第五話 「違和感と不安」(後編)

前日と同じく机の上に肘をつき、頬杖をついて、広げた資料に目を落としながらあれこれ考え事をしていると、

「ミサトぉ〜…、お腹減っちゃったぁ、食堂行こぉ〜…」

ムチムチモフモフなパンダっ娘、ルームメイトのユリカが、後ろからモソ〜っと抱き付いてきた。

「え?少し早くない?」

「でも、あと五分ぐらいで寮食あくから、先行って一緒に待ってよぉ…?もぉお腹ペコペコぉ〜…死むぅ〜…餓えて死むぅ〜…」

椅子に座っている私を背もたれごと太い腕で抱き締めたパンダっ娘は、黒い鼻をピスピス鳴らして憐れな声を上げる。

羨ましいを通り越すヘビー級のムッチリ胸が、肩と首に密着して、同じくムッチリお腹が椅子の背もたれをグッと押してきた。

その体の蓄えがあれば、そうそう簡単には餓死しないと思うけれど…、これは黙っておきましょう。

…空手の試合じゃあ、この体であれだけスピーディーに動けるんだから大した物よね…。

「判ったわよ。行くから」

艶やかでフサフサな黒い毛に覆われた腕をポンポンと叩き、私は苦笑いした。

その体格に見合って食欲旺盛なユリカは、部活の稽古がキツめだった日なんかには、こうして空腹を訴えながら甘えて来る。

私に甘えた所で食べ物が出てくる訳でもないんだけれど、本人曰く、「お腹が減ると切なくなるよねぇ?」との事。

ようやく腕を離したユリカは、しかし「んむぅ?」と声を漏らして身を乗り出した。

背後から構わず身を乗り出して来たものだから、私は体格の良いパンダにのしかかられるような格好になる。

「ちょっとユリカ…!」

後頭部やうなじを、斜め上から押し付けられた柔らかな胸と腹部で圧迫…、ていうか埋没させられながら、私は抗議して口

を開き、

「ありゃ?今度はウッチーの事調べてたんだぁ?」

声を遮って発せられたユリカの問いに、私は「うん、まぁ…」と曖昧に返事をした。

今回の調べ物が何であるかは、ユリカには話していない。

別に隠していた訳でもないんだけれど、彼の事をコソコソ嗅ぎ回っている罪悪感からか、声のトーンが意図せず落ちた。

「ウッチーって言えばさぁ、たま〜に見せる表情、気になるよねぇ」

頭の上から聞こえたユリカの声で、私はピクッと眉を上げた。

ポンと、ごく自然に、何でもない事のように普通に口にされたその言葉で。

…ユリカも…、感じていた?

「ユリカ?ちょっと…」

背中から後頭部にかけて乗っかっている、ボリュームたっぷりのパンダの体を、私はぐぐっと背を起こす事で押し退けよう

とした。

結局はビクともしなかったけど、抵抗を感じたユリカが体を起こして、私はようやく重圧から解放される。

身を離したユリカの丸顔を、椅子を回して向き直って見上げ、少し驚きながら私は尋ねる。

「ユリカ?ウツノミヤ君のどんな表情…」

ぐきゅ〜…きゅるるるるるるる…。…るるるっ…。

私の言葉を遮って、ユリカのまん丸お腹から、哀しげな音が鳴り響く。

「あふ…、あふふふふひぃ…」

お腹を抱えて背を丸め、パンダっ娘は弱り切ったような顔で妙な声を漏らした。

…ダメだ…。今はもうこれ以上聴けそうにないわ…。

「寮食、行きましょうか…」

「…ん〜…」

腰を上げた私は、体を丸めて前屈みになっているユリカの背中をさすってあげながら、一緒に部屋を出た。

…相変わらず間が悪いなぁこの子…。



物凄い勢いで納豆ご飯をかき込んでいるルームメイトと向き合う形で、私はツナサラダをつつきながら考える。

今日の放課後、トラ先生から言われた事について。

…それと、先生がフラスコで湯を沸かして勧めてくれた、ビーカーに入ったコーヒーは、何故あんなにも美味しく淹れられ

たのか…。

あと、常軌を逸した量の砂糖とクリープを溶かし込んでいた先生のコーヒーは、果たしてコーヒーの味がしていたのか…。

…まぁ、後者二つはひとまず置いておくとして…。引っかかっているのは先生がウツノミヤ君について言っていた感想の方。

「賢過ぎる」…あれは一体どういう意味だったのかしら…?

