第三十七話 「またも、居候」

 ひとは、対象に抱く印象について、多分に見た目の影響を受ける。

 昔読んだ本にそう書いてあって、最初は半信半疑だったけれど、その内になるほどなぁと納得した。

 眼鏡をかければ真面目そうに、そして賢そうにも見える…。そんなステレオタイプの印象操作が、ボクの伊達眼鏡の着用理由

だった。

 あの頃本で読んだその言葉は、真実であったように思う。けれど今になって思うのは、あの言葉は…、人はそうなりがちだか

ら、見た目の印象に囚われずに物を見る必要性を説いていたんじゃないだろうかという事…。

 アブクマは見た目に反して気持ちの良い奴だ。

 イヌイは見た目ほどヤワじゃなく、芯が強い。

 オシタリはああ見えて中身は義理堅い好漢だ。

 トラ先生は…。

 太った体がだらしない、そんな第一印象があった。

 眠そうな目が覇気に欠ける、そんな印象もあった。

 今は…、だいぶ違うかな、印象…。

 洗面所で顔を洗っていたボクは、顔を洗って一息つく。

 鏡越しに見る顔は、距離が近いせいであまり滲まず、はっきり見える。…目が充血してる…、思いっきり泣き顔じゃないか…。

 …泣き出して、抱き締められて頭を撫でられて慰められるとか…、正直なところ顔から火が出る程恥ずかしい…!

 タオルを押し付けて顔の水気を取りながら屈み込んで悶える。羞恥!羞恥羞恥羞恥!恥ずかしくて心拍上がる!…はぁ、でも

先生の抱擁、柔らかくて落ち着く心地だったな…。

 どうもボクは、平時は意識していないだけで、自分でも把握し損ねる程に一連の出来事がトラウマ化しているらしい。何かの

拍子にシマに掴みかかった時の事や、記者に質問された時の事をマザマザと思い出すと、精神の均衡が崩れるというか…取り乱

して論理的な思考ができなくなる上に、体の方もストレス反応を示してしまう。

 それなりに辛い生い立ちだったと自負していたものの、ボクは結構打たれ弱かったんだな…。

 打たれないように外面を偽って、虚勢を張って生きてきたんだから、鍛えられるどころか耐性が無いんだろう。当たり障りの

ない交友関係ばかり築いて、誰にも気を許さないように生きてきたのも、きっと、他人に弱みを見せたくなかったからだ…。

 タオルを押し付けて顔から水気を入念に取り、居間に戻ると…。

「ウツノミヤ、夕食の出前を頼んでおいたぞぉ」

 トラ先生は、さっきボクを慰めていた事などおくびにも出さず、普通の態度で接してくれた。まだ恥ずかしさが薄れ切ってい

ないから、変わらなさがありがたい…。

「ありがとうございます。済みません、色々と手配して貰って…」

「早く良くなるように栄養も取らなきゃならんし、景気よく鰻重を頼んだぞぉ」

 居候させて貰う上に気を遣わせナギィッ!?

「い、良いんですかウナンジュッ!?」

 噛んだ!痛い!だがウナギの前ではどうという事は無い!

「代金は後で理事長がもってくれるからなぁ。私の分も含めて…」

 トラ先生は細い目をさらに細めて顔を緩ませる。

「せっかくだから、ちょっと贅沢しよう」

 申し訳なさを吹っ飛ばす笑みに、ボクは一も二もなく頷いた。

 

 三年生のカバヤ先輩の家の鰻重だな…。

 玄関で出前の応対をしたトラ先生が、重ねて持って来た立派な器を卓袱台に置く。香ばしいウナギとタレの匂いが、まだ蓋を

されているにも関わらずホカホカと漏れ出ていた。クーラーで循環する空気に乗って、香りは部屋中に行き渡る…。

 割り箸の袋には密かな憧れ…周囲の評判とシンジョウの食レポを聞いていつか店まで食べに行くことを夢に見ていた老舗鰻屋

の名、それが毛筆書体で印字されている。字面がとてもウナギっぽくてグーだテンション上がる!

