第二十七話 「取り残されて」
「はい終了〜」
「………っ!」
ノゾムがニッコリ笑い、ボクは唇を噛む。
二勝五敗。今日もエフェクトデリバリ−カードゲームはボクの負け越し…!
おかしいぞ!?なんでやられっぱなしなんだ鉄色の虎!?主役だろ一応!?くそっ!除幕バージョンの鉄色の虎が欲しい…!
デリバリーズサイドトップクラスの制圧力持ち!…まぁ超激レアカードらしいが…。
しかしノゾムめ…、ゲームが上手い!しかも北極熊強過ぎだ反則だサポートできるキャラが揃っているのも嫌らしい!って
いうか、ノゾム自身の戦い方がえげつないっ!おかしいぞ?腹黒さには自信があるのに、なんでこうも出し抜かれるんだ!?
リベンジを誓いながら問題点を反芻し、デッキの編成について考えつつカードを片付けているボクに、手早く仕舞い終えた
ノゾムが声をかける。
「そろそろ晩御飯の支度するね」
「もう?」
時計を見れば…、四時か。結構時間かけたんだな…。
「今日はハンバーグ。暑いからさっぱりした和風おろしハンバーグにしようね!」
「さっぱり?」
笑顔のノゾムに、ボクは即座に聞き返した。
「うん。さっぱり!」
見てくれが既に「さっぱり」と無縁な餅狐がニッコリ笑みを深める。
「待てノゾム。さっぱりした物が食べたいならなんでハンバーグなんだ?さっぱり判らないぞ?」
納得できずにボクは尋ねた。自論をぶつけながら。
ハンバーグ、大根おろし、さっぱり、…この半端さは何だ?
さっぱりした物を食べたいならそもそもハンバーグを避けるべきだろう?
大根おろしをかけて誤魔化しのさっぱり感を得てまで食わなければならないのは何故だ?理解に苦しむ。
そんなボクの言葉に、ノゾムは「だってぇ…」と口を尖らせる。頬が膨れた丸顔のせいで、こんな顔をするとやけに子供っ
ぽい。
「だって、ハンバーグが食べたいから…」
「さっぱりしたいのか?ハンバーグが食いたいのか?」
「半々かな」
「半端だな」
「まぁいいじゃない。どっちつかずでも、半端でも、なんちゃって和風洋食でもさぁ…」
「いいのか?偽りのさっぱり感でいいひと面してもハンバーグはハンバーグなんだぞ?」
「何でハンバーグを悪者みたいに表現するの?」
「ボクがハンバーグを遠慮したい気分だからだ」
「…納得した…」
ノゾムは不服そうにプーッと頬を膨らませた。頬が膨れた丸顔のせいで、こんな顔をすると以下略。
「嫌なら嫌だってストレートに言えばいいのに、面倒臭いなぁミツル!」
「面倒臭いとはなんだ。ついでにボクの有り難い私見まで聞かせたのに」
「ついでの私見がかなり余計な肉付けになってたんだけど?」
「余計な肉で全身万遍なくまん丸くしてる奴が何を言うんだ」
「あー!言ったなー!?うりゃーっ!」
気が抜けた気合の声を発しながら、両手を広げて覆いかぶさって来るノゾム。しかしボクは横へころんと床を転げて、餅プ
レスから逃れた。
慌ててどたっと床に手をつき、フローリングとのキスを免れたノゾムは、四つん這いのまま横を向いて恨めし気にボクを睨
んだ。…まさか、避けるなとでも?
