第十四話 「イヌイの提案」

相変わらず退屈で、かつ難しく考えようとすると理解に苦しむ映画を、もはや完全に無視しながら、ボクとイヌイは櫻和居

成の作品についての話題で盛り上がっていた。

なお、オシタリはボクの横でテーブルに突っ伏す格好で、アブクマはイヌイにクッション代わりにされたまま、それぞれ熟

睡中。

イヌイは結構ディープと思える話題でも問題なく食らい付いて、時には驚くような見解を述べる。

相当詳しいなこいつ…。ネット上を除けばここまでディープな話ができるファンと出会えたのは初めてだ。

同じ作家の作品が好きという仲間意識が働いてか、ボクとイヌイは普段以上に打ち解けて、話の内容は次第にコアな方へコ

アな方へと寄って行く。

これからは定期的にイヌイと語らう時間でも作ろうか?そんな事を考え始めた頃の事だった。その話題がイヌイの口から飛

び出したのは。

「…そういえば、ウツノミヤ君は聞いた事ある?オウニギ先生、別のペンネームでも本を出してたっていう話…」

イヌイが持ち出した話題に、ボクは軽く顔を顰める。

「ああ…。まぁ聞いたっていうか、噂程度なら耳にしてるが…」

一部ファンの間では昔から、ある眉唾物の噂が囁かれている。

つまりそれが、今イヌイが口にした事…。生前の櫻和居成は、二つペンネームを持っていたっていう話だ。

ま、一種の都市伝説みたいな物だ。

ゴーストライターみたいな真似をした事があるとかなんとかと、何かの雑誌のインタビュー記事に載っていたとか、はたま

た本人がそう漏らしていたとか、出所も不明で根拠もない、無責任な噂が一人歩きして拡大していった物らしいんだが…。

「イヌイ、あれ信じてるのか?」

「全然信じてなかった」

だろうな。と思ったボクは、しかし直後にイヌイが発した「ついこの間までは」という言葉に眉根を寄せる。

「どういう意味だ?」

「ちょっと気になる事ができて…」

歯切れ悪く語るのは、まだイヌイ自身が半信半疑だからなんだろうか。

とにかく、彼の言う事には、櫻和居成と良く似た雰囲気の作品を書く作家を、つい最近見つけたらしい。

…いや、より正確には、櫻和居成と良く似た雰囲気の作品を「書いていた」作家…、になるか。というのも、イヌイの話に

よれば…、

「僕もついこの前知ったばかりのその作家さん、ここ十年くらい新刊出してないみたいなんだ」

と、いう事らしいからだ。…それにしても引っかかる数字だ…。

「へぇ…、ここ十年…ね…」

イヌイの言わんとしている事は察したと、ボクはそのキーワードを口にする事で伝える。

少し興味を覚えた。十年…。イヌイも意識しただろうこのキーワードは、特別なものだ。

というのも、櫻和居成が早逝したのは、今から十年ほど前の事だから…。

「イヌイは、その作家の本を読んだんだな?」

「うん」

「どうだった?」

「似てると思う。作品そのものの雰囲気…、特に文体は」

イヌイは最後の、「文体は」という一言を強調し、ボクは少し首を傾げる。

文体には作家の癖が出る。筆跡のように。

それが似ているというのはダブルペンネーム説支持側にとっては有利に感じるんだが…、イヌイは鵜呑みにしていないよう

だし、むしろ戸惑っているような、判断に困っている様子さえ見せた。

本気では信じていない?いや違うな。…信じて良いかどうか迷っているような雰囲気だ。

元々イヌイ自身も懐疑派なんだろう。それで、自分の考えを覆すような物が見つかって、半信半疑で考察している最中って

とこかな。

「文体は…って、それだけ?他はあまり似ていないと?」

「ううん。他が似ていないとかじゃなくて…、その…、色々書く先生だったけど…、僕が見つけたそれ、毛色がかなり違って

て…」

「毛色?テーマとかジャンルとかが違うって事か?」

ボクの問いに、イヌイは「うん…」と、何故か目を伏せながら頷く。

「どんな本だったんだ?ジャンル的には何?」

「恋愛…かなぁ…」

…ん?恋愛物は櫻和居成が書いたとしても別に違和感はないぞ?

