第二十四話 「恋愛」

「…やるべき事は…、今までと…あまり…変わらない…」

 廊下を行きながら、ヨークシャーテリアは隣を歩く私にソボソ声で言う。

 放課後の廊下はひとが少ない。用事が無い生徒はもう帰っているし、部活も真っ最中の時間帯になっているから。

「とはいえ…、シンジョウに…、やって貰う事は…増えている…」

「どんと来いです」

 応じた私に、ヨギシ先輩は「とりあえず」と、裏口へ顔を向けて顎をしゃくった。

 裏庭に出た私は、先輩に促されてベンチに並んで座る。吹奏楽部の気合が入った音出しが、空を突き抜けるように勇ましく

響いていた。いよいよ大会が…一部の生徒の青春の集大成が間近に迫っている事を実感させられる。泣いても笑っても三年生

は今期が最後。もう終えた先輩も、夏まで続く事が決まった先輩も居るけど…。

 そして、私達も夏で進退が決まる。

 残るのは報道部か、新聞部か、全校生徒の評価をもって決める勝負は、二学期頭に決着する…。

「ところで、こんな所で話をしても大丈夫なんですか?」

 壁に耳あり障子に目あり植え込みにユリカあり、誰に聞かれるか判ったものじゃないですよ。…と意見する私に、ヨギシ先

輩は「「こんな所」…だからだ…」とボソボソ応じた。

「大事な話を…するようには…、見えないだろう…」

 そういう物ですかね…。

 ヨギシ先輩は指を三本立てて、まず一本曲げた。

「こっちで…纏めた…、野球部の…今期レギュラーの…記事データを…、渡す…。それのチェック…」

 いきなり大物が来た…。ウチは野球部が強い。記事の中心になる事も多いくらい。

「…今年も…甲子園に…届く可能性が…高い…。部員紹介の…特集記事は…、キモになる…」

 プレッシャーをかけてくるヨークシャーテリア。

「それと…、サッカー部…。星陵史上…最高の…ゴールキーパーの…おかげで…、今期の…サッカー部は…前例のない…戦績

だ…。特集では…、全部員に…インタビューする…。部員同士の…「オモシロ相関図」という…発案もあった…。草案製作に

…加われ…」

「イエッサー」

「それと…、卓球部の…記事…。お前の観点は…ユニークだった…。…纏めに…参加しろ…」

「イエッサー…」

 不慣れなジャンルもあるわね…。これは骨が折れそう。

「それと…」

 ヨークシャーテリアが指を全部曲げた拳をじっと見ながら続ける。…ちょっと?全部曲げたでしょう?質の悪いフェイント

なんですけど?

