第三十二話 「今はさよなら」
モニターの中で肥った虎のキャラクターをクルクル回して、装備やスキルのセッティングを考える。
ゲーム内で操作するキャラクター…タイガーTは、それなりに強くなった。ノゾムと嵐さんがガイドしてくれるお陰で、便
利なアイテムもだいぶ溜まったし、金銭にも困らなくなった。
そこで、性能は変わらないが外見が変わる贅沢品…いわゆるアクセサリーや衣服類に手を出してみようかと考えたんだが…、
何を着せてもあまり代わり映えしなくて困っている。
デンと出っぱった腹。むっちり脇腹。丸太状の脚。丸みを帯びた肩ライン。丸顔。…これらのシルエットがインパクトあり
過ぎて、何を着せても服の色が変わった程度の印象しかない。
ピアスでも付けるか?…いや、温厚で聡明っていう設定にしているタイガーTのイメージには合わないな…。
外套は…、白衣っぽくなるヤツに限られる。モデルがだいたい白衣を着ていて、私服の印象があんまり無いんだよな。
眼鏡はもうこれで決まりだろう。バイザーとかグラサンとかマスク類もあるけど、ノーマル眼鏡が似合い過ぎて他を選ぶ余
地がない。
…キミ、思ったよりおめかしの選択肢が狭いんだな、タイガーT…。
ボクは宇都宮充。星陵高校一年生化学部。夏休みがもうじき終わってしまうハンサムな狐。一学期末の時点では、夏休みな
んて気が重いだけだと思っていたんだが…、今は正直言って名残惜しい。
このマンションのリビングも、寝室も、キッチンも、バスルームまでも、すっかり馴染んで居心地が良くなっている。…家
族が居なくなってからずっと、こんな風にくつろげた思い出は無かったな…。
担任であり部活の顧問でもあるトラ先生に似せてデザインしたタイガーTの試着を、延々と繰り返しながら困っていると…、
「ミツル、お風呂沸いたよ」
ひょこっと餅狐が部屋を覗いた。
チラッと目を向けて「うん」と返事をしたら、ノゾムは何でか怪訝そうな顔になって近付いて来て、ボクの隣に座って画面
をマジマジ見つめた。
「…三十分ぐらい経ったよね…」
「え?もうそんなになるか?」
「なのに殆ど変わってないね…」
「だから困っているんだよ。何を着ても代わり映えしない体型って言うか、弄り様が無いって言うか…」
「ある意味最初から完成度高いんじゃない?」
なるほど、そういう考え方もあるか。
「そろそろ愛着出てきたみたいだね?」
「それはそうだ、苦楽を共にしてきた相棒なんだからな。それにホラ、よく見ればタイガーTは結構可愛いだろう?」
「…数日前からは考えられないぐらいのめりこんでるね…。あ、そうそう。お店で買えないアイテムだけど、オンラインの温
泉ダンジョンとか海岸線ダンジョンで、入浴コスチュームとか水着コスチュームとかドロップするよ」
「…そのぐらいのコスチュームなら確かに見た目も大きく変わるだろうな…。ただ、そんな格好で冒険すると違和感はありそ
うだが…」
などと言いつつ、水着のタイガーTを想像してみると、その格好で遊ぶかどうかはともかく、入手してあげてもいいような
気はして来た。着替えがろくに無いのも可哀相だしな。今のレベルで行けそうなダンジョンなら、ノゾムに頼んで連れて行っ
て貰おう。可愛いアクセサリーの一つや二つ、実用性抜きに持たせてやりたいが…。
「ん?」
ボクは装飾品のアイコンに切り替えがある事に気付いて、スライドさせてみた。
なんとそこには、尾や翼、角、放熱板やアンテナなどがあるデザインのキャラクター専用のオプションアクセサリーが並ん
でいる。
「付けられそうなのがあったな。…って、高いぞ!?」
「贅沢品は高いの多いからねぇ」
財布と相談すると、毎回使う消耗品の購入や装備品の強化に使う分を考えたら、だいたいの物に手が出せない事が判明した。
