第十九話 「曖昧な距離感」(中編)
寝苦しい…。
暑くて目が覚めたボクは、薄く開けた目で見慣れない天井をぼんやり眺める。
寮の物でもなく、宇治家の天井とも違うそれがノゾムの部屋の物だと思い出すまで、数秒かかった。
暑い…。寝汗びっしょりだ…。布団と密着している背中が特に酷い。冷房は…利いている。露出している部分は涼しい。そ
う、半ば寝ぼけたままボクは考える。
いや、何かがおかしいぞ…?背中よりも左半身が暑い。熱がこもっている。
掛け布団をそっち側に寄せているのか?ああ、暑い…。もう布団は剥ごう…。
ボクは左手を動かそうとして、しかしそれが叶わなかった事で疑問を感じた。
…あれ?何だか左手がちょっと痺れているような…?それに布団が重い…。かなり薄かったよな?布団って言うよりタオル
ケットだったはず…。
次第に意識がしゃっきりして来て、感覚もはっきりして来ると、ボクは違和感に気付く。
ん?これ…、布団じゃ…ない…?
左腕は、何か重い物にのし掛かられているように動かない。いや、「ように」じゃない。実際にのし掛かられている。しっ
かりと。
首を捻って横を向くと、やけに近い位置にある真ん丸狐の寝顔…。
なっ…!?どうなってるんだこれっ!?
ボクは自分がどういう状況にあるか理解して、度肝を抜かれた。
いつからそうしていたのか、ノゾムは横向きになってボクに密着していた。
抱え込まれる形になったボクの左腕は、ノゾムの出っ腹の下に入り込んでベッドと贅肉でサンドイッチになっている。
ノゾムの太い左脚は、仰向けになっているボクの左脚に、軽く曲がった状態で乗っていた。絡むように…。
体の左半面…脇腹なんかは、ノゾムのムニムニボディと密着してじとじとしている。
おまけに、ボクの腕を抱き枕のように抱えたノゾムは、肩に顎を乗せるような格好で…。
暑いのも道理…。何やってんだこの餅狐っ!?
汗びっしょりのボクに対し、ノゾムはすーすー気持ちよさそうに寝息を立てている。暑くないのかこれでっ!?いや、汗は
かいている。暑いのにこの余裕の寝顔かっ!?
手が痺れている訳だ。体重がもろにかかっている訳じゃないが、ノゾムの腹肉が乗っている上にベッドと挟まれているから、
血流が悪くなったんだろう…。
「おい、ノゾム…」
小声で囁くが、ノゾムは無反応。
「ノゾム?おいってば…」
少し声を大きくしたが、やっぱり無反応。
「起きろノゾム」
普通の声で話しかけるが、まだ無反応。…いや待て、ちょっと動い…。
「お昼…何にする…、ミツルぅ…」
ムニャムニャと口元を動かしたノゾムは、顔を弛ませて寝言を言った。
…何だよこの幸せそうな寝顔…。どんな夢見て笑ってるんだよ…。
何故だかボクは起こす気が失せてしまって、腕をもぞもぞ動かして引き抜いた。
そして寝返りを打ってノゾムから離れ、背中を向ける。
ああもう…!汗じっとりの左手が、強めの冷房で寒いじゃないか…!
首を起こして振り向き、タオルケットを探したぼくは、餅狐の下敷きになっている事を月明かりで確認し、奪取を諦めた。
起こさずに引っ張り抜くのは無理だ。あっちに転がせば自由になれるかもしれないが、起こしそうだしな…。起きたらまた
手を繋げとか言われそうだから、そっとしておきたい。
いくらかマシだろうと、仕方なく腕組みして、ボクは目を閉じた。
「…うなぎぃ…?」
ガバッ!
