第二十五話 「求めなかった温もりに」

「なあ、ノゾム」

 ボクは熱々の特盛り鰻重を前に、ぽつりと呟く。

「夕食は冷やし中華にしたいとか、言っていなかったか?」

 餅狐は作ったような笑みを浮かべて「あれ?そうだったっけ?」と応じる。

「気が変わっちゃったんだ。運動したから栄養がある物を食べたくなったのかも?」

「ふぅん…」

 気のない返事をするボクを、ノゾムは窺うような目で見てきた。ボクが大好物の鰻を前にして喜ばない事で疑問を覚えたん

だろう。

 両親とアマルの話をして、雑多な記憶と意地に埋もれていた本音を引き摺り出されるように口にして、あんな事を打ち明け

た後だったから…、ボクは気を落ち着かせるために一人になりたくて、本屋を覗いて来ると言って散歩に出た。

で、帰って来たら鰻の出前が届いていた訳だが…。

「ノゾム」

「うん?」

 ボクは息を吸い、そしてはっきり言う。

「気遣ってこんな事をしたなら、余計なお世話だ」

 冷たいようだが、迷惑だった。あの事を知ったからといって気を遣われたりするのは。

それはまぁ、あんなところを見せたんだ。今更ちょっとやそっとの事で恥らったりする必要もないし、遠慮なんかいらない

じゃないかって、心の何処かでは思いもする。

だが、手の平を返すように態度を変えられるほど、ボクの心の根に染み付いた根性というか意地というか…、とにかく素直

じゃない部分と警戒心と変化を恐れる気持ちは、弱い物じゃない。

 甘い事なんかしないで欲しい。…今日のボクは…、それだけで駄目になりそうだから…。

 突き放すつもりで言ったボクに、しかしノゾムは動揺を見せなかった。

「まぁいいじゃない。気を遣って遣われて。家族運が無い者同士って事でどう?」

 まぁ、コイツも馬鹿じゃない。気取られたと察したんだろう。もう隠すつもりもなくなったのか、あっさりと認めた。

「傷の舐め合い…って事か?」

「そうだねぇ…。そうなっちゃうかな?」

 棘のあるボクの言葉にも怯まず、餅狐は割り箸をパチンと割る。そして失敗して頭側が大きく片方に寄り「あちゃ〜…」と

顔を顰めた。

「冷めない内に食べよう?」

 ムスッとしているボクの不機嫌さが判らないはずもないのに、ノゾムは努めて普段通りに振る舞おうとする。普段通りでな

い鰻重を前に、だ。

「勘違いするなよノゾム?ボクは優しくして欲しいなんて思っていないからな」

「うん。たぶんそうだろうと思うよ。でも、ぼくが優しくしたいって思うのは、ぼくの勝手でしょ?」

 …この野郎…!ボクは動じない餅狐にちょっとばかり腹を立てた。

「迷惑だ」

「我慢してよぉ」

「嫌だ」

「そんな事言わないで」

 珍しく譲らない…というより暖簾に腕押しとでも言うべきか、ノゾムはボクの刺々しい視線と態度を何でもない顔で受け流

している。

「食べないの?冷めちゃうよ?」

 睨むボクの顔を見返し、ノゾムは笑顔で促す。

「………」

 無言で箸を割り、口をつけたボクは、一言も発さないまま掻き込むようにして鰻重を食べた。

 腹が立っているのに鰻は美味かった。それがまた面白くない。

 急いで食べ終えて、ご馳走様も言わず重箱を流しに持って行き、水で流して丁寧に洗う。食べ終えていないのに追いかける

ようにやって来たノゾムは、何を思ったか重箱片手にぼくの体へ後ろからくっついてきた。

 むにゅっと柔らかい腹と胸が背中に密着し、ボクは重箱の水を切りながら顔を顰める。

「やめろ。慰めなんて冗談じゃない」

「ぼくが慰めて欲しいの」

 訳の判らない事を言うノゾム。

「何でだ?」

「慰めて貰いたい気分なの」

「訳が分からないぞ?とにかく断る。離れろよ」

「けち〜、慰めてよ」

 しつこい餅狐に、きつい言葉をお見舞いしてやろうと息を吸ったボクは、

「あんな話を聞いたらね、辛くなっちゃった…。胸が苦しくて、寂しくて、辛いんだ…。だから、くっついててくれない…?」

 ノゾムが背後からボソボソと囁いたその言葉で、悪態をつくタイミングを逸してしまった…。

「お前じゃない。他人事だろ?」

 口にした言葉は思った以上に冷たく響いて、ボクは少し慌てた。

