第三話 「ルームメイト」(前編)
「ウッチー、飯行こうぜ!」
ノックも無しにドアを開け、部屋の中を覗き込んだ大熊が声をかけてくる。
「またノック忘れてるぞブーちゃん」
「っと、悪ぃ悪ぃ」
宿題を片付けていたボクが抗議すると、熊獣人は苦笑いして頬を掻いた。
この無茶苦茶体格が良い熊獣人は阿武隈沙月(あぶくまさつき)。
ボクのクラスメートであり昔馴染み、そして隣部屋の住人だ。
アブクマは何度言ってもドアを開ける前のノックを忘れる。
まぁ、見られて困るような事はしていないから、今のところ実害は無いけれどな…。
「今日は随分早くないか?…腹が減ったのか、そうか」
尋ねた直後に理由に思い至り、ボクは一人で納得して頷く。
「オシタリも一緒に行こうぜ!今日も出かけんだろ?」
「うるせぇ、オレに構うな…」
食事を終えたら、またいつものようにすぐ出かけるつもりなのだろう。ジャンバーを着込んでいたシェパードが、視線すら
向けないままぶっきらぼうに応じた。
無愛想に毛と手足が生えた生物のこいつは忍足慶吾(おしたりけいご)。
こっちもボクのクラスメートで、何の因果かルームメイトでもある。
口を開けば「うるせぇ」「構うな」「関係ねぇ」と、レパートリーの少ない無愛想極まる言葉しか出てこない。
いつも仏頂面で、何が楽しくて生きているのか全く判らない、一種の怪奇生物と言える。
アブクマは何故かこいつを気にかけている。
食事の度に拒絶されながらも同じテーブルに陣取り、果敢にコンタクトを試みている。
何故そこまで構ってやるのか、まったくもって理解不能だ。
オシタリはアブクマの脇を抜けてさっさと部屋を出て行き、ボクは部屋に鍵をかけてから、隣室の二人と食堂へ向かった。
ボクは宇都宮充。星陵の一年生で、狐の獣人。化学部所属。
伊達眼鏡がトレンディな学級委員だ。
どういう訳か、今日はブーちゃんだけでなく、イヌイまでがオシタリと同じテーブルについた。
別に寂しいわけじゃないが、一人で食べるのもなんとなくイヤだったので、仕方なくボクも同じテーブルにつく。
時々アブクマが話しかけるが、オシタリはやはりというかなんというか、無言だ。
イヌイも時折会話(?)に加わるが、シェパードは一言も発さない。…何て居心地の悪い食卓だろう…?
やがてオシタリは早々と食事を終えると、「気を付けてね」とのイヌイの言葉に、ちらりと一瞥するリアクションを見せた
だけで、食堂を出て行った。
「息が詰まりそうな夕食だな…。今日はなんだってイヌイまで?」
ボクの問いに、イヌイはちょっと微笑むと、昨日カツアゲに遭いそうになり、オシタリに助けて貰ったのだと話した。
にわかには信じられない話だった。あいつが人助けだなんて。
というよりも、ウシオ副寮監から聞いたカツアゲの犯人、ひょっとしたらあいつなんじゃないか?なんて少し疑っていたく
らいだ。
「…あいつ、風邪でも引いたのか?」
「ぬはは!無愛想な野郎だが、噂ほど悪ぃヤツじゃねぇんだよ」
アブクマは笑いながらそう言った。本当にそうなのか?
ボクだってオシタリの噂は色々と聞いている。中学の時は手の付けられないような不良だったらしい事とかな。
入寮して以来ろくに会話も無く、コンタクトを取る事自体を諦めかけていたが、少しだけ興味が湧いた。
…それにしても未だに謎なんだが…、あいつ、毎晩門限近くまで何処に行っているんだ?
