第三十八話 「身に覚えのない恩」

「行ってらっしゃい、先生」

「うん。行ってきます」

 目を細めた大虎を玄関で見送り、施錠をしたボクは居間に戻る。

 …行ってらっしゃいに、行ってきますか…。何だかちょっと新鮮だな…。

 コーヒーとトーストの香りが残る居間で、ボクは座布団に座る。余韻みたいなものがまだ部屋にこもっていた。

 寮の食堂でガヤガヤ食事するのが普通になったせいか、先生とふたりで朝食というのは新鮮だった。

 目覚ましが鳴った頃には先生はもう起きていて、お湯を沸かしてコーヒーの支度をしていた。まだ三割寝ている脳みそをコー

ヒーの香りがじんわり起こしてくれた。

 おはよう。そんな先生の挨拶。担任の家に寝泊まりするという非日常。ちょっと焦げ目が多いベーコンエッグに、チチチチ…

と音を立てるトースター、イチゴジャムで食べるトースト…。新鮮で、何処か懐かしい。

 先生が座っていた座布団を見遣る。

 あの大きな尻が乗って、体重をかけられ続けたからだろう、ペッタンコだ。…ボク用の座布団はフカフカで…きっと良いのを

出してくれたんだろう。

 昨夜は眠りが浅くて何度も目を覚ました。不慣れな環境だから…という理由だけでなく、妙にドキドキして落ち着かなくて…。

 ストレスとは違う。落ち着かないのは確かだが、不快だったり不安だったりしてという訳じゃない。

 何だろう?先生が頼もしく見えるようになったから?恩義を感じるようになったから?妙に意識してしまう。目のせいで表情

の細かい所まで確認できないのもあって、なおさら挙動や内心が気になる。

 …勉強しよう。

 気を取りなおしてボクは教科書類を取って来て広げた。勉強は遅れる一方、少しでもリハビリしなきゃ。目のリハビリにもな

るから、酷使しない程度に眼球を運動させるようにとも言われた事だし…。

 ブレて見える文字に目が疲れるが左目だけに頼った見方はしない。ちゃんと右目も使って物を見る。はっきり言われた訳じゃ

ないが、後遺症が残る可能性はどうも五分五分らしい。もし後遺症と付き合って行かなきゃいけないなら、なおさら右目を甘や

かしておくわけには行かない。矯正用の眼鏡と併せて、一生働いて貰わなきゃなんだから。

 もっとも、眼鏡が必要になってもあまり困らない。元々伊達眼鏡を愛用してきたから、取り扱いや異物感に悩まされる事もな

いだろう。先生だって眼鏡だ。悪くない。

 効率が悪いというか、文字を識別するのに労力を使うせいで、時間はあっという間に経ってゆく。学校ではもう三時限目が始

まる頃か…。オシタリ、ちゃんと授業についていけているかな?アイツは成績落ちたら大変だから心配だ。

 そろそろ少し休憩しよう。近くの物ばかり見ていてもリハビリ効果は半分だ。ピント合わせ機能が問題なんだから。

 飲み物はあると聞いていたから、冷蔵庫を覗いていると…。ビール缶が6、7…、9本詰め込まれている。CMで見るヤツだ。

トラ先生はビールが好きなのかな?こっちの密封型ガラス瓶は、先生が言っていた自家製水出しコーヒーだろう。…めんつゆと

かでなければ…。

 こっちのタッパーは…白菜の漬物だ。こっちの黄色いのはお馴染みの大根の漬物か。

 料理しないと言っていたけれど、ご飯にかけるのか生卵はストックされている。酒のツマミか小腹が空いた時のためか、ベー

コンとハム、茹でるとパリッと音がするあのメジャーなウインナー…。

 …大人の独り暮らしってこういう感じか?ボクのために用意したと思われるジュース類を除くと、ビールしか飲み物がない。

茶や牛乳は飲まないのか?あとは全部コーヒー?マヨネーズとかケチャップとか調味料の類も全然無い。ブーちゃんの所の冷蔵

庫は品揃えが充実しているんだが…。

 とりあえずアイスレモンティーを頂く事にして、冷凍庫も確認。…こっちはミッシリと物が詰め込まれている。少し空いてい

る隙間は昨夜先生がチャーハンを食べた分か…。

 …いや、ボクが心配しても大きなお世話なんだが、トラ先生は大食いなのに食事には無頓着なのか?アブクマは食べるのも作

るのも好きなせいか結構グルメなんだが…。美味しい物は外食に求めるから、普段は冷凍食品やインスタントで良いって事なの

かも?

