第三十六話 「責任と権利と義務と」

「お帰り」

「ただいま」

 帰って来たシェパードは、コンビニの袋をガサガサ鳴らしながらボクがついている座卓に歩み寄ると、「土産」とダージリン

ティーのボトルを差し出した。

 手を伸ばして、一度指先をキャップに軽くぶつけて、それから改めて掴む。

「サンキュー。…今日はどうだった?」

「居る」

 短く答えて、オシタリはボクの向かい側に腰を下ろした。

 ボクは宇都宮充。トレードマークの伊達眼鏡をかけていなくてもクレバーな見た目の狐。新調に行く余裕も無いんだが、そも

そも眼鏡が伊達物ではなくなる可能性もある。

 う~ん、目が治らなかったらガチ眼鏡デビューかぁ…。まぁ何にしても今は気軽に外出できる状況じゃなくて…。

「増えているか?」

「ああ」

 簡潔に答えるオシタリ。キャップを捻って一口アイスティーを口に含んだら、思わずため息が零れた。

「やっぱり諦めないな…」

「二日やそこらじゃ帰る気はねぇか」

 表情はちょっと見え難いが、オシタリも面倒くさそうな調子の声だ。

 退院してから丸二日。ボクがシマの詐欺被害者の遺児だという事は、退院時に張り込んでいたあの男の他の記者にも知られた

ようで、寮の周りを記者がうろついている。

 トラ先生の読み通りで、寮の食堂に食材を運ぶ運搬車に乗せられてボクが帰ったすぐ後…夕方ぐらいには不審人物が見られる

ようになっていた。

 …校長が学校と契約している警備会社に掛け合って、臨時で警備員を立たせて睨みを利かせてくれたものの、場慣れしている

んだか神経がすり減っているんだか感覚が麻痺しているんだか、記者連中はあまり意に介していない様子だ。

 目が本調子でない内は休学するから、ボクはずっと寮に籠っていて、勿論顔も見せていない。学校側から生徒達には、インタ

ビューなどに応じる必要はないので、コメントを求められても無視して良いと話があったらしい。

 オシタリやブーちゃんは取材されないそうだが…それはまぁ人相のせいか…イヌイは二回も声をかけられたとか。もっとも、

一緒に居たイワクニ寮監曰く、ゴミ箱に放り込む直前の丸めたチラシを一瞥するような目で「不審者ですか?邪魔なんですけど」

と辛らつに追い払ったそうだ。時々言いっぷりが強いよなアイツ…。…それにしても、彼にしては珍しいというか意外な態度だ

が、マスコミ嫌いなのかなイヌイ?

 寮生は少し動揺している。何もボクが逮捕された訳じゃないんだが、やっぱりデリケートな話題と感じるんだろう、詳しい話

を訊こうとする寮生は居ない。

 …一部の寮生は、ボクの行為を勇敢な物とか、武勇伝だとか、そんな風に感じているようだとウシオ副寮監が言っていたが…。

そんなんじゃない…。考え無しに、衝動で突っかかって行っただけだ。動機は私怨で、褒められるような事じゃない…。

 目の調子は相変わらずだが、部屋の中は慣れたし、寮内での生活には困らない。

 室内は…まぁ、凄い。ボクが距離感を掴み損ねるから、角という角には白いテープが目印に貼られているし、ドアには真っ白

いA4用紙が顔の高さに貼られて、ドアノブとか手をかける部分には白いリボンが巻いてある。トラ先生の指示だが、なるほど、

手を伸ばす前におおまかな位置を把握して注意できるから、ぶつかる事は無いし突き指もし難くなる。

 流石に共用スペースである廊下や階段なんかまでこうする訳には行かないから、食堂や風呂に行くときは誰かにエスコートし

て貰わなくちゃいけない。気恥ずかしいというか情けないというか、仕方ないんだが介助されないとまだ階段とかが危ないんだ

よな…。

 目の診察と治療には、入院していた病院から紹介された眼科に通っている。…その都度運搬車に紛れ込んで外に出て、トラ先

生に連れて行って貰っているんだが、不思議と面倒なはずのソレが嫌でもない。やっぱり屋内に籠っているのはストレスなのか

な?トラ先生の送迎だし、気ままに出かける訳でもないし、病院に行くだけの外出なんだが、それでも少しホッとするんだ。

 少しだけ困るのは、トラ先生の顔を見辛くなった事…。

 視力の問題じゃなく、その…、動揺のあまり泣きつくなんて真似をしてしまって…、恥ずかしいというか…。

 いや担任なんだから頼る事には問題ないとは思うんだでも成人してないとはいえ高校生にもなって他人の胸に顔をうずめてす

すり泣くとか格好悪過ぎだろうわあ思い出す度に血圧が上がって目の奥が痛くなるぅっ!やめろあまり思い出すなボク!