「ウツノミヤ、オシタリ、居るかい?」
寮監と副寮監がドアを開け、顔を覗かせた時、ボクは少々驚いた。
「点呼、早くないですか?」
時計を見ると、すでに九時半を回っている。
いつもなら九時前にオシタリは帰って来るんだが、あいつが戻らなかったのと、宿題に集中していたせいで、時間に気が付
かなかったらしい。
「オシタリは居ないのかい?」
イワクニ寮監がボクに尋ね、ウシオ副寮監が首を傾げる。
門限ギリギリまで出かけているオシタリだが、これまで点呼までに部屋に戻らなかった事は無い。
「はい、たぶんその辺に居ると思いますけど…」
ボクが適当な事を言うと、二人は顔を見合わせて頷き、大柄な牛が口を開いた。
「ひと回りしたらまた点呼に来る。オシタリが戻ったら伝えておいてくれんか?」
「はい。判りました」
ボクが返事をすると、二人は点呼を続けるために部屋を出て行った。
…なんでボクは、あいつを庇うような事を言ったんだろう?
ちょっと生意気なあいつが寮監達に怒られれば、それこそいい気味じゃないか…。
時計を見ると、すでに九時四十分。…おかしいな…。
ボクはペンを放り出し、机のライトを消すと、隣室の二人の元へ向かった。
「オシタリが帰ってねぇ?」
オシタリはほとんど他人と話をしていないが、アブクマとはいくらか言葉を交わす。
彼なら何か知っているかとも思ったんだが…、
「判んねぇな…、あいつが毎晩何処に出かけてるのかまでは聞いてねぇし…」
首を捻って考え込む熊獣人の横で、イヌイはハッとしたように口を開いた。
「昨日、僕を助けてくれた後、オシタリ君、僕の携帯から何処かに電話をかけてた」
ボクとアブクマが視線を向けると、イヌイは携帯を取り出す。
「今日は休むとか、そういう事を言っていたけれど…。これだ」
イヌイはオシタリがかけたという番号を表示させ、ボクらに見せた。
もちろん番号からじゃ何処の電話か判らないが、少なくとも携帯の番号じゃない。市内局番だなこれは…。
「…かけてみる」
「え!?」
ボクが驚いている前で、何処に繋がるか判らない番号へ、イヌイは迷うことなく発信した。
相手が誰なのかも判らない電話だ、普通は二の足を踏むだろう?なのにイヌイはまったく躊躇無しだった。…可愛い顔して
案外肝が座っている…。
イヌイは音声を外部スピーカーに切り替えたのか、携帯から響く呼び出し音が、ボクらの耳にもはっきり聞こえた。
『はい。ワタリガラス宅急便、星陵支店です』
中年女性の声が携帯から流れ出し、ボクらは顔を見合わせた。
ボクらが知っている宅急便だ。全国規模の有名宅配業者、それもこの町の支店。
…どういう事だ?何故オシタリはそんな所に電話を?
