第十二話 「林間学校」(後編)

ルームメイトの叫び声に応じて、大きな熊は駆けて来た。物凄い勢いで。

ただ事ではない何かが起こった。

イヌイの声でそう察したのだろうアブクマの顔は引き締まっていた。

その太い脚は全力で芝生を蹴立て、巨体は信じられない程の猛スピードで突進して来る。

「ウツノミヤ君が怪我を!釘を踏んで血がいっぱい!」

再びイヌイが声を上げると、アブクマは駆けながら吠えた。それこそ、イヌイの大声の遥か上を行く、凄まじい銅鑼声を張

り上げて。

「先生ええええっ!怪我人だあああああああっ!誰でも良いから、聞こえたら先生呼んで来おおおおいっ!」

立ち止まる間も惜しむように、芝生を膝ですり潰しながら滑り込んで屈んだアブクマは、

「錆びた釘を踏んじゃったの!どのくらい刺さったのか判らないけど、血は結構出てる!」

イヌイからそう告げられると、ボクの顔も見ずにまずは足を見た。そして、大きな手で足首を掴んでギュッと締め、血流を

堰き止めつつ恋人に声をかける。

「尻ポケットだ!消毒液出してくれ!」

何故か常に救急キットを持ち歩いているアブクマの一言で、イヌイは頷き一つを返事にすぐさま動く。

大きな体の後ろに回り込むと、ごそごそっと動いてビニールポーチに入ったソレを取り出し、クリーム色の猫は数秒でボク

の脇に戻って来て屈んだ。

まさか普段から予行演習をしている訳でも無いだろうに、二人はこんな時まで息ピッタリだった。

「足首締めとくから、静かに傷口の上側から注いでくれ。傷に直接はかけんなよ?ちっと洗って傷の状態だけでも見ときてぇ」

頷いたイヌイがポーチから消毒液の小さなボトルを出し、キャップを開ける間に、アブクマはボクの顔を初めて見た。

「ちっと染みるけど、辛抱なウッチー?」

旧友の真剣な顔を見ながら顰め面で頷いたボクは、足裏に感じる生ぬるさに続いてやって来た鋭い痛みに、歯を食い縛って

耐えた。

アブクマの尻ポケットに入っていたせいで温くなっていたんだろう消毒液は、それでもかなり染みた。

傷を自分で見る余裕は無かったが、ブーちゃんの顔は険しさを増した。

「どうなんだよ?」

釘付きの板を手にぶら下げたまま、邪魔にならないようにアブクマの横側に控えているオシタリが、もどかしそうに、そし

て苛立っているように尋ねる。

「傷は小せぇ。刺さったのはその釘か?なら、靴底の分考えて、深さは…」

ブツブツ言ったアブクマは、ニンマリ笑ってこう言った。

「おし!大した事ねぇぞウッチー!」

大した事なくとも痛い物は痛いんだ。ひとの気も知らないで…。

そう一瞬思ったボクは、アブクマが締め付けている足首のキツさから、彼が決してボクの痛みを軽視している訳では無い事

を察した。

…元気付ける為に作り笑い、か…。まったく、こんな時に発揮できるその気遣いには恐れ入るよ。

「ちっと窮屈な格好になるけどよ、足は少し上げとくぞ?その方が血ぃ止まり易いしな。後ろ側に手ぇつくか、仰向けになっ

とけ」

「ああ…」

食いしばった歯の隙間からかすれ声で返事をすると、ブーちゃんはボクの足を少し持ち上げた。

そんなに重傷でもないのに仰向けに寝かされるのも大げさな気がして、ボクは上体を少し後ろに倒し、背中側に手をついて

体を支えた。

程なく、ドスドスと重くて乱れた足音が聞こえてきて、ボクらは一斉に横手を向いた。

いつの間にか増えてきていたギャラリーの向こうに、全身のダブついた肉を揺らしながら駆けて来る肥満虎の図体が見える。

…珍しい。先生の目がきちんと開いている。

「怪我人はウツノミヤか?」

駆けてきた先生は、息を乱しながらボクの傍で屈んで、そう尋ねて来た。心なしか口調も間延びしたいつもの物と違うよう

な…。

「うす。錆びた釘踏んじまったらしい。オシタリが持ってるアレっす。長さはそうでもねぇし靴越しだけど、出血は結構ある。

消毒液かけて確認したが、傷口そのものは小せぇみてぇだ。ただ、足つかせねぇように運ばねぇとまずいっす。釘から剥がれ

た錆が棘みてぇに中に残ってる。足ついたら奥に入ってっちまうし、相当痛ぇはずだから」

「上出来だ」

落ち着いた口調で説明したアブクマの肩をポンと強めに叩いた先生は、熊を手伝ってボクの足首を包帯で縛ると、足裏に軽

くガーゼを当て、あまりキツく触れないように余裕を持って固定した。

「ウツノミヤ。もう少しだけ我慢してくれなぁ?」

応急処置を終えてそう言った先生の口調と表情は、いつもの気の抜けた物に戻っていた。

妙な話だが、ボクはそんな先生を見てちょっと安心した。

緊迫した様子が薄らいだトラ先生の態度で、やっぱり傷はそう大した物じゃないんだと、確認できたような気がして。

遅れてやって来た学年主任や他のクラスの先生に事情を話したトラ先生は、アブクマとオシタリに手伝わせてボクを背負う

と、「よっこらぁ…しょっ…とぉ…!」と、気の抜けた気合いのかけ声を漏らしながら立ち上がる。

ボクのリュックはイヌイが持って来てくれて、先生はそれを腕にかける形で吊るす。

「済みませんが、後はお願いします」

学年主任にペコリとお辞儀するトラ先生におぶられたまま、ボクは一瞬疑問に思い、すぐ納得した。

確か今日は、校医の先生は三年生の方に同行している。怪我人の搬送も手当ても、引率の先生方がやるんだった。

…ボクのヘマで、先生は引率から外れなければならないのか…。

ちょっと申し訳なくなったボクは、トラ先生の背で揺られながら、こんもりとした丘を下る。

首を巡らせると、オシタリとイヌイとアブクマが、揃ってボクらを見送っていた。

…悪い事をしたな。おまけに、お礼もきちんと言えなかった…。

自分では落ち着いているつもりだったが、あまり余裕は無かったらしい。全く情けない話だ。

…それにしても…。

ボクは先生におぶられたまま、汗でじめっとしたその背中の感触に注意を向けた。

…汗臭い…。おまけに背中までブニブニ…。

よせば良いのに鼻は勝手に香りを吸い込み、スンスン鳴る。

「あ〜…、汗臭いかぁ?済まんなぁウツノミヤ」

鼻を鳴らしたのに気付いたトラ先生が、気にしたようにそんな事を言い、ボクは慌てて首を横に振る。

「あ…いえ…、悪くないです」

…何言ってるんだボクは?

