第八話 「早過ぎた終わりに」(中編)
お風呂から上がった後、さっきと比べれば随分元気になったユリカは、冷たい麦茶をガブ飲みして湯涼みすると、いつも通
りにテレビを見ながらごろごろし始めた。
正座を崩して座っている私にちょっかいをかけたり、どさくさ紛れに膝枕をせびったりと、普段通りの甘えん坊ぶりを発揮
して。
たらふく詰め込んだラーメンが、お腹の中で水分を吸って未消化のままらしく、
「う〜…、お腹張って苦しぃ〜…」
と、ぽっこりした胃の辺りを撫でながら、自業自得の事をいかにも災難であるかのように嘆いている。
けれど、会話が途切れた時などに、時折表情を曇らせては、私に心配をかけないようにか、小さくこっそりため息をついて
いる。
…やっぱりまだ空元気なのよね…。当然だけど、そう簡単にすっきりはできないか…。
さっき…、入浴していた時にだけれど、気を楽にしてあげる為にはどうすれば良いか考えて、ある事を思い付いた。
けれどそれも、ユリカにこうもくっつかれていたら、行動に移せないわね…。
…イヌイ君、何時ぐらいまで起きてるかしら?
まさか九時とかそんな時間に寝るとは思えないけれど、点呼後の連絡はできれば避けたい。
点呼が回る前に連絡を取って、伝言をお願いしたいっていうのもあるし…。
何より…、点呼後の邪魔が入らない時間帯になったら、アブクマ君がイヌイ君にあんな事やこんな事をせびっている可能性
もあるわよね…?
…早いに越した事はないんだけれど…。
まぁ、ユリカがこれでいくらかでも元気になっているのなら、それはそれでオーケーよ。喜んでいる以上は付き合ってあげ
ようじゃない。
開き直りに近い心境で、膝枕してあげながらユリカの耳を引っ張ったり、ほっぺたをつついたり…、さながらじゃれてくる
犬猫への対応に近いけれど…、まぁ、そうやって私自身も遊んでいると、チャンスは割とすぐに巡ってきた。
「ちょっとトイレ…」
パンダっ娘がもぞもぞっと起き上がって隣室に向かった隙に、私は机に置いていた携帯を素早く手に取る。
ユリカに枕にされていたせいで火照って汗ばんだ腿を手でさすりながら、コールする事三回。
『はい。イヌイです』
「ふふっ!家の電話じゃないのよ?」
『…そうだよね。これも癖なのかな?』
ちょっと笑った私の耳に、電話の向こうから苦笑いの気配が届いた。
私が「今大丈夫かしら?」と訊ねるとイヌイ君は『うん。平気だよ』と返して来る。
…声の向こうに微かに聞こえる、乱れた呼吸音みたいなのが気になるけど…、手短に行きましょうか。
「ちょっと聞きたいんだけど、点呼はまだよね?」
『うん。もう少しで回って来るけど…、何で?』
「イワクニ先輩に相談したい事があるのよ。先輩、携帯持ってる?」
『うん』
…良かった。公衆電話や内線を使わないで済みそう…。なるべくならこっそり相談したいし…。
「それじゃあ、先輩に私の携帯番号教えて貰える?点呼が終わってからで構わないから、こっちにかけて下さいって、あと、
夜分にお手間を取らせてしまって申し訳ありませんが、よろしくお願いしますって」
『うん。伝えておく』
「ありがとう、おねがいね。…ところで…」
私は一度言葉を切り、耳を澄ます。
…やっぱりこれ…、気のせいじゃないわよね?電波越しにさっきからずっと聞こえてるこれ…、乱れた息の音…。
「…アブクマ君…何かしてるの…?」
『うん?傍で腹筋してるけど…。あ、かわろうか?』
「え?あ、ああ!いいのよ、いいの…!」
向こうから見えないにも関わらず、私はパタパタと手を振って誤魔化し笑いを浮かべる。
…なるほど、筋トレ中だったのね…。私ったらてっきり…。…もうっ…!
