第三十五話 「思っていたよりボクは弱い」

 靴底が擦れて音を立てる。レンガ風の石畳の上をボクは走る。

 眼前にはリスの尻尾。記憶とは縞模様の印象が異なる後頭部。

 けれど、頭の形や耳の位置は、毛色や体型と違ってそうそう変わらない。

 間違いない。目の前のこの男は、ボクから逃げるこの男は、声が変わらないこの男は、ボクの家を滅茶苦茶にしたあの男だ。

 距離が縮まらない背中を追う。すれ違うひとと肩をぶつけ合って、相手が転んでも、自分がよろめいても、リスは止まらない。

 …ボクの父があの頃、会社で手掛けていたプロジェクト…。雷龍の国への教育支援投資…。その時に父の下につけられたのが

シマ、この男だった。

 社交的で、人当たりが良くて、笑顔が好印象で、家にも何度か遊びに来て、父も、母も、弟も、ボクだって気に入っていて…。

 けれど全部裏切った。

 プロジェクトが軌道に乗って、現地に派遣された人達も学校建築を進めて、形ができあがり始めたその時を見計らうように、

シマは蒸発した。

 数ヶ月かけて慎重に、プロジェクトの会計を誤魔化し、資金を持ち逃げして行方をくらました。

 派遣会社の経歴も、コンサルタントの肩書きも、父やボクらに語った人生も、全てが嘘だった。シマという名前もきっと偽名

なんだろう。

 偽りだらけの裏切り者、その背に追いすがる。

 ボクはそれほど運動が得意じゃない。走り慣れている訳でもない。運動神経が良い訳でもない。標準的な高校生の体力だ。

 それでも、足を緩める訳にいかない。逃がす訳にいかない。

 驚いた通行人が避ける。その中を逃げてゆくシマを、ボクは追い続ける。

 リスが急に曲がった。角に立つインテリア雑貨屋の脇を、裏通り方面へ向かう。

 追いかけるボクは右手の壁側を走った。シマは振り返って、曲がってもボクが追いかけている事を確認した。

 シマは逃げ慣れているのか、足が速い。フォームがしっかりしている。

 必死に追いかけているが、距離は縮まるどころか少しずつ開いていく。

 駆け比べじゃ敵わない。走力じゃ追いつけない。けれど…。

「はっ!?」

 次の丁字路を左に曲がった所で、シマの弾んでいた息が一際大きく聞こえた。

 息を飲んだのは当たり前だ。そこは突き当たりに古書店があるだけの行き止まり…、右に曲がられたら歩行者通りに入られて

いたところだが、振り返って確認した時にボクが右の壁寄りに走っていたら、そっち側には曲がりたくなくなるだろう。この辺

りの地理に疎い事を期待した引っかけだったが…。

「逃げるなぁあああああああああああああああああああああああああっ!」

 叫んだ。痛い喉を震わせて。行き止まりに驚いて足を緩めたシマの腰へ、ボクは後ろから、レスリングのタックルのような格

好で組み付いた。

 ズボンの生地を掴む。ベルトを握る。逃がしてなる物かと、渾身の力を込めて。

「ま、待ってくれミツル君!誤解だ!」

 シマは慌てた口調で何かを弁解しようとした。

「お父さんがどう言っているか判らないが、私は無実だ!嵌められたんだよ!」

「…嵌められた…?」

 ボクの呟きにシマが「そうなんだ!」と反応した。

「金を持ち逃げしたのは別の男だ!あのプロジェクトに外部アドバイザーとして携わっていた、本間修平(ほんましゅうへい)