…ええい、ビギナーは真面目に戦力を強化しろという事か!…でも、この安いのならまぁ…。
列の中で一際安いアイテムは、あまり懐が痛まない値段だった。それを買って早速タイガーTにセットすると…、尻尾の先
寄りの位置に、キュッとリボンが蝶結びされた。
「今はこれが精一杯だな。強くなってから考えよう」
「それでミツル、お風呂沸いたんだけど…」
なかなか画面から目を離さないボクに、ノゾムはそっと体を寄せてきた。脂肪がたっぷりついた胸が肩に、もっちりしたボ
リュームのある腹が肘に、ぴったり密着してその柔らかさをアピールする。
「何だキミ、もうピコンしているのか?」
硬くなったモノがジャージのハーフパンツ越しに腕に触れてきて、からかい混じりに手の甲でソコを軽く押してやったら、
恥かしがったノゾムはクンと腰を引いて逃げた。
「今日はバスルームで?」
「良かったらだけど…」
小声でボソボソ呟くノゾムが少し可愛くなって、ゲームを中断して腰を上げた。
八月の夜はまだまだ暑い。密閉空間に漂う湯気だけで汗ばむボクらは、ひんやり湿ったバスルームの床で身を重ねる。
「んんっ…」
左肘をついて腰から上を少し浮かせ、横向きに寝そべるボクの脇で、仰向けのノゾムは胸を掴んでやったら鼻にかかった官
能的な声を漏らした。贅肉過多の胸も腹も、重力に引かれて肉が左右に逃げている。それなのに、まるでブリーフのゴム跡が
エスカレートして残ったような股間の三角コーナーでは、引力に逆らってチンチンが立ち上がっている。
付け根が肉に埋没しているソレを、贅肉に指をめり込ませるようにして根元で強めに摘んだら、餅狐は「あっ!」と高い声
を出した。
肘をついているボクの、腋の下の隙間から腕を背中側に回したノゾムは、尻尾の付け根をクッと指で挟むように摘んできた。
背筋の毛を逆立てて快感が首に這い上がる…。
ボクとノゾムは快感を得られるポイントが結構似ているようで、お互いに気持ちいいと感じる箇所が近いらしいと、最近に
なって判って来た。されて気持ち良かった事をしてやるとノゾムも喜ぶ。
違うのは、胸を揉まれて気持ち良いか、鎖骨を噛まれて気持ち良いかの差ぐらい。…それと、体型が違うから、ボクの場合
はノゾムの脂肪に埋没したポイントを探らなくちゃいけない事だな…。
お互いの急所を握らせあって、ボクらはかいた汗で、湿った息で、バスルームの湿度を上げていく。
「ひんっ!ひぅっ!」
鼻を鳴らしっぱなしのノゾムが、キツく目を瞑ったと同時に、最硬化していた肉棒がボクの手の中に熱い液体をドブドブぶ
ちまける。
「…ふぅ、ふぅ、…うっ…!」
ボクも全身を硬くして、しごいてくれているノゾムの手を精液で汚す。
…気持ちよくて気だるい…。ぐったり脱力して床に転がったまま、ボクらはぴったり抱き合って、しばらくお互いの体温と
感触を味わう。
さっさとシャワーで汗も精液も流した方が良いんだが、この一時は毎回切り上げるのが惜しい…。
意外と淫乱な資質があったのか、今では毎晩ノゾムとこんな事をしている。…いや、毎晩どころか、時には日に何度もした
り、寝起きから昼までやっていた事も…。
これまでは性欲や性処理の頻度に困ったりしなかったが、寮に戻ったら大変になるんじゃないかと少し心配だ…。ま、求め
てくる相手も居ないし、オカズが目の前に居る訳でもなし、オシタリじゃ性欲を刺激する材料にもなり得ないからたぶん大丈
夫だろう。
ただちょっと懸念しているのは、…そう、性処理のオカズだ。ボクはすっかりホモになったようで、この短期間で女体に対
してのムラムラが殆ど湧かなくなった。しかも、モチモチ太った体型でないと性欲が湧かないようになってしまった。たぶん
だがインプリンティング現象みたいな物で、いわゆるデブ専になったらしい。…判ってるか?お前のせいだぞノゾム?