 しかし…、う~ん…。栄養とか大丈夫なのか?先生が変なところを攣ったりするのって、運動不足だけじゃなく、栄養バラン

スが偏っているのも一因だったりして…。あの体型自体を悪く言うつもりは無いが、健康的とは言えないしな…。

 食生活はともかく、部屋は綺麗だ。ボクを受け入れるために綺麗にしたというのもあるだろうが、それを差し引いても。

 整頓が最初からできてなきゃ、綺麗な部屋の完成形なんて思い浮かばない物だ。その点、先生の部屋は物の配置とか本人が使

い易いようにされている。平時から散らかしていない証拠だろう。

 そうだ。綺麗になっている部屋だからこそ、綺麗に使わなくちゃだ。気分転換と休憩がてら、部屋の掃除機がけでもしておこ

う。確か脱衣所の近くに置いてあったな。

 まずは脱衣場へ。掃除機を発見し、後で風呂掃除もしておく事にして心に留め置く。居候しているんだ、せめてこのぐらいは

働いておこう。

 まずは居間、それから台所、目立つゴミは無い…というかボクの目では確認できないが、よく見えないからこそやっておくべ

きだ。

 掃除機はコンパクトながら吸引力抜群で、ゴミセンサーつき。ランプの点灯を頼りにすればいいから有り難い。

 スイスイ掃除を進めて、ボクが借りている部屋も掃除して、戻って来てある部屋の前に立つ。

 先生の寝室…。

 いや、この部屋は良いだろう。というか声もかけずに掃除するべきじゃない。ここはプライベート空間だ。ボクだったら覗か

れるのは嫌だ。居候させて貰っている身分で勝手な事なんか…。

 …ちょっと待て。何か聞こえる?振動音…みたいな?掃除機が内部処理的な事をしている…訳じゃないな、沈黙している。…

部屋の中か?

 う~ん…。少し迷ったが、何か異常があるなら確認して先生に報告しないと…。

 …トラ先生済みません!

「失礼します…」

 小声で呟きながら戸を開けた途端、ヒヤッとした空気がボクに吹き付けた。

 その瞬間に判った。音の正体が。

 先生、エアコンつけっ放しで出て行ったんだな…。

 ボクを住まわせるために部屋を空けた作業の名残で、先生の寝室はハンガーラックやカラーボックスが入り口付近に積まれて

いる。奥に布団が見えて、上に何か置かれている棚とかが見えた。

 壁のスイッチは…と探していたら、ちょうど目に付く高さ…棚の上にリモコンがあった。傍にはいくつもワイシャツが吊るさ

れたハンガーラックが置いてある。たぶん着替える途中で置いて、そのまま出かけてしまったんだろう。

 22℃設定か…。寝冷えしないのかこの温度で?いや、トラ先生は暑がりみたいだし、こういう温度でないと寝汗とか凄い事

になってしまうのかもしれない。

 冷房を停めて、なるべく部屋の中を見ないようにして引き返すと…。

「あ」

 思わず声が出た。

 入って来る時は服が干された台やカラーボックスの影になっていて気付かなかったが、黒くてツヤツヤした物がそこに鎮座し

ていた。

 仏壇…。この位置にあるって事は、ボクを受け入れるために片付けたんだろう。ご両親…いや、父親は行方不明と言っていた

から、お母さんの仏壇かな…。

 目にしておきながら何もしないでそのまま引き返すのも何だったから、軽く目を瞑って手を合わせておく。

 黒い位牌の金文字は滲んでブレてよく見えないが、桜…かな?一文字が印象に残った。しかし文字数多い法名だな…。立派な

ひとだったのかもしれない。

 と、ここはプライベート空間で、仏壇だって先生が引っ込めた物だ、詮索は無し!

