第二十二話 「始動」

「こんにちは」

「………」

私が挨拶して、ヨークシャーテリアが無言で、同時に病室の入り口を潜ると、

「おお、わざわざ見舞いに来てくれたのか、ヨギシにシンジョウ君」

狭い個室の中央でベッドに横たわっている大きな河馬は、読んでいた本を閉じて枕の脇に置き、破顔しながら声を上げた。

嬉しそうな笑みを浮かべているカバヤ先輩は、次いで私達の後ろに視線を向け、目を細める。

「シンイチ。それにユキコも…。済まんなぁ、皆忙しい折に…」

「なんのなんの。ほれヒョウノさん、入らんか」

何故か病室入り口で立ち竦んでいる雪豹の背を押しながら、大きな牛がのっそりと病室に入って来る。

もしかしたらヒョウノ先輩は、見舞いに来た所を発見されて恥ずかしがっているのかもしれない。

タイミングが悪かったけれど、私とヨギシ先輩も明日からはしばらく忙しくなるだろうし…。

実は、私達は申し合わせて一緒に来た訳じゃないのよ。

私とヨギシ先輩は最初から一緒だったけれど、たまたま病院の入り口でウシオ団長と、さらにエレベーターでヒョウノ先輩

と立て続けに遭遇し、結局団体で訪問する事になったのよね。

まぁ、放課後すぐに学校を出れば、時間帯が被るのは当然なんだけれど…。

「…見舞い…、二人分…」

ヨギシ先輩がぼそぼそ言いながら、ゼリーの詰め合わせをベッドサイドのテーブルに置くと、次いでヒョウノ先輩も、

「果物、食べたがっていただろう?」

と、フルーツバスケットを置く。

「ワシの見舞いは、美味い物でなくて悪いが…」

ウシオ団長はそう言いながら、厚みのある本屋の袋をテーブルに置く。

たぶん漫画雑誌だと思う。口の所から分厚くて大きな本の頭が見えた。

「いやいや助かる。ろくに動けんせいで暇を持て余していた」

カバヤ先輩は耳を倒して笑うと、私達に頭を下げた。

「本当に有り難い。わざわざ時間を削って来てくれるとは…」

水色の患者衣を纏ったカバヤ先輩は、現在十日間の入院治療中。

入院三日目…つまりつい昨日手術を終えたばかりの電柱みたいに太い右脚は、ギプスで固定されて上から吊られている。

ヨギシ先輩から伝え聞いたけれど、カバヤ先輩の右膝は、原形を留めないまでに半月板がすり減っていて、以前の事故で損

傷していた軟骨はほぼ無くなるほど削れてしまっていたらしい。

内視鏡手術で痛みの原因でもあったダメになった半月板を除去し、軟骨を整形されたそうで、落ち着くまでは入院していな

ければいけないし、退院後もリハビリのために通院を続けなければならないけれど、脂汗を流すほどの痛みに襲われる事はも

う無くなるらしい。

…ただ、人工関節が必要になる程ではなかったものの、もう元通りにはならないらしくて、リハビリを終えても走ってはい

けないそうだ…。

いくら丈夫な獣人達でも、失ってしまった部分は元に戻らない。無くなった軟骨と半月板は、一生そのままで…、当然…、

二度と相撲をとる事も…。

「覚悟の上だ。歩けんようにならんかった分だけ運が良かったな」

日常生活はともかく、殆どのスポーツができなくなってしまったカバヤ先輩は、改めて私達に膝の具合を説明すると、特に

無理をしている様子も見せずにそう言って笑っていた。

「しかし困った。ろくに運動できんようになると、相撲と離れても痩せられんなぁ」

冗談めかしてそう言ったカバヤ先輩は、きっと、本当に後悔していないんだろう…。