なんて、冗談半分で責めてみたら…。
「え?じゃ、じゃあ…。オカズ用に写真とか…撮る…?」
恥かしがってモジモジしながら、そんな提案をしてきた。
「ノゾム…。キミは…」
「あ。やっぱりおかしいよね、そんな…」
「天才か?」
「え?」
名案過ぎる!他でもないノゾム本人の写真があれば他のオカズを探す必要はない。しかも無料だ!
自分が出したアイディアがいかに素晴らしい物なのか判っていない、きょとんとしているノゾムに、ボクはこんこんと説明
して…、風呂上りに撮影会を開催した。
冷房を利かせたリビングでさっぱりして、キンキンに冷えた麦茶を楽しんだ後は、ふたりでゲームに興じる。
今日もノゾムのネット友達が同行してくれて、タイガーTに水着をプレゼントする事ができたが…。
「嵐さん、昼間の方が居るよな。学生なのか?夏休み中とか…」
協力してくれたメンバーの中に、たぶんノゾムのフレンドの中で一番強いだろうプレイヤーは混じっていない。昼間は大体
居るんだが、夜は居ない事が結構ある。
「学生じゃないよ。仕事してるって言ってたし…、何屋さんなのかは聞いた事ないけど」
「何屋さん」って…、小学生かキミは…。
「社会人なのに夏休みでもあるのか?」
「季節とかは関係ないかも?仕事はだいたい夜らしいし、「何も無い時は部屋に引き篭もり」って話してた」
夜に仕事…。飲食業かな?飲み屋とか?
「…連絡くれたら、いつでもオンライン付き合うからね?」
「…うん」
モニターの中では次のダンジョンに突入して、メンバー全員が走り出す。
タイガーTが走る。のたくたと鈍重に。
昔のノゾムみたいな狐が走る。その隣に並んで。
モンスターがぞろぞろ現れて、狐が二丁拳銃で弾丸を撃ち込んで、足止めされたモンスターが固まったところでタイガーT
が杖を構え、広範囲に放電する。
「…独りじゃキツいし、頼るよ」
「…うん。頼ってね」
それからは、少し会話が途切れた。
エリアの難易度が上がって、ゲームに集中したのもあって、やり取りは攻略の意思疎通だけになって…。
「…ふぅ…。疲れた」
「お疲れ様」
区切りがいいところでゲームはお開き。チャットで就寝の挨拶をして、メンバーが次々ログアウトしていく。
あくびを片手で覆って背伸びして、伊達眼鏡を外して眉間を指で揉んで、画面に視線を戻したら、サイバーなデザインの部
屋に居るのはタイガーTだけになっていた。
ノゾムは…、さっさとログアウトを済ませて腰を浮かせていた。
「コーラ飲む?」
「飲む」
ログアウトを実行して、ノゾムの後を追ってキッチンへ。冷房を切ってしばらく経ったから空気が少し暑くなっているキッ
チンで、餅狐はグラスに氷を入れて、泡を立て過ぎないようにボトルからコーラを注ぐ。
シュワシュワ音を聞くと、気付いていなかったが喉が渇いていたんだと、欲求で実感できた。
グラスを掴んで、並んで、コーラを飲む。口内を刺激する炭酸と冷たさが心地良い。
流し台に腰の後ろを預けているボクらの前には、八月のゴミ収集カレンダー。明後日の日付が赤いマジックで丸く囲まれて
いる。
それは出発の日の印だ。星陵へ帰る日。ギリギリまで引き延ばした、夏休み最終日…。
アブクマ、イヌイ、オシタリは、来年進学して来るはずのタヌキとクマミヤの星陵見物案内をするため、先に戻っている。
行きと同じく帰りも独りの旅程だ。
「あと二日…ないんだね、もう」
「ああ、そうだな」