「並と上と特上があってなぁ、特上は白焼きと肝の御吸物なんかもついてるフルコースなんだが、出前していないんだ。今回は

上で頼んだ」

「つまり出前可能な中では最上級の上物が上、この鰻重の上は無い、すなわち現環境で一番上という事ですよね!」

「?…うん、そうだなぁ」

 当たり前のことを勢い込んで確認するボクに、先生はやや疑問顔。…いけない、強敵(ウナギ)と出会った時こそ興奮を抑え、

クールに、クレバーに、だぞボク…。

 鰻重についてきたインスタントの御吸物をお椀に入れて、湯を注いで支度する…、この時間すらも来たるウナギとの出会いを

引き立たせるスパイス…!

 卓袱台を挟んで先生と向き合って座り、重箱と正対し、姿勢を正す。

 果たして、蓋を開けて解放されたその香りは…、気体であるにも関わらず甘露。

 タレでつやつやと表面に照り返しが見られるウナギの身は、旨味が沁み込んだ艶やかな茶色…。敷き詰められた米が殆ど見え

ない、大ぶりなウナギが三枚も乗ったそれは、まさに上の名を冠するにふさわしい美しさとボリューム…!

「じゃあ、まだ温かい内に…。いただきます」

「いただきます!」

 冷えた特盛鰻重をレンチンで食した時ですら美味なあまりがっついてしまったが、今回は濃厚さも香りも段違い!ふたりで手

を合わせ、長い旅をしてきたウナギと、習得に年月を要する職人の捌きと焼きの技術、そして伝来のタレを培った店の歴史に感

謝を…。

 ではさっそく!

 無粋に崩さないよう、箸先でそっと身を摘まむ。それだけでホクホクの身は綺麗に切り出された。柔らかさ、火の通り、共に

完璧だ。脂の乗りとタレのマッチングを目視で詳細に確認できないのは残念だが、この感触は期待できる…。

 一期一会の一口一切れを、そっと口の中に収める。たちまち口内に充満する、焼き目の焦げとタレ、そしてウナギ特有の身の

香り…。完全なる調和、正に奇跡のシンフォニー。

 甘く、脂っこく、豊潤。玄妙な味わいは正に…。

 …いや待て。

 美味なあまり唾液が舌から噴き出て来る中、ボクは気付いた。

 身のフワフワ具合、タレの量の絶妙な乗り、皮に絶妙な歯応えが残る弾力、そしてこの食感と味わいは…。

 出前で…これか!?

 この鰻重は調理直後じゃない、火を通した直後じゃない、配達中にいくらか熱が逃げて油の粘度も上がり、皮の弾力も悪くな

り、香りも抜けたはず…。それでも、これか!?

 言うなればこれは峰打ち。殺傷力が落ちた、直撃ではない、威力が減衰した状態にある。それなのに、これか!?

 慌てて、先に身を取った脇の隙間から、タレがかかった米を箸先で掬うように取り、口に運ぶ。

 完璧すぎる…。米の具合にも隙が無い…!豊潤な老舗のタレ、ウナギの身、米の炊き上がり、全てが…。

 もし、店舗だったら…?

 ボクはゾワリと総毛立つ。

 これを、店舗で、出来立てで、味わったら…?

 そして、上のさらに上に位置する超越者…特上だったなら…、一体、どんな風になるんだ…!?