「ミサトぉ、箸止まってるよぉ?」

「あ…、うん…」

空腹感が収まってきたのか、一生懸命ご飯を咀嚼していたユリカが唐突に声を発し、私は止まっていた手を動かし始めた。

「あんまり食欲無いん?」

「ううん、普通よ。ちょっと考え事をしていただけ」

はっきり言って、授業や宿題、テスト勉強の時だってこんなには頭を悩ませないわ。赤点でさえなければそれで構わないから。

…でも、この件については「判りません」で済ませちゃいけないのよ。

ウツノミヤ君がどんな生徒なのか、ある程度納得できて、同郷の二人に危険が及ばないって判断できない限り、安心はでき

ない…。

「ミサトぉ」

「うん?」

顔を上げると、パンダっ娘は箸を止めて私をじっと見ていた。

「悩み事があるなら相談してよぉ?あたし、出来る限り力になるからさ」

「…うん。ありがとうユリカ。でも今は大丈夫。力が要るようになったら、勿論頼らせて貰うわ。前の時みたいにね?」

笑みを返してやると、パンダっ娘はひとまず納得したのか、食事を再開した。

アブクマ君もかくやというような健啖家振りを見せつけるルームメイトの前で、私はほんの少しだけ気が楽になるのを感じ

ていた。

のんびりやのパンダっ娘が私に向けてくれる、見返りを求めない無償の気遣いが嬉しくて、胸がじわっと温かくなった…。



食事を終えて部屋に戻った私は、机の上に出しっ放しにしておいた資料を立ったまま見下ろす。

「あ〜!お腹いっぱぁい…!」

まん丸いお腹をなでながら、私に続いて部屋に入ってきたパンダっ娘は、ご満悦な様子で床の上に仰向けに転がる。

そしてティーシャツを捲り上げてぽっこりと膨れたお腹を出し、「あふ〜!食べた食べたぁ〜!」と、ポンポン叩く。

…ユリカ…、私以外誰も見ていないからいいけれど、年頃の娘のするべき格好じゃないわよソレ…。

考え事をしながら食事を摂っていたおかげで、結構時間が経っている。

ユリカは先に部屋に戻る事無く、私に付き合って食堂に留まってくれていた。

資料を重ねてトントンと揃えて机の上に置いた私は、お腹をさすっているユリカを見遣り、キッチンに向かいながら声をか

ける。

「冷蔵庫行くけど、ココアは?」

「あ、ちょ〜だ〜い」

キッチンに入り、冷蔵庫からミネラルウォーターとココアのパックを取って来た私は、

「ありがとぉ、テーブルに置いといて〜」

ユリカの言葉に頷きながら、テーブルの傍に腰を下ろしてキャップを捻った。たぶん、少しお腹が落ち着いてから飲むんで

しょうね。

満足気な表情でお腹をさすっているユリカを眺めながら、私はミネラルウォーターを口に含む。

そして、冷たい水が食道を滑り落ちて行き、胃に収まるのを感じながら、部屋を出る前にユリカが言っていた事を思い出す。

「ねぇユリ…わっ!?」

ルームメイトの方へ首を巡らせた次の瞬間、私は言葉を中断して大きな声を上げた。

丸っこいパンダっ娘は、床に寝転がったままゴロロロっと転がってくると、私のすぐ傍で仰向けで止まった。

この、ユリカがたまにやる妙な転がり移動は、最近ではちょっと慣れて来ているものの、やっぱり不意にやられるとビック

リする。

入寮した初日、ファーストコンタクトの際にもこの方法で寄って来られた時は、轢き潰されるんじゃないかと恐怖すら覚え

たわ…。

