第二話 「担任」(後編)
「ほぉ〜…。これは良いなぁ…」
画面を見つめた肥満虎は、肉が付いてだぶっと丸くなっている顎をさすりながら呟いた。
「私は目が悪くてなぁ…。細々したものをじっと見ているのは、ちょっとばかり苦手なんだが…、このくらいの画面だと苦に
ならないかもなぁ」
「せっかくですから、画面に文字を出して、実際に見てみましょうか。良く使われるのは…、そうですね、10.5で…」
ボクは横から手を伸ばしてキーを操作し、簡単な文章を打ち、それを見て貰う。
「おお〜…、うん。これなら見えるなぁ」
画面の文字列を見たトラ先生は、眼鏡の奥の目を細めて破顔した。
ここは寮のボクの部屋だ。
最初は学校にパソコンを持って行って、触ってみて貰うつもりだったが、先生が…、
「学校に持って来て、壊れたり、無くなったりしたら困るからなぁ」
と言って、ボクが持ち込む事を渋った。
それでも、実際に一度触って見た方が良くないか?と、念を押して食らい付いたら、
「う〜ん…。それじゃあ、私がウツノミヤの部屋に行っても良いかなぁ?もちろん、邪魔なら遠慮しておくが…」
と、先生は妥協案を提示した。
はっきり言うと、身なりのだらしない、汚らしい印象すらあるこの先生に、部屋に入って欲しくは無かった。
が、せっかく好印象を与えられるチャンスを逃すのは、あまりにも惜しい。
一瞬の躊躇の後、結局ボクは首を縦に振った。
化学準備室でさえアレなんだ。先生の自室がどんな状態なのかは、想像するだけで恐ろしい。…別の意味で興味は湧くが…。
そして、その翌日に当たる今日。部活が終わった後、こうして部屋に迎え入れ、お勧めするPCに実際に触って貰った訳な
のだが…。
「うん。これと同じタイプの物を買おう」
と、先生はウンウン頷いた。どうやら気に入ったらしい。
ひとしきりPCを弄り、満足したらしいところで、冷蔵庫から出してきたオレンジジュースをグラスに注いで勧めると、ト
ラ先生は眉尻を下げて、嬉しそうに笑った。
「済まんなぁ。部屋にお邪魔した上に気を遣わせて…」
なになに。この程度は安い投資ですよ先生。
「いいえ。ボクも一人で退屈でしたから、ゆっくりしていって下さい」
先生の左手側、テーブルの横側に座りながら、ボクはにこやかな笑みを作って応じる。
何処へ行っているのか、オシタリは例によって留守だ。
相も変わらず毎日毎日、門限ギリギリまで帰って来ない。
…まぁ、居ても何か話す訳でもなし、空気が張り詰めてイヤな雰囲気になるだけだし、居ない方が気楽と言えば気楽だが。
「ところで、ルームメイトはオシタリだったかぁ。出かけているのかぁ?」
うっ…?よりによってそこに来るか…。
「そうみたいです。何処へ行くかまでは聞いていませんが、門限は守るので心配要りません」
オシタリが何処で何をしようが勝手だが、フラフラ出歩いて問題を起こさない事を祈る。
下手をすると同室のボクの印象も悪くなりかねないからな。
そんなボクの内心に気付くはずもなく、
「仲良くやれてるのかぁ?」
そう、先生は間延びした口調で問いかけてきた。
「それなりに、ですね。彼はあまり喋りませんが」
あと、ボクだって話しかけませんが。
「そうかぁ。まぁ、仲良くしてやってくれなぁ?オシタリも結構…」
先生は何かを思い出したように、言葉の途中で口を閉ざした。
「結構…、何ですか?」
「ん?んん〜…、結構、動物好きだったりするから…」
…意味不明です先生…。
というよりも、何だか返事を無理矢理捻じ曲げたような印象がある。
人間観察はボクの趣味であり十八番だ。ナメないで頂きたい。
それにしても…、オシタリも結構?一体何を誤魔化そうと…、あ。
今更ながらにその事に気付いたボクは、幸せそうな顔でジュースを啜っている先生から、手元のグラスへと視線を落とした。
…そうだった。この先生は担任だから、受け持ちの生徒の事も詳しく知っている。
つまり、おくびにも出さないけれど、ボクの家の事情も知っているはずだ。
