第六話 「誰が為にエールは響く」

ゆるい風に煽られて穏やかな波が立つ、競技場となっている大きな沼の上を、並んだブイに挟まれたコースが斜めに走る。

そこを突き抜けてゆくのは、水を掻いて進む六艘のスリムな舟。

それぞれのボートに二人ずつ乗り込んだ選手達は、呼吸を合わせてオールを引き、水を切って進んでゆく。

『フレーッ!フレーッ!ワッカッモットッ!』

応援団のエールに合わせ、力漕する選手に声援を送る生徒達。

さすがは大きな期待を受けているボート部ね…。強制でないにも関わらず、休日の今日もたくさんの生徒達が応援に来てい

るわ。

まぁ、応援に来ている生徒の大半は女子。おそらくミナカミ先輩目当てなんでしょうけれど…。

ズームを調節した私は、ファインダーから覗く景色の中央に接戦を繰り広げる二艘を、左端にそれを追う三艘目を半分切れ

る形で捉える。

…うん。これなら写真で見ても、どれだけ離れているかはっきり判るわね…。

水面から出たオールが、羽ばたく鳥の翼のように跳ね上がる、選手が最も体をたわめたその瞬間に合わせてシャッターが切

れた。

…まずまずの絵かしら?

それはそうと、応援団の方もパシャリ。

前に立つ団長直々の演舞に唱和する団員達の中で、あの彼も声を張り上げていた。

普段とは違って前をしっかり襟元までしめた黒い学ランに、鉢巻に手袋たすき、応援団の白い三点セットを身につけたシェ

パードは、普段にも増して仏頂面だった。

ふふっ…!そんな顔しないの、オシタリ君!結構似合ってるわよ?