 ノゾムの箸は止まっていたが、またすぐに動き出す。モシャモシャノロノロと鰻重を食べるノゾムは、行儀は悪いがペース

はいつも通りで、その事がほんの少しだけボクを安堵させた…。



 食後、ソファーに並んで座ったボクとノゾムは、ニュースを見ていた。

 会話がない…、と言うよりは、ボクが黙り込んだままノゾムが一人で喋っている。

 ノゾムはボクの右腕を抱え込んだまま逃がそうとしない。何度か強引に引き抜いたものの、すぐにまた持って行かれるから

諦めた。

 冷房が寒いほどきいている。…普段よりも強くかかっているのか、本当に寒い…。

「寒いぞノゾム」

「じゃあ、もっとくっついてようか」

 文句を言ったボクに、デブり過ぎ狐がのそっと身を寄せて来る。既に密着しているから、ボクは少し横に押された。

「クーラーを止めれば良いんだよ!」

「暑いもん」

「離れれば涼しいんだよ!」

「くっついておきたいもん」

 …この野郎っ…!一体どんな変化が生じたというのか、普段控え目なノゾムはいつになくしつこく、しかも動じない。

 冷房の風が冷たくて体は寒いのに、密着している部分は熱がこもって暑く、不快に汗をかく。なのにノゾムはどんなに文句

を言っても離れようとしない。しかも言い分がまるで駄々っ子だ。

「…まさか、ボクがまた出て行くとか言い出すんじゃないかと思って、ずっと捕まえているのか?」

 ふと思いついて訊ねると、餅狐はふるふると首を横に振った。

「ううん。そこは信用してるよ?約束したからね」

「はっ…!じゃあ何か?放したら身投げでもして家族の後を追うとでも?」

 うっわ…。ウザいヤツだなボク…。皮肉と冗談交じりに口にした言葉には、我ながら辟易した…。

 ノゾムの手が唐突に片方外れた。やっと離れてくれるのかと思えば、テレビのリモコンを取る為だった…。

 リモコンを太い指が弄ってチャンネルを変える。その時気付いたが、高速道路で事故にあった車のニュースが流れていた。

家族連れだったと。夏休みで帰省しようとしていたのかもな。

 そしてノゾムはまたチャンネルを変える。今度は水難事故で子供が死んだというニュースだった。

「…ノゾム。チャンネルを頻繁にかえるな」

 ボクにそういったニュースを見せないようにしているんだと気付き、顰め面で言ってやったら、餅狐は「明るいニュースの

方が良いじゃない」と、何食わぬ顔で応じる。

「あのなぁ。一日にどれだけ事故で死んでると思う?病気で死んでると思う?世の中は死ぬヤツで満ちてるんだよ。それを避

けようとしたってどうにもならない。雨降りに水を見たくないって言いながら外出するような物だろ」

「でも…」

 何か言いかけたノゾムを制して、ボクの口はまた動く。

「お前だってボクだって死ぬし、辺りの連中だってそうだ。遅いか早いか差はあってもな」

 …またボクはウザい事を言っているな…。そう思うのに、口は止まらなかった。苛ついているのかもしれない。

「いっそ早い方が面倒がなくて良いかもな。生きてるって事は面倒事を背負い込む事だし」

 十数年しか生きていないくせに、薄っぺらい人生観でさも悟ったように死について語るボクは、あるいは酔っているのかも

しれない。思い出したあの喪失感と絶望感を反芻しながら…。可哀想な自分に酔っている…?はっ、我ながら情けない。

「そ、そんな事無いよ…!生きていたら…」

ボクの発言で少し引いたのか、ノゾムは少しおどおどし始める。

「生きていたら良い事もあるって?そんなのは「良い事」と出会ったヤツの勝手な言い分だ!」

 やばいぞ、と思う。ボクは自分で思っている以上に捻くれているらしい。

確かに同情されたくはないし、気遣って優しくなんてされたくない。

だがノゾムの思い遣りは判る。こいつがボクを心配している事は…。

もう少しソフトに言えば良いのに、喋っている内に胸の中に篭っていた物が吹き出してきてしまったのか、語気が荒くなっ

て、口が止まらなくなった。同時に、頭に血がのぼってカッカしてきて…。

「やめろよ!ボクは平気なんだよ!どうして昨日までと同じように接してくれないんだ!?」

 苦痛だった。その気遣いが。

 気遣われるなんて御免だ。同情されるなんてまっぴらだ。ボクは何でもないんだ。平気なんだ。だから、だから…!

