第二十一話 「ボクの立ち位置」

細く開いたドアの隙間から、肥えた狐の丸い背中を睨み、ボクは怒りで口元を震わせていた。

最低だ。最悪だ。

ボクは信じようとしたのに…。信用する気だったのに…。ノゾムっ…!

度し難い裏切りに、はらわたが煮えくりかえる思いだ。

気を許していた自分の甘さ加減に反吐が出る…!

他人は信用できない。その中で、コイツだけはと思ったのに…。

結局やっぱり、誰も信じられないんだ。

誰だって自分の欲を満たすのが大事で、信用なんて見えないところで踏みにじられる。

散々そうされて来て、もう解っていたはずなのに…。ボクは馬鹿だった。

ドアを開け放って、思い切り侮蔑の言葉でも叩きつけてやろう。

そう考えてドアノブに手を伸ばしたボクは、触れる寸前で手を止めた。

「う…、う…!」

ノゾムが呻く。第二ラウンド…じゃあ…ない?

「うっ…!うううっ…!」

…泣いて…る…?泣いているのか?

「…さい…!…なさい…!ごめんなさい…!」

ノゾムは背を丸めて床に突っ伏し、体を震わせて低い嗚咽を漏らす。

「ミツル…!ごめ…!…えっく…!ごめん…!ごめ…なさ…!」

ノゾムは、謝っていた。

泣きながら詫びていた。

…ボクに…。

見られていた事に気が付いたのかと一瞬考えたが、どうやら違うらしい。

声を押し殺して泣きながら詫びるノゾムは、まだボクの覗き見に勘付いてはいない。

肥えた狐は床に突っ伏したまま、丸い体を震わせて泣き続ける。謝り続ける。

その姿を見ていたら、胸の中が冷えてきた。そして、怒りとは別の物で熱を持つ。

いたたまれなくなった…。泣きながら詫びるノゾムの姿を目にして…。

怒りも不快さも何処かに吹っ飛んで行ってしまった。

…これが、見つかってから謝るのなら心を動かされはしなかったし、怒りに拍車がかかっただろう。

だが、ノゾムはこっそりボクをオカズにして、バレた事を知らないまま謝っている。悪いと思っている。泣くほどに…。

ノゾムはボクにバレないようにやろうとはした。その事には腹が立つ。

だがコイツは…、バレていないと思っているその状況でも謝っている。

…少なくとも、信用を躊躇いなく踏みにじろうとした訳じゃなかったようだ。

………。

迷った末に、ボクはドアノブに手を掛け、開けた。

微かな音で気付いたのか、ビクッと身を震わせたノゾムは慌てて身を起こし、振り返る。

涙と鼻水でグショグショの顔が、ボクを見て驚きに歪んだ。

「あ…!あ…、み、ミツル!」

言い訳でもすればいいのに、ノゾムは驚きの余りそんな事すらできないらしい。

目を小刻みに揺らしながら、口をパクパクさせてボクを見ている。

「あ、あのっ…!あの…!あのっ…!」

ノゾムは怯えていた。耳を寝せて眉尻を下げ、涙をポロポロと零している。

性処理したせいで衝動が消え、冷静になったせいで罪悪感を覚え、涙を流して詫びながら、今は怯えている…。

