第十五話 「輝ける思い出」(前編)
「いよいよ夏休みだなぁ」
いつものように実習棟の準備室に居るでっぷり太った大虎は、しみじみと呟いた。
空調がきいているとは言っても暑い盛りだ。極端な肥満のトラ先生は、スチールデスクに置かれたアイスコーヒーの缶とい
い勝負の汗かき具合。ワイシャツの胸元に手をかけて隙間を開け、辛そうに団扇で顔を扇いでいる。…ワイシャツの脇下を染
める汗染みが何とも見苦しい…。
今日は一学期の終業式だった。式典も済んで、学期のしめくくりになるホームルームも終えたボクは、すっかり馴染んだこ
の部屋へ、トラ先生に最後の挨拶をしに来ている。
…わざわざ挨拶に寄ったのは、別にお世話になったからとか、林間学校で迷惑をかけたからとか、そういう事じゃない。あ
くまでも心証を良くする為だ。最後にわざわざ挨拶に来る生徒はかわいく見えるはずだろう?
「帰ったら思い切り羽を伸ばして来るといい。寮生活で息も詰まっていただろう?」
いえ、むしろ寮の方が快適に過ごせます。ドブシェパードが居ても。
…とは当然口に出さず、思うだけに留めておく。
正直なところ寮に留まっていたい気持はある。アブクマやイヌイ、オシタリ達のように部活でもある生徒は夏休み中も寮に
居座っているし…。
だが、彼らのように部活動をする訳でもないボクがそれをするのはいささか不自然だ。それで家庭環境について有り難くな
い詮索をされるのも面白くない。だから普通に帰省するかのように寮を離れ、親戚の家に戻るんだが…。
「ああ、そうだ。大変だろうし地元まで車で送って行こうかぁ?夕方になったら私も時間が空くし、それまで待っていられる
なら…」
「いいえ、大丈夫です」
怪我した足を気遣ったらしいトラ先生の提案を、ボクは即座に断わった。
「気をつけて歩けばあまり痛みませんし、電車で座っているだけですからキツくもないです」
「しかし全く歩かない訳でもないしなぁ…」
なおも心配するような口ぶりと顔つきのトラ先生に、ボクは首を左右に振る。
「それに、あまり特別扱いして貰うのも心苦しいです」
「んん?…ん〜…。これも特別扱いかね?」
トラ先生は太い首を捻ると、何か可笑しかったのか、口元を笑みの形にする。
「ははは、アトラみたいな事を言うなぁ」
「はい?」
今度はボクが首を捻ると、肥満虎は「いやいやこっちの話…」と、誤魔化すような苦笑いを浮かべた。…誰みたいだって?
まあいいか…。
送ってくれるという先生の提案を受け入れなかったのは、口にした以外の理由もあるからだ。
担任なんだからボクの事情はすっかり知られているんだろうが、あまり家庭に踏み込んで欲しくない。家まで送られるなん
てごめんだ。
「お世話になりました。それではまた二学期に…」
「うん。お大事に。気をつけて帰るんだぞぉウツノミヤ」
「はい。先生も夏バテなどなさらないよう、お体に気を付けて…」
会釈しながら紋切り型の挨拶でしめくくったボクは、片手を上げる先生に頭を下げたまま、静かにドアを閉めた。
ボクは宇都宮充。伊達眼鏡がトレードマークの狐。賢くて美形だ。
普通の学生なら心躍るだろう長期の休み…。けれどボクにとってはあまりありがたくもない。
さっさと地元を離れて、ブーちゃんの家にでも転がり込みたいのが本音なんだが…、柔道部は全国大会があるからな、しば
らくは我慢か…。
…と・こ・ろ・が…、だ…。
心地良い電車の揺れが、ボクの頭に眠気を送って来る。
一学期の終業式から十日経った今日、ボクは一時帰宅していた親戚の家を出た。
…予想以上に早かった。もう少し留まっていられると思っていたんだが…、堪え性が無くなって来たんじゃないかボクは?