「まだあるんですか?」

 げんなりした私は…、

「これは個人的な頼みだ」

 ピクンと背筋を伸ばす。いつもボソボソ喋るヨギシ先輩の口調がしっかりしていた。

「相撲部の担当を、お前に引き継いで貰いたい」

 ヨークシャーテリアが顔を巡らせて、私を真っ直ぐに見た。

「決着がつくまで俺はあまり時間を割けなくなる。これから相撲部は二年生中心になるが…、酷な事を言うようだが、この先

数年は陽明の陰に入って目立つ活躍はできないだろう。これからあそこの取材は、ただ戦績や活躍を追うだけの取材しかでき

ない者には難しくなる。だから、お前に頼みたい」

 ヨギシ先輩は付け加えた。「これは部長命令ではない。ただの頼みだ」と。

「…はぁ~…」

 ため息が出た。

 …ずるいなぁ…。命令じゃないなら…、頼みなら…、普段以上に言う事きいてあげなきゃいけないじゃないですか…。

「判りました。…ただし、私は素人なんですから、ちゃんと記事の推敲は引き受けて下さいよ?それが条件です」

「…感謝する」

 ヨギシ先輩の口元がちょっと緩んだ。記事に私情は持ち込まない…とは言っても、友達が居た部だもの、やっぱり大事なの

よね…。それに私個人としても相撲部の担当を引き受けるのもやぶさかじゃない。カバヤ先輩には色々お世話になった事だし、

少しでも恩返しみたいな事に繋がったらいいわね。

「話は…、以上だ…。…俺は…部室に戻る…。仕事を続けろ…」

「イエッサー」

 腰を上げた先輩に続いて、私も立ち上がる。

 そして校内に戻ったら先輩とは別れて、予定に入っているインタビューのために空手部に向かった。

 私は新庄美里。星陵の一年生で眼鏡女子。所属は報道部。先輩達と共に新聞部から独立し、反旗を翻した革命の徒。



「なんかさー、最近妙にお姉ちゃ…主将、機嫌良いんだよねー」

 空手部の練習終了後、主将インタビューを終えた私に、稽古場を掃除していたムッチリパンダっ娘が手を休め、モップを立

てて柄の上に厚い手を重ね、その上に顎を乗っけて言う。

「足取りとか身ごなしとか軽い感じ。足運びも突きも風みたい。前よっか速くなった気がするしー…」

「ふぅん…」

 素人だから滅多な事は言えないけれど…、ユリカがそう言うなら、カバヤ先輩との関係が改善した事がプラスに働いてるの

かもしれないわね…。

 私は稽古場の隅で顧問の先生と話している雪豹に目を向ける。ヒョウノ先輩は…、そう、話していても感じたけれど、雰囲

気が少し柔らかくなった。口調も態度も凛々しい表情もそのままなんだけれど、ほんの少し、張り詰めていた弦が緩められた

ような印象。

 でも、それは弛んだ訳じゃない。張ったままの弦が伸びないよう、使わない時には緩めて調整するように、適度に「あそび」

を作って調子を整えられるようになったんだと思う。

「ササハラ!シンジョウ君も忙しいんだ、足止めするな!それと掃除をサボるな!口よりも体を動かせ!」

 スパーンと飛んできたヒョウノ先輩の叱責で、ユリカが「うわヤバ!」と首を縮めた。凛々しい雪豹は私と目が合うと、困っ

た物だよ、とでも言いたげにおどけた様子で肩を竦めてみせた。…ホント、ヒョウノ先輩は気持ちに余裕ができて、前よりさ

らに素敵になった…!

「じゃ、行くわね。お掃除頑張って」

「ん。帰りいつもぐらい?」

「たぶん変わらないわ」

「じゃ、晩御飯一緒に行こ?ね?」

「ええ」

 ルームメイトと夕食の約束をして、私は部室へ向かう。

 纏めは持って帰ってやるとして、報告と片付けだけは済ませなくっちゃ。





 翌日、私が足を運んだのは鰻屋さんだった。

 ヨギシ先輩から正式に担当を引き継いだ事を、カバヤ先輩にも報告するために。

 旧主将さんにも新主将さんにもご挨拶したけれど…、カバヤ先輩にも報告しなくちゃ。ヨギシ先輩は連絡したそうだし、私

本人が顔を出さないのはおかしいわよね。

 玄関口がある、お店と反対の母屋側に回った私は…、あれ?

