第四話 「違和感と不安」(前編)

「バレた!?」

思わず大声を上げた私に、

「しーっ!声でけぇって!」

口元に太い人差し指を立てながら、大きな熊は焦りの表情を浮かべて言った。

その隣では小柄なクリーム色の猫が、口元を両手で覆いながらキョロキョロと周囲を見回している。

「あ!ご、ごめんなさい…!」

謝った私も慌てて辺りを見回したけれど…、大丈夫、三時間目が終わった後の休み時間、屋上には私達三人しか居ない。

「シンジョウ…、頼むぜおい…!」

冷や汗でもかいたのか、頬から顎にかけて分厚い右手でぐいっと拭うアブクマ君。

イヌイ君の方も周囲に人が居ない事を確認すると、胸に手を当ててほっとため息をついた。

私の中学時代からの友人である二人は、つい数分前に教室を訪ねてきた。それで、大事な用事があるって屋上に呼び出され

たんだけれど…。

「オシタリ君と、ウツノミヤ君にねぇ…」

驚きがさめてきた私は、次いで呆れてしまった。

話を聞いた所によると、この二人、秘密の中の秘密を寮の隣室の二人に知られてしまったらしい。

そう…、男同士の恋人同士であるっていう、最も隠しておきたかった秘密を…。

「…ちょっと?油断が過ぎるんじゃないの二人とも」

「そう言われると…、返す言葉もねぇよ…」

「うん…。寮生活に慣れて気が弛んでたかも…」

両手を腰に当てて顔を交互に見遣ると、二人は揃ってショボンと項垂れ、耳を伏せた。

「それで、二人は確かに黙っててくれるって言ったのね?」

「おう…」

アブクマ君は頭を掻きながら答え、イヌイ君は顎を引いて小さく頷く。

「二人には、シンジョウも知ってるって事まではまだ話してねぇけど…、一応言っといた方が良いと思ってよ…」

「まぁ、そうかもしれないわね…。もう大丈夫。オシタリ君達から聞いても、動揺はしないわ」

ひとまず安心はしたものの、私にはまだ懸念材料があった。…アブクマ君の前じゃちょっと言い辛いんだけれど…。

「話は分かったわ。心に留めておく。…それと、ついでで申し訳ないんだけれど、イヌイ君、ちょっと良いかしら?」

「うん?」

首を傾げた小柄な猫に、私は手を合わせて頼む。

「物理、ちょっと自信が無い所があるの、少し教えて欲しいんだけれど…」

イヌイ君は可愛らしい幼顔に笑みを浮かべる。

「僕で良いなら。どうしよう?お昼休みで良い?部活あるから放課後はちょっと…」

「ああ、そんなに時間は取らないわ。ちょっとした確認だけだから…。数分で良いからこのまま付き合ってくれない?」

「え?もちろん構わないけれど…、それだけで良いの?」

「ええ」

頷いた私は、アブクマ君の顔を見上げた。

「それじゃあ、悪いけれどイヌイ君借りるわね?」

「俺の持ち物みてぇに言うなって。んじゃ、先に教室戻ってるからよ」

苦笑いしたアブクマ君は、片手を上げてのっしのっしと歩いて行く。

「それじゃあ僕らも行こう。教科書見せて?」

声をかけてきたイヌイ君に、私は首を横に振って小声で応じた。

「…ゴメン。さっきのは方便なの」

「え?」

首を傾げたイヌイ君に、私は大きな熊に気付かれないよう小声で話しかける。

「しーっ。アブクマ君には内緒の話があるの」

私はアブクマ君がドアの向こうに消えるのを見守り、ドアが音を立てて閉まるのを確認してから、再び口を開いた。

「ごめんなさい。彼の前だとちょっと口にし辛い事なのよ…」

そう前置きした私は、イヌイ君の目を見つめながら、単刀直入に尋ねた。

「貴方は、ウツノミヤ君の事、どう思う?」

「え?ウツノミヤ君…?」

イヌイ君は少し戸惑っているように、「どうって…?」と小さく呟いた。

「真面目だし、成績は良いし、冷めてるようで結構親切だし…、良い友達だよ?」