ボクはそっけなく、顔色も変えずに答えていた。…だろうな、少し前までなら。
実際には耳を伏せて、空いている手をノゾムと繋いで、カレンダーをじっと見つめている。
「心残り、ない?」
「あるさ、色々」
ボクは世界中の殆どの物を信用してないし、この世の大概の物に平気で嘘をつける。
でもノゾム、キミは別だ。キミにならボクの弱い部分も情けない部分も頼りない部分も、全部曝け出せる。親類だから、似
たもの同士だから、怖がらずに本音を言える。
だから正直に言った。「名残惜しい」って。
「来るまではさ、昔を思い出して嫌になるんじゃないかって、少しは不安だった。けれど今は…、帰ってきて良かったって思
う。心残りだらけだ。…ホントだぞ?」
「…そっか。それなら良かった」
「心残りが多いのにか?」
「だって、心残りがあったらまた来る気になるよね?」
…コイツ、こういう所は本当にボクの親戚だよな…。
「あっても無くてもまた来るから安心しろ。…次は冬休みに」
顔が少し明るくなったノゾムに、ボクは続ける。
「明日は一日、ずっと居るよ」
「え?」
「幸い荷物は少ない身だ。出発の準備はすぐ終わるし、丸々フリーな夏休み最後の休息日だ。だから…」
手を握るノゾムがキュッと力をこめて、ボクは一度言葉を切った。
「明日は何処にも出かけないで、ここでゴロゴロしながら過ごそう。何時まで寝てたっていいし、二度寝したっていいし…、
夜更かししたっていい」
コーラがまだ半分以上残っているグラスを上げる。ノゾムが抱きついてきて、グラスの中でコーラと氷が大きく揺れて、け
れどギリギリ零れなかった。
肩に顎を乗せてしっかり抱きついたノゾムの、肉で丸くなっている背中を、ボクは片手でゆっくり撫でてやった。
それからボクらは、冷房で涼しくなっていた寝室で抱き合った。
しっかりカーテンを締めて、照明を暗くして、ベッドの上でお互いの体を弄り回した。
汗をかいて喉が渇いたらまたキッチンに行って、休憩を挟んでまた愛撫に勤しんで、眠気が訪れてウトウトして…。
ふと目が覚めて触れれば相手も起きて、夢とも現実ともつかない時間は、とても、とても、ゆっくりと流れて…。
うつらうつらと目を向ければ、カーテンの隙間に青い光。ノゾムも夜明けに気付くと、「お腹減ったね」と眠そうな顔で微
笑んで…。
さすがに眠くて休憩したくて、電子レンジでコンビニ売りの冷凍エビドリアを温めて、意外と美味しいなと笑いあって、結
局ふたりで五つも食べて…。
またベッドに戻って、くっついて抱き合って、フカフカした毛とモチモチした贅肉の感触を味わいながら、浅い睡眠と覚醒
を繰り返して…。
昼時になってようやく起き出したら、ノゾムが「出前取ろう」と言い出した。最後だから豪勢に昼食と夕食で散財して、親
のお金使い込んでやろう、って…。
ノゾムの希望で昼から寿司を頼んで、少し遅い昼食が到着するまでカードゲームで遊んで、届いたらテレビを眺めながら寿
司を摘んで…。
頭の体操と食事を終えたら、今さら寝汗が気になってシャワーを浴びて、窮屈に体をくっつけながらボディーシャンプーを
塗りあって、ふざけて泡だらけにして笑いあって…。
サッパリしたらゲームを起動して、経験値と金とアイテムを稼いで、晩飯は宅配ピザを頼もうと相談して決めて…。
夏の終わりの太陽はゆっくり傾いて、時計を見ないようにしても時間はやっぱり判ってしまって、夕食のピザも届いて…。