 足を止めた私がじっと見る先で、目的の門から出てきた小柄な少年は、振り返ってその家を真っ直ぐ見た。

 数秒、直立不動で母屋を見つめて、それからスッと腰を曲げてお辞儀する。誰も居ないのに、神妙な面持ちで、礼儀正しく。

 頭を下げた時と同じように上半身を戻した少年は、そのまま体の向きを変えて、私には気付かないまま背中を向けて歩き出

した。

 何故か立ち止まってしまっていた私は、記憶を手繰ってみる。…今の柴犬君…、何処かで見た気がする…。あのジャージは

…えぇと…、星陵のスクールジャージじゃないわね…。どの部のクラブジャージともデザインが違う。でも見た記憶がある。

何処で…。

 考えながら足を進めた私は、表札付きの門柱の前で立ち止まる。…思い出すのは後にしましょう。まずは…。

 鉄柵の門扉を押し開けた私は、二歩進んで門を抜けたところで、すぐにその大きなひとに気が付いた。

 門が軋んだ音で気が付いたらしい大きな河馬は、庭先から私に目を向けている。

「こんにちは、先輩」

 会釈した私に「やあ、シンジョウ君」と柔和に目を細めた河馬の巨漢は…、

「トレーニング…ですか?」

 ジャージの半ズボン一丁で首にタオルをかけ、上半身裸だった…。

 ビールのロゴが入ったケースをうつ伏せに二つ並べ、その上に厚手のタオルを敷いて座った先輩は、変に分厚い錘が複数セッ

トされたダンベルを左手に握り、サポーターで覆った膝に右手を置き、腕力鍛錬の真っ最中だった。もうだいぶこなしたのか、

肌には玉の汗が浮いている。

「ふむ。引退したのに…と言いたげな、不思議そうな顔だね」

 カバヤ先輩は手を休めて、首のタオルを掴んで顔を拭う。

「それもありますけど…、もうそんな運動をしても大丈夫なんですか?」

「寝とった分だけ体が鈍って落ち着かんのでね。引退したとはいえ全く動かんのは体に悪い。勿論、膝小僧を大事にしながら

だが。しかし…」

 耳を倒して少し恥かしそうな苦笑いを見せるカバヤ先輩。

「いや失敬失敬…!来ると判っとったら、こんなはしたない格好はしとらんかったのだがね…!」

 汗に濡れて傾きかけの日差しを弾く先輩の体は、何と言うかこう…、男性の裸ではあるけれども正視できないという事もな

い。流石に全裸はアウトだろうけれど、照れや恥かしさが薄いのはきっと、競技中のマワシ一丁の格好よりもむしろ露出が少

ないからなのかも?あとはきっと、スタンダードな体型からかけ離れたお相撲さんみたいなド級の体格だから、変に意識しな

いっていうのもあるかもしれない。

 ついでに言うと、カバヤ先輩は言動がおっさんくさ…コホン!大人っぽいから、年が近い男子っていう印象が希薄過ぎるの

よね。先生達と同じ感じのラインに置いて見ちゃってるらしくて、同じ半裸でもデリカシーが無いアブクマ君の着替えを目撃

する時みたいには恥かしくならない。

「今日はご報告があってお邪魔しました。ヨギシ先輩は先に連絡したと言ってましたけど…」

「報道部として、正式に相撲部担当になったという話だね?」

「はい。不束者ですが、よろしくお願い致します!」

 頭を下げた私は、カバヤ先輩の低い笑い声を聞いた。

「相変わらず律儀だなシンジョウ君は…。ヨギシと報道部の動きは方々の友人からも色々聞いている。大変な時分だろうに、

わざわざ済まんね」

「いえ、そんな…」

 カバヤ先輩は掌を上に向けた右手を前へ出した。見れば、示された先には植え込みに背を向けるベンチ…。これも飲料メー

カーのロゴが入っている。

 失礼して座らせて貰った私は、カバヤ先輩と向き合う格好でその言葉を聞いた。

「礼を言わせて欲しい。ヨギシは、「命令ではなく頼みだったが快く引き受けてくれた」と言っとった。儂ら三年が引退し、

引き継いだ二年達もしばらくは何かと不安があるだろう。そんな時期に取材者が知った顔なのは有り難い」

 …ああ、そうか…。ヨギシ先輩はそういった事も考えて私に…。気の回り方の差を思い知らされるわね…。

「膝のお加減はどうなんですか?」

 私は返事をしないで話題を変えた。…お礼を言われるほど気を回せていなかったから、先輩の言葉をそのまま受け取るのは

プライドが許さないのよ…。

「お陰様でだいぶ良い塩梅だ。ここ五年間、きっちり休ませた事も無かったが、しばらく使わんだけでこうも楽になるとは思

いもしなかった」

 カバヤ先輩は軽くポンと、サポーターで覆われた膝を叩いて言う。

 長年無理を通して炎症が常態化していた先輩の膝は、整形手術が必要なほどになっていた。

 けれど、これは逆に希望にもなった。

 そう。先輩の膝は、引退して時間ができた今、願いが果たされて休む事ができた今、五年ぶりにやっと、長い時間をかけて

ゆっくり治療する事ができるようになった。傷を保護して負担を軽減するため、今まで以上に分厚くサポーターで固められて

いるし、完全に元通りにはならないそうだけれど…、古傷を保護した布地の下では、着々と傷が癒えている。

 高校最後の大会を棄権する形になったから、心残りは色々とあるでしょう。明けても暮れても汗と土にまみれた相撲一筋っ

ていう話だったし…。けれど、カバヤ先輩の選択は、決断は、間違っていなかったと信じてる。

「今なら言える。今こそ心の底から胸を張って、「名誉の傷跡」だとね」

 私の気持ちを汲んだように、カバヤ先輩は微笑んだ。

 ヒョウノ先輩を護った傷…。自分から大切な物を奪った傷…。複雑な思いがあった事は想像に難くないけれど、先輩の穏や

かな笑顔に曇りはない。

 …本当に、決着がついたんだ…。

「膝の事は勿論、卒業後に調理師免許の取得を目指す事も含め、これまでのように相撲に集中する事はできなくなるが…」

 ………。

「………」

 私は黙った。カバヤ先輩も黙った。

 「これまでのように」…?