けれど、だらしなく肥え太った中年虎の、脂肪を分厚くかぶった広い背中は、不思議と、そう不快でもなかった。

痛さと疲れで弱っているんだろうか?トラ先生の背で揺られるボクは、どういう訳か安堵に近い感情を覚えている。

「済まんなぁ…、車までの辛抱だからなぁ?」

「いや、ホント大丈夫ですから…」

しきりに体臭を気にし始めた先生にボソボソと応じるボクは、シャッターを切る電子合成音に気付いて首を横に向ける。

「大丈夫?」

そう尋ねながらも、シンジョウは斜め前に回り込みながら再びカメラを構えた。

…こんな所まで撮るなよ性悪女…。麦茶と間違えてめんつゆでも飲んでしまえ。



「保険証は持って来ているかぁ?」

運転席側のドアを開けた肥満虎は、先に後部座席に乗せられたボクに訊ねて来た。

「はい。持っています」

保険証かそのコピーの携帯は、この林間学校での注意事項に含まれていた。当然僕も持って来ている。

「なら、先に借りておこうか」

ボクがリュックをまさぐっている間に、運転席に巨体を押し込んだ先生は、椅子を調節し始める。

前の運転者がスレンダーだったせいか、出っ腹がハンドル下部に当たって運転姿勢になれなかったらしい。椅子を目いっぱ

いスライドさせてスペースを確保している。

こういう場面を見るとつくづく思う。トラ先生は、ヤバい肥え方をしていると。

リュックから保険証を取り出したボクは、「いたた…」と呟きながら、肩を捻って逆向きに差し出された先生の手にそれを

握らせた。

それは、ボクの親戚が擬主となっている、国民健康保険の丸学保険証…。

名字の違う世帯主の名前が記された厚紙のカード型保険証を手渡したボクは、受け取った先生の反応を観察していた。

…とは言っても、担任なんだからボクの家庭事情については重々承知しているはずだ。今更保険証を見られたぐらいで、ど

うって事はないんだが…。

保険証を太い指で摘んでいる先生は、確認したのかしないのか、一瞥しただけですぐにポケットにしまう。

「横になっていて良いぞぉ?足を上げておいた方が楽になるかもしれんしなぁ」

「あ、はい。…でもそんなに酷くないですから…」

ボクは足を組んで、怪我した右足を宙に浮かせる。

これなら膝裏が圧迫されるし、上げているのと大して変わらないんじゃないか?何より、席に横になるよりよっぽどスタイ

リッシュだ。

「山道だからちょっと揺れるが、麓までは辛抱だぞぉ」

先生はそう言いながらギアを動かし、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

おぶられていた時の揺れだって平気だったんだ。車に揺られる程度どうって事はないさ。



甘かった。

おぶられていた時とは全く異なる車特有の無機質な揺れは道を走る揺れに加えてエンジンの震動もあるため間断無く足に伝

わる足裏がどこにも触れないよう浮かせて居ても同じ事だシートから伝わる震動は組んだ状態で下にしている左足を伝って上

の右足まで伝播しボクの…、

「…ウツノミヤ?」

足裏は常にシクシク痛む時にズキッと来るのは傷の中に残っている錆の破片のせいだろうかそうだそうに違いないおのれ錆っ

ていうかあの板切れ捨てたヤツ末代まで呪われてしまえいやむしろその代で断絶してしまえ狐は執念深いぞ本当に…、

「あ〜…、ウツノミヤ?」

だから林間学校なんて疲れるだけのイベントは嫌だったんだやる気になって生き生きしているオシタリやアブクマの気が知

れないササハラかササハラもそうだったなそういえば脳筋共に加えてシンジョウもやたらと張り切っていたとりあえず炊飯実

習失敗してしまえ眼鏡女…、