という豹…。君は会った事がないかもしれないが、一緒にウツノミヤさんの下で働いていた男だ!」

「…本間修平…」

「あの男の事は、私もウツノミヤさんも信用していたんだ…」

 シマの体から力が抜けた。疲れ切ったように。

「収支のデータだけチェックして、それを信用していたのが間違いだった…。実際には金をいくつもの口座に分割送金していた

事に、気付くのが遅くなった…。会計にも携わっていた私は濡れ衣を着せられて…、弁解の機会もなく逃げ出すしかなかっ…」

 シマの言葉が途切れる。ボクがベルトに捻じ込むように指をかけるのに気付いて。

 子供だから言いくるめられると思ったのかもしれない。だが生憎、言いくるめられる以前に…。

「ボクはシマさんの言葉を、もう何一つ信じない」

 それが本当なら警察に訴えれば良かっただけの話。入金送金口座が絡む企業レベルの取引なら、防犯カメラに銀行員、入出金

の時間記録とその間の本人のアリバイと、潔白を証明できる要素はいくらでもあった。なのに弁解の機会がなく犯人に仕立て上

げられるとか、ドラマの見過ぎだ。

 いま口にしたホンマっていう人物も実際に存在する誰かなんだろう、それっぽく話を盛るのは、思い起こせばコイツの常套手

段だった。

 ゴッ…。と、突然音が響いた。

 頭の中で聞いたように深い音だった。

 眼鏡がひしゃげて、鼻パッドが皮膚にめり込んだ。

 一瞬前に顔の前が暗くなっていて、顔面を肘打ちされたと気付いたのは、眉間の奥にジンと痺れが走って、きつく圧迫される

ような苦しさが痛みよりも先に広まった後だった。

「放せ!」

 腰にしがみ付くボクの顔に、シマの左肘が振り下ろされた。右の拳骨も飛んできて、メガネが吹っ飛んでいったが、鼻先に命

中したそっちは、体の反対側から殴ってきてる姿勢のせいか、それともマズルがへし折られたと思うほどの肘打ちの痛みが大き

過ぎるせいか、たいして辛くなかった。

 言いくるめられないと察した…というか、少し休む時間稼ぎをしたかったのかもしれないが、とにかくシマはあっさりと諦め

て、暴力による排除に移った。

 顔を何度も殴打されて、しかしボクは自分自身の心配に反して、冷静さを失わなかった。はらわたは煮えくり返っているし、

頭にもカッカと血が昇っているが、思考は普通にできる。

 アドレナリンとか分泌されているんだろうか、痛いはずなのにそうでもないと言うか、痛覚はあるのに苦痛で身が縮む事も怯

む事もない。

 ただやっぱり、殴り合いとか取っ組み合いじゃボクに勝ち目はない。捕まえておくのだってそんなに長くはもたない。そんな

ボクにできる事は…。

「ドロボー!」

 思い切り、叫ぶ事ぐらい。

 表通りから少し奥、人通りの多い所に聞こえるかは微妙過ぎるが、イヌイは遅れて追いかけてきているという確信があった。

 それに、この行き止まりには古書店がある。目と鼻の先のこの店の、店主なり客なりに聞こえてくれれば…。

 鼻のすぐ上でマズルに真上から肘が当たった。口の中にヌメッとした物が広がった。しょっぱい。

「ドロボー!ドロボー!」

 繰り返し声を上げる。誰か…。聞いて…。

 目の前でチカチカ星が飛んだ。頭がグラグラする。

 鼻の奥から錆臭くて生臭い血の匂いが溢れて来る。

 肘が当たった右目は鈍痛を感じるだけで見えない。

 ただ、古書店のドアが開いたのは見えた。取り付けられているベルが鳴ったのは聞こえた。賭けに勝ったと思ったボクは、次

いで我が目を疑った。

 ネイビーブルーの半袖ティーシャツ。

 サンドカーキのハーフ綿パン。

 足は安物のサンダル履き。

 その体は、大きい。幅もあって、厚みもあって、何より丸い。すっかり見慣れた、褪せたような縞模様…。

「ウツノミヤ!」

 聞き慣れたはずの声なのに、聞き馴染みがない怒鳴り声。こんな事ってあるだろうか?

