黙していた場内から、一斉にどよめきと歓声が上がる。

「…なかなか…珍しい…、面白い…勝負だった…」

「そうなんですか」

取り組みの見学経験が浅い私が、「やっぱりなぁ」というニュアンス混じりに言うと、

「…珍しいし…面白い…。呆れるほど力任せで…馬鹿馬鹿しくて…、かえって趣がある…」

ヨギシ先輩は、珍しく口元を綻ばせながら呟いた。…珍しいのは、貴方のそういう顔もなんですけど…。

ちょっと見とれていた私は、こっちを向いたヨークシャーテリアの視線を避け、トーナメント表に視線を落とした。

…さて、寄り切りで勝利したグレートピレニーズがコマを進めて…っと…、うん。これでトーナメント左ブロックの準々決

勝進出者が出そろったわね。

相手がそれほどでもないのか、グレートピレニーズの試合はここまで危ない場面が全く無い。

ヨギシ先輩曰く、三回戦の相手だった長身の馬も、強豪校の名選手だったそうだけど…。

「本当に強敵ねぇ…」

呟いて顔を上げた私は、仲間達に迎えられているグレートピレニーズを眺める。

かけられた声に笑顔で応じ、逞しい腕を上げ、力瘤を作ってパンパン叩いて見せながら、通路側へ去って行く白犬は、遠目

には巨体のインパクトがいくらか薄れて見える上に、その丸っこい体型もあって、ぬいぐるみのようで愛くるしい。

…けれど、ああ見えてとんでもなく強い選手なのよねぇ…。



長めの休憩という意味もあったんだろう。それまでより少し間を空けてから、準々決勝となる第四回戦は始まった。

カバヤ先輩は一試合目。休憩時間中も体を動かしていたのか、土俵に上がった暗褐色の巨体はしとど汗に濡れいり、表面が

テカっている。眉はきりっとつり上がって、気合十分の表情だ。

ファインダー越しにカバヤ先輩を見つめていた私は、視界の隅でランプが点灯している事に気付き、カメラから顔を離す。

「あ!もうっ…!大事なところで…!」

バッテリーが残り少ないけれど、今から交換していたら始まっちゃいそう。保つわよね?一試合なら…。

傍らのヨギシ先輩は、少し前に、相手はまたしても強敵だという事を私に説明してくれてからというもの、ずっとだんまり

を決め込んでいる。…それぐらい、強い相手なのかしら…。

再びカメラを覗こうとした私は、ふと気がついて視線を動かす。

遠目に望んだそこには、白い姿があった。

体の脇に垂らした手はきつく拳を握っていて、その両目は祈るように、そして苦悩するように、かたく閉じられている…。

やや俯き加減で佇む白い獣から、私は目を逸らした。

…心配…なのよね…、当然…。

一度目を閉じ、それからカメラを構えた私は、意識を土俵に戻す。

カバヤ先輩の相手は、こちらも堂々たる体躯の黒熊。

さすがにカバヤ先輩と比べればいくらか小振りだけれど、それでも腕の太さ、肩や背中の盛り上がりは尋常じゃない。太腿

なんて私のウエストより太いわ。

ごっつい黒熊とぶっとい河馬が、向き合って屈み込む。

一瞬、二人の視線がぶつかって火花が散るように錯覚した。

大事なその瞬間を逃さないよう、ボタンに指をかけ、息を詰めて私は待つ。

立った!そう頭で理解する一瞬前に、シャッターが切れた。

同時に力を絞り尽くしたカメラがダウンし、私は大急ぎでポーチに手を入れ、換えのバッテリーをまさぐった。

会場がどよめきで埋まったのは、その瞬間だった。

ポーチからバッテリーを掴み出し、顔を上げた私は、土俵中央で片足立ちになっている大男達の姿を目にする。

カバヤ先輩は右足を後ろに大きく上げ、黒熊は左足を同じように上げ、互いの体の横側を密着させている。

投げの打ち合いになったんだ!たぶん、ぶつかり合って組み合った直後、二人は同時に投げに行った!

