第十一話 「林間学校」(前編)
カッと照りつける太陽。天候に恵まれた山道を行くボクが、
「ホレホレ、あとちっとだキイチ!もう一踏ん張りだからな!」
…という声に首を巡らせてみれば、小山のような濃い茶色の巨体が、小さなクリーム色の猫の後ろ側につく所だった。
背負っている小さなナップサックすら重そうに見えるイヌイの後ろについたブーちゃんは、その両肩に大きな手を置き、押
すようにして歩き出した。
何を持って来ているんだか、ボクらの三倍はあるデカリュックを背負った大熊の足取りは、本人の体積と荷物の量を鑑みれ
ば不自然な程に軽い。
「だ、大丈夫だよぉ…」
押されて坂道を登りながら、恥ずかしそうに首を巡らせたイヌイは、しかしだいぶ疲れているらしく、声に張りが無く表情
も冴えない。
それもそうだろう。これは結構な苦行だ。何故かアブクマはえらくはつらつとしているが…。長距離走は苦手なくせに、な
んで山登りは平気なんだ?
そんな二人の様子を目にして、そろそろ疲れていた周囲のクラスメート達の顔にも笑みが浮かぶ。何だかんだ言ってムード
メーカーなんだよな、ブーちゃんは。
今日は年に一度の林間学校だ。ボクとしてはかったるい部類に入る行事だが、学級委員だし、参加しない訳には行かない。
一年生は県立公園へ向かうんだが…、そこまでの登山道が半端じゃなくキツい。さほど急勾配でも無いんだが、クネクネと
曲がって無駄に距離が長くなっている上に、未舗装なので足首に来る。
麓まではバスで送られて来たが、そこから先の登山道行軍は苦行でしかない。
甘かった。こんなにも楽しくないイベントだとは思わなかったぞ林間学校。
そもそも目的地までは車でも行ける。実際に帰りは山頂からバスに乗るんだから、全くの無駄だ。一体誰だよこんなイベン
ト考える低能教師は?
「200キロ近いあの体で…、何でああも元気に登っていられるんだ…?」
「184キロだ!」
ボクの呟きが聞こえたのか、ブーちゃんはグリンと勢い良く首を巡らせて太い眉と目を吊り上げる。やけに反応が良い。
「…増えたんだな?」
「ちっとだけな」
尋ねたボクから視線を逸らし、ブーちゃんはでかい尻と短い尻尾を揺すりながらペースアップ。「ま…、待ってぇ〜…」と、
か細い声を漏らすイヌイを押し、ズンズン先へ進んで行く。
「ちょっと前まで170キロ台維持するとか言ってなかったか?」
「イヌイのお許しが出たらしいぜ」
記憶を手繰りながら呟いたボクの隣で、ルームメイトであるシェパードがぼそっと言った。
「へぇ…、良くもまぁ許可したもんだな?ブーちゃんには結構厳しいあのイヌイが」
「詳しくは知らねえが、鍛えりゃ筋肉の分重くなるのは仕方ねえんだとよ」
「なるほど」
頷いたぼくは、隣を歩くオシタリの顔を横目で確認する。
…何というかこう…、いつもと比べて仏頂面が幾分緩んでいる…か…?
伊達に毎日オシタリの顔を見ている訳では無い。当然、好んで見ている訳でも無いが。パッと見はいつも通りなんだが、微
妙に表情が軟らかい。ボクにはこいつの雰囲気の微妙な変化が確かに感じられた。
…こいつ、ちょっと機嫌が良いようだぞ?と言うより上機嫌なんじゃないか?
あれか?ブーちゃんといいオシタリといい、遠足とかが大好きなクチか?