作中で恋愛をソースにしている物はそれなりにあったはず、むしろ珍しくもないような…。

そんな事を考え、イヌイほどのマニアが恋愛物だから毛色が違うと表現するのも妙に感じたボクは…、

「…同性の…だけど…」

「はぁ!?」

彼がポツリと付け加えた言葉で仰天した。

思わず高くなってしまったボクの声に反応し、机に突っ伏しているオシタリは「う〜…?」と呻き、横臥しているブーちゃ

んは「ふがっ…」と鼻を鳴らす。

…起きてはいないな?とりあえず今は遠慮せず寝てろ二人とも。むしろ邪魔せず寝てろ。少なくともこの話が終わるまで。

「…でね?文体なんかは本当に似てるんだけれど…、作品のテーマがテーマだから自信持てなくて…」

「ちょいストップイヌイ。キミそれどこで見つけたんだ?」

「古本屋さん。筆者名が何となく引っかかって…」

「ふぅん…。ちなみに何て作家?」

「天道宇凪(てんどううなぎ)」

鰻っ!?

…じゃなくて、なるほど…。

ボクが納得した事を察して、イヌイは「ね?引っかかるでしょ?」と呟く。

オウニギファンの間では有名な話だが、彼はそのペンネームを御握りと稲荷寿司から取ったらしい。

オニギリイナリでオウニギイナリ。言葉遊びが好きだったという彼らしいエピソードだ。

だからイヌイが天道宇凪という作家名に何かしら感じたのも頷けた。

てんどううなぎ…。天丼と鰻を捻ったんだろうか?そう考えるとネーミングセンスは似ている。

「聞いた事ある?この作家さんの名前」

「無いな。全く無い」

「ボクが読んだのは纏めて売られてた続き物だったんだけれど、シリーズ物だったソレ、途中で終わってるの。ネットで調べ

たら、その本が、その作家さんの名前で出された最後の作品だった。しかもそれの発刊、オウニギ先生が亡くなる少し前…」

「それ、タイトルは?」

「虎狐恋歌。聞いた事…」

「ないな、やっぱり。で、出版社とかまで判るか?」

「オウニギ先生と一緒」

うわぁ。本格的に気になってるんだろうなイヌイ。もうそこまで調べてるなんて…。しかし、出版社まで一緒とはな…。

櫻和居成は処女作から一貫して全ての作品を同じ出版社から出している。

他の出版社から本を出さないという契約を結んでいたとか、専属担当が親友だったとか親類だったとか恋人だったとか、他

の出版社に持ち込んだ事もあるにはあったが馬が合わなくて他への持ち込みは止めたとか、この事に関しても噂は色々あるん

だが…。

「しかしなイヌイ?本当にそうだったら、とうに誰かが突き止めているさ。だって十年も経っているんだぞ?」

「そう。十年も前だよ?」

イヌイは両手の指を全部広げて見せ、ボクの言葉尻に似た言葉を被せて来た。

「フロッピーからディスクに記録媒体が本格的に移行し始めてた頃。USBメモリが国内で一般的になり始めて間もないぐら

いの頃。携帯電話がようやく一般化して、それでも圏外だらけだった頃。当然カメラがついてないのが普通。デジカメなんて

超高級品の時代だし」

イヌイの言おうとしている事は、すぐに判った。

「ネットが今ほど普及していなかった…、か…」

「整備はされていただろうけれど、たぶんネット人口は今よりずっと少なかった頃だもん」

「ふむ。今でこそ掲示板とかファンサイトを使えば簡単にできるファン同士の意見交換も、当時は…」

「うん。だから、両方を読んで、それで比較する人も居なかったんじゃないかな?そもそも、このテンドウっていう作家さん

とその作品、…こういうのもなんだけど…マイナーだし…」

…一理有る…。

ボクは腕を組んで考える。机に突っ伏しているオシタリの頭を眺めながら、与えられたばかりの情報を整理し、吟味する。

怪しいといえば怪しいんだが…。

…って、このサスサスいってるのは何の音だ?