「寮生活の方が気楽だな…」
口に出して呟いたボクは、あまり混んでいない車内を見回す。
…別に、今世話になっている親戚達の事は嫌いじゃない。それなりに良くしてくれるし…。他の親類連中はともかく、あの
家族とはそこそこ上手くやって来られた。
けれど、ボクと相部屋になっていたあの家の実子は、一人で過ごす開放感を一度覚えてしまったせいか、以前と同じ部屋に
以前と同じようにボクと一緒に居ても、以前ほどくつろいだ様子は見せなくなっていた。
…まぁ、思春期だろうしな…。中学二年生にもなれば、遠縁のお兄さんと相部屋っていうのも色々とやり辛いだろう。
そう納得はしているんだが…、「仕方がない」では割り切れなかった。
自分でも驚きだ。このボクが気を遣うなんて。いたたまれなくなって離れるなんて…。
そんな訳で、足の傷もだいぶ良くなり、長く歩いてもほとんど傷みが感じられなくなるのを見計らって、ボクは行動を起こ
した。…具体的には、アブクマ達から招かれていた事を皆への言い訳にして出発し、以前住んでいた東北の街へと向かってい
るわけだ。全国大会を控えている本人達はまだ星陵で部活中だが、それは皆に伏せて来た。
正直なところ少し楽しみでもある。ボクにとってあの街は、黄金のような懐かしい思い出に彩られた街だから…。
そう…。まだ何も疑わず、何にも裏切られず、良く言えば無邪気に、悪く言えば考え無しに、世界の真ん中には正しい事や、
素晴らしい夢や、確かな希望が存在していると信じ切っていたあの頃…。ボクは確かに、心の底から笑って、楽しんで、面白
がって、毎日を送っていた…。
誘惑に負けてゆっくり目を閉じると、睡魔は待ちかねていたようにボクの意識を連れて行く。
毎日が輝いて見えた幼少時…、何もかも満ち足りていたあの頃へ…。
「ミツル」
呼ばれたボクは、テレビから視線を外して振り向く。
ほっそりスレンダーな狐の子が、ボクの弟をあやしていた手を止めて、壁時計を見上げていた。
「ぼく、そろそろ帰らないと」
「もう?アニメ始まるよ?」
「うん。でも、今日はお出かけの日だから…」
少し残念そうに眉を顰め、子狐はボクに応じる。
立ち上がった彼の足に、二歳になったばかりの弟がまとわりついた。
短パンからのぞくすらっとした足。細い手首では滑らかな光沢を持つリングが揺れ、窓から射し込む斜陽を跳ね返して光る。
いつからだったか、アイツはいつも手首か足首にリングを填めるようになっていた。
説明を求めたら、恥ずかしいのかちょっと口ごもりながら、「おまじない」だか何だかだと言っていたっけ…。
同じ歳だが、ボクから見たら弟分のような存在だった。弟にしてみればもう一人の兄のようなものだっただろう。
弟と一緒に玄関先まで送ると、母がキッチンから顔を出し、気を付けて帰るようにと声をかけ、微笑んだ。
いつものように馬鹿丁寧にお辞儀して、アイツはドアを開けてから振り返り、笑顔で手を振った。
「お父さん、遅くなるって」
ドアが閉まるなり母が言い、ボクは頷く。
その当時、父は連日帰りが遅かった。仕事が忙しいと。
新たな企画の責任者に抜擢されたとか、当時のボクには良く判らない事を言っていた。
けれど父は誇らしげで、母は嬉しそうで、漠然とではあったものの当時のボクも子供なりに良いことなのだと解釈していた。
だからこの数週間後、父の仕事の都合で引っ越すと聞かされた時、友達やこの街と離れなければいけないのは寂しかったけ
れど、子供ながらに文句をぐっと我慢した。
きっと良い事なのだと、自分へ愚直に言い聞かせて。
…けれど結果的には、この時父が責任者を務めたその企画が、ボクら家族を…、家庭を…、滅茶苦茶にしたんだ…。
まだ歩き格好が安定しない弟の背を押し、ボクはリビングに戻る。夕食の匂いを嗅ぎながら。
あの頃はまだ、毎日母の作った飯が食えていた…。
夢だと半ば自覚しているボクの、現実に置いてきている耳に、現実に置いてきている体に遠く声が聞こえ、目覚しを設定し
ていた携帯のバイブが感じられる…。
『…用ありがとうご……ます…。間もなく東護町、東護町です。降り口は左となっております』
駅を出て嗅いだ数年ぶりの街の空気は、思っていた以上に懐かしい物だった。