滑稽だった。

滑稽で醜かった。

滑稽で醜くて情けなかった。

「み、ミツル…!ミツル…!ご、ごめ…!ごめんなさい…!」

ノゾムは怯えきって顔を前に戻し、首を縮めて下を向き、自分の体を自分の腕で抱く。

こっちに背を向け、ガタガタと震えているアイツに歩み寄り、ボクはその正面に回った。

ノゾムがボクを恐る恐る見上げて来る。強い恐怖と涙を瞳に湛え、上目遣いに。

ボクはノゾムの前で屈み、手を上げる。

ぶたれると思ったのかもしれない。身を固くしたノゾムはギュッときつく目を閉じる。

その肩に手を掛けたら、強くビクッと震えた。

「ごめ…なさ…!」

赦しを乞う言葉は、しゃっくりで途切れた。

やがてその口が、「…え…?」と、小さな声を漏らす。

ボクが抱き締めてやった事が、信じられなかったんだろう。

「…ミツ…ル…?」

か細い声を漏らすノゾムを、ボクは黙ってギュッときつく抱き締める。

「…ミツル…?どう…して…?」

精液にまみれて萎えた股間のモノを丸出しにしたまま、涙と鼻水で顔をグショグショに濡らしているノゾムは…、糾弾する

気も起きないほどに、滑稽で、醜くて、情けなくて…。

…哀れだった…。

「良いから、黙ってろ…」

ボクはノゾムの耳元に囁く。

ムニムニした柔らかい体が、ボクの腕の中で震え出した。ブルブル、ブルブルと、寒がっているように…。

「ごめっ…なさ…!ごめん…!ごめん…なさっ…!」

ボクに抱き締められながら、ノゾムは子供のように泣きじゃくった。

独特な雄の匂いも、涙と鼻水でシャツを汚される事も、もう気にならなかったし不快にも感じなかった。

そうか…。

そう…なんだな…。

ボクは少し冷えてきた頭で考え、ようやくその事に思い至った。

ノゾムにとっては、男と同じ部屋で寝るっていう行為も、性欲を刺激される事なのかもしれない…。性欲を持てあます健全

な男子が、女性と同じ部屋で寝ているように、だ。

そしてそれが、例え親類だと理解していても…、それがボクだと判っていても…、昨夜ノゾムが泣きながら謝ったように、

今も泣きながら詫びているように、抑え難くなって…。

…ボクは、どうかしているんだろう。

ついさっきまで腹が立って腹が立って仕方がなかったのに、もう責める気はなくなっていた。

ノゾムを、可哀相だと思った。

ボクなんかに欲情してしまう事が…。親類だと知っていて、自分でも良くないと思いながらも衝動を抑えられなくなった事

が…。

ボクは…甘いんだろうか…?こんな時こうしてやるのはきっと正しくないと、何となく思うのに…。

「ひんっ…!ひっく!ひっ、ひふっ!ひぃぃぃぃいいいん…!」

ノゾムの丸い背中をさすってやりながら、ボクは途方に暮れていた。

どうしてしまったんだ?ノゾムは…。

それ以上に、ボク自身は…。

何で怒りきれなかったんだ?

どうして怒鳴れなかったんだ?

何故、ノゾムを慰めているんだ?