いつものコイツなら、「かったりい」とか「くだんねえ」とかボヤきそうな物だが、愚痴の一つも出て来ない。
そういえば、普段はすぐさま寝入るこいつにしては珍しく、昨夜はいつまでもベッドの中で寝返りを打っていた。
寝顔を覗く趣味も無いし、覗いたところで面白くも何とも無いから実際に確認はしなかったが…、ひょっとしてこいつ、真
夜中まで寝付けなかったんだろうか?興奮して眼をギンギンにさせていたりして…。
…この林間学校はそんなに楽しいかね?ボクには理解不能だが…。
林間学校は県立公園で行われる。その活動内容はというと、登山道散策と、公園内のキャンプ場の清掃と、野外炊飯だ。
四人から五人で班を組んで活動するんだが、ボクの班は馴染みの四人。オシタリにイヌイにアブクマとボク。
働き者のブーちゃんは料理の腕も一級品。彼を確保した時点で活動内容に対する不安は無くなった。
彼もイヌイも協調性があるし、規律を乱すような事はしないだろうが、アホシェパードの存在が不安といえば不安だった。
他に加えて貰える班も無いだろうからとお情けで編成に入れてやったんだが…、案外乗り気。これは良い意味で誤算だ。
予想外にも極めて楽ちんになりそうだと安堵したボクは、勾配が緩くなった所で足を止め、後方を振り返る。
蛇行する山道に長く伸びたボクらのクラス。その最後尾から大きく水をあけられた位置には、でかくてまん丸い中年の姿。
黄色に黒の縞模様が鮮やかな体を、野外仕様の厚手のシャツとカーキ色の作業ズボンで覆い、坂道をのろのろと登って来る
ソレは…、遠目にもイヌイ以上に弱っているのがはっきり判った。
えっちらおっちら息を切らせて…というより息も絶え絶えになって山道を登ってくるそのデブい虎は、言わずもがな我がク
ラスの担任、トラ先生だ。
引率なんだが引いても率いてもいない。それどころか生徒についてくるのがやっとの有様で、どん尻もどん尻、軽く100
メートル遅れの辺りに落ち着いている。
「…オシタリ、ブーちゃん達と一緒に先に行ってくれ」
「あ?どうした急に?学級委員は先についてねえとマズいんじゃねえのか?」
少し進んだ所で立ち止まってボクを待っていたオシタリは、声をかけたら首を傾げた。
やはり機嫌が良いんだろう。心なしか普段より口数が多いような気がする。
「先に到着したって、どうせ先生を含めて全員揃わないと点呼できないんだ。トラ先生と一緒に行く」
極めて肥満しているあの体型だ。心臓発作で倒れられでもしたら困るしな。
ボクは宇都宮充。星陵の一年生で化学部に所属している狐獣人。ちなみにインドア派。トレードマークの伊達眼鏡は、今に
限っては外している。
…マズルの上が汗で濡れるからな、ポリシーより実用性を取った訳だ。
「はひっ…、はひはっ…、ぜひっ…、えふぉ…」
一歩踏み出す毎に情けない喘ぎを漏らし、でっぷり肥えた虎は山道を登る。
この尻この腹この腿にこの胸…。どこもかしこも贅肉満載、だらしなくでっぷり弛んだ体は、のったのったとスローペース
な歩みに合わせてだらしなくタプタプ揺れる。
同じおデブでもブーちゃんとは違う。自堕落な生活で弛み切ったのだろう駄目中年特有の体では、予想通り登山道はキツい
らしい。
その脂肪が著しく蓄積されている出っ腹は、歩く度にゆさゆさと揺れ、ある意味ユーモラスだが暑苦しく見苦しい。
「大丈夫ですか?先生」
オシタリを先に行かせて待つこと数分、やっと傍まで登って来た先生に、ボクは気遣う声音を心掛けつつ話しかけた。
「ドンと…、はぁ…、来い…、だ…!ひぃ…、まだまだ…」
勇ましいセリフを言おうとしているその口からは、喘ぎ声と荒い呼吸に紛れた情けない程弱々しい声が漏れた。
眼鏡を外し、首にかけたタオルでむっちりした顔や二重顎の下を拭い、息を切らせて歩くトラ先生。ボクと違って本当に目
が悪いので、こんな時でも眼鏡は外せない。
…原因まで聞いた事は無かったが…、この体だ、もしかして糖尿とかで目が悪いんじゃないだろうな?