「それじゃあ、手間をかけさせちゃってごめんなさい、伝言よろしくね?」
『うん、ちゃんと伝える。お休みシンジョウさん』
「おやすみイヌイ君」
私が電話を終えると、丁度ユリカが戻ってきた。
「電話?」
「うん。イヌイ君」
何気なく聞いただけだったらしいユリカは、返事に知った名前が出た事で興味を持ったのか、「へぇ、何の話?」と、私の
前に向かい合う形でのしっと胡座をかき、首を捻って見つめてきた。
一瞬返答に詰まったものの、伊達眼鏡の狐が言っていた咄嗟の誤魔化しの一例が思い浮かんだ私は、半ば反射的に実践して
いた。
「ガイウス・ユリウス・カエサルに関係する、ある有名な言葉が、後世に戯曲なんかで創作された物だって話は本当かどうか
確認していたのよ。聞く?」
「いい。あたしパス。偉人とか歴史とか戯曲とか、小難しい話聞くと頭痛くなるし」
興味を失ったらしいパンダは、そう言ってごろんと横になった。
ササハラお前もか。
イワクニ先輩からの電話は、私が想定していた時間にかかって来た。
時間を見計らって丁度階下の自販機に向かっていた私は、足早にロビーの端に寄り、電話を受ける。
「もしもし、シンジョウです。遅くに済みません」
素早く視線を巡らせたけれど、夜の玄関ロビーに人影はまばら。こっちに興味を向けている寮生は居ない。
『いやいや、平気だよ』
電波越しに届いたイワクニ先輩の声は、いつも通りに穏やかだった。
『それで、どんな用事だい?急いでるんだね?』
「え?あ、はい…。できれば急ぎたいと言いますか…」
本題の切り出しを促す先輩の言葉に、私は内心舌を巻いていた。
初めての電話、それもこんな夜分に、それらから私が急いでいる事を察していたらしい。…気の回し方が本当に大人だわ…。
「実は…、ちょっと話をしたい方が居るんですけれど、先輩と親しいなら紹介して貰えないかなと…」
『紹介?誰かな?』
「女子空手部の主将さんです」
『ああ、ヒョウノ君か』
イワクニ先輩は『二年の時から級友だよ』と、明るい材料が混じった言葉を返してくれた。
「個人的にお話ししたい事があるんです。少しで結構なのでお時間を取れないか、お尋ねして貰えませんか?」
『構わないよ。訊いてみよう。けれど、ルームメイトに頼む訳には行かないのかい?彼女も同じ空手部じゃないか?』
「あ、えぇと…、できれば秘密にしたいので…」
私が口ごもると、『なるほど、判った』と応じて、先輩は続ける。
『明日の朝にでも話して、結果を連絡しよう』
どうやら、事情については踏み込んで尋ねない事にしたらしい。
訊かれれば答えない訳にはいかないのに、たぶん気を回してくれたのね…。
「面倒をおかけします。遅くに突然お願いして、済みませんでした」
『ははは!気にしないでくれるかな?君には借りがあるんだから、当然協力するさ』
「借り?」
…はて?何の事かしら?イワクニ先輩に貸しなんて無いと思うけれど…。
『新入部員の報告期限前日。君は最悪の場合に備えて入部届を用意してくれていたじゃないか』
「え?あ、えぇ、そうでしたね…」
思い出しながら私が応じると、イワクニ先輩は電話の向こうで小さく笑う。
『本心から柔道部に入りたい訳じゃなかっただろうけど、あれは嬉しかったよ』
「けれど、結局は足りていたからあの入部届は無駄だった訳で…」
『ぼくらは無駄だったとは思っていないよ。最悪の場合は自分が本当に入りたかった部活を諦める覚悟をしてくれた…。これ
はやっぱり、ぼくら柔道部にとっては大きな借りだ』
ホント、判ってはいたけど度を超すほど真面目で義理堅いわねぇイワクニ先輩は。昨今では天然記念物級の希少人物だわ…。
イワクニ先輩への頼み事を終えて部屋に戻ると、パンダっ娘は部屋の真ん中で大の字になり、寝息を立てていた。
…だらしないわねぇ本当に…。
シャツがべろんとめくれてポッコリしたお腹が丸出し。半開きにした口からはヨダレが出てる…。
…気持ち良さそうな顔しちゃってまぁ…。
私は腰に手を当てて、大きなくせに小さな妹のようなルームメイトの寝顔を見下ろす。