照り焼きチキンピザにピリッと辛いペペロンチーノに肉汁が染み出るフライドチキン。ニュースを流しながら頬張る夕飯は、
美味いのにちょっと寂しい味がして…。
腹も膨れた後で荷物を纏めたけれど、三十分もかからずに準備は済んで、思っていた以上に荷物が無いんだと驚いて…。
明日着る服だけハンガーに吊るして、ひと目も気にしなくていいから下着だけになって、洋画を観ながらくつろいで…。
シャワーは明日の朝に浴びる事にして、目覚ましをかけたらふたりで寝室に引っ込んで…。
「日付、変わっちゃうね…」
音も無く滑らかに秒針を動かす、枕元の時計を見てノゾムがポツリと零した。午前零時まであと二分だ。
「だが日が昇るまでは夜だからな」
うつ伏せに寝たまま上を向く格好で、時計をじっと見ているノゾムの喉をそっと撫でると、喜んで尻尾をフサフサ揺らした。
一回射精させてやった直後だから、喉元はもう軽く汗ばんでいた。
顎の下にも肉がついていて柔らかく、手触りがいい。…トラ先生もココは柔らかいんだろうか?いや、歳取ってるし、流石
にノゾムとは違うだろうな。
「冬休みにはまた来るからさ」
「うん。寒い季節だから、一緒に鍋とか食べたいね」
「それはいいアイディアだ」
「卓上コンロ買っておくから、スキヤキとかしようか?」
「ああ、楽しみにしておくよ。思い切り高い肉とか買って、親の財布に大ダメージだ」
「うん!せっかくだからコンロも高いのにする?」
「名案だ。けれど操作がシンプルで簡単なヤツがいいな」
「鍋だったら、スーパーで寄せ鍋セットとか売ってるし、色々できそうだね」
「スープもあるから、失敗はあまり心配要らないな。煮込めばだいたい美味くなる」
今更だった。今更、こんな出発前夜に、ボクらは「次」の話をしている…。
「今度は、直接こっちに来るから」
「うん…」
「だから泣くなよ」
「な、泣いてないよ!?まだっ!」
「まだ、か」
「………」
「心残りがあるからまた来る。だろ?」
「うん…」
「心残りって言えば…、ノゾムがドウカさんに本心を打ち明けなかった事もそうだな」
「…!ま、またそうやってからかって!」
ガバッと身を起こしたノゾムの顔を、上半身を起こして座りながら「ホントだぞ?」と見返す。
「こっちに居られる内に結果を知りたいのもあったけれど、ボクが居る間だったら、ノゾムがフラれても慰めてやれるからさ」
「………」
ノゾムは下を向いた。そのまましばらく黙った。
「…いつかは…、ちゃんと…」
「ノゾム」
かなり間を空けてからボソボソ声で弁解したノゾムの肩を掴んで、こっちを向かせる。
「「いつか」って、いつだ?」
「…え…?」
動揺して耳を倒して、顔だけ横向きにして逃げたノゾムの顔を、両手で挟んでこっちを向かせる。
「いつまでも居るわけじゃないんだよ。ひとは」
それでも目だけ逃がそうとするノゾムに、ボクは根気よく突きつけた。
「ひとは、死ぬ。ボクの家族と同じで」
「…!」
昔ボクとソックリだった狐の目が、やっとこっちを向いた。
「老衰で、病気で、事故で、災害で、思い詰めて、…必ず「いつか」死ぬ」
ノゾムは何も言わずに、驚いている顔でボクを見ている。
「ボクらが「いつか」「いつかは」って連呼する、やらないかもしれない来ないかもしない「いつか」とはわけが違うんだ。
その「いつか」は必ず来る」
ノゾムはたぶん、独りじゃ生きられない。ボクみたいにスレていない。コイツにはきっと、近くで支えてくれる、傍に居て