いや待て。そこは仕方ない。問題はそこじゃなく、オシタリの事だ。
ちらりと先生の顔を見たら、肥満虎はグラスに視線を落としていた。
…そう突っ込んで聞くべき事でもないか…。やじ馬根性で尋ねていると、印象が悪くなるかもしれない。
「大丈夫です。それなりに上手くやっていますよ」
とりあえず無難な返事を返したボクは、話題を変える事にした。
「ところで先生。お独り暮らしだとおっしゃっていましたが、食事もご自分で用意なさるんですか?」
「ん〜?いやぁ、私は料理の方は苦手でなぁ…。もっぱらコンビニなんかの弁当か、外食だなぁ」
先生は腕組みをして、視線を上に向けながらそう答える。…まぁ、料理が得意そうなイメージは無いが…。
「この近くの食堂にも、よく来るんだぞぉ?」
「へぇ。この近くの…」
ボクの脳裏に、暴走族の特攻服に書いてありそうな漢字四文字の暖簾が浮かんだ。
「もしかして、飯煮馬瑠(はんにばる)ですか?」
「あぁ。さすがに知ってたかぁ」
アブクマとイヌイに勧められたので、名前と位置は解っている。
一度は実際に行ってみたが、運悪く混んでいたので、入るのはやめた。
「まだ入ってみた事はありませんが、お勧めのメニューとかありますか?」
「ん〜、そうだなぁ…」
肥満虎は糸のように目を細くして、それから目尻をトロンと下げた。
「フライ定食「海」なんかは、お勧めかなぁ…。タラとエビ、イカのフライがメインの定食なんだが、ボリュームもあって美
味いぞぉ」
そう言った先生は、幸せそうな顔でゴクリと喉を鳴らした。
よほど気にいっているようだが、食べ物ぐらいで、なんでこんな幸せそうな顔ができるんだろうか?ちょっとだけ羨ましく
も思える…。
「ボクはもっぱら寮の食堂のお世話になっていますが、休日にでも行ってみま…」
ぐぅ〜っ…きゅるるっ…
妙な音を耳にして、ボクは言葉を切った。
反射的にピクっと動いた耳が向いた音の出所は…、なにやら恥かしげに「たははぁ〜…」と苦笑いしている虎の出っ腹。
「…ああ…、もうこんな時間ですからね…」
時計を見れば午後七時半。思ったより、PCの説明に時間がかかってしまったようだ。
「済まんなぁ…。あ、そうだ」
肥満虎はポンと手を叩くと、ニンマリと笑った。
「お礼って事で私がご馳走するから、一緒に飯でもどうだぁ?たまには寮食以外もいいだろう」
「え?」
ボクは先生の笑顔を眺めながら、少しの間考え、
「…ご迷惑でないなら、お言葉に甘えて…」
結局、同行する事にした。
さっさと済ませて自分の時間を確保したいのはやまやまだが、ここは申し出を受けた方が、印象を良くできそうだし…。
「何か食いたい物はあるかぁ?」
おっくうそうにでかい尻を浮かせて立ち上がる先生に、ボクは空になった二つのコップを手に取りながら応じる。
「特にリクエストは…、あ。せっかくなので、話に出ていたハンニバルとか、どうでしょうか?」
「ああ〜。ここから近いし、あそこも良いかぁ。あんまり遅くなっても困るしなぁ」
ボクは手早く流しにコップを置き、水に浸ける。
先生を待たせるまいと気が急いていたせいか、水を出した時に、眼鏡のレンズにちょっと水が跳ねた。
それから一度寝室に入り、クローゼットから上着を取り出す。
ついでに鏡で被毛の跳ねをチェック。尻尾は…、オッケー、問題なし。
外出の準備を済ませて、水滴が跳ねたレンズを拭いながらリビングに戻ったボクは、眼鏡を拭いている途中の姿勢で止まった。
先生が、妙な顔でボクを見ていたから。
「どうかしましたか?」
口を薄く開き、耳をピンと立て、少し見開いた目でじっとボクを見ていた先生は、「あ」と声を漏らし、頭を掻いた。
「あぁ…、いや、何でもない…」
…ん…?
先生はいつもの眠そうな半眼に戻ると、
「さぁ、遅くならない内に行くかぁ」
と、踵を返してドアに向かった。
…何だったんだろう?今の顔…。
驚いていたような…、懐かしんでいたような顔…。それから、少し寂しそうな顔になった…?
