第十八話 「曖昧な距離感」(前編)
ノゾムの体からポタポタ滴った水滴が、フローリングの床を濡らす。
足から流れ落ちたお湯の成れの果てが、浴室からここまで足跡を残していた。
今もまだ流れ落ちて、足下にじわっと小さな水たまりを作り始めている。
ノゾムは俯いていた。顔を伏せているから表情は判らない。
けれど、震える手でぼくの手を握りながら、震える声でくり返す。
「…行かな………で……」
鼻をすすり、小さくしゃくり上げながらノゾムは消え入りそうな声で訴える。
「一人……しない……で……」
ぼくより体そのものは大きいのに、ノゾムはちっちゃな子供のように見えた。
「…一人は……やだ……」
親とはぐれて、心細くて、泣いている子供のように…。
片手を上げて、ノゾムは顔を腕で横に拭う。
…哀れだった。
あそこまでされながら、まだボクを引き留めようとするノゾムが…。
怒りもせず、切実さすら滲ませて「行かないで」と縋るノゾムが…。
ボクは躊躇った挙げ句、ため息をついた。
「どうしてだよ…」
呟いたぼくに、ノゾムは応じない。
「どうしてそこまで…」
再び呟いたが、やはりノゾムは答えない。
が、かなり間をあけてから、ポソッと、ノゾムは鼻声を漏らした。
「…寂…し…」
あまりにも小さい声で聞き取り辛かったが、ボクはかろうじて意味を察する。
繋いだ手からポタポタと落ちる水滴の音が、やけに大きく聞こえていた…。
冷房がきき過ぎて、湿った体が冷える。
寒くて身震いしたぼくは、耐えきれなくなって体ごとノゾムに向き直った。
「…風呂、入り直そうか…。風邪ひきそうだ」
ノゾムはしばらく黙った後、小さく頷いた。
再び湯船に肩まで浸かり、ボクとノゾムは並んでいる。
それぞれ湯船の端に寄って、できるだけ間を開けて…。
ノゾムもボクも無言だ。天井から落ちる水滴を数えながら、ぼくはこの沈黙がいつまで続くのかと考える。
切り出すべき話は、思い浮かばない。
何て言葉をかけるべきか、判らない。
ノゾムはずっと俯いていて、顔を上げようとも、喋ろうともしなかった。
けれど、そろそろのぼせて来たボクが腰を上げたら、ビクッと身を震わせてボクを見た。
「のぼせそうだから、先にあがる…」
そう告げて湯船の縁を跨ごうとしたボクの手を、ノゾムははっしと掴んだ。…どうしろと?
「…勝手に出て行ったりはしないよ」
そう告げたけれど、ノゾムは信用できないのか、縋るような視線をじっと注いで来る。
…ボクは、ここまでして離れたくないノゾムの気持ちを、本当には理解できなかった。
寂しいって、そこまでの物なのか?一人は嫌って、ボクなんかとでも一緒に居たいと思うほどなのか?
ボクは、「寂しい」なんて気持ちは忘れかけていた。
…こうなったのは、誰にも心を許さず、一人で生きて行くって決意したあの日からだろうか…。
ノゾムが手を離してくれないし、振りほどくのも躊躇われたから、ボクは湯船の縁に座る。
じっとボクを見上げていたノゾムは再び視線を落としたけれど、手は離してくれない。
また沈黙が続いた後、ノゾムがしゃっくりをした。
…いや、すすり上げているんだ。また泣き出して…。
「…めん…」
「え?」
声が小さ過ぎて聞き取れず、耳を立てたボクに、
「…ごめん…ね…」
ノゾムはか細い声でそう囁いた。
「何で謝るんだよ。謝らなきゃいけない事をしたのはボクの方で、ノゾムは何もしてな…」
「…ひっく…!」
ぼくは言葉を切り、ため息をつく。
ノゾムはさめざめと泣いている。かけるべき言葉が見つからなくて、ぼくは黙って天井を見上げた。
額に水滴が落ちて、冷たい。
そのまましばらくして、ぼくは繋いだままだったノゾムの手を引いた。
「上がろうノゾム。のぼせるぞ?」
ノゾムは俯いたまま、無言で小さく頷く。
のろのろと立ち上がったノゾムの体から、サパサパと勢い良くお湯が落ちて水面を叩いた。
立ったは良いけれど、ノゾムは動こうとしなかった。
何かを必死で我慢しているようなノゾム…。しばらくそのまま様子を窺って気が付いたが、ノゾムの股間では、一度は縮こ
まったアレが再び大きくなっていた。
ボクの視線を察したのか、ノゾムはポソポソ小声で呟く。
「ごめん…ね…?ぼく…、変だよね…?」
…答えに困る。
変…ではあるな、確かに。あそこまでされてまだ勃起できるっていう点では…。
でも、ノゾムは同性愛者だって事をかなり気にしている。思った通りの返答をしたら誤解されかねないから、これは黙って
おこう…。
ボクは少し考えてから息を吸い込み、
「変じゃない」
そう、きっぱり、はっきり、言ってやった。
ノゾムは少し顔を上げ、上目遣いで恐る恐るボクを窺う。
「誰だって、頭と無関係に勃つ事はあるさ。普通だよ、普通の反応さ」
嘘くさいと感じて疑っているのか、ノゾムはしばらくボクの顔を窺っていたが、
「あり…がと…」
小声でそう言って、視線を下に向けた。
上手に本心を偽ったつもりだったが、お礼を言われる辺り、本音じゃないって勘付かれたんだろうか?