「えーい!」
ガッツを見せてぐばっと起き上がり、もう一度圧し掛かって来る餅狐。…だが、結果は同じ。すすっと後ろ向きに手足で這っ
たボクの眼前でベタッと手をつく。
「いけず!」
「うるさい」
中腰になったボクとノゾムは、レスリングでもするような格好で向かい合い、牽制し合う。…まぁ、平和ではある…。
「それー!」
「なんの!」
両手を広げて捕まえに来る餅狐。迎え撃つボクも腕を広げて抱き返す。身のこなしではボクが上だが、体重ではノゾムが遥
かに上。抱き合う格好で床に転げたボクらは、横向きに回りながら上になって下になってゴロゴロゴロゴロ…。
「今度はボクの勝ちだ!」
ノゾムのモチッ腹に跨る格好で身を起こし、マウントポジションを取ったボクが勝ち誇る。
「一敗くらい何でもないもーん!ゲームの勝利数はぼくの方がずっと上だから」
この野郎…。
「ならここで巻き返す!このまま連続敗北させてやる!」
言うなり手を伸ばしたボクは、ノゾムのたっぷりした両胸を鷲掴みにした。
「はぁっふ!?ちょっ…と!んミっ、ミツル…!ひにゃ…ひにゃははははははっ!」
タプタプムチムチな胸を揺すり、揉み、くすぐるボクの下で、ノゾムが身悶えしながら笑い声を上げた。
ノゾムの体は、力を加えれば従順に形を変える。突きたての餅のように…。
指の隙間からはみ出るほど柔らかい贅肉が、鷲掴みにした手と隙間なく密着している。
間に籠った熱とノゾムが上げる笑い声の振動が、手の平から伝わって染み込んでくる。
跨ったボクの腰が浅く沈んだむにゅむにゅ柔らかな腹は、ノゾムが笑い声の合間でしゃっくりするように息を吸うたびグッ
と膨れ、ボクを押し上げる。
笑い過ぎたノゾムの体が汗ばむが、ボクは構わず跨ったままハラスメント続行。
「み、ミツッ…ひゅひふふふひっ!だめっ、もうだめ許してっ!ぷふひーふふふっ!」
目尻に涙の粒を乗せ、イヤイヤをするように首を左右に振る餅狐は、声を上げ過ぎて喉がひゅうひゅういっていた。
…何だか…、妙な気分になってきた…。
身悶えするノゾムを見ていたら、体の感触を味わっていたら、その喘ぐような息を聴いていたら、シャンプーの残り香と汗
の香りが混じった体臭を嗅いでいたら、すっかり「そうなってしまった」身も心も反応してしまって…。
手を止めたボクの下で、息を乱しているノゾムも目つきを少しおかしくしている。
眼差しはちょっとぼんやり気味になり、眼は熱っぽく潤んで、瞳は期待と欲求で鈍く光っていた…。
その気になったボクらは、「いいか?」とも問わないし、「いいよ」とも誘わない。どちらから何かを言い出す事もなく求
め合う。
ゆっくり背中を丸め、覆いかぶさっていくと、ノゾムも応じて少し頭を浮かせた。
そしてボクらは口付けを交わす。唇を割って入り込ませた舌が、ノゾムの口内を弄る。
「んっ…!」
ノゾムが鼻にかかった声を、塞がれた口の中に篭らせる。
その舌先がボクに応えようと、不器用に絡み返して来る。
荒く乱れた鼻息がこそばゆい…。
ボクはノゾムの上から腰を退けて、水袋のように柔らかな下っ腹に手を当てる。こそばゆくて身じろぎしたノゾムは、しか
し抵抗しない。
ゴムが腹下の土手肉に食い込んでいるハーフパンツに指をかけ、パンツごと剥がすように浮かせてずり降ろす。ノゾムは応じて少し腰を浮かせ、薄い生地のズボンとパンツは捻れながら剥がれていく。
口を離して見詰め合うボクらの間で、唾液が細く糸を引いて光った。
「…晩御飯…、遅くていい…?」
「ここで中断して、やれるか?」
形ばかりの確認をしたノゾムは、ボクの意地悪な返事で微苦笑した。
そして、そのポッテリとした手をボクの腰に伸ばし、ズボンに指をかける。
「無理…んっ…!」
ノゾムの短い言葉は、ボクが再度のキスで途切れさせた。
肌着を脱がされて裸体を露わにしたノゾムは、フローリングに仰向けになり、開いた脚の間で膝立ちになっているボクの顔
を見上げて来る。
重力に引かれて横に逃げ、型崩れした弛んだ胸…。