「大丈夫か?ウツノ…」

「はいっ!?」

口から出た返事は、刺々しくなってしまった。うっかり。

バックミラー越しにボクを見るトラ先生の目が、びっくりしたようにちょっと大きくなっている。

傷の痛みでイライラしていたボクは、恨みつらみを胸の中で言い募って足の事を忘れようとしていたんだが…、そのまま引

き摺った思考が返事に影響してしまった。

「大丈夫です。全然平気です」

ボクが営業スマイルを浮かべて言葉を続けると、ミラーの中の肥満虎の目がいつも通りの細さに戻った。

「そうか、全然平気か」

ボクの言い回しが可笑しく感じられたのか、先生はニンマリと細目を糸のようにした。

それからしばし無言で車を走らせた先生は、「ウツノミヤは偉いなぁ」と、ポツリと呟いた。

「はい?」

首を傾げたボクの顔を、肥満虎はミラー越しにちらっと見る。

「何を隠そう、私は痛いのが嫌いでなぁ」

世の中の大多数はそうですよ先生。特殊な趣味でも無い限りはまず。

「健康診断の採血ですら、それはもう顔を思い切りそむけて、息を止めながら受けるくらいに痛いのが嫌いでなぁ…」

…子供のようだ…。そんなでかい図体してちっぽけな注射針が怖いのか…。

とは思ったが、口に出しては「はあ…」と、曖昧な返事だけに留めておく。

いつもなら「何だ情けない」と鼻で笑うところだが、錆びた釘なんてちっぽけな物でこの有様になっている今のボクは、先

生を心の中で嗤う気分にはなれなかった。

「だから、じっ〜と、黙って我慢していられるウツノミヤは、偉いなぁと思えた訳だ」

「そんな大した事じゃ…」

泣き言を口に出していないだけで、実際には胸中で八つ当たりと悪態と呪いの言葉を延々と呟いているんだが…、当然黙っ

ておく。

勝手に上がってくれる評価をわざわざ落とす事もないだろう。



病院での処置は、考えていたよりは短時間で終わった。

錆が傷の中に残っていたものの、切開しなくとも、ピンセットのような器具でつるっと綺麗に摘出できたそうで。

麻酔をかけられたから痛くなかったものの、傷口の中をピンセットでほじくられて洗浄、消毒される感触は、はっきり言っ

て気分が良い物じゃない。

さっきのトラ先生の話じゃないが、処置の間は思い切り顔を背けていた。

自分の傷口がほじくられるところなんて別に見たいとも思わない。と言うより見たくない。できれば。

刺さったのが野ざらしになっていた錆釘という事もあって、消毒薬やら抗生物質やら何やら塗られたし注射されたし飲み薬

も出される事になった。

先生が会計を済ませている間、待合室の背もたれ付きベンチに座って待ちながら、ボクは時計を確認する。

…十二時半か…。今頃はもう皆炊飯実習を終えて、昼食を摂っている頃だろうな…。

心配もかけてしまった事だし、車に戻ったらブーちゃんかイヌイにメールしておこう…。

会計を終えた先生は、ペッタンペッタンスリッパを鳴らして僕の前まで来ると、顔を緩めて大きな手をボクの頭に伸ばした。

「偉かったなぁウツノミヤ。いい子だいい子だ」

分厚くてぼってりした大きな手が、ボクの頭をワシワシと乱す。

待合室には他の患者も居る。何故か誉められて頭を撫でられるボクに、好奇の目が集まった。

「や、やめて下さい先生…」

首を動かして逃れたボクの前で、先生はますます笑みを深めた。

「はっはっはっ。照れなくて良いぞぉ?」

いや照れるとかじゃなくて、晒し者になるのは勘弁して欲しいっていうのが正直なところです先生。

「それじゃあ、退散するかぁ」

「はい」

頷いて腰を浮かせかけたボクは、しかし先生に「ああ、そのままそのまま」と押し留められる。ん?なんでだ?