ディスク読み取りの音かと思ってパソコンを見遣るが、静かな物だ。

微かな音の出所を探せば、クッション代わりにしているアブクマの腹を、イヌイの手がゆっくり撫で回していた。

何て言うかこう…、犬の背中でもゆったり撫でてやるような、あんなスローペースで大きく撫でている。

「何してるんだイヌイ?」

「うん?ん〜…」

訊ねたボクに、イヌイは手を動かし続けながら小さく首を傾げ、

「…ペンをクルクルっと手で回すアレみたいな感じ?」

そう、まるで一種の癖であるかのような事を言い出した。

…という事は、考え事しながら頻繁にこんな事してるのかキミ?自室では…。

「気持ち良さそうだね。サツキ君」

イヌイがそう言うので確認してみるが…、熟睡しているブーちゃんの顔には、変化らしき物は全く見られない。

「そうなのか?っていうか気持ち良さそうなのかコレは?」

「うん。何となくだけど」

イヌイは曖昧な事を自信たっぷりな口調で言う。

いつも理路整然としているイヌイなんだが、時々コイツの事が良く解らなくなる。常識的な外面対応に似合わず、結構深い

のかもしれない。

「どの辺がだ?どの辺りを見れば気持ち良さそうだって判るんだ?」

「うんと…、尻尾とかかな?」

首を捻ったイヌイの視線を追えば、ゆうに三人前はあろうかというデっチリにくっついている、存在意義が判然としない短

く丸い熊尻尾が、ピコピコと動いてる。

「ね?」

「「ね?」って…、いや、まぁ…、喜んでるの…か…?」

ボクは首をいっぱいに傾げながら理解に苦しんだ。

そもそもこれで寝苦しくないのかブーちゃんは?

横になってる所にのしかかられてクッション代わりにされてるような状況だぞ?

その上太鼓腹サスサスされてるんだぞ?こそばゆいとか圧迫感があるとか、そういうのは無いんだろうか?