大事な場面を見逃した事を悔やみつつ、まどろっこしく思いながらバッテリーをセットした私は、そこではたと気がついた。

…カバヤ先輩が…、自分から積極的に投げに行っている…?

カバヤ先輩は、右に重心がかかる技を出していない。そんなヨギシ先輩の言葉が蘇った。

それは、右足を庇っているせいじゃなかったの?

違和感を覚えた私は、別の物もまた同時に覚えた。

ざわざわと落ち着かない、不快な胸騒ぎを。

そして気付く。倒れ込んでもおかしくない極端に傾いた姿勢から、ずしっと体を戻した両者の一方、星陵相撲部最後の選手

の顔に浮かぶ、苦悶の表情に…。

まさか…?いえ、でも…。カバヤ先輩、ひょっとして既に膝を…!?

悪い予感という物は、有り難くない事に良く当たる。

思い違いじゃなかった。平気なんかじゃなかった。

カバヤ先輩は、さっきの猪君との試合で…、本当は膝の状態を悪化させていたんだ!

だから、らしくもなく勝負を焦って、のっけから投げを打ちに行った。強引にでも早期決着で済ませないと、膝が持ち堪え

てくれないから…!

がっぷり組んだ両者が吐き出す荒い息が、土俵上からここまで響く。

休憩中にも体を動かしていた?いや違う!カバヤ先輩が最初から汗だくだったのは、動いていたからじゃない!あれは…、

苦痛の脂汗だ!

ヨギシ先輩も既に気付いていたらしい、いつのまにか身を乗り出して、食い入るように土俵を…、その上の友人を見つめて

いる。

黒熊が繰り出す、強引ながらも力強い、再度の投げ。

その投げは運悪く右方向に揺られる型で、カバヤ先輩の顔が苦痛に歪んだ。

右足を擦るように外側へ移動させ、何とか堪えきったものの、ピンチには変わりない。

片足、右の膝をまともに動かせないせいで、投げや崩し、揺さぶりに対し、腰を落として耐えるという基本かつ重要な選択

肢が潰れている。

半ば無意識にバッテリーの交換を終えていた私は、ファインダーを覗いた。

復活したズームで覗いたカバヤ先輩は…、異常なほど汗をかいて、苦しげにお腹を上下させていた。

違う意味で、手に汗握る勝負…。動くたびに顔を歪ませ、息を荒くして行くカバヤ先輩に、もう止めてと叫びたくなる…!