跳ね起きたボクは、素敵な単語を口にしたノゾムの寝顔を凝視する。
………………。
…くそっ…。
ボクは仰向けになって、投げ出されていたノゾムの手を軽く握った。
「…期待するからな、鰻…」
「…うなぁ…」
呟いたボクの声に誘われたように、ノゾムは鼻をピスピス鳴らして唸った。
「ああもう!寝汗!汗!汗汗!じっとりだ!」
明るさと朝のチャイムで起きるなり、ぼくはガバッと身を起こした。
いつの間にか、ボクはまたノゾムに密着されていた…。
「ん〜…?」
もそもそと身じろぎしてから薄く目を開けたノゾムは、半眼でぼんやりぼくを眺めた後、目を大きくして体を起こす。
「あ…。オハヨ…」
朝の挨拶は、大あくびで途切れた。
「良く眠れた?ミツル」
「おかげさまでね。寝汗びっしょりだよ」
不満顔で応じたボクは、左腕をこれ見よがしにさする。
「抱き枕にするなよ、ひとの腕を」
「え?」
きょとんとしたノゾムは、ボクの顔と左腕を交互に見た後、さっと顔を伏せて耳を倒した。
「ぼ、ぼく何かしたの…?」
「熟睡しながらボクにくっついて来た。暑くて仕方なかった」
きっぱり言ってやったら、ノゾムは俯いたまま両手で顔を覆った。
「うわぁ…!ご、ごめんっ!あのっ…!へ、変な事しようとかは思ってないから…!き、きっと寝ぼけちゃって、ぼくっ…!」
弁解するノゾムは、顔を覆った指の隙間から上目遣いにボクをチラチラ見て来る。
「そこは疑ってない。だが暑かったんだぞ餅狐!」
「ご…、ごめん…!ふふっ…!」
ボクが本気で怒っている訳ではない事を察したのか、餅呼ばわりされたノゾムは少し笑った。
「シャワー貸してくれないか?まずさっぱりしたい…」
「あ、うん。お風呂まではいい?なんなら沸かすけど…」
「いいよ。シャワーだけで」
座り込んでいるノゾムを避けてベッドを降りたボクは一度リビングに出て、不慣れな部屋の中を横切り脱衣場に向かった。
それからちょっと気になって匂いを嗅いでみたが、あまり汗臭くはない。ノゾムの体臭がうつっているんじゃないかと思っ
たが、ほんのりシャンプーの匂いがするだけだ。
…肥満のくせに、不快な匂いはしないんだな…。
朝食はベーコンエッグとトーストだった。
卵は黄身がとろとろ、ベーコンはカリッとした絶妙な焼き加減。
質の良いバターと、小瓶に入った色とりどりの果物ジャム各種が目に鮮やか。
さらにミルクたっぷりのアイスコーヒーつき…。
テーブルに並んだ朝食は、なかなかにお洒落な取り合わせだった。
「用意もしてないから、こんなのしか無いけど…」
「感動物だよ。上等過ぎ」
申し訳なさそうなノゾムに、ボクは心の底からの賛辞を送る。
見てくれはこんなにも膨れたが、センスの良さは失われていないらしい。実にボク好みの朝食だ。
テレビをつけてニュースをBGMに、ボクらは朝食に取りかかった。
会話を挟みながらのゆったりした朝食は、美味い事もあってなかなか楽しい。
一晩明けて落ち着いたのか、ノゾムは昨日のような不安定な面を覗かせなくなっていた。
「今日はどうするの?予定とかある?」
「いや…、昔を懐かしんでぶらっと見物でもしようかと思っていたんだが…、買い物もしたいな」
「買い物?もうお土産買っちゃうの?」
ボクが帰ると言い出すとでも思ったのか、ノゾムは急に不安げな顔つきになった。
「まさか。あまり準備もして来なかったからな、自分用のシャンプーなんかを買いに行きたい。長居するんだから」
長期滞在を仄めかす言葉をそれとなく散りばめて述べたボクに、ノゾムは安堵したような笑みを向けた。
「シャンプーとかなら、香りとかが嫌でなければぼくのを使ってくれていいよ。わざわざ買いに行かなくても…」
「でも高いヤツだろ、あれ。いくら生活費が親から出てるっていっても、節約するに越した事はないさ」
そう言ったボクを、ノゾムは不思議そうに見つめて来た。
「…何だよ?」
「…いや…、ぼくの家族にも、そうやって気を遣うんだなぁって…」
…気を遣ってはいない。