本心からの物じゃない、気を遣っての建前発言だとバレているんだろうか?
ノゾムの「ありがとう」が何に対しての物なのか、ボクには判断がつかない…。
いつまでも動こうとしないから、ボクはノゾムの手を強く引いて湯船から出るよう促した。
「熱いな〜、汗かき過ぎた。冷たい物でも飲まないと…」
誤魔化すように言ったボクの、この雰囲気を少しでも変えたいという気持ちを汲んだのか、ノゾムは顔を上げて、
「コーラなら冷えてるよ?」
そう、さっきまでより少し大きな声で応じた。
のぼせ気味で火照った体に、強めの冷房が染みる。
今度はしっかり体を乾かし、リビングでくつろぎながら、ボクはコーラをグイッとやる。
…もっとも、くつろいでいるのは格好だけで、結構気を張っているんだが。
扱い辛くなったノゾムは嫌に静かで、チビチビとコーラを飲みながらも、時折チラッ…、チラッ…と、こっちを窺っている
んだよ…。
ああもう…、この空気をどうにかしたいのに、どうすれば良いかがさっぱり判らない。
ボクは相変わらず、さっさと出て行くのが一番だと思っている。知ったこっちゃないと、放り投げて…。
でも…、くそっ!どうしたって言うんだボクは!?
そうしたら、一人でこの部屋に残ったノゾムはどんな気分になるだろう?とか、余計な事を考えてしまう!どうでもいいだ
ろうに、結局他人なんだから!
…他人…なんだから…。
…くそっ…!くそっ!イライラする!自分を押し通せないボク自身に…!
ノゾムの事なんてどうでも良いだろう?コイツの問題をボクが解決できる訳じゃない。こんな気分が良くない状態で泊めて
貰うくらいなら、一回引き返して、宇治家で肩身の狭い思いをしていた方がいくらかマシだ。
…なのに…。
ボクは考え、悩み、後悔した。ノゾムと一緒に風呂に入るだなんて余計な事をしないで、適度な距離を保っておけば良かっ
たのに…。コイツの状況を深く知ったからって、結局どうにもできないのに…。とんだ地雷を踏んだもんだよ、まったく…。
「…ごめん…ね…」
ノゾムがポツリと漏らして、ボクは考えもせずに反射で首を横に振る。
…何でほっぽり出して行けないんだ?ボクは…。
今夜ノゾムが寝ている内にこっそり出て行くか?…そんな事も考えるのに、黙って出て行く気にはなれない。
別に約束したからじゃない。嘘をつく事になるから嫌なんじゃない。そんなのは平気だ。
ただ…、放っておけない気分になりつつある…。
ボクはしばらく考え込んだあと、深くため息をついた。
それに反応して太った体をビクッと揺らしたノゾムは、怖々ボクを見つめる。また出て行くって言い出すんじゃないかとビ
クついているんだろうか?