「欲しい菓子とか、あるか?」

 オシタリがポツリと訊いてきて、ボクは「今はとくに無いかな」と応じる。

 あまり食欲が無いんだ。体の調子が悪い訳じゃなく、空腹になれば食べなきゃって思うんだが、料理ってやっぱり視覚でも味

わっているらしい。それに、見え辛くて手も箸もぶつけるようなこの有様だと、食べていても注意を払わなきゃいけないし、味

気ないしで…。

 なお、当然だがパソコンの画面もよく見えない。モニター自体が発光体だから目を刺激するんだろうな…。

 ノゾムは報道を見てすぐ連絡を取って来たから、事情は説明した。アラシさんにも、理由としては単に目を怪我したと伝えて、

しばらくはまともにプレイできない事を伝えてくれたらしい。…タイガーTの姿を見て癒されたい所だが、少し画面を見続けて

いただけで目の奥が痛くなってくるから、一日五分程度しか会えない…。

 テレビは殆どつけない。今はあまりニュースを見たくないからな。オシタリが迷惑するかとも思ったが、考えてみれば元々テ

レビをあまり観ないヤツだった。

「ん…?」

 飲みかけのコーラのボトルを置きながら、不意にオシタリが首を巡らせた。窓の方を向いて…。

「…何の音だ?誰か叫んで…」

 言いかけたボクは、言葉の途中で察していた。いま寮の敷地内で騒ぎが起こるとすれば…。

「見て来る。窓は覗くなよ?」

「判ってる」

 オシタリは腰を上げると、部屋から出て行く。…この部屋の窓から確認しないのは、万が一にも室内を覗かれるのを避けるた

めだ。望遠レンズ付きのカメラとかだったら、何処から見られるか判らないからな。

 …とはいえ、だ。寮生の声も聞こえるぞ?怒鳴り声っていうか、驚いている声だ。まさか火事とかじゃないだろうな?

 テーブルに手をついて立ち上がる。角にテープが貼られているのを目印にドアに向かって、廊下に出ると、騒がしいのは寮全

体だと気付いた。あれ?外から聞こえたと思ったんだが…?まさか本当に何処かで出火しているんじゃないだろうな!?

 空気の匂いは特におかしくない。煙くもないし火災報知機も鳴っていない。でも、ボクと同じく騒ぎを聞きつけた寮生が廊下

に出てキョロキョロしている。部活も終わって帰寮する時刻だから、日中とは騒がしさが段違いだ。

 オシタリはどこまで見に行ったんだろう?他の寮生の部屋か、それとも共有スペースか…。階段の踊り場辺りから外を確認し

てみようか。

 廊下の窓にはひとが集まっていて覗けそうにない。「何かあった?」と階段を登って来たパグに訊いてみたら、「正門から誰

か入って来たとか聞いた」と、怪訝そうな声で教えてくれた。

「不審者?刃物を振り回しているとか?」

「入り込んだってしか聞いてないけど、どうなんだろ?盗撮目的とか?」

「男子寮に盗撮の為に侵入するかい?…いや、在り得ない訳じゃないか…」

「ニュースとかで聞くもんな、時々。ウツノミヤ本調子じゃないんだから、部屋に居た方がよくない?」

「そうだけど…」

 部屋に戻るパグと別れて、ボクは少し考えてから向きを変えた。

 不審者か…。

 オシタリの顔が思い浮かぶ。だいぶ刺々しさが無くなったとはいえ、アイツはすぐに頭に血が昇るし、義憤に駆られて無茶を

するようなヤツだから少し心配だ。今はボクの事もあるから攻撃的になってしまうかもしれない。そもそもアイツはやっと制度

が利用できて学費が楽になれたんだ、いま問題でも起きて制度の対象外になったら大変だ。様子見はもう良いから連れ戻そう。

 騒ぎの中心はどうやら正面ロビーの辺りらしい。中央階段は帰って来た寮生とか騒ぎを聞きつけた寮生でごった返している。

ぶつかったりする可能性が高いから避けた方がいい。廊下の端の細い方の階段で下ろう。

 壁に手をついて歩き、階段に入る。西日が沈みそうな時間帯だから電灯がついていて、階段の段差は影で把握し易い。手すり

を握って降り始め…。

「あ!」

 あ?