「済みません。僕、イヌイと申しますが、オシタリ君は居ますか?それとももう帰ってしまったでしょうか?」
イヌイは落ち着いた様子で、自然に話をする。
ボクは彼の頭の回転の速さに舌を巻いた。
オシタリが休むと電話した先は宅配業者だった。そこから彼は、そこがアイツのバイト先か何かだと目星をつけたんだろう。
しかも、一瞬でそれを察して、即座にオシタリが居るかどうかを確認した。
遺憾ながら、ボクが少し遅れてそこまで理解した時、携帯から女性の声が応じた。
『あら、お友達?オシタリ君はね、八時半で上がりなのよ』
イヌイが「帰ったのか?」と、事情を知っているように尋ねた事で、女性は彼がオシタリと親しい間柄だと認識したのだろう。
イヌイ…、狙って言葉を発したのか?だとすれば相当なタヌキだ…。
『だから、今日はとっくに帰ったと思うわ。急ぎの用事か何かなの?』
「そうでしたか…。いいえ、大した用事じゃないので、明日直接会って話す事にします。お仕事中に失礼しました」
イヌイはごくごく自然な態度でそう応じ、電話を切った。
「…で、何がどうなってんだ?」
一人理解できなかったらしい大熊は、ボクとイヌイに説明を求めた。
「…と言うわけで、おそらくオシタリのヤツは宅急便の支店でバイトしていたんだよ。…ちなみにバイトは校則違反だ。が、
今の問題はそこじゃない。オシタリは八時半にバイトが終わってるらしい。にも関わらず、一時間以上も経った今、まだ帰っ
て来ない」
ボクの説明に、アブクマの表情が険しくなった。
「…帰り道で、何かあったってのか…?」
「その可能性も否定できない。あいつが門限に遅れた事は、これまで一度も無かった」
アブクマは「むぅ」と唸ると、いきなり立ち上がり、足早にドアに歩み寄った。
「おい、何処へ…」
「探しに行く。俺達は点呼終わってる。主将達が一周して戻る前に、オシタリを連れ帰れば問題ねぇだろ」
「もう門限は過ぎている。外出は禁止だぞ?」
引き留めようと声をかけたが、アブクマは拒否するように首を横に振った。
「知ってるさ。だがな、ダチが戻って来ねぇ。何かがあったのかも知れねぇ。そんな時にじっとなんてしてられるか!」
ダチって…、ろくに話もしていないあいつが?
「サツキ君…」
イヌイが歩み寄り、アブクマの服の裾を掴んだ。さすがに彼も止める気になったらしい。
「僕も行くよ」
イヌイの言葉に、ボクの目が丸くなった。
「何言ってるんだ二人とも!規則違反なんだぞ!?そもそも、あいつが勝手にバイトして、勝手に門限まで帰って来ていない
だけで…」
「でも、オシタリ君はもしかしたら、昨日の連中に出くわしたのかもしれないんだ…!」
イヌイは振り向いて、泣きそうに顔を顰めながらボクに応じた。
…そうか…。その可能性もあるのか…。
どうやらイヌイは、あいつが帰って来ない事を、自分のせいかもしれないと感じているらしい。
「キイチ。お前はここで待ってろ」
僅かな沈黙の後、アブクマは呟くようにそう言った。
「ヤだ。一緒に行くっ」
「ダメだ!」
首を横に振った猫に、アブクマはきっぱりとそう言った。彼に対する物としては、珍しく強い調子だ。
「良いから俺に任せろ。お前は俺が裏口から出たら一回鍵かけといて、帰ってきたら内側からドアを開けてくれ。閉め出され
ちゃかなわねぇからな」
アブクマは心配そうに自分の顔を見上げているイヌイの頭に、ポンと軽く手を置き、わしわしと撫でた。
「そんな顔すんなよ、大丈夫だ。俺も、オシタリも、…な?」
「…うん…」
イヌイはしぶしぶ頷く。
…えぇい、くそっ!
「早く行くぞ!寮監が戻って来るまで時間が無い!」
ボクがドアを押し開けると、アブクマとイヌイが目を丸くした。
「ウッチー…、良いのか?」
「良いわけが無いだろ!?でも今はぐずぐずするな!」
二人は何故か、微かに、嬉しそうな笑みを見せた。
宅配業者の支店の位置と寮の位置とを最短距離で結べば、街灯もまばらな狭い通りをつっきるのが近道だと察しはついた。
昨日イヌイがオシタリに助けられたのは、ボクが選んだこの通りだったらしい。
その路地を駆け出して間も無くの事だった。走る先から微かな声が聞こえたのは。…オシタリか?
街灯にうっすらと照らされた下に、数人の人影が見えた。
…そして、地面に蹲る影も…。
最悪だ!もしかしてと思ったが、やっぱりあいつ絡まれてたのか!
だが、オシタリ一人に相手は六人…、どうする?ボクら二人だけでどうすれば良い?
えぇい!何で来てしまったんだボクは!
