第七話「早過ぎた終わりに」(前編)
物凄い勢いでラーメンを食べ…、いや、飲み込んでいくルームメイトを、私はきっと今、別の生き物でも見るような目で眺
めているんでしょうね…。
172センチの123キロ。食欲旺盛で縦横高さの全方位に発育良好なユリカは、身体測定から二ヶ月足らずでまた2セン
チ背が伸びている。
もっとも、ユリカ自身は身長の伸びをあまり歓迎していない。
本人曰く、憧れの背伸びキスがどんどん難しくなって行くからとの事。
体が大きくて服装はボーイッシュ、やけに子供っぽくて異様に甘えん坊なユリカは、時折乙女チックな事を言う。
恋人と一緒にボートに乗り、背伸びキスしたり、お姫様抱っこして貰ったり、エトセトラエトセトラ…。
…お姫様抱っこは難易度高いと思うわ…。
ここはお食事処、ハンニバル。
最奥の席に陣取ったパンダっ娘は、四杯目の味噌チャーシュー麺を豪快にズゾゾゾ〜っと啜り込んでいる…。
見ているだけで脂汗をかいている私の前で、ユリカは一度手を止め、ふぅふぅと苦しげに息をついた後、再びラーメンと格
闘を始めた。
私は新庄美里。星陵高校一年生、新聞部に所属する人間女子。
現在、ルームメイトであるユリカのやけ食いに付き合って外食中。
…普段はのほほんとしているけれど、今日の事は相当悔しかったのね…。
早過ぎた終わりは、ユリカといえども堪えたらしい…。
日曜日の今日、ユリカが所属する空手部は、総体地区予選に挑んだ。
けれど、獣人の部個人戦にエントリーされていたユリカは、その一回戦で負けてしまった。
…初戦で主将とぶつかるという、凄まじいまでのくじ運の悪さを披露して…。
アブクマ君やイヌイ君、ウツノミヤ君など、親しい男子の内、都合がついた数名が会場まで応援に来てくれていた手前、か
なり気まずい思いをしたらしい。
「穴があったら入りたいよぉ…」
と、試合後に語ったユリカは、普段の様子からはまず想像も出来ない程しょげ返っていた。
結局は優勝で県大会進出を決めた主将相手にかなり善戦した事や、一年生で出場枠に入れて貰えた事などを引き合いに出し
て皆で労ったけれど、
「褒められたもんじゃないよぉ、やっぱ負けは負けだしねぇ…」
そう皆に応じていたユリカは、明らかに無理をして作り笑いを浮かべていた。
…から元気だった事は、皆判っていたと思う…。
ラーメン丼がドンとテーブルに置かれ、私は回想を打ち切った。
ユリカはそうと判るほど膨れたお腹をさすりながら、「んげぷぅっ…!」と、女子高生にあるまじき豪快なゲップをする。
背もたれに寄り掛かりながら、空になったラーメン丼をぼーっとした目で見下ろしているユリカ。
食べて元通りの元気が出るっていう程、単純な物でもないか…。
しばらく身じろぎ一つせずに、視線を下に向けていたユリカは、
「…帰ろっか…」
と、ポツリと呟いた。
「ええ、帰ってのんびりして疲れを取りましょ」
気の利いた言葉一つも言えずユリカに頷いた私は、内心では自分に呆れていた。
私は、誰かを慰めたりする事に慣れていない。
客観的な立ち位置から記事を書くのは得意なのに、心情をおもんばかった言葉をかけるのは苦手だなんて…。
慰めたい気持ちはあるのに、上手く伝える事ができない…。こういうの、歯痒いわね…。
…記者としても、ひととしても、私はまだまだだわ…。
さて、ここらで新聞部内での私の近況を少し報告しておきましょうか。
新聞部員としての初仕事、定期戦で柔道部と空手部の記事を引き受けさせて貰えたものの、それっきり柔道部の取材は私の
手を離れてしまった。
というのも、アブクマ君が大活躍したせいで柔道部の注目度が急上昇したから、別の先輩の受け持ちになってしまった訳…。
ただでさえ目立つ校内一の巨漢であるアブクマ君は、引ったくりを捕まえて有名人になっている。
そこに来て陽明選手団を一人で五人抜きしたとなれば、柔道部に注目が集まるのも当然の流れと言えるけど…。