 足元を慎重に凝視しながら下っていたボクは、踊り場に差し掛かった所で、階段を駆け上がって来た誰かの存在に気付く。学

生じゃない。っていうか大人だ。…いや、足音は聞こえていたが、寮生だと思っていたから…。

 ちょっと待て!状況的にコイツが不審者だろう!?不審者がここまで入って来れるって普通にまずくないか!?警備員増えた

んだよな!?それともこの男が手練れているのか!?

「君、ウツノミヤミツル君だね!?僕は…」

 顔ははっきり見えないが、中背くらいの人間の男は、聞いた事があるスポーツ新聞の名前を口にした。

 問う声は先日の男とは違う気がする、けれど、また記者か…。

 まくしたてるように、当時の状況から今の心境まで訊かれる。

 お手柄高校生。

 詐欺師を捕まえたヒーロー。

 家族の仇を取った遺児。

 そんな単語が耳に障る。

 気持ち悪い…。耳鳴りがして、胸が苦しくて、吐き気がして、胃が重くて、顔が熱くて、全身がムズ痒い…。

「一言!どんな気持ちだったかだけでもいいから!仇討ちができた今はどんな気分!?」

 気分?そんなの、最悪に決まってるじゃないか…。

 目がチカチカする。頭の奥が痛い。眩暈がする。

 蘇る、顔を何度も強打されたあの時の記憶…。痛み、衝撃、鼻血の生臭さ…。

 ボクは、そんな立派な事なんてしていない。こうなった事を後悔しているぐらいなのに…。

「緊張しているのかい?判るよ、なかなか無い事だしね。でも君は勇敢だった!」

 やめて…。何でこんな事に…。

「インタビューなんかよりずっと緊張するような、大人も竦んでしまうような事をやり遂げたんだ!」

 やめてくれ…。もう…。やめて…。

「大手柄なんだよ!天国の御両親も鼻が高いだろう!」

 …助けて…。

「だから全国民に向けて、胸を張って一言…」

 …助けて…。誰か…。…助けて…。…誰でも良いから…。

 ………………………………先生…。

「おい。何してやがんだ?」

 低い声が階段を這い登る。

 記者が振り向いたらしい。いつの間にかその場で屈み込んで、手すりに縋って喘いでいたボクは、顔を上げて…。

「アンタ誰だ?俺のダチに何してやがる?」

 ドスがきいた声を出しているのは、小山のような巨体の熊だった。

「ああ!怪しい者じゃない!誤解しないでくれ、僕は記者で…」

「身分証明書など見せて頂けますか?できれば公的な物を。それと、取材許可と寮の立ち入り許可は取ってありますか?」

 鋭く明瞭に響いた声は、イヌイの物だった。

 見れば、アブクマの下の方で、誰かを抑えながら猫がこっちを見上げている。

「それとも、不法侵入…ですか?」

「君ねぇ…」

 記者は面倒そうに言った。

「国民には知る権利がある。そこに真実を届けるのが僕達ジャーナリストの義務だ。子供には難しいかもしれないが、これは正

当な仕事なんだ。ウツノミヤ君には説明を果たす責任が…」

「…サッちゃん、もういいよ」

「ああ!」

 男の声を遮るように、おそろしく冷たい声でイヌイが言った次の瞬間、アブクマの体が膨れ上がったように見えた。実際には

大きくなったんじゃなく、急に近付いたからそう見えたんだろう。

 驚くほどの敏捷性を見せて、三段飛ばしで接近したのは一瞬。熊はそのまま記者に掴みかかって、ボクの横を抜けて踊り場に

転がる。と、次の瞬間には寝技で抑え込んでいた。関節技なんだろうか、下に組み敷かれた記者の絞るような悲鳴が聞こえた。

「「モリノベ」君!大丈夫!?」

 イヌイが階段を駆け登って来る。その横をシェパードが追い抜いて…。