不思議と、ユリカが何か失敗しても、呆れるよりは「しょうがないなぁ」って気持ちになるのよねぇ…。
「ユリカ?もう眠るならベッドに入った方が良いわよ?」
「…んむぅ〜…」
むにゃむにゃと口を動かして、返事っぽい唸り声を漏らしたユリカは、しかし目を開けない。
「ユリカ。ユリカ?ユ〜リ〜カってば!」
気持ち良さそうに寝息を立てているルームメイトからは、声をかけても全く反応が無くなった。
…まぁ良いわ。疲れたんだろうし、このまま少し寝かせておいてあげましょう…。
お腹を冷やさないよう、めくれたシャツを引っ張り下ろしてあげた私は、寝室から持ってきた薄手のタオルケットを鳩尾か
ら腰にかけてそっと被せ、ユリカの顔を見下ろす。
…一見すると悩みなんてなさそうに思える寝顔だけど、本当はそうでもないのよね…。
「へぇ、ユリカがなぁ…」
校舎裏の壁に背を預けた大きな熊は、私の話を聞き終えると、腕を組んで難しい顔をした。
2メートル近い身長を誇る、見上げるような濃い茶色の巨体は、幅も厚みも尋常じゃないせいで、文字通り小山のようだ。
翌日のお昼、たまたま自販機近くでアブクマ君を見かけた私は、彼の話も聞いてみる事にしたの。
「例えばよ?現実ではありえないけど、例えばアブクマ君とイワクニ先輩が獣人で同階級だったとして、一回戦で当たってい
たら、本気で試合できる?それとも、わざと負けると思う?」
「あぁ?ん〜…、難しい事簡単に訊くなぁシンジョウは…」
アブクマ君は困ったような顔つきになって頬をポリポリと掻き、私はため息をつく。
「難しいわよね?やっぱり…」
「当然だろ?気持ちの上じゃあ難しいぜ。答えは決まってるけどよ」
…え…?さらりと口にされたアブクマ君のその言葉に、私は即座に食いついた。
「答えは決まってる?って、つまり、そういう時にどうすべきかは、アブクマ君の中では答えが出てるのね?」
「まぁな。少なくとも、わざと負けるってのはねぇよ」
当然だろう?と言わんばかりに大熊は肩を竦めた。
「そうは言っても、三年目…、最後の試合だから勝たせてやりてぇって気持ちは当然出て来る。こっちにゃ次があるって甘い
考えが頭ん中にありゃあ、なおさら逃げたくなっちまうだろうし…」
「逃げ?」
訊ねた私に、アブクマ君は「ああ、逃げだ」と頷いて応じる。
難しい顔をしているアブクマ君に、私は身を乗り出しながら訊ねる。
「アブクマ君。そこ、もうちょっと詳しく教えてくれない!?」
勢い込んで私が訊ねると、アブクマ君はきょとんとする。
「え?詳しくってなどういうトコをだ?そもそも、俺なんかの話が役に立つか?」
「アブクマ君の意見だからこそ聞きたいの。それはね、運動部の経験が無い私には、欠けていたものだから…」
そう。そこなのよ、私が知りたいのは。
まだ全然理解が及んでいない、スポーツマンや格闘家としての見解…。
私はそれが知りたい。いいえ、知らなきゃいけない!
直接記事に起こす内容じゃないけれど、内面が全く理解できないままじゃ、書くにも限界がある。
それになにより、昨夜痛感したから…。
落ち込んでいるユリカをどう励まして良いか判らなかったあの状態は、私の経験と知識の不足によるものだ…。
上辺の物だけじゃない、きちんと心情を察した励ましの言葉をかける為には、運動部の皆が考える事を理解できるような下
地があった方が良かったんだ。
いい記事を書くためにも、ユリカの事をもっと深く察してあげるためにも、アブクマ君の意見を、考えを聞きたい。
アブクマ君は訝しげに目を細くして私の顔を見下ろしていたけれど、「…良くは判らねぇが、大事な事なんだな?」と、目
を覗き込むようにして訊ねてきた。
「ええ、今の私にはとても大事で、頭に入れておく必要がある事なの。聞かせてくれない?」
せっつくように繰り返した私に、大きな熊は苦笑いを浮かべる。
「判った。俺ぁ頭悪ぃからキイチやウッチーと違って説明下手くそだけど、そこはカンベンな?それとよ、こいつはあくまで