ボクはそのまま、ずっとノゾムを抱いていた。

密着している部分は熱をもって、どっちの物だか判らない汗でじっとり湿ったけれど、それももうどうでも良くなっていた。

ノゾムは泣きやまなかった。

いつまでもいつまでも泣いていた。

普段なら苛々するはずなのに、ボクはどうしてか怒らなかったし、怒れなかった。

屈んだままの姿勢で足が痺れて、我慢できなくなるまでじっとしていた後、ぼくはノゾムに囁いた。

「もう寝よう…、ノゾム…」

驚くほど静かな声は、自分の物とは思えないほど優しげだった。

震えながら泣き続け、ノゾムはまたごめんなさいを繰り返す。

背中をさすってやってから立ち上がり、手を引いてやると、ノゾムは俯いたまま片手で目をぐしぐし擦り、引っ張られるま

まボクについてくる。

まるで、迷子の子供のように…。

ベッドに寝かせ、隣に寝転がっても、ノゾムは泣いたままだった。

手はずっと繋いでいてやった。

独りにしないという証拠として…。

見捨てないという証拠として…。

けれどノゾムは、ずっとボクとは逆方向に顔を向けていた。

身じろぎする事すら怖れるように、啜り泣きながらもじっとしていた。

ボクらは眠れないまま数時間そのまま過ごし、外が明るくなり、小鳥が鳴き始め、朝がやって来た。

日が昇ったおかげでカーテンが光り始めても、ノゾムは、まだ泣いていた…。



結局一睡も出来ないまま、時計は朝七時を示す。

諦めて身を起こし、ずっと繋いでいた手を離したボクの横で、ノゾムがビクッと身を震わせる。

数時間ぶりに離した手はじっとり汗ばんでいて、熱を持っていて、外気に晒されたらスースーした。

ボクに次いで無言のまま身を起こしたノゾムは、顔を伏せていた。

思い出したようにすすり泣きが少し大きくなり、肩が震える。

ベッドの上に並んで座り、言葉も交わさないまま、十分ほどもそうしていただろうか、ボクはため息をついた。

それに過剰反応したノゾムが、身を震わせて喉をヒュッと鳴らす。

そんな鬱陶しいはずの反応にも、もう苛立ったりはしなかった。

心底、可哀相だと思っている。

ボクは離したばかりの手を再び寄せて、ノゾムのぽってりした手に重ねた。

そしてまたビクッと震えたノゾムに、声を掛ける。

「もう泣くなよ。責めたりしないから」

正直驚いた。自分がこんな猫なで声を出せた事に。

極力優しく声をかけようとはしたが、予想以上、期待以上の柔らかい声と口調で話しかける事ができた。

ノゾムはビクつきながら、恐る恐るといった様子でボクをチラ見する。

「本当だ。もう怒ってもいないし、責めない。信じろよ。ボクはお前を信じるって言っただろ?」

「…でも…、ぼくは結局…、我慢…できなく…。信じるって…言われたのに…」

やっと口を開いたノゾムは、鼻声で弱々しく語る。

反省しているんだろう。そして悔いてもいるし、申し訳なくも思っている。だからノゾムは和解を促すボクの言葉にも飛び

つけないんだ。

どうすれば良いか少し迷った後、ボクは少し腰を浮かせた。

また過剰反応してビクビクし始めたノゾムに体を向け、きつく目を瞑って身を固くしたアイツを、

「…ひゅっ…!?」

先にもそうしたように、抱き締めてやった。

怒っていない。平気だ。抱き締める事でそんな意思表示をしたボクの腕の中で、ノゾムは妙な声を漏らしたきり黙り込む。

硬くなっている体をリラックスさせるように、背中に回した手で撫でてやる。

警戒している小動物に言い聞かせるように、「大丈夫だ。大丈夫…」と、優しく何度も繰り返す。

やがてノゾムは、「ふえっ…!」と声を漏らし、肩と胸を上下させて喘ぎ始めた。

「えっ…!えふっ!えっ…!」

「よしよし。大丈夫…。大丈夫だからな…」

慰められるべきはオカズにされたボクの方だという気がしないでもないが、まぁノゾムがこの状態ではこれも仕方ないだろ

う…。

小刻みに震えている、肉付きが良すぎる背中を撫でながら、嗚咽を漏らすノゾムを慰める。

むっちりしたノゾムの体は、抱き締めると肉が柔らかく形を変えて密着して来て、熱がこもる。けれど今は身を離すのを我

慢した。

結局、ノゾムが落ち着くまで、三十分ほどそうしていなければならなかった…。

昔は決まり事や言い付けを破る事を嫌う…というより、そういった事に臆病だったはずなのに、今回は我慢できなくなった

のか…。

ノゾムはやっぱり、大きく変わってしまっている。おかしくなってしまったと言ってもいいほど。

…そしてボク自身も…、どこからか、いつからか、何かがおかしくなって来ていた…。



ノゾムは促さないと何もしようとしなかったから、とりあえず強引に手を引いてベッドから下ろし、肩を抱いて歩き、リビ

ングまで連れて行った。

食欲が無いという事で、ノゾムは朝食を食べなかった。

料理もできないボクは、適当にパンやインスタント食品を食べて済ます事も考えたが…、結局朝飯は抜いた。

せめてコーヒーくらい…と思って、ノゾムをリビングに置いたまま、冷蔵庫の中のアイスコーヒーを牛乳で割る。

配分を間違えたか、コーヒーの味は薄かった。

ノゾムはチビチビとそれを舐め、ボクは無言で胃に流し込む。

眠っている間に水分を失ったせいか、失敗したアイスコーヒーでもそれなりに美味く感じられた。

「…ごめんね…」

「いいって」

ようやくポツリと口を開いたノゾムに、声を待ち侘びていたボクは即答する。

続いて何か喋るんじゃないかと期待したが、ノゾムはそのままだんまり…。

間が持たない。居心地が悪いこの沈黙は、一体いつまで続くのか…。

もしかしたらもう、昨日の夕方のように笑い合って気分良く過ごす事はできないのかもしれない。

ボクが許す気になっても、ノゾムがその気になれない以上は…。

…そうだ…。こういうのはどうだろう?