ボクは眼鏡をかけ、軽く首を捻ったまま、先生の後に従って部屋を出た。
階段を下り、寮の玄関前まで行くと、
「む?トラ先生…」
ちょうど外から戻ってきた牛が、ボクと先生の姿を目にして、訝しげな表情で声をかけて来た。
時刻はゴールデンタイム。皆寮食か談話室、あるいは自分の部屋に引っ込んでいるせいか、ホールにはボクら以外に誰も居
ない。
それにしても、どうかしたんだろうか?副寮監の表情が硬いような…。
「寮に来るとは珍しいですな。何かありましたか?」
歩み寄ったウシオ副寮監は、やや固かった表情を弛め、親しげな笑顔でトラ先生に話しかけた。
「あぁ、ウツノミヤに用事があってなぁ。ちょっと連れてくぞぉ?」
「ふむ?」
副寮監はボクと先生の顔を見比べ、それから少しだけ目を鋭くする。
「…何か…問題が…?」
副寮監の問いに、トラ先生は頬を掻きながら苦笑いした。
「あぁ、問題があったとか、そういうんじゃあないからなぁ?実は…」
先生はウシオ副寮監に、ここまでの事情を手短に説明した。
「なるほどパソコンですか…。いや、無用な詮索でした。申し訳ない。久々にトラブルがあったせいか、ワシも少しばかり神
経質になっているようです…」
軽く顔を顰め、頭を掻いた副寮監に、先生は笑みを返した。
「ウツノミヤは真面目だからなぁ。団の手を煩わせるような事はないだろう。…それはそうと、トラブルというのは何だぁ?
私は特に何も聞いていないがなぁ」
「いやそれが、ワシも聞いたばかりで詳しくはまだ…。カツアゲが数件あったようでして、今も被害者から話を…、む」
ウシオ副寮監は言葉を切り、ボクに視線を向けた。顔が、「喋りすぎたか…」と言っている。
「大丈夫です。何処でも喋りませんし、誰にも言いません」
とは一応言ったものの、ウシオ副寮監はそれでも先を話す事を渋っている。
口外するつもりは本当に無い。が、トラブル回避のために聞いておきたいのは確かだ。
「ウツノミヤ?」
「はい?」
トラ先生はボクの手を取ると、その小指に、ボクの親指よりも太い、肉付きの良い小指を絡ませてきた。
そして小指を絡ませた手を軽く上下に振り…。…ちょっと待て。これ、まさか…?
「ほい、ゆびきりなぁ。喋っちゃダメだぞぉ?」
「…はい…」
…子供か…?まぁ、喋るつもりはないけれど…。
「それで、カツアゲはウチの生徒がやったのかぁ?それと、被害者というのは?」
先生の問いに、副寮監は困ったような顔で応じた。
「そこがまだ詳しく解らんのです。ワシも今日、練習後に初めて聞いた話なもんで…」
…もしかして、今のゆびきりで納得したのか…?そう前置きすると、大柄な牛は先生に事情を説明し始めた。
どうやら、ボクに内容を聞かれる事には目を瞑ってくれるらしい。
「加害者が川向こうか、こっちの生徒なのかは、まだ解っとりません。が、ここ一週間の内、判明しとるだけで三件です。ウ
チと陽明の団を恐れず、堂々とカツアゲなどをしとる事から察すれば、恐らくは地元以外の生徒…、ヨソから来ている新入生
の線が濃いのかもしれないと…。でなければ、両校の団の目をかいくぐって悪事を働いていた上級生という事になりますが…」
地元以外で、新入生、つまりボクらの学年の可能性もあるのか…。
「それで、被害者はどっちの生徒なんだぁ?」
トラ先生の問いに、ウシオ副寮監はブフーッと、鼻から荒々しい息を漏らした。
「どっちでもありません。小学生が二名、中学生が一名です…!いずれも午後6時以降、夕暮れ後の、人通りの少ない時間帯
と路地で起こっとります!」
「あぁ〜…、それでそんなに怒ってるのかぁ…」
「む?ワシは別に怒ってなどは…」
納得したようにゆっくり頷いたトラ先生に、副寮監は顔を顰める。
…いや、入って来る時から既にピリピリしてましたよ副寮監?