それにしてもこの発汗…。心臓発作に加え、脱水症状も心配になって来たぞ。
「ここらで一息入れて、一口水でも飲んだらどうでしょう?もう半分来たんですから、のんびり行きましょう」
本音を言えばさっさと集合場所に辿り着いて点呼を済ませてしまいたいんだが、この調子じゃ急かしてもペースアップは望
めない。って言うか、このボクが急かすのも気の毒に感じてしまうほど露骨にグロッキーな有様だ。ここは甘い顔で甘い事を
言って心証を良くしておこう。
疲労のあまり頭の回転も悪くなっているのか、先生はボクが提案してから十数秒ほど間をおき、「あぁ…」と、思い出した
ように足を止め、背負ったデカいリュックから腕を抜いた。
来年は荷物減らして下さい先生。ボクらの三倍はあるんじゃないかこのリュック?同じく大きいブーちゃんのデカリュック
も何が入っているのか謎だが、何持って来てるんだこのひと?
リュックからスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、太い指でもどかしげにキャップを外して咥えた先生は、ボクが
止める間もなくゴポポポポッと盛大に飲み始めた。
「あの…、先生?あんまり飲んだら後でキツく…」
ボクの控え目な忠告は、黒い縁取りのあるその耳に届いたのか届いていないのか、肥満虎はしばらくグビグビやった後「ぷ
はぁーっ!」っと息をつき、行儀悪く口周りを手の甲でグイッと拭った。
うわ…。750ミリ一気飲みしちゃったよこのひと。後でどうなっても知らないぞ?
水分補給していくらか息を吹き返したらしい先生は、来た道を振り返る。
ボクらより後に出発した別のクラスの先頭が、だいぶ距離を詰めて来ている。すぐにも追いつかれそうだ。
「たはぁ〜…、だいぶ遅れたなぁ。若い子には敵わん」
汗まみれのたっぷりした顎をタオルで拭いながら、先生はまるで感心しているような口調で言う。
いや、実際に感心しているのかもしれない。後続クラスの先頭を歩いているのは体格の良いパンダ娘なんだが、その足取り
はかなりしっかりしていて、ペースも速め。同じおデブでも先生とはえらい違いだ。
すぐ後ろを歩く眼鏡女子は、手にしたカメラを覗き覗き周囲を見回し、時折シャッターを切っているようだが、それでもパ
ンダに遅れない。…僕と同じく文化部のくせに健脚だな。
それはそうと、ファインダーを覗きながら歩いたら危ないぞシンジョウ?こけてしまえ。
息を整えながら後続を眺めている先生に、ボクは背負い直されたリュックに視線を向けつつ尋ねてみた。
「先生、その大荷物、中身は一体何ですか?」
肥満虎は「ああ、これなぁ」と太い首を巡らせ、軽く屈伸するように腰を跳ねさせ、リュックの位置を調整する。リュック
以上に出っ腹がバウンドするのがいとおかし。
「昼飯は野外炊飯だろう?失敗する班が沢山出た時の事を考えてなぁ、湯で温めるだけで食えるレトルトのカレーなんかをだ
なぁ…」
…へぇ…。ちゃんと考えての大荷物だったのか…。
まぁ、この先生は馬鹿じゃあない。考えてみれば無意味に大荷物を持ち込むはずもなかった。
「少し分けて下さい。ボクのナップサックまだ空きがありますから、いくらかでも分配しましょう」
そう申し出たボクの方へ首を巡らせた肥満虎は、苦笑いを浮かべて、
「おお、そうかぁ?でも悪いなぁ、ウツノミヤにだけ…」
言葉を途中で途切れさせ、いつもは眠たそうに細められている目を、大きく見開いた。
顔に何かついているんだろうか?少し首を傾げながらマズルを撫で回したボクは、ちょっと引っかかって記憶を手繰る。
前にも先生のこんな顔を見た事があったような気がする。あれはいつだっただろう?