「そうね…。真面目で成績は良い。結構親切。…そうよ」

頷いた私は、イヌイ君の目を見つめながら付け加えた。「そう見えるわね」と。

イヌイ君の目がスッと細くなって、問うような光が灯る。

「…どういう事?」

彼の幼顔に、その可愛さには不似合いな、思案する時独特の少し鋭い表情が浮かんだ。

「正直なところ、私は、彼の事がどれだけ信用できるか判断できないでいるのよ」

イヌイ君は否定も肯定もしないで、じっと私の顔を見つめている。可愛らしい猫がたまに見せる、切れ者の顔で。

「彼の言動、態度、色々な所に微かな違和感を覚えるの。貴方は気付かなかった?」

さらに目を細めたイヌイ君は、少しの間をあけてから小さく首を横に振った。私から目を離さないまま。

「たまに思う事はあった。でも…」

イヌイ君は途中で口を閉ざしたものの、言葉の続きは判った。

問題は無い。彼はそう判断したんだと思う。

「アブクマ君は、彼を手放しに信用しているみたいだけれど…」

「そうだね。サツキ君の人を見る目は確かだ。僕が保証する」

いつもと若干変わった少し硬めの口調で、イヌイ君ははっきりと言った。

確信に満ちた声音だけれど、でも…。

「問題はそこよ。彼に対してのアブクマ君の見立ては、本当に正しい?」

私の問いに、イヌイ君は胡乱げな表情を浮かべた。

「アブクマ君が知っていた小学校の頃の彼と、今の彼、変わっていないと言い切れる?」

私が続けた言葉を、イヌイ君は無言のまま顎に手を添えて思案する。

屋上を吹き抜けて行く風が、黙している彼のフワフワ柔らかな毛を弄んで揺らす。

私ですら覚えた違和感に、彼が気付けないのはおかしいと思っていた。…可愛らしい外見とは裏腹に、過酷な生活を送って

きた彼が…。

それはきっと、彼がアブクマ君を信じ切っているせい。

「注意しておいて。彼が私達に見せている面は、もしかすると彼の極々一部でしかないのかもしれないわ」

「…解った」

クリーム色の猫は、顎を引いて頷いた。

イヌイ君はとても賢い。警告さえしておけば一安心だわ。

「彼の事をなるべく詳しく知りたいの。勘違いしないでね?避けろとか、関わるなっていう訳じゃなく、あくまでも、人とな

りを確認して安心したいっていうだけだから」

「それじゃあ、サツキ君にも昔の事を訊いてみる。それとなくね」

「そうして貰えると助かるわ。とりあえず、明日また話をしましょう。勿論アブクマ君は交えずに、二人だけで」

イヌイ君は疑問を差し挟む事もなく頷いた。

本当ならアブクマ君も加えるのが筋でしょうけれど、友達想いの彼に余計な心配はかけたくないのよね…。

私がウツノミヤ君に、疑念とは行かないまでも良くない物を感じていると知ったら、ぞんざいなように見えて心優しいあの

大きな熊は、きっと心を痛めるから…。

オシタリ君の件には協力的だったし、これまでは深く踏み込むつもりは無かったけれど、今度ばかりは知られた内容が内容

だわ。

しっかりと見定めなきゃいけないわね…。宇都宮充という男子が、どんな生徒なのか…。

「…ところで、オシタリ君の方は?」

イヌイ君の問いに、私は首を横に振って苦笑した。

「それほど詳しく知らないっていう点では、ウツノミヤ君と同じだけれど…。たぶん、彼の方は心配要らないと思うわ」

「根拠は?」

「貴方達に借りがあるからよ。一見ぶっきらぼうだけれど、彼はウツノミヤ君よりずっと解りやすいもの」

私は微苦笑を浮かべて続けた。

「言葉遣いは乱暴だし、態度も良くないけれど、彼は真っ直ぐで義理堅い。友達は絶対に裏切らないタイプと見たわ」

「同感。僕も大丈夫だと思う」

イヌイ君はそう呟きながら、口元に微かな笑みを浮かべた。

…さて、そろそろ自己紹介しておこうかしら?