ヒョウノ先輩が言うように、カバヤ先輩は強いひとだ。

入院から検査、手術と続いて多忙だったせいで、他の部活の大会結果をまだ聞いていなかったカバヤ先輩は、ヨギシ先輩が

纏めた全ての部活の県大会結果に目を通した後、少しだけ寂しげに目を細めた。

「儂はやはり欲張りだな。こうして結果を見ると、全国の土俵に上がりたかったと思ってしまう」

呟いた先輩の目は、空手部の成績欄に向けられている。先週の大会で全国出場を決めた、ヒョウノ先輩の名前を…。

「だが、良い事も一つある」

カバヤ先輩はそう言って、太い指で用紙の端をピンと弾いた。

「自分の試合の事を考えず、ユキコの応援に行けるからな」

「行くのか?北街道まで」

ウシオ先輩が訊ねると、カバヤ先輩は「一足早い卒業旅行がてら」と応じた。

「なるほど!考えてみれば恋人の晴れ舞台。応援に行かん手は無いなぁ」

大牛は納得顔で頷き、ヒョウノ先輩は少し気恥ずかしそうに身じろぎして、白い尻尾をモジッとくねらせた。

そう!長らく互いを思い合っていながらも、事情があってこれまで距離を開けていたカバヤ先輩とヒョウノ先輩は、互いの

気持ちに決着がついた事もあって、この度、めでたく交際する事になったの!

何せヒョウノ先輩が、カバヤ先輩の病院搬送中にきっぱり意思表明したものだから、この話は相撲部…主にキカナイ主将経

由で一気に広まった。

カバヤ先輩は有名人だから、校内では結構な噂になっている。退院してもしばらくは静かに過ごせないでしょうね…。

当事者の一方であるヒョウノ先輩は、しかし校内でも堂々としたもので、囁き声や噂話を気にする様子もなく、脇見もせず

過ごしている。

そう。今パイプ椅子に座ってジャガイモを剥いているように、脇見もせず…。

…っ!?

私は、ヒョウノ先輩が手にしている物を凝視し、考える。

…どうしてフルーツバスケットにジャガイモが入っているのかしら…?

一瞬困惑した私は、しかししばらく見つめた後、ソレがジャガイモではない事にやっと気付いた。

ヒョウノ先輩の手の中にあるごつごつしたソレは…、元は青リンゴだったらしい…。

皮に果肉がごっそり付き、あちこちがでこぼこしているおかげでジャガイモと錯覚してしまったそれを、ヒョウノ先輩はサ

クサクと不揃いに切り分けて皿に並べた。

…お世辞じゃなく、手際は良かった…。良かったんだけれど…。

果物ナイフはスピーディーかつなめらかに動いて、手つきは慣れている風だったのに…、今ここにある「結果」は…凄い…。

私も上手とは言い難いけれど、ここまでじゃないわ…。

召し上がれ。と言うでもなく、少し照れているように俯きながら皿を差し出したヒョウノ先輩は、無言のまま、窺うような

上目遣いでカバヤ先輩を見る。

カバヤ先輩は目を細めると、太い指でいびつな林檎を一切れ摘み、パクッと一口で食べてしまった。

「美味い。有り難う」

簡潔で短いその言葉に反応してか、ヒョウノ先輩の尻尾がふわっと揺れた。

…ちょっと微笑ましい、心が暖かくなる光景…。

そしてヒョウノ先輩は、もう一つ剥くためにバスケットに手を伸ばし…、

「む?待てヒョウノさん」

と、ウシオ団長に止められる。

「リンゴの皮剥きは苦手なのだろう?どれ、ここはひとつワシが剥いてやろう」

ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!?