…まぁ、ゆくゆくは二百キロに達しようかという大熊と、その四分の一程度の重みしかない小柄な猫だ。

この体格差だと、イヌイみたいな小さいのに乗っかられた所でどうって事は無いのかもしれないが…。

「サツキ君喜ぶんだよ?お腹撫でられると」

「何でだそれ?気持ち良いのか?」

「たぶん。ウツノミヤ君もどう?やってみる?」

「喜ばせてどうするんだボクが?」

苦笑いを返したら、イヌイはニッコリと笑う。

「喜ばせるのに意味や理由なんて必要無いじゃない?」

「見返りくらい求めても良いんじゃないか?」

苦笑いを浮かべっ放しのボクが言うと、イヌイは口元に手を当ててクスクスと笑った。

「え〜?喜んでくれる事が見返りで良いんじゃない?それ以上を求めるのも、なんだか面倒臭いよ」

…なるほど。面倒臭いか。そこを面倒臭がらずに求められるのは、ボクの性格なんだろうな。

「遠慮せずカモン」

「いや遠慮させてくれ」

「手触り良いんだよ?」

 …確かにフカフカのムニムニだったが…。

「考え事に集中したいんだ」

「あ、ゴメン気になってた?」

イヌイはようやく手を止める。が、それですぐさま考えが整理できる物でも無い。

そのまましばらく考え込んでいたら、イヌイが唐突に口を開いた。

「ひとと違う所は、個性だよ」

ボクは「ああ…」と頷く。聞き覚えのあるフレーズだった。

「人狼探偵。有森跳美(ありもりはねみ)のセリフだったな」

とは言っても、ボク自身は結構印象に残っているものの、これは代表的名台詞って訳でもない。

猛々しさと優雅さが同居するいくつもの独特の台詞回しが特徴的な同作のなかでは、どっちかと言えば目立たない台詞だ。

やっぱりマニアだなイヌイ。こういうのがポンと出て来る辺りが。

「うん。あれ凄いと思った。「なるほどなぁって」思う事、これまで何回もあったけど、あの一言ぐらい効いたのは無かった」

「同感。考えて見れば当り前、そもそも人と違うとこを「個性」って言うのにさ。ズシッと来た」

「だよね?」

「ああ。「個性的」とか「独特」とか言って、ちょっとでも毛色の違う物は排斥されるのが現代だからな。「それは間違って

る」って、改めて思い知らされた気分だった。個性って、そもそも悪い言葉じゃあなかったんだよなぁって、今の風潮でいか

にも蔑視されがちなだけなんだよなぁって、考えさせられたよ」

まぁ、それでもボクは個性的と取られるような振る舞いはなるべく避けるが。

目立たないに越した事は無いし、目立つにしても適度かつプラスになる方向でに限る。

考えてみて欲しい。風変わりな所を「個性的なキャラクター」とか「独特の振る舞い」とか称されてウケるのは、普通、芸

能人や著名人ぐらいの物だ。

それにしたって、芸能人なら下火になれば「ああ、そんな芸風のも居たね」で済まされるし、著名人がスキャンダルでもや

らかせば「いつかはそんな事すると思ってた」って、つつくポイントにされるだけだ。

櫻和居成の言葉には賛同するが、かといって実践なんてしてられない。

って…、ん?