私は新庄美里。星陵ヶ丘高校一年の女子生徒。分厚い眼鏡が手放せない新聞部員よ。



ウツノミヤ君は眼鏡をかけた狐の獣人。もっとも、私と違って伊達眼鏡らしいけれど。

身なりはいつでもピシっと整えられていて、狐らしいフサフサの尻尾は、入念にブラシでも入れているのか、乱れている所

なんて見た事無いし毛艶も良い。

クラスでは学級委員を務めて、部活の方は担任のトラ先生が顧問をしている化学部に所属。

成績はかなり優秀な方で、ここ星陵にも推薦枠で入学している。

無遅刻無欠席、規則を遵守する模範的な生徒で、校則や寮則を破った事は私が知る限りたった一回だけ。

…もっとも、それは門限を過ぎても帰って来ないオシタリ君を、アブクマ君と一緒にこっそり迎えに行った一件だから、私

的にはノーカウント。評価としてマイナスには入らない。

机に両肘をつき、両頬を手の平で支える形で頬杖をついた私は、軽くため息を吐いた。

寮に戻って以降、判っている分だけ資料に纏めてみたものの…、改めて、考えれば考えるほど完璧な優等生だわ…。

A4のコピー用紙にボールペンで書き殴った、彼を取り巻く学校関係者との関連図を、私は頬杖をついたまま改めて見つめる。

関わりがあると私が知っている限りの、人物名が偏った図にはなっているものの、誰とも関係は良好…。

とりわけ、オシタリ君の事は毒舌でからかったりもするけれど、あれはまぁ友達としての物だろうし…。

こうして考えていくと、私の違和感はただの錯覚だったんじゃないかって思えて来るわね…。

けれど引っかかる。楽しげに談笑しながらも、彼の瞳に稀にちらついていた光が…。

何となく、何か欠けているような気がして…、冷たい感じに思えたんだけれど…、何なのかしら?あれは…。

「ミサトぉ〜…」

ルームメイトの声が背中にかかって、考え事を中断した私は首を巡らせた。

「何、ユリカ?」

食後の心地良い満腹感を堪能しているのか、むっちりしたパンダっ娘は、タイヤ型の縫いぐるみ…っていうかクッションを

手足で抱きかかえて、床の上で仰向けになっている。

丸めた背中を床につけてタイヤクッションを抱え込んでいるその姿は、まるで本物のパンダみたい。…タイヤを抱いてゴロ

ゴロしてるアレ…。

そんな格好で私が持ち込んだ大画面薄型テレビを眺めていたユリカは、何故か哀しげな顔をしていた。

「…ココアアレルギーっていうのが、この世にはあるんだってさ…」

「らしいわね…?それが…どうかしたの?」

ユリカったら突然何かしら?…そういえば、今まで健康番組見てたわね?番組内でそういう話が出たのねきっと。

あいかわらず仰向けのユリカは、逆さまの顔で私を見つめたまま、下唇をギュッと噛んで、ウルルッと目を潤ませた。

「か…、かわいそぉっ…!」

「…何で泣くのよ…」

私はちょっと呆れながら椅子を回して、縫いぐるみを抱っこしたままコロッ、コロッと、左右に揺れているユリカに向き直る。

「だってぇ…!あんなに美味しいのに、ココア飲んじゃダメな人が居るんだよぉ?かわいそぉじゃん…!」

「…まぁ、そうね…、そう言われると確かにちょっと可哀相かも…。でも、ただココアが飲めないだけじゃない?」

「ホットココアもだめだしぃ、アイスココアも飲んじゃいけないんだよぉ…?」

「それはまぁ、両方ココアだもん…」

っていうかユリカ、そんな事で涙が出る訳?それは溢れんばかりのココア愛の為せる業?それとも飲めない人への同情なの?

知り合いがそうだったっていう訳でもないのに…。なんで涙目になるほどの情が湧いて来るんだか…、ん…?あれ…?