「何もされてねぇか!?どっか掴まれたりしてねぇか!?」

 オシタリがへたりこんでいたボクを助け起こした。

「も、「モリノベ」…!?違うのか!?ぐぇ!」

 疑問の声を発した記者だったが、まだ喋る余裕があると感じたらしいアブクマがキツく締め付けたようで、カエルの鳴き声み

たいな苦鳴が聞こえた。

「行くぞ「モリノベ」!熱下がってねぇんだから部屋でじっとしてろ!」

 …ああ、そうか…。イヌイの入れ知恵だな?ボクを全然違う名前で呼ぶ事で、人違いだと思わせる…。この寮にウツノミヤミ

ツルが居るって確定させないための…。まったく、きっともう顔とか容姿とか割れてるんだろうに、律儀な事だ…。

 駆け付けた警備員が、アブクマが捕縛した記者を取り抑えに掛かる中、ボクはオシタリに支えられて部屋に戻って…。

 

 騒ぎはボクが原因だった。

 警備員の目を盗んで敷地内に入ろうとする…、手段選ばなくなってきたな記者連中…。

 ボクも名前を聞いた事があるゴシップ誌の記者は、そのまますぐ警察に連れて行かれたらしいが…、そのくらいのリスクは覚

悟の上だろう。あるいは重罪にならないから無茶をするのか…。

 正直なところ、ボクにそんな道徳心が備わっていた事は自分でも意外だったが、寮仲間に迷惑をかけているこの状況が心苦し

くなった。

 普通なら実家に帰るなり、親戚を頼るなりして、騒ぎが落ち着くまで姿を消すんだろうが…、無いからなぁ、実家。

 身元引受人になっている親戚だって頼れないし…。騒ぎに巻き込まれたくないからだろう、入院中も電話で様子を確認された

だけだったしな…。スズキさんは…、あまり頻繁に会いに来れるひとじゃないし…。

 ノゾムの顔が思い浮かんだが、ダメだ。子供二人じゃ記者に嗅ぎつけられたら打つ手が無いし、マンションなんて逃げ場もな

い。何よりノゾムだって親に拒絶されて大変な身の上なんだから…。

「ウッチー、エビフライ食い辛ぇのか?」

 考え事で手が止まっていたボクに、向かいの席からブーちゃんが尋ねる。

 以前と変わらない喧騒にちょっとホッとさせられる食堂。夕食時の賑わいの端っこで、ボクとオシタリとイヌイとアブクマは

食事を摂っている。

「距離さえはかれれば大丈夫だ。…けど、何となく食が進まなくてさ、脂っこいからかな?まだ手を付けてないからアブクマに

やるよ」

「おし、じゃあ交換でアスパラやるな」

 ブーちゃんは太くて瑞々しいアスパラを交換品に選んだ。見た目に反して意外と気が付く…いや、料理が趣味だから油物が欲

しくない時にどういう物が欲しくなるか、判るのかもしれない。

「油揚げの味噌汁も手ぇつけてねぇな。代わりにヨーグルトやるから、よこせ」

 オシタリも口を挟んで、ボクの所から味噌汁のお椀を持って行く。さりげなく、水が入ったコップをボクの手元側に少し寄せ

ながら。

「でもカロリーも必要だからね…。アイスとかチョコレートなら入るんじゃない?食後のデザートにどうかな?サツキ君の備蓄

だけど…」

 ひとの物をコミコミにする気の使い方が絶妙なイヌイ。ブーちゃんが何か言いたそうに猫を見遣ったが、食い意地が張ってい

る一方で気前のいい熊は結局文句を言わなかった。

 …あんな事があったばかりなのに、三人はいつも通りの態度だった。

 …いや、オシタリには部屋に連れ帰られた後で思いっきり、長々と、しつこく文句を言われた…。部屋で大人しくしてろって

言っただろ、とか言われたものの…、そんな事言ってないからな君!?あえて反論しなかったが!