おっと、忙しくなる前に自己紹介ね…。

私は新庄美里。星陵ヶ丘高校一年の女子生徒。誰かさんとは違って伊達じゃない眼鏡がトレードマークの新聞部員よ。

…そういえば…、伊達眼鏡の狐をさっき見かけたけれど、なんで柔道部じゃなくボート部の応援に?…まぁ良いけれど…。



五月末となった今日は、今年の総体の地区予選が多くの会場で行われている。

本来首都で行われるはずだった総体は、昨年末の大規模テロ事件の影響もあって、予定通りの開催が不可能になった。

来年開催地となる予定だった北街道が一年早く決勝の舞台になる事に決まり、首都と順番を交代したけれど、それも三月に

入ってから急遽決定した事。

準備や体制の整備に時間がかかり、地区予選も例年より半月遅れで開催されている。

まぁ、関係者の多忙さや被災者の心情はともかく、中止まで考えられていた総体が決行される事になった上に、決戦までの

猶予ができた事で、被災と無関係な選手達は混乱するどころか喜んでいるけれど…。

そんな中でガッカリしていたのはアブクマ君ぐらいね。

「もし全国行けても、首都じゃねぇのか…」

なんて言っていたけれど、どうやら開催地が変わった事が残念らしい。

首都に行きたかったのかしら?中学の修学旅行でも行ったのに…。私なら断然北街道の方が良いけれど…。

それはそうと、ボート部の試合の方は順調。

予選競技は午前中でほぼ終了して、午後からは敗者復活戦と準決、決勝のレースになる。

敗復まで含めれば、ウチの学校の選手もかなり残っている。

何といっても圧倒的なのは二年生のエース、ミナカミ先輩だ。

灰色のイケメン狼は、一見すらっと細身に見える。

なのに、どこにこんな腕力が?と思えるほどの馬力で舟を飛ばし、周りを全く寄せ付けない一方的なレース展開で勝ち進ん

でいる。

スタートや中盤は何枚か良い絵が撮れたけれど、ゴール付近はイマイチ。

…というのも、後続を大きく引き離しているから、かなり引いたアングルで撮らないと、ただ一人で漕いでいるように見え

ちゃうのよね…。

おまけに、そうやって後続も一緒に写して差が判り易いようにすると、遠目過ぎて先輩が小さ過ぎる訳で…。

「おぉ〜うっ…!カッコイイじゃないこれぇ〜…!」

競技もお昼の休憩に入り、沼を囲むベンチに座って食事をとる私の横で、むっちりしたパンダっ娘がデジカメの記録画像を

覗きながら声を漏らした。

ユリカが所属する空手部は、今日は稽古が休みだったらしい。

今朝、私と一緒にここへやって来たユリカは、私が他の部員達と一緒に取材を始めると、学校の他の女子達と合流して、一

緒に試合の観戦をして午前中を過ごしていた。

ウチのクラスの女子もパッと見積もって半数以上来ている。…本当に多いわねぇ、ミナカミ先輩のファン…。

私達が座っているベンチは、沼を見下ろす丘の上にいくつもある内の一つ。それぞれのベンチは芝生の中を通る石畳の歩道

で結ばれている。

この辺りは一帯が森林公園になっていて、沼の周囲は遊歩道になっている。ベンチ以外にも東屋なんかもあって、普段は静

かな公園らしい。

中央にたゆたう沼も、水はさほど濁っていないし、蓮の葉が浮いているのも奥まった場所の一角だけ。

ボート用の船着場がある辺りなんかは、きちんとコンクリで整備されていて、まるで海に面した護岸のよう。

平時は競技用の物じゃなく、普通のボートが貸し出されているらしい。