「ノゾム」

ボクが声を掛けると、それだけでノゾムは大げさに体を震わせた。けれど構わず先を続ける。

「今日は予定とかあるのか?」

判っていたけれど一応質問した。

おそらくだが、ノゾムが通っている料理学校か何かは、今は普通高校と同じように夏休みなんだろう。居候させて貰うに当

たってノゾムから登校についての話は無かったからな。

ボクの質問に戸惑っている様子だったが、ノゾムは首を横に振る。やっぱり学校は休みで暇なんだろう。

「それじゃあちょっと付き合ってくれ。懐かしの場所巡りとかしたいから」

伺うような目でボクを見てきたノゾムは、

「でも…、昨日頼んだお布団が届くから…。ぼくは留守番してるよ…」

と、ボクがすっかり忘れていた事を口にした。

ちょっと安心した。ノゾムの脳はちゃんと動いているらしい。

「そうだったな。…けれど午前中に届くはずだろ?その後にでも出かけたい」

ボクは食い下がる。まぁ食い下がるとはいっても、無理強いしているように取られないよう、なるべくやんわりした口調と

声でだが。

ノゾムはしばらく黙っていた。出かけたくないんだろう。もしかしたら一人になりたいのかもしれない。…あるいは、ボク

が優しげだから警戒しているのか?