 古書店から飛び出して来たのは、ラフな私服スタイルの肥った虎中年…。

 運命は…、向こうからやって来た…。

 ホッとしたのか、いくらか冷静になったのか、ボクは急に顔面の激しい痛みを自覚した。

「はなっ、放せっ!」

 慌てるシマ。放してたまるか。ああ、でも、痛い…。気が遠くなりそうだ…。

 サンダルがペタペタいう音が急に聞こえなくなった。見れば、猛然と走って来るトラ先生の足からはサンダルが脱げて、素足

になっていた。

 ゴッ、と左側頭部…コメカミに衝撃。好き勝手ぶってくれる。ああ、痛い。

 またシマの左腕が顔から離れる。衝撃に備えて歯を食い縛った。…けれど、次の肘打ちが届く事はなくて…、

「っづあっ!?」

 代わりに、痛みの呻きと悲鳴の中間のようなシマの声が、ボクの耳に届いた。

 トラ先生はシマの右腕を肘の所で、左腕を手首の所で掴んでいた。捻ったり捩じったりはしていなくて、正面から普通に握っ

ていた。けれど、シマは「あいっ!いだっ!あがああ!」と苦鳴を上げている。

「アンタ…」

 唸るように低い、遠雷みたいに転がる声は、トラ先生の物だった。

「俺の生徒に何してる…?」

 掴まれたシマの腕には、先生の太い指が深く食い込んでいた。被毛も肉も圧し潰されて、まるで太さが半分になったかと錯覚

するほど、握られた部分が潰れて細くなっている。

「せ、正当防衛だ!放せっ!」

 この期に及んでも言い訳を忘れないシマが、暴れながら先生の脚を蹴った。素足も踏みつけた。が、大虎はビクともしない。

「防衛だったとしても過剰防衛だ」

 淡々と応じる先生の声は、おそろしく低かった。夕立前の雷のように。

 そしてその顔は、普段とは別人のように険しい。眠そうに細い目が鋭くなって、緩んだ表情が消えている。

 猛々しい雄の虎、威圧感すら漂う無表情は、怒りを噛み殺しているようにも見えた。

「防衛行為だったとしても、そのままでは相手が重傷を免れない程の暴行を加えている状況…。私人逮捕の要件は満たしている。

放す理由は、無い」

 メキッと音が聞こえた。それは、毛皮の下で筋肉とスジと骨が擦り合わされて軋む音だ。甲高い悲鳴がシマの口から上がった。

腕を掴む手に先生がもっと力を込めたのか、蹴ったり踏んだりしていたリスの脚が動きを止めた。痛みでそれどころじゃないら

しい。掴まれた腕を押さえて喉から掠れたような息を漏らすばかり。

「ウツノミヤ君!…え!?」

 後ろから、息で乱れて上ずった声が聞こえた。イヌイ、やっぱり追いかけてきてくれて…。

 ああ、痛い…。考えるのも辛い。

「ウツノミヤ!もういいそこに屈め!イヌイ!携帯電話持ってるか!?」

 先生の怒鳴り声が聞こえた。次いで、110番だとか、電話だとか、聞こえて…。

 