転がって来たパンダっ娘は、まだ驚きの醒めていない私には構わずモゾモゾっと身じろぎすると、正座を崩して座っていた

私の脚に横から頭を乗せた。

「あ〜…、落ち着くぅ〜…」

「それは…、良かったわね…。…私はちょっと重いけど…」

気の利いた言葉も思いつかずにそう応じた私の顔を、ユリカはお腹をさすりながら見上げてきた。

「見てこのお腹ぁ…、ちょっと食べ過ぎたかなぁ…」

「何か変わった?」

「出てるでしょほら?」

「…うん。かも…」

…頷いたものの、本当はよくわかんない。ぽっこりしてるのはいつもの事だし…。

苦笑を浮かべた私は、真っ白でポワポワ柔らかい毛が密生しているユリカのお腹に、そっと手を当てて撫でる。

お腹を撫でられたパンダっ娘は、気持ち良さそうに目尻を下げた。

こうしてお腹を撫でてあげると、ちょっと恥かしそうにしながらも喜ぶ事が、相部屋になってからすぐに判った。

体は大きいけれど、ユリカは異様な程の甘えん坊だ。

すぐに体を寄せてひっついて来るし、何かあれば抱きついて来る。

勿論最初は驚いたけれど、ペースに巻き込まれたか、相部屋になって二週間も経った頃には慣れてしまった。

もしかして「そのケ」があるのかしら?同性愛者の友人が居る私は、最初はそんな事も考えもしたけれど、これは違った。

ユリカは普通に男子(特に美形)に興味を持つし、私達の年代なら皆知っているアイドルグループのファンだったりもする。

つまり、単にペタペタくっつきたがる甘えん坊なのよね、ユリカは。

…まぁ、それはそれでどうかと思うけど…。この間も三年のイワクニ先輩に抱きついてたし…。

…そうね…、突然大きな妹が出来たような感じ、とでも言えばいいのかしら?

同級生だけれども、私にとってのユリカは、何となく年下の子のようなイメージが強いのよね。

満腹感が眠気を呼んでいるのか、それともお腹を撫でられて気持ち良くなったせいか、ユリカはトロンとしてきた目で私を

見上げ、口を開いた。

「でぇ、なにぃ〜?なんか言いかけてなかった?」

あ、そうだった。訊きたい事があったんだ…。

「ねぇ?さっき、ウツノミヤ君が見せる表情が気になるって言ったわよね?それって、どんな感じの表情?」

「ん〜…?」

目を細くして鼻をピスピス鳴らし、ユリカは少し黙った後に口を開いた。

「笑いながら話してる時でも、馬鹿話してる時でもさぁ、時々なんだけどぉ…、急に冷めた目ぇすんの」

…ユリカも気付いたんだ…。いっつもホニャ〜っとしてるように見えて、結構周りを見てるのね…。

「あれがさぁ…、何て言うか……………」

思い出しているように目を細めながらユリカが続けた言葉は、私が予想していた物とは大きく違っていた。

「…え?どういう事?」

「ん〜…、あんま気にしないでねぇ?ちょっとそう思ったってだけだから」

もう一度訊ねてみたけれど、漠然と感じているだけだから詳しく訊かれても答えようが無いと、ユリカは言う。

…どういう事だろう?私が気付かなかっただけ?それともユリカの勘違い?

じっくり考えていたら、ふとある事が気になって、私は膝枕でうつらうつらし始めたユリカの顔を見下ろした。

彼のルームメイトであるオシタリ君は、ウツノミヤ君の事をどう考えているんだろう?

私とユリカのような関係というのは、ちょっと想像し難いわね…。やっぱり部屋の中でも、外で見せるのと同じようなやり

とりをしているのかしら…?

