第三十九話 「それでも捨てた物じゃない」
午前十一時半。ボクは受信したメールを再確認する。
十時少し前に受けたメールは、コダマさんからの物。来報は予定通り、と。部屋の前に着いたらまた連絡するとの事だが…、
そろそろかな?
ブブブッと、手にした携帯が震動した。着信の表示は登録したばかりの名前…。
「はい、もしもし」
『こんにちは。到着したよ』
玄関に急いで、念の為に無事な方の目で覗き窓を見る。魚眼の景色の真ん中には電話を手にした狸の顔。
「こんにちはコダマさん…わ!」
「おじゃまするよ」
玄関ドアを開けるや否や、コダマさんはその巨体を開き切っていないドアの隙間へ強引に捻じ込むようにして入って来た。ボ
クを押しのけるようにして。
その拍子に、ティーシャツ越しのコダマさんの胸と腹が、ドアノブを握っていたボクと接触する…。
ムニュッとボヨンの中間…。見た目からの予想とちょっと違うが良い感触…。
「ごめんよ。尾行されてはいないけど、何処から覗かれるか判ったものじゃないからネ」
押し退けるというか、ドアの近くから奥へとボクを押し遣ったコダマさんは、すぐさま振り返ってドアを施錠した。
「何処まで情報が得られてるか判らないけど、トラ先生が君の担任っていう線から、ここが見張られてる可能性もゼロじゃない。
用心に越した事はないよ」
「な、なるほど…!」
ここは安全、居場所がバレる事はない、…そう思い込んでいたが、これには何の根拠もないんだ…!あくまでも臨時避難先で
あって、居場所の候補として見張られている可能性はあった…!
「背が高いマンションが近いけど、ここはそこから直接視界が通る位置じゃないし、他の高い位置からは角度が悪いから、ドア
から外に出ない限りはまず見られないと思うけどネ」
「まるでスナイパーですね…」
感心するやら警戒するやら、呟いたボクに「コダマさんは「良い例えだネ」と笑いかけた。
「撮影できる位置っていうのは、狙撃できる位置でもあるんだよ。僕もこれまで何度暗殺者の嫌疑をかけられたか…」
苦笑いしながら肩を竦めるコダマさん。…海外ではそんな疑いもかけられるのか…!
「とにかく、もうお昼だしご飯にするよ。打ち合わせはそれからにしようネ」
コダマさんはそう言って、左手にぶら下げたビニール袋を持ち上げて見せる。
「ラーメンの出前も良いと思ったけどネ。外出不自由なら、若者はジャンクな物も欲しくなるかなって」
コダマさんが持っているのはモフバーガーのロゴが入った袋…。好んでファーストフードを食べる習慣は無かったが、言われ
てみれば、事件以降は外をうろつけなくなったボクには縁がなかった物だ。不思議と食べたくなって来る…。
先生が仕込んでくれていた水出しのアイスコーヒーを出して来て、居間の卓袱台でコダマさんと昼食。
野菜バーガーに、チリビーンズがたっぷり乗ったピリ辛ホットドッグ、トリ竜田バーガー。サイドメニューもチキンにフライ
と、レパートリーも豊富。好みが判らないから種類を揃えたと大狸は言った。
「好きな物から選んで貰って良いよ。僕は何でも食べるからネ」
コダマさんはそう言って、選択権をボクに譲ってくれた。海外も飛び回っているフリージャーナリストという事だったから、
きっとどんな国のどんな料理も好き嫌いせず食べられなきゃ務まらないんだろう。
それと、食事の他にコダマさんは菓子折りを持ってきてくれた。
例の、ボクがシマを捕まえたおかげで騙されずに済んだ狸のおじさんが、店で提供している和菓子の他に、商い用じゃない物
まで拵えてくれたとかで…。
「量があるからトラ先生と分けて楽しんで貰うとして、こっちはデザートに食べちゃった方が良いネ。お勧めだよ」
コダマさんがそう言って紹介してくれたのは、店の商品になっていないという一品だった。
豆腐ムース。キナコと黒蜜をかけて食べるそれは、数を作るには時間がかかる上に冷蔵庫を圧迫するから、店頭メニューには
なっていないそうだ。
食後に頂くと、お勧めされた事に納得した。
砂糖が混ぜ込んであるのか豆腐は普通のムースのような食感で甘く、豆腐の香りと後味が少しだけ残ってアクセントになる。
それを黒蜜の甘さとキナコの香りが包んで、全体的に上品に纏まっている。商品としては出していないが自信の一品だと、おじ
さんも胸を張っている品らしい。
…確かに、これ凄く美味い…。甘い事は甘いんだが飽きが来ないし、味覚を刺激するような甘さじゃなくて、余韻を楽しめる
菓子だ…。
「さて!腹ごしらえも済んだところで、早速取り掛かるよ?」
「はい。よろしくお願いします」
そしていよいよ、会見に備えたコダマさんの聞き取りが始まった。
正直、細部を思い出すだけで嫌な汗をかく。
あの時の痛みも、音も、匂いも、脳裏に深く刻まれている。後先考えない必死さの中でだからこそ耐えられたそれらがフラッ