 居間に戻ったボクは、喉を潤してから風呂掃除に移った。

 やけに水位が低い風呂を見て思った。

 先生の体積…。入浴時の節水に繋がるな…。ボクが居ないならいちいち十分な水位まで湯を張るのは無駄だろう…。

 

 昼休みの時間を見計らって、ボクはアブクマにメールした。

 要件は簡単。厄介になっているんだから食事の一品も用意して、先生の機嫌を取ろうという魂胆だ。…うん、浅はかだったと

気付いたのは数分後だった…。

『買い物とか行けんのか?????』

 そんなブーちゃんの短い返信で気付かされた。買い物にも行けないし、食材もあんまり無いという事に…。しかしクエスチョ

ンマーク多いな、凄い勢いでつっこまれた気分だ…。

 ある食材を申告して、初心者のボクでも作れそうな料理を考えて貰うか…。

『ウッチー…』

 うん判ってる。今判った。

 ここにある食材とかをメールするやり取りが面倒くさくなった頃、直接通話に切り替えたアブクマの呆れているような第一声

で、自分の甘さに気付いた。

 限られた食材で料理する事ほど、初心者の手に負えない事は無い…。そういうのは料理の基礎ができていて、かつ熟練してい

て、知識も無ければ…。

『作ってやりてぇって気持ちは判ったし、そりゃ良い事だ。寮帰ってからできそうなモン考えるからよ、夜まで待ってろ』

「うん。済まない。なんか色々済まない」

 通話を終えたボクは、今になって外出できない不自由さに気付いた。自分一人が引き籠っている分には耐えられるんだが、何

かしようとすると色々制限がある…。

 皮肉な事に、お礼やお返しもままならないという事で気付かされてしまった…。

「ん?」

 ボクは仕舞いかけた携帯の電子音で、手を止めて顔の前に戻す。メール受信…、トラ先生だ。

『今夜は寿司になった。腹を空かせておきなさい。あと客が来るから、夕食は三人になる』

 寿司ぃ~…!?いや嫌いじゃないが、好きだが、ありがたいが、先生奮発し過ぎじゃないか!?良いのかなこんな豪勢な夕食

が続いて…。

 それにしても…客?誰なんだろう?ウナバラ校長?…いや校長だったらそうメールに書くよな?ボクの知らない客だろうか?

 

「おかえりなさい」

「ん。ただいま」

 午後六時半。鍵の音を聞いて玄関口に出たボクに帰宅したトラ先生が応じる。気のせいでなければだが、先生の態度はちょっ

と嬉しそうに感じられる。

「お風呂は洗ってあります。お湯を張るだけで入れますけど…」

「ああ、そんな事までしてくれたのかぁ?気を使わなくて良いんだぞぉ?」

「御厄介になっているんですから、少しは家事みたいな事とか…」

「そうかぁ、有り難うなぁ」

 靴を脱ぐトラ先生は耳を伏せて笑っていた。細かい所が見えなくても、こういった動作から表情ほどじゃないが感情は読み取

れる。…人間相手だと耳とか動かないしマズルの開き具合が確認できないからこうは行かないが。

 冷房がきいた居間に入るなり、先生は両腕を左右上方に伸ばして「あ~…」と漏らした。胸を反らしてYの字伸びをした先生

のお腹は、普段にも増して大きく見えて…いけないいけない!

「先にお風呂にしますか?」

 ワイシャツの汗染みが目立つトラ先生は、ボクの提案で少し考えたが、「そうしたいが、すぐ客が来るしなぁ」と耳を伏せた。

「え?もう来ちゃうんですか?」

「うん。約束の時間は七時でなぁ。シャワーを浴びる時間も怪しい」

 なるほど。じゃあせめて…。

「はい、タオルです。顔を拭けば少しはすっきりするかもしれません」

 絞って丸めて冷蔵庫で冷やしておいたタオルを取って来ると、先生はいつも細い目を真ん丸にした。

「いや有り難い!」

 受け取るなりゴシゴシ顔を拭い始める先生。ブーちゃんの習慣…、オッサン臭いと思っていたが、ここまで喜ばれるか…!