 冷房が利いた中で食べるホクホクのウナギ…。押し寄せる、めくるめく旨味の多重波状攻撃。幸せを甘受し過ぎた舌は普段よ

り湿って、咀嚼し易くなっている。

 向かい側を見ると、ムグムグとひたむきに食べているトラ先生は、暑いのか時々手拭で額を軽く拭ったり、顎下を押さえたり

している。

 …ランニングシャツにトランクスとか、まるで家で寛ぐオッサンスタイルだ。ワイシャツ姿ばかり見慣れているから意外だっ

たが、休みの日に外で会った時なんかは薄着だし、体が楽な恰好が好きなのかもしれない。この体格だし、暑がりなようだし、

汗もかくだろうし…。

「ウツノミヤ、ちゃんと噛んで食べてるかぁ?」

 掻き込むようにタレの味が染みた米を口に運ぶボクに、トラ先生が怪訝そうな顔を見せる。

「ウナギ、そんなに好きなのかぁ。今日の出前は正解だったなぁ」

 ちょっと満足げな先生の笑み。そう言う先生の方が先に食べ終わりそうだ。

「ご飯、足りるかぁ?」

「はい、ボクは充分です」

 食べきったら満腹の量だ。けれど先生はやっぱり足りないんだろう、米粒一つ残さず綺麗にした重箱の蓋を閉めると、のっそ

りと立ち上がる。

「私は少しお代わりを…」

 ですよね。…ボクは満足な量の鰻重だが、先生はこの図体でこんな腹、必要量も容量もボクとは段違いなのはハンニバルで食

事を奢って貰った時に確認済みだ。

 先生は台所に行くと、冷蔵庫を開けてガサガサと袋の音を立て、何かをレンジにかけた。

 ボクが食べ終わる前に食卓に出て来たのは…冷凍チャーハン。チンで手軽においしく食べられるアレ。

「育ち盛りの運動部みたいな食欲ですよね」

「ん~…、もう育つのは腹回りくらいの物だがなぁ」

 先生は軽くおどけて、ランニングシャツ越しに太鼓腹をポンポンと軽く叩いた。豊かな贅肉が揺れて…いるはずだが右目の怪

我ではっきり見えない!ノゾムよりボリュームがある腹部の揺れ、どんななのか興味あるな…。

「少しぐらい食が細くなっても良いんだが…」

「若い証拠ですよ」

「胃だけ若くてもなぁ。ははは」

 笑う先生はレンゲでチャーハンを掻き込む。…確か前に、料理は得意じゃないというような話をしていたが…、普段は冷凍食

品が主食なんだろうか?

 ボクが名残惜しみながら鰻重を完食する頃、チャーハンをペロッと平らげた先生は「明日の朝飯だが」と、話を切り出した。

 食べたばかりで気が早いと思うが、寮と違って誰かが食事を作ってくれる訳じゃないからな…。

「私は料理がほぼできないから、弁当か何か、コンビニで買って来よう。ウツノミヤは、朝食は米派か?パン派か?」

「どっちもいけます」

「寮では毎朝どんな感じなんだ?」

「寮食は…、朝は米になる事の方が多い気がします。週の半分以上は、焼き魚とか玉子焼きで和食セットになるかも?皆はやっ

ぱり白米の方が良いのかな。ボクは手間がかからないからトーストとかでも良いんですが…」

 ふと思い出した。家族で一緒に朝食を摂っていた頃は、トーストに、ベーコンエッグや野菜炒め、スクランブルエッグなんか

の朝が多かった。ボクはトーストにブルーベリージャムをたっぷり塗って…。

「パンかぁ…」

 先生が少し考えている様子で唸った。それから…。

「パンで朝食は…、そこはかとなく若い感じがするなぁ…」

 …あれ?もしかして先生、若さをちょっと気にしている?

「よし」

 よし?

「トースターを買って来よう」

 …はい?買って来る?今?

「ウツノミヤ」

「はい」

「風呂は沸いてるから入っててくれ。玄関は鍵をかけて出かけるから、もし誰か来ても出なくていい」

「え?」

 先生は立ち上がると、食器類と重箱を台所へ運ぶ。後で洗うからと言われて、ボクも運ぶだけになって…。

「ボディシャンプーとかは好きに使っていいからなぁ。じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい…」

 玄関口で見送るボクに、袖無しティーシャツにジャージのズボン姿になった先生は目を細めて頷いた。

「誰かに見送られるのは久しぶりだなぁ」

 あ~。独り暮らし長いとそうだろうな。

 ドアが閉まり、カチャンと鍵の音がして、ボクはしばらくその場に立ち尽くした。

 …独りになって、やっと実感できてきた。先生の部屋に厄介になって、一つ屋根の下…。親類のノゾムはともかく、ルームメ

イトのオシタリはともかく、赤の他人と一緒の生活って…。

 トラ先生の格好を思い出す。体型はまさにリアルタイガーT…、しかもやたら薄着で、太くてムッチリした太腿が露出し、豊

満な胸や腹が薄いランニングシャツ越しに強調されて見える…。いや実はあまりよく見えていないんだが…。

 少し前までは何でもなかった…むしろだらしなくしか見えていなかったトラ先生の体つきが、今は…。

 普通に見えていたら眼福だったろう。いや、ドキドキしてしまうから、はっきり見えなくて良かったのかな…。

 おっと入浴を済ませなくちゃ。先に頂くのも気が引けるけれど、先生も汗をかいていて風呂に入りたいだろうし、後がつかえ

ないように早く入ろう。

 