…まぁ、この辺りの情報は仕入れたばかりで、私も実際に確かめた訳じゃないんだけれど…。

「ボートとかさぁ、楽しそーじゃない?それに、白鳥の形したヤツもあるみたいだよ?静かな湖の上を二人っきりでこぉ…、

うぇへへへへっ!」

太い両腕を前に出しては胸元に引き付け、ボートを漕ぐ真似をしながらおかしな声で笑うユリカ。

「湖じゃなくて沼だけどね。白鳥に乗ってみたいの?」

「経験無いし、機会があったら乗ってみたいかも。あ、今度一緒に来る?」

私はユリカと二人で白鳥に乗り、並んで漕いでいる自分の姿を想像した。

傾。

「二人でキコキコ漕いでさぁ」

斜。

「楽しいと思うけどぉ?」

沈。

「…まぁ、機会があったらね?わざわざ乗りに来る必要も無いけれど、もしもあったらで…」

顔をそむけながら応じた私は、午後の予定表を観ながら、バスケットからレタスと生ハムのサンドイッチを取り、齧る。

なお、このサンドイッチセットはユリカお手製。

タマゴにツナ、ハムにピーナツとより取り見取りの品揃え。…と二人分にしては若干どうかしている量。

…まぁ、食いしん坊のユリカが残さず食べるでしょうけど…。またズボンきついって言っても知らないから…。

準決勝と敗者復活戦の組み合わせ表に、それぞれ名前を書き入れていた私は、隣のユリカが「もがっ?」と声を漏らしたの

で顔を上げた。

パンダっ娘が見ている右手方向に顔を向ければ、石畳の歩道を向こうから歩いて来る学ラン姿の精悍なシェパードと、水色

と白の横縞長袖ティーシャツに白い綿パン姿の、こざっぱりした狐の姿。

「ウッチー!オッシー!」

ユリカが立ち上がって手を振ると、二人は揃って顔を顰めた。

「ウッチーで定着したのか…?」

「その未確認生物みてぇな呼び方やめろ…」

前まで歩いて来た二人に、私は「お疲れ様」と声をかけ、オシタリ君には応援団の方はどんな調子か尋ねてみた。

「何も…。練習通りだ」

仏頂面で応じたシェパードは、日差しが強い上に沼の傍で結構蒸し暑いにも関わらず、辛そうな様子は見せない。

負けん気が強いそうだし、音を上げるような所は見せたくないだけかもしれないけれど。

「はい、お疲れさん!」

ユリカは中型のクーラーボックスから麦茶とスポーツドリンクのボトルを取り出し、それぞれウツノミヤ君とオシタリ君に

手渡した。

礼を言って受け取った二人は、キャップを外して思い思いに休憩した。

「お昼は済んだの?」

私の問いに、オシタリ君が頷いた。

「団で弁当手配してんだ」

「ぼくは午後からブーちゃん達の様子を見に行くから、途中で食べる。幸いというか何というか、個人戦のみだからな。試合

は午後からの分だけだ」

横からそう答えたのは伊達眼鏡の狐。…ちょっと羨ましい…。

本当は柔道部の方へ応援、かつ取材に行きたかったんだけれど、アブクマ君が一気に有名になっちゃったせいで、先輩に取

材とられちゃったのよね…。

おまけに、ある事情でボート部取材班の方に加えられて駆り出されちゃったから、プライベートでも応援に行けなくなって

しまって…。

ユリカは難しい顔をして口を尖らせ、「む〜…」と唸っている。

何かと気があうようだし、アブクマ君の応援にも行きたいのねきっと。

しばし歓談した後、ウツノミヤ君は「そろそろ行くよ」と断りを入れて、ベンチを離れた。