「…判った。気が向かないなら無理にとは言わない。いつでも行けるからな」

ボクはノゾムの気持ちを汲んで提案を撤回しつつも、反応をそれとなく覗う。

思った通り、ノゾムはほっとしたようでもあり、同時に少し迷っているようでもあった。

本当に断って良かったんだろうか?そんな迷いがあるんだろう。

あるいは、ボクだけで出かけて欲しかったかもしれない。

優しくはしてやっているが、現状ではそれでも落ち着かないんだ。気持ちを整理して落ち着ける為にも、一人になりたいか

もな…。

…うん、そうだ。今はボクにあれこれ言われるより、一人で静かにしていたいだろうな。そういう気持ちは判らないでもな

い。時間を作ってやるべきか…。

「ちょっとコンビニまで行って来る。近くに何があったっけ?」

小声でボソボソとノゾムが答えたところによれば、同じくらいの距離に三店舗あるらしい。

ボクは少し考えてから、青い看板のコンビニに向かう事に決める。三つの中で一番分かり易い場所だったから。

動く気にもなれず、テレビを見る気にもなれないのか、ちっとも動かないノゾムを残し、ボクはマンションを出た。

不安そうな一瞥を向けては来たものの、ノゾムはボクを引き留めなかった。

信用しているのとはちょっと違うだろう。…ボクがそのまま出て行っても仕方がない…。アイツには、そんな諦めにも似た

雰囲気があった。

午前八時の太陽は、まだ本気じゃないから過ごしやすい。

連日の炎天下で乾き切ったアスファルトの上を数分歩いても、ちっとも苦にならなかった。

実は、買いたい物は特にない。ノゾムに時間をやりたかったから、口実を作っただけだからな。

コンビニに入ったボクは、体が慣れたせいでどうとも感じなかったが、実は今の気温もそれなりに高かった事を、冷房が効

いた店内の空気との比較で思い知った。

雑誌のコーナーを眺めて、寮の談話室に積まれている漫画雑誌の事を思い出す。

時々興味がある漫画だけ拾い読みしていたが…、はて?あれは誰が買って置いていたんだろう?夏休み中は補給されないと

すれば、途中が抜けてしまうな…。かと言って、今買ってもノゾムの部屋を散らかすだけだし…。

…まぁ良いか。夏休み明けに談話室に無かったら無かったで、漫画喫茶でも利用してバックナンバーを読もう。

消耗品も昨日買い揃えたから、物が溢れた店内を見回っても本当に買うべき物が無い。

週刊誌を少し立ち読みしたが、目新しい物や気を引くような事件の記事は無かった。

仕方なく、興味がない芸能人のスキャンダル記事に目を通したが、三分の二ほど読んだ所で飽きて、別の週刊誌を取って眺

める。が、こっちも気になる記事はあまり無い。

…ノゾムを一人にするつもりで出てきたのに、これじゃあ時間潰しにもならないな…。

雑誌のコーナーから離れて菓子のコーナーに向かったボクは、しばらく菓子類を眺めた。

クッキーにチョコが乗った、表面の細工もイカした上品な菓子が目に止まる。…ブーちゃんはこれを冷凍庫で凍らせて食う

のが好きだったな…。

これを買って行こうか?ノゾムも嫌いじゃないと思うんだが、再会してからのアイツはスナック菓子ばかり食っていたな…。

他にも何か無いかと視線を彷徨わせたボクは、程なくタケノコとキノコを象った菓子のパッケージに目を止めた。

…随分前の事だから記憶があやふやだが、ノゾムは確かこれのどっちかが凄く好きだったはず…。

あれ…?ん…?どっちだったかな?タケノコ派だったか?それともキノコ派?何かに似ていてかっこいいとか何とか言って

いたような…?

しばらく悩んだ後、ボクは舌打ちして呟いた。

「おのれ…!オシタリにアブクマ…!」

思い出せないのはあの二人のせいだ。

キノコ派のシェパードとタケノコ派の大熊が一歩も譲らず激論を戦わせていたのは、ほんの一週間ほど前の事…。結局イヌ

イが「ひとそれぞれ」というもっともな言葉で場を収めたが…。くそっ!ヤツらのやり取りのインパクトが強すぎて思い出せ

ないぞっ!

いや待て、今ちょっと何かが頭の隅に引っかかったぞ?確か、傘の部分を外して分割して食べるのが好きとかどうとか…。

じゃあキノコ派か?

「…いや違う!おのれササハラっ!」

冷静に考えたら違った。あれはノゾムじゃなくジャイアントパンダの主張だ。ええい思い出ジャマー共めっ!