「結構、キツめになるかもしれない話がしたい。良いか?」
ノゾムは少し黙った後、おどおどしながらも頷いた。
「男の裸を見て勃起するのは、どんな相手にでも…なのか?」
この問いかけに、ノゾムはかなり間をあけた後、小さく頷いた。
「そうか…。今からする質問には、絶対に、少しの偽りも無く、正直に答えて欲しい。その答えがどんな物でもボクは受け入
れるし、逃げ出したりしないし、出て行くなんて言わないって約束する。…良いか?」
ボクは自分でも心の準備をしながらノゾムに念を押す。
ノゾムは身を固くしたようだった。身構えさせるには充分な前振りだしな…。
やがて、ノゾムが戸惑いながらも頷いたのを確認してから、ボクは自分にとってもキツい質問を口にした。
「…ボクのでも…、欲情しちゃうのか…?ボクの裸だって理解していても…?」
その質問を口にした途端、部屋の静けさが変わったような気がした。
空気がピンと張りつめたような、緊張感のある静寂…。エアコンの音が急に大きく感じられるようになった。
一分か、二分か、それとももっと経ったのか、ノゾムは黙ったまま答えない。
何処を見ているのか、俯いているから視線が向いた先は判らない。
沈黙は否定を意味するのか?それとも怒って黙っているのか?再び質問しようか、それとも、「違うんだな?」と訊いてみ
るべきか、迷った挙げ句に口を開きかけたボクは、
「…ごめん…」
ノゾムが発した蚊の鳴くような声を耳にして、口を閉じる。
ごめんって…、どういう意味だ?
「ごめん…ね…」
繰り返したノゾムは、肩を震わせ始めた。
俯いたその顔から、ポタッ、ポタッと透明な滴が、あぐらをかいた太い脚に落ちる…。
「謝られても判らないぞノゾム?答えたく無…」
ボクは唐突に悟って、言葉を切った。
「ごめ……なさ…!」
謝り続けるノゾム。ごめんっていうのは…、つまり…。
「…イエス…って、事なのか…?」
ボクは気が遠くなって、目眩すら覚えた。
欲情してごめんなさい…。そういう事なんだろう。
何て事だ…。ノゾムはボクの裸だと…親戚だと理解した上で勃起させていたのか…。
それはつまり、ボクがノゾムの性欲の対象に成り得る事を意味している訳で…。…つまり、かなり深刻だ…。
「ごめ…なさい…!ごめん…さ…!」
しゃくり上げながら目を擦るノゾムのすすり泣きは、徐々に大きくなって来て、やがてわんわんと声を上げ始めた。
「判ってるのに!判ってるのにぼくっ!あふっ…!ミツルだって、相手はミツルなんだって判ってるのに!自分に言い聞かせ
たのにっ!それでもぼく、勝手にチンチンが…!うっ…!うぁぁあああああっ!」
床に突っ伏して、丸めた背中を震わせて号泣するノゾムは、哀れだった…。
いけないと自覚して我慢して、それでもどうしようもなくて勃ってしまった上に、あんな風にボクに弄られて、あげく逃げ
るように去られかけたんだもんな…。
「い、一緒に居て…欲しいから…!我慢するつもりだったのにっ!か、勝手に…!勝手にぃ…!ごめん…!ごめんなさい…!
ごめんなさぁい…!」
…少し同情はするが、しかしボクもただ哀れんでばかりいられない。
襲わない。とノゾムは言った。
だがどこまで信用して良い?こいつの性格だから嘘じゃないだろうが、衝動を抑えられなくなる事も考えられる。
面と向かった状態なら拒絶もできる。力尽くでも負けないだろう。ボクの腕力でも押したら転げたし、筋力は無い方だから。
だが、寝込みを襲われたらどうだ?のし掛かられでもしたら単純に体重差でヤバい。あの体だぞ?今のノゾムを持ち上げる
とか跳ね退けるとかは到底不可能だ。寝ている間に押さえ込まれたら…。
身の危険を考えて脳内シミュレートするボクの前で、ノゾムは声を上げて泣き続ける。
…くそっ…!くそっ!泣きたいのはこっちだよ!これじゃ逃げるに逃げられないじゃないか!