激しく後悔したボクの横を、空気をかき乱しながら大きな影が駆け抜けた。
ぜぇはぁ言いながら遅れ始めていたはずのブーちゃんは、息を吹き返したように、物凄いスピードで突進して行く。
ボクを置き去りにして、みるみる内に男達に迫ると、
「な、何だてめ…ぎゃっ!」
声を上げかけた一人の男が、駆け込んだ勢いを乗せたパンチを顔面に貰って、文字通り吹き飛んだ。
「大事ねぇかオシタリ!」
男達と、地面に膝をついて腹を押さえているオシタリの間に立ちはだかると、アブクマは首だけ巡らせてシェパードの状態
を確認した。
少し遅れて駆け寄ったボクは、シェパードの状態を見て息を呑んだ。
「…てめぇ…ら…?」
腹を押さえ、苦しげに呻くオシタリは、ひどい有り様だった。
転んで擦れたのか、ズボンも服もあちこちがぼろぼろで、右肩ではジャケットの袖が根本から千切れてとれかけている。
口元は血で汚れ、鼻先から下顎までが鼻血で真っ赤だ。
右目は腫れ上がってほとんど開いていないが、残った左目は、それでも獰猛な光を宿して男達を睨んでいた。
…不覚にも、ちょっと格好良いと思ってしまった…。
姿がじゃない。その姿勢がだ。
見れば、アブクマの巨体に気圧されたように距離を離している男達も、服は汚れ、顔が腫れたり、鼻血を出したりしている。
オシタリはきっと、頭数の差に臆することなく、男達に頭を下げる事もしなかったんだろう。
これだけの相手に囲まれて、ボコボコにされて、それでもきっとこいつは屈しなかったんだ…。
不覚だ…。こんな野蛮な行為に及ぶようなヤツを、格好良いと思うだなんて…。
「…何しに…来やがった…?」
「昨日の借りを返しに来ただけだ。もうじき点呼が来る。キイチが開けてくれるから、寮に帰んぞ」
シェパードの問いに応じた熊は、男達から距離を取って、大きく回り込みながらオシタリに歩み寄っているボクに視線を向
けた。
「ウッチー、オシタリ引っ張って、一緒に下がってろ」
ボクが肩を貸して立ち上がらせると、オシタリはアブクマの背中に睨むような視線を向ける。
「…待てよ…、何する気だデブ…?」
「ひのふのみの…、六匹か、風呂の前に一汗かくにゃ丁度良い」
「…へ?」
「…あ?」
ボクとオシタリの目が丸くなった。ブーちゃん、何するつもりだ…?…まさか…?
顔を正面に戻し、男達に視線を戻したアブクマの肩が、小刻みに震えた。
見れば、ギリリと握り込まれた拳も震えている。
「…てめぇら…」
アブクマは、恐ろしく低い、そして静かな声音で呟いた。
「俺のダチに…何してくれてんだ…!?」
「…放せ…!」
「そう言うなって、きっついだろ?」
「どうって事ねぇ。だから放せ…!」
熊に肩を借り、引き摺られるように歩きながら、オシタリはそれでも強がっていた。
あの後、アブクマはたった一人で連中を叩きのめした。
殴りつけ、蹴飛ばし、踏みつけ、叩き付け、足腰立たないほどに痛めつけた。
ボロボロになった男達を、それでもなお容赦無く、丸太のようなぶっとい足で尻を蹴飛ばして追い散らしていた。
何発かイイのを貰って、鼻血が出て口元も血で汚れていたが、アブクマは何でもないようにしゃきしゃき歩いている。…呆
れるような頑丈さだ。
寮の裏口のすぐ内側で待機していたイヌイに鍵を開けて貰い、ボクらは急いで部屋に戻った。
オシタリの顔を簡単にぬぐって綺麗にすると、怪我の手入れもできていない内に寮監達がやって来た。
「オシタリは戻ったかい?」
寮監達に顔を見られないように背を向けたまま、オシタリは黙って頷く。
「何処に行っとったんだ?」