見ているのが辛くなって、顔を背けたくなってきたその時だった。絶体絶命に思えたカバヤ先輩が、急な動きを見せたのは。

動きの起点は、相手が出した右足だった。

そこへ左足をずりっと滑らせて寄せ、さては投げか?と黒熊も警戒しただろうその瞬間に、カバヤ先輩はぐわっと身を逸ら

した。

マワシを掴んで吊り上げるようなその格好は、前に出した左足に体重が集中している。

右足に負担をかける事無く繰り出すそれが、本来どんな形になる事を狙っての動作だったのか私には判らなかったけれど、

黒熊はさせじとばかりに腰を出し、お腹をぶつけ合うようにして寄りつつ、カバヤ先輩のマワシをギリッとつかみ上げる。

お肉にマワシがかなり食い込むほどのきつい吊り上げ。お腹を合わせて密着した大男たちの体勢は、しかし直後に崩れた。

カバヤ先輩の手が、相手のマワシから離れた。

え?っと私が目を疑ったその瞬間、河馬の太い腕が黒熊の首にぐっと巻きつく。

速く、力強く、正確に動いた左腕は、黒熊の首を巻き込み、さらにそのまま動きを止めない。

連動してカバヤ先輩の体が腰を落として曲がり、マワシをしっかり掴んだままの黒熊は、まるで誘われるようにして強制的

に体を沈められる。

ヨギシ先輩が「あ」と声を漏らしつつ、勢い良く立ち上がった。

体勢を低くさせられつつ首に腕を回された黒熊は、暗褐色の巨体が倒れ込むように打った、全体重と全力を込めたその投げ

で、体を半ば真横にしていた。

私の目には、その投げを打ったカバヤ先輩に、友人の熊が得意の大腰をしかける姿が、何故か重なって映った。

努力と研鑚の末、非の打ち所が無いほどの完成度を得た、芸術的な技…。

全く似ていない投げ技なのに、それでもダブって見えたのは、きっとカバヤ先輩のその投げが、アブクマ君の大腰同様、た

ゆまぬ稽古で磨き上げられた物だったからなんでしょうね。

暗褐色の大きな河馬は、黒熊を土俵に転がしつつ、右足の踏ん張りが利かなかったせいで、勢い余って自らも倒れ込んだ。

どっち!?際どかったけれど、どっち!?

私は無意識に撮ったカメラの画像を確認するのも忘れ、行事の手に注目する。

判定は…?手が上がるのは…!?西!判定は西!

手をついて体を起こしたカバヤ先輩の顔が、僅かに緩んだ。

「相撲部の重戦車、見事準決勝進出!」

記事の見出しに使いそうなベタなワードを叫びつつ、私は立ち上がった。

「…首投げ…!釣り誘いは…、あれへ連絡させる…布石だったのか…」

目の肥えたヨギシ先輩にとっても名勝負だったのか、ボソボソ声には若干の熱が入っているようにも感じられた。

汗まみれの脇腹やお尻、胸やお腹をべったりと土で汚したカバヤ先輩が、ゆっくりと土俵を降りる。

ほっとした私の横で、ヨギシ先輩は「…ここまでだな…」と呟いた。

見れば、前髪の中から僅かに覗くその視線は、いつになく鋭く、厳しい。

ヨークシャーテリアが無言で見つめる先は、通路側へ引き返して行くカバヤ先輩だ。

…あれ?いつにも増して歩みがゆっくり…、っていうか、右足…、完全に引きずってる…!

私がそれに気付いたその時には、ヨギシ先輩は席を離れて足早に歩き出していた。

「あっ!先輩、何処に!?」

「…カバヤを…止めに行く…」

ヨークシャーテリアの口から、苦渋の響きを伴う声が漏れた。

「…完璧に…膝をやった…。今度こそ…なんとしてでも…止める…」

珍しく焦りを滲ませた声で吐き捨て、ヨークシャーテリアはさっさと歩いて行く。

私は慌てて荷物を纏め、その後ろを追いかけた。



星陵の相撲部員達が陣取っているそこには、しかし肝心要の河馬の姿が無かった。

「…カバヤは…どこだ…?」

肩を落としているキカナイ主将に、ヨギシ先輩が尋ねた。

ふと気付けば、全員浮かない顔をしている。

「…居なくなっちまった…。試合終わるなり、便所行くって言って、そのまま姿をくらませて…。今先生が捜してるが…」

キカナイ主将はため息をつき、肩を落とす。

「見てて気付いたろ?アイツの膝、間違いなくもう限界だ…!いや、もしかしたら…、本当は前の試合でもう…!」

「…捜すぞ…」

ヨギシ先輩はキカナイ主将の言葉半ばでくるりと踵を返した。

「…カバヤの…事だ…、おおかた…、試合直前まで…姿をくらましておき…小うるさい説得から…逃げようという…魂胆だろ

う…。捕まえて…何としてでも…止める…。力ずくでも…」

言葉での説得も困難だけれど、あの人を相手に力ずくなんて事が可能だろうか?

私のそんな疑問を察したように、ヨギシ先輩は腰のポーチから黒い何かを何個か取り出した。

「…いくつか…貸しておく…。見つけ次第…やれ…」

…スタンガンっ!?