下心丸出しで引き留めてるなら、啖呵でも切って出て行ってやるのに…、コイツは単純に寂しくて、申し訳ないと思いなが
ら一緒に居たくて、こうして謝りながら泣いているんだ。
どうするべきか悩んだ末に、ボクは歯を食いしばって顎を引いた。
…火をつけたのは、ボクなんだからな…。
「泣くな、ノゾム」
ボクは腰を上げて、じりっとノゾムに近付いた。そして肩に手を入れて顔を起こさせる。
ノゾムは涙と鼻水でとんでもない顔になっていた。
あんまりグシグシやったからだろう、目が腫れてしょぼしょぼになっている。
「出て行ったりしない。泊まらせて貰うよ。お前が言った事、全部信じる」
ノゾムは襲ったりはしないと言った。少なくともそれは信じよう。襲うつもりで引き留めた訳じゃないって。
身の危険を感じない訳じゃないが…、我慢しようとしていたノゾムの心情を暴き立てる事になった原因はボクなんだ…。
「ほん…と…?」
「うん」
「無理して…ない…?」
当然無理はしてる。が、ボクは「してない」と応じる。
「気持ち悪く…ない…?」
ちょっと怖いが…、まぁ頑張ろう。「ない」と断言しておく。
ノゾムの物凄い泣き顔をじっと見つめ、ボクは意を決して口を開いた。
「ノゾム。ボクを信じろ」
自分が言われたら、言った相手を絶対に信用しなくなるだろうセリフを、ボクはあえて口にした。
「ボクは誰も信用しない。あの件から、信用できそうな相手にも、決して心の底から気を許す事はなくなった。でも…」
説得力無いなぁ…、そう自分で思いながらも、ボクは続けた。ノゾムの目をじっと見つめて。
「ボクは、お前なら信じても良い。事情を知っても受け入れてくれるお前なら信じられる。だからノゾムも、他はともかくボ
クの事だけは信じろ。絶対に、黙って出て行ったりしないし、同性愛者だったからって嫌ったりはしない」
勝手極まる理屈だが、ボクにはこうとしか言えなかった。
嘘は言っていない。同性愛者だと知った今でも、自分に欲情していたと知った今でも、ノゾムを嫌ってはいない。…少々困っ
てはいるが。
ノゾムはしばらくおどおどとボクを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
そして、ポロポロと涙を零し、目をグシグシ拭いながら呟く。
「あり…がと…!ひっく!嫌わないでくれて…、信じてくれて…、ありが………う…、うぅ…!」
ボクはため息をつくと、テーブルの上に手を這わせてティッシュを取り、箱ごと渡してやった。
ノゾムは盛大に鼻をかんで、目元の涙を拭ってから、おずおずと、恥ずかしがっているようなはにかみ笑いを見せた。
…その弱々しい笑みで少しホッとしたのは、どうしてだろうか…?
「あ、あのね?今思い出したんだけど…」
かなり時間をかけて落ち着いてから、やっと寝支度を始めた際に、部屋の片付け作業を中断して、寝室のドアの隙間から顔
を出したノゾムはおずおずと切り出した。
「夏用の布団…、一組しか無いんだけど…、どうしよう?」
ボクが怒るとでも思っているのか、ノゾムはやけにおどおどしながら言う。
「ならボクはここで寝てもいい。クッションがあれば平気だし」
「だ、駄目だよっ!」
リビングを見回したボクに、ノゾムは慌てて言う。どうして?と目で問うと、ノゾムはしどろもどろになった。
「あ、あの…、寝室で寝た方が…」
「でもベッドは一つだろう?」
「ぼく、床に冬用の布団をしいて寝るから、ベッドはミツルが使ってくれても…」
「お前、わざわざ冬用の暑苦しい布団で寝るのか?良いって、ボクはここで寝る」
「で、でもっ!」
ノゾムは反論しかけたが、言葉が続かなくなって俯いた。
…ん?コイツもしかして…、目を離した隙にボクが逃げるとでも思っているんじゃないのか?