「…有り難う、ウシオ君。だが…」

若干強張った表情で応じかけた雪豹の言葉を「なに遠慮するな」と遮り、駄目な方向に気遣いを見せた大牛は男前にニィッ

と笑う。

そしてヒョウノ先輩に向かって踏み出し、手を差し伸べながら続けた。

「ワシもそう器用な方ではないが、これよりはいくらかマシに剥け…、む?何だヨギシ君?」

足と言葉を止めて振り返ったウシオ団長の視線の先には、尻尾をキュッと握って歩みを止めさせたヨークシャーテリアの手。

「…空気…読め…」

全面的に同意見です。



私達はそれからしばらくの間、皆で持ち寄った見舞い品をカバヤ先輩に振る舞われて、病室で歓談した。

こういう時は個室だと気兼ねなく話ができるから、気が楽だわ。

何でも、この病棟の相部屋のベッドがたまたま埋まっていて、仕方なく個室にしたそうだけれど。

「…キカナイから頼まれて…、用意して来た…。全国大会…出場者リストだ…」

話がある程度進んだ所で、ヨークシャーテリアはボソボソと囁きながら、二つ折りにした紙束を河馬に手渡した。

「恩に着る。もはや未練も無く、引退が決まった身といえども…、さすがに気になるのでな」

そう言いながら紙を開いて、まずは県内の全国進出者の顔ぶれを確認し始めたカバヤ先輩は、ある一点に目を止めると、口

の端を少し緩めて笑みを浮かべる。

先輩の目が据えられているそこには、暮戸力丸(くれどりきまる)という名前…。

カバヤ先輩が棄権した後、結局全国行きの切符をもぎ取ったのは、あの白い大犬だった。

圧倒的。そう表現するのが実に適切と思われる、決勝で見せた一方的な相撲は、ヨギシ先輩の案で無理矢理容量を空けて動

画撮影し、カバヤ先輩にも見せてあげた。

立ち合いから一直線に相手を寄り切った白犬の勇姿を、あの日のカバヤ先輩は何度も何度も繰り返し再生して見つめ、嬉し

そうに、そして少し寂しそうに微笑んでいたっけ…。

二人の間にどんな絆があって、どんな約束があったのか、私は断片的にしか知らないけれど…、二人が先の大会で決着をつ

けようとしていた事だけははっきりと解る。

けれどカバヤ先輩は、もう相撲を取れない身体になってしまった…。

気持ち的にはけりをつけた風ではある両者だけれど、土俵上で決着をつける事は、もう叶わないんだ…。

「ところでシンイチ」

カバヤ先輩は何か思い出したような顔になって資料を畳むと、マブダチである応援団長に視線を向けた。

「貸して貰った本だが、実に為になる。学ばされる部分が多い。もうしばらく借りていても構わんか?」

「遠慮するな。ワシはもう使わんし…」

「何の本だ?」

ヒョウノ先輩が小声でカバヤ先輩に尋ねる。

そこに、ただの好奇心以上に「自分も何か役立つ本を持ってこよう」的な負けん気が潜んでいるような気がしたのは…、私

の思い過ごしだろうか?

「これだ」

カバヤ先輩はそう言いながら、枕元の本を手にとって見せる。私達が来るまで読んでいた本ね。えぇと…。

…「初めてのガールフレンドに嫌われない為の七十三箇条」…?

ヨギシ先輩はしげしげと本を見つめて、

「…数が…半端だな…」

いやツッコむトコがややおかしいです先輩…。

ボケにボケを被せるようなヨギシ先輩の発言に、

『ふむ?半端か?』

でかい男二人が声をハモらせた。…なんかもういいや…。

…こういう本で交際の勉強をしようとする辺り、ちょっと可愛いわねカバヤ先輩。

気付いていないのか、それとも気付いてもなお興味をそそられないのか、ヨギシ先輩は口にしないけれど…、この本、貸し

主はウシオ団長なのよね…。

浮いた話なんかちっとも聞かないけれど、交際している人が居るのかしら?