「どうかしましたか?」
ボクが尋ねると、先生は「えっ?」と、まるで別人のように聞こえる上ずった声を漏らした。
「ああ、いや…。眼鏡は…どうしたんだ?」
先生はボクから目を逸らして、眼下のクラスに向けながら尋ねて来た。
「汗をかくので外しました。伊達ですからね、外しても問題無いので」
「…そうか…」
普段から口調がやけにのんびりゆっくりしているトラ先生だが、それに加えてなんだか歯切れが悪く感じる。ボクが思って
いる以上に疲労しているんだろうか?
先生は「そろそろ行こうか」と言って登り道に向き直り、再び足を進め始めた。
「荷物、少し持ちますよ?」
「いや、大丈夫。ウツノミヤも、私に付き合わないで先に行ってくれ」
歩みを再開させた先生は、こっちを向こうともしないで応じる。…これはよっぽど疲れているな…。
ボクは大きな虎の後ろに回って、デカリュックに両手を添えた。そして、前に体重をかける形で押す。その感触に気付いた
先生は、目を丸くしながら振り返った。
「手伝いますよ」
「ウツノミヤ…」
先生はポソッとボクの名を口にした後、顔を前に向けて「悪いなぁ…」と、消え入りそうなほど小さな声で呟いた。そして、
眼鏡を外してタオルで顔をグシグシする。
「あ〜…、用意しておいて何だが、なるべくなら使わずに済むと良いんだが…」
えっちらおっちら山道を登りながら、先生は苦笑混じりの声でそう言った。
「そうですね、お世話にならずに済むならそれが一番です」
その背中…リュックを押しながら、ボクは顎を引いて応じる。
でかい尻の上、リュックの下から伸びる太いロープみたいな尻尾が、先をクイッと持ち上げ、歩くのにあわせて左右にフラ
フラ揺れている。
風が時々前から吹くと、汗臭く湿った空気がボクの顔を叩いた。
…これは…結構…重労働…かも…。
少し後悔し始めたボクの横で、頑丈そうな厚底靴を履いたデカい足が、硬く締った山道の土をノシッと踏みつけた。
横を見れば、やけに生き生きしているパンダがこっちを見て「ニヒィ〜っ!」と笑っている。
…なんかムカつく…。ブーちゃんといいササハラといい何でデブいくせにこんなにも元気に登山できてるんだ?スレンダー
なボクらよりよっぽど楽々じゃないか?デブいんだからおデブらしくキツそうにしろキツそうに。少しはトラ先生を見習え。
「良いねぇ良いねぇ!モチツモタレツ?」
それ、意味判って言ってるかササハラ?いや、判ってないっぽいな。首傾げてるし発音も少々おかしい。
「モツとレバー、ハツ…、タレかぁ…、タレのネギマが食いたいなぁ…」
しっかりして下さい先生。どんな聞き間違え方してるんですか?
深々と頷き「ですねえ」と、笑うササハラの後ろから、疲労を感じさせない軽快な足取りでやって来たシンジョウは、ボク
と先生の真横に回り込んで、
「あ、良いわねこの画。先生、一枚良いですか?」
と、ファインダーを覗き込みながら尋ねて来る。ボクには訊かないのか?