 入浴を終えて、被毛を仕上げにタオルドライする。

 ちょっと気になったんだが、ユニットバス狭くないか?いや、サイズ自体は普通で、ボクは不自由しない。寮の広い浴槽に感

覚が慣れていても窮屈には感じない。

 狭いというのは、トラ先生にとってだ。

 あの体だぞ?あのユニットバスに浸かったらミチミチじゃないか?

 寝間着を兼ねる半袖短パンに着替えていると、玄関側でガチャガチャッと音が聞こえた。先生?早くないか?

 手早く着替えを終えて迎えに出ると、上り口には箱を左脇に抱えて、右手にビニール袋を吊るした大虎の姿。

「お帰りなさい」

 下を向いて靴を脱いでいた先生は、ボクの顔を見てキョトンとすると…。

「あ…、ああ。ただいま」

 少し驚いたように間をあけて、それから太い尾を揺らして笑みを見せた。

 そうか。見送られるのもだけれど、誰かに出迎えられるのも珍しいんだな、独り暮らしだと。

「随分早かったですね?」

「ん。焼けたら、ポコーンッ、と飛び出すような素人でも使えて判り易いトースター…と言ったら、店の人はすぐに探して持っ

てきてくれてなぁ」

 なんか表現かわいいな…。かわいい…。

 先生は居間の卓袱台にトースターの箱を置いて開封すると…、

「早速テストしてみよう」

 コンビニ袋から既にカットされている食パンが詰まったパックを取り出した。鰻重とチャーハン食ったばかりなのにか!?

「ウツノミヤも食うか?」

「いえ、ボクは…、今はいいです…」

 当然遠慮する。

 それはそうと、袋の中にはパン以外の物も入っている。パンをコンビニで調達するついでに買ったんだろうマーガリンやジャ

ム類も一緒だった。他にも冷凍されている何かが…。

 …あ、このパンの袋見覚えがあるぞ。ちょっと高いトーストだなこれ。ブーちゃんとパンダ娘がピザトースト作る時に使うヤ

ツだ。奮発してくれたんだな…。

 トラ先生は説明書を見ながらコンセントを繋ぐと、早速スイッチを入れた。

「なになに…?だいたい三分で焼ける、と…」

 トーストを一切れ挿入して見守る。

 …沈黙。チチチチ…と加熱されたトースターから音が聞こえる。パンが焼ける良い匂いが漂って来るが、先生はじっとそれを

見つめて黙り込んでいるし、ボクも話題を思いつかないので、ちょっと気詰まり…。

 コシュンッ…、とパンが飛び上がったのは、適当に何か話を振ろうかと口を開きかけたタイミングでの事だった。

「おお、本当に三分程度で焼けるんだなぁ…」

 感心しながらパンを指で摘まんだ先生は、「あち、あち」と呟きながら皿に移す。

「良い匂いですね」

「半分食うか?」

「いえ、良いです…」

 良い匂いとは感じても食欲は湧かない。あのウナギの後だしな…。

 先生は焼き立てトーストにマーガリンだけ塗って、パクンと食いつく。豪快…っていうか雑?マーガリンだけでトーストいく

のか。

「うん。外はサクサク、中は柔らかい。店員さんのオススメだけの事はあるなぁ。パンもたまには良い物だ」

 ウンウン頷いたトラ先生だったが…。

「う…」

 突然小さく声を漏らして、右手で脇腹を押さえた。

「脇腹攣りましたか!?」

 この先生は脚とかだけじゃなく脇腹とかも攣る。心配になったボクは、次いで先生に抱き締められた時の柔らかさを思い出し

た。揉んであげるのもやぶさかじゃない。今はもう太った体に触りたくないとか全然思わないし、むしろ贅肉については手触り

が良いと感じるくらいだから。…特に先生の体…、虎種はみんなそうなのかもしれないが、被毛が程よい厚みできめ細かいから

なのか、皮下脂肪と体毛の合わさった手触りは本当に柔らかくて心地良い。

 ………。いや落ち着け!脇腹を攣った経験がないからよく判らないが先生はいま辛いだろ!