入学初期の頃は、ウツノミヤ君からオシタリ君の様子を訊いたりした。でも、今度は逆。あのシェパードにウツノミヤ君の

事を訊いてみましょう…。

ユリカが感じたものは勘違いではないのか、そして、オシタリ君がウツノミヤ君からあの違和感を嗅ぎ取っているのかどう

か、この二点ぐらいは確認しておきたいし…。

「…ところでユリカ、ココア温くなるわよ?それと、脚痺れて来たんだけど…」

「ん〜…、あと五分…」

甘えん坊のルームメイトは、幸せそうな顔で現状維持を訴えた。…重い…!脚が、しび…!



「いけ好かねえヤツだな」

翌日のお昼。校舎裏で待ち合わせた私は、オシタリ君にルームメイトの事を尋ねてみたんだけれど…、返って来た答えは、

開口一番コレだった。

「頭良いの鼻にかけて、いつも澄ましてやがって、いちいちひとを小バカにしやがってよ。いつかあの高慢ちきな鼻へし折っ

てやる…!」

不機嫌そうに語るオシタリ君の態度に、ちょっと思うところがあった私は…、

「もしかして、勉強教えて貰ってて喧嘩でもした?」

と、おずおずと尋ねてみた。

オシタリ君は黙り込んだけれど、この反応だと間違い無いわねこれ…。今のはどっちかって言うと恨み言混じりだったし…。

…実を言うと、私もウツノミヤ君にオシタリ君の事をよろしくって、勉強を見てくれるようお願いした身だから、若干複雑…。

とりあえず、一度話題を変えましょう。こっちの方も話しておきたい所だったし…。

「…アブクマ君と、イヌイ君の事なんだけれど…」

私がそう切り出すと、オシタリ君は何の話か気付いたらしく、表情を改めた。

「二人の…アレか?」

「ええ。…私があの二人の関係を知っているって所までは、聞いたのね?」

「昨夜イヌイから聞いた」

頷いたオシタリ君に、あの二人からどこまで聞かされているのかきちんと確認してから、私は切り出した。

「二人から聞いたわ。黙っててくれるのね?」

「他人の色恋沙汰、言いふらして喜ぶ趣味はねえよ。…それに、あの二人にはでけえ借りがあるからな。黙っとく」

「有り難う、助かるわ。本当に義理堅いのねオシタリ君は」

私が微笑みかけると、シェパードは「ふん…」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。…もしかして、照れてるのかしら?