「…ウツノミヤ…」

 顔がズキズキした。動脈とかこんなところにあったっけ?何て、ちょっとぼんやり考えた。

「ウツノミヤ、俺の顔が見えるか?」

 顔が痛い。でも、抱き起す誰かの体が触れていて、肩には柔らかい感触…。

「………トラ先生…?」

 目が少ししか開かない。…あ、そうか。ボク、顔をボコボコにぶたれて、瞼とか腫れているのか…。

「ああ、俺だ」

 滲んだ逆光。路地の間の狭い空。ぼやけて見える丸い輪郭は、影の中のトラ先生。

 どうやらボクは仰向けで、上半身を先生に抱き起されて、顔を覗き込まれているらしい。

「すぐに救急車が来る。少しだけ我慢してくれ」

 のんびりしたいつもの口調とは違う、声質も低くなった先生の様子から、自分の顔がよほど酷い事になったらしいのは判った。

 でも、救急車より…。

「アイツは…。リスの男は、どうなって…?アイツ、詐欺師なんです…。ボクのウチも嵌められた…」

「そうだったのか…。今は書店の店長と客が見張ってくれている。すぐに警察も来る。もう逃げられやしない」

 そうか。よかった…。

 ホッとしたボクの、鳩尾に上がっていた手を、そっとトラ先生が取り上げた。

「済まない…。俺はいつもタイミングが遅い…。まただ…。今日も一歩遅くなった…」

 いつも?何の話だろう、先生はいつだって時間に正確なのに。

 顔がズキズキ痛んで、過剰分泌された涙で視界はぼやけている。だからなのか、先生の険しい顔は、何だか泣き顔のようにも

見えた。

「こっちです!この奥!」

 気付けばサイレンの音が聞こえていた。それに重なってイヌイの声が聞こえた。

 ああ、運が良かった。

 良い運命も、悪い運命も、向こうから来るとして…。

 今回は、良い物が来てくれた…。

 

 

 

 シマは逮捕された。…って言うか、アイツは違う名前と違う顔で指名手配されていたんだが…、詐欺の悪質な常習犯として。

そもそも、ボクが知っているシマっていう名すら偽名だ。本名は全然違っていた。

 取り調べや認否の話はまだボクらには判らないが、余罪はたっぷりあるそうだ。報道によれば、名前を変えて詐欺や横領を繰

り返して来たらしい。

 …ボクら家族みたいに、アイツに人生を狂わされた被害者は他にもたくさん居るわけだ。

 憎いかと、自問する。

 正直判らない。許せないのは確かだけど、考えるだけでカーッと頭に血が昇って、胸がムカムカして、腹が立ち過ぎて冷静に

自分を見つめられない。どのくらい憎んでいるのか、恨んでいるのかが、怒りに霞んで把握できない。

 グチャグチャだ、気持ちが。

 報復する事を望んでいたのかと聞かれれば、ノーだ。そんな機会が来るなんて期待もしていなかった。どこかで捕まって報い

を受ければいいのにとは、思っていたけれども。

 数回繰り返された警察の聴取なんかには、先生が保護者代わりに付き添ってくれたし、直接答えなくていい事については聞き

取りして代理で答えてくれた。

 年配の刑事はボクを褒めた。でも、ほんのちょっと小言も言われた。勇敢なのは良い事だが、自分の身の安全を軽視してはい

けないよ、と。

 声の調子からいって軽口に応じてくれるひとだと察したから、「でも、あそこで捕まえないと、アイツはまた警察からも逃げ

ていましたよね?」と軽くチクリとしてやったら、「これは返す言葉もないな」と苦笑いしていた。

 …同席していたトラ先生からは、刑事さんを困らせないようにと窘められたが、少しだけ胸がスッとした。もう警察を無能だ

とか、アイツを逃がした役立たずだとか、苦々しく感じなくて済む。だって、ひとひとり捕まえるのはあんなに大変だって、身

をもって知ったからな…。

 そして、あっという間に一週間が経った。

 