それどころか、たぶん恨んでいるし憎んですらいる。何を言っているんだかコイツは…。
「そういうんじゃないさ。世話になりたくないだけだ。ノゾムの前でこう言うのもなんだが、ボクはもう、議員先生様達はあ
まり好きじゃない」
極力控えめに嫌いだという表現をしたつもりだが、口調は不必要に尖ってしまった。
しかしノゾムはそれで怯むでも気を悪くするでもなく、「だよねぇやっぱり…」と頷いた。
「それならなおの事、節約なんかしない方が良いんじゃない?」
「は?」
妙な事を言い出したノゾムに、ボクは目で問う。
「だって、ぼくが使ったお金はそのまま親の出費になるよね?」
「そうだな」
「だから、いっぱい使ってやったら困るんじゃないかな?」
「そう…だな…」
ボクは頷く。ノゾムの言わんとしている事を察して。
「つまり、仕返し気分で無駄遣いしてやれ、と?」
「うん!」
満面の笑みで頷くノゾム。…おいおい…。
「言いたい事は判った。確かにそれはささやかながら復讐にはなる。さらにボクにとっても美味みがある」
「でしょう!?」
物凄く良い顔をするノゾム。…こらこら…。
「お前はアレか?自分の親をボクに困らせて欲しいのか?」
「おおまかにはそんなところかも?」
…この野郎…。
「…呆れたな…ほんと…」
ボクは顔に手を当てて天井を仰いだ。
「だって…、自慢する訳じゃないけど、ウチって親戚の中で特別お金持ちだよ?なのにミツルを引き取ろうとしなかった。宇
治の叔父さん家だってそんなに裕福じゃないにもかかわらず、面倒を見るって言ったのに…」
上向きにしていた顔を下ろすと、ノゾムは頬を膨らませていた。…何やらプリプリ怒っている。
「それはほら、議員先生には面子とかがあるからだよ。悪い噂の種になる物なんか抱えたくないのさ。別にケチな訳じゃない。
金銭的な問題じゃなく、風評的な問題でウチとの関わりは避けたかったのさ。それは宇治家以外全部の家に言えるけど。…ま、
事情が事情だから宇加野だけは別だが…」
「それは判ってるつもり。理屈はね。納得は行かないけど」
グイッとアイスコーヒーを飲んでから、ノゾムは不満げに続けた。
「ようするに意気地無しなんだ。だってつまり、陰口が怖いから引き受けなかったんでしょ?ぼくには散々言ったくせに、自
分達も弱虫じゃないか」
「言うねぇ」
ボクは思わずニヤリとしていた。なかなか面白い言い分だ。
コイツがこういう辛辣な物言いをするようになっていたのは意外だったが、考えてみれば昨日から意外続きだよな。
「「諸君らは、復讐を試みるに値する正当な理由を手にしている」」
ノゾムが詩の一説でも朗読するように言い、ぼくは口元を歪めた。
「デロレンか。確か…魔王の演説だったかな?」
「うん。ピッタリだと思わない?」
ノゾムはいたずらっ子のような顔で笑った。
「お前、変わったなぁ…」
ボクはため息をついた。呆れてはいない。感心しているんだ。
頭に馬鹿が付くほど真面目でお人好しだったノゾムは、若干の諧謔味を帯びてきている。ボク好みの皮肉が飛ばせる程に。
辛い目にあって一皮剥けつつあるのか…、弱々しい面も確かにあるし、不安定ではあるものの、それらももしかしたら成長
の過渡期特有の物かもしれない。…つまり、思春期の不安定さみたいな物…。
「いつからそんなに腹黒くなったんだ?ええおい?」
笑いかけたボクに、ノゾムはシャツを捲って、べろんとだらしない出っ腹を晒して見せた。
「白いよ?お腹」
「はいはい。面白い面白い」
色の薄い毛に覆われた丸い腹を撫でて言うノゾムに、ボクは手を叩いてやる。
「確かに尻尾の先も白いね」
「はいはい。尾も白い尾も白い」
尻尾を立ててふらふら揺らして見せたノゾムに、ボクはまた手を叩いてやる。
「餅狐、中身はあんこ、真っ黒な」
「それで上手い事言ったつもり?」
「お前こそ」
ボクらはニヤニヤ笑い合った。
初めてじゃないだろうか?ボクがこうして、誰かの前で本性晒しながら笑うなんて…。