匂いは時に、目で見る物よりもずっと強く記憶を刺激する。そんな話を聞いた事はあったが、今正にボクの身にそれが起こっ
ていた。
強まっていた望郷の念が一気に弾け、あの頃の思い出が鮮明に蘇る…。
気付けばボクは無意識に駅の案内板に歩み寄り、商店街マップを確認していた。
知っている店がいくつも無くなり、新たに加わった店も多かったが、幼少時に慣れ親しんだ店が、覚えのある名前が、まだ
まだたくさん残っていた。
ひとしきり懐かしんだ後、ボクは改めて辺りの道と行く先を見回し、少し考えてから歩き出した。
後先考えずに出て来たのもボクらしくないが、これもまたボクらしくない事に、実は宿泊先は決めていなかったりする。
まだしばらく本人は戻って来ないが、ブーちゃん家にでも泊めて貰おうかな…、程度しか考えていなかった。
宿泊先の選択は確かに優先しなければならないんだが…、今はどうしても先に見ておきたい場所があった。
昔の、ボクの家だ。
土建屋の連絡先が書いてある看板は、土埃を被って色褪せ、伸びた雑草の蔓に絡み付かれていた。
四角くぽっかり空いた、雑草が生い茂る土地…。それが、ボクが育った昔の家の成れの果て…。
哀しいとは思わなかった。ただ、「こんなもんだろう」という諦観めいた物が、頭の芯を埋めている。
懐かしい建物の姿を全く期待していなかった訳でも無いけれど、引っ越して土地を売る時に家は潰すと、父か母のどちらか
から聞いたような気もしていたから、それほどがっかりもしていない。
…何もかもあの時のままじゃない。ただそれだけの事さ。ボク自身を含めて…。
売れ残ってそのまま忘れ去られたように、ひっそりと眠る四角い土地は、親戚連中から纏めてそっぽを向かれたボクの境遇
にも重なっているように思えて、気を抜くと笑い出しそうになった。
現実を再確認したボクは、少しほっとした。
懐かしさで浮つきそうになった気持ちは、自然といつもの落ち着きを取り戻していた。
少し歩いて日が斜めになり、午後三時になった頃、ひとしきり商店街などを見終えたボクは、ある家を探して歩いていた。
この辺りは住宅街で、いわゆる高級団地。どんな上手い事をやってどんな美味い汁を吸って来たか判らないような大金持ち
と地位持ちが人口の大半を占める、財産が残らず焼けるような大火事でもあれば相当愉快な事になるだろう区域だ。
そんないけ好かない連中が固まった区域に、ボクの親類の家がある。
もっとも、あの事件の後はいち早くボクらと関わりを絶つ事を表明し、以後交流は一切無いんだが…。
まぁ、間違っていない判断だと思う。お偉い議員さんとしては、飛び火なんか貰う前に距離を置きたかったんだろうし、仕
方がない。
そして、判断は間違っていないと考えながらも恨んで憎んで蔑んでしまうボクの気持ちも、同じように仕方がない物だろう。
とりあえずは記憶の通りだと、景色や道順を慎重に確認しながら歩くボクは、不意に、少し前を行くある少年の事が気にな
りだした。
人通りが少ない中、その少年だけがしばらく前からずっと、ボクと同じ角を曲がり、同じルートを進んでいる。
獣人だ。ボクと似たきつね色のフサフサした毛並みをしている。
背はあまり高くない。というよりやや低い。たぶんボクより五センチは低いだろう。
その反面、毛皮の下にしこたま贅肉がついていて、どこもかしこも丸っこく、体重はボクの倍近くありそうだ。それらの事
が後ろ姿だけではっきり判った。
体格に対して肉が付き過ぎなんだろう。少年は豊満過ぎる体を持てあますように、少し横揺れしながらぺったぺったと歩い
て行く。
この体じゃ夏場は暑苦しいだろうなぁ…。などと、肉が付いて丸い尻や背中を眺めながら思っていると、少年はおもむろに
歩調を緩めた。
そして、ある邸宅の前で止まり、門の前から大きな豪邸を見つめる。
少年の横顔を確認する事もなく、ボクは半ば反射的にその家を見ていた。
そここそが、ボクが目指していた親戚の家だったから。
思わず立ち止まり、改めて視線を少年に戻して横顔を眺める。
…犬?かな?コイツ…。
きつね色のフサフサした毛に覆われた丸っこい少年は、ボクに気付いてこっちに顔を巡らせた。
…いや、犬じゃない。…?…??…???…え?…狐?まさか狐?これで狐なのかコイツ!?