 先生は顎下や喉の方までグイグイ拭う。猫まっしぐら…いや虎まっしぐら?そんなに気持ち良いのか?一所懸命に拭っている

のがユーモラスでちょっと可愛い。

「アイスコーヒーも少し飲みますか?」

「うん、とりあえず着替えてから…」

 ボクが手を差し出すと先生はキョトンとして、タオルを預かったらはにかんだ顔で微苦笑した。可愛い。

 それから先生は着替えの為に寝室に入った。…部屋に入った事は言いそびれた。報告したら気にするかもしれないし、何をし

た訳でもない。このまま黙っておこうかな…。

「あれ?着替えないんですか?」

 出て来た先生はまだワイシャツ姿だった。疑問に感じたボクだったが…。

「着替えたぞぉ」

 …どうやら違うワイシャツとズボンに着替えて来たらしい。言われてみればズボンの色がちょっと違う…か…?

 そうこうして一息入れ、律儀にまとめられたブーちゃんから…正確には打つのが面倒になった本人の代筆をしたイヌイのアド

レスから料理のアドバイスのメールを受け、しばらく経った頃…。

「お、来たかな?」

 空腹なのか、腹をさすっていたトラ先生が、チャイムに反応して腰を上げる。先生が言っていた客が来たらしい。

「やあどうも」

「夜分に失礼します。あ、これお土産…」

 迎える先生と客の声。聞いた事がない声だ、知らないひとだな…。

 程無く戻って来た先生の後に、のっそりと続いて入って来たのは…。

「どうも、おじゃましますよ」

 巨漢が軽く頭を下げる。先生が部屋に通したのは、左右の手にそれぞれ三段重ねた寿司桶をぶら下げた、やたらデカい熊だっ

た。先生も大男だが、客の熊はさらに大柄だ。

 半袖ティーシャツの上にポケットがたくさんついたベストを羽織り、ゆったりしたカーキ色のカーゴパンツを穿いている。

 …ん?いや、熊じゃない?

 顔の模様が独特…。それに太い尻尾…。

 良く見ると、客は狸の大男だった。熊種みたいな巨体の。

「こちらコダマさん。星稜のOBで、フリージャーナリストだ」

 ジャーナリスト!?

 反射的に身が強張ったボクに、「あ。取材に来たんじゃないよ」と狸はパタパタ手を振って苦笑い。

 いや、まぁ、先生が会わせるんだから、取材のために呼んだんじゃないのは当たり前か…。いけない、どうも条件反射で身が

硬くなる。マスコミへの苦手意識が着実に強くなっているな…。シンジョウも苦手になりそうだ。…いやあの女は既にだいぶ苦

手だが…。

 …ん?フリージャーナリスト?コダマ?…何だっけ?何か引っかかるような…?

「コダマさん、この子がウツノミヤです」

「どうも、初めましてウツノミヤ君。よろしくネ」

 ニコニコしながら歩み寄った大狸は、寿司桶を卓袱台に置くと、手を差し出して来た。

「初めまして。コダマさん…」

 求められた握手に応じる。手、握り返し難いくらい分厚いしデカいな…。

 置かれた寿司桶には幾丸寿司の文字…。確か川向こうの寿司店だ。

「さて、先生とウツノミヤ君が良ければ、早速お寿司を頂くよ。腹が減っては戦はできず、だからネ!」

 溌溂と言うコダマさんに、空腹を我慢していた先生は「そうですね」とすぐに相槌を打つ。

「戦…ですか?」

 またちょっと身構えるボクに、コダマさんは「そうだよ」と顎を引く。

「戦っていうのは、別に物理で攻め合う事ばかりじゃないよ。挑む事をこそ、ひとは戦と言うんだよ」

 …挑む…。

 唾を飲んだボクに、コダマさんはニコニコしながら続けた。

「肩の力は抜いていいよ。僕は、勝てる戦の仕方を提案しに来たんだからネ」

 

 それから卓袱台を囲んで、三人での夕食が始まった。

 特上寿司が寿司桶六つ分…ひとり二つの計算だが…、ボクは一人前で充分だ。先生だけじゃなくコダマさんも見た目通りの大

食漢で、寿司がパクパクと口の中に消えていく。

 しかし凄い寿司だな…!軍艦巻きの明るい色も鮮やかなウニは濃厚で、大きなボタン海老はプリプリ、ホタテは程よい弾力と

柔らかさで、大トロなんてシャリの三倍の長さがある。いくらするのか気になる顔触れだ…!