少し首を捻っているボクに、先生はまるで圧し掛かるようにして被さってきた。

コロンか何かと汗が混じった中年体臭を鼻で、前屈みになっただけで揺れる太鼓腹の動きを目で、それぞれ捉えたボクは、

「わわっ?」

その太い片腕が自分の膝裏とシートの間、もう片腕が背中と背もたれの間に入ってきて、思わず驚きの声を漏らした。

先生の太い腕は、ボクの背中と両膝裏に入り、下からグイッと持ち上げた。

軽々とトラ先生の胸の高さに抱き上げられたボクの…、この格好は…、つまり…、お姫様抱っこというアレだ…。

「せ、先生っ!平気ですからっ!」

しつこいようだが周囲の目もある。…いやそれ以前にこの抱かれ方は無いだろう。

「降ろしてください、自分で歩けます!」

羞恥で顔をカーッと熱くさせながらボクが訴えると、

「はっはっはっ。まぁまぁ、遠慮するな。こういう時の特権だぞぉ?」

先生はそう言って笑う。いや、普通に遠慮させて欲しいここは。せめておんぶとかにして下さい先生。

怪我した右足が先生側に来るように抱かれたボクは、体の右側面に物凄いブヨブヨ感を覚える。

水袋。それもぬるま湯の詰まった。歩く度にタップンタップン揺れている胸の脂肪は伊達じゃない。

「お、降ろしてください先生…!本当に大丈夫ですから!」

「怪我人なんだから遠慮しないで良いんだぞぉ?…あ…」

笑っていた先生の顔が、微妙に曇った。

「あ〜…、もしかしなくとも、汗臭くておっさん臭くて嫌なのかぁ?」

そう訊かれたらハイと言える訳がないじゃないか。察して下さい先生。

「そ、そっちは何とも…。恥かしいだけです…!」

ボクが目を伏せてそう訴えると、先生は「はっはっはっ」と笑いながら出口に向かって歩き出す。

歩く震動と笑いで揺れる先生の胴から、密着しているボクにも震えが伝わって来た。

「恥かしいかぁ、でもまぁちょっとの我慢だからなぁ」

そんな事我慢させるぐらいなら足の痛みを我慢させて欲しい。

暴れて逃れようとしたらなお衆目を集める。仕方が無いから顔を伏せて恥かしさに耐え、大人しくしたボクは、待合室の患

者達の注目を集めながら、先生にお姫様抱っこされたまま車まで運ばれて行った…。



「飯はどうしようかなぁ」

ハンドルを握る先生は、信号待ちで車を止めながらバックミラー越しにボクを見る。

携帯で状況を報告した際に学年主任から言われたらしいが、ボクと先生は林間学校への復帰はせずに、皆が戻るまで学校で

待機という形になるそうだ。

なお、ボクもイヌイに傷はそう大した物でも無かったとメールしておいたが、彼の返信によれば調理実習は当然成功、アブ

クマもオシタリもボクからのメールを読み上げたら安心したようだとの事だった。

「ウツノミヤは何が食いたい?」

「あ、ボクは別に何でも…、学校に戻ったら学食のパンとかで済ませます」

「今日学食は休みだぞぉ?」

…あ、そうだった…。

先生の間延びした返事を聞き、ボクは耳を倒す。

「先生はどうなさるおつもりなんですか?」

「ん〜…、コンビニで何か適当に買って行って食おうかと思っているんだが、ウツノミヤもそれで良いかなぁ?」

別に何でも良かったボクは、先生の提案に同意した。