「嬉しいかどうか、ちょっと複雑だなぁ…。これまで見向きもされなかったのに、手の平を返したようにと感じてしまうよ」
…とは、柔道部のイワクニ主将の言葉だけれど、私も同感。
先の大会で私が担当じゃないって知ったアブクマ君なんか、
「ちょっと調子良過ぎんじゃねぇか?新聞部の先輩方もよぉ…」
と、不機嫌そうに鼻息を荒くしていた。
それでもまぁ、その先輩が担当すれば、ぺーぺーの私が書くより記事は大きく取られる。
ちょっと悔しいけれど、来年またどうしても新入部員を確保しなければならない柔道部にとっては、少しでも大きな記事で
知名度を上げておいた方が得。だから私は、
「何ならぼくから上級生へ一言申し入れようか?」
との、イワクニ主将の有り難い申し出を辞退して、大人しく引っ込む事にした。
反面、空手部の方は継続して担当させて貰えている。
これには原因がある。空手部と新聞部の上級生達の不和が原因だ。
去年、個人的に男子空手部員と不仲になった新聞部員が、私怨を絡めて読み手に誤解を与えるような記事を書いた事があっ
たらしくて、その「よろしくない記事」が載って以来、空手部は新聞部を嫌っている。
…無理もない。身内とはいえ、この点については庇う気は全く湧かないわ。
中立の視点から情報を伝えるべき新聞部員が、私怨を交えてペンの暴力をふるうなんて、あってはならない事だもの。
幸いなことに私は、期待のルーキーであるユリカとルームメイトである事が先輩達にも知られていて、男女両空手部から嫌
われていない。
…何やら人懐っこいユリカは、私の事を先輩方にもいろいろ喋ってるらしいのよね…。
そのおかげで、定期戦で取材を受けて貰えたという経緯もある。
実は、長らく不仲だった空手部が、定期戦の際に私の取材を受けてくれた事から、新聞部内では総体地区予選にあわせて担
当変更し、上級生をつけようという話も出た。
けれど、男女両方の空手部側がこれを断固拒否した。
男子空手部は例の件をまだ赦した訳ではないし、女子空手部は定期戦での私の記事が気に入ったと言ってくれた。
…実はこれ、私が「担当外れちゃうかも…」と寮の部屋でぼやいたのが原因らしい…。
義憤に駆られたのか、ユリカはこの件を空手部で言いふらして、先輩方が動いてくれたそうだ。
おそらくは、私が取材に来ないのは寂しいとかなんとか、ユリカが騒いだんだと思う。
そこに、以前から新聞部の三年生に悪感情を持っていた空手部が過剰に反応、今回の結果に繋がったんじゃないかしら…。
何にしても、取材枠を確保できた事は本当に有り難い…。ユリカを含め、空手部にはどれだけ感謝しても足りないわ。
メインじゃないけれど、取材に加えて貰えた部もある。大注目の部活…、ボート部だ。
これも元を探れば、原因は私のグチにある。
柔道部の取材を外れた事を報告に行った際に、おそらく新人戦まではメインで記事を書く機会はないだろうと零したら、イ
ワクニ主将が気の毒がってくれた。
そして、幼馴染みであるボート部のミナカミ先輩に、私の取材を希望するとか言ってみたらどうだろうかと、冗談半分期待
半分に声をかけてくれたらしい。
そしてミナカミ先輩はあろう事か、
「シンジョウって一年生の取材以外は受けませんよ」
と、大会への意気込みを聞きに行った担当の三年生部員にさらりと告げて…。
ただでさえ取材嫌いな狼の、たぶん半分以上本気の発言。
校内で最も女子に人気のある男子生徒にインタビューできないとなると、こっちにとっては相当な痛手だから、先輩方もこ
の条件は飲まざるを得なかった。
…考えてみれば、私は繋がっている皆の善意に支えられている。
チャンスをくれた皆の好意に報いる為にも、今のポジション、大事にしなきゃ…。
寮の部屋に着くと、ユリカは冷蔵庫に直行した。
そして、今度は買い置きしていたココアをガブガブと飲み始める。