朝食が済んだ後もしばらくニュースを眺めながら喋っていたボクらは、結局買い物に出かける事にした。
シャンプーは借りて使うとしても、タオルなんかは自分用の物が欲しい。それに夏用の布団…、これは必須だ。
バスでアーケードに向かい、めぼしい品を探して店を梯子する。
ノゾムはその間にも、ボクが気付かない間に菓子やらジュースやらを買っては、しょっちゅう休憩と称してベンチなんかに
座り込んでいた。
「いっぱい買い物して歩くと疲れるねぇ。暑いし…」
…堪え性と体力が無さ過ぎだよお前…。
しかし財布はノゾム担当だ。一人で買い歩く訳にも行かないから、半ば呆れつつもノゾムが止まる度にボクも付き合う。
まあちょっと楽しいんだが、これはこれで…。
夏休みの開放感のおかげか?こういう無駄の多さにイライラしないなんて我ながら珍しい。
あれこれ買い物をして行く内に、時間はあっという間に過ぎる。そして昼食時になると…。
「お昼、何処で食べようか?」
ノゾムはアーケードの案内図前で立ち止まり、目を細めて店を探し始めた。
ボクはノゾムの寝言を思い出し、さらに鰻の食欲を誘う香ばしい匂いも思い出す。
「牛タン定食が美味しい食堂があるんだけど…」
うなぎうなぎうなぎうなぎうなぎうなぎうなぎうなぎうなぎうなぎうなぎうなぎうなぎうなぎうなぎ…。
無言のままノゾムの背中に念を送るボク。
「あ、冷やし中華の方が良いかなぁ?暑いし」
うなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなうなっ…!
「そうだ!冷麺食べに行こう!」
うなうなうなう…なっ!?
「ぼく美味しいお店知ってるんだー!ミツルも絶対気に入るから!行こうっ!」
…う…な…。
ノゾムは張り切って歩き出し、ボクはその後をとぼとぼとついて行く。
…鰻…。
テンションが上がっているノゾムの後をしょんぼりしながら歩くボクは、
「ウナっ?」
突然立ち止まったノゾムの背中にぶつかり、鰻への未練が滲んだ声を漏らした。
「どうした?急に立ち止まって…」
立ち尽くしたまま動こうとしないノゾムの視線を追い、前を見遣ると…、そこには白い熊の姿があった。
アーケード内に点在する案内板の一つ、さっきまでノゾムとボクが眺めていた物と同じ造りのそれを見つめている熊は、腹
が出た中年だ。
メッシュの半袖にベストを羽織り、タイガーカモの青白い迷彩カーゴパンツを穿いている。
ガタイが良い。単に太って幅があるんじゃなく、腕や肩が筋肉で岩みたいにごつごつ盛り上がった、逞しい体付きだ。
背はそれなりに高いが、熊族としては平均的だろう。アブクマよりは低い。
被毛は白いが、顔つきが北極熊じゃないな。ツキノワグマだろうか?生まれつき体の色素が薄いのかもしれない。
周りには他にひとも居るが、皆動いている。ノゾムが一点を凝視している事から、見ているのはその熊の事に間違いない。
「知り合いか?」
ボクがそう小声で訊ねると、ノゾムは顎を引いて頷いた。
「珍しい…。こんな時間に会えるなんて…」
囁いたノゾムの声は、どこか夢見るような、ふわふわした物になっていた。
やがて、案内板から目を離した白い熊中年は体の向きを変え、丁度こっちに向かう形になってノゾムに気付く。
「よう!ヤマギシ君!」
おっさん熊は厳つい顔に笑みを浮かべ、のっしのっしとこっちに歩いてきた。
「ど、どうも…」
緊張しているのか、ノゾムは小さな声で挨拶した。
「お?今日はお友達と一緒かぁ」
会釈したボクに、白熊は相好を崩して笑いかけて来た。
間近で見て気付いたが、やっぱりこのおっさんはアルビノか何かなんだろう。瞳は極めて薄い茶色で、赤みがかっている。
ノゾムはそこまできてからハッとしたようにボクを見て、「あ…、し、親戚です…」と紹介してくれた。さらに、
「こちらはドウカさん。色々お世話になってる、先生みたいなひと…」
と、ボクにおっさん熊の説明をした。…先生みたいなひと?何だそれ?