くれる、そんな誰かが必要なんだ。
「いつまでも居るわけじゃ、ないんだよ…」
今はまだ、ボクぐらいにしかそんな脆い面を見せて甘える事ができないけれど。これから先ずっと独りっていうのは、ノゾ
ムには無理だ。
「だから、なるべくなら少しでも早く勇気出せよ。イエスでもノーでも、返事を貰えるのは生きてる間だけなんだから」
「………」
ノゾムは返事をしない。それでもいい。この場で返事を貰おうなんて最初から思っていない。
「約束は必要ない。返事だって要らない。これは「そうしろ」っていう命令じゃなく、ただの忠告だ。だけど、覚えてだけい
て欲しい」
「…うん…」
僅かに顎を引いたノゾムの顔から手を離して、その肩に手を回して、そっと抱き締めた。
お互いの肩に顎を乗せる格好で、ノゾムもボクの背中に腕を回してきて、ゆっくり撫でてくれた。
「ボクもこれから大変になるんだ。協力しろよ?相談に乗れよ?何たってボクは、キミのせいでホモに覚醒進化してしまった
んだからな?」
クスッと、首筋をノゾムの息がくすぐった。…ノゾムお前いまの冗談だと思っているんだろ…!?
「これはジョークじゃないからな?キミのせいでホモになって、おまけに…」
ムニュッと、胡坐をかいた太腿の上にせり出している腹肉を強めに掴んでやったら、ノゾムは「ひゃん!」とくすぐったかっ
て身じろぎした。
「こんな感触が大好きになったんだぞ?キミが太っているせいでデブ専になったんだぞ?相手が男でかつデブじゃないとダメ
なんだぞ?グラビアアイドルの水着で手軽に性処理してた頃とは難易度が格段に違うんだぞ?これから先のボクの性生活はこ
れまでと全然違うんだぞ?」
掴んだ腹肉を上下に揺すりながら言い募ると…、
「うにゅははははは!だめぇ!やめて、くすぐったいぃっ!」
脂肪の波紋とでも言うべきか、肉付きのいい体をポヨポヨさせながら、ノゾムはくすぐったがって大笑いした。
「頼るからな?何せキミはボクにとってホモの先輩なんだから…」
くすぐったがりながらも気持ちいいのか、尻尾を激しくフサフサさせるノゾムは、笑いながらコクコク頷いた。
腹肉揺すりバイブレーションで刺激されたのか、ノゾムの股間はまたピコンした。コイツ本当に精力あるって言うか、回復
早いって言うか…。いや、ボクが初心者過ぎてテクニックが拙いから、満足し切れないのかもな。
「またしようか?」
「うん…」
恥らって耳を倒して、ノゾムはボクの手を迎え入れるように、胡坐をかいていた脚を左右にずらした。腿が贅肉で太いせい
で、股の空間は狭い。…けれどもうそれにも慣れた。
ボクはノゾムの、ノゾムはボクの、秘所にそっと触れて刺激する。…ボクもノゾムをとやかく言えないな。触られたらすぐ
元気になった…。
甘えてくるノゾムに甘えて、ボクは最後の夜を惜しみながら過ごして…。
鞄一つをリビングに置いて、電車の時刻表を再確認して、ボクはノゾムに向き直った。
「じゃあ」
「うん」
ノゾムは耳を伏せていた。寂しそうな目で、けれど口はちょっとだけ笑っている形にしていた。
そんなノゾムに歩み寄って、キュッと抱き締めて、背中をポンポン叩いた。
ノゾムも同じように抱き締め返してきて、やっぱり背中をポンポン叩いた。
そうしてお別れのハグを終え、身を離して向き合って、ボクは最後の挨拶を切り出して…、
「世話になった。しばらく会えないけれど…」
「会えるよ」