「…ただし…、脂汗まみれの…カバヤに使った場合…意図しない危険な事態が…発生する可能性も…ある…。さりげなく近付

き…、労うふりをして…タオルで拭った箇所に…押し当てろ…」

ヨークシャーテリアはそう言いつつ、壁際に居た数名にスタンガンを押し付けるようにして渡し、そのまま足早に通路側へ

戻って行く。

カバヤ先輩本人だけでなく、関係者全員にとって不幸な事に…、…本気だあのひと…!

早くカバヤ先輩を見つけないと、あのヨークシャーテリアにズビズバされちゃうっ!

「皆さん!急いで捜しましょう!」

焦りを増幅させつつ、私は部員達にそう訴えてから駆け出した。

探索するのは…外!

木を隠すなら森の中っていうけれど、カバヤ先輩は人ごみの中でも目立つ。

おまけに隠れられる場所だって限られる。あの横幅じゃ、間違ったって掃除用具入れなんかには入れない。

たぶん屋外のどこか…、しかも、膝が痛むから試合場までそう距離が無いところ…、そして、ひとが来ないところ…!

私は上履きのまま、体育館の裏手側へと回って行った。



何を思うのか、頭上に張り出した四角い雨避けを見上げ、大きな河馬は身じろぎもせずに座っていた。

体育館裏手の用具搬入用の非常口、閉ざされた鉄の扉に背を預け、コンクリートにあぐらをかいて。

顔にはこれといって表情は浮かんでいない。ぼんやりとしている。

一見するとただ休憩しているように見えるけれど、その分厚く大きな手は、負傷した右膝をそっと押さえていた。

「カバヤ先輩!」

やっと見つけた!こちらに顔を向け、少し驚いている様子の先輩に駆け寄った私は、いたずらが見つかった子供のように気

まずそうな顔をしている河馬が立ち上がろうとするのを慌てて止めた。

「あ!立たないで良いです!そのままで!」

私の発言で既に膝の異常に気付かれている事を察したんでしょうね、カバヤ先輩は一瞬ひるみ、しかしそれでも腰を上げる。

右足を庇っているからだろう、緩慢に、しかもぐっと何かを堪えるような顔つきをしながら立ち上がったカバヤ先輩は、目

の前にたどり着いた私の顔を、作ったようなやや硬い笑みを浮かべながら見下ろした。

「どうしたのだシンジョウ君?血相を変えて。まさか儂の出番が早まったという訳でもないだろう?」

「どうしたもこうしたもないです!」

この期に及んでも誤魔化そうとするカバヤ先輩に、私はずいっと身を乗り出しながら言いつのる。

「右膝、痛めちゃったんですよね!?皆心配してます!とにかく医務室で看て貰いましょう!?ね!?無理は駄目ですよ!」

「大丈夫だ。四股を踏んだら治った」

「嘘言わないで下さいっ!」

私は即座に切り返す。

カバヤ先輩の体は、異常な程の発汗で、まるでシャワーでも浴びたように全身が濡れていた。

肩や腕を伝った汗が指先からポタポタと落ちて、コンクリートに跡をつける。

伝い落ちた汗はサンダルの横からも垂れていて、それらの染みは見る間に大きくなって行く…。

これだけ脂汗が滲み出るって…どんな激痛なのよ…!

「棄権しましょう先輩…!お気持ちは、私にも少しは察せられます…!けれど…、けれどこんな…」

カバヤ先輩は少し顔を俯けて、小さくかぶりを振った。

「気持ちは有り難いが…」

「ヨギシ先輩だって心配してます!それに…、それに…!」

…あのひとだって、カバヤ先輩がこんなになるのを望んでいるはずがない…!

「御願いだ…。止めてくれるなシンジョウ君…」

大きな河馬は困り切った様子で、申し訳なさそうな目すらして、私に囁く。

「次は準決勝、きっとアイツも上がってくる…。決着の約束は果たさねばいかん。それに、儂にとっても最後の機会なのだ…。

そう、最後の…」

…何て、言えばいい?私は、何て言えばこのひとを止められる?…いいえ、そもそも止める事自体できるの?