も俺の考えだからな?全員がそうって訳じゃねぇから、そこんとこちゃんと押さえて聞いてくれよ?」
私が「ありがとう」と頷くと、アブクマ君は腕組みをしたまま軽く空を仰ぎ見て、考え込むような顔つきになる。
「まず、「逃げ」って事についてだったか?」
「ええ。まずそこが気になるの」
視線を空から私に戻したアブクマ君は、目を細くして顎に手を当てた。
…顔つきが変わった。試合の時に見せるあの真剣な顔になってる…。
「わざと負けんのはよ、気遣いとか、優しさとか、そういったイイもんじゃねぇよ。辛いのが嫌で逃げてるだけだ、…結局、
どっち選んでも辛ぇ事には変わりねぇのによ」
「どっちに転んでも?」
「おう。何も例がねぇ状態だと説明すんの難しいから、俺と主将に置き換えて話すからな?」
アブクマ君はそう断りを入れてから、再び視線をやや上に向け、空を目に映して考えながら話し出した。
イヌイ君の言うとおり、困った時や考え事をする時は、空を見たり上を向いたりする癖があるらしい。
「さっきの例…、俺と主将が大会で当たったらって話でだ、もしも俺が勝ったら、負かしちまった主将の気持ちを考えて辛く
なる。三年間を俺の手で終わらせちまう訳だし…。けどよ、わざと負けたら、勝たせてやった主将の方が辛くなる」
「勝たせて貰った方も、辛い?」
アブクマ君は私に視線を戻して、大きく頷く。
「そりゃそうだ。後輩に手抜きされて勝ちを譲られるってなぁ、先輩としちゃあ相当惨めで悔しいと思うぜ?勝ち残れたって
嬉しさ以上に、辛くて悔しいだろうよ…。だから、結局どっちにしろ辛い思いはする」
「なるほど…。確かに、勝ちを譲られても単純には喜べないわね…」
結果だけじゃない。その過程も大事なモノであるって、頭では判っていたつもりなのに、どうにも私の中では「勝ち残れれ
ば嬉しい」っていうイメージが定着している。
アブクマ君の言うとおり、試合にのぞむそれぞれの気持ちもあるんだから、この辺りから改めないと…。
整理する時間をくれたのか、考え込む私を見下ろしながら少し間をあけたアブクマ君は、やがて再び口を開いた。
「…けど、辛さが軽いのは、わざと負けちまって楽になる方だろうな。「先輩に勝ちを譲ったんだ」って、自分に言い訳もで
きるからよ。けど、勝たされた方はそうじゃねぇ。ただ辛くて悔しいだけだ。…よっぽどの事情でもねぇ限り、わざと負けた
りなんかしちゃいけねぇんだよ…」
アブクマ君はそう言うと「その例え話で行くと…」と、眼を細めて顔つきを厳しくした。
まるで、自分がその状況に置かれて、辛い思いをしているところを想像しているように。
「たぶん、散々悩んで、考えて、落ち込んだりもすると思うけどよ…、俺ぁ本気で試合する。練習で力加減してんのとは話が
別だ。世話になってる主将だからこそ、手ぇ抜かねぇで真剣勝負すんのが筋ってもんだと思う」
アブクマ君は真面目な顔で、きっぱりとそう言った。
説明の最中、ときどき言葉は選んでいたけれど、結論を口に出す彼には迷っている様子がなかった。
言っていたように、答えは最初から決まっていたんだろう。
「フェアじゃない事が嫌いなアブクマ君だから、わざと負けるって事に関しては、「無し」って言うんじゃないかなぁと薄々
思っていたけれど…。やっぱり、手加減も無しなんだ?」
「無しだなぁ。…そもそもよぉ、その条件で手抜きなんかしたら、イワクニ主将だったらぜってぇ怒る。そういうひとだし…」
「それもそうかも…」
言われてイワクニ主将の顔を思い浮かべた私は、凄く納得した。
真面目で優しくて頼れるお兄さん。けれど、薄皮一枚剥いた所には、尋常じゃない程の、ストイックな柔道への愛が詰まっ
ている。
廃部の危機と直面していた時でさえ、それを免れる為にウシオ団長が、応援団から何人か柔道部に移すというかなり乱暴な
意見を口にした際には、アブクマ君ですら呑まれかけるような激昂を見せたそうだ。
アブクマ君とイヌイ君の話じゃ、本当に怒った様子なんて後にも先にもその一度しか見せていないそうだけれど、…普段優