先細った独特の形状をした、フサフサの尻尾…。
基本きつね色で手足が黒くなったカラーリングと、三角に立った耳…。
頬が丸く張って二重顎になって、シャープさが完全に消えたマズルは、しかし見慣れた狐のソレ…。
一瞬唖然としたが、どうやらコレは狐の一種らしい。どんな種だ?外国人?この国の原種じゃないよな?…へぇ〜、こんな
のも居るんだな…。
薄手の半袖シャツ越しに突き出た腹と弛んだ胸が確認できる狐は、目を丸くしてボクを見つめた。
…ん?何か…、何処かでこういう顔を見た事があるような…、無いような…?
太い狐の口が半開きになり、「あれ…?」と、か細い、そして少しキーの高い声が漏れた。
何かを確認するようにせわしなく動く視線が、ボクの体をなで回す。
「もしかして…」
「まさか…」
太い狐が、次いでボクが、驚きに震える声を絞り出した。
「ミツル!?」
「ノゾム!?」
驚き顔で同時に名を口にした瞬間、ボクは確信した。
コイツ、すっかり風貌は変わっているが…、ノゾムだ!ボクの親戚の!
何があったんだコイツ!?虎先生ばりに種族のイメージをブチ壊しにかかってるこの見てくれは何だ!?
昔はこうじゃない。こうじゃなかった!ボクと同じく狐らしいスリムな体型をしていたのに、会わなかった数年でコイツの
身に一体どんな事が起こった!?
「本当にミツル!?眼鏡なんてかけちゃって、すっかり格好良くなってるから、ちょっと判らなかったなぁ〜!」
目には未だに驚きを留めたまま、それでもノゾムは懐かしそうに微笑む。
「こっちだって判らなかったよ。あんまりにもその…、デ…」
ボクは一瞬口ごもり、
「デカく…なったな…」
一度は出かかった「デブったな」という言葉を飲み下し、トゲが出ないように一応補正した感想を述べる。
「太っただけだよ。背もう殆ど伸びなくなっちゃった」
全体的にぶくぶくっと丸くなったものの、屈託無く笑うノゾムの顔からはあの頃と同じ印象を受ける。それが不思議でなら
ない。
「いつ帰って来たの?…あ、もしかしてしばらく前からこっちに?」
懐かしげな笑みを浮かべたノゾムに問われたボクは、答えようとしたが言葉が喉につかえた。
…コイツ、知ってるよな?ボクの家族の事は?いや、知らない訳が無い。絶対に知ってる…。
なのに、まだこうして笑いかけて来るのか?あの頃と同じように?