膝の事…、これからの事を話しても…、例えば、今無理をして一生まともに歩けなくなってもいいのか?なんて脅しめいた

事を言ったところで、カバヤ先輩を止められるとは思えない。

それこそそんなセリフは耳にたこができる程聞いているだろうし、本人が覚悟の上で相撲を取っている以上、脅しにもなら

ない…。

…どうしたらこの先輩を止められる?どうすればこのひとは止まってくれる?…私は…、何て無力なんだろう…。

所詮部外者に過ぎない自分の立場を恨めしく思い、私は項垂れる。

「…済まんな…、シンジョウ君…」

優しい河馬は、無力さに打ちのめされている私にそんな声をかけた。

…謝るぐらいなら…、止まって下さい…!

自分が情けなくて、私が泣きたい気分になってきたその時だった。ジャリッと、地面を踏み締める音が聞こえたのは。

振り向いた私の目に映ったのは、白い姿。

その鋭い視線は私を通り越し、カバヤ先輩を睨んでいる。

少し息を乱し、肩を上下させている白い獣人は、おもむろに口を開いた。

「…やったんだな?」

何をどうやったのか、改めて言及するまでもない。そんな単刀直入で要約が過ぎる切り出し方をした白い獣を、カバヤ先輩

は黙ったままじっと見つめ返す。

「棄権しろ」

「断る」

両者の短い応酬は、私を挟んで行われた。

遮る位置に居る自分が二人の邪魔をしているように、そして出しゃばった真似をしているように思えて、私は三歩後ずさる。

カバヤ先輩から見て左方向へずれた格好だ。

道を空けた、という訳でもないんだけれど、白い獣は真っ直ぐ、堂々とした足取りでカバヤ先輩に歩み寄り、私が立ってい

た位置で足を止めた。

「棄権しないなら、オレが力ずくでも止める…!」

近距離で向き合い、睨み合う両者。

まるで、見えない圧力で押されるように、私はさらに一歩後ずさった。

それほどまでに二人からピリピリした緊張が感じられている。

「もう…良い…」

「「良い」とは?」

カバヤ先輩は無表情に問い返し、白い獣は唇を捲りあげ、牙を剥き出しにした。

「もう、オレの為に無理しなくて良い…!」

押し殺した声は、辛そうですらあった。

…このひとは、ずっとずっと、責任を感じていたんだ…。自分を庇ったカバヤ先輩が、膝に後遺症を抱えてしまった事を…。

そしてカバヤ先輩も、ずっとずっと頑張ってきたんだ…。試合で結果を残す事で、あの事故は何でもなかったと示す為に…。

本当は互いの事を思っているのに、哀しいすれ違いを繰り返してきた二人は、しかし今、私の目の前で意見を衝突させる。

カバヤ先輩の膝は誰がどう見ても限界で、もう行き着く所まで来てしまったんだから…。

しばし黙っていたカバヤ先輩は、少し目を伏せて口を開いた。

「…話はここまでにしよう。もうじき試合の時間だ」

「行かせないっ!」

答えは、すぐさま叩き付けられた。

「言っただろう?力ずくでも止めてやるっ!」

 その顔に浮かぶのは、怒り、哀しみ、そして…、これは…、…誇らしさ…だろうか?

「そうまでして頑張ったのはオレの為…。嬉しいよ…。誇らしいよ…。オレの為にやってくれたんだって、自慢したいよ…!

…けど…、オレが止めるべきなんだ!今度こそ!」

ヒョウノ先輩は、挑みかかるような顔つきで牙を剥き、耳を後ろ向きに伏せて雄々しく吠える。

威嚇混じりの表情を浮かべた雪豹は、悲しんでいるのに、怒っているのに、とても綺麗だった。

私はふと思った。

二年前、無理して大会に出ようとしたカバヤ先輩を殴った時も、ヒョウノ先輩はこんな顔をしていたんだろうか?

五年前、事故から庇われて、身代わりになったカバヤ先輩に縋り付こうとした時も、こんな顔をしていたんだろうか?