「ウツノミヤ」

 軽いノックの音に続いて呼ぶ声。首を巡らせれば、病室の入り口にトラ先生が立っていた。

「準備はできているかぁ?」

「はい。荷物もこれだけですし…」

 オシタリ達が運んでくれた着替え入りのバッグを手に、ボクは病室を見回した。個室で良かったな…、あんなに頻繁に皆が見

舞いに来ていたんだ、普通の数人部屋じゃ他の患者に迷惑だった…。

 小さな洗面台の所にある鏡には、顔の大半と頭を湿布と包帯に覆われた狐の、輪郭がモコモコした顔が滲んで映っていた。

 自分では見ていない…というより目の治療中で見る事ができなかったが、怪我をした直後のボクは別人のように人相が違って

いたらしい。三日目に面会できるようになって皆が見舞いに来た時なんか、イヌイとシンジョウが絶句していたからな。脳に異

常は無かったが、マズルと目の上が亀裂骨折していたり、他にも色々だから、顔が元通りになるまでは少しかかるらしい。

 入院中の治療で顔の腫れは引いたが、まだ瞼が厚ぼったくて、半分下りているような状態。見え方が悪いのが気になって目を

擦りそうになるが、これはグッと我慢…。

「じゃあ、行こうかぁ」

「はい。お世話になります」

 入り口で待っていた先生は、ボクが近付くと荷物を手からサッと取った。

「あ、ありがとうございます…」

「うん」

 頷いた先生は、次いでボクの右手を握った。

「足元に気を付けるんだぞぉ?」

「はい…」

 ちょっと気恥ずかしいな…。

 手を引かれて廊下を歩む。お世話になった看護師さん達に、先生と一緒にステーションで挨拶する。

「ウツノミヤ、ここにスロープがあるから気を付けるんだぞ?」

「あっと…、はい済みません」

 先生が歩調を遅くして、警告されたボクは慎重に床を窺う。

 握られた手は恥ずかしいが、今はそれ以上に心強い。先生に先導されて、エレベーターが来るのを狭いホールで待つ。立ち止

まっている間も、先生は手を繋いだままでいてくれた。

「落ち着くまで、注意深くなぁ」

「はい。でも、部屋の中ならオシタリが、寮の中ならアイツの他にも友達が、手伝ってくれるから安心です」

「…通院は、しばらく続くなぁ…」

「ええ、リハビリ頑張ります。まぁ、もし治らなくても、伊達眼鏡が矯正用の眼鏡になるだけですから」

 先生は黙った。ボクも黙った。エレベーターがポンと言った。

 乗り込んだ箱が浮遊感を与えながら、ボクらを地上に運んでいく。ドアの上の階数表示は、滲んで数字が読めない。

 何もかもがぼやけて見える。

 正確には、右眼で捉える像が二重にブレて、左目で見るこれまで通りの視界に重なっているせいで、目のピントも合わせ辛い

し、手を伸ばしたり足を踏み出したりする感覚と齟齬がある。

 右眼は、経過を見ないとはっきりと言えないが、完全には元に戻らない事もあるらしい。だいたいは治るから心配しなくて良

いと、主治医は言っていたが…。

 位置が移動している階数表示を見上げるボクに、トラ先生は言った。

「きっと良くなる」

「そうだと良いです」

 ポンと、エレベーターが到着を知らせた。一階の駐車場前まで降りて来たようで、広い窓が取り込む日差しが目に染みて…。

「あ!ウツノミヤミツル君かい!?」

 聞き慣れない声で、唐突に尋ねられた。

「はい。ええと…」

 病院の先生かなと思いながら目を向けるが、輪郭が滲んだ姿は医者の格好じゃない。

「まずは退院おめでとう!それでちょっと良いかな?君は、巨額横領事件で被害に遭った家の、遺児で間違いない?」

「!」

 何で?何で判った?

 表情に出たんだろう、相手は勢い込んで言葉を続けた。

「私はこういう者なんだけれど、話を聞かせて貰えないかな?」

 押し付けるように渡されたのは名刺らしいが、字までは確認できない。

「立派に家族のかたき討ちを果たした少年ヒーローにインタビューしたいんだ!」

 …え?