「不必要にくっつくな!ボクは誰の助けも欲しくない!」

 叩き付けるように言い放ったその言葉の裏には、懇願するような気持ちさえ潜んでいた。

 優しくなんてして欲しくない。これまで必死に支えてきたのに、何でもない事と思いこめてきたのに、辛さを…、弱さを…、

実感してしまいそうになるから…。駄目になってしまいそうになるから…。

 しばらく沈黙し、ボクをじっと見つめていたノゾムは、

「ねぇ、ミツル…」

 静かに口を開き、視線を少し下げた。

「そういうの、辛いよね?辛くないふりをするのって、辛いよね?ミツルは偉いよ。頑張って、自分を強く保って、泣き言も

言わないで…。でも…、でもね?楽器とか弓の弦ってさ、張りっぱなしだと、伸びちゃうんだって…。ひともきっとそうなん

だよ…。頑張り過ぎると、きっと駄目になっちゃう…、無理がきちゃう…、だから、だからね…」

 ノゾムは視線を戻し、おずおずとボクに言う。

「どこかで、弛ませなきゃいけないと思うんだ。だから…、ミツルも…」

 一度口ごもった後、丸い狐はもじっと体を揺すり、ギュッと目を閉じて、声を大きくした。まるで、力を込めて言葉を絞り

出すように…。

「ぼ、ぼくの前では、無理しないでよっ!たまには弱音を吐いてよ!泣いてよ!騒いでよ!愚痴ってよ!怒って喚いて騒いで

暴れて、鬱憤ぶちまけて良いんだよっ!だって…、だってそうしなきゃ…!」

 声を荒らげたノゾムは言葉を切ると、次いでポロポロと涙を零し始めた。

「ミツル…、壊れちゃうよ…!連れてって欲しかったとか…、今みたいに本当に考えるようになっちゃうよ…!だから…!」

 ボクは、ショックを受けていた。

 そうなんだろうか?確かにうっかり口走ったが、ボクは今…、本当にそうなんだろうか?少しでもそう考えたんだろうか?

 自問してみるが答えは出ない。ソコに触れようとすると思考が逃げるんだ。触れる事を無意識に避ける癖がついているんだ

ろうか?はっきり考えられない。

「…ミツル…」

 ぼうっとしているボクの前に、いつの間にかノゾムがにじり寄って、涙で濡れた目で顔を見つめていた。

「どうにかなっちゃ嫌だよ…?ミツルが行きたいって言っても、絶対に行かせてあげないから…!ぼくが、繋ぐから…!留め

ておくから…!」

「繋ぐ?留める?何を…」

 ボクの言葉は途切れた。ノゾムが急に肩を掴んでのし掛かって来たせいで、仰向けに押し倒されて。

「おい!何を…!」

 背を打って咽せそうになったボクが吐いた言葉は、また途切れた。

 ノゾムの口が、ボクの口を塞いだせいで…。

「んっ!んん〜っ!んぶっ!」

 藻掻くボクから、しかしノゾムは離れない。

 重い!苦しい!気色悪い!

 めったやたらに振り回した腕でノゾムの背中を叩くが、柔らかい肉に覆われた背中はビクともせず、ただ重ねた口から絞り

出された吐息が漏れただけ。

 やめろ!何してるんだお前!