さらには、スナック菓子まで持ち出して、テーブルに落ち着いてしまった。
「ちょ、ちょっとユリカ?いい加減に止めておかないと、お腹壊すわよ?」
普段から大食らいのユリカだけれど、いくらやけ食いとはいえ、今日の食事量はさすがに異常だ。
目に見えてお腹が張って、時々苦しそうな顔をしているのに、それでも食べるのを止めようとしない。
テーブルの横側に座った私をちらりと見たユリカは、「これだけ…」と言いながら菓子の袋に手を突っ込み、指を油塗れに
しながら口に押し込んで行くが、直後に「うっぷ…!」と、口元を押さえて呻いた。
さすがに見かねた私は、菓子の袋に手を伸ばしてユリカから遠ざけた。
「ユリカ!もう止めなさい。いくら何でも体に毒よ!」
たまらず注意すると、ユリカは、
「えへへぇ…、だよねぇ…」
と、力なく笑うと、後ろに体を投げ出して、ころんと仰向けに寝転がった。
ちょっと苦しそうな顔をして天井を見上げ、お腹をさすりながら、ユリカはそれっきり黙り込む。
…空気が重い…。
ユリカが居ると、いつもはそれだけで自然に場が和むのに…。
こんな状況になると、彼女が漂わせている雰囲気が、普段どれほど周りに影響を及ぼしているか実感できる…。
元気を出して貰えるような言葉も思いつかず、沈黙に耐えかねた私はテレビのスイッチを入れた。
逃げの為にテレビのスイッチを入れるなんて、初めてだわ…。
首だけ巡らせてテレビ画面を眺めているユリカは、今一体何を思っているのだろう?持ち前の快活さがすっかり抜け落ちて
しまったように、ぼーっとした表情だ…。
期待していたテレビも、救いにはならなかった。
「ちょっと早いけど、お風呂行かない?」
入浴すれば気分転換にもなるかと思って、私は我ながら名案だと思いながら提案してみた。
が、お風呂好きのユリカからは、意外にもあまり乗り気ではなさそうな「ん〜…」という返事が上がる。
「疲れてるでしょうし、早めに入浴済ませて、ゆっくりしましょ?」
私が再度そう誘うと、「そだねぇ…」と応じたユリカは、ごろんと寝返りをうって横になり、手をついておっくうそうに身
を起こす。
腰を浮かせて寝室へと向かう私の後を、のろのろと立ち上がったユリカが、いかにも体が重くて仕方ないといった風情で追っ
て来た。
…そう簡単に、元気は出ないか…。
私のほのかな期待に反して、そしてある意味案の定、ユリカは浴室に入っても無口だった。
機嫌が良いときは鼻歌交じりにニコニコしながら体を泡だらけにして洗っている彼女は、今は口を閉じて、元気のない半眼
で鏡を眺めながら、泡立てたスポンジでのろのろと被毛を擦っている。
まだ六時。普段なら夕食の時間帯という早さのせいで、浴室には私達の他に寮生の姿はない。
浴室内に立ち込めているのは、浴槽から立ち昇った湯気とシャワーの水音。声は無い。
私は体を流しながら、ちらりとユリカを見る。
眼鏡を外した私の視界は、湯気のせいだけでなく不明瞭だけれど、すぐ隣に座るパンダっ娘ぐらいは支障なく見えている。
黒い被毛に覆われた太い腕。羨ましいほど豊満な胸。ぽよんと突き出たお腹。
種族の特徴として体格は良く、女子にしては背が高くて骨太。
人間と違って全身が完全に被毛で覆われているから、胸もトップは被毛で隠れているし、前を隠さなくたってアソコは見え
ない。
お臍の下で段がついたお腹の下には、もう一つ低めの段がつき、さらにその下の段の下部がむっちりした股の間に消えて行
く、三段のぽっこりライン。
もっとも、その段差ももっさりした被毛で覆われているから、普段はそのラインがはっきり判らない。
水気を吸って毛が寝た今の状態にならないと、そこまで詳しくは確認できないんだけど。
…イヌイ君の報告にある、アブクマ君のアレが「埋まって見える」というのは、こういう感じに肉付きが良すぎてアレが埋
没してしまっているという事なのかしら?