「ウツノミヤです。初めまして。ノゾムがお世話になっています」
「こりゃどうもご丁寧に…。わしはドウカじゃ、よろしく」
ドウカと名乗ったおっさん熊は、「二人で遊びに来とったんか?」と、ニコニコしながら言う。
「あ…、まぁ、買い物って言うか、遊びにって言うか…。今から、お昼食べに行こうかって…」
ボソボソと応じるノゾムの尻尾は、せわしなく、小刻みに左右に揺れていた。
「ほぉ。わしも今から飯にする所じゃったけぇ、良かったら一緒にどうじゃ?」
白熊おっさんはそう言って、ノゾムは心が揺れたのか耳をピクピクさせる。
悪いが、このおっさんが何者なのか判らないし、ボクとしてはノゾムと二人の方が気楽だ。一緒に食事という気分にはちょっ
となれな…、
「今日は午後一番から夜中まで仕事になるけぇの、精が付くように鰻重でも食おうと思っとるんじゃが…」
ナギぃっ!?
「わしが奢ったるけぇ、どうじゃろな?」
ドウカさんは神々しいまでの笑顔でそう提案して下さった。
しかしノゾムは「え、えぇと…」と口ごもり、即答しない。
断るなよノゾム。断るのは失礼千万だぞ?そんな無礼を働いて良い訳がない。そんな事は天上におわし遍く大地を見守って
下さっている偉大なるウナガミ様がお許しになられないだろう。さあウナずけっ!
煮え切らない態度でもじもじしていたノゾムは、ボクの方をチラッと見てから、「あ…」と声を漏らした。
「そういえばミツル、鰻好きだったよね…?お言葉に甘えてご一緒する?」
グッボーイ!空気が読める良い子だノゾム!
「けれど、ドウカさんのご迷惑になるのでは…?」
紳士の仮面と態度と口調フル装備で、ボクは白いナイスミドルへ控えめに声をかけた。
「がっはっはっはっ!なんのなんの!迷惑じゃったらハナから誘わんて!」
ドウカさんは豪快に笑って「行こうか」と歩き出す。ボクらからすれば引き返す方向だ。
鰻…!ああ、鰻…!
足取りも軽く進むボクの横で、ノゾムはちょっと俯き加減だった。ん?何だか元気が無くなったような?
…いや、違うな…。ちょっと恥ずかしそうで、でも嬉しそうな…?尻尾なんかずっと小刻みに動いているし…。
ドウカさんは良いひとな上に楽しいひとだった。
鰻への造詣も深く、熱く語り合う事ができた。
特にタレへの考察は素晴らしい。鰻にとってタレが重要なファクターである事は万人が認める所であり、そこに異議が入り
込む余地など無い。しかしかなりのヘヴィウナギストであらせられるらしいドウカさんは、本来邪道と扱われるコンビニなど
で売られている鰻弁のタレについても独自の考察を交えた意見を語ってくれた。近年は味も随分良くなり、タレの味も向上し
たものの、依然として深みに乏しい。これは手間を惜しみコスト軽減を重視しながらも本来のタレに近付けようとした結果だ。
その努力を認めながらもドウカさんはおっしゃる。違う物で再現しようとするからこそ、どれだけ美味くなっても違和感が付
き纏うのだと。味覚と嗅覚は一般的にイメージされるよりも記憶に結びつき易い。普段から頼っている視覚情報よりもだ。だ
からこそ我々は記憶に香ばしく焼き付けられた老舗の鰻と、大量生産品の鰻の違いを敏感に感じ取ってしまう。もしかしたら
その差は永久に埋まらないのかもしれないが、日進月歩の調味料製造技術成長に期待したい。ドウカさんはそう熱く語られた。
これにはボクも同意せざるを得ない。コンビニ鰻の成長度を考えれば、期待する余地は確かにある…。感動的だった。まさか
こんな所でここまで鰻愛に満ちあふれたナイスミドルと巡り会えるとは…!もう天におわすウナガミ様が引き合わせてくれた
と考え、ただただ出会いに感謝するしかない。なお、ドウカさんはボクが述べた焼きのみならず蒸し加減も重要視された鰻が
持つ甘美な食感についても共感を示してくれた。旬ではない夏の鰻こそ食感は非常に大切。ドウカさんもそうおっしゃってい