私はヒョウノ先輩をちらっと窺う。けれど、先輩も知らないらしく、何か問いたげに私を見ていた。

私達は揃って首を振り、互いに全く知らない旨伝え合うと、説明を求めるようにウシオ団長を窺う。

「む?どうした?」

「…いや、ウシオ君がそういった本を持っている事も、ジュウタロウがそれを読んでいる事も、若干意外で…」

視線に気付いたウシオ先輩にヒョウノ先輩が応じると、カバヤ先輩が微笑しながら口を開き、

「シンイチは、儂らより一足早く交際を始めて…」

「ぬおおおおお!ジュウタロウっ!」

「もごぼっ!?」

慌てた様子のウシオ先輩の手で、剥いていないリンゴを丸ごとその大きな口にガボッ!と押し込まれ、目を白黒させながら

くぐもった声を漏らす。

「誰かと付き合っているのか?あのウシオ君が?」

ヒョウノ先輩はたいそう驚いた様子で目をまん丸にする。私だって勿論ビックリだ。

「どんな子だ?どこの子だ?ウチの生徒か?何年だ?人間か?獣人か?容姿は?性格は?」

矢継ぎ早に質問を連射したヒョウノ先輩と、メモを取り出してペンを構えた私に、

「黙秘させて貰う」

ウシオ団長はそっぽを向きながら有無を言わさない口調で応じた。…ちぇっ…。

ちらりと横を見れば、誤魔化すように窓の外を眺めながら、口に押し込まれたリンゴを皮や芯ごとシャクシャクと噛み砕い

て咀嚼している河馬。

…カバヤ先輩は知っているのかしら?ウシオ団長の交際相手がどんなひとなのか…。う〜っ、気になるわねぇ…!

「…さて…、今日のところは…そろそろ…行く…」

おもむろに腰を浮かせたヨギシ先輩は、前髪に隠れた目を私に向け、顎をしゃくって退室を促す。

…あ、そろそろ時間?でもまだちょっと早いような…。

「済まなかったな、わざわざ」

頭を下げるカバヤ先輩に視線を向け、そしてそのままウシオ団長にスライドさせたヨギシ先輩は、私にしたのと同じように

顎をしゃくった。

「…行くぞ…」

「む?いやワシはまだ大丈夫だが?」

「…行…く…ぞ…」

繰り返したヨギシ先輩に、団長はしぶしぶ腰を上げた。

…空気読んで下さい団長…。こんな調子だと交際相手もいろいろ大変なんじゃないかしら?それともそのひと相手には普通

に振る舞えてるの?