 マスコミらしい男は言った。ボクは立ち尽くした。

「凄い偶然だが、運命的でもあるよね!悪い事はできないっていうか、報いを受けるきっかけが君と会った事なんて…」

「済みませんが、その辺りで」

 男の声を遮ったのはトラ先生だった。最初はボクの知り合いと思ったのか、口を挟まなかった先生は、違うと確認するなり間

にずいっと割って入る。

「病み上がりで疲れているので、今日は帰って休ませたいんです」

「親戚の方ですか?」

 男の問いに、

「担任です」

 短く応じた先生は、ボクの手を引いて歩き出した。

「あ、ちょっと待ってください!」

 男はしつこく追いかけて来たが、ボクは押し込まれるように助手席に乗せられ、先生がすぐに車を出す。

「ウツノミヤ君!仇討ちを果たした感想を一言!」

 車のエンジン音に混じって、男の大声が窓越しに聞こえた。

 車が昇り勾配の終わりの段差で少し跳ねて、一瞬の浮遊感を覚え、天井が途切れて広がった空の青さで目に痛みを感じる。

「…調べたのか…」

 ポツリとボクが呟くと、先生は軽く身じろぎした。

 シマが捕まった。なら、捕まえたボクがどんな人物なのか、記事に書くために調べるだろう。生徒に聞けば名前くらいは判る。

もっとも、ボクの過去を知っている生徒なんてこっちには居ない。ブーちゃんは別だが、彼はボクの家がどうなったかという詳

細までは知らない。ならどうして判ったのか…。

 おそらく特定したボクの名前から、何かの事件に関わっていないかを調べたんだ。そして、シマが関わった詐欺の被害者に父

の名前がある事に気付いた。

 …客観的に考えれば面白い題材だろうな。被害者の遺児がアイツを捕まえただなんて…。

 

―ウツノミヤ君!仇討ちを果たした感想を一言!―

 

「…仇討ち…?」

 呟いたボクに、トラ先生が前を向いたまま「ウツノミヤ」と声をかける。

「今はあまり考えない方がいい。ゆっくりで良いんだ。気持ちも、頭も、整理するのは」

「…はい…」

 頷きながらも、ボクの思考は止まらない。もっと正確に言うと、浮かんだ自問から目を逸らせない。

 あの頃…、引っ越しせざるを得なくなるほどボクら家族を追い回したマスコミ…。それが今度はボクを、家族の仇を取った遺

児として報道するんだろうか?

 混乱と困惑。シマへの怒り。マスコミへの不信感。負傷した後悔。

 思い出すのは、家族が揃っていた頃の生活…。温かくて、痛くて、意識して思い出さないようにしてきたあの頃の光景…。

 グンっと突然車が加速して、ボクの背中がシートに押し付けられる。

「ウツノミヤ、ちょっと遠回りする。悪いが我慢してくれ」

 低い声で先生が言った。

「…もしかして、追いかけてきていますか?」

「………」

 先生は答えなかった。けれど、答えがないから確信した。体を少し動かしてサイドミラーを覗いたら、加速した車を追いかけ

てくるタクシーが見えた。…アレか?「前の車を追ってくれ」とか、人生に何度も言えないようなセリフをあの男は運転手に告

げたんだろうか?

 タイヤが軽くスリップ音を立てて、車が傾きながらカーブする。滲んだ景色が勢い良く後方に流れて行く。

 信号の切り替わりをタイミングよく利用して、トラ先生はタクシーとの距離を空けると、線路のアンダーパスを潜って市街地

側から離れて、住宅地に紛れ込んだ。

 

「…はい。はい、お願いします。…済みません校長、今度奢ります。いや、一杯と言わず…」

 広告看板のおかげで道路側からは死角になる、砂利敷の空き地…山のウォーキングコースの入り口駐車場。車を停めて降りた

トラ先生は、携帯で校長と連絡を取っていた。

 ボクの氏名が判っているって事は、寮の出入り口で張り込みされる心配もあるというのが先生の考え。…言われてから思った

が、それは充分に在り得る話だ。一度振り切ったからといって諦めるとは限らない。あっちも仕事なんだからな…。

「ウツノミヤ。不自由させるが、食堂用の搬入車両に隠れて寮に入ってくれ。校長が警備員を立たせてくれるそうだが、出入り

口は全部見張られると考えていい。見つからないに越した事はないだろう」

「は、はい…」

 釈然としない…。取材とかされたくないから遭遇はしたくないが、何でボクが逃げ隠れしなきゃいけないんだ…。

「目につかない所で運搬車に乗せて貰う事になったから、ここで少し時間を潰してから行くようになるんだが…。ウツノミヤ、

喉とか乾いてないかぁ?」

「大丈夫…です…」

 声が掠れたが、喉が乾いたからじゃない。

 仇討ち?ボクは、家族の仇を討ったのか?

 終わったのか?ボクは何か成し遂げたか?