「いやぁ…、撮られるのはちょっと…恥ずかしいかなぁ…」
横を向いて苦笑いする先生は、太い指で鼻の頭を掻いていた。
が、シンジョウはハナっから返答など期待していないらしく、位置を調節しながら「先生、前向いていて下さい前」「ウツ
ノミヤ君、もっと楽しそうな顔して」などと、好き勝手に注文をつけ始める。
冗談は性格だけにしろ。コロンか何かと混じったデブ虎の体臭は漂って来るし、重いしキツいし疲れるし、楽しい顔なんて
できるか。
それと、ファインダーを覗きながら横歩きなんかしたら危ないぞシンジョウ?転げ落ちてしまえ。
「ウツノミヤ君もっとスマイル!顔だけじゃなく体全体で笑いなさい!あ、先生、げんなり顔はNGですよNG。…イイっ!
予想以上にイイわこれっ!ちょっとユリカ邪魔っ!影かかるから離れて!そうそうそうい〜わよい〜わよぉ〜…!」
指示出しするシンジョウの目は、いつの間にか嫌な感じのギラつきを帯び始めていた。
…怖いよお前…。
熱中し始めると周りが見えなくなってぶっ飛んだ真似をしでかす。…と、ブーちゃんからは聞いていたが…。
…なるほどな…。これが噂に聞くシンジョウのバッドトリップか…。
逆らうのが何となく怖かったので、ここは刃向かわないでおく。…アレだ。理解不能なモノと遭遇した時にひとが覚える恐
怖というのは、これなんだきっと…。コイツ本当はボクら人類と別種の生き物なんじゃないだろうか?
シャッターを切りまくるシンジョウのターゲットにされながら、ボクは先生に話しかける。
「ところで先生、この荷物は運搬の車で運んで貰えなかったんですか?」
「イイっ!イイわよウツノミヤ君!そうそう、そんな風に自然な感じで話しかけて!自然な表情で!ナチュラルに!ベリーナ
チュラルにっ!そうそうそうソレよっ!」
…怖いしうるさいよお前…。
「積んで行って貰う…つもりだったんだがなぁ…、ふぅ…!うっかり…、自分の荷物と間違えて…、麓で下ろしてしまって…、
ひぃ…!今頃は…、もう山頂に…、私物のリュックが…、ふぅ…!」
…つまり、先生個人の荷物と間違えてこのデカリュックを下ろした、と…?改めて訊いてみれば何この状況?ボクは結局先
生の失敗の尻ぬぐいを手伝っているわけか?
押しているリュックの評価が文字通りのお荷物に変わった途端、ボクの腕から力が抜けそうになった…。
山頂付近の広場に到着した頃には、ボクと先生は抜かれに抜かれて本物の最後尾になっていた。
薄情者のシンジョウは、写真を撮り終えるなりルームメイトを引き連れてさっさと先に行ってしまった。
…気分的には「ササハラよお前もか」。ちょっとばかり裏切られた気分だ。
点呼を終えたボクは間違いなく全員が揃っている旨を、途中から脇腹の痛みを訴え出して一層元気が無くなってしまったト
ラ先生に報告する。…自業自得だ。途中でドリンクガブ飲みなんてするから…。
「それじゃあ各班…、作業開始なぁ…。怪我なんかには…、くれぐれも…、あいたたた…!…注意するんだぞぉ…?」
むっちりした脇腹を手で押さえて軽く顔を顰めているトラ先生は、いつも以上に覇気に欠けた声で指示を出した。
さて、苦行が一つ終わったと思えば、今度は清掃奉仕活動か…。
いつもならオシタリ辺りが口にするだろうセリフなんだが、今日はあえてボクが言おう。…かったるい…。
手の平がラバーコーティングされている作業用軍手を填めた、大きく分厚く頑丈そうな手が、手早くゴミを詰めた袋の口を
ギュッと結ぶ。
「一丁上がりぃ!ほい次ぃ!」
「はいっ」
声を掛けられたイヌイが新しいゴミ袋を取り出し、バサバサやって口を広げながら、ゴミを集めるブーちゃんの後ろを追い