「お邪魔しました」

カバヤ先輩とヒョウノ先輩に一礼し、私は先輩二人に続いて病室を出る。

「ところでユキコ…。少し席を外して貰えんかな…?」

「ん?どうしてだ?」

「いやその…、あれだ、あれ…。不可避の現象というか何というか…」

カバヤ先輩とヒョウノ先輩の話し声を後に、ドアを閉めた私は、ヨギシ先輩の斜め後ろについて歩き出した。

しかしウシオ団長は何やら不満げで、ブツブツと呟いている。

「ジュウタロウも暇を持て余している事だし、もう少しゆっくりして行っても良かったような…」

その持て余している時間は、なるべく恋人と二人きりで埋めさせて上げて下さい。

口にこそ出さなかったものの、無言で前を行くヨギシ先輩も、きっと私と同じ事を考えているだろう。

エレベーターホールまで来ると、ランプを見上げながらウシオ団長が囁きかけてきた。

「イワクニが、君の事を気にしていた」

当然聞こえているだろうヨギシ先輩は、しかし扉の方を向いたまま動かない。

「後悔は、していないか?」

「はい」

私が大きく頷くと、団長はエレベーターの階数表示を見上げながら「そうか」と目を細め、口の端を少し上げた。

「あの……が…気に入…訳だ…」

含み笑い混じりの大牛の言葉は聞き取れなくて、私は振り返って「え?何ですか?」と訊ねたけれど、ウシオ団長は「いや

いや、何でもない」と、ニンマリ笑っていた。

程なくエレベーターの扉が開き、顔を前に戻した私は、

『あ』

乗っていた人物と同時に声を上げた。

狭いエレベーター内の空間を大幅に占拠しているのは、モッサリムクムクな肥満の巨漢。

真っ白い大犬は、ヨギシ先輩と私を見た後、「ども」と言いつつのっそりと出てくる。

エレベーターの扉が狭く感じるほど幅がある巨体と比べると、骨太で分厚い体つきのウシオ団長が標準体型に見えるわ。

「見舞いに来たんだけど、今は面会オッケーすか?」

重量感たっぷりなお腹をボタンが飛びそうなワイシャツに押し込め、一般人のウエスト程も太い脚に黒い学生ズボンを穿き、

大きな足に踵を潰したスニーカーをつっかけたグレートピレニーズは、エレベーターから出た所でドアを片手で押さえてくれ

ながら、ヨギシ先輩に尋ねた。

「…大丈夫だ…」

そう応じたヨギシ先輩は、エレベーターに乗り込みながら「ただ…」と付け加える。

「…部屋の…前で…、五分ほど…、待ってやれ…」

「へ?何で?」

「…なんとなく…だ…」

怪訝そうな顔をしているグレートピレニーズの前を抜け、私はウシオ団長に続いてエレベーターに乗り込む。

そしてふと思い出し、白犬さんに微笑みかけた。

「全国出場、おめでとうございます」

「だははっ!サンキュー、ジャーマネさん!」

「ジャーマネじゃありません!」

「おっと、そーだったそーだった。ジャーナリストさん!」

また同じ言い間違えをして、頭を掻きながら苦笑いするグレートピレニーズの顔は、左右から滑った扉の向こうに消える。

直ちに下降し始めたエレベーターの中で、私はヨギシ先輩に尋ねた。

「何で五分ぐらい待てって言ったんですか?」

ヨークシャーテリアは扉をじっと見つめながら応じる。

「…カバヤが…、しきりに…溲瓶を気にしていた…」

…うわぁ…。

絶句した私の横で、ウシオ団長が「むぅ!」と唸った。

「では、もしやジュウタロウは今ヒョウノさんの前で?」

…言わないでおきましょうよ団長…。

って言うか、判っていてヒョウノ先輩を連れ出さない辺り、ヨギシ先輩もヨギシ先輩だわ、まったく…。

…嫌がらせがしたかったのか、それとも接近させたかったのか…。グレーゾーンなひとだからなぁこの先輩…。



その一時間後、私とヨギシ先輩は、川向こうのカラオケボックスの一室に居た。

他の十一人と一緒に。

歌うでもなく、ただカモフラージュの為にかけられた流行のポップスをBGMに、私達は最終打ち合わせに入っている。

机を囲むのは十三人。上座に座ったヨギシ先輩から見て、左右六名ずつに分かれている。

これが革命の計画に参加しているメンバーだ。

実は、メンバーは新聞部員だけじゃない。放送委員会や美化委員会に所属する他の部の先輩達も、ヨギシ先輩の思想に共鳴

して参加してくれている。

革命の狼煙を上げるのは、いよいよ明日。今コケては元も子もないから、念には念を入れて隠密行動を心がけ、こうしてわ

ざわざ隣町まで来ているわけ。

「…段取りの…確認については…以上…」

各々がすべき事について再確認したヨギシ先輩は、一同の顔を見回し、静かに囁いた。

「…革命…決行だ…。もう…後戻りは…できない…」

テンポの速いBGMに半ば飲まれたその声は、しかし私達の耳にははっきりと届いた。

決意を新たに全員が頷き、誰からともなく立ち上がって、ジュースやウーロン茶の入ったコップを手に取る。

申し合わせたように全員がコップを翳し、献杯して飲み干した。

…後になって思ったけれど、あれは、固めの杯のような物だったのかもしれない。

翌日から始まった過酷な革命運動の中、このスターティングメンバーからは、最後まで、脱落者が出る事はなかった。



食事は革命の打ち合わせ兼壮行式で済ませた私は、他のメンバー達同様ばらばらに帰路につき、あれこれと思いを馳せなが

ら寮に戻った。

考え事をしていたせいで歩みも遅かったのか、部屋に着いた時には、時計の針は午後八時半を回っていた。

ドアを潜った私は、

「ただい…寒っ!」

思わず両手で体を抱え、身震いした。

何℃っ!?これ一体何℃っ!?何で室内だけ真冬っ!?