白と黒の対比も鮮やかなツートンカラーのパンダっ娘は、私が視線を向けている事に気付きもせず、黙々と体を流している。
ついこの間は、生え代わりの季節が始まったと困り顔でぼやいていたけれど、生え代わり促進シャンプーが効果を発揮し始
めたのか、それとも時期的にもう落ち着いたのか、排水口に向かって白と黒の被毛が行列を作る事はない。
…この間、部屋のくずかごにソフトボール大の白黒の毛玉が入っていたけれど…、まさか強引に梳った訳じゃ無いわよね…?
ボディシャンプーの泡に覆われているたっぷりした豊満な胸を、下に手を入れる形で持ち上げるようにして洗っているユリ
カは、「はふぅ〜…」と、もう何度目か数える気にもなれないため息を吐き出す。
…こんなに元気がないユリカなんて初めて見るから…、私まで気が滅入るわ…。
私はちょっと考えた後、シャワーヘッドを壁に戻して、元気のないルームメイトに声を掛けた。
「ねぇユリカ」
「ん〜…?」
こちらへ顔も向けずに、鼻の奥で唸って返事をしたユリカに、私は提案する。
「背中流すわ」
「…ほへ?」
パンダっ娘はやっとこっちに顔を向けると、目と口を丸くする。
虚を突かれたらしいユリカの顔には、いつもの印象がちょっとだけ戻っていた。
「背中…流す…?」
ユリカはオウム返しに呟き、不思議そうに私の顔を見つめて来る。
…あれ?アブクマ君から「これ以上無く強力な効果があるスキンシップ」だって勧められていたんだけれど…。
何?ひょっとしてあんまりメジャーじゃないの?
運動部なら珍しくもないのかなぁって、聞いたその時は感じたけれど…、もしかして男子のみ?女の子はやらない?
そう言えば、浴室で背中を流しあっている寮生を見た覚えはない。
しまった。外したの私?もうちょっと詳しく聞いておくべきだったかしら…。
…考えてみれば、アブクマ君から聞いたのは、イヌイ君と背中を流しっこするという話だった。
果たしてそれが普通の友人関係でも行われる一般的な物なのか、後でイヌイ君辺りに聞いてみよう…。
失敗したのかも知れないと思いつつも、しかしここで「やっぱりやめた」なんて言うのもなんだか変だ。
「だめ?嫌ならいいの、無理にとは言わないから…。アブクマ君からね、友達と背中の流しっこするんだって聞いたことがあっ
たから、ちょっと思いついて…」
「へぇ、友達同士で背中洗い合うんだ?知らなかった…」
私が言い訳混じりに説明すると、ユリカはちょっと不思議そうにそう応じた。…やっぱり知らない?