 声を出そうにもくぐもった音になるだけ。ボクとノゾムの口を鳴らしてぶぅぶぅ漏れて行くだけ。

 ファーストキスを奪われた喪失感なんて無い。ただ息苦しく、混乱して、ぼくは滅茶苦茶に暴れる。

 それでも執拗に口を重ね続けたノゾムは、かなり経ってからやっと口を離した。

「ぷはっ!はぁ…!はぁ…!お、お前っ…!」

 やっとの事で新鮮な酸素を取り込み、開口一番悪態をつこうとしたボクの顔に、ポタッと、透明な滴が落ちて来た。

 ノゾムは至近距離でボクを見下ろしながら、いっぱいに涙をためた目を潤ませ、そして言った。

「嫌だからね…!追いかけて行ったりしたら…、嫌だからね…!」

「ノゾム…」

 名を口にしたきり何も言えなくなったボクの中から、憤りの熱が、不快さが、すーっと薄れて行った。

「ミツルを繋ぎ止める為なら…、ぼく、何だってするからね…!この世にしがみついていたくなるように、何だって…何だっ

て…!」

 ノゾムは声を詰まらせると、またボクに顔を寄せて来た。そして再び口を重ねて来る。

何故だか、ボクはそれを避けようとしなかった。確かに圧し掛かられて抑え込まれているが、顔を背ける事くらいはできた

はずなのに…。

顔を傾け、口を咥え込むようにして重ねてきたノゾムは、さっきより深いキスをする。

熱い鼻息が、口の中に入って来た舌が、吸われる口内がこそばゆい…。まだ歯を磨いていないノゾムの口からは、鰻のタレ

の味と匂いがした…。



フローリングの床に押し倒されて組み敷かれたままたまま、ボクはノゾムにずっと唇を吸われていた。

そのぽってりした手がシャツにかかったのはいつだったのか、捲り上げられたのはいつだったのか、シャツが首元までたく

し上げられたせいで露出した胸に手が触れたのはいつだったのか、ボクには解らなかった。

動揺しているんだろう。混乱しているんだろう。ショックも受けているはずだ。ボクは。

だってこれは添い寝とは明らかに違う。性的な接触を伴う行為に繋がるような触れあい方だ。

親類同士で、しかも男同士でこんな事をする異常性に、心の隅で警鐘が鳴っている。

踏み込むな。

引き返せ。

…でも、それが何だって言うんだ?

今のボクはもう、倫理観とか常識とか、これまで自分に課して優等生を演じる骨組みにしてきた物を当てにしたり、理屈に

したりする気にはなれなかった。

やけっぱちな部分も、まぁ、あるかもしれない…。

だが、ボクの中にほんのちょっぴり残った素直な部分は、こうも思っているんだ。

誰かとくっついていたい…。柔らかな温もりを感じていたい…。他人に好かれたい…。誰かに嫌われたくない…。

拒絶する事で温もりが失われるのが嫌だった。ノゾムに嫌われるのが怖かった。

恐れと欲求から、ボクはノゾムに抵抗するのを止めているんだ。

ノゾムは手足を突っ張ってボクを抑え込むのに疲れたらしく、やがて体を半分ずらして、ボクの体の右側に柔らかい体を重

ねるようにした。

苦しさは消えて、熱と柔らかい感触だけが残る。…むしろ、離れた部分がスースーして物足りなささえ感じて、ボクはそん

な自分の心境に戸惑いすら覚えた。

「ねぇ、ミツル…!」

興奮しているのか、それとも涙混じりで息が荒くなったのか、熱い吐息を耳元に吹きかけて囁くノゾム。ボクは応えもせず、

ただ戸惑いと混乱と熱と柔らかさを噛み締めている。

「何でもするから…。何だってしてあげるから…!だから…、だから…!」

ボクの胸をさするノゾムが、ギュッとしがみ付いて来た。

「う…、ううぅっ…!」

言葉は途切れ、代わりに嗚咽が零れ始める。

半分は、自分が寂しいからなんだろう。そしてもう半分は、ボクが可哀想だからなんだろう。

同情なんか真っ平御免だったはずなのに、今は…、ほんの少しだけホッとして、あったかい…。

ボクはいつしか、ノゾムを抱き締め返してた。

横向きに寝転がり、抱き合う格好になった途端、ノゾムは声を上げて泣き始めた。

ごめんね。

こんな事してごめんね。

でもどうにかして繋ぎ止めたかったから。

本当はぼく、独りが嫌だから。

ミツルも独りは嫌だろうから。

…酷く震える声から何とか聞き取れたのは、おおよそそんな内容だった。

声と一緒に小刻みに漏れているのは、咽るように不規則な熱い吐息。

体も小さく震えていて、ボクを抱き締める手には過分に力が籠っていた。

ボクは何となく思う。

ノゾムは不安だったんだ。ボクの態度が、言葉が、不安にさせたのは間違いない。

でも、ボクを慰めるにもどうして良いか判らなくて、縁起でもない事を言わせるのを止めさせるにはどうしたら良いか判ら

なくて、本気で後追いを考えているかもしれないボクの気持ちを改めさせるにはどうしていいか判らなくて…、それで、勢い

に駆られてこんな真似をして…。

それでもそれが正しいとも思えなくて、それで「ごめん」なんだろう…。

何よりしっかり繋ぎ止められるのは。「力尽く」っていう手段のような気がしたのかも知れない。

馬鹿じゃないコイツがそんな事しか考えられなくなったのは、そのくらい追い詰められたからなんだろう。

追い詰めたのはボクだ。

ボクの、下らない自傷行為染みた皮肉が、冗談が、自分でもどこまで本気か判然としない言葉が追い詰めたんだ…。

ひょっとしたらボクは、同情を嫌がる素振りをしながら、本当は優しくして貰いたかったんだろうか?構って欲しかったん

だろうか?