「…いや、夏休みだから…、それで…、ちょっと…」
絞り出した歯切れ悪い言葉をノゾムはうんうんと頷いて聞き、
「あー、夏休みかぁ、そうだよねぇ。じゃあしばらくこっちに居るの?」
と問いを重ねて来る。しかしボクがそれに答える前に、「あ、ウチに用事なんだよね?」と、思い出したように立派な邸宅
に目を遣った。
…が、何となくその目が…、どう言えばいいのか…、自分の家を見る物にしては妙な目つきだった。
邸宅を見る目はやや細められて、口元はきつく一文字に引き結ばれている。
眩しい物を見るような、遠慮しているような、距離を置いているような、それでいて厳しさもある眼差し…。
他人の家を見るようなよそよそしさ…とでも言えばいいのか?いや、もっと距離を取っているような…、しかも何か含むと
ころでもあるような…、複雑な視線と表情…。
幼い頃から知っている、大人しくて穏やかでお人好しの良い子ちゃんがこんな顔をするとは思わなかったから、ボクは多少
面食らった。
だがノゾムがそんな顔をしたのは一瞬の事で、ボクに顔を向け直した時にはまた微笑みで口元を緩めていた。
「…いや、ちょっと見に来ただけで、寄らないで行こうかと…」
「え?すぐ行っちゃう?」
ボクが言葉を選びながら応じたら、ノゾムは少し残念そうに耳を寝せて眉尻を下げ、やや上目遣いに見つめて来た。
「い、いや別に帰る訳じゃないぞ?ここには少し…、そうだな、夏休みの終わりぐらいまで居るつもりだから…」
…何で弁解するような口調になってるんだボクは?…くそっ…。昔から弱いんだよな、コイツのこういう目に…。
ボクがすぐに帰る訳ではないと知ったノゾムは、目を少し大きくした。嬉しそうに尻尾を振って。そして身を乗り出しなが
ら提案して来る。
「じゃあ時間はあるんだ?なら立ち話も何だし場所を変えない?久しぶりだから話したい事もいろいろあるし…」
それはまぁ、ボクだって喋りたい事はいろいろあるものの…。
視線を邸宅に向けて答えに迷ったら、ノゾムは「ああ…」と声を漏らした。
「ウチじゃなく、別の所でね」
まただ。別人のような表情になった。それにこの含みのあるような、押し殺した低い声音は…。
節々から窺える態度で何となく察したが、ノゾム…、最近家族と上手く行ってないんじゃないだろうか?
「モフバーガー、この街にも進出して来たんだな?」
ノゾムと一緒に入った店内を見回しながら、ボクは呟く。
ショッピングモールの中に店を構えたこのファーストフードのチェーン店は、ボクが住んでいた頃には無かったはずだ。
客の入りはまあまあ。夏休み中という事もあってボクらと同年代の客が多い。
一つ向こうのテーブルに座っている太い狸と大柄な黒熊なんかも、たぶんボクと同じくらいだろう。
柔道部とかなんとか、会話の内容が断片的に聞こえて来るな。もしかしたらアブクマの後輩だったりして?
それにしても…、このファーストフード店といい近代化された映画館といい、数年前まではもっともっと田舎な感じだった
のに、近くの都市が発展して来た影響なのか、少しずつ近代化しているな、この街…。
その事について少し漏らしたら、ノゾムは小さく二回コクコクと頷いた。
「この数年でね、価値が見直されてるんだって。自動車道が整備されてアクセスが良くなったから、ベッドタウンとしても立
地状況が悪くないって」
さすがに議員先生の息子だけあって、その辺りの事情にはそこそこ詳しいらしい。
「…って言うかだな…、もしかして食卓でもどこの街の発展がうんぬんとか道の整備がかんぬんとか新しい事業計画がどうの
とか、そんな堅苦しい話題が出てたりするのか?」
ボクとしては興味深いが、一般的な基準に照らし合わせれば異様な光景だろう。そう思って訊いてみたら、チキンバーガー
にかぶりつこうとしていたノゾムは少し表情を曇らせて、そっと目を伏せる。
「…実は…、もうここ数年、お父さんとは話もしてないんだ…」
「は?」
意外な答えに面食らって、すぐには二の句が継げなかった。そんなボクにノゾムはぼそぼそと小声で続ける。
「最後に話したのは、たぶん小学校の高学年の時くらい…」
…もしかして反抗期ってヤツなのか?いや、それにしても長くないか?小学校の高学年って…、それ少なく見積もっても三
年以上だろう?