カバヤ先輩はそんな雪豹の視線を真っ直ぐに受け止め、それでもなお表情を浮かべず、微動だにしない。

けれど、その目には迷いがある。少し哀しげで、しかし使命感にも似た光が混じった、迷いの色が浮かんでいる。

言葉もなく、カバヤ先輩は一歩踏み出した。

まるで健在だとアピールするように、わざわざ右足から、ヒョウノ先輩を横に避ける格好で。

その前に、白い獣が素早く立ち塞がる。

互いの顔の間を1メートルと離さず、真っ直ぐ見上げる雪豹と、真っ直ぐ見下ろす河馬。

私には異常に長く感じられたその睨み合いは、しかし実際にはごくごく短時間で終わった。

ヒョウノ先輩の左足が、素早く動いた。

鋭い、速い、綺麗なローキックは、しかし直前でビタッと止まって、カバヤ先輩のくるぶしに、軽くスニーカーの靴紐が押

し当てられる。

「うぐっ!?」

カバヤ先輩の顔が歪んで、口から呻き声が漏れた。

雪豹の、蹴りとも呼べないような、触れるか触れないかの接触で、大きな河馬の巨体がぐらついた。

後ろ向きによろけ、しかし後ろに引いた右足では体を支えられず、カバヤ先輩は鉄の扉にドガンと背中から倒れ込み、ずり

ずりと下がって尻餅をついた。

触れられた、その振動だけで耐え難い痛みを感じたんだろう。それこそ立っていられない程の。

カバヤ先輩はそんな状態で…、そんな痛みを堪えて…、試合に出ようとしていたんだ…。

尻餅をついて、痛みよりも失敗を苦にしているように「しまった」という顔をしているカバヤ先輩を見下ろし、ヒョウノ先

輩は呟いた。

「そら見ろ…!本当は、立っているのも辛いくせに…!」

まるで自分の方が痛いかのように、雪豹は辛そうな顔をしていた。

「もう良いんだよ…!気持ちは十分受け取ったよ…!」

ヒョウノ先輩は足を踏み出し、尻餅をついて投げ出しているカバヤ先輩の足の間に、崩れるように跪く。

「お前は強いよ…。もう十分強いよ…。それ以上強くなんか、ならなくたって良いよ…!」

項垂れて呟く雪豹の目から、涙が零れた。

「オレは強くなったから…!もう、守って貰わなくても大丈夫なくらい強くなったから…!だから…!」

頬を伝った涙が顎先に流れ、ぽたり、ぽたりと足下に落ちた。

目の前に落ちた透明な雫を一瞬目で追ったカバヤ先輩は、再び顔を上げてヒョウノ先輩を見つめる。

「今度は…、オレがお前を守るから…!車にだって負けないから…!」

震える声で言ったヒョウノ先輩の前で、カバヤ先輩は、「ふん…」と鼻を鳴らし、少し顔を下げた。

諦めたような、そして、どこか恥じいっているようにも見える微苦笑を浮かべて。

「自慢する訳では無いが、足一本失った程度でおなごに守って貰わねばならんほど、弱い男ではないつもりだ」

反論しようとしたのか、何か言いかけて口を開いたヒョウノ先輩を、カバヤ先輩は「だが…」と制した。

「独りよがりな空意地を張った挙句に、惚れたおなごを泣かせるようでは…、本当の意味で強いとは言えんだろうなぁ…」

「…え?」

ヒョウノ先輩は目を少し大きくし、カバヤ先輩は決まり悪そうに笑う。

「やっと解ったような気がする…。儂はずっと、お前の口からその言葉を聞きたかったのかもしれん…」

大きな河馬は照れくさそうに耳を伏せて、美しい雪豹の顔をじっと見つめた。

「もう守って貰わなくて良いと…、それほど強くなれたと…、そんな言葉を聞いて安心したかったのかもしれん…。そして、

儂も強くなったと、お前に誉めて貰いたかったのかもしれん…」

「オレに…、そんな事を言って欲しかったのか…?ずっと…?」

戸惑っているヒョウノ先輩の問いには応じず、カバヤ先輩は顔を伏せて肩を震わせ、小さく笑った。

「一体どうしてくれる?すっかり満足してしまった…。これでは土俵を降りてしまえるじゃないか?」

カバヤ先輩の声は、少し寂しげで、でもちょっと嬉しそうで、今は伏せて見えない顔が、例え泣き顔でも、あるいは笑顔で

も、「ああそうか」って、納得できそうな気がした…。

「…痩せ我慢は、ここまでにしておこう…」

ややあって、そう呟いたカバヤ先輩は、

「五年続けても全く痩せなかったがな」

満面の笑みを湛えた顔を起こし、お腹をベチンと平手で叩いた。

「ジュウタロウ…!」

ヒョウノ先輩は声を詰まらせ、カバヤ先輩に身を寄せた。

「有り難う…!そして…、馬鹿野郎…!皆にいっぱい心配かけて…!」

首に両腕を回し、肩を震わせて泣く雪豹の背に、河馬は無言で太い腕を回す。

結局、カバヤ先輩を止められるのは、ヒョウノ先輩をおいて他に無かったんだろう。

事故から五年…。ずっとずっと我慢して、頑張って、意地を張り続けてきた二人の間に、今日、やっと決着が…。

その場に居合わせた奇妙な縁と、決着を目の当たりにしたのが私なんかで良かったのだろうかという後ろめたさに、ちょっ

ぴり感じ入る。

抱き合う二人に背を向けて、お邪魔虫の私はこっそり踵を返した。

そして、角を曲がりつつ、そこに潜んでいたヨークシャーテリアに小声で話し掛ける。

「盗み聞きなんて、趣味悪いですよ?」

「…どの口が…そんなセリフを…」

…ギクリ…!