かける。
…しかし手早い…、そしてやけに手慣れている…。
町内会の清掃活動を定期的に手伝わされていたとか言っていたが…、いつもながらブーちゃんの手際には驚かされる。
デカい体を丸め、キャンプ場の芝に落ちているゴミを拾い集めてゆくアブクマは、ゴミ収集からゴミ袋への投入から、作業
全般の手際がやたらと良い。屈んで前進しながら大きな手で手早く次々とかき集めてゴミを拾い、横についたイヌイが広げる
ゴミ袋へ投入してゆく。
満杯のゴミ袋は既に五つ。驚くべきペースに加え、通った後には枯れた芝の葉一本すら落ちていないという、見ていて気分
が良い徹底ぶりだ。
さながらジンベイザメの周りを泳ぐ小魚の如く、アブクマの周りでつかず離れずちょこまかと動くイヌイもまた、あまり目
立たないが実はいい仕事をしている。
邪魔にならないように右に左に位置を変えつつ、アブクマの手がゴミを捨てたいタイミングでサッと袋を寄せ、ゴミを回収
している。
幼馴染だから?それとも恋人だからなのか?それにしたって息が合い過ぎだろキミら…。
当然ボクらも黙って見ている訳じゃない。ボクとオシタリもそれぞれがゴミ袋を手にして清掃に励んでいる。
しばし時が経ち、受け持っている範囲の大部分が綺麗になると、ブーちゃんは腰の後ろに手を当てつつ体を反らし、背骨を
伸ばしながら「あ〜、働いた働いた!」と、満足げに自分の仕事の後を見回した。
この後は炊飯要員としても活躍して貰わなければならないんだが、大熊には疲れている様子が殆どなく、清々しい顔で笑っ
ている。バイタリティに感心してしまう。コイツ本当はボクら人類と別種の生き物なんじゃないだろうか?シンジョウと違う
意味で。
「あとはあそこだな、折れた枝なんかが集まってらぁ。…誰かが纏めてたのかな、ありゃあ?」
首を傾げたアブクマの視線の先には、キャンプ場を囲む木立から出たらしい折れた枝や葉の山。どういう訳か明らかにひと
の手による物…、板きれなんかも同じ箇所に纏まっている。
恐らく利用客が持ち込んで薪にした物の余りなんだろうが…、それにしたって残ったら持ち帰る、せめて所定の場所に捨て
るのが礼儀だろう。
好きな作家の一人であり、ジャーナリストでもあった、故ホシノツカサ氏の影響か、それとも、同じく好きな作家のタカミ
スズが手がけるマタギのシリーズ小説の影響を受けているのか、ボクはこの手の自称アウトドア派の口だけハイカー族が大嫌
いだ。
野性味の証明でもしたいのかどうか知らないが、自宅では飯の支度もろくにしないヤツらに限って、野山に出かけては子供
じみた興味と歓喜に胸躍らせて飯盒を火に掛ける。
自然と一体になる充実感を得意満面声高に叫ぶそいつらの何割が、最新のRV車に乗って排気ガスを撒き散らしながら山を
登り、現地にゴミをばら撒いているのだろうか?
エコロジストを自認する者の多くは、ボクから見れば半端なエゴイストだ。この点については同族だから良く判る。
流行としてエコを口にする者の多くが、コンビニのおにぎりなんかは奥の新しい物に手を伸ばすんだから笑わせる。排ガス
抑制もビニール袋削減も結構だが、廃棄される食料の事は考えもしないその姿勢は如何な物か?
報道に踊らされ、ファッションとしてエコを実践する者は、通り一辺倒の考えしか持たない。検索はしても思索しないから
だ。本物とにわかの差はそこで出る。
あの板きれを捨てていった利用客も、薪なら土に還るとでも考えたのだろうか?山の滋養になるだろうと、都合の良い理屈
でもこねて?