「そこまで送って行くわ」

立ち上がった私は、「すぐ戻るから」とユリカとオシタリ君に告げて、狐と一緒に歩き出す。

ベンチから十分離れた後、私は前を向いたまま口を開いた。

「…今日こっちの応援に来たのは、オシタリ君の観察の為?」

「それもあるがメインじゃあない。アイツをからかうネタを確保するために半日費やすほど、ボクは暇じゃないよ」

小さく笑った私に、ウツノミヤ君はさらりと続けた。

「副寮監とミナカミ先輩の心証を良くする為さ」

「なるほどね。…それと、頼まれていたトラ先生の事だけれど、少しは調べがついたわ」

狐はちらりと私に視線を向けて、「聞こうか」と短く応じる。

「星陵の前は他県の学校に居たそうね。深葉(しんよう)っていう共学。その前は花吹(はなぶき)っていう男子校。どっち

も私立で、中の上クラスの進学校よ」

「星陵と似た感じかな?」

「まさにそうね。先生がわざわざ県を変えてまで星陵に来たのは、ウナバラ校長の抜擢があっての事らしいわ」

「へぇ…。どんな関係なのかは…」

「勿論調査済みよ。ウナバラ校長は、トラ先生の高校時代の担任だったそうよ。そのウナバラ校長も元はあっちの県の教員だっ

たんだけれど、前理事長…、つまり、ホシノ理事長の亡くなった旦那さんの抜擢で移って来たらしいわ。こちらの関係も高校

時代の先生と教え子」

「なるほど。教え子の縁で人材を抜擢している訳か…」

「そういう事ね。ついでに聞きこんでみたら、前から付き合いがあるっていう先生方が結構居たわ。…それともう一つ、トラ

先生は間違いなく独身よ。これは先生本人も言っていたんだっけ?」

「うん。今独身なのは確かだが、結婚経験自体無いのかい?」

「みたいね。…まぁ、生徒や職場に隠れて結婚と離婚をしていたら判らないけれど、その線はまずないでしょうね。…何で奥

さんが居るかどうかまで気になるの?」

「「将を射るにはまず馬を射よ」。奥さんが居て、どんな人か判れば、趣味や興味を示すものの見当が付けやすくなるのさ。

人となりを見るには、まず付き合っている人物を見るべきだ」

「なるほど、私も参考にさせて貰いましょう。それともう一点、食べ物の細かな好みだったわよね?リストにしたから後で渡

すわ。…どうでも良いけれど、この位の事は他の先生に訊いただけで調べがつくわよ?どうしてわざわざ私に?」

「ぼく自身が調べていないという事が重要なんだ。好みを調べている事を知った上で何かされた場合と、それを知らずに何か

された場合、インパクトが大きいのは?」

「納得。呆れる程に計算高いわねぇ…」

「自分が何かしてやった場合、その相手はどう捉えるか?そこまできちんと想像しておかなければ、効果的なゴマすりはでき

ないよ。…それはそうと助かった。ありがとう」

礼を言ったウツノミヤ君に、私はポケットから取り出した予備のデジカメを突き出す。

「これは?」

「ギブアンドテイクよ。柔道部の試合、撮って来て」

「…写真を撮る技術は無いぞボクには?」

「適当で良いわよ。新聞部の記事用じゃなく、私の個人的な用途で使う物だから」

しぶしぶ薄くて小振りなカメラを受け取ったウツノミヤ君は、

「だが、場合によってはボクはコソコソ観るだけで、あっちには声もかけないぞ?」

と、いささか妙な事を言い出した。

どうしてかしら?彼が口にしている通り、心証を良くする為に応援に行くなら、顔を見せなきゃ意味が無いような…?