 他の寮生も特別変な目を向けたりして来ない。大なり小なり事情は小耳に挟んでいるだろうが、追及はされない。イワクニ寮

監達が平静に過ごすよう言って回ってくれたおかげかもしれないが…。

「それにしても…、いつまで続くんだ張り込みは?って言うか、敷地内に侵入して来るとか、いよいよもってエスカレートして

いるし…」

 小声でボヤく。三人も唸る。ボクだって学業があるし、いつまでも隠れたままじゃいられない。先生達がマスコミに申し入れ

たり、警察に相談したりしてくれていたんだが、大人しく話を聞いてくれない相手である事はもはや明白だ。何か打つ手があれ

ば良いんだが…。

 

 

 

 事態が動いたのは、翌日の昼過ぎだった。

「はい…。はい、荷造りして…。運搬車にですね?はい」

 もはや保護者として病院に同行するのが当たり前になってきたトラ先生からの連絡は、しかし今日は指示内容が少し違ってい

た。夕方に病院へ行くため、運搬車に隠れて寮を出るという所までは同じだが…、その後が違う。ボクはそのまましばらく寮に

帰って来ない。

 寮の敷地に侵入する輩まで出たから、このまま静観して相手が引き下がるのを待っているのも危険だと、先生方は考えたらし

い。ボクは今日から短期間、寮を出て他の場所で過ごす事になる。ホテルとかに泊まるんだろうか?まぁ、脱出のために隠れた

りしなくて済むから、病院には行き易くなるだろう。

 荷物は勉強道具一式、それからノートPC。財布やら貴重品類、そして着替え…。長くて三、四日ぐらいという話だったから、

服は最低限で良いな。

 そうだ、オシタリに書置きして行こう。冷蔵庫のカフェオレ、悪くなる前に飲んでくれって。

 

 そして、病院での診察と治療も済んだ日没後…。

「狭い部屋だが、まぁ数日間だけ我慢してくれ」

 先生の私用車である黄色い軽が乗り付けた先、アパート四階のドアを開錠する太った大虎の後ろで、ボクは首を傾げていた。

「あの…」

「うん?」

 ボクはドアを開ける先生に質問する。ここはボクのために借りられた部屋という訳じゃない。部屋の脇には表札が出ていて、

そこには「寅大」と住人の名前が…。

「先生の部屋に…、下宿…という事で…すか…?」

「うん。そうなるなぁ」

 え~?なんで~?

 どんな間抜けな顔をしているのか、先生は振り返ってボクを見るなり、眠たそうな目を笑みの形にする。

「教師の目なんて、学生からすれば監視カメラ以上に気になる物だろぉ?」

 そうですけども~。

「だからまぁ、説明しないで黙っておいた」

 正直者か~…。

「いや、絶対に嫌だとかなら、校長の家か、理事長の御屋敷に泊まって貰うが…」

 なるほど~。担任、校長、理事長と、正副予備の三案で三段構えだったんだなぁ~。

「ウツノミヤ?」

 はい~?

「黙り込むほど嫌かぁ?」

 ………ハッ!?

「いえ!ご迷惑をおかけしますが、お邪魔します!」

 余りの事で放心気味だったが、我に返って頭を下げる。…これはもう確実に落ち着ける環境じゃないんだが、校長とか理事長

の所に預けられるのは…まぁどんなお住まいなのかは気になる所だが…とにかくそっちよりトラ先生の部屋の方がまだマシだ!

 先生に先導されて玄関から短い廊下を進むと、正面ドアの向こうは畳敷きの居間。窓は河口側を向いていて、民家の屋根が並

ぶ遥か向こうで西日で輝く海が見えた。

 湯飲みやコップが並んだ茶箪笥に、中サイズの薄型テレビ、前時代的な丸い卓袱台…、置かれている物がシンプルなせいか、

実際の面積よりも広々として見える。ただし、ここの住人が空間占有率が高い巨漢のせいで対比的には狭い。

 開け放ってある引き戸の向こうはどうやら台所らしい。冷蔵庫とガスコンロが見えた。

 卓袱台の上にはノートPCが乗っていた。細部を見なくてもピンと来たが、ボクが勧めた機種だ…。

 中年男性の一人暮らしって意外とシンプルなんだな。もっと不衛生で散らかった環境かもと思ったんだが、小奇麗でさっぱり

している。壁や柱、天井の色味から、このアパートの年季が窺えるものの、不潔には感じない。

「掃除も片付けもしておいたが、部屋の臭いとかが気になったら言ってくれ。こればかりは自分じゃ判らんからなぁ…」

 言われてみれば、他人の部屋っていうか…自分の居住空間じゃない匂いがする。寮のオシタリとボクの部屋とは違うこの匂い

は、畳の匂いと、先生の体臭なのか?