ノゾムが言葉を遮った。寂しそうに笑ったまま。
「帰ってもさ、離れててもさ、どんな形でも会えるよ。電話でも、メールでも、ゲームでも繋がれる…」
…その言葉をきっと、ノゾムは自分自身にも言い聞かせている…。
「だから…。僕は大丈夫だよ、ミツル…!」
ノゾムは頑張った笑顔だった。本当は寂しくて堪らない事は、垂れた尻尾と泣いている時のように伏せた耳で、バレバレな
んだけれどな…。
「駅で泣いちゃったら困るから、玄関で見送りにするね!」
ノゾムは情け無い事を堂々と元気に言い放つ。…空元気でも大した物だよ…。
「玄関で見送りって、奥さんみたいだな?」
「じゃあ「行ってらっしゃい」って見送る?」
「それはいいな。冬は忘れないで「おかえりなさい」って言えよ?」
「…メモしとく」
「それがいいな。ボクも「ただいま」って言うようにメモしておく」
下らない事を言い交わして、玄関に出て、靴を履いて…。
「「行ってらっしゃい」」
「ああ。「行ってきます」」
また会うけれど、また来るけれど、今は一回さよならだ。
軽く手を上げて笑いあって、ボクが出て、締める、そのドアの向こうに…、泣き出しそうな笑顔のノゾムが消えた。
…パタン、って…。
大欠伸しながら電車内を見回して、バイブを止めた携帯で時刻を、車内の表示で次の駅を確認した。
…最後の夜まで夜更かししたから寝不足気味だ…。また長い間うつらうつらしていたらしい。
隣には、偶然にも出発から同じ列車に乗っていたシンジョウ。彼女も最終日まで実家でのんびり過ごしたそうだ。…勝負を
かける報道部の活動も終わって、あとは結果次第。まな板の上の鯉の心境だとさ。
ルームメイトへの土産に大量の荷物を持ってきたシンジョウは誰かにメールを送っている。…もうじき着くからとそのルー
ムメイト…もう星陵に戻っているらしいパンダに連絡しているんだろう。駅から土産を運べ、って。
電車が停まり、ホームを抜けて、改札を出て正面口を潜れば、そこはそろそろ住み馴染みはじめた星陵の市街地。
「夏休み、あっという間だったな…」
「本当。明日からもう学校なのよね…」
ボクの呟きにシンジョウが同意すると…、
「あ!ミサトォ~!」
感慨にふける空気を吹き飛ばしたのは、横手から響いた女子の声。
ドスドス走って来たジャイアントパンダは、ベアハッグ気味にシンジョウを抱き上げる。
「おかえりのギュッ!」
「ちょっと!くるし…、あはは!ただいまユリカ!」
オーバーアクションな女子コミュニケーション。まぁよろしくやってくれ…。
軽く挨拶を交わしてから、ボクはひとまず別れの挨拶を切り出した。
「それじゃあ、ボクはちょっと買い物をして行くから、ここで」
「ええ。気を付けて」
「じゃーねー!遅くなんないように!」
「そっちも。何せ外国帰りみたいな大荷物だからな」
ボクが肩を竦めると、女子二名は菓子類が大量に入った紙袋類を見遣って苦笑いする。女にとって甘い物は別腹だそうだが、
まぁほどほどによろしくやってくれ。
さて…、確保しなきゃいけないのは、パソコンに繋ぐゲームパッドと、獣人用ヘッドホンだ。そこらの電気屋で売っている
と思うが…、家電量販店ならすぐ見つかるだろう。
音漏れが少ない物を探さないと。オシタリは団の練習で疲れて早く寝る事もあるし、休日の応援活動で早起きする事もある。
夜中に音を出してゲームしていたら寝つきが悪くなってしまうかもしれないからな。