「ボクは出て行ったりしないぞ?」
勘繰りながら言ってみたら、的中していたのか、ノゾムはビクッと肩を揺らす。…コイツ本当に腹芸ができないんだな…。
「信じろって」
「う、うん…」
ノゾムの返事は歯切れが悪い。窺うようにボクをチラチラ見るし…。
う〜ん…、「信じてやるから信じろ」…と言いだしたのはボクの方だし、信じている事を率先して行動で証明しなきゃいけ
ないのはこっちか…。ちょっと危機感はあるが、これは同じ部屋で寝るべきなんだろうな…。
「…判った。寝室で寝る」
ノゾムはホッとしたように表情を少し和らげた。が、すぐ何かに気付いたように俯いて、「あ、ご…、ごめん…」と詫びて
来た。
「し、信じてない訳じゃなくて…、その…」
「良いって。お互いを信じようって提案したのはボクだ」
難しいもんだな、こういうのは。浅い付き合いしかしない相手と上辺だけの信頼関係を築くのはそう難しくもないのに、相
手が相手だから勝手が違う…。
タンクトップにトランクスというノゾムに続いて、ボクは寝室に入る。
…ある意味見事な光景だ…。ずらっと壁を埋めて並んだ棚には、ロボットのプラモデルが整列している…。
まずはノゾムが寝る分、クリーニングされて畳んであった冬布団を二人で引っ張り出して敷いたが、…羽毛布団じゃないか
これ?こんなんで眠れるのか?暑苦しいだろういくら何でも!?
一方で、ベッドはボク用にシーツを取り替えて、掛け布団を予備の物に換える。風呂もそうだがベッドもでかい。ダブルの
サイズなんじゃないのかこれ?
エアコンは安眠モードで運転を継続させ、ノゾムは灯りを消すなりふかふかの布団に丸っこい体を沈めた。…見ているだけ
で暑苦しい…。
さっさと寝るつもりなんだろう、「おやすみ…」と小声で呟いてこっちに背中を向けたノゾムを一瞥したボクは、かなり広
いベッドに仰向けになった。
…ノゾムの匂いがする…。汗臭いとか男臭いとか、そういう風に不快に感じる事はないが…、勝手が違って気になるな…。
月が出ているんだろう。カーテンを通した月光で窓が四角く光っている。
しばらくそっちを見ていたボクは、ふと気が付いた。
やっぱり寝苦しいのか、ノゾムはまだ眠っていない。
静かにしているものの、呼吸は寝息じゃない。むしろ早くて乱れているようにも感じる。
時々もそっと動くのは、羽毛布団のせいで熱がこもって蒸れた部分を動かしているんだろう。
それがあまりにも頻繁で、モソモソモソモソうるさくて気になって…、ボクはついに我慢できなくなった。
「ノゾム、起きてるよな?」
「えっ!?う、うんっ!ごごごめんね?うるさかった?」
…何でそういう返事をするんだよ…。
「あのさ…、寝苦しいんだろ?」
「そそそそんな事ないよ平気だよ大丈夫だからすぐ寝るからごごごめんね?」
…何で早口だよ…。どもるなよ…。
「交代しようか?ボクがそっちで寝るから」
「え?い、いいいいや駄目だよそんなの暑いからこの布団!寝れないよ!?」
「ほら、やっぱり眠れないんじゃないか」
「…あ…」
ボクには引っかける気なんて全く無かったのに、判りやすいほど動揺しているノゾムは勝手にボロを出した。
「で、でも、本当に交代はいいから…」
「…ふぅん…」
ボクは考える。口に出すにはちょっと勇気がいるが、提案が無い訳じゃない…。
「あのさ、ノゾム…」
「う、うん…?」
「ベッド広いな、かなり」
「そ、そう…かな…?」
「二人でも余裕だな」
「……………………」
ノゾムはボクが言わんとしている事を察したらしい。身じろぎ一つしなくなり、息を殺している。もしかしたら、風呂に入
る直前のやりとりを思い出しているのかもしれない。
「一緒に寝るか?」
「………」
「冷房を少し強くしたら、一緒の布団でも平気だろう」
「…………」
「ボクは、ノゾムを信じる」
「……………!」
しばらく無言だったノゾムは、かなり間をあけてからゆっくり身を起こした。
表情は判らないが、こっちを見ている事は、カーテンを通した弱い月明かりで判る。
「いい…の…?」
「ああ」
「平気なの…?」
「ボクが逃げないか心配なんだろう?一緒に寝ていれば、逃げだそうとしても気付けるじゃないか?」
「そ、そんなつもりは…!」
「いいから。心配なのは察してる。いきなり信じろって言われても難しいだろうし。だから…、「証明」する。今度こそ」
ノゾムは迷っているのか、しばらく動かなかった。業を煮やしたボクが身を起こして、「ほら!」とベッドの手前側を開け
たら、「ん…、うん…」と喉の奥で唸り、のそっと腰を上げる。
が、足下もおぼつかない暗さの中でふかふかの羽毛布団に足を取られたのか、「んわぁっ!」と声をあげつつ手を振り回し、
前のめりになった。
そのままとっとっとっと前進すると、ベッドの縁に足をぶつけ、こっちに倒れ込んで来る。
「ぐえっ!」
薄明かりの中でカエルのような声を上げたのは、ボクだった。
ばふっと倒れ込んできたノゾムとベッドの間でサンドイッチになって。
「あ!ごごごごごごめんっ!大丈夫!?」
耳元でノゾムの声がする。いいから早く退いてくれ!肺の中の空気全部吐き出してるんだよこっちは!