「済みません。気付きませんでしたが、下痢して一時間近くトイレに立て篭もってたようです」
ボクは机に座ったまま、何食わない顔で宿題を続けていたふりをしながらウシオ先輩に答える。
この言い訳には文句があったのか、オシタリはじろっとボクを睨んだ。
「それは大変だなぁ。あ、薬いるかい?」
「いらねぇよ…!」
気を遣って言った寮監に、オシタリは不機嫌そうに応じ、ボクは少しばかり驚いた。
「そうか。まぁ必要になったら言ってくれ」
寮監達は気付かなかったようだが、点呼でこいつが口を開いたのは、初めての事だった。
…まぁ、呼ばれて返事をした訳じゃなかったけれど…。
点呼が終わるとすぐに、アブクマとイヌイがやって来た。
無骨な見た目に反し、アブクマは意外にも外傷の手当てに慣れているらしい。
体格と腕力に物を言わせて、嫌がるシェパードを無理矢理押さえ付けた熊は、強引に手当てを始めた。
「こら!手ぇ放せって!大人しくしてろ!」
「さ・わ・る・な・って…、言ってるだろうが…、このどデブ…!」
右目の上の切り傷に脱脂綿を押し付けようとするアブクマに対し、床に組み伏せられながらも、オシタリはその顔に手を当
ててグイグイと引きはがそうとしている。
その様子は、はたから見ているととっくみあいの喧嘩だ。…まだまだ元気じゃないかオシタリ…。
「ちゃんと…!消毒しとかねぇと…!ぼっこり腫れちまうぞ…!…って、いでっ!腹抓んな!放せっ!」
「てめぇが放せ…!ぼっこり膨れた…てめぇの腹でも…心配してやがれ…!」
ボリューム満点、180キロの巨体で押さえ込もうとするアブクマのムッチリした腹を掴み、顎に手を当て、オシタリは懸
命に抵抗している。
「消毒して…やせられんなら…、苦労…しねぇよ…!」
「し・つ・け・え・ぞ…!暑苦しいから…離れろデブ…!…い、いてっ!いてててて!」
硬いガードをかいくぐり、消毒液を染みこませた脱脂綿が、ようやくオシタリの瞼の上に到達した。
「へっ!寝技で俺に勝とうなんざ十年はえ…、ふがっ!?いで!いででで!は、放せおい!」
「てめぇこそ…、放しやがれ…!」
オシタリはアブクマの鼻の穴に指を突っ込み、ギリギリと遠ざける。
鼻フックされているような凄い顔になっているブーちゃんと、消毒液で傷を洗われて顔を顰めているオシタリが激闘を繰り
広げる様を傍観しながら、ボクはこっそりため息をついた。
…勝手にしてくれ、もう…。
二人があまりにも元気なので、完全に呆れかえったボクの横で、イヌイが小さく笑う。
「なんだか、仲の良い兄弟みたいだね?」
イヌイの言葉に、ボクは思わず吹き出す。
彼に兄弟のようだと言われた、当のアブクマとオシタリは、「冗談じゃない」とばかりに、憮然とした顔をこっちに向けた。
「…それで、アルバイトが校則違反というのは、知っているなオシタリ?」
落ち着いた頃合いを見てボクが尋ねると、オシタリはビックリしたように目を丸くした。
…こいつ、こんな顔もするんだな…。いつも無表情だから、意外にも年相応のその表情が新鮮だった。
「…なんだと…?」
シェパードは酷く驚いている。…知らなかったのか…?
生徒手帳にも書いてあるんだ。校則ぐらい目を通しておけよ、まったく…。
「どうしてアルバイトしていたの?」
イヌイの問いに、オシタリは黙り込む。
「小遣いのために決まっているだろう」
「…そんな下らねぇ理由じゃねぇよ…」
ボクが肩を竦めると、オシタリはぼそっと、吐き捨てるように言った。
ん?小遣い以外に、何か金が必要な理由があるのか?