「ウツノミヤ君も、黙っててくれるって?」

「ああ。嫌な野郎だが、あいつも言いふらしたりはしねえよ」

オシタリ君はそっぽを向いたまま私にそう答えた。けれど…、私はまだ彼の事が信じ切れていない…。

「ねぇ…。ウツノミヤ君って、客観的に見てどう?」

「「どう?」ってな…どういう意味だ?」

「例えば…、急に冷めた目をする時とか…」

私がそう言った途端、シェパードは眉をピクッと動かす。

「気付いてたのか?あんたも」

低い声で言ったオシタリ君に、私は顎を引いて頷いた。

少し意外だったけれど…、さすがルームメイトね。オシタリ君も彼が見せる微妙な変化に気付いていたみたい。

事情を話して詳しく尋ねようと思った私は、

「気にすんな、あの野郎の事は。別に悪さしようってんじゃねえんだからよ」

「え?」

オシタリ君のその言葉で首を傾げた。

「あの野郎のアレはよ………」

オシタリ君が口にした言葉は、ユリカが口にした言葉同様、私を驚かせた。

驚きも戸惑いも大きかったけれど、私は決心を確固たるものにした。

やっぱり、ウツノミヤ君に直接会って話をする必要がある…。話して、確認する必要がある…。

私はオシタリ君に頼んで、放課後、ウツノミヤ君に時間を取ってくれるよう伝言をお願いした。

話の運び方を考えながら受けた午後の授業は、ほとんど上の空だった。



「あまりゆっくりはできないぞ?今日は部活があるから」

「結構よ」

放課後、掃除などが済んでからすぐに裏庭に来ていた私に、姿を現すなりウツノミヤ君はそう言った。

サルスベリの木に背を預けている私に、ウツノミヤ君は胡乱げな目を向ける。

「それで、何の用事だい?」

2メートル程の間を空け、私と向き合う形で校舎を背にして立った細身の狐は、いつもの様子で尋ねてくる。

彼は頭が切れる。絡め手で行っても効果が期待できるような相手じゃないし、あまり時間も無い。ここは単刀直入に行きま

しょうか…。

「ちょっと変わっているわよね?貴方の、友達を見る目…」

「変わっている?そうかな?」

返事はすぐに返って来た。僅かにも動揺する素振りを見せずに。

軽く肩を竦めながら聞き返したウツノミヤ君に、私は次の言葉を投げかける。まっすぐにその目を見つめて。

「これは使えそう。これは役に立ちそう。そんな風に考えながら品物を選別している…、そういう感じ」

ウツノミヤ君の顔から表情が消えた。…そして…、そう、私が稀に目にしていたあの目が今、私に向けられた。

伊達眼鏡の奥の、鋭く細められた目を真っ直ぐに見つめたまま、私は続ける。

「表向きは友達として付き合いながら、気を許してはいない…。違う?」

「さあどうだろうな?…だったとして、相手に気を許すかどうかは自分で決める事だろう?」

声の調子は相変わらずいつもどおりね。…けれど、警戒を強めているのは確かだわ。

ウツノミヤ君の目は、射抜くような鋭い光を投げかけてくる。冷静に、そして冷徹に、私を見極めようとしているのが判る。

私達の間の空気が、緊張を孕んでピリピリしているような気がする。

…手強い相手ね…。舌先三寸で丸め込めるような甘い相手じゃない。へたをすれば煙に巻かれてそれで終わり…。

「私は気付いている」というメッセージは一応伝えたけれど、警戒を抱かせるだけでは不十分なのよ、今回は…。

「そうね。気を許せる相手かどうか、決めるのは貴方…。例えアブクマ君が相手でも心を許し切っていない事も、私が横から

どうこう口を挟むべき事じゃないわ」

アブクマ君の名が出た途端、僅かにだけれど、彼の眉がピクリと動いた。

「…これでも信用しているつもりだけれどな。キミにはそうは見えないらしいが…」

彼の声音に、微かに棘を感じた。ほんの微かにだけれど、今日向き合ってから初めて、感情の揺れが見えた。

「問題はそこじゃないの」

私は緊張すら感じながら慎重に言葉を選ぶ。彼の鋭過ぎる視線から目を逸らさないようにするだけで、かなりの努力を要した。

でも、気圧されちゃダメよミサト。表には出しちゃダメ…!