ノゾムのたっぷり肉が付いた太腿を左右に押し退け、股に身を乗り入れる格好で下側から覆いかぶさったボクは、柔らかな
胸に顔を近付けた。
そして胸に口付けし、吸い、軽く歯を立てる…。
「は…ふっ…!」
感じたノゾムが吐息と声が半々に混じった物を、薄く開けた口から零した。
舌先で乳首を転がすと、すぐに硬くなった。毎日数度の愛撫ですっかり反応が良くなったな…。まぁ、ボクの方も随分と手
馴れた感はある。
身じろぎしながら鼻にかかった官能的な声を漏らすノゾムが、声で、反応で、ボクのテンションを上げて行く。
お互いの裸体が触れ合い、被毛越しに感触と温もりが交換される…。ノゾムの体が柔らかいから、細いボクの体との隙間は
タプタプの肉で埋まる。
膝立ちでノゾムの股座に身を乗り入れたボクの下腹部には、涎を垂らす餅狐の陰茎が触れている。
ノゾムの睾丸にはボクの竿が押し付けられ、脈動を伝えていた。
「あっ…!」
首を捻って顔を逸らすノゾム。鼻にかかった切なそうな声が、軽く嗜虐心を煽る…。
たっぷりした顎下に手を入れて、クイッと顔を戻させる。ボクを見ろ、と…。
「ミツル…、あ…、んっ…!」
もぞりと身じろぎするノゾム。ボクは少し体を浮かせ、自分とノゾムの間に手を入れ、下腹部を弄った。
期待したらしいノゾムの股間で、既に硬くなっているソレがヒクンと反応し、ボクの腹を押す。
けれどまだだ。まだだよノゾム。もっと焦らしてから…。
タプタプした下っ腹をなぶる様に撫で回し、臍に指を入れて軽くほじる。ビクンと震えたノゾムが…、
「だ…めぇ…!おしっこ…出そう…!」
尿意を覚えてフルルッと震え、逃れようと身を捩る。その反応がまた楽しく、面白く、嬉しい。
ボクもノゾムも、性に関して博識とはいえない。だが、体を求め合う本能的な動きが、お互いの気持ち良い箇所を捕らえ、
愛撫行為をそれなりに効果的な物にしている…。
背筋をなぞられて総毛立つ。臍を弄られてゾクゾクする。鎖骨を甘噛みされて身震いする…。どれも教えられた事じゃない。
絡み合う内に試しあい、自分達で知った事…。
ボクが愛撫している間にも、ノゾムは背に手を回して撫で、肩甲骨の下を指で強めに押しながらボクを抱き締める。
苦しさや鈍痛すら覚える指圧刺激は、指を離された瞬間が心地良い。そしてまた少しずれた位置に指が食い込み、また解放
されて快楽を覚える…。
ノゾムの尻尾が、膝立ちになっているボクの股の間でハタハタと、時に激しくばふっと、床を叩いて暴れる。ボクの尻尾が
それに重なり、じゃれ合うように触れあい、擦りあい、擦れあう。
ノゾムの腰が、息の乱れとは別の要因で揺れ始めた。
もう我慢できなくなったのか、瞳は懇願の色を浮かべながらなまめかしく輝き、半開きの口からは唾液がだらしなく横へ伝
い、焼けるような熱い吐息が零れていた。
ボクは少し腰を浮かせる形で前に出て、お互いの陰茎を触れ合わせる。そしてノゾムの腋の下から腕を入れ、肘を折って床
につき、頭の下に伸ばして支える格好で抱き締めた。
ノゾムもまた、縋りつくように、ボクの背に回した腕にキュッと力を入れる。
「ノゾム…」
「ミツルぅ…」
堪え性の無い餅狐の唇を奪い、ボクは腰を振る。
柔らかなノゾムの股間と、無駄な肉の無いボクの股間の間で、硬くなった二本の陰茎が押し付けあわされ、擦りあわされる。
「んっ!んんぶっ!んっ…、ん〜!んっ…ぷ…!」
唇を重ねたままノゾムが呻き、ボクの口の中に熱い吐息が吹き込まれる。
…けれどそれはどっちも同じ。ノゾムもまたボクの乱れた熱い息を吹き込まれている。
お互いの吐息に、唾液に、溺れるように息を乱しながら、ボクらは腰をすりつけあう。
先走りが被毛に染み込んで汚し、ぬちゃぬちゃとぬめった音が密着した股間から漏れる。
腰を揺する動きに合わせてノゾムの弛んだ体がタプンタプンと揺れる。重いばかりで頼りない、そんなコイツが、今は…。
ノゾム…。ノゾム…!ノゾムっ…!