た。…そこで、めっきり口数が少なくなっていたノゾムが「鰻の旬って夏じゃなかったの?」と何故か恐る恐る言い出したの
で、ボクとドウカさんは詳しくその辺りの説明をしてやる。土用の鰻と言う素敵な行事から勘違いされ、そういう誤解が広く
認知されているが、鰻の旬は夏じゃない。むしろ夏は痩せている。まあ脂が落ちているので生臭いのに非常に敏感なひとは夏
の鰻の方を好むようだが、脂がのった鰻が食いたいなら…。
…おっと失礼。少々興奮してしまっていたようだ。これも店内に漂う素晴らしき鰻とタレの香りのせいだろう。
ボクとドウカさんの説明で真の鰻の旬を知り、ノゾムが一つ利口になった所で鰻重が運ばれて来た。
テーブルに降臨した箱は四つ。内二つは健啖家であらせられるらしいドウカさんの分だ。
重厚かつ雅さも損なっていない黒塗りの箱…。その蓋を開ければ溢れ出す、この世の物とは思えない芳しい香り…。
至福の一瞬だ。ボクとドウカさんは目を閉じて深く息を吸い込み、五臓六腑で香りを噛み締める…。この深みのある香りは
タレと鰻の組み合わせによって始めて誕生する。
「では、早速頂こうかい」
「はい!」
「あ、いただきます…」
ペコッとお辞儀して箸を割ったノゾムをよそに、ボクとドウカさんは手を合わせ、鰻に感謝の意を表しながら唱和する。
『頂きますっ…!』
鰻を箸で綺麗に崩し分け、米と鰻の身をきちんと一緒にすくいながらも、ガツガツガツガツッ!と勢い良く食すドウカさん。
何とも豪快で気持ちの良い食いっぷりだ。オシタリのただ下品なだけのかき込み方とは一線を画す。こうまで美味そうに食っ
て貰えて、きっと鰻も喜んでいるだろう。
ボクも鰻への感謝を忘れずにその味を噛み締める。ただしドウカさんとは違い、チマチマと惜しむようにだ。
鰻の食い方に違いはあれど、我らは同志。ビバウナギ。ボンバイエ。
ボリュームのある鰻重は満足感抜群だった。ボクもノゾムも一杯で充分。
二杯召し上がったドウカさんも大変満足なご様子で、恰幅の良いお腹をユーモラスにさすっておられる。
さらには、食後の一服にとタバコを取り出しかけたが、ボクらに気を遣ってか、それとも鰻の香りに混ぜ物をする事を良し
としなかったのか、決まり悪そうに苦笑いしながらタバコの箱をお収めになった。
素晴らしきかな、同志にして敬愛に値する先達よ!豪快でありながらも気遣いは忘れない紳士ぶり、これぞ真のウナギスト!
「じゃ、わしはここらで…」
食堂から出ると、白いナイスミドルはボクらに別れを告げた。
「ご馳走様でした。お話、大変ためになって楽しかったです」
「ご、ご馳走様でした…」
ご馳走になったお礼をきちんと伝え、仕事に赴かれるドウカさんを見送るボクとノゾムは、広い背中が雑踏の中を遠ざかっ
てゆく様を眺める。
「いいひとだな。ドウカさん」
ポツリと言ったボクに、ノゾムは「でしょう!?」と、急に声を大きくして応じる。
「男らしい…、凄く大人の男って感じだし…、豪快なのに気配り上手で皆に好かれてるし…、ああ…!ああいう大人になりた
いなぁ…!」
しばらく口数が少なかったノゾムは、鰻の精を得て元気が出たのか、急に饒舌になった。
あれか?ディープな鰻の話について来れなくて黙っていたんだろうか?ちょっと反省…。もう少しライトな鰻トークにして
おけば良かった。
「ミツルは本当に鰻好きだね。思い出してみれば昔からだけど…、ここまでじゃなかったよね?」
「ここまでって?」
「目の色が変わるくらいじゃなかったって事」
「……………」
…そうだったのか…?ボクの溢れる鰻ラブは、なかなか隠し難いようだ…。今後は注意しよう…。
それからボクらは布団を選び、即日配達を申し込んだ。…のだが…、運悪く配達予定がまっているらしく、今日中の配達は
難しいとの事。
明日中には必ず届けて貰えるそうだが…、今夜も昨夜と同じ寝方になるのかボクらは…?