ボクはイヌイの顔を見つめる。

オウニギ作品の言葉を引用しての発言は、唐突といえば唐突だった。

考えの纏らないボクに業を煮やして普通の話題に戻した…って雰囲気でもない。

イヌイが何でその言葉を言ったのか、ちょっと考えたら判った。

「その、テンドウって作家の作品にもあったのか?同じようなセリフが?」

「うん。状況はかなり違うけれど、まるっきり同じセリフがあった。しかも出版の時期で言うと、テンドウ先生の作品の方で

先に出てたみたい」

…ますます怪しい…。

「試しに読んでみる?」

イヌイは小首を傾げてそんな事を言う。が、ボクは少し考えてから首を横に振った。

「…いや、いい」

一瞬心が揺れたが、止めておく事にした。

それが本当に櫻和居成が書いた物なのか判らない上に、同性愛物ときたもんだ。

今でこそいまひとつ実感が伴わないから、同性愛なる物についても許容範囲内の物として受け止めていられるが、下手にそ

の手の読み物で詳しくなってしまって、偏見でも覚えてしまっては困る。

アブクマ、イヌイとの友達付き合いを、変に知恵を仕入れたせいでギクシャクさせたくはない。

「え?どうして?」

ボクが遠慮するとは思わなかったのか、イヌイは意外そうに目を見開き、耳と尻尾をピンと立てる。

「イヌイ。キミは、自分は何があっても価値観と考えを変えない、あるいは影響を受けそうになっても自制する事ができるっ

て自信はあるか?」

訝しげに小首を傾げたイヌイは、「ううん。影響されちゃう方かも?」とボクに答えた。

「ボクもそうだ。加えて言うなら自分の事もあまり信用していない。だから、もしもその小説を読んで同性愛についてより深

い知識を得たら、キミらを見る目も変わるかもしれない。…と、思った」

イヌイは「あー…」と、納得したように頷いた。さすがに理解が早いな。

ボクはアブクマとイヌイがホモのカップルだと知っても嫌悪感を抱かなかった。

これはボクが、実はこう見えて懐が深いヤツだったとか、自分でも意外だが結構寛容なタチだったとか、そういう事ではな

いはずだ。

おそらくだが、ゲイの嗜好とかそういう物に対して不勉強で知識が無いから、実感できないし深く想像できないから、厭お

うにも嫌悪のしようがない。…というだけなんだろう。

つまりは、無知と想像力の不足が緩衝材になっているに過ぎないんだろうと、ボクは考えている。

そんな状態だからこそ、二人の関係を「そういう事もあるか」程度で受け入れられている。

だから、もしも深い知識を身につけてしまったら、二人に対して嫌悪感を抱くようになるかもしれない。

…こんな具合に、知らない方が良い事や、知らない方が上手くやっていける事は、結構その辺にゴロゴロしている物なんだ。

上手くやって行きたいなら、それらを見極める選択眼を持たなくちゃいけない。

「言われてみれば、結構ディープなシーンや表現も多かったし…、確かに、耐性無いひとは「うっ…!」ってなるかも?」

「ならなおさらだよ。遠慮しておこう」

しかし、ちょっと気になっている事は確かだ。

トラ先生に訊いてみようか?あのひとも結構ディープなオウニギマニアだから。

ボクがそんな事を考えると、イヌイが「トラ先生にも訊いてみる?」と、ツーカーな事を言い出す。

「ボクも今丁度それを考えた。けどどうかな?」

「どうって?」

まだそこまで考えが至っていないらしいイヌイに、ボクは苦笑いを向ける。

「イヌイ。要するにエロシーンを含む小説なんだろそれ?R18じゃないのか?そんな物を教師に見せたり、読みましたって

告白するのは、はたしてどんなもんだろう?」

「…あ…」

言われてやっと気付いたらしい。イヌイは耳を寝せる。

「ひょっとして僕…、エッチな本読みましたって、告白したような物?」

「近い。けど気にしたら負けだ」

その手の内容については具体的には触れていない。猥談とも違うからな。

「先生に言ったら没収されちゃうかな?「けしからーんっ!」って?」

「トラ先生は「けしからーん!」ってキャラでも無いが、やんわりとした苦言の一つや二つは出るかもな。まぁとにかく迂闊

には尋ねられない。誤解されないようにアプローチの仕方は少し考えないとな。…そうだ。今度また二人で一緒に準備室行こ

う。昼休みにでもさ。二人で芝居打って、別ペンネーム説の話題出して、それとなく反応見てみよう」

「うん。…何だかスパイ物みたいだね?」

イヌイは尻尾を立て、少し楽しげにゆらゆらと揺らした。



「ねぇウツノミヤ君。サツキ君とも話したんだけれど…」

「うん?」

時間的にはそろそろクライマックスのはずなのに、相変わらず盛り上がらないままの映画に視線を戻していたボクは、イヌ

イの方を横目で見遣る。

しばらく映画を理解しようとしていたらしいイヌイは、小首を傾げてこっちを見ていた。

「夏休み、東護に遊びに来ない?」

「は?何でまた…」

あまりにも唐突過ぎる話だ。

クリーム色の猫はルームメイトと一緒に前々から考えていたのだというその事を訝っているボクに、訴え始めた。

「ウツノミヤ君からすれば東護って懐かしいだろうし、どうかなぁって思って。泊まる場所はサツキ君か僕が家族に相談して

用意するし…」

…それは、ひょっとしてボクの家庭事情を知っての措置か?

同情して夏休みを一緒に過ごそうと、そういう事か?

一瞬そう思ったものの、さすがにそれは考え過ぎだろうと、考えを頭から追い払う。

ボクが見る限り、これまで二人の態度には一切変化が無かった。

イヌイはともかく、ブーちゃんならそう上手く芝居ができないだろう。顔に出ていなかった以上は知らないはずだ。

「いや、休みに入ってまで迷惑をかけるのは…」

「迷惑なんかじゃないよ?」

イヌイはそう言ってボクの言葉を遮った。

「それに、誘おうと思ってるの、オシタリ君もなんだ」

「へ?」

ボクは突っ伏したままのシェパードを見遣る。…物好きなイヌイよ、何でコレを東護に?