散々迷った後、ボクは一つずつ手に取り、シェイクして飲むコーヒーゼリーを二つ持ってレジに向かった。

今はケチるより、ノゾムを喜ばせる方が大事だからな…。



アパートに戻ると、ノゾムは寝間着のまま着替えもせず、ボクが出た時と同じ状態でリビングに居た。

ボクを見るアイツの目には、ちょっとホッとしたような、そして意外そうな、何とも言えない色が浮かんでいた。

「土産」

相変わらずビクビクしているノゾムの前で、コンビニの袋から飲むコーヒーゼリーを出してテーブルに置き、キノコとタケ

ノコを出そうとして…、ふと思い出した。子供の頃にノゾムが口にしていた事を…。

やっと思い出したボクは、彼の前にタケノコを置いた。

朝飯抜きなんだし、こんな時くらいは良いだろう?埋め合わせに朝っぱらから菓子を食っても。

ボクがキノコの箱を開けて食べ始めると、ノゾムは「いただきます…」と呟きながらタケノコに手を掛けた。

そして一つつまみ、口元に運ぶその様子を見ながら、ボクは言った。

「確かに、ロケットみたいだ」

ノゾムの手が止まる。そしてその目がボクを見る。

『ロケットみたいでかっこいいよね?』

それが、ノゾムが昔言っていた事だ。

…やっと思い出せた…。何故タケノコが好きなのかと訊いたアマルに、ノゾムは確かに、そう答えていたはずだ…。

「今でもタケノコ派?」

ボクの問いに、ノゾムは小さく頷く。が、今度はだんまりじゃなかった。

「…覚えてたんだ?」

「まあな」

本当は忘れかけていたけれど、ギリギリセーフだったんだよ…。

「でも…、しばらく食べて無かった…」

ノゾムがポツリと言い、ボクは「そうか」と応じる。

仲直りしよう。

そんなボクの意思が込められた行動と土産に感じる物があったのか、ノゾムはほんの少しだけ、口元を緩めた。

「…ありがとう、ミツル…」

「どういたしまして」



布団は10時過ぎに届いた。

店の人にリビングまで運んで貰ったら、あとはこっちの仕事。ボクとノゾムは梱包を解いて広げ、真新しい布団を寝室へ運

び込んだ。

ノゾムの口数は少ないままだったが、いくらか気分もマシになったのか、時々微笑むようになった。

そろそろ頃合いかなと感じて、ボクは作業が終わるなり、ノゾムに声を掛けた。

「ちょっと、話したい事がある」

ボクの発言で警戒したのか、しかしそれでも予感していたのか、ノゾムは表情を硬くしながらも頷いた。

話題を蒸し返せば、せっかくいくらか元気を取り戻したノゾムがまた黙り込むかもしれない…。そんな懸念は確かにあった。

でも、今後の為にも確認しておきたい事がある。

そう…。ボクはもう夏の間ずっとここに居るつもりなんだから、お互いのためにもはっきりさせておくべきなんだ。



「先に言っておくけれどな?ボクにはもう昨夜の事を責めたりする気はない。これからするのはただの確認みたいな物だと受

け取ってくれ」

リビングでテーブルを挟み、向き合って座ったボクは、まずそんな風に前置きした。

ノゾムは表情も体も硬くしていたが、それでもしっかり頷く。

怯えているようだし、不安げでもあったが、逃げる気だけはないようだ。

こういう所は変わっていない。ノゾムは昔から、叱られる時は怯えながらも逃げようとしなかった…。

今の姿勢を見れば、芯まで変わってしまった訳じゃないと、何となくだが感じられる。…好ましいと感じていた所がそのま

まなのは、ボクも少し嬉しい。

「ドウカさんの事が好きっていうのは、本当の事なんだよな?」

ノゾムは少し間を空けてから、無言で頷いた。

一応確認してみたが、この事については疑っていない。昨夜の取り乱し方を見れば判る。あれは演技なんかじゃなかった。

「ボクはドウカさんとは体格も種も違う。…それでも、興奮するものなのか?」

今度の問いには、ノゾムはかなり間を空けてから小さく頷いた。

この時点でボクは、あれこれ考え抜いた末に辿り着いた自分の予想が当たっていた事を悟る。

「本命とは別に…、性欲の対象になり得る物もある…、って事か?」

ノゾムは、そうと注意して見ていなければ判らないほど小さく頷いた。

やっぱりそうか。

いや、これは想像力の欠如と言う他無いな…。

普通の事なんだ。普通に予想できた事なんだ。ただボクが、まだ恋愛を経験した事もなくて、性処理についても淡泊だから、

そこに思い至る事ができなかったんだ。

例えば…、片思いしている、何処にでも居る普通の高校生を例に挙げよう。

彼は健全な、女の子が好きな普通の高校生だ。

本命の子が好きで好きで仕方がない…。

そんな彼は、例えばグラマーなタレントのセクシーな衣装にまったく興奮しないだろうか?

グラビアアイドルの水着写真などに、性欲を覚えたりしないだろうか?

…たぶんだが、答えは「否」だ。

ボク自身誰かに恋をした経験が無いから判らないが、頭で考えている事と体の反応や本能的衝動は別だと思う。

アブクマとイヌイは、ボクやオシタリに言った。自分達はほぼお互いにしか性的欲求や興奮を感じない、だからボクらには

手を出したりモーションをかける事も無いから安心しろ、と…。

彼らがそう言っていたから、ボクは同性愛者が皆そういう物だと何処かで思い込んでいた。

そんな先入観と思い込みがあったから、ノゾムの衝動を予測も理解もし損ねたんだ。

けれど今は判る。ノゾムはまさに、普通の年頃の男の子的な衝動を抱いてしまったんだ。

…あまりしたくない事だが、ボクをノゾムの親戚の「女の子」に置き換えてみる。そしてドウカさんを「年上の大人のお姉

さん」に置き換えてみよう。…済みませんミスター…。

ここからは例えだ。

ノゾムは大人の女性に恋をしている。片思いを。…これはドウカさん。

そんな彼の部屋に、久々に再会する親戚の女の子が居候する。…これがその…ボクだ…。

本当に好きな相手は居るが、一つ屋根の下、しかも同じベッドで、親戚とはいえ年頃の女の子が眠っている。

しかも昼間に本命の相手と食事し、寝る間際までその事を考えていた状況で、だ。

そうすると健全な男子はどうなる?