タプタプの胸や腹がボクに密着している。水の詰まった袋のように柔軟で、隙間無く、だ。堪ったもんじゃないぞこのもっ
ちりした肉圧と重さは!死ぬっ!死んでしまうっ!
ムニムニした体をぐいぐい押してアピールすると、ノゾムはようやく身を退ける。
「ご、ごめんっ!」
「ぶはーっ!何て圧力だよお前っ!上から餅でも被せられた気分だ!」
悪態をついたボクは、クスッというノゾムの声を聞く。…笑った?
「うふ…!ふ…!くくくっ!」
何がツボに入ったのか、ノゾムは可笑しくて笑っているらしい。
「どうした?」
「も、餅みたい?ぼく…」
「…え?」
「うふっ!ふくくっ!餅かっ…!くふふっ!」
…餅っぽいって言われたのが、ツボ?
少し身をよじって笑っているノゾムを見ていたら、何だかため息と苦笑が漏れた。
全くもって扱い辛い…。機嫌を取るのに苦労したかと思えば、変な事で笑いの発作が起きるなんて…。しかも笑いのレベル
低くないか?ジョークとも言えない…むしろ蔑みの部類に入る言葉だろうに。
「…ほ〜ら、もっちもちじゃないか?餅狐」
ボクが手を伸ばして胸の辺りに触ったら、ノゾムは「ひゃんっ!」と声を上げた後、堪えきれなくなったのか、口元を覆い、
声を上げて笑い始める。
「ご、ごめっ…!うふっ!な、何だか、急にお泊まり会思い出してっ!ぷ、プロレスごっこして、うるさいって怒られた時の
事とかっ…!ふっ…!ぷふくっ!」
…ああ、なるほど…。
電気を消して、暗くなった布団の上で、ぼくとノゾムはふざけて取っ組み合ったりもした。…ずっとずっと、昔の事だ…。
「でも今日はプロレス無し。長距離の電車移動で疲れているんだからな、ボクは」
一方的に宣言した後、ボクは先に横たわる。
思い出語りがしたかったのか、ノゾムは少し残念そうに「そう…」と呟いた。
「…けど、明日以降なら考えないでもない」
目を閉じながらそう付け加えたら、ノゾムは「え?」と声を上げた。尻尾でも振ったのか、さわさわっと衣擦れのような音
がする。
「う、うんっ!明日にでも!」
喜んでいるのか、声を弾ませたノゾムは、リモコンを操作して設定温度を少し下げた後、横になった。
「あ、あのさ…、ミツル…?」
「うん?」
「手を繋いでもいい?…昔みたいに…」
「………」
ボクは少し考えた後、「特別だからな」と、少し呆れながら応じた。
ノゾムは手探りでぼくの手を探し当てると、キュッと握って来た。
ぽってりした手は柔らかくて、少し汗ばんで湿っていた。
間に熱がこもったけれど、我慢する。…手を繋ぐなんて事までは考えていなかったが、冷房が強くなって良かったな…。
…ん?今気付いたが、ノゾムはボクが一緒に居る事で、常に衝動と戦わなきゃいけないじゃないか?
自分の首を絞める事になっても、一人は嫌だったのか?ボクに居て欲しかったのか?
…ノゾムのいじらしさが、何だか哀れだった…。
しかし、そんなボクの気を知らず、ノゾムは寝苦しそうだったさっきまでの様子が嘘のように、微かな寝息を立て始めてい
る。…寝付くの早いよお前。子供か?
その手は、ボクの手をしっかり握っている。
昔の面影と感触は全くない、すっかり別物になったぽってりとした手は、それでも不思議と懐かしさを呼び起こした…。