「いえ、気になりません」

 気になると言ったら棘が立つのもあるが、特に不快とは感じないから、ボクはそう答えておく。最近は先生の車の中でも嗅い

でる匂いだしな。

 ん?片付けと掃除をしたって、先生は今日も出勤していたはず。実は今日決まった事じゃなく、前日から準備していたのか?

「ウツノミヤに使って貰う部屋はこっちだ」

 先生はノソノソと、居間にあるドアの一つに歩み寄った。居間より少しだけ狭いそっちは、何も置かれていなくて畳の匂いが

より強い、擦りガラスが嵌った窓がある六畳間だった。

「元々は、洗濯物を干したり、ハンガーラックを並べて服を吊るしている部屋でなぁ。コンセントも電話のジャックもあるから、

パソコンなんかも好きに使ってくれて良いぞぉ」

 「ありがとうございます」と礼を言いながら、ボクは部屋の端を見遣る。

 布団が一式畳んであって、上に枕が乗っていた。

 悪くなった目でも判る、皺が極端に少ない見るからに新品の一組…。

「え、えぇと…。何だか…、済みません…。新しい布団まで…」

「ん?ああ、理事長が手配して下さったんだぁ。オススメの布団だとおっしゃっていたなぁ」

 コスト悪すぎないか?たかが三日か四日くらい生徒を泊めるのに新品の寝具一式とか…。ある布団を貸して貰うだけでいいの

に…。独り暮らしだとは聞いた事はあったけれど、来客用の布団とかは置いてあるんじゃ?

「私の部屋には予備の布団とかも無いしなぁ」

 あ、無いのか。それじゃあ新品を用意しなきゃいけない訳だ…。

「家族とか来た時に困りませんか?」

「う~ん…。たまに兄貴が来た時は、酔い潰れるまで飲んで、そのまま居間で雑魚寝するしなぁ」

 うわぁ、中年男っていう感じがする…。

「ご両親とかは…」

「母は私が子供の頃に早死にしてなぁ。父はずっと行方知れずだが、生きてはいないだろう」

 しまった!

「済みません…」

「いや、気にしなくていいぞぉ?私も兄貴もウツノミヤほど苦労はしなかったしなぁ」

 気まずい空気になるかと思ったが、先生はサラッと流した。

 あてがわれた部屋に荷物を置いた後、先生は台所、脱衣場と風呂場、トイレを案内してくれた。冷蔵庫にはジュースや茶のボ

トルが用意されていて、好きなのを飲んで良いとの事だった。理事長の奢りだそうで…。

「お互いに飲みかけの物を間違わないように、キャップに名前を書くようにしようかぁ」

 そう言って、先生は半分ぐらい残っている麦茶のキャップに、マジックで「ヒロ」と書いた。名前一文字なんだから「大」で

も良いだろうに、愛称か何かなのか?