 「できなくなるが」…?

 が、…何です?

 軽く引きつった笑顔になっているのが自分でも判る。カバヤ先輩は何とも半端な笑顔で…。

「ユキコには了解を取り付けてある。思い切り殴られたが」

 言い訳するように少し早口で言った河馬を、私は…むしろ感心して見つめていた。

 二度と相撲は取れないんだと思ってた。…いいえ、お医者様の観点で言うなら止める以外にない状態の膝、それは間違いな

い。なのに…。

 ヒョウノ先輩も、殴りはしたけど結局許可したのね…。

「これからも土俵への関わりは続けて行こうと思っとる」

「…そ、そうですか…」

 それ以外に何と返事をすればいいだろう…。

「今までは余裕がなかったが、世話になった相撲教室で先生を手伝い、弟弟子達に稽古をつけてやりたいし、古馴染みの地元

の奉納相撲にも協力してゆきたい。冗談のつもりが本当に勝ち逃げになってしまった負い目もある事だしな…。それに、全国

が控えとるというのに、今度は儂のせいで陽明に火種が出てしまったようだ。撒いた種は責任をもって刈り取ってやらんと…」

「陽明に火種?」

 半ば茫然と聞いていた私が思わず口を挟んだら、カバヤ先輩は「おっと」と口元に手を遣った。

 この先輩、まさか…。また誰かのために闘わなきゃいけなくなったの?