答えは簡単、「ムラムラ来る」だ。

流石に手を出す事はできなくとも、目の前にオカズがある…。やってしまうんじゃないのか?オナニーくらいは…。

ノゾムは正にそういう状況だった。ボクは誘惑なんてしていないし、その気も無いからこっちの責任じゃないが…、それで

も理屈は判るし同情の余地はある。

「…仕方ない事なのかもな…」

ボクは長い沈黙の後、ため息混じりにそう言った。

ノゾムはおどおどとボクを見ているから、笑いかけてやる。

「言っただろう?責める気は無いんだよ。確認したかっただけだ。判ったら、ちょっとすっきりした」

心情や性癖は理解し難いが、理屈が判れば納得できる。

納得すれば、気持ちの整理もできてきちんと許せる。

「さぁ!ぐじぐじ湿るのはこれで終わりにしよう!」

ボクは殊更に明るく大きな声を出した。少し不思議だった。雰囲気を軽くしようと努力する自分の心境が。

ノゾムはまだオドオドしているが、ボクはもう気にしていないという事をアピールしようとして…、ふと気になった。

「…ノゾム。答えたくなかったらそれでも良いけれど…。お前、自慰ってどれぐらいのペースでやるんだ?」

ノゾムは俯いた。まぁ当然だが…。

けれど、答えないとボクの機嫌を損ねるとでも思ったのか、ぽそぽそと、蚊の鳴くような声で囁く。

「………!?!?!?」

ボクは絶句した。

日に…だいたい三回平均…?

それは…多くないか?ボクは週に一回…、多いときでも二回…、それでも平気なのに…。

「ノゾム…、お前…」

ボクは驚きを何とかねじ伏せ、少し掠れた声を漏らした。

「精力とか性欲とか…、物凄くあるんじゃないのか…?」

「そ、そう…なの…?」

戸惑いと恐れ、そして恥じらいが混じった目でボクを見つめるノゾム。…まぁ無理もない。下の話だし…。

「いや、平均がどのくらいなのかボクもイマイチ判らないが…、多いと思うぞそれは?」

こいつ、大人しいくせに性欲とか精力は人一倍なのか?これか?これがムッツリってヤツなのか!?

驚きと呆れでしばし黙り込んだボクだったが、やがて「よし!」と声を発した。

そして、ビクっとしたノゾムに告げる。

「トレーニングが必要だな」

「トレーニング?」

おどおどしながら小さく首を傾げたノゾムに、ボクはチッチッチッと、芝居がかった動作で指を振ってみせる。

「リアクションのトレーニングだよ。蒸し返すようで悪いが、一昨日の晩の事だ。「ホモだったりして?」とか言われた時に、

あんな判り易いリアクションする奴があるか!バレたくないならそれなりのリアクションを身に付けないとな。自然に流す感

じの。ドゥユゥアンダスタンっ?」

「は、はぁ…」

勢いをつけてまくし立てるボクに、ノゾムは気圧されたように頷いた。

「あと耐性とか付けておけ」

「…うん…。ん?耐性?」

一度頷いたノゾムは、胡乱げにボクを見る。

「裸に対する耐性だよ。男の裸を見て無節操におっ勃つようじゃ、プールにも海にも温泉にも行けないだろう?ボクの裸を見

ても平気でいられるように、夏の間はトレーニングだな」

この自分ではもっともだと思うボクの意見に、ノゾムは何故か俯いて黙りこくり、答えなかった。

いや、冗談抜きにこれは必要だと思うぞ?ノゾムの好みを考えれば、日常を平穏に送る上で結構重要だろう。

まぁとにかく、居候させて貰う分の借りは、このトレーニングで返して行く。そういった事をボクは述べた。

この居候生活の中で、自分の立ち位置のような物をはっきりさせておきたかったんだ。

この夏休み、居候させて貰いながら、ボクはノゾムの理解者として寄り添っていてやろう。

何だかノゾムは前に比べて積極性やポジティブさが薄れたような感じもするし、ボクがしっかり舵取りしてやらないとな。

ボクは宇都宮充。伊達眼鏡が知的なクールボーイ。ノゾムの変わりっぷりで少々ペースを乱されもしたが、もう大丈夫なク

レバーフォックス。

とことん!付き合ってやろうじゃないか!