「いや…、ちょっと食いすぎたかな?ははは、大丈夫だ」

 トラ先生は笑って、右脇腹をサスサスと撫でた。…今ちょっと残念だとか思った自分が居た…。

 おっといけない!あまり考えるなよボク。先生はあんな格好だし、ボクはホモなんだ。ノゾム以外とそうした事に及んだ経験

が無いと言っても、変にムラムラ来たら困る…!そうでなくたって、胸に抱いてくれた時の先生の体のポニポニムチムチ具合と

か今も強く印象に残っていて、触ってみたいとちょくちょく感じているんだから!

「さて、これで明日の朝は心配ないなぁ。昼飯は…」

「あ、一食ぐらい抜いても大丈夫で…」

「だぁめだっ!」

 遠慮しようとしたボクに、先生はズイッと上体を突き出すようにして顔を近付けた。

「外に出る出ないに関わらず、育ち盛りの時期には食事を抜いたら駄目だ。ちゃんと三食しっかり摂らないと駄目だ。俺の迷惑

になるとか考えたんだろうが遠慮なんかしたら駄目だ」

 いつも眠そうな目が少しばかり大きく開いて、じっとボクの目を覗き込んで来る。

 先生…、食の事になるとマジになるタイプですか…?

 忠告を突っぱねる理由もないので、「はい…」と素直に頷いた。

「料理はできませんから、冷凍食品とかなら…。このトースターならトーストも失敗しないで焼けそうですし」

 先生は目を細く戻して頷いた。

「冷凍のエビドリアも買ってきた。冷凍庫にはチャーハンやペペロンチーノも入っているから、好きな物を食べなさい。冷蔵庫

に飲み物は入っているが、コーヒーが良ければそれなりの物が揃っている。豆もコーヒーミルもあるから、本格的に楽しみたい

なら言ってくれ」

 そう言えばトラ先生は、準備室のフラスコでコーヒーを淹れるくらいだったな…。ミルで挽いて飲むくらい好きなのも頷ける。

「食事のバランスは…、夕食の出前で取り返そう。野菜類は長葱と胡瓜と白菜くらいしか置いていないからなぁ」

「何で胡瓜とか白菜とかだけ…」

「漬物用。ビールのツマミになぁ」

「何だ、料理できるんじゃないですか先生!」

 ボクが少し感心すると、

「え?」

 トラ先生は妙な顔…。

「え?違います?」

「料理じゃないんじゃないかぁ?本格的な物ならいざ知らず、私の場合は漬物のモトに漬けておくだけだしなぁ…」

「そうですかね…?でも切ったりするんじゃ?」

「切るが…、う~ん…」

 二人して悩む漬物のカテゴライズ…。一体、食材に手を加えるどのくらいからが料理って呼べるんだ?今度ブーちゃんに訊い

てみよう…。

 それからボクは先生としばらく話をした。これからの事…と言っても深刻で重大な話じゃなく、主に食事をどうするか、外出

をしないボクが日中独りでどう過ごすかの話だ。

 ゆくゆくは、単位確保のために休日を利用して補習を受けなきゃいけないが、そもそも授業内容に置いて行かれたままじゃ落

ち着かない。ボクの自習用に、先生がイヌイ達からノートの写しを貰って来てくれる事になった。…まぁイヌイは真面目にノー

ト取っているだろうし、それだけでも理解に役立つ。

 判らない所なんかがあったらトラ先生が説明してくれるそうだ。プチ課外授業だな。

「夕方はなるべく早く戻って来る。遅くても腹が減る前には着くように帰って来るが、もしもの時は冷蔵庫の中の物を好きに見

繕ってくれ。やむを得ず遅くなる時は連絡する。あと、電話がかかって来ても出なくていい。ファックスが届いてもそのままに

しておいてくれ。だいたいセールスFAXだが…」

「判りました」

 と頷きつつ、ボクは居間の入り口近くにある電話兼FAXを見遣る。

 白い電話FAXは良く見る形だが、それを置いてある台はちょっとおしゃれだ。どっしりした木製の電話台は表面が滑らかで

ツヤツヤ、先生の腰ぐらいの高さがある。天面のすぐ下はぽっかり空いて四隅が柱、その空間に電話帳や…出前用のメニュー表

だろうか?ラミネートパックされた下敷きみたいな物がいくつも重ねられている。そのすぐ下は取っ手がついた二段の引き出し

になっているが、そこにさっき先生が新聞と二色刷りチラシを入れていたから、古新聞入れになっているんだろう。

 …居間の中で、これだけ何だか妙にハイセンスな家具だな…。他の家具類とも趣きが違うし、ひょっとして貰い物とかなんだ

ろうか?