ここで引っ込むのもなんだか少しかっこわるくて、私は「試しにやってみても良い?」とユリカに尋ねる。
ちょっと戸惑っていたけれど、結局ユリカは小さく頷いた。
…背中もムッチリしてる…。
こうして自分の手を重ねた状態で見ると、ユリカの背中は思っていた以上に広い。
「どんな具合かしら?」
なるべく丁寧に手を動かし、背中をスポンジで擦りつつ、私はユリカに尋ねる。
「気持ち良い…かも…。あんがと、ミサト…」
私が上手じゃないからか、それとも、やっぱりこんな事じゃ元気なんて湧かないのか、ユリカの声には相変わらず張りがな
い…。
「ユリカ…。型どおりの事しか言えないけれど、元気だして?悔しいのは判るけれど、次もあるんだから…」
言葉を選びながら話しかけつつ、しかし気の利いた事が全く言えていない自分に呆れる…。
「…悔しい…か…」
自分に舌打ちしたい気分になっていると、ユリカがポツリと呟いた。
何か話す気分になったかしら?手を止めて次の言葉を待っていると、ユリカの肩が小刻みに震え始めた。
「ユリカ…?」
訝しく思って声をかけたら、ユリカはガバッと体を丸めて、顔を伏せた。
「え、えふっ…!えふふっ…!」
笑っている…?いや違う、泣いている。
ユリカは丸めた体を震わせて、声を押し殺してしゃくり上げていた。
「ユリカ?あ、あぁ…!ご、ごめんね!?ごめんねユリカ!?何かまずい事言っちゃった?」
何か傷つけるような事言ったのかも?…いや、試合の事を思い出させちゃったから?
私はおろおろしながら、他に何も思い浮かばなくて、ユリカの背中をさすってあげる。
…って、これじゃ車酔いの介抱じゃない…。
心の中で自分に突っ込んでいると、ユリカはしゃっくりの合間に声を絞り出した。
「ち、ちが…ふっ…!ミサトのせ…、じゃな…!」
しばらく背中をさすってあげていたら、意外にも効果があったのか、それとも単に甘えん坊だから撫でられて落ち着いてき
たのか、ユリカの嗚咽は収まってきた。
「やっぱねぇ、…へぐっ!悔しい、よぉ…!不甲斐なくって…!情けなくって…!」
ようやく言葉が明瞭になってきたユリカに、相変わらず背中を撫でてあげながら話しかける。
「けど、ユリカは頑張ったじゃない?今回は運が悪かっただけで…。主将さんと当たらなかったら、もっと良いところまで行
けたと思うわ。来年はきっと…」
「違う…、違うんよぉ…ミサト…。主将と当たるのは、今年しかなかったんだもん…!」
ユリカは椅子に座ったままずりずりと向きを変えて、私に向き直った。
目が充血して赤くなって、目の下と瞼が腫れぼったくなってる。
「一年と、二年生さぁ…、皆中盤までも残れないで…、あっさり負けちゃってさぁ…。ひっく!あんなんじゃ…、あんなんじゃ
三年の先輩方、きっと怒っちゃってる…、がっかりしちゃってるよぉ…」
「怒るだなんて…。結果はどうあれ頑張ったんだもの…」
根拠のない慰めを口にしながら、それでも何とか泣きやんで貰おうと、私はユリカのポッテリとした両手を取った。
ユリカは自分の手をそっと取った私の手を見つめ、「ひっく!」と、大きなしゃっくりをする。
それからズビッとはなを啜って、泣いて腫れた目を私の顔に向けた。
「…あたしね…、小学校の頃…、近所に仲の良い、二つ上のお姉ちゃんが居たんだ…」
ユリカがぽつりとそう言い、私は唐突な話題の変化に戸惑う。
「一緒に空手の教室通っててさ…、ホントのお姉ちゃんみたいに良くしてくれて…、可愛がってくれて…。でもって、ライバ
ルだった…。二つ下だったけど、あたしの方が体大きくてリーチもあったし、勝敗は五分五分で…」
一度言葉を切ったユリカは、顔を俯けた。
「けど…、あたしが五年生に上がる時…、小学を卒業するのにあわせて、お姉ちゃんは親の都合で引っ越しちゃって…」
肩を震わせたユリカは、小さくしゃくりあげた。
「最後に、空手教室でね?試合した時…、勝って気持ち良く引っ越してって欲しかったから、あたし…、あたし…、手を抜い
て…!」
ユリカは言葉を詰まらせて、また体を丸めて顔を伏せ、泣き出してしまった。
…何となく、判った…。
その最後の試合で、ユリカは手加減して、わざと負けた…。そしてきっと、そのお姉ちゃんは…。
「すごくっ…!怒ってた…!あんな…、ひくっ!怒ったお姉ちゃん…、初めてだった…!あたし、それで判ったん…んぐっ!