 ボクは、間違いようもないだろうし「ウツ」でもいいか。…いやなんか語感がだいぶアレだ。「ミツ」にしよう。

「さて、質問とかは…」

 ボクは先生に、空調や湯沸かしの操作を教えて貰って…。

「ホテルの部屋を借りるという手もあったんだがなぁ。ウツノミヤは目が本調子じゃないし、何かあった時にすぐ駆け付けられ

るようにしなくちゃいけない。何より、記者達がどのホテルに宿泊しているか判らんしなぁ」

 確かに、ホテル選びをしくじって記者が寝泊まりする所にでもなったら、虎口に飛び込む間抜けな事にもなりかねないな…。

その熟考の結果としてボクは虎のねぐらに預けられるんだが。

「そうそう。独りで外出はさせないから必要ないとは思うが、一応スペアキーを預けておこうなぁ。私が居ない間に万が一とい

う事もある。地震や大雨で避難しなくちゃいけなくなった時なんかには、戸締りできないと困るからなぁ」

 鍵をあっさり手渡して来るトラ先生。…隙を突いてスペアキーでも作られたらどうするつもりなんだ?そこまでの悪さをする

気はないが…。

「お借りします。火事とかにならない事を祈りますけれど」

「私も祈る。高い家具などは別に無いが、無くしたら困る物はいくつかあるからなぁ」

 まぁそれはそうだろう。金額と無関係に大切な物とか、思い出の品とか、そんな物の一つや二つは普通あるよな。ボクだった

ら…、タイガーTのデータが入っているパソコンか。

「さて、私は着替えて来る。その後は晩飯を出前で頼もう。理事長から、ウツノミヤが寮食を利用できなくなる分は、かかった

食費を実費保障すると言われているからなぁ。外食は…、今は止めておくのが無難だろう」

「そうですね…」

 外に食べに行って記者と出くわすなんて御免だ。

 トラ先生は寝室だと言った部屋に入って行った。…ボクが滞在する部屋から移動させた着替え類とかは、そっちに引っ越した

んだろう。…また先生に迷惑をかけているな…。

 広くないのに広く見える居間の、座布団に腰を下ろす。卓袱台からはそんなに離れてもいないのに、程よい大きさのはずのテ

レビモニターは、輪郭が滲んでよく見えない。

 何でこんな事になってるんだ…?

 ボクが何をした?ボクは犯罪者じゃないのに、こんな風に逃げ隠れしなきゃならなくて…。

 

―国民には知る権利がある。そこに真実を届けるのが僕達ジャーナリストの義務だ。子供には難しいかもしれないが、これは正

当な仕事なんだ。ウツノミヤ君には説明を果たす責任が…―

 

 昨日記者が言った事が引っかかる。

 説明責任…。ボクには、話さなきゃならない責任があるのか?言いたくない事でも?こんな目に遭って後悔しているっていう

のが本音なんだぞ?そんなの…、知って誰が得するんだよ…。

 シマを捕まえなきゃ良かったのか?あそこで気付かなかったら…、あそこで会わなかったら…、追いかけなかったら…、こん

な事には…。

 知らんぷりすれば良かったのか。怒りも我慢して、気付かなかった事に…。

 そうすれば、何事もなく…。

 …そうできなかったボクが悪いのか?だからこんな状況に…?

 

―ウツノミヤ君には説明を果たす責任が…―

 

 説明を…、果たす責任…。

 目の奥が痛い。頭が痛い。

 

―国民には知る権利がある―

 

 国民の…、知る権利…。

 気分が悪い…。嫌な汗が出て来る…。

 

―真実を届けるのが僕達ジャーナリストの義務だ―

 

 ボクが嫌でも、話さなきゃ終わらないのか…?

 そうしなきゃ、解放されないのか…?

「ううううう…!」

 耳障りな唸り声が、自分の口から漏れている事に気付くまで、しばらくかかった。

 頭が痛い。胸が苦しい。息が上手くできない。寒い訳でもないのに震えが止まらない。自分の体をかき抱いて、震えを止めよ

うとしたが、芯から来るような不随意運動は止まらない。

「ウツノミヤ」

 トラ先生の驚いたような声に続いて、のしっと、近くで畳がへこんだ感覚があった。

「具合が悪いか?」

「いえ…、大丈夫です…!」

 しかしボクの声は弱々しく、歯がカチカチ鳴っている。

 フワッと、柔らかい物が肩に触れた。それがランニングシャツ越しに触れて来た先生の胸だと、少し遅れて気付いた。

 肌着姿になって戻って来た先生は、ボクを横からギュッと抱いてくれた。あの、退院した日のように…。

「大丈夫だ…」

 耳元で囁くトラ先生の声は、いつもより力強かった。

「怖いだろう。不安だろう。ストレスを感じる状況だろう。だが、何とかする。必ず何とかする。元通りの生活に戻れる。だか

ら大丈夫だ…」

 横向きのまま抱かれたボクの耳は、先生の胸にめり込んで、その心音を深く聞いていた。

 不思議と、頭痛が遠ざかって行った。いつの間にか震えも止まって、苦しかった呼吸も落ち着いて、息を大きく吸えるように

なっていた。

「先生…」

「うん?」

 ボクは知らず知らず、先生に身を預けるように寄りかかっていた。

 トラ先生の匂いがする…。柔らかくて、どっしりしていて、頼もしい感触…。

「済みません…」

「謝るような事じゃない。お前は、何も悪い事なんかしていないんだ」

 虎先生の太い指が右目の下をそっと撫でた。涙を拭われて初めて、ボクは自分が泣いていた事に気付いた。

 先生の大きな手が頭を軽く撫でる。

 ああ…。ちょっと、安心した…。