「…ウツノミヤ?」
傍らから声をかけられたボクは、無言で横のシェパードに視線を向けた。
オシタリは、何だか訝しんででもいるような顔でボクを見つめている。
「何笑ってんだ?」
ボクは「ん?」と首を傾げ、キツネ特有のシャープなマズルを右手で撫でさする。
「ボクは笑っていたか?」
「ああ。嫌な顔で笑ってやがった」
だろうな。面白くて笑っていた訳じゃないだろうから。
「失礼だな。こんな理知的なハンサムを捕まえて嫌な顔とは。思考力だけじゃなく視力も衰えて来たか?またも一つ失ってし
まったキミの行く末に幸あれ」
「んだとコラ?手ぶらは強ぇんだぞ?」
軽口を叩いたボクが歩き出すと、悪態を返してきたオシタリが後に続く。
手ぶらは強い、か…。オシタリにしては良い事を言うじゃないか。
失うものが何もない本当の手ぶらになったら、まぁ実際に強いかどうかはともかく、万事に対して強気に出られるだろうな。
…それにしても、こいつ最近いくらか鋭くなって来たか?観察力が増したというか…。
いや、あるいは以前ほど周囲に無関心ではなくなっているからなのかもしれない。どちらにせよ良い傾向だ。
こんもりと重なって小さな山を形成している枯れ木や枝葉、板きれの山は、小柄なイヌイの腰辺りの高さがあった。
そこへ大熊の頑丈そうな手がかかったのを皮切りに、作業が再開される。
「キイチ、ゴミ袋足りそうか?」
「ちょっと足りないかも?無くなったら他の班から分けて貰う?」
イヌイは首を傾げてボクを振り返る。一応班長だから伺いを立てようというんだろう。
「ノルマ的な事を言えば、ボクらだけそこまで頑張る事は無いと思うんだが…。半端も何となく嫌だし、この際だから徹底的
にやるか?」
ボクが意見を求めると、オシタリとイヌイは揃って頷いた。
「ぬははっ!そう来なくっちゃな!」
何故か楽しげに笑うブーちゃん。…いや、本当に楽しくなって来たのかも知れない。片付けや掃除は、効果が見えて気持ち
良くなって来ると手が止まらなくなり、ナチュラルハイにさせてくれるからな。
大物相手の清掃作業も、アブクマの積極的かつ効率的な働きではかどり、たちまちの内に大半が片付いた。
働き者の大きな熊は、ゴミ袋が足りなくなると「ちっと休んでてくれ」とボクらに声をかけ、他の班へ分けて貰いに行った。
班長なんだからボクが行くべきなんだろうが、「皆そろそろ疲れて来てんだろ?良いから休んどけって」という彼の言葉に
甘え、小休止を取らせて貰う事にした。
しかし呆れたバイタリティだ。この中で一番働いているだろうに、一番ピンピンしている。こっちは助かってはいるが、そ
んなに働き者だといろいろ損するぞブーちゃん?
芝生に大の字になったオシタリの横で、イヌイも腰を下ろして足を伸ばす。誰も「疲れた」とは口にしないが、疲労は勿論、
中腰での長時間作業で体が痛くなって来ているはずだ。ボクがそうであるように。
まぁ、もう一頑張りすれば炊飯開始、その後は昼食だ。
用意される食材の関係で、炊飯実習のメニューはあらかじめ数種類に限定されている。
ちなみにボクらの班はカレーを選択している。オシタリは手間のかからないヤキソバを主張したが、ボクとイヌイがカレー
に票を入れ、アブクマもこれを承諾した。
炊飯はほぼアブクマに任せる形になるだろうが、食材を切る程度の事はボクでも手伝える。火起こしの方にはイヌイが付く
し、オシタリの手伝いでも失敗はしないだろう。
さて、ブーちゃんばかり働かせるのも申し訳ない。少しは山を崩しておくか。
思い思いの恰好で休憩している二人を尻目に、ボクはゴミの山に向き直った。
取り除かれた枝葉の下から現れた、まだ緑の葉が付いている生木が、山の一番上に乗っている。