「話せねぇ理由か?」
アブクマが尋ねても、オシタリは答えなかった。
助けて貰ったんだ。少しは恩に着て、素直に答えればいいだろうに。
「まぁ良い、今日は休もうぜ。話は明日だ」
アブクマはそう言うと、腰を上げた。
「キイチ。風呂入ろうぜ」
「あ、うん…」
気楽に言ったアブクマとは対称的に、イヌイはすっきりしていない様子だった。
こういう時は単純なブーちゃんが羨ましい…。
「…待てよ…」
ドアを開けて出て行こうとした二人の背中に、オシタリは声をかけた。
振り返った二人から視線を逸らし、シェパードはボソッと呟く。
「…手間、かけさせたな…」
消え入りそうに小さな声だったが、そっぽを向いたオシタリは、確かにそう言った。
「礼には及ばねぇよ。借りをほんのちっと返しただけだ」
アブクマは微かに笑いながら、イヌイの背を押して部屋から出て行った。
…さて、宿題は片付いた。集中できそうもないし、今日は勉強しても頭に入りそうにないな…。
寝ようと思って机のライトを消し、立ち上がると、テーブルについたままのオシタリが、ぼそりと言った。
「ウツノミヤ…」
寝室のドアに手をかけていたボクは、一瞬固まり、それからこちらに背中を向けているオシタリに視線を向けた。
…空耳かと思ったが…、今、ボクの名前を呼んだのか?あのオシタリが?
「…その…。迷惑、かけたな…。悪かった…」
シェパードはこちらを見ずに、ポリッと頬を掻いた。
「…気にするなよ」
ボクはそれだけ言葉を返し、ドアを押し開けた。
「おやすみ、オシタリ」
「…ああ…」
これが、ボクとオシタリが初めて交わした、会話らしい会話だった。
同じ部屋で過ごし始めてから一ヶ月も経って、初めての事だ…。
「んん〜?どうしたんだアブクマ?オシタリ?その顔は?」
翌日、朝のホームルームで、いつも通りの眠そうな顔をしているトラ先生がそう言い、ボクはギクリと身を強ばらせた。
オシタリの右目の上にはでっかい絆創膏。しかもまだ結構腫れている。
ブーちゃんの鼻の頭にも絆創膏が貼ってある。ムクムクした毛でそれほど目立たないものの、注意して見れば左の頬の腫れ
にも気付く。
「あ〜、昨日オシタリと、え〜と…そうそう、プロレス?してたんすよ。で、棚に突っ込んでこのざまで…」
アブクマが笑いながら少しぎこちない口調で言い、イヌイが呆れたような調子で付け加える。
「片付けに夜中までかかっちゃいました…。子供じゃあるまいし、もう少し落ち着いて欲しいです」
このやりとり、恐らくイヌイの入れ知恵だろう。ナイスだイヌイ!
先生は少しの間黙り込み、眼鏡の奥のあの眠そうに細い目で、じぃ〜…っと、アブクマとオシタリを眺めていた。
…もしかして、勘ぐられてる…?
「そうかぁ。まぁ、ほどほどにしとくんだぞぉ?怪我しないようにな」
が、ボクの心配をよそに、トラ先生は納得したのか、それ以上は突っ込まなかった。が、代わりに…、
「二人とも、せっかくの男前が台無しだぞぉ?」
と、顔を綻ばせて付け加えた。
…この強面の熊と三白眼のシェパードが美男子に見えているなら、眼鏡かえた方が良いです先生…。
オシタリはというと、いつものようにむっつり黙ったまま、不機嫌そうに窓の外を眺めていた。
少しは二人に感謝しろよな?オシタリ。
「どうかしたのかブーちゃん?」
その日の授業が終わり、帰りのホームルームが済んだ後、アブクマはいそいそと鞄を掴んで立ち上がった。
なんだか今日は一日中そわそわしていた。怪我が痛むから落ち着きが無いのかと思っていたんだが…。
「ああ。今日は道場の畳の入れ替えで、部活が休みなんだ。で、その…、ちょっと、そう、買い物でも…、な…」
何でそこで口ごもるんだ?見ればイヌイもさっさと帰り支度を済ませていた。彼も一緒に行くんだろうか?