「ウツノミヤ、好きなのあるかぁ?苦手なのがあるなら交換するぞぉ」

「地味だけど鉄火巻きオススメだよ?ここの鉄火巻き、背骨の所から削ぎ落した分を巻いててネ、絶品だから!」

 左右から勧めて来る大男ふたりに対応しつつ思う。スーパーやコンビニの乾燥気味になった寿司も、それなりに美味いと思っ

ていたんだが…。この味を知ったボクはこれから、あれらを美味しいと思えなくなるかもしれない…。

 和気藹々と食事しながら判って来たが、コダマさんはノリが軽いようで、かなりの知識人だ。数々の軽妙な受け答えは思考の

瞬発力だけでなく、豊富な知識も窺わせる。初対面なんだが話し易いひとで、ボクもすぐに馴染めた。

 改めて見ると本当にバカでかい。身長なんて190センチ近いんじゃないか?恰幅も凄いが腹も凄い。デンと出っ張った丸い

腹は、特大の西瓜でも丸呑みしたんじゃないかっていう出具合だ。

 しかし、肥満していても単なる脂肪太りじゃない事は、細部が良く見えないボクの目でも判った。身体つきは、こう…、アブ

クマなんかに通じる物がある。パワー型のアスリートみたいな…。肩の筋肉の盛り上がりも含めて逞しい肩幅。半袖から覗く腕

の太さも尋常じゃない。ズッシリと身が詰まっている感があって、大相撲の力士みたいなガタイだ。

 野性味を覗かせる…というか顔の造形その物は厳めしい方だと思うんだが、表情は和やかで声音は穏やか。口調は妙にフラン

ク。そして眼差しは理知的…。

 一言で「こんなタイプ」と纏めるのが難しい、独特な雰囲気のひとだった。歳はたぶんトラ先生と同じくらいだろうけれど、

実年齢より老けて感じられる先生とは逆に若々しく感じられる。若いって言っても、未熟っていうんじゃなく精力的って言うか

元気が溢れているって言うか…、軽妙でエネルギッシュな感じ?

「だいぶ奥まで行ってたから、帰って来るのに時間がかかっちゃったよ。申し訳ないネ」

 海外から今日戻って来たばかりだというコダマさん。連絡を受けるまでも、そこから戻って来るのにも、少々難儀して時間が

かかったと先生に詫びる。

「今回はどちらまで行かれていたんですか?」

 先生の問いに、「チベットですよ」とコダマさんが応じ…。え?

「よく入れましたね!?」

 思わず口を挟んだボクは、ハッとして口を噤んだ。

 …声が大きくなってしまった…。だってあそこは確か、一般旅客なんかには立ち入り制限があるはず。入域許可書とか、個人

申請できない特別パスの所持が、出入りだけじゃなく中での交通機関利用に必須なんじゃなかったか?フリージャーナリストな

んて、それこそ不審がられて動向とかを監視されるか、そもそも入る前に弾かれるんじゃ…。

「解放軍…中国の軍人に友人が居てネ。そのツテのおかげだよ」

 ウインクしたコダマさんの口調は相変わらず軽い物だったが、…入域許可って政治問題側の話じゃないか?中国の軍に友達が

居るにしたって、下っ端じゃ許可なんて…。その友達って、政権に口利きできる立場か、上の閣僚とパイプがあるような、物凄

いお偉いさんなんじゃないのか!?