独りぼっちで、家族も居なくて、誰も頼れなくて…、ボクを少しだけ歪めて書き直したような、不遇な狐…!
平日も休みも夏休みも関係なく、皆が乗って過ぎて行く時の中、独りぼっちで中州に取り残されたノゾム…!
ギュッと腕に力を込める。離れてしまわないように。隙間を空けないように。
ノゾムの体は肉のクッションで、ボクの体は骨組みで、沈むように埋もれて密着して…。ぴったりとくっついたまま腰をこ
すり付け合うから、お互いの動きが僅かでも、重なり合って揺れが大きくなる。
精力はあっても体力が無いノゾムは、息を切らし、汗だくになっている。それでも快楽を求めてもぞもぞ動く。ボクを求め
て腰を揺り動かす。
肉棒への刺激がそのまま睾丸の間を駆け抜け、もっと下へ、奥へと響いてくる。下っ腹に切ない疼きと熱が篭もり、腰の後
ろまでジンジンと響く。
手でしごくのとは違う、まだ下手糞で、まどろっこしさすら覚えるこの行為で同時に果てるのが、ボクらは好きになってい
た…。
冷房をかけているとはいえ、ひっついて動いている上に興奮と快楽で体温は上がりっ放しだ。体中からジワジワと汗が滲ん
で、湿った被毛が肌にくっつく。
「ん…オフォフっ…!ほろほろ…!」
口を合わせたまま呻いたボクに、ノゾムはん〜ん〜唸りながら、強く抱きついてくる。
もう…、出…!
ビクンと、ノゾムの肥えた体が大きく震えた。同時にボクも、背筋に力が入って体が硬くなる。
「んあ…んっ…!」
「んぶぅっ!」
ボクの呻きと、吹き出すようなノゾムの声が零距離で絡み合った。
腹の下からせり上がる快感。尿道の痙攣と陰茎根元の疼き。密着したボクらの間で、逃げ場が無い精液が弾けて混ざる…。
ぐったりと力が抜けたボクとノゾムは、上下に重なったまま口を離し、酸素を求めて喘いだ。
呼吸で上下するノゾムの胸と腹を圧迫しないように、転げる格好で横へずれたボクに、
「ミツ…ル…」
乱れた息の隙間にボクの名を混ぜて、餅狐が横向きになって擦り寄って来た。
頭を左腕で抱える形で、腕枕気味に受け入れると、ノゾムはボクの胸に鼻先を押し付けて甘えてきた。
…ボクは枕もなしに、フローリングに肩をつけて頭の重みを支える窮屈な格好だが…、致し方なし。余韻に浸る時はいつも
こうだ。
汗で湿った体に冷房の空気が直接当たって肌寒い。
だから、夏だというのに触れ合った体の温もりが心地良い。
贅肉で丸みを帯びた脇腹に右手を乗せ、膨れた脇腹をさすってやってから、精液でベッタリ汚れた下腹部を撫でてやると、
ノゾムはくすぐったがって小さく笑った。…胸にかかる鼻息がくすぐったい…。
自分とノゾムの精液で手を汚しながら、窪んで深い臍の周りを、円を描いて撫で、ボクは物思いに耽る。
こうしてお互いの体に溺れるようになってから、何日経っただろうか?