「…あ…」

私は声を漏らした。

もやもやと纏まらないまま頭の片隅に押しやっていた思考を、今のユリカとの会話で感じた事が掠めて行った。

やっと端っこを掴んだそれが逃げていかないよう心に留めながら、私は額に手を当てて俯く。

…情…。それだったんだ…。

ウツノミヤ君がたまに見せた、私にはひどく冷たく感じられた目…。私にはあれが…、何かが欠けているように感じられて

いた。

その欠けていたものはつまり…、情…。

彼が私やオシタリ君、イヌイ君、それにアブクマ君にすら向けていた、あの目…。

一切の情を交えず、機械的に値踏みしているような、観察しているような目…。

友人として付き合いながら、ふとした瞬間に見せる…、そう、まるでスペックを確かめながら電化製品を選ぶ時のような目…。

…今やっと解った。それが、私が彼に抱いた違和感と、微かな不安の正体だったんだわ…!

押し黙って考えを反芻していた私は、「ミサトぉ?」という、ルームメイトの声で顔を上げた。

「どしたん?具合悪いの?」

いつの間にか、パンダっ娘は私のすぐ前で床にペタンと座り込み、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

どうやら、私が考えを纏める事に没頭している間にすぐ傍まで来ていたみたい。

「そんな事無いわ、大丈夫よ」

「でもぉ、おでこなんか押さえてさ…、熱でもあるん?」

「大丈夫だってば…」

額に当てていた手を離すと、ユリカはポテッとした肉付きの良い手を私の額に当ててきた。

「ん〜…、熱は無いかなぁ…?」

「でしょう?ちょっと考え事をしていただけよ。本当に大丈夫だから…、ありがとうユリカ」

私と自分の額に手を当てて口をへの字にして熱を確認しているユリカに、微苦笑を浮かべて応じながら、私は考えた。

今のユリカの目には、顔には、相手を…つまり私を気遣い、心配する様子が見て取れる。

なのに、ウツノミヤ君が時折見せるあの目には、相手が友達でありながらも、まるで物でも見るような、距離を置いた…、

いいえ、突き放した冷たさがあった…。

その眼光こそが、アブクマ君とイヌイ君の秘密を彼が知ったと聞いた時に感じた、不安の根拠だった…。



「お父さんは確か会社の役員さんだったって。お母さんはたぶん専業主婦だったはずだって言ってたよ?」

「ふ〜ん…、家庭環境は普通…、いえ、むしろ恵まれた方かしら?本当に、ウツノミヤ君に似つかわしい家庭っていうか…」

翌日のお昼休み、私とイヌイ君はメールで連絡を取り合って、校舎裏で待ち合わせた。

イヌイ君は昨夜の内に、アブクマ君からそれとなく、小学校当時のウツノミヤ君がどんな子だったのかを聞き出してくれて

いた。

それによれば、彼は昔から生真面目な子だったらしい。それこそ、今と殆ど変わらなかったみたい。

違いと言えば、伊達眼鏡をかけるようになっていた事くらい…。

アブクマ君の主観も入っているだろうから鵜呑みにはできないけれど…、本当にさほど変わっていないのかしら?