「でもまぁ、遅れは今日半日である程度取り戻したから、勘弁して欲しいよ」

「とんでもない。御助力頂けるだけで感謝です」

 …そうだ。先生が招いた客…フリージャーナリスト。間違いなくボクの件に絡んで呼ばれた客だろう。

 そして、食事が終わった。

 先生はボクとコダマさんが向き合う格好で座り直させると、自分はボクの右隣につく位置に座り直した。

 氷が入った麦茶のコップが、表面に汗をかいてゆく。

「ウツノミヤには、まず経緯を説明するが…」

 トラ先生は、コダマさんとの間で、学校側…理事長と校長が行なった話し合いについて説明してくれた。

 ボク個人への突撃取材もそうだが、学校側も過熱報道に対して迷惑している。どうにか鎮静化を図りたいが、今回は警察の手

にも余る積極的過ぎる取材姿勢が問題だった。これはシマがこれまでに出した被害総額の多さや、事件の件数の多さも手伝って

の事だが、被害者の遺族であるボクが捕縛に貢献したという点も格好のエサだったらしい。

「そこで、OBでもあり、マスコミ側の事情にも明るいコダマさんなら頼りになる、と…」

「学校からお願いされたんですね?ありがとうございます」

 ひとしきり説明を聞いて、協力者へお礼を言ったボクに、コダマさんはパタパタと手を振って笑って見せる。

「有り難うはこっちのセリフだよ」

 え?それはどういう…。

「次はこっちから説明だネ。とりあえず手を打った所までは話すよ」

 コダマさんはそう言うと、太い人差し指を立てた。

「まず、地元紙と大手週刊誌、警察の三者を通じて報道協定の立ち上げを各方面に打診したよ」

 …ん?

「細かい条件設定はこれからだけど、おおまかな条件を提示した上でネ」

 ええと…?報道協定?

「端的に言うと…。ウツノミヤ君については、この協定に基づいた形での取材以外は認めない。その代わり、撮影録画NGで、

オープンじゃない取材会見を開く…、という形で鎮静化を図る案を提示したよ。理事長先生達にも話したけど、ウツノミヤ君の

気持ち次第で実行できるよ」

 情報が多過ぎる。そして動きが急過ぎる。戸惑うボクを他所に、コダマさんは続けた。

「こっちの要求は、取材会見以降はどんな形でも各社は取材をしない事。そして、学校や学生寮に張り込んで、個別に直接取材

を狙ってる記者達を早急にハガして貰う事…」

「ハガして貰う?」

 訊く事は他にいくらでもあったが、困惑でぼんやりしながら呟いたボクの疑問に、コダマさんは「張り込み体制解除、つまり

退去して貰うって事だネ」と言い直してくれた。

「マスコミ各社、…ニュースの記者に新聞の記者に雑誌の記者…、それぞれ会社もバラバラな記者が散発的に突撃取材を繰り返

して、報道合戦が過熱しちゃってるのがこの騒ぎの正体だよ。これに対して、取材したい各社に申し入れして報道協定を結ばせ

る…。そうして一般非公開の会見でマスコミ各社に説明を行なう…。これ一回きりでケリをつけるのが、僕が提案する方法だよ」

 つまり、バラバラに押し寄せて来る記者達に、一回の会見で対応するっていう事か…。

 足の上で握った手が震えた。

 …怖い。あの押しかけて来た連中みたいなのと、纏めて会うなんて…。

 俯いて固まったボクの横で、先生が身じろぎした。その分厚い手で肩に触れられ、首を巡らせると…。

「大丈夫だ」

 トラ先生は力強く頷きかけてくれた。

 …うん。大丈夫。他に手が無いなら、決着をつけなきゃいけないなら、もうやるしか…!