…だとすれば最低で最悪だ。拒絶するふりをしながらチラチラとノゾムを覗って、期待していたなら…、これほど格好悪い

事は無い…。

だが、今は少し素直になれたのかもしれない。だからこうも思う…。

克服した、乗り越えた、平気になったと思っていた事を、話している内に思い出して、涙をこぼしてすすり泣く…。あんな

格好悪いところを見せたんだから、今更ノゾムにどんな所を見られようと、何をされようと、もう平気だろう?

「ノゾム…」

ボクはしゃくりあげるノゾムをギュッと抱き返した。頭を抱え込むようにして。

鼻水で濡れた鼻先が胸について、熱く乱れた息が吹きかけられる感触がこそばゆい…。

「ごめん…。もう、弱気な事は言わない…。ウザい事は言わない…。だからもう、泣かないでくれよ…」

そう口にしながらも、これじゃどっちが慰めてるんだか判らないな、と苦笑が込み上げて来た。

「有り難う…。ごめん…。ノゾム…」

「ひうっ!ご…、ごめっ…!ふ…っく…!ごめぇ…ミツ…うぅ…!」

泣き声を殺そうと努力しているようだが、それでもなかなか上手く行かないらしくて、ノゾムがしゃっくりしながらむせび

泣く。

ボクは柔らかくて暖かいノゾムを抱き締めたまま、泣き止むまで待ち続けた。

ノゾムはずっとボクの胸に顔を埋めて泣いていたから、零れる涙を見られる事も、情けない泣き顔を見られる事もなかった

のは幸いだった。

…まぁ…、今更泣き顔を見られるくらい何でもないだろう?って思ったりもするけれど…。

ボクは少し考えた後、「ノゾム…」と呼びかけて、たっぷり肉がついてポヨポヨした顎下に手を入れた。

顎を引いていたせいだろう。肉付きの良い丸顎は、ちょっと蒸されて熱がこもっていた。

少し顔を起こしたノゾムの、早くも泣き腫らした目の中で、不安げに揺れる瞳がボクを映す。

強がりで意地っ張りで皮肉屋でいけ好かない、優等生ぶった狐の、仮面が剥がれた情けない泣き顔を…。

その顔を正視するには、ボクはまだ素直さが足りなくて、捻くれの矯正も足りなくて…、だから早々と目を瞑り、ノゾムの

口に自分の口を近付けた。

慣れていないボクが、目を閉じて不器用に顔を近付ける…。それでも外れなかったのは、ノゾムが合わせてくれたからなの

は疑いようもない。

やがてマズルの先で、唇が触れ合った。

そしてまた、ノゾムの舌が口を割って入り込んで来た。

今度はおずおずと、遠慮がちに…。

けれどボクは、今度は自分から求めに行った。

貪るように口を吸いあう、不器用でぎこちない口付けはちょっと荒っぽかったようで、一回前歯がぶつかったし、ノゾムは

びっくりして「んう!?」と、塞がった口から呻きを漏らしていた。

それでもボクは、今日初めて経験したばかりの口付けに没頭した。

くっついている。繋がっている。そんな意識が働くのか、それとも温もりが確認できるからなのか、口付けは恥ずかしくて、

こそばゆくて、そして…、気持ちよかった…。

コイツとボクは似た者同士なんだ。

親から独立したような気になって、未練が無さそうなふりをして、でも本当は寂しがりで、温もりが欲しくて…、情が欲し

くて…。

いつまでもいつまでも抱き合ったまま、ボクとノゾムはお互いの唇を貪りあった…。

これまで求めなかった、むしろ避けてきた温もりを、おそるおそる噛み締めて…。


























後から思い返すと、きっとこれがきっかけだった。

抱き締めあい、温もりを噛み締めあい、溺れるようにして、ボクとノゾムは一夏の甘やかな堕落の中にはまって行ったんだ。

そうして徐々に慰め合いが、温もりの確かめ合いがエスカレートして行って…。

いけない事だって解っていた。

すぐに終わりが来るって判っていた。

なのにはまり込んで行く自分達を、ボクらは止められなかった。

…こうしてボクは、ホモになった…。