首尾よく、立ち寄った一軒目で犬系獣人向きの表記があるヘッドホンを二種類見つけた。
選んだのは、特別な機能は無いが安価でシンプルな方。…人間用より少し割高なのは生産数の都合上仕方がない…。
ゲームパットはノゾムの家にあった物と同じ物があった。どうやらメジャーな商品らしい。勿論迷わずこれを選んだ。
ボクのパソコンはスペック上このゲームの作動に問題は無いようだし、ソフトをインストールすれば準備は整う。今夜中に
ノゾムに報告できそうだ。あまり待たせると寂しがるかもしれないし、なるべく急ごう。
品物を持ってレジに向かい、会計をしたボクは、ふと顔を巡らせた拍子に、商品棚の間にずんぐりした大きな人影を見た。
丸型蛍光灯の箱を手に取って、年寄り臭く眼鏡の端をつまみながら、パッケージに顔を近付けて説明書きを確認しているの
は、丸々としたフォルムの肥満虎…。
タイガーT?キミ何してるんだこんな所で?…って、違う違う!タイガーTじゃないぞしっかりしろボク!
蛍光灯をしげしげ見比べているのは、タイガーTのオリジナル…担任のトラ先生だった。ネイビーブルーの半袖ティーシャ
ツに、サンドカーキのハーフ綿パン、そしてサンダル履き。珍しくラフな私服スタイルだ。タイガーT用にこんなコスチュー
ムが無いか探してみよう。
パッケージをいくつか見比べた後、目当ての物が特定できたらしい先生は…、体の向きを変えてボクに気付いた。
一度丸くした目を細めるトラ先生に会釈して、会計を終えたボクはレジから離れて、少し待つ。
「お久しぶりです」
袋を片手に提げてレジを後にした先生は、ボクが挨拶すると眠そうな目を細くする。
「おかえり、ウツノミヤ」
「…あ。はい。…ただいま…」
挨拶し直して、少し変な気分になった。
「おかえり」で「ただいま」、か…。ボクにはもう家は無いのに、家族は居ないのに、ノゾムといい先生といい、こんな挨
拶を交わす相手は居るんだな…。
「休みはゆっくりできたかね?」
のっそのっそと歩き出した先生に並んで、ボクは「ええ」と答える。ノゾムの体型を見慣れたはずなのに、背も高い大男の
先生はやっぱりボリュームが違う。大きな腹が歩くたびに弾むし、薄手のティーシャツ越しに臍の広い窪みがはっきり判る太
り具合。
「たっぷり休めました。先生は?」
「私は…」
先生は少し間を開けて考えて、
「…色々やっていたようで、思い返すとだいたいゴロゴロしていたなぁ…。たっぷり休んだのは間違いない。うん」
何となく思った。先生こんな体型だし、暑いの苦手で冷房が効いている所から離れなかったんじゃないだろうか…。
横顔を窺ってふと思う。トラ先生の喉も、ノゾムみたいに柔らかいんだろうか?ノゾムみたいに撫でたら喜ぶんだろうか?
…はっ!?
いけないいけない、何を考えているんだボクは…。
「もう二学期のスタートだなぁ」
街の上に広がる、秋色が濃い夕暮れ空を眺めながら、トラ先生はのんびり言った。
「今夜はしっかり休んで、明日から張り切って行こうか」
「はい」
「二学期はなんせ、発表の場…、文化祭があるからなぁ」
…あ。そうだった。すっかり忘れてたな…、化学部ほぼ唯一の見せ場が来るんだった…。
「という訳で、面白おかしい出し物を皆で考えるぞぉ」
「はい」
眩しい赤の空に目を細めて、ボクは先生に頷いた。
二学期が始まる。
単に学期が進むだけじゃない。重大な変化を経たボクにとって、寮に戻る今日からは既に新生活になるんだな…。