日が落ちた後もなお居座っている外の熱気。それを浴びながらしばらく歩いてきた私には、その部屋の温度はまるっきり異

世界のそれ。

鳥肌がたった腕をさすりながら立ち尽くす私の目は、程なく、この事態の原因であろうソレに固定された。

異世界の中心で寝息を上げる…、パンダ。

太股剥き出しの短パンに袖無しVネック姿のユリカは、大口を開けて「くかこ〜っ…ふし〜っ…」と、謎の音を発しながら

熟睡していた。

…もはや淑女査定をマイナスするレベルじゃない…。シャツはべろんとめくれていて、寒い程冷えたこの部屋でおへそ…ど

ころかお腹全部出している。

…そのムニッ腹、踏みつけてやろうかしら?ええ?

部屋に上がった私は、真っ先にユリカの横に落ちていたリモコンを拾い上げ、温度を調節した。

…16℃って何よ…。私が居ないと本当に好き勝手絶頂に過ごすんだから…。

私の頭に、「あ〜!おなかいっぱ〜い!」と女子らしからぬ腹鼓を打ちながら寮食から帰ってきて、満足顔で冷房を最大に

して床に寝転がり、そのまま寝入ってしまったというパンダっ娘の一連の行動が思い浮かんだ。…たぶんそう外れていない。

「もうっ!こんな設定温度で冷房つけたまま眠ったら、いくら貴女でも風邪引いちゃうわよユリカ!」

私が少し怒った声を出すと、パンダっ娘はゴロンと寝返りを打ったけれど…、やっぱり起きなかった。クッションを抱え込

んだだけ。

「ちょっとユリカ、いい加減に…」

私は言葉を切り、幸せそうな表情でクッションを抱き締めているルームメイトの顔を見つめる。

「うぇへへへぇ〜っ…!みにゃかみすぇんぱぁひ…!」

…やっぱりこのままにしておこう…。

荷物を下ろしてテーブルの脇に座った私は、頬杖をついてユリカの寝姿を眺めた。

明日の出発は早いから、私達のおはようの挨拶は、事が起こった後になる…。

その時ユリカは、どんな顔をするだろう?