「貴方が損得勘定最優先で動く事は別に構わないわ。私が欲しいのは確信。貴方が、アブクマ君やイヌイ君を裏切らないとい

う確信よ」

私は平静を装いながら、あえて彼を挑発するような言葉を選んだ。

まだ判断材料が乏しい。多少強引な言葉を投げつけてでも、彼の反応を引き出したい。

「これはまた穏やかじゃないな。ボクがあの二人を裏切る?何でまた…。ああ、二人の関係について、かい?」

相変わらず値踏みするような目で見つめて来るウツノミヤ君に、私は目を逸らさないまま小さく頷いた。

「あの二人の秘密を言いふらさない、その点だけでも確信が欲しいの」

「言わないさ。言った所で何の得にもなりはしない。そもそも、口外しない事をどう証明しろって?誓約書でも書かせるかい?」

軽く肩を竦めた彼に、私は、今の今までどう言うべきか決めかねていた言葉を、胸の中から選んで投げつけた。

「何を怖がってるの?」

ピクっと、彼の眉が僅かに上がった。

…当たりだ…。ユリカが言っていた事は当たっている…。そしてたぶん、オシタリ君の考えも外れていない…。

「怖がってる…?ボクが?何を?」

微妙な変化が、ウツノミヤ君に起こっていた。観察するようなその視線の中に、微かな戸惑いが感じられる。

ウツノミヤ君は気付いていないんだ…、自分でも…。

………。…ここまで、かしらね…。

私は固くなっていた肩から少し力を抜いて、顎を引いて頷いた。

「良いわ…。値踏みしているという点では私も同じ。貴方が約束を守れるって、とりあえず信用するわ」

細身の狐は胡乱げに目を細め、それから僅かに首を傾げる。

「理解に苦しむな…。信用できないというさっきの態度から、何で急にそう変わるんだ?」

「全面的に信用した訳じゃないわ。でも、今回の件についてはたぶん大丈夫だと思えただけ」

「何故そう思う?参考までに聞いておきたいね」

「女の勘。とでも言っておきましょうか」

私が肩を竦めると、ウツノミヤ君は顔を顰める。

ユリカは言った。

『何となくなんだけどさぁ、怖がってるみたいに見えるんだぁ…。気を許しちゃいけないって我慢してるみたいな、そんな感

じ…。相手の事じっと窺ってないと不安になるのかなぁ…?何だかちょっぴり寂しそうで、かわいそうで…』

そして、オシタリ君はこう言った。

『警戒してやがるのかもな…。むやみに距離詰めたくねえっつうか…、馴れ合いたくねえっつうか…、それなりの付き合いし

ながら、微妙に間ぁ開けて来る。…あいつがそういう風にひねくれてる理由までは、良く判らねえけどよ…』

そう。あの二人はどういう訳か、ウツノミヤ君の観察するようなあの目を、そういう風に感じていた。

何よりも驚いたのは、オシタリ君が述べた彼が信用できるという根拠。

『あの野郎は、いつだって勘定してやがる。つるむ相手も損得で選ぶ。自分の損になるような事はしねえし、自分の得になら

ねえなら悪さだってしねえ。そういった意味じゃあ信用できるんじゃねえのか?』

そう言ってニヤリと笑ったシェパードの態度からは、皮肉げな笑みを浮かべながらもルームメイトを信用している事が伝わっ

て来た。

貸し借りの話を抜きにしても、オシタリ君は、ウツノミヤ君は信用できると言い切る。

ユリカの方は、何故かむしろ同情に近い感情を持っているらしい。

だから私は、オシタリ君とユリカの考えが外れていないと思えた今、間接的ながらもウツノミヤ君を信用する事にした。

上辺だけの態度で騙されるほど、オシタリ君は安っぽくない。

長らく荒んだ生活を送り、そこから救い出してくれるはずだった立派な父親を喪い、母親にすら頼らず一人でやって行く覚

悟を固めて、他者との触れあいを頑なに拒みながらも、しかし情に焦がれながら生きてきたオシタリ君…。

そんな彼だからこそ、ウツノミヤ君が本当に信用ならない相手なら、決して気を許したりはしなかったはず…。

「貴方は、自分の損になる事はしない。あの二人が貴方にとっての「良い友人」である限り、貴方はその信頼を損ねるような

行動はとらない。でしょう?」