ボクらは毎晩ベッドで絡み合うだけでなく、ちょっと「そういう」気分になる度、お互いを求めるようになった。
しかも、ボクもノゾムも揃って性欲旺盛らしく、いくら求め合っても飽きる事はなかった。
ボクらは親戚で、男同士で、ノゾムには好きな人が居て、本当の居場所は別々だ。それなのに…、止まらない…。
こんな関係はまともじゃないと判っていながら、のめり込んで行くボクが居る。
ノゾムがドウカさんの所へ習い事に行っている間、物足りなさを感じるボクが居る。
夏が終わればまた遠く離れて暮らすようになるのに、考えないようにしているボクが居る。
どうしてこんな風になってしまったのかと時折思い返すが、どうでもよくなっているボクが居る。
今を貪り、お互いの体に溺れあい、夏の底へ沈んで行く…。
だが、明日が無いその状況を、ボク達は受け入れている…。
近い内に必ずやって来る終わりから、目を逸らしたまま…。
「ミツル…」
「ん…」
「キスして…」
「うん…」
ボク達は沈んで行く。
底へ…、底へ…、深くて暗い方へ…。
灯りなんてあるはずもない場所に向かって…。
汗と精液で汚れた床を掃除し終え、自分の仕事ぶりに満足する。
ピカピカだ。情事に耽った痕跡などない。まったく。
なお、今ノゾムは台所でハンバーグを焼いている。汗だくになりながら。裸エプロンで。
…あれは…、ボクを誘っているのか?それとも単に暑いからあの格好なのか?暑いけれど油跳ね対策でエプロンだけ着用と
か、そういう事か?そういえばブーちゃんと大福パンダが揃って「エプロンは防具だ」という旨の発言をしていたが…。なら
やっぱり服は着るべきじゃないのか?何とも半端な…。まるでさっぱりこってり和風おろしハンバーグのような半端さじゃな
いか?
…ん?うん、まぁ…。結局ボクが折れてハンバーグになったんだがな…。明日は鰻だそうだ。
…だんだん上手くコントロールされるようになって来たような気もするが…。
誤解の無いように言っておくが、ボクは裸じゃないぞ?ズボンだけは穿いている。
…上は…、拭いきれていない精液が乾いて腹毛がガビガビだから…、後でな…。
あ、そうだ。今の内にちょっと調べ物を…。
ボクは携帯を弄り、ネットに繋ぐ。
…流石にそろそろ結果は出てるよな?ブーちゃんの全国大会はどうなった?
指を動かし、接続が悪くて遅い表示の切り替わりにイライラしながらページを覗く。
…携帯用のページだとちょっと見辛いな…。PCサイトブラウザに切り替えて表示させ…、えぇい、それにしても重い!ノ
ゾムか!?
…えぇと、総体、柔道、獣人の部…、無差別級…と…、あった。阿武隈…。阿武隈…。
しばらくモニターを眺めて、獣人の部、個人戦無差別級のトーナメント結果を探したボクは…。
「あ…」
ベランダにでも登って来たのか、スイッチョンの鳴き声が網戸越しに、すぐ近くから聞こえる。
風呂掃除当番のノゾムが職務に打ち込んでいる間、ボクは寝室の空気を入れ替えていた。
あいつエアコンに頼り切って窓をあけないからな、たまに風を入れないと落ち着かないし、何となく気持ち悪い。
高い位置から見下ろしているせいで、街並みの灯火は彼方まで見える。
黒々と広がる海の上には、数隻浮かんだ船の光…。
沖から吹いてくるのか、八月の夜風は磯の香りがする。もしかしたら明け方までに雨が降るのかもしれない。
ぼんやりと夜景を眺めていたら、不意に携帯が電子音で流行の歌のサビを奏でた。
メール…いや電話だな。取り上げて中を見ると…、イヌイからだ。
「もしもし?」
すぐさま出たボクの耳を、『こんばんはウツノミヤ君。お久しぶり』と、少し弾んだ声がくすぐった。
『大会終わったよ』
「うん。お疲れ様」
『さっき駅を出たところ。おじさんが迎えに来てくれて、車の中。東護に帰る途中!』
「ああ」
声だけ発して応じたボクは、何と声をかけようか少し迷ってから、
「頑張ったな、ブーちゃん」
そう、ポンと浮かんだ言葉を口にしていた。
良かったか悪かったか、満足したか不満なのかは、ボクには判らない。全国大会出場だけで十分に思えるが、ブーちゃん自
身は何処まで行ったら十分に感じるのか判らない。もしかしたらこの結果で満足しているのかもしれないし、やっぱり優勝で
ないと満足できないのかもしれない。
だが…、そっちは判らないが…、これだけは間違っていないだろう。
ブーちゃんは頑張った。それは、誰にも否定できないはずだ。
『…うん!頑張った!』
イヌイの声は誇らしげで、張りがあった。
「それで、ブーちゃんは?」
『寝てる』
「は?」
間の抜けた声を漏らしたボクに、確認したのか、ちょっと間を空けてから『うん。寝てる』とイヌイが繰り返す。
『疲れちゃったんだね。何だかんだで、飛行機興奮に、長距離移動に、交流に、試合だったから…』
…何か途中で変なのが入ってるぞ?