私の疑問を察したのか、ウツノミヤ君は眼鏡の真ん中を押さえて軽く位置を直しながら理由を話してくれた。

「例えばだ。無様に負けるような所は、あまり見られたく無いんじゃないか?」

「…それはアブクマ君が?それともイワクニ先輩が?」

「ブーちゃんは問題ないさ。ある程度は勝つだろうし、負けた所を見られたとして気にしない性格だし、ボクらはそういう事

にはさして気を遣わない間柄だ。けど、寮監はどうだろう?」

「どうって…」

問われた私は少し考える。

聞くところによると、確かにイワクニ先輩はあまり強くないらしい。公式戦で勝った事は一度もないそうだ。

随分強くなったと同級生の二人は言っていたけれど、アブクマ君については身内贔屓の評価という事も考えられるし、イヌ

イ君に至っては柔道については素人だ。…考えてみたら二人の評価はあまりあてにできないわね…。

つまり、イワクニ先輩については一戦目で負ける可能性が高い。高いだけじゃなく圧倒的にやられる可能性すらある。…辛

辣な意見になるけれど…。

「わざわざ応援に来てくれた後輩の前で無様に負けたとあったら、あの寮監は落ち込むし、申し訳なく思うだろう。だから、

ある程度勝てなかった場合は顔を見せないつもりだ。見なかった事にすれば、お互い余計な気遣いをしなくて済むからな。覚

えておくと良い、これも一種の処世術だよ」

「ご高説ありがとう。…けど…」

言葉を切った私を横目で見て、ウツノミヤ君は「けど、何だ?」と訊ねて来たが、私は口元を微かに綻ばせながら、「何で

もないわ」とだけ応じた。

確かにそれは処世術でもあるかもしれないけれど、立派な気遣いでもあると思うわよ?ウツノミヤ君…。



ウツノミヤ君と公園出口で別れた後、一人引き返した私は、途中で見覚えのある人物の姿を見かけた。

私から見て右手側から歩道を歩いて来るのは、見上げる程大きな男子。

アブクマ君と比べても遜色ない小山のような体躯で、お腹が大きく突き出ているのが学ラン越しにもはっきり判るデプッと

肥えた体付き。

顔が大きく眉が太い、灰色の毛に覆われた何とも厳めしい顔立ちの中に、体の割には小さな目がチョンと付いているのが印

象的。

仏頂面…というよりも、表情が判りづらいせいでムスッとして見えるのかも…。

以前とある件で顔を合わせた事がある、川向こうの学校の生徒で、応援団所属の灰色熊だ。

えぇと…、確かシベリアンハスキーの先輩にはガクって呼ばれていたかしら?

さすがに暑いらしく、休憩時間らしい今は鉢巻きやたすきは外しており、外して突っ込まれた白い手袋がポケットから覗い

ていた。

自販機に行って来た帰りなのか、コーラの缶を手にした彼は、私に気付いて少しだけ目を大きくし、軽く会釈して来た。

会釈を返した私の歩く歩道と、彼が歩いて来た歩道は合流していて、まぁ目指す場所も同じ沼岸方向だから当然なんだけれ

ど、丁度良いタイミングで横に並んでしまう。

「この間は…どうもっした…」

呟くように、低い声でごもごもと言った彼を、私は顔を傾けて見上げる。

「あのワンちゃん、大した事無かったんでしたっけ?今日はブラバン入ってないのね?」

顎を引いて頷いたグリズリー君は、

「吹奏楽部は、いつも来てる訳じゃないすから…」

って応じたけど、…声の調子がなんだかちょっと残念がっているよう…?