明日の早朝、まだ暗い中ベッドから抜け出して、ユリカを起こさないようにそっと部屋を出て行く自分の姿を想像しながら、

私は唾を飲み込んだ。

…いよいよ…なのね…。



一介の女子高生が悩もうと熱くなろうと、当然地球は普通に回る。

緊張する私を余所に、眠れない一夜はあっけなく過ぎて、朝がやって来た。

早朝練習のためにちらほらと生徒が歩む石畳の上を、私は朝霧を眺め透かしながら歩く。

昇降口前には、もうメンバーの大半が集合していた。

残りのメンバーも私から一分と遅れずに集まり、ヨギシ先輩が口を開く。

「…手はずは…昨日の…打ち合わせ…通り…。不測の事態に…ついては…、連絡を…」

無言で頷いた一同は、そのまま校内に散って行く。

私の受け持ちは一年生の教室前。上履きに履き替えて足早に踏み締める床は、いつもと違う硬さを持っているように感じた。



がやがやと騒がしい生徒達の声が、廊下を伝って階段をよじ登り、屋上の扉前まで届く。

「…反応そのものは…上々…。見込んでいた…程度の…インパクトは…、どうやら…与えられた…ようだ…」

耳をピクピクさせながらヨギシ先輩が呟き、私達メンバーは黙って頷く。

最初の仕事をやり遂げたという高揚感と、本番はこれからだという緊張感を等分に抱いているのは、私だけじゃない。

きっとこの場にいる誰もが、今は同じ気分に浸っているだろう。

言い方としてどうかと思うし、実際そうなんだからおかしいを通り越して理不尽なんだけれど…、とにもかくにも校内の部

活で最大の権力を握っている天下の新聞部に、私達十三人は、ついにケンカを売ったんだ。

私達の最初の行動は…、何のことはない、ただ壁新聞を校内至る所に貼って回っただけ。

ただし、今日の放課後に新聞部が貼り出す予定だった全部活の県大会結果総集編に先駆けたタイミングで、より詳しく手間

暇かけた新聞を、だけど…。

具体的には、あらゆる部活の記事に偏り無く紙面を使って、さらに全五枚のA4サイズに分割して作成している。

印刷も貼るのも手間はかかるけれど、隠して持ち込むには好都合なサイズだ。

大判だと丸めても目立つし、隠し持てるように折ると折り目がついて見栄えが悪いというのがヨギシ先輩の主張。

実際に試してみると、ピシッと隙間無く並べて貼ったA4用紙五枚は、それなりに目新しくて見栄えも良かった。

出来上がっている新聞部側の物は、例によって部活ごとに扱いが大きく違う。活躍していても非協力的な部は扱いが小さい。

見比べればはっきり判るけれど、私達報道部の新聞の方が不自然さは無い。

活躍した部活の写真が一枚か二枚増えている程度の偏りは、活躍してくれた競技者に対する礼儀でありサービス。ただし過

剰にはしていない。

おまけに、新聞部の大判新聞は背の低い生徒には高い位置の記事が読みにくい形だったけれど、報道部の新聞はA4縦の高

さで折り返しながら横に見ていくタイプにする事でその欠点を克服している。

実はこれ、革命に加わった新聞部三年生が、去年の秋、二年生時に提案した形だったそうだ。

けれど、慣れたレイアウトを変えるべきではないとか、背の低い生徒の為だけに仕様を変えるのも面倒だとか、いろいろな

理由をつけて今の部長が却下したらしい。

私だったら、実物を見ないままでも一考の価値があると判断したと思う。だって面白いし新鮮だもの。

実際貼ってみれば、従来の新聞と比較して視覚的に差異が大きく、違いは一目瞭然。

発案者の先輩は「どうだ!」とばかりに胸を張って、実に得意げだ。

上端の枠外に「報道部」と作成者名を入れてあるそれらは、開戦の狼煙にして宣戦布告。

新聞部が、ほぼ完成している大会の記事に今から手を入れて内容を濃くしたり偏りを無くすのは、時間的に無理。

かといって、掲示を遅らせて手直ししたら、私達の新聞を意識していると宣言しているような物。

「…今日のところは…不意打ち…。生徒の関心を…集めても…ただの…驚きによる…興味が…大半…」

呟いたヨギシ先輩は、一同を見回した。

「…本当の勝負は…、新聞部が…反応を示した…その瞬間からだ…。それまでは…、各人…、知らぬ存ぜぬで…。まずはおれ

達が…、報道部の存在を…正式に…認めさせる…」

ヨークシャーテリアの視線が、ゆっくりとこちらに向いた。そして他のメンバーの目もまた私に集まる。

「おれと…シンジョウで…」

リーダーの片腕たる女革命家…。私に与えられた大役は、まさにそれだ。

報道部の中で唯一の一年生、そして唯一の女子である私は、これから先、革命に臨む女闘士として振る舞う事が要求されて

いる。

この闘いにおいて視覚的な印象を強めるには、一年生で女子という私はうってつけだそうだ。

だから私はヨギシ先輩の片腕として、生徒達の目に付くよう、表立った行動を取ってゆく。

私自身はまだまだ力不足だけれど、中身の無い偶像としてでも、アピールの役に立つなら迷う事なんてない。

「…正す…。偏り…ねじ曲がった…、今の報道体勢を…」

呟きながら足を踏み出すヨギシ先輩に従って、私は階段を降り始めた。

留まって私達を見送っている他のメンバーは、ヨギシ先輩の声がかかるまでは潜伏を続ける予定だ。…それも長くはならな

いでしょうけれど…。

「…では…、予定通り…これより生徒会長に…アポを…取りにゆく…。そろそろ…、登校している…はずだ…。そして…放課

後には…、最初の論戦が…待っている…。心しておけ…、シンジョウ…」

「はい…!」

先輩に続き、胸を張って足を進めながら、私は決意も固く頷いた。

私は新庄美里。星陵の一年生にして革命の志士…。