「オシタリ君、さ…。夏休み中も、ずっと寮に留まってるつもりなんだって…」

イヌイは耳を倒し、声を潜める。

「初耳だな。本人が言ったのか?」

ボクも倣って声を一層潜めつつ問いかけると、クリーム色の猫は神妙な顔で頷いた。

「うん。今日の炊き出し中に…。応援団の活動もあるけれど、それが終わっても寮に残ってるつもりだって。こっちも大会が

あるから…、わ?」

イヌイが突然言葉を切る。それというのも、クッション代わりのデカ熊が、のそ〜っと緩慢に身を起こし始めたからだ。

「おはよう、サツキ君」

「おはよう。良く寝ていたな?」

「…はよ…。ふぁあ…」

その場であぐらをかき、伸びをしながら大あくびしたブーちゃんは、映画が映され続けているモニターを一瞥した後、のっ

そりと立ち上がった。

「ちと便所借りるな…」

襟に手を突っ込んで胸元をモソモソと掻きながら、アブクマはのっしのっしと隣室へ消える。

ルームメイトを見送ったイヌイは、オシタリが寝ている事を確認するように目を向けた後、話を再開した。

「それで、こっちもサツキ君が全国大会行きだから、里帰りは夏休み半ばになるんだけれど、どう?」

「どうって…、急だ」

「うん。急だね、ごめん」

「何でまた唐突にそんな事を?」

「えっと…」

イヌイは突っ伏しているシェパードを見る。

…ん?さっきからやけにオシタリを気にしているような…?本人には聞かれたくないような話なのか?

イヌイが口を開こうとしたそのタイミングで、

「いでっ!?」

と、突然妙な声が上がった。ちょっと遠くから。

ボクとイヌイは少し目を大きくして顔を見合わせる。

…オシタリじゃあないな。今もぐっすりだし。

「…アブクマかな?」

「うん。間違いなく」

「どうしたんだろう?」

「…挟んだのかも…」

「挟んだ?って何を…、あぁ、挟んだのか」

納得して頷く。余り皮をやったのか、ジッパーで。

想像してちょっと顔を顰めたボクの前で、イヌイは「それで、話の続きなんだけど…」と口を開く。

どうやらブーちゃんの事は放っておくつもりらしい。…まぁ「大丈夫か?」と覗きに行っても本人は迷惑だろうし恥かしい

だろうが…。

「…応援団の活動が終わったら、オシタリ君を招待しようかなぁって、思うんだけど…。…その、あまり家に帰りたくないの

かなぁって、思って…。どうかな?」

「なるほど。良い考えだ」

オシタリは家族に恵まれていない。

両親はこいつが幼い頃に離婚し、母親と二人暮らしだったそうだ。…世帯構成上は。

母親が男をとっかえひっかえ連れ込んでいたらしいから、まぁにぎやかではあっただろうな。

放任主義…といえば幾分聞こえは良いが、実際には育児放棄している母親の下で、こいつは荒んだ少年時代を送って来た。

転機が訪れたのは昨年の事。

幼い頃に別れたきりだった父親と再会し、狂犬と呼ばれた跳ねっ返りは、徐々にひとの情を知り始める。

だが、愛してくれる父親と人並みの愛情をようやく取り戻したオシタリは、まもなく別離の時を迎えた。

勇敢にも、見ず知らずの親子を庇い、父親が事故で亡くなったから…。

時々、ボクは思う。

その時は考える余裕なんてなくて、咄嗟の行動だっただろうが、もしもオシタリの父親が今自分の行いを振り返る事ができ

るとすれば、満足しているだろうか?それとも後悔しているだろうか?

見ず知らずの親子…、母親と男の子を救ったその行動は、確かに勇敢で、褒め称えられるべき行為だろう。けれど…。

残されたオシタリはどうなんだ?

本来その情を、庇護を受けるべき正当な存在、息子であったオシタリからすれば、その行動はどうなんだ?