「いや参った。引退して稽古場から離れ、ひと恋しかったのか…、ついつい先々の事まで喋ってしまったな。君には関わりが

無い事だった」

 やんわりとした口調と穏やかな微苦笑だったけど、私は悟った。気にはなったけれど、カバヤ先輩は引っ込めた言葉の続き

を決して教えてはくれないだろう、と。

「長話ついでに、時間が許すならもう少し聞いて貰おうかな?」

「勿論、お付き合いします。予定は何も入れていませんから」

 軽いご挨拶のつもりだったけれど、カバヤ先輩を訪ねるのに他の用事と並行させるのは気が咎めたから、今日は他に何も予

定を立てていない。何て言うか…、そういう気持ちになっちゃうのよね、カバヤ先輩相手だと。これがヨギシ先輩曰く「大横

綱」の風格という物なのかしら…。

 柔和に目を細めたカバヤ先輩は「では…」と話題を変えた。

「馬鹿になった膝でも、一番ならば問題ない。連戦を、その先を、見続けてペース配分するのは流石にもう無理だがね。ただ

一戦、そこに全てぶつけるならば心配無用だ。何せ…」

 カバヤ先輩は穏やかに微笑みながら太い人差し指を立てた。

「もう勝ち進む事を気にせんでもよくなったのでね。奉納相撲やら兄弟弟子との稽古やら弟分とのじゃれあいやらには、時々

全力で付き合ってやろうと思っとる。膝が行けると言うなら勝ちにゆこう。無理だと言ったら負けよう。これからはそんな心

構えで気楽に相撲を取れる」

「………」

 無言の私に、「辞める気はないのか、とは問わんのだね?」とカバヤ先輩は言った。…反応が判ってたような顔で何をおっ

しゃいますやら…。

「言いませんよそんな事」

 私は首を縮めて肩を竦める。

「ヒョウノ先輩が止められないのに、私が止められるはず無いです。それに…、先輩が相撲をするのは私が記事を書くのと同

じでしょうから。先輩にとっての相撲って、ソレが無ければ生きている張り合いが無い…っていうような物なんでしょう?だっ

たら私に言えるのは…」

 自然と苦笑が湧いてきた。…本当に仕方がないなぁ、男の子って…。

「「体を大事にしてたっぷり楽しんでください」。それだけですよ」

 カバヤ先輩の目が少し大きくなった。真ん丸い目が私を見つめ、それからフッと細められる。

「いやはや、まったくもって…。どこまでもアイツの言うとおり骨がある…、まさしく「男心が解かる乙女」だ」

「はい?」

 スッと、ある先輩の影が私の脳裏を過ぎる。…本人に悪気はないらしいけれど、「骨がある」とか「男前な」とか、女子高

生につける形容詞としてはどうなんですか先輩…。

「何はともあれ、その忠告には応えると約束しよう」

 カバヤ先輩は分厚い顎を深く引いて頷いてくれた。

「時間はたっぷりある。無理せずじっくり膝を休ませて…、もう一度、改めて求めてみようかと考えとった」

「求める?何を、ですか?」

「自分本来の相撲を」

 何故か、カバヤ先輩は少し申し訳無さそうにハケのような耳を伏せた。

「何せ、これまでは成果が最優先だったので、膝を保たせながら連戦に耐えられる取り口を心掛けねばならなかった。結局の

ところ、とにかく負荷を受ける前に速攻戦で勝つ…という身も蓋もない攻め一本の相撲に頼らざるを得ん事になってしまった

が…、そのスタイルは、実を言うと儂の元々の取り口とは大きく違っておってね」

 先輩は素人の私にもわかり易い様に説明してくれた。

 要約すると…、カバヤ先輩の元々のスタイルは、これまで私が見てきたものよりも膝に負担が掛かりがちなモノらしい。大

会で勝ち進むには何戦も何十戦も膝を保たせなければいけないから、そのスタイルでは戦えなかったそうで…。

 重さと大きさを活かして、安定した体勢からじっくり攻めるのが本来のスタイルだったそうだけれど、事故の後、それまで

特長でもあり武器でもあった体の重さも、踏ん張りが生み出す力も、膝の故障を悪化させてしまう要因になった。

 そこでカバヤ先輩は、速攻戦を主体にする事で一戦毎の負担を軽減させ、食事制限もして体重も抑えて…え?

 話を聞いて、失礼ながらわたしはカバヤ先輩の姿をジロジロ見回してしまった。

「はっはっはっ!君らの目には、そうとは見えとらんだろうがね?」

 カバヤ先輩は分厚い平手でお腹をベチンと叩いて笑った。

「本当に食事量には気をつけていたとも。ここ四、五年は満腹するまで食った事が殆どない…というよりも、ほぼ常に腹ペコ

だった」

 …うん。信じましょう。食事制限していたとか体重に気を付けていたとか言われても全くサッパリ判らないしピンと来ない

けれど、体型とか気にしてダイエットうんぬんで見栄を張るようなひとじゃないし。

「とはいえ、だ。実を見せずに弁でのみ注釈を垂れていては負け犬の遠吠えにも聞こえてしまう。その内にお見せする、と約

束しよう」

 そう言ってカバヤ先輩は楽しげな笑顔を見せた。…そう、年相応と言うか、私と同年代なんだなぁって判る、本当に楽しそ

うな笑顔を…。

「本物の、「濁り男浪」の相撲を」

 笑みを浮かべるカバヤ先輩の顔は、こう、何て言うか…、すごく「楽そう」だった。気が軽く、楽になった感じで…。ああ、

そう!インタビューした時にヒョウノ先輩から感じた印象とちょっと似ている…。

 そしてカバヤ先輩の顔と声と言葉は「楽しそう」でもあった。この先楽しい事があると知っている子供みたいに。

 楽しみ…、そう、きっとこれからが楽しみなんだと思う。条件付きで続けて来た相撲に、目的の為に挑んできた相撲に、こ

れからは「本来の自分」で向き合えるから…。

 思わずクスリと笑いを零してしまった私に、カバヤ先輩は「何か?」と笑顔のまま尋ねた。

「いいえ。なんだか、ヒョウノ先輩とちょっと似た笑い方だなぁ、と思って…」

 カバヤ先輩は急に表情を硬くして押し黙った。何を思うのか、ハケのような耳がせわしなく落ち着きなくパタタッと動いて

て…。

「…あぁ~…、そのぉ~…、なんだ…?アイツは…、何か儂の事など…君には何か話しとるのかな…?」

 …あ…。これ初めて見るけれど、カバヤ先輩なりの「超気になってる顔」なのかしら?