ヨギシ先輩は手にしていたタオルとスタンガンをポーチに仕舞い込み、壁から離れて歩き出す。

「…電力に頼らず済んで…何よりだった…」

「本気だったんですね?スタンガン…」

「…本気でなければ…六本も…用意して来ない…」

…確かに…。



それから、カバヤ先輩は顧問の先生に棄権を申し出て、見続けた夢に、張り続けた意地に、終止符を打った。

医務室で膝を固定はして貰ったけれど、診察はすぐにも病院で受けるようにと申し渡されたそうで、閉会式を待たずに会場

を後にする事になった。

…が、決着は、まだついていない物が一つあったとの事で…、

「棄権っ!?」

素っ頓狂な声を上げ、目を丸くしているグレートピレニーズの前で、ベンチに座ったカバヤ先輩は神妙な顔つきで説明をお

こなっていた。

膝が悪い事は白犬も重々承知していたようで、説明はかいつまんだものになっていたけれど。

医務室前のベンチに腰掛けたカバヤ先輩の周りには、心配そうな顔の部員達と、ヨギシ先輩と私の取材班。

我が校の豚獣人シロアン先輩に呼ばれ、ここまで連れられて来たグレートピレニーズは、この物々しい布陣を見て驚いてい

たけれど、話を聞いた今は、理由が解ったでしょうね…。

「…という訳でな…、済まん!」

目の前で呆然と立ちつくしているグレートピレニーズに、カバヤ先輩はがばっと頭を下げた。

白い巨犬はしばし口をぱくぱくさせ、

「なっ…!う…!あ…!ぐぅ…!」

と呻いた後、牙をかみしめて歯茎を剥き出しにした凄い顔になる。

が、やがて気が抜けたような顔になって項垂れ、がくんと肩を落とした。

「…勝ち逃げかよ…」

もさもさの尻尾をだらりと元気無く垂らし、しばし項垂れていた白犬は、

「…仕方ねーよな…」

と、まるで自分を納得させるように、辛そうに、寂しそうに呟いた。

「…済まん…」

「謝んなって…。何て答えりゃ良いか判んねー…」

心底済まなそうに謝るカバヤ先輩と、気の毒な程がっくりしている白犬。

カバヤ先輩が棄権を表明した今、勝ち残っているグレートピレニーズは、次の準決勝が不戦勝になる。普通に考えればラッ

キーだ。

けれど彼にとっては、大会での好成績より、カバヤ先輩との試合の方が大事だったんでしょうね…。

「膝、お大事に…」

すっかりしょげてしまった白犬がぼそりと言って踵を返すと、カバヤ先輩は小さく頷いてから思い出したように口を開いた。

「リキマル!」

呼び止められて振り返ったグレートピレニーズに、河馬は続けた。

「棄権でも負けは負けだ。今度ウチに遊びに来たら、約束通り特盛り鰻重を奢ってやる」

それを聞いた白犬…リキマルさんは、顔を顰めて「ふん!」と鼻を鳴らす。

「冗談!こんな決着の付け方、オレぁ認めねーかんな!」