…あんなの、思い遣りなんかじゃ、なかった…!あたし…、あたしは…、お姉ちゃんをがっかりさせただけで…!」
ユリカは丸めた背中を震わせて、しゃくりあげ続けて、それでも話をやめなかった。
「泣きながら…謝ったら、お姉ちゃん、言ったんだ…!「何で負かしてくれなかったんだ」って…!「こんなんじゃ安心して
引っ越せない」って…!」
ここまで聞いて、私はやっと理解できた。
ユリカは、そのお姉ちゃんとのお別れの想い出を、今回の主将との試合結果に重ねてしまったんだ…。
「何で負かしてくれなかったんだ」
「こんなんじゃ安心して引っ越せない」
…その二つの言葉を、ずっと覚えていて…。
言い換えればきっとこうなる。どうせ当たってしまったなら、主将を負かして、安心して引退させてやりたかった。
ユリカは、自分が主将を負かせなかった事と、三年生の引退後に残る一、二年生が皆不甲斐ない結果に終わってしまった事
から、三年生達が安心して部を去る事ができないって、考えているんだ…。
私は、自分が恥ずかしくなって俯いた。
てっきり、ユリカは一回戦で負けた事が悔しくて落ち込んでいるんだとばかり思っていた…。
でも違う。ユリカは早過ぎた終わりを悔やんでいた訳じゃない。
仲良くなって、随分気心も知れたと思い込んでいたけれど、それでもまだルームメイトの事を侮っていた…。
ユリカは先輩達の心情を思い遣って、落ち込んでいたんだ。
昔お別れした「お姉ちゃん」の時のように、今回も失敗してしまったんだと思って、自分の力の無さを悔やんで、元気が出
なかったんだ…。
私にはこれまで、運動部の女友達は居なかった。親しい子は皆文科系の部活をやっていたから…。
取材対象として調べたり、話を聞いたりする事はあったけれど、私にとってユリカが初めての、親しい運動部女子。
…色々と、勉強させられるわね…。
「ねぇユリカ?きっと先輩方は、ユリカが思っている程不安になっていないと思うわ。少なくとも、ユリカは主将との試合で
立派に戦った。主将は、ユリカの事を怒ったりしなかったでしょう?」
「う、うん…」
頷いたユリカだけれど、しかし笑顔は無い。
私はユリカの手を放して、むっちりした頬に手を伸ばす。そして、頬を軽く摘んで左右に引っ張った。
「気になるんだったら、顔を合わせた時に謝るか何かしちゃえ!「これから頑張ります」で良いじゃない!ほら!元気出して
ユリカ!スマイルスマイル!ね?」
「いたい…、いたいよぉミサトぉ…!」
口を左右に引っ張られたユリカは、顔を顰めながら私の手を押さえて抗議した後、
「えへ…、えへへへへへ…!スマイル…ね…」
目を細くして、苦笑を浮かべた。
「あんがと…。グチ聞いて貰ったら、ちょっと元気出たかも…」
「そう?」
私はユリカの頬から手を放す。
ぷっくりほっぺをさすって「いたぁい…」と口を尖らせたパンダっ娘は、「…あ…」と、何か思い出したように口をポカン
と開けた。
「…泣いてるトコまで見られちゃった…。はずぅい…!」
両手で顔を覆って苦笑いするユリカ。
見ていて飽きない程にコロコロと表情が変わるその様子から、私は彼女がいつもの心理状態に戻りつつある事を察し、ほっ
とした。
くよくよしているのは、ユリカには似合わない。
いつだって明るく笑っていて、辺りの雰囲気を和らげていて貰いたい。
故郷を遠く離れたこの街で最初にできた大事な友達で、寝食を共にするルームメイト。誰よりも親しい存在なんだから…。
…けれど、私には判っている。
部外者である私がいくら慰めたところで、ユリカは心の奥から納得し、すっきりする事はできないだろう。
あくまでも、ちょっと気を軽くしてあげられるだけで、解決にはなっていない。
ユリカを納得させられるのは、きっと…。
…何とか、話ができないかしら…?