しいひとこそ、怒った時は怖いのよねぇ…。
ユリカの考え方は、アブクマ君の物とも通じている。
もしアブクマ君がまた違う事を言ったら、また考える必要も出たかもしれないけれど、どうやら放課後の対話は決めていた
路線のままで行けそう。
「ありがとう、参考になったわ。お礼にジュース奢ってあげる。どうかしら?」
「お?ぬははっ!悪ぃなぁ!」
真面目な表情を崩して耳を倒し、顔を綻ばせるアブクマ君。
求道者の厳しくも凛々しい顔をしていたかと思えば、コロリと表情を一変させて、子供のように無邪気で素直な笑みを浮か
べる。
顔立ちはいかついけれど、コロコロと表情が変わって愛嬌があるし、笑えば優しげで魅力的だ。
…ちょっと太り過ぎではあるけれど、ガタイが良いとも言えるし、性格なんかは本当に男前なのよねぇ…。
実際、中学の頃も下級生中心に随分人気があったし、今だって私のクラスでも結構話題に上ってる。…同性愛者なのが勿体
無いわ…。
嬉しそうな笑みを浮べた大熊は、しかし突然何か思い出したように「…あ…!」と声を漏らすと、急にしょぼんとした顔に
なった。
「…いや、やっぱ遠慮しとく…。イチゴオレ一本飲んじまったし…」
「あら。けど、食事制限は緩和されたんでしょう?」
もしかすると、減量の関係でかしら?
でも変ね?先週の大会終わってからは、イヌイ君が立てていた食事制限は少し緩められたって聞いていたんだけど…。
アブクマ君は眉を八の字にし、困ったような情けないような顔になって、大きなお腹を見下ろす。
「制限緩んだらよ、すぐ腹回りも弛んじまって…。県大会まで間がねぇのに…。ほれこの通り…」
ワイシャツ越しに叩かれた張りのあるお腹が、大きな手で軽く叩かれ、ポンっと、コミカルな音を立てた。…腹鼓?
「体重増えたの?今何キロ?」
アブクマ君はふいっと顔を逸らし、ぽそっと呟く。
「…はちぢゅう…よん…」
「84?…って…、ひゃ、184キロ!?」
「こ、声がでけぇよシンジョウ!」
アブクマ君は慌てた様子で立てた指を口元に当て「しーっ!しーっ!」と繰り返し、傍には誰もない裏庭を見回す。…そん
なに知られたくないの?
「り、リバウンドらしいんだよ…。あっという間に増えちまって…」
「へぇ…。ちょっといいかしら?」
アブクマ君の困り顔と大きなお腹を見比べた後、私は返事を待たずに、そっと手を伸ばして手の平を当ててみた。
軽く押したり撫でたりしてみるけど、ワイシャツ越しに感じるのは、もっさりした被毛と分厚い脂肪の柔らかさだけ…。
…184キロっていう数字から言って当然なんだけど、ユリカ以上…。ボリューム感っていうか、重量感が物凄いわね…。
「な、なぁシンジョウ…。深刻な顔して腹撫でんのやめてくんねぇか…?なんか落ち込む…」
声を掛けられて視線を上に向ければ、眉を八の字にして耳を寝せ、恥ずかしそうに私を見下ろす大熊の顔が目に入った。
「あ、ごめんなさい。気にしないで?気にしなくていいの。って言うか気にしないで?ね?気にしない気にしない」
「そんなに「気にしない」繰り返すなよ。逆に気にしちまうじゃねぇか…。ってか…、も、揉むなって…」
「…あら?」
思いの外手触りが良かったせいか、私の右手は無意識の内に、アブクマ君のお腹をムニムニしていた…。
…う〜ん、魔性の手触り…。
数時間後、学校全体の空気がざわめきに満ちた放課後の物に変わって行く中、ホームルームが終わってすぐに教室を出た私
は、まっすぐ裏玄関へと向かった。
裏玄関には来客用玄関という側面もあって、生徒はまず利用しない。
待ち合わせの相手は…、良かった、まだ来ていないみたいね。
私は軽く安堵しながら外履きに足を入れ、裏玄関を潜った。
呼び出しておいて後から来るなんて失礼があってはいけないから、実はかなり急いで降りて来たのよ。
左右に花壇がある玄関正面のスロープを下り、少し離れた位置にある車のロータリーに至った私は、
「ごめん。待ったかな?」
後ろから響いた声を耳にし、姿勢を正しながら振り返った。