「腹にカレーだと教えていたからなぁ…、カレーが食いたくて食いたくて…」

「あ…、何だか言われて見たらボクも…」

ブーちゃんのカレーを実はちょっと楽しみにしていたボクは、濃厚なカレーの香りと味を鼻と舌に甦らせる。

…途端に生唾が湧いてきた…。

傷の事に気をとられて自覚できていなかったが、山登りや清掃作業で結構動いた事だし、そこそこ空腹だったらしい。

「弁当型の、レンジで温めるだけで食えるカレーライスか、レトルトのちょっと良いカレーなんかが食いたいかなぁ…。熱々

のヤツをこう、ハフハフ言いながら…」

「そうですね」

ブーちゃんのお手製カレーは残念だったが、今日の場合は自分の不注意による退場だ。コンビニの弁当だろうとレトルト品

だろうと贅沢は言っていられない。

「たははぁ…。あれだけ準備していたレトルト、炊飯失敗した班が無かったおかげで、結局一つも使われなかったらしいから

なぁ…、私は今夜からしばらくレトルト飯だ。まぁ、炊飯がうまく行ったのは結構結構コケコッコだが」

苦笑いした先生は、リアクションに困るジョークを飛ばす。

少ししてからボクの反応を伺うようにバックミラーを覗いてきたが、目を合わせないように横を向いておいた。…聞こえな

かったふりをするのが一番良いだろう。

信号が変わって走り出した車は、道沿いのコンビニの看板前で減速し、駐車場に滑り込んだ。



「結構美味いなぁ…」

丼と筒の中間の形状をした容器に入ったコンビニカレーを少し食べた後、先生はぼそりと呟いた。

「ですね…」

ボクも湯気立つ容器を見下ろしながら頷く。

丸ごとレンジに入れ、暖まったら上部に載せられたトレイを外し、その下のライスにルーを注ぐだけ。そんなお手軽仕様で

ぶっちゃけあまり期待していなかったコンビニカレーは、割と美味かった。

空腹だから、そしてカレーを食べたかったからというのもあるだろうが、それを差し引いても悪くない。

具の野菜や肉が小さくて、そこはまぁ値段通りと割り切るしかないが、ちょい辛の濃厚なカレールーがやけに美味い。

ビリビリするような辛さじゃなく、舌にじわっと残る程良い辛味だ。

ボクと先生が昼食を摂るここは、接客などに使われる職員室脇の応接間。

レンジが置いてある湯沸し室も近いので、トラ先生が校長に断りを入れて、ここで昼食を摂らせて貰っている。

多くが林間学校に同行しているから、先生方は殆ど残っていない。

学校は驚くほど静かで、ひとが殆ど居なくとも定時になる勤勉なチャイムがやけに大きく聞こえた。

そんな中、留守番として残っている少ない先生の一人、初老の獅子…海原鋼悟郎(うなばらこうごろう)校長は、先に連絡

を受けてはいたようだが、ボクの怪我の具合を直接トラ先生の口から聞くと、いつもの厳しい顔を僅かに緩めていた。

それにしてもこの応接室、本当に立派だ。

絨毯から壁にかけられた風景画から調度品の花瓶に至るまで、高級そうではあるが派手ではなく、センス良く纏っている。

革張りのソファーとローテーブルの応接セットもまた立派で高そうだが、そのテーブルに乗っているのは安物のカレーなん

だよなぁ…。

ボクが食べ終える前に、トラ先生はあっという間に一つ平らげ、二つ目に取り掛かる。…そんなんだから肥えるんですよ?