「そうそう、オシタリ君…あぁ、前に一緒に居たあのシェパードの子だけど、あの後応援団に入ったの。興味が出たらしくて」

グリズリー君は少し意外そうに眉を上げた後、「そうなんすか…」と、微かに口元を綻ばせた。

「今日も応援に参加しているから、良かったら探して見て」

「おす」

…ところで、さっきからちょっと気になってる事があるんだけど…。

「ねぇ?なんで微妙に敬語なの?」

「や、ガッコ違っても先輩っすから…」

「え?」

キョトンとした私の顔を、グリズリー君は「ん?」と眉根を寄せて見下ろす。

「…私、一年生なんだけど…?」

「へ?」

今度はグリズリー君がキョトンとした表情を浮かべ、次いでガリガリと頭を掻いて苦笑いした。

「そ、そうなのか…。堂々としてたから、俺てっきり…」

「まぁ、多少の事には動じ難いかもしれないけれど…。私が堂々としてた?いつ?」

「この間、こっちの問題児連れてった時も、怯えもしないで一人一人の顔をじっと見てたろ?だから…」

「あれは別に堂々としていた訳じゃ…、単に顔を覚えてただけなんだけど?」

「それ、堂々としてるって言わないか?」

「…そうなのかしら?」

首を傾げた私に、グリズリー君は可笑しそうに顔を綻ばせ、「そうだよ」と頷いた。

「良かった。てっきり老け顔に見えたとかそういう事かと思っちゃった」

「まさか!老け顔って言うなら、俺の方がよっぽどだ」

片方の眉を上げて口元を微かに吊り上げたグリズリー君は、

「じゃあ、俺あっちだから」

と、道の分岐を指さす。

「うん。またね。…あ…」

私はまだ名乗っていなかった事に気付いて、腕章を指さしながら口を開いた。

「私シンジョウ。新庄美里。新聞部なの」

「それじゃあまた顔をあわせるかな?俺、灰島岳(かいじまがく)。よろしくシンジョウさん」

軽く手を上げたカイジマ君は、そのまま陽明の応援団が集合しているらしい方向へと歩いて行った。



「ただいま」

私がベンチに戻ると、オシタリ君はユリカと並んでサンドイッチを食べていた。

なんでも、食事は済ませたと言ったのにユリカに強く勧められたらしい。

「まだ午後半分あるんだから、声出し過ぎてバテないようにちゃんと食べときなよぉ」

と、そういう風に言われて。

「さっきそこでグリズリー君と会ったわ」

私がそう切り出すと、オシタリ君は少し目を大きくした。

どうやらちゃんと思い出したらしく、「ああ、アイツか…」と、小さく頷きながら呟く。

「誰君?」

首を傾げているユリカに、陽明の応援団員でちょっとした顔見知りの熊獣人なのだと告げると、即座に「ハンサム?」と訊

ねて来る。

「ハンサムっていうか…、まぁ、厳めしい顔をしているわね…」

「あと、えらくでかくてデブってるな」

私とオシタリ君の説明を訊いたユリカは、「じゃあサツキみたいな感じかなぁ?」と呟く。

「でかさはまぁ、五分五分だな」

「でもちょっと印象が違うわね」

「まだあっちのが可愛げがあるツラしてる」

「アブクマ君ほど表情豊かじゃないかも」

「あとまぁ、あのデブより水太り系の肥え方してんな」

ユリカは少し首を傾げた後、すっと手を上げて沼の方を指さした。

「ひょっとして、アレ?」

私とオシタリ君がパンダっ娘が示した方向を見遣ると、船着き場の辺りを歩く灰色熊と、通常の制服とは少しデザインが違

う、星陵と共通で中堅以上の応援団員にのみ着用が許される専用学ランを着込んだハスキー先輩の姿。

『そう、アレ』

私とオシタリ君が同時に頷くと、ユリカは「ふ〜ん…」と声を漏らす。そして、カイジマ君に対する感想は無しに、

「一緒に居るハスキーさんさぁ、ちょっとカッコ良くない?」

などとのたまった。

…ユリカは本当に面食いね…。



午後の競技が始まる時間が近付き、オシタリ君は応援団員として集合し、私は他の部員と軽いミーティングを済ませた後、

取材を再開した。

ユリカは他のクラスメート達と合流して、午後も目一杯応援するらしい。

程なくスタートした一つめのレースとなる敗者復活戦の一組目には星陵のシングルが一人入っていたんだけれど…、残念な

がら敗れる結果に終わった。

敗れたのは二年生の先輩。すごく悔しそうだったけれど、もう一年チャンスがある。来年まで頑張ってくださいね、先輩…。

レースが二つ終わった後の事だった。

たまたま応援団の近くに来て、帰って来る選手を写そうとしていた私が、大柄な牛獣人が副団長に何か告げて列を離れてゆ

くのに気付いたのは。

何だろうと疑問に思って、その行方を目で追う。

懐から何か…懐中時計かしら?取り出した丸い物をしばらく見下ろした後、ウシオ団長は沼に背を向ける。

そして、すぅっと大きく息を吸い込み、拳を握った両腕を胸の前で交差させた。

…エールの姿勢?でも、何でわざわざ沼に背を向けて…?