 コダマさんの説明は続く。

「協定破りが発覚した社は非公開会見の参加資格を失うっていう条件もつけたよ。当面の張り込みなんかはこれで退去させられ

ると思うナ。どこも他社に抜かれるのは嫌だから、平等に情報を得られるなら確実に乗って来るよ。会見で情報が手に入ったら、

そこからはスピード勝負…。朝刊のタイミングにギリギリになるよう時間を設定して、会見中の出入り禁止、会見中の外部との

連絡も禁止と条件を付けて、余計な事もできないようにセッティングするよ。それから…」

 コダマさんは大きく顎を引いた。

「ウツノミヤ君が会見に出る事も、直接答える事もないよ」

 ……………。

「え!?」

 思わず声を裏返したボクに、「そのための僕だからネ」と、コダマさんは厚い胸をドンと叩いた。

「僕が君の代理人として非公開会見に出る。この案は各社に対してその点まで了承させるよ」

 コダマさんは、自分があらかじめボクから話を聞いておいて、非公開会見で各社の対応を引き受けると言った。ボクが直接対

応する点は一か所も作らない、と…。

「良いんですか!?そういう方法で、ボクが直接出なくても…!?」

 ホッとしながらも身を乗り出すボク。トラ先生が横で満足げに頷いているのが気配で判る。

「まぁ、これを普通にやったら僕の独占取材っていう形になっちゃって、交渉も何も無いからネ…。僕は今回の件に関して一切

記事を書かない、後日何らかの形で発表する事もない、そういう制約をつけて打診したよ。そうでなきゃ各社も首を縦には振ら

ないのは明白だからネ」

 つまり、コダマさんは記者としての身分や報道側の立場を、この件に関しては破棄するという事らしい。そうする事ではじめ

て、ボクの方の関係者というポジションについて、代理人として話す事を、各社が承諾するんだとか…。

 ジャーナリストの世界の事は詳しくないが、自分が得をする立場からの打診では、交渉相手側が条件を飲まないというのはよ

く判った。

 勝てる戦の仕方を提案しに来た。…そうコダマさんは言ったが、それには自分の勝利は含まれていない。自分が勝負を降りる

事を前提にして可能になる提案だったんだ…。

「良いんですか?コダマさんにはデメリットなんじゃ…」

「取材する気だったらそうだネ。でも今回は損得じゃないよ。恩に報いる事を忘れたくはないからネ。ジャーナリスト以前に、

ひととして」

「恩?」

 そう言えばさっきもコダマさんは、有り難うはこっちのセリフ、って…。

「うん。君に実家を助けて貰ったからネ」

 はい?実家?

 思い当たる事が無いボクに、コダマさんは目を細くして微笑んだ。

「…君があの日、あのタイミングで、あの詐欺師を捕まえてくれたから、僕の実家は被害に遭わなくて済んだんだよ。君が彼を

追いかける直前…、ある菓子屋の旦那は、上手い口車に乗せられて、すっかり丸め込まれていたんだよナ~…」

 …直前…?シマを追いかける前…。

「あ。狸…」

 思い出した!あの時シマと一緒に、ファミレスから出て来た狸のオッサンが居た!

 先生が横から教えてくれた。「コダマさんの実家は、川向こうの和菓子屋なんだ。カフェもやっているモダンな店で…」と。

「こだまや!!!和菓子かふぇの!?」

「おや、ウチの店を知ってたんだネ?本人は、連日記者がうろついているのを見て、お礼しに伺うのも今は迷惑かなって、尻込

みしちゃってたらしいんだよ。お菓子でも贈らないと落ち着かないって言ってたから、代理で持って来るよ」

 シンジョウとササハラがやたらと推して来る、川向こうの和菓子屋だ。相撲部がバイトでウェイターをやってるとか何とか、

豆知識まで擦り込まれている。

 そうか、あの時は正に騙した直後、被害者になりかかったあのおじさんは、偶然ギリギリで助かった格好になるのか…。

 昨夜、寝る前に先生に言われた事を思い出した。

 ボク自身に誰かを助けたつもりはなくても、助かった人は居る…。そんな人はボクの力になってやりたいと思ってくれる…。

 あれは、本当だったんだ…。

 

「それじゃあ、明日お昼にまた」

 玄関口に立ったコダマさんを、先生は玄関で、ボクは念のために居間の中から見送る。

 コダマさんが代理会見で使う情報の聞き取りは、ボクの方である程度言う事を纏めておいて、明日の日中に行う事になった。

忙しくなるが、早くに済ませるのが一番気が楽だからこれでいい。

「お昼ご飯食べたい物あるかナ?来る前にメールするから決めておいて欲しいよ。…ラーメンの出前なんかもいいネ…」

 この暑いのにあえて…?

「色々ありがとうございます」

 頭を下げたボクに、コダマさんは苦笑い。

「お礼にはまだ早いよ。上手く行くかどうかはまだ判らないんだからネ」

 コダマさんを送り出してから、先生はドアを施錠し、ボクを振り返って、穏やかな声で言った。

「コダマさんはああ言っていたが…。あのひとは報道関係者に顔がきく。あの案が断られる事は無いだろう。大丈夫だ。うん、

大丈夫…」

 ボクは宇都宮充。騒ぎや目の負傷、今も後悔はしているけれど…。

「…はい…!」

 今はちょっとだけ、報われた気がする…。