とは思ったが黙っておこう。

汗をかいたコップの中で、カロンッと、氷が涼やかな音を立てた。

…悪くないな…こういうの…。

食事に夢中な先生は、元々あまり多弁な方でも無いが、今はさらに静かで、応接室自体も学校全体もとにかく静かだ。室温

を快適に保つ空調の音もほとんどしない。

昼下がり、少し遅めの昼食をこんな風に食べる機会なんてそうそう無い。

ボクはカレーを食べながら、もうじき二つ目を空にしようとしているトラ先生をちらっと盗み見る。

…保険証の事で改めて何か言われるんじゃないかと少し身構えていたんだが、先生は何も言わない。

やじ馬根性丸出しで家庭の事を訊ねられるのも、同情されるのも真っ平御免だ。

これまで一体何人がしたり顔で毒にも薬にもならない激励をかまし、何人がおせっかいにも勘違いした気休めの言葉を口に

し、何人が同情する振りで好奇心を上手く隠したつもりになって様子を窺って来た事か…。

…そうか、ボクはきっとホッとしているんだ。

先生が何も言わない、静かなこの時間と空気に、ちょっと安堵しているんだろう。

それが、この空気を悪くないと感じている理由だ。

トラ先生が二杯目のカレーを食べ終え、三杯目の蓋を開けようとしていると、ドアがココンッと軽快にノックされた。

トラ先生の「はいはい、開いてますよぉ」という返事を待って入って来たのは、厳つい顔にガッシリした体付きの獅子獣人、

ウナバラ校長だった。

「用務員の浦堀君から差し入れだよ。今日も暑いからな、ありがたい」

見た目に合った野太い声でそう言った校長先生は、ボクとトラ先生の間に緑茶の500ミリペットを二本置く。

「これはわざわざどうも。いやぁ、せっかくの林間学校、晴れたのは良かったんですが、こう蒸すとたまりませんなぁ。私に

はもうきつくてきつくて、たはははは…」

トラ先生が笑みを向けると、校長は口の端をほんの少し曲げて笑う。

「高校時代の君ならどうという事は無かっただろうがね。つくづく見事に中年太りしたものだ。…いや、中年太りとも少し違

うかな?二十台中盤からスタートだったか…」

「はっはっはっ。そうおっしゃる校長も、見たところそろそろ体が弛んで来てらっしゃるんじゃあ?」

「さすがに君ほどでは無いよ」

校長先生はトラ先生と親しげに話している。先生方は皆こんな感じに話すんだろうか?それとも特別仲がいいのか?

…いや、ウナバラ校長は、トラ先生の学生時代の担任だったとシンジョウから聞いた。そんな関係だから特別仲がいいんだ

ろう。

そんな事を考えていると、言葉を切った校長がボクに視線を向けた。

「ウツノミヤ君、家の方への連絡は済んだ。驚いてはいたが、怪我もそう深刻ではない事を説明したら安心したんだろう、お

大事にと言伝だけ預かった」

「そうですか。有り難うございます」

伝言だけか…。まぁ、直接話したいと言われても戸惑うだろうが。

「後で直接連絡を取りたまえ、声を聞かせて安心させてあげないとな」

「はい。そうします。不注意からご心配をおかけして、申し訳有りませんでした」

校長は少しの間ボクの顔を見つめ、「ではごゆっくり」と踵を返した。

それぞれの口から挨拶して校長を見送ったボクとトラ先生は、再び食事に取り掛かる。

が、今のやりとりがちょっと気になったボクは、スプーンを動かしながら先生に尋ねてみた。既に知っている事を確認して

みたかったから。

「校長先生とは、昔からお知り合いなんですか?」

「ん?うん。私が高校の時…、丁度今のウツノミヤと同じ一年生だった時から、三年間担任だった」

なるほど、本当だったのか。

「ウナバラ校長に教えられなかったら、教師になろうなんて思いもしなかっただろうなぁ…」

トラ先生は細い目をますます細めて、感慨深そうに呟く。

「ウナバラ校長は、元々は私の地元…、隣の県の教職員だったんだが、ここの前理事長…つまりホシノ理事長の亡くなった旦

那さんに乞われてこっちへ移って来たんだ。歴史は繰り返すというヤツかなぁ…、実は私も校長に声をかけられてこっちに移っ

てきたクチなんだが…」

「はあ…」

ボクは頭の中で情報を整理する。シンジョウ経由で入手した情報と完全に一致している。さすがだな。

先生はカレーに視線を落とし、ぼそっと呟いた。

あまりにも小さな声だから聞き取り辛かったが…、

「…恩師に誘われ…、アイツが出たこの学校に…この街に…か…。この街と学校には、妙な縁があるんだろうな…」

と、少し寂しげな調子で漏らしていた。

…アイツが居た学校?何の事だろう?アイツって誰だ?

訊ねてみようかとも思ったが、やめた。

明らかに独り言だったし、何より…、先生がこう…、やけに寂しそうに、哀しそうに見えたから…。