 ボクを置いて逝ってしまった家族の仇を。

 一緒に連れて逝って貰いたかったボクが。

 報復できた満足感はあるか?そもそも仇討ちができたっていう実感はあるか?

 シマを見た時、ボクは復讐を考えたか?家族の仇だと思って追いかけたのか?

 怒りはあった、けれど、報復のためにっていう使命感のような物は、ボクの中にあっただろうか…?

 仇討ちをした。偶然の末の出来事だが、客観的事実としてそれは確かなんだろう。一応ボクは家族の仇討ちをした格好になっ

ている。

 けれど、立派だと皆が言いそうな、皆から褒められそうな、そんな事をしたボク自身は…。

 そんなに、立派な…物じゃ…。

「ボクは…」

 喉が痛い。

「そんな…、立派な事なんか…」

 目が痛い。

「こんな事になるなんて、って…、後悔まで、しているのに…!」

 そう。ボクは痛い思いをした事にも、物が見え辛くなったこの状態にも、ひどく後悔をしていた。

 こんな目に遭うなんて考えていなかった。怒りで衝動的に追いかけて、結果として仇討ちになっただけ。家族のためにとか、

そんな事は微塵も考えていなかったんだ。

 仇討ちになったと考えられる今でも、負傷に見合う行動だったのかって…。一生物になるかもしれない怪我をしてまで、ああ

しなきゃいけなかったのかって…。自分の身が可愛い、後悔の念が強くあって…。

「ウツノミヤ、どうした?」

 先生の声が疑問形に変わる。

 気付けばボクは、両腕で自分の体を抱いて震えていた。

 怖いのか、寒いのか、判らないけれど震えて止まらない。

「ウツノミヤ…」

 歩み寄った先生が見下ろしてくる。見上げたボクの目は、涙で滲んで先生の顔もろくに見えない。

「先っ…せ…!」

 言葉が詰まった。吐きそうなほど気分が悪い。不安、後悔、哀しみ、喪失感…。それは全部、我が身可愛いさの感情。それが、

家族の仇討ちができたとか、そんな満足感よりも遥かに大きくて…。

「ボクは…!立派じゃ…なぃ…のにっ…!仇討ち…なんて…!こんな事なら、しなきゃ良かったって、思うほど…!ボクは…!

ボクはっ…!」

 ボクは、弱い。

 弱くて、汚い。

 仇討ちができた事より、被害が思ったより大きくて悔やむ気持ちが大きい。一生この目が治らなかったらどうしようって、そ

んな不安ばかりあって、満足感なんてこれっぽっちもない。シマを止めたのだって、被害者を減らそうだなんて正義感からじゃ

ない。ただ腹が立って、赦せなくて、捕まるべきだと、裁かれるべきだと、酷い目に遭うべきだと、そう感じての事で…。私怨

しか、個人的な腹立たしさしか無くて…。

 そんな自分の小人物さが…、ボクは、吐き気がするほど嫌になった。ほんの少しでも、世の中のためになったとか、満足でき

る自分だったらまだマシだった…。

「ウツノミヤ」

 トラ先生が低く抑えた声でボクの名を呼ぶ。次いで、モソッと太い腕がボクの体に回る。

「今は何も考えるな。何も、考えなくていい。哀しい事も、辛い事も、今はいい。いずれ直視しなくちゃならないのだとしても、

それは今でなくていいはずだ」

 震えるボクを軽く抱き締めて、先生は耳元で囁いた。柔らかい胸がボクの涙を受け止めて、大きな手がボクの背中を撫でた。

「うううっ!うううううううっ!何で…!何でボクが、こんな目にっ…!」

「ああ…、本当にな…」

「家族が、帰って来る訳でもないのに…、何であんな事…!あんな事、ボクはぁ…!」

「ああ…。痛かったし、怖かったし、辛いな…」

 深く、高く、よそよそしい秋空の下で、ボクは思いを吐露してすすり泣く。

 そんなボクを、先生はしっかりと抱きかかえて、ずっと背中を撫でていてくれた。

 宇都宮充。ボクは…、自分で思っていたより、ずっと弱かった…。