「昨夜ね…」

顎に手を当てて、少し俯いて考えていた私は、イヌイ君の囁くような小声で顔を上げた。

「君に言われたこともあったから、ウツノミヤ君の様子、ちょっと注意して見てみたんだ」

「うん。それで…、どう?」

イヌイ君は私の問いに、首をふるるっと横に振る。

「…判らないんだ…。確かに、時々観察してるような目になる時がある…。笑ってる中でそんな目をする事もあって、違和感

があったけれど…」

違和感を覚えたと口にしながらも戸惑っているようなイヌイ君の態度にこそ、私は違和感を覚えた。

「けれど、何?」

「何か変なんだ。シンジョウさんが言うような、値踏みしてるみたいっていうだけじゃなくて…、上手く言えないけれど…、

もっと何か…」

イヌイ君の言葉は、彼にしては珍しく歯切れの悪い物だった。

育った環境もあって周囲の反応には敏感なイヌイ君にも、傍に居ながら察し切れない…。これじゃあ私が掴みきれないのも

当然ね…。

「何となく判ったわ。私もちょっと見てみ…」

「ねぇ、シンジョウさん」

イヌイ君は私の言葉を遮って、じっと顔を見つめてきた。

「…疑っておかないと、まずいのかな…?」

「備えておくに越したことは無い。とは思うわ」

イヌイ君は少し俯き、落ち着かなげに垂らした尻尾をくねらせる。

「…心配して貰ってるのに、こんな事を言うの…、なんだけど…。ウツノミヤ君は何もしてないし、オシタリ君みたいに力に

なってあげなきゃいけない事情も無いのに…」

「解ってるわ…。友達の事をこそこそ嗅ぎ回るのが嫌なんでしょう」

私は小柄な猫の顔を覗き込み、微苦笑した。

「もうここまでで良いわ。そんなに警戒しなくても大丈夫そうだしね。アブクマ君の目を信用しましょう」

イヌイ君は私の言葉を聞くと、ほっとしたように表情を緩めた。

恋人が信用している旧友。そして、隣室の住人でありクラスメート。中学時代は友人を作ることを避けてきたイヌイ君にとっ

ては、ウツノミヤ君は貴重な友人…。信じたい気持ちは良く解る。

イヌイ君と私は片手を上げて別れの挨拶を交わし、それぞれアブクマ君が待つ屋上と、ユリカが待つ教室に向かって歩き出す。

そう、ここまでで良いわ。イヌイ君に首を突っ込ませるのはここまでで…。

私は無意識の内に足早になりながら、考えを巡らせる。

さっきイヌイ君に、アブクマ君の目を信用して警戒を解こうと言ったのは、実は本音じゃない。

私まだウツノミヤ君への警戒を解いてはいない。

他でもない友人達の為、彼らの不利益になるかどうかは見極めなくちゃ…。

そして、もしも信用ならない相手だとしたら、彼が知った二人の秘密を悪用する事ができないように、切り札になるだけの

弱みか何かを握っておく必要がある。



「少し散らかってるが、気にしないでくれなぁ?」

鍵を外してドアを引き開け、のそっと部屋に入った白衣の虎獣人に続いて、私はペコリとお辞儀して化学準備室に足を踏み

入れる。

「はい、失礼しま…す…!?」

…私は、その凄まじいまでの散らかりっぷりに、まず絶句した…。

…今…、少しっておっしゃいましたか?先生…?

乱雑に物が置かれた机。所狭しと並べられた実験器具。

スチールデスクの上にドリップコーヒーの缶と三角フラスコとアルコールランプ、それにビーカーが置いてあるのは何故…?