均整の取れた体付きの白い雌豹が、裏口から出て来て片手を上げている。
「いいえ、私もたった今来たばかりです」
女子空手部主将、雹野雪子(ひょうのゆきこ)先輩。
ユキヒョウの獣人で、美人…いや、より正確に言うなら…、かっこいい…。
見慣れているはずの、学校指定のジャージすら格好良く感じられる程に…。
健康的に鍛えられた体は、ラインの美しさもさる事ながら、被毛と相まってとても綺麗。
体は女性として成熟し切る直前の段階に至り、胸もかなり目立つけれど、女性らしさ以上にまず凛々しさが感じられる。
まるで舞台で男性役をこなす女性のような…、美しさを上から塗り込んで埋めてしまう、見惚れてしまいそうな格好良さが
あった。
先輩はお辞儀で応じた私の前まで歩いて来ると、訝しげに目を細める。
「それで、どうしたんだシンジョウ君?ササハラを通さず、わざわざイワクニ君経由で声をかけて来るなんて…」
最初に取材に行った時にはちょっと驚いた、男の子みたいな独特のしゃべり方だけれど、それがこの凛々しい先輩には何と
も似合っている。
「ちょっと事情がありまして…。稽古などでお忙しい中、お時間を取らせてしまって済みませんでした」
「その点は気にしないで良い、今日は大会翌日で稽古は休みだからな。それより、君がイワクニ君とも親しいというのは意外
だった」
「親しいというか…、柔道部の取材に行った事がちょっとした縁という程度で…」
ヒョウノ先輩は口の片端を上げ、片眉を上げ、凛々しい顔に微かな笑みを浮かべる。
「控えめな表現だな。イワクニ君から聞いた話とは少し違う」
え?イワクニ先輩、何か言ったのかしら?
私の顔に疑問符でも浮かんだんだろうか?ヒョウノ先輩は面白がっているような目で私を見ながら、一つ頷いて口を開いた。
「知っていると思うが、イワクニ君は君に感謝している。廃部寸前の状態になった時、最悪の場合は存続のために入部してく
れるつもりになっていた、後輩の友人。そして、定期戦の記事で柔道部の活躍を詳しく書いて、広報にも尽くしてくれた新聞
部員だとね。同じく知り合いだと言っていたウシオ君の言葉を借りれば…、「ホネのあるヤツ」」
私は恥かしくなって、顔を少し俯けた。…団長…。ホネのあるヤツって何ですか…?
「彼らの人を見る目は確かだが、君に対する評価は結構な物だ。先の担当変更の話が出た折、新聞部に申し入れをしておいて
正解だったな。男女共に、空手部は「君の取材」なら喜んで受けよう。これはわたしが引退しても変わらない」
「…あ…。ありがとうございます…。良い記事を書けるよう、頑張ります」
何とも有り難い言葉に、私は恐縮しながら頭を下げた。…照れ臭くてこそばゆい…。
「こちらも、良い記事を書いて貰えるよう、頑張ろう」
そう返したヒョウノ先輩は、口元の笑みを少し深くした。
「「担当は君以外認めない」…、実はこの方針、君も知っているだろう「確執」の件以外にもちょっとした理由が絡んでいる」
ユリカが騒いだからかしら?…一瞬そうも思ったけれど、私は黙って先輩の言葉を待った。
「男子空手部には君のファンが多くてね。汗臭い粗暴な連中には、文化部の君から漂う知的な魅力が香しくて仕方ないらしい。
君が担当を外されるかもしれないと知った際には、連中、殴り込みに行かんばかりに、帯を締めて鼻息を荒くして頭から湯気
を上げていた」
「な!?」
予想外の言葉に絶句した私に、ヒョウノ先輩は「ふふふっ」と小さく、さも可笑しそうに笑った。
「まぁ、繰り返しになるが粗暴な連中だから、ファンと言われてもあまり嬉しくはないだろうが…、皆君を気に入っているん
だ。察してやってくれ」
…ファンって…。何と答えて良いか判らず、「はあ…」と曖昧に返事をすると、先輩は「おっといけない…」と呟き、表情
を元に戻した。
「君の用事だというのに、のっけから好き勝手に話して済まなかったな。本題に入ってくれ」
私はヒョウノ先輩の顔を見上げながら、「お話したい事というのは…」と、慎重に切り出した。