「犯人はまだ何処の誰か解らない。が、被害があった。そこまでは間違い無いんだなぁ?」
「はい。それは」
「解った。明日の朝にでも、他の先生方にも報告しておこう。被害が間違いないなら、もう話しても良い段階だなぁ?」
「ですな。申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
ペコッと一礼する副寮監。こうやって話を聞いていると、生徒というよりは警備員か何かみたいだ。
…それにしても…。カツアゲ…、地元以外の生徒…、新入生…。
ボクの脳裏に、ある人物の顔が思い浮かぶ。
…まさか…?…いや、まさか…な…。
「ところでウツノミヤ?」
「は、はいっ!?」
ウシオ副寮監に突然名前を呼ばれ、考え事をしていたボクは、やや上ずった声で返事をした。
「パソコンに詳しいなら、手が空いた時にでもワシらの部屋に来てくれんか?」
…どうやら、違う話題らしい。
「それは構いません。…で、どうしてですか?」
問い返したボクに、ウシオ副寮監は頭を掻きながら顔を顰めて見せた。
「イワクニのパソコンとプリンターが、どうも調子が悪くてな…。新入生勧誘のビラ擦りなんかで酷使したせいなのかもしれ
んが、ワシもアイツもあまり詳しくなくてな。パソコンに強い後輩もおらんから、難儀して難儀して…」
またしてもゴマ擦りチャンスだ。もちろん快く引き受けるさ。
「そういった事なら、できる限りやってみます」
「おお!済まんが頼む!いやぁ助かる!」
大牛はボクの手を大きな両手で掴むと、ブンブンと上下に振った。
…それにしても、二人とも大柄だから、ずっと見上げっぱなしの会話で首が疲れるな…。
お食事処、飯煮馬瑠(はんにばる)。
ボクが先生に連れられてやって来た食堂の暖簾には、そう書いてある。
…うん。凄い名前だ…。店主のセンスを疑う…。
「こ〜んば〜んはぁ〜」
間延びした挨拶をしながらガララっと引き戸を開けた先生に続き、ボクも店内に入る。
「あい、いらっしゃい!」
威勢の良い返事をよこしたのは、カウンターの向こう、厨房で忙しく立ち回る中年の馬獣人。
長身痩躯。歳はたぶん40過ぎくらいか?
特筆すべきは毛と瞳の色だ。海を連想させる、紫を帯びた深い青。
「おや先生?教え子さんですか?」
結構混みあっていた店内で、カウンターについたボクらの顔を交互に見ながら、馬獣人は歯をむいて笑顔を見せた。
「ええ。今年受け持つ事になった子です。ウツノミヤ、こちら馬場瑠吉(ばばるきち)さんなぁ」
「初めまして。宇都宮充です」
会釈したボクに、「こっちこそ、どうぞご贔屓に」と、店主が笑みを向けた。
「…もしかして、店名の字…、馬と瑠って…」
「ええまぁ、あたしの名前から取ってねぇ」
気になって尋ねてみると、店主はそう応じてから、あるサスペンス映画の名前を上げる。
「で、アレにひっかけたって訳で」
「納得行きました」
納得は行ったけれど、やはりセンスはどうかと思う。
「ところで、ご注文の方は?」
「私はフライ定食「海」で…。あ、ウツノミヤ、メニューここなぁ?」
「あ。ボクも先生と同じ物をお願いしても良いでしょうか?」
「んん〜?好きなのを頼んで良いんだぞ?」
「いえ、せっかくですから、先生のお勧めを食べたくて」
ボクの思惑通り、先生はちょっと嬉しそうな顔をした。
…しめしめ、これまでに無いタイプの先生だったから多少は警戒していたものの、割と単純そう?これは結構簡単に好感を
得て行けそうな予感…。
「ははは!可愛い生徒さんじゃないですか?」
図らずも、上手く合いの手を入れてくれる店主。ナイスだハンニバル馬場。
肥満虎はくすぐったそうに身じろぎし、椅子にギシィッと悲鳴を上げさせる。
「じゃあ、海二つで」
「あいよぉっ、海二つね」
店主が威勢の良い返事と共に、カウンターから離れて行く。
コップから水を啜っている先生に、ボクはそれとなくプライベートな質問を投げかけてみる事にした。
情報は武器だ。多いに越した事は無いからな。
「失礼ですが、先生はおいくつなんですか?」
「ん〜?36だ。今年の誕生日が来て37になるなぁ」
そう答えてから、先生はちょっとだけ目を大きくした。
「…さ…37…、かぁ…」
肥満虎は耳を伏せ、やや俯く。…え?なんかヘコんでる?
「い、いや…、だいぶ…お若く見えますよ?」
そう思っていないのはみえみえの、ややかすれ声でのフォローに、しかし先生は「たはぁ〜…」と弛んだ笑みを浮かべて見
せた。
「いつのまにやら、私も立派な中年だなぁ…。腹も出る訳だ…」
トラ先生はそう言いながら腹を見下ろし、ワイシャツ越しにポンと軽く叩いた。それだけで、贅肉が波打ってタプンと揺れる。
…済みませんが、ソレ、中年太り以外の要素が絡んだ結果だと思います先生…。
コーヒーに入れる砂糖やクリームの量とか、どうかしてるし…。
「甘いものとか、好きなんですか?」
「うん。好きだなぁ」
「…揚げ物とかも…?」
「好きだなぁ」
…納得だ。
ボクが何を言いたいのか察したらしく、先生はふいっと視線を逸らした。
「…まぁ…、食事なんかの好みのせいもぉ…、あるのか…なぁ…?運動もぉ…、ここ十年程、全然していないし…」
「…くふっ…!」
耳を伏せながらボソボソと言ったその様子が、何だか失敗を咎められた子供のように気まずそうで、あんまり可笑しくて、
ボクは思わず口元に手を当て、吹き出してしまった。
しまった!と思ってちらっと横を見ると、トラ先生はなんだかちょっと驚いたようにボクを見ていた。
「ウツノミヤは、そういう顔で笑うんだなぁ?」
そして、目をいつも以上に細めて、口をちょっとだけ開けて笑みを浮かべる。
「先生の前で笑った事、ありませんでしたっけ?」
「いやぁ?ただ、今の笑い方は、自然な感じがしてなぁ」
あれ?いつもの作り笑いは、ちょっとぎこちなかったんだろうか?