私を案内した白衣を着た虎は、雑多な物に埋もれた狭い空間をのそのそと進み、壁に立てかけていたパイプ椅子を広げる。

この大きな体の虎獣人は、私達に化学を教えてくれている寅大先生。アブクマ君達の担任でもある。

けれど、虎獣人とは言っても、一般的にイメージされるステレオタイプの…、つまり雄壮な虎獣人のイメージからはだいぶ

かけ離れた人物なのよね…。

いつもよれよれの白衣を着て、太い鼻梁に眼鏡を乗せているトラ先生は、大柄なだけでなくかなり太っている。

常に白衣を羽織っているのもあって、シルエットから言えば凄く大きく見える。

中年太りなのかもしれないけれど、前を開けたままの白衣から覗くワイシャツは、大きなお腹でパツンパツン。何かの拍子

にボタンが飛んでしまいそう。

眼鏡の奥の目はいつも眠たげな半眼で、ネクタイもしていたりしていなかったりで、していたとしても大概曲がっている。

何て言うのか、こう…、身なりに無頓着で、どうにもだらしない感じを受ける。

でも、私はこの先生の事が割と好きだったりする。

のんびりとした仕草や口調、柔和な表情や、何処かとぼけた雰囲気とかが。

「あ〜、この椅子に座って」

パイプ椅子を勧めてくれた先生にお礼を言って、早速腰を下ろすと、先生は私と向き合う形で、スチールデスクとセットに

なっている肘掛け椅子に腰を下ろした。

大きなお尻を乗せられた椅子が、ギシィッと抗議するように大きな軋み音を立てたけれど、先生は気にした様子も無く口を

開いた。

「しかし、変わっているなぁシンジョウは。化学部なんていう派手さもない部活を取材したがるなんて」

「そうですか?」

私は首を傾げて微笑んで見せながら、心の中では先生に手を合わせる。

…ごめんなさい先生…。本当は、興味を持ったっていうのも、取材したいっていうのも、ウソなんです…。

化学部の活動が休みである事を確認した私は、職員室を尋ねて、活動内容を聞かせて欲しいとトラ先生に話を持ちかけた。

ちょっと驚いた事に、トラ先生は私の事を結構知っていた。

春に入学したばかりで、定期戦の際に柔道部の応援で顔をあわせた以外は、他の生徒と同程度しか接点が無いのに…。

先生は、受け持ちでもない私の名前も、新聞部である事も、定期戦の特集記事でどの部活について書いたかという事までご

存じだった。

何でそんなに知っているのかとビックリはしたけれど、話が早くて助かったわ。

そうして、運良く顔を覚えて貰えていた私は、運動部の取材は先輩方がやるし、めぼしい記事もやっぱり先輩方が纏めてし

まうから、上級生が目を付けない所から記事になりそうな物を探しているのだとウソをついて、先生と二人で話をする機会を

得る事に成功した。

この気の良い太っちょ先生を騙す事には罪悪感を覚えるけれど、これも友達の為…!

形通りの質問で化学部の活動内容について尋ねてゆく私に、先生は何の疑いも持たずに丁寧に回答してくれた。

記事にできそうならと話を持ちかけはしたものの、本当は記事にするつもりなんてないポーズだけの私の質問に、実に丁寧

に、そしてちょっと嬉しそうに…。

…何これ!?なんなのこの物凄い罪悪感はっ!?凄く胸が痛むんだけどっ!?

心の中で何度も謝りながら、私は質問を終えて、先生に頭を下げた。

「ありがとうございました。とても興味深い内容でした」

「ははは。実験を繰り返すばかりの地味な活動なんだが、少しでも興味を持ってくれたなら嬉しいなぁ」

トラ先生はホワ〜っとした柔和な笑みを浮かべたまま、頭を下げた私にウンウンと頷いた。

「そういえば、ウツノミヤ君も化学部ですよね?」

「うん。そうだなぁ」

さりげなく話題を変えて、彼がどんな部員なのか聞き出そうとした私は、

「本当は、こっちが本題かなぁ?」

トラ先生が微笑みながら口にしたその言葉で、目を見開きながら固まってしまった。

普通の会話の流れの中に、自然体から放り込まれた驚愕の不意打ち!

ポーカーフェイスで乗り切るとか、自然に流すとか、そんな対応を取るどころか、私は本心を悟られても仕方がない反応を

引き出されてしまった…!

やっぱり、私の態度を見て確信したんでしょうね…。先生はウンウンと一人頷いている…。

「済みません…。何で…、お気付きになられたんですか?」

誤魔化しはもう無理だと観念して、頭を下げて詫びながら尋ねると、トラ先生は苦笑いを浮かべ、むっちり張った頬を右手

の人差し指でポリポリと掻きながら応じる。

「昔なぁ…、ず〜っと長い事身近に居たヤツに、上手く隠し事をされていた事があってなぁ…。とんでもない不意打ちを食ら

わされたんだ。…あの時は大層腹を立てたもんだが…、それ以来かなぁ?相手が必死に何かを隠そうとしていると、何となく

判るようになってきたのは…」

そう語った先生の顔は、いつもと同じく穏やかだったけれど…、心なしか、少し寂しそうに見えた…。

何も言えずに黙り込んでいると、トラ先生は机の上に手を伸ばし、アルコールランプを手に取りながら口を開いた。

「それで、ウツノミヤの事に興味があるのかぁ?」

「興味があるというか何というか…、どういう子なのか気になるんです。…あ。恋愛感情とかそういうのじゃありませんよ!?」

誤解されて、不純異性交遊がどうのとかいう話になっても困るわ。私が慌てて付け加えると、

「まぁ、動機については詮索しないでおくなぁ」

トラ先生は微笑を浮かべながらそう言って、何故かアルコールランプに火をつけながらウンウン頷いた。…本当に大丈夫?

誤解してないですか…?

「ウツノミヤは良い子だ。賢いしなぁ。…まぁ、少し賢過ぎて損をしている所もあるが…」

賢過ぎて…損…?首を傾げた私の顔を、先生は緩んだ笑顔のまま、真っ直ぐに見つめてきた。

「仲良くしてやってくれなぁ?」

先生のその言葉に、私は曖昧に頷く事しかできなかった…。