「必要な物ができたら私に連絡を。買って帰るようにする。自分で買い物に出られないのは不自由だろうが、少しの辛抱だ」

「はい。我慢します」

 正直なところ、外で記者連中とかと出くわすのはゴメンだ。それを考えれば我慢ぐらいなんて事はない。…だいたい、ここか

ら出た所を押さえられでもしたら、先生の部屋にも居られなくなるし…。

「さて、私はそろそろ風呂に入って来る」

 雑談や冗談混じりで、真面目な事を話しながらも気が重くならない、そこそこな長話に区切りがつくと、先生はシャツの襟元

を摘まんで浮かせながらそう言った。「今日も暑かったなぁ…」と…。

 ボクにとってはこの部屋は、エアコンがしっかり仕事をしていて快適な気温に保たれていると感じられるんだが…、先生とボ

クは体感温度にだいぶ差があるらしい。逆に寒さはあの脂肪の鎧でへっちゃらなんだろうなぁ…。

「ウツノミヤも、慣れない環境で神経が休まり難いだろう。今夜は早めに休みなさい。眠れなかったら何か暇潰しをしていても

構わない。私は部屋を覗かないから」

 暗に、読書なりゲームなり、部屋で何をしていても構わないと先生は言っている。…目の状態が状態だからできる事は少ない

が、音楽なんかは楽しめるからな。

「ありがとうございます。眠れないようなら横になって音楽でも聴いておきます」

「うん、それでいい」

 先生はそう言うと、どっこいしょ、とオッサンくさい声を漏らしながら腰を上げた。

 …最近はこういった動作がいちいち気になる。不快という意味じゃなく、興味で…。何と言うべきか、かわいい…とか?子犬

子猫や赤ん坊、女子に対するかわいいとは別物なんだが、う~ん…、合ってるのかな、かわいいって表現で…。

「ボクはお借りした部屋に居ます。ごゆっくり」

「うん。そのまま寝て構わないから、今の内に言っておこう」

 ん?まだ何か話す事があったか?

 先生は目を糸のように細くして…、

「おやすみ」

 …あ!

「おやすみなさい、先生」

 何だか変な気分だ。オシタリとは、ながら作業の間でも反射で交わしている挨拶を、先生とするのは…。

 風呂場に向かう先生の、肉付きが良くて丸まっている広い背中を、ボクはその場で見送る。

 …先生の裸、どんな感じなのかな…。

「ウツノミヤ」

 先生が急に首を巡らせて、ボクはドキリとした。視線に勘付いたいやボクの内心に気付いたのか目線が嫌らしかったのか何て

事だボクはそこまであからさまな目をしているのか!?

「…どうした?ビックリした顔をして?」

「い、いえ!」

 気配を察した訳じゃない…のか?先生はドキドキしているボクの内心に気付いていない様子で口を開いた。

「先の一件、君に誰かを助けたつもりがなくとも、助かった人は居る。そんな人はなぁ、君の力になってやりたいと、思ってく

れる物なんだ」

 ………?

 瞬きしたボクに、先生は笑いかける。

「大丈夫だからなぁ」

「…はぁ…」

 曖昧に頷くボクを残して、先生は入浴に向かった。

 元気付けようとしてくれているんだろう。…気持ちの整理はつかなくても、落ち込んでいる所は見せないようにしなくちゃい

けないな…。

 そう、大丈夫だ。

 ボクは宇都宮充。虚勢の張り方と演技力には自信がある。自分の本心すら騙しおおせられれば、自信満々のクレバーな自分が

戻って来るさ!

 かくしてボクは、夏休みに続いてまたも居候する事になった。今度はトラ先生の部屋に