言い捨てて、再びくるりと背中を向けたリキマルさんは、「だから…」と先を続け、

「鰻重は、自分の金で食いに行くっ!全国大会の土産話もって!」

首だけ巡らせて、ニカッと歯を剥いて笑った。

なんとも気持ちの良い笑顔を見せたリキマルさんは、「せっかくだから後輩も連れてって、ご馳走してやるぜぃ」と付け加

え、カバヤ先輩に心配げな顔を向けられる。

「大丈夫か?念のために言っておくが、鰻重は安くないぞ?」

「…後輩に奢る程度の甲斐性見せろって言われてんの。ウチの主将に…」

太い指で鼻の頭をこりこり掻いて、白い巨犬は顔を向こうに戻し、肩越しに手を上げた。

「んじゃ、お大事にな!カバヤさん!」

気落ちしていた様子が嘘のように、気持ちを切り替えてさっさと歩き出した好敵手の背に、カバヤ先輩は詫びるように頭を

下げていた。

「ジュウタロウ!」

響いた声に首を巡らせれば、足早に歩いてくるヒョウノ先輩の姿。

「先生が車を裏手に回してくれた。いくらか近いだろう」

「それは助かる」

息を切らせて告げたヒョウノ先輩に頷き、カバヤ先輩は部員達の手を借りて立ち上がった。

仲間達に左右から支えられ、ゆっくり歩き出したカバヤ先輩は、こっちに顔を向けて照れくさそうに笑った。

「いろいろ世話をかけてしまったな…。ヨギシ…、シンジョウ君…」

私とヨギシ先輩は黙って首を横に振る。

「…養生しろ…」

「お大事に」

先輩と私は、仲間達と雪豹に付き添われて去って行く巨漢を、その場に留まって見送った。

「今更こういうのも何だし、これで良かったって思うんですけど…、それでもちょっと惜しかったですよね、入賞目前だった

のに…」

私の呟きに、ヨギシ先輩は黙って頷く。

「入賞すれば、記事の扱いも大きくなったんでしょう?写真、何枚か使えると良いんですけど…」

新聞部の記事は当然ながら紙面が限られている。一つも賞を取れなかった部活の扱いは小さくなってしまう。

相撲部は特別扱いされていない運動部だ。部員達の頑張りがどんなに素晴らしくても、結果が伴わなければ記事の方は…。

「…使えなくとも…、問題ない…」

ヨギシ先輩はボソッと言う。

「…新聞部で使えなくとも…、今日の写真は…、何枚か日の目を見る…」

私は「…あ…」と漏らしてヨギシ先輩を見つめる。

「…賞は無くとも…、健闘を…称えてやるのに…不足しては…いないだろう…。相撲部の…努力は…」

…このひと、きっとまた何か企んでる…。

「…行くぞシンジョウ…。きっとカバヤが…聞きたがる…。ライバルだった男の…試合の様子を…」

ヨギシ先輩はきびすを返し、会場に向かって歩き出す。

「はい!」

ヨークシャーテリアの歩みはゆっくりにも関わらず、後ろに従って歩き始めた私の目には、何故か、風を切って颯爽と征く

侍か騎士のように映った。