「まあね。…自分でその結論に至るなら、わざわざボクを呼び出して問答する必要は無かったんじゃないか?」

窺うような視線を向けて来るウツノミヤ君に、私は口の端を上げて、笑みを浮かべながら言ってやった。

「警告でもあったのよ。「私は警戒しているぞ」っていう、ね」

「なるほどね…」

微苦笑したウツノミヤ君は、瞳に浮かべていた鋭い光を収めて、大仰にため息をついて見せた。

「やれやれ…。演技には自信があったんだけどな。まさかこうも簡単に見破られるとは思わなかった」

「時にはそれで損をする程鋭い女の勘を甘く見ない事ね。…それと、ルームメイトの目も」

私の言葉が意外だったか、ウツノミヤ君は目を丸くする。…やっと、一太刀浴びせられたわね。

「オシタリが…気付いてる?」

「ユリカもよ」

ウツノミヤ君は額に手を当てて空を仰いだ。

「オシタリに、あの女子までか…。軽くショックだ…。どうやら相当な大根役者らしいな、ボクは」

「そうでもないわよ?アブクマ君もイヌイ君も、そしてたぶん他の皆も気付いてないわ。だから…」

私は言葉を切り、悪戯っぽく笑って見せた。

「貴方はこれまでどおりに過ごせるわ」

ウツノミヤ君は訝るように片眉を上げる。

「…二人に警告しないのか?ボクは場合によっては秘密をバラすかもしれないヤツだぞって?」

意外そうに言ったウツノミヤ君に、私はちっちっちっと指を振って見せた。

「一応、二人の秘密を口外しない交換条件として黙っておいてあげるわ。貴方もその方が過ごし易いでしょう?」

「なるほどね。…本当にやれやれだ…。厄介な女子に目をつけられたな…」

わざとらしくため息をついたウツノミヤ君に、私は表情を再び引き締めて告げる。

「最後に一つだけ…。もしもあの二人やオシタリ君を裏切るような真似をしたら…」

私は言葉を切り、ウツノミヤ君の目を見つめた。

「絶対に赦さない」

ウツノミヤ君は唇の片側を吊り上げ、シニカルな笑みを浮かべる。

「赦さなければ、どうするんだい?」

「赦さない」

私が一言だけを繰り返すと、ウツノミヤ君は軽く顔を顰めた。

「判ったよ。…つくづく、コワい女子に睨まれたもんだ…」

「その代わり、貴方が皆を裏切らない限りは、私は貴方の味方でいてあげる」

腰に手を当てて胸を張りながらそう言った私に、ウツノミヤ君は一瞬キョトンとした後、小さく吹き出した。

「味方、ねぇ…」

「利用価値は、それなりにあると自負しておくわ」

「…まぁいいさ…。どんな利用価値かは知らないが…」

「少なくとも、本音混じりで話せるでしょう。本性を知ってる私になら、ね?」

「本性と来たか…。コワイコワい…」

「確かに私はコワい女でしょうけど、こう見えても味方には優しいのよ?色々と相談に乗ってあげる」

「良く言うよ…。ならその内に、オシタリの馬鹿さ加減についてのグチでも聞いて貰おうか」

ウツノミヤ君は腕時計を覗きこみ、「話は終わりか?」と尋ねてきた。

「ええ、時間を取らせてごめんなさい」

「それじゃあ、部活があるからこれで…」

踵を返したウツノミヤ君の背に、私は最後の質問を投げかけた。

「他人に気を許すのは、嫌なの?馴れ合いが苦手?」

「キミの想像に任せるよ」

こっちを見もせずにサラリと流したウツノミヤ君は、そのまま振り返る事無く校舎に戻って行った。

その背中が見えなくなるまで見送った後、私は「ふぅ…」とため息を漏らす。

見れば、手の平には少し汗をかいていた…。自分で思っていた以上に緊張していたのね、私…。

サルスベリに背を預けたまま、私は枝越しに空を仰ぐ。

気持ちが見え辛い…。どういう子なのかしら?ウツノミヤ君って…。

しばらくぼうっと空を見上げながら考えた、イヌイ君は気付かず、オシタリ君も言っていなかったけれど、ユリカだけはこ

う言っていた。

ウツノミヤ君は、寂しそうで、かわいそうだと…。

かなり深くまで切り込んでみたにもかかわらず、私にはまだ判らなかった。

ただの、ユリカの勘違いなの?それとも…。

…調べてみた方が良いかもしれない。彼の家庭環境や、これまでどう過ごしてきたのかを…。