…いや、そんなはずは…。これまでも特に指摘された事はなかったし、スマイルには自信があったんだが…。
面白そうに微笑んでいる先生の顔から視線を逸らし、僕はコップの水を口に含んだ。
「…先生…。よければ、フライいりませんか…?」
「ん〜?」
先生はおかずが半分以上残っているボクの皿に視線を向け、首を捻った。
「揚げ物は苦手だったかぁ?」
「いえ、そうじゃないんです。そうじゃないんですが…」
店主は、初顔のボクを連れて来たからという事で、二人分に少しサービスしておくと言っていた。…そう、少しって…。
なのにこの量はなんだ!?軽く三人前くらいあるんじゃないか!?
ボクは元々それほど食べるわけじゃない。この量は無理だ。腹が苦しい…。
「ちょっと…、食べ切れそうにないので…」
口元を押さえながらそう告げると、自分の方はペロリと平らげた肥満虎は、ボクを見て、それから皿に視線を向けて、また
ボクを見た。
「ほっそりしているのは、食べる量にも気を遣っているからなのかぁ?」
「いや、気を遣ってるとかじゃなくて、単純にもうお腹が一杯なんです…」
先生は口元を綻ばせ、ボクの皿を手元に引き寄せた。
「なら、有り難く貰っておくなぁ?悪いなぁウツノミヤ」
いや、悪いも何も、元から先生の奢りなんだし…。
先生はさっそく、幸せそうな顔で魚のフライにかぶりつく。
悩みなんてなさそうな、単純な、その時の幸せを噛み締めるような顔…。
…父さんも、この先生みたいにのほほんとした性格だったら、あんな事にはならなかっただろうか…?
「…どうした?ウツノミヤ」
突然声をかけられ、ボクはハッとした。
トラ先生は不思議そうな顔で、ボクを見ている。
無意識の内に、先生の横顔をじっと見つめてしまっていた…。
「す、済みません…。幸せそうに食べるんだなぁって、なんだか感心しちゃって…」
誤魔化すボクに、先生は笑って見せた。
「飲んで、食べて、笑える。幸せな事だろう?」
弛んだ笑顔でそう言った先生を前に、ボクは少し悩んだ後、
「そうですね…」
結局、簡単に追従する事しかできなかった…。
「ごちそうさまでした」
「いやいや、私の方こそ、長々とつき合わせて、悪かったなぁ?」
先生は苦笑いしながらも、満足気にまん丸い腹をさすっている。
ワイシャツを押し上げる腹は、心なしか食前よりも膨れているように見えた。
ボクの残した分と自分の分、約五人前がこの中に納まっているのか…。この体型になるのも納得な健啖家振りだ。
本来は勇壮な印象を持つはずの虎が、まん丸く太っているのも、なかなかにユーモラスかもしれない…。
そろそろ見慣れてきたせいか、ボクはあまり不快感を覚える事無く、そんな事を考えていた。
「悪いなんて…、そんな事ありません」
楽しかったですし。
そう続きそうになった言葉を、僕は何故か飲み込んでいた。
…なんでだろう?ちょっとわざとらしいからか?…うん、そうかもしれない…。
「じゃあ、行こうかぁ。寮まで送るなぁ」
「え?い、いえ、良いですよ!近いですし…」
遠慮したボクに、先生は首を横に振る。
「ウシオも言っていただろう?カツアゲがあったってなぁ。この辺りの事じゃあなさそうだが、念の為だ。それに…」
先生はニマ〜っと、弛んだ表情でボクに笑いかけた。
「私は一応、担任だからなぁ」
不思議なこともあるもので、度々イラついていた、先生の間延びした口調にも、弛んだ笑みにも、今は不快さを感じなかった。
…慣れって、怖いものだな…。