事情が気になったものの、どう訊ねていいか判らずに口ごもっていると、ノゾムは食べかけのバーガーを胸元に下げ、俯き
ながら半笑いになった。
「…今ぼく、あの家に住んでないんだ…」
「…何で?」
ボクがようやく発した問いは、えらく間の抜けたものだった。
「折り合いが悪くなったっていうか…、ぼく、家族からあんまり好かれてなくて…」
ぼそぼそと漏らすノゾムは、自嘲するような半笑いを湛えたままだった。
昔のコイツからは想像もできない表情に、ボクはらしくもなく痛ましさを覚える。
気詰まりな沈黙の後、やがてノゾムはハンバーガーを持ち上げてもふっとかぶりつく。
そうしてのろのろと咀嚼した後、またぼそぼそと小声で漏らした。
「…だから今は、マンションで一人暮らし…。たまに実家に顔を出そうとするんだけれど、あんまり寄りつきたくなくて…、
それで、大概は門の前で引き返しちゃう」
「…そうか。じゃあさっきも…」
ボクの言葉に、ノゾムは小さく頷いた。
色々あるもんだ。まぁ、ボクもひとの事は言えないが…。
「それより、ミツルはしばらくこっちに居るんでしょう?何処に居るの?親戚の家?」
ノゾムは話題を変えようと口調をやや軽い物にした。が、その目は疑問の色を湛えてボクの様子を窺っている。
やっぱり知ってるんだよな、ボクの状況の事は…。
問いかけて来ながらも、こっちでボクを泊めてくれる親戚が居るのは不自然だと考えているんだろう。だから疑問に感じて
様子を窺っている。
それはつまり、ボクがほとんどの親類から引き受け拒否された事まで知っているからこそ生まれる疑問…。
ボクは半ば開き直った。間違いなく事情を知っていながら態度を変えないノゾムに、こそこそといろんな物を隠そうとする
のも馬鹿馬鹿しくなって。
「…いや、そんな物好きなんて宇治夫妻を除けば親戚連中に居ないだろ。友達の家に泊めて貰おうかと思ってるんだが、実は
アポも取ってない。つまり今のところは宿泊先未定」
ふっ切れた気分になってボクがそう告げると、どういう訳かノゾムは妙な顔をした。
「ん?何だよ?」
「え?いや…、友達の家…?に…?泊めて貰うの?」
「うん。仕方ないだろう?頼れる親戚も居ないし、って言うか連中に頭下げるのも嫌だしな…」
ボクはそこまで言ってから、少し眉根を寄せてノゾムの目をじっと見る。
ノゾムの顔が妙だ。変な表情…。何言ってんだ?というような…、それでいて何かに気付いて欲しそうな…、期待すらして
いるような…。
「あ…。あぁ〜…」
ボクはやっと気付いた。
あったんだ。居させて貰えそうな親戚の家が。もっとも今さっき判明したばかりだが…。
「ウチに来る?賃貸マンションだけど…」
「良いのか?」
問い返しながら、しかしボクは半ば確信していた。
ノゾムはボクに来て貰いたいんだろう。親と一緒に居辛くなっての一人暮らしだ、寂しかったのかもしれない。
案の定ノゾムは嬉しそうに顔を綻ばせ、コクコクと繰り返し頷く。
「…じゃあ、迷惑じゃなければお言葉に甘えてみるかな…」
「うん!迷惑じゃないから甘えてみて!」
泊めて貰うのはボクの方なのに、むしろ迷惑を被る側のノゾムが嬉しそうで、柄にもなく恐縮し、照れくさくなってしまう。
無計画に来てしまったボクにとっては予想外の助け船だ。しかも豪華客船クラスの。