「奮ぇえええええええええええええええええええええっ!」

ビリビリと、肌を刺激する程の大声が、ウシオ団長の口から迸った。

大きく長い発声の間に、交差された腕の前側…右腕が真上へあがってから弧を描き、肩の高さで右方向へ真っ直ぐに伸ばさ

れる。

「奮ぇえええええええええええええええええええええっ!」

一拍置いて発された二声目にあわせ、左腕が同じ動作で左側へ伸ばされる。

胸を反らして堂々と張り、左右に腕を伸ばして体を十字にしたウシオ団長は、

「サァアアアッ!トォオオオッ!ルゥウウウッ!」

一拍置いて声を張り上げつつ、左右の腕で交互に大きく円を描いて脇腹につけ、揃えて前に突き出した。

私は理解した。このエールは、この会場に試合に来ている選手に向けられた物じゃない。

遠く離れた会場で、同じように戦っているはずの「あるひと」に向けられた声援…。

団長が向いているその方向、その遥か彼方には、柔道部が試合に挑んでいる会場がある。

「奮え!奮え!サットッルッ!奮え!奮え!サットッルッ!」

団長個人の応援だからなの?他の応援団員達は一切唱和せず、太鼓も鳴らない。

それでもそれは、たった一人のエールにも関わらず、会場を飲み込むほどの大声援でもあった。

本当に綺麗で力強い、見事な見事な最高のエール…。

ウシオ団長のエールは、他の応援団員の唱和が無いのに、普段以上に圧倒的な迫力があった。

完全に呑まれた会場で、団長以外に声を発する者は誰一人として居ない。

たった一人のエールは途中から無声で、静かな物になったけれど、素早く振られる腕が、踏み締める足が、20メートルは

離れている私の耳に、その風切り音と足音をはっきりと伝える。

空手の正拳突きにも似た仕草で、拳を握り締めた右腕を「せい!」という掛け声と共にビシッと突き出し、団長はたった一

人でのエールを終えた。

ウシオ団長はエールを贈ったその方向を見たまま、二度目のエールに入る。

「奮え!奮え!アッブックッマッ!奮え!奮え!アッブックッマッ!」

私の同郷の選手にもエールを贈ってくれた団長は、再び拳を突き出してエールを終えると、水を打ったように静かになって

いるギャラリーや選手達に向き直り、ペコッと一礼した。

口元が微かに動き、「失礼しました」という声が会場を低く通る。

ウシオ団長がその場から引き返し始めると、今度は陽明の応援団の中から、焦げ茶色の熊獣人が進み出た。

ウシオ団長と同じようなガッシリした体型の大柄な羆は、陽明の応援団長だ。

先に話でもしていたのか、頷きあってすれ違った後、あちらの団長もウシオ団長がエールを贈った方向を向き、両腕を脇腹

に付ける陽明スタイルのエールの体勢に入った。

「奮ぇえええええええええええええええええええええっ!」

お腹に響く重低音のエールを聞きながら思う。

あっちの団長さんもまたウシオ団長と同じように、大切な誰かに向かって、個人的なエールを贈っているのだろうと…。



「優勝おめでとうございます。ミナカミ先輩」

「こりゃどうも。良い写真は撮れたかい?」

「ええ、バッチリ撮らせていただきました」

改めてお祝いを言った私に、灰色の狼は照れ臭そうに歯を見せて笑った。

本来なら先輩達で固められるはずの、人気のあるボート部の取材班に私が加えられた理由は、実はこの先輩にある。

新聞部では、人気のある部や重要な試合の取材には主に上級生が当たり、私達下級生はあまり記事が書けない。

それで、最近注目を集め始めた柔道部の取材も、今回は先輩に持って行かれちゃったわけ。

…まぁ、当然と言えば当然の体制なんだけれどね…。

そんな訳で、柔道部の取材と応援に行けなくなった事を、少し前にイワクニ先輩に零したんだけれど、どうやらミナカミ先

輩にもその話をしたらしい。

「いつも取材拒否しているんだから、知り合いの顔を立てると思って、「シンジョウさんでなければ取材には応じない」ぐら

い言ってやったらどうだ?」

そう言ったイワクニ先輩が本気だったのか冗談だったのかは判らないけれど、ミナカミ先輩はウチの先輩達に本当にそう言っ

てきたのよ…!

水しぶきで濡れたゼッケン付きのシャツに短パンという、動きやすそうな格好の狼と向き合う私は、先輩や他の女子のチリ

チリした視線を感じている。

…ここじゃ何となく取材し辛いわね…。

「良ければ、後で場所を変えて取材させて貰えませんか?先輩のおかげで取材班に加えて貰えましたし、お礼も兼ねて夕食を

ご馳走します」

「良いのかい?なんか悪いなぁ」

場所を変えてじっくり取材したかった私の提案を、ミナカミ先輩は少し驚いた様子で、しかし遠慮する事無く受けてくれた。

夕食をご馳走すると言ったものの…、女子寮に来て貰う訳にはもちろん行かないわ。

女子寮への男子生徒の訪問手続きが面倒とかいう以前の問題で、ミナカミ先輩が来たらまず間違いなく大パニックになる。

かといって、お弁当なんかを持参してあちらを訪ねるのもちょっと…。

素早く頭を巡らせた私は、第二男子寮の近くにある食事処、ハンニバルを利用する事にした。

どの料理もボリューム満点のあそこは男子生徒が主な客で、女子はあまり行かないしね。

…ユリカと、それに付き合わされる私を除いて…。

先輩に約束を取り付けた私は、新聞部の点呼兼意見交換を終えた後、ユリカと一緒に帰路についた。

柔道部の試合結果が気になるけれど…、イヌイ君からのメール速報はまだ来ないし、ウツノミヤ君からも連絡は無い。

まだ試合が続いているのかしら?忙しいなら、こっちから訊くのもちょっと悪いし…。

「ねぇミサトぉ」

バス停で待ちながら考え込んでいると、ユリカがおもむろに口を開いた。

「今日のミナカミ先輩の写真さ、アップのヤツ携帯に送ってよ?」

「良いけれど、どうして?」

訊ねた私に、パンダっ娘はニヘラ〜っと笑って見せた。

「モチ、待ち受けにするからに決まってんじゃん!」

「ああ、なるほど…」

頷いた私はまた少し考えた。

今夜の食事兼取材、ユリカの予定が空いていて、先輩も構わないなら連れて行こうかしら?喜ぶだろうし。