 訊かれて最初に思い浮かんだのは、ヒョウノ先輩が言った「殴れど効かぬ衝撃吸収体」という一言だったけれど…、当然黙っ

ておいた。

 …そうか。ヒョウノ先輩に訊いたら、カバヤ先輩が昔どんな子だったとか教えて貰えるのよね…。今じゃこんな風に落ち着

き払って大人びてるけど、どんな子供だったのかちょっと興味があるわ。

「…いや…、いやいや聞かんでおこう。うん…」

 思い直したように、そして自分に言い聞かせるように、カバヤ先輩は少し俯き加減になって何度か頷いた。…顔が真っ赤な

んですが…。

 それからも私はカバヤ先輩としばらく話をした。

 カバヤ先輩の入院中にあった各部活の大会結果や、練習試合などの事を中心に、学校でのちょっとした出来事まで。

 思うように情報収集できないでいたカバヤ先輩は私の話で満足してくれたようで、相槌を打ちながら熱心に聞いてくれた。

 そして、「経験もないのに相撲部の取材担当は大変だろう」と言って、アドレスを教えてくれた。

「判らん事があったら気兼ねなく訊いてくれたまえ。それとは別に、困った事があれば何でも…」

 大きな河馬は頼もしい首肯と共に、こう言ってくれた。

「力になろう。君には恩と、縁がある」





「はぁ~…。いいなぁ…」

 頬杖をついて漏らした私の一言に、

「アジフライ?うん、良かったよねぇ」

 と、夕飯の中身と結びつけてひとり納得するジャイアントパンダが、スナック菓子をバリボリ食べながら隣でウンウン頷く。

 なお、隣には居るけど並んで机についてる訳じゃない。椅子に座って机に向かってる私の脇で、床に座って足を投げ出した

ユリカは、私の机に背中を預けてる。

 …あの…。そこに寄りかかられてると引き出しが開けられないんだけど…。

「ヒョウノ先輩とカバヤ先輩のこと」

「ああ、そっち?いいよねぇ」

 アジフライと勘違いした口が「いいよねぇ」とは…。

「で、何がいいのミサト?」

 …何が「いいよねぇ」だったのよユリカ…。

「今までどおりなのよ。見た感じ」

「うん?」

 首を傾げるユリカ。

「お互いの事を全然話さなかった今までと同じ態度。…なのに、ちょっと恥かしそうに相手の事を訊くのよ。「あっち、何か

言ってた?」って…」

 実は、全国への意気込みを語ってもらったインタビューの後、ヒョウノ先輩は小声で言っていた…。


「…ところで…。シンジョウ、君はジュウタロ…ああいや、カバヤ君とも親しいらしいが」

 空手着に身を包んだ美しくも凛々しい雪豹は、周囲を気にして視線を走らせながら声を潜めた。

「…アイツ…いや彼は、オレ…いや私の事を何か話したりしてはいなかったか?」

 空手部主将の顔をしながらも、地が露出しまくるヒョウノ先輩。尻尾が落ち着き無く揺れている。…挙動不審なんてもんじゃ

ないわね…。

「生憎、おふたりがお知り合いだった事も知らないまま、それぞれにお話を聞かせて頂いていたので…」

 思えば間抜けな話よね…。私にもっと鋭い感覚や情報収集能力、記者の勘があったらなぁ…。

「そ、そうか…」

 ヒョウノ先輩は小さく咳払いして…。

「…アイツが何か言っていたら、お…、教えてくれないか…?」

 事故の後から、ヒョウノ先輩はカバヤ先輩とまともに会話できなくなってしまった。

 だから、カバヤ先輩が今どうしているかという事は、口伝てに聞いたりするだけの五年間を送ってきた。

「…知らないんだ…。アイツの好きな物も、好きな事も、興味がある事も…。オレが知っているのは五年前のアイツの事ばか

りで…」

 今でも西瓜は好きなのか?今でも少年漫画を愛読しているのか?今でも幕末日本史への関心は変わらないのか?

 溝は埋まっても時間は埋まっていない。だから会って話そうにも双方共に話題が出てこない。

 恥かしそうでもあり、困り果てているようでもあるヒョウノ先輩に、私は、入手した情報は伝えます、と約束した。

 その代わりに、ちゃんと全国で活躍して下さいね?と条件を添えて。



 思わず顔が綻んだ。

 どっしり構えて大人びてるカバヤ先輩と、凛として勇ましいヒョウノ先輩。あのふたりは、けれど、ああ…!想い合う相手

の事となったら、途端に初々しくなって…!

 何て言うか、あの変な不器用さと「おっかなびっくり」が、どっちも求道者なあのペアには似合ってる。わだかまりが無く

なって、仲直りして、決着がついて…、それでやっと恋愛一年生になったのよね、先輩達…。

「あ~あ。私も恋愛、してみようかな~…」

 椅子の背もたれに体重を預け、その気も余裕も無いのに思いつきで言いながら背伸びをした私は…。

「してみたら?サツキとかと」

 ユリカの無責任な発言で引っくり返りかけた。

 …例え誘ったって絶対なびかないわよ。あの恋人には勝てっこないもの!