見ず知らずの誰かを救ったせいで、自分を独りにした父親の行動は…。

当然、単純馬鹿のオシタリは文句の一つも言わない。少なくともボクの前では。

父親を尊敬しているからこそ、必死に勉強して彼の母校であったここ星陵に進学したんだ。恨んだりはしていないだろうな。

…こんな事を本人に言ったらぶっ飛ばされるだろうが、ボクはほんのちょっぴり、オシタリが羨ましい。

少なくとも、親を憎まず生きているようだから…。

そんな風に考え事をしながら相づちを打つボクに、イヌイは説明を続けた。

「…でね?オシタリ君も自分一人だけ誘われると、たぶん「うん」って言い辛いでしょ?だから、ウツノミヤ君も一緒なら抵

抗無いかなぁって…」

ははぁん…。そういう事か。

「つまりボクはオシタリのついでか?」

「えっ?いや、そういうんじゃないけど…。う〜ん…、そういう事になっちゃう…かなぁ?」

困り顔になったイヌイに、ボクは笑いかける。

「冗談だよ。悪くないと思う。この頑固者、馬鹿の癖に結構遠慮するタイプだからな。自分だけだと断りそうだ。けどまぁ、

ボクも一緒に招待されて、他にも同じようなヤツが居るとなれば、首を縦に振りやすいだろう」

「うん。シンジョウさんからも一声かけて貰えるから、誘いの方は万全。あとはオシタリ君が提案に乗りやすいように状況を

整えるだけだったんだけど…」

イヌイとボクは突っ伏しているシェパードを見つめる。

…まぁ、夏休みは特に予定も無いし、つきあってやっても良いか…。

「了解だ。そっちの負担にならないなら、オシタリと時期を合わせて東護に行くよ」

「本当?有り難う!」

イヌイは嬉しそうに顔を綻ばせる。

とにもかくにも、ここまでの話でこの唐突な提案をした理由を聞かされるに、どうやら本当にボクの家庭事情を知っての提

案ではないらしい事が覗える。…ちょっとホッとした。

昨年まではそう思い出す事もなくなっていたんだが、アブクマと再会して以来頻繁に記憶が揺さぶられるからなのか、幼い

頃過ごしたあの町を懐かしむ気持ちもないではない。

「ところで…」

話の区切りがいい所で、ボクは話題を変えた。

「アブクマ帰って来ないな」

「あれ?」

ボクとイヌイはドアを見遣る。さっき声が上がってからしばらく経つ。本人は帰って来ないし、ずっと静かだが…。

「救助活動、難航してるのかも…。ちょっと見てくるね」

「…え?行くのか?」

「ちょっと様子を覗いて来るだけ」

…見られたくないと思うぞ?そういう状態…。

イヌイが隣室に姿を消し、暇になってふとモニターを見れば、つまらなかった映画はいつの間にか操作メニューの画面になっ

ていた。

いつ終わってスタッフロールになったのか判らなかったぞ?…結末ぐらいは見ておけば良かったか?

ボクの傍らで、オシタリが「ふぅ…」と、ため息のような深い寝息を立てた。

…こっちが「ふぅ…」だよ。気を遣ってくれた所までは評価してやるが、どうせならもう少しマシなの借りて来い。

「東護…か…」

ボクはポツリと呟く。

あの町には、今もボクの遠縁の親類が住んでいる。が、あそこに厄介になる訳には行かない。

他の親類と同じようにボクの引き取りを断わって、たらい回しにした家だ。行っても迷惑な顔をされるだろうし、受け入れ

られるとは思えない。何よりこっちから願い下げだ。

幼い頃から行き来していた、仲の良い親類だったんだが、状況が変わったら手の平を返した。

…理解はできる。政治家様は、スキャンダルの種を抱え込むのは御免だろうからな。

あの一家に限らず、誰だって同じだ。大人は汚いし油断ならない。

だからボクは、早く大人になってやる。大人達の処世術を身につけて、上手く生き抜いてやる。

胸に燻る黒い感情に、口の端が吊り上がる。が、自分でもはっきり判る程に暗いその笑みは、程無くすぅっと引いた。

同い年の、ほっそりとしていて背の低い狐の、はにかみ笑いを思い出したせいで。

最後に会ったのは、ボクらがまだ小学校三年の頃…。ボクら一家が東護を離れる引っ越しの日だったな。

…もう…六年も会っていないのか…。

「…変わりないかな…、あいつ…」