…結構デカいし、あのままじゃあ袋に収まらないな。踏みつけて折るとかしないと…。
かなり低くなったゴミ山に足をかけ、その生木に手を伸ばしたボクは、まず最初にペキッという軽い音を聞いた。
次いで、踏み出していた右足がゴミ山に少し沈み、軽い開放感を足裏が味わう。
その直後、ブヅッという嫌な音を、かなり近くで聞いた。
その音が、体内を伝播して来たからこそ耳元で聞こえたんだという事は、少し後になってから察した。
足裏に鋭い痛み。まずは土踏まず、次いで足の甲、足首、足裏全体と、混乱気味の感覚が痛みの所在を曖昧にする。
反射的に右足を上げてバランスを崩し、無様に尻餅をついた後だった。何か鋭い物を踏み、それが足裏に刺さったらしい事
を頭で理解できたのは。
「あっつ…!」
痛みがある箇所に直接触れる事を本能的に恐れたからなのか、尻餅をついたボクは、足裏ではなく右足の左右脇を無意識に
両手で押さえていた。
「どうした?」
身を起こしたオシタリが声をかけて来たが、返事をする余裕は無かった。
負傷した直後、ショックでいくらかぼやけていた痛みの本震が、足を駆け上ってボクの脳に届き始めていたから。
「ウツノミヤ君!?」
足を両手で押さえているボクの恰好を見て異常を察したらしいイヌイは、立ち上がるなり駆け寄って来た。
「右足?何か踏んだの?靴脱げる?」
クリーム色の猫の問いに、ボクは黙って二度頷き、三つめの問いには靴紐に手を掛けるという動作で応じる。
流石にただ事ではないと察したらしいオシタリは、腹筋の要領で素早く身を起こし、ボクの横手に回って屈み、手元を覗き
込んで来た。
鼓動に反応しているように、痛みには一定間隔で強弱がある。
靴紐を解きながら目を遣れば、ゴミ山は、ボクが足を置いていた部分が少しへこんでいた。
その視線を追ったオシタリは、立ち上がって足早にゴミ山に寄ると、ボクに確認するように目を向け、重なっている枝に手
を掛けた。…そう、確かあの辺りだったはず…。
痛みに顔を顰めているボクが小さく頷くと、オシタリは慎重な手つきで上の物を除け始める。やがて…。
「…釘だ。錆びた釘…」
シェパードは厚さ1センチ程の板きれを掴み上げ、憎々しげに顔を歪ませながら呟いた。
なるほど、アレか。
オシタリの手にぶら下がっているのは、風雨にさらされて暗褐色に変色したと思われる、小さな板きれだった。見ればその
四隅では、錆びた釘が2センチちょっとほど先を覗かせていた。
…廃材…か…。こんな物を薪に利用しようとしたヤツが居るのか?腹立たしいというより、ほとほと呆れた。
靴とソックスを脱いだボクは、足裏を確認する。グレーのソックスには小さな穴があき、その周囲は赤黒く染まっていた。
傷の位置は当然すぐに判ったが、傷その物の形は確認できなかった。血がコンコンと湧いて来るせいで。
「くそったれ!」
憎々しげな顔で板を振り上げ、地面に叩き付けようとしたオシタリは、「待って!」というイヌイの言葉で動きを止めた。
「それ、説明する時に必要だから、壊しちゃ駄目だよ…」
恐らくはおせっかいにもボクの為に憤慨したのだろうオシタリは、その心情を察したイヌイの言葉で、苛ついた顔はそのま
まに渋々手を下ろす。
イヌイは自分まで痛そうな顔になって僕の足を一瞥すると、口元に両手を当て、即席メガホンにして声を張り上げた。
「さっちゃぁああああああああああああああああああん!」
この小さな身体の何処から?そう、度肝を抜かれる程の大声が、イヌイの口から迸った。
返事は無かった。無かった代わりに、見慣れた巨体はイヌイの叫びのこだまが消える前に、丘の向こうに姿を現した。