「そうだ。ボクも本屋に行きたかったところだ。付き合おう」
ボクの提案に、二人は、何故か残念そうに肩を落とした。
…どうしてだろう?
買い物に出てきた割には、二人はどうでも良さそうな品しか買っていない。紙コップとか、使い切り歯磨き粉とか…、いや、
別に良いけど…。
ボクは当初の予定通りに愛読している雑誌を買い、二人と一緒に帰路についた。
「オシタリ、今日もバイト行くのかな?」
「どうだろう?何も言っていなかったが、校則破りは本意じゃなかったようだし…。たぶん辞めるだろうな」
「でも…、アルバイトをしていた理由って、お小遣いじゃなければ何なんだろうね?」
そんな事を話しながら歩いていると、アブクマが不意に立ち止まり、携帯を取りだした。
「おう、シンジョウ。どうした?」
シンジョウ?確か、二人の友人の女子、新聞部だな。
隣のクラスの眼鏡をかけた女子で、クラスメートらしい太ったパンダと一緒に学食に居るのを時折見かける。
「ん?いや外だ。今日は部活休みでな、商店街に出てるんだよ。キイチも一緒だ」
アブクマは電話の相手にそう告げると、数回頷いた後、「おう。判った」と言って電話を切った。
「シンジョウさん、何だって?」
「なんか話してぇ事があるんだと。すぐ来るから、バーガーショップで待ってろってさ」
イヌイの問いに、アブクマは顎をしゃくって、すぐ近くのファーストフード店を示した。
「お待たせ。…って」
十数分後にやってきた新庄美里(しんじょうみさと)は、ボクを見て口をポカンと開けた。
「…二人だけじゃ…なかったの…?」
シンジョウは何やら困っている様子だった。
「ボクが同席しちゃまずかったかな?都合が悪いなら外すけれど…」
ボクがそう言うと、シンジョウは決まり悪そうに眉根を寄せ、「う〜ん…」と唸った。
イヌイとアブクマは顔を見合わせている。熊が小さく頷いた後、猫が口を開いた。
「もしかして、オシタリ君のこと?」
オシタリ?この女子とオシタリと、どんな関係があるんだ?まさか…オシタリの彼女?
シンジョウは少し迷っていたが、やがて、イヌイの問いに頷く事で応えた。
「なら同席して貰った方が良いよ。彼はオシタリ君のルームメイトだから」
「貴方が?」
シンジョウは少し驚いたようだったが、椅子を引いて腰を下ろした。
「じゃあ、きっと貴方にも聞いて貰った方が良いんでしょうね。…えぇと、ウッチー君だったかしら?」
「…できればウツノミヤと呼んで欲しいな…。っていうか、ブーちゃんだろ、吹き込んだの?」
アブクマは鼻の頭を掻きながら頷くと、ボクの顔をちらりと見た。
「シンジョウはな、オシタリの噂の真相を調べてたんだ」
…噂の真相?ボクが首を傾げると、シンジョウは眼鏡をクイっと押し上げながら口を開いた。
「そう。彼の過去、そして星陵への入学の動機、その辺りの事をね」
「何でまたあいつの事なんか?」
ボクの問いに、シンジョウは肩を竦めた。
「危険人物かもしれない生徒…、噂通りかどうか、調べておきたかったのよ」
そう言うと、シンジョウはアブクマとイヌイ、そしてボクと、順に視線を巡らせた。
「結論から言えば、彼が荒れていたのは事実だったわ。そして、星陵への入学の動機も、やっと調べがついたの…」
そしてボクらは、あいつの過去の話…、中学時代のあいつに降りかかった、不幸な事件について、知る事になった…。