まぁ仕方ない。直接労えないのはちょっと残念だが、顔を見てから改めて言おう。お疲れ様、と…。
『それで、今夜からはもう僕達は東護に居るから、いつ来てくれても大丈夫だからね?オシタリ君はもうちょっと後になるけ
ど…』
あ。
「ああ、イヌイ?連絡するのを忘れていたけれど、今ボクは東護に居るんだ」
『へ?』
イヌイの素っ頓狂な声。…まぁ当然だ。波乱万丈な夏の日々を送っていたせいで、現況報告が遅れていた…。ちょっと言い
出し辛かったのもあって…。
早めにこちらに来て親戚の家に宿泊していた事、だから寝床の心配は要らないという事などをかいつまんで説明したら、イ
ヌイは喜んでいた。
自分達の帰省を待ってからだと時間も制限されてしまうのが心苦しかったが、それならもう存分に羽を伸ばせたんじゃない
か?と…。相変らずお人よしな感想だな…。
それから二、三話をして、明日会う約束をしてから、ボクらは通話を終えた。
「…あ。聞きそびれたな…」
携帯のモニターを見つめながら、うっかり、少し気になった事について訊ねるのを忘れてしまった事に気が付いた。
気になっていたのは、さっきこのモニターに名前を表示させた優勝者の事だった。
トーナメント表を見るに、ブーちゃんをやぶって勝ち上がり、優勝したようだが…、その選手の名前が引っかかった。
「イノタ…」
ポソリと、舌の上にその名前を乗せる。
サクラさんと一緒に居た、ずんぐり丸っこい猪はそう名乗った。
神原猪太。無差別級の優勝者の名前…。偶然…か?
まぁ、明日直接会った時に風貌でも訊けば判るだろう。
「トモダチが?」
「ああ。今夜帰って来るってさ」
ギュウギュウになって一緒の湯船に浸かりながら告げたボクの横で、ノゾムは「ふーん…」と声を漏らした。少し寂しげに。
「一緒に遊びに行こう。良い奴らだから…」
「ん…。ぼくは、いいよ…」
「どうしてだ?」
「知ってる相手だったら困るから…」
目を伏せて、ノゾムはちょっと笑う。
随分変わったね?高校どこに進んだの?そんな風に言われるのが嫌なんだ、と。
そういう事で相手を評価する連中じゃないし、大丈夫だと思うんだけれどもな?
ボクが先に釘を刺しておけば訊かれる事もないだろうし…、…いや思ってる事が素直に態度に出るからな、ブーちゃんは…。
ボクと向こうが良くてもノゾムが気にするか…。無理強いはやめておこう…。
「だから、いいよ。ミツルだけで行ってきて?ぼくは平気だから」
………。
ボクはノゾムの肩に腕を回して、ぐいっと引き付けた。
間で水飛沫がぴちゃんと上がって顏にかかり、まつ毛に小さな水玉を乗せる。
「ミツル?」
どうしたの?とでも言いたげに笑うノゾムを、ボクはきゅうっと、力を加えて抱き締めた。
「明後日は、一緒に出掛けよう」
「…気を遣わなくたっていいのに…」
微苦笑したノゾムの声は、それでもちょっと嬉しそうだった。
寂しくないはずがない…。なるべく早く帰って来よう…。
ボクは宇都宮充。星陵高校一年生で、化学部に所属する狐。
夏休みの残りは、少ない…。