シュバックすると、正常な状況下の心身には堪える。
コダマさんはボクの様子を窺いながら、時々休憩や雑談を挟んでくれた。最初は余裕がなかったから気付かなくて、話があち
こちに飛ぶなとだけ思っていたが、プロだけあって負担をかけない聞き取りに精通しているのかもしれない。
おかげでボクは、当時の状況や自分の心境を、少し距離を置いて見つめ返す事が出来た。
「「このままにしておいてやるもんか」…。そんな気持ちだったと思います」
ボクが考えながら選んだ表現に、コダマさんは相槌を打った。
「正義感とか、義憤とかじゃないんです。家族の仇とかそういうのでもなく…。恨みが無い訳じゃないし、憎んでもいるんです
けれど、たぶんボクの場合は…。単にアイツがのうのうと暮らしているのが許せなかった…、そういう個人的な感情が一番大き
かったんだと思います」
コダマさんから投げかけられたいくつもの質問…、イエスかノーかで答えられる問いかけをいくつか挟んだ事で、ボクは自分
の動機を分解して、やっと理解に至った。
恨みとか憎しみとかもゼロじゃない。ただ、アイツに感じた怒りの内訳は、アイツが裁きも報いも受けずにのうのうと生活を
続けている事…、それが大半を占めている。
凄く端的に言うと、腹が立つからお前も酷い目に遭えよ、というような…。
「やっぱり仇討ちとかじゃないですね。ボクの場合」
「そうかもしれないネ。結果的にそんな格好になっただけで」
ちょっとだけすっきりした。家族の仇討ちとか、美辞麗句で飾られる事に強烈な違和感と拒否感があったのは、ボク自身がそ
んな奇麗で立派な事じゃないと、心の奥で理解していたせいなんだ。
「喉乾いてないかナ?少し休憩にしようか」
コダマさんがペンを置いてまた休憩を入れてくれる。内容が濃いせいか飛ぶように時間が過ぎて、一時間があっという間だ。
「気分転換に訊きたい事とか無いかナ?」
麦茶で喉を潤しながら問われて、ボクは少し考えた。完全に主題から離れた質問をしようかとも思ったが…。
「ボクの事を、報道されて、知られて、それで何か意味があるんでしょうか?」
ジャーナリストに対してするには失礼な問いかけかとも思ったが、コダマさんは取材される側にだいぶ寄ったスタンスらしい
事が判ってきたから、思い切って訊いてみた。
「シマが捕まった事とか…、被害者の遺族が捕まえた事とか…、報道される事に意味とか、効果とか、あるんでしょうか?犯罪
件数が減るとか、そういう効果が…」
それは素朴な疑問だった。ボクの証言なんて誰かの役に立つような物じゃなく、単に世間…野次馬の知的好奇心を満たすため
の物に過ぎないんじゃないかって…。
「抑止効果は、少しはあるネ」
少し、とコダマさんははっきり言った。全然嘘臭くない言い切り方だった。
「例えば、同業の詐欺師…。彼らの大半は「捕まってマヌケだな」って思うだろうネ。でも、こんな風に逃げ切れないかもしれ
ないから詐欺に手を染めるのはやめておこうって、思うひとも居るはずだよ。例えば、お金に困って詐欺に手を染めようかと考
えている、魔が差しただけの真面目な誰かが、詐欺師が捕まったっていう報道をたまたまニュースで見る…、そうしたら?」
「…やめておこうって思うか、躊躇するか…」
「そう。やろうかどうか迷っているひとには、こんな事例は抑止になるよ。それにネ…」
コダマさんは「他でもない君が、こう聞いてもスッキリしないとは思うけど」と前置きした。
「詐欺に遭った被害者は、いつか自分を騙した犯人も捕まるかもしれないって、希望を持てるんだよ」
「…ああ、なるほど…」
そうだな。ボクもシマが捕まるかもって思い続ける事ができたなら、良かったのに…。
「ちょっと危ない目には遭ったけどネ、君自身がどう思っていたとしても、君がしたのは良い事なんだよ。残酷で酷い事が多い
世の中だけど、それでも捨てた物じゃない…。そう思わせられるくらいに。それに、なにもわざわざ難しく考える事は無いナ。
自覚が無いのにそうだったと悩む必要も、そんな気持ちでやったんじゃないのにと周りの気持ちとの齟齬を思い煩う事もないん
だよ。その気がなくてもたまたまそうなった…ぐらいに思っておけば良いよ」
カランッと、麦茶の中で氷が音を立てた。
コダマさんの声は穏やかだ。誇れと言うでも、力付けるでもなく、こんな考え方もあるんだよと諭すようでもあって…。
「そうですね。たまたま良い事になった、それでいいんだ…」
善行をした訳じゃない。たまたま善行だった。周囲がどういう目でボクを見ているか、ボクは本来どんな気持ちでシマと対峙
しなきゃいけなかったのか、そんな事がボクには負担に感じられていたんだな…。
「少しはスッキリしたかな?」
「え?あ…。ありがとうございます」
この聞き取りと会話が、本来の目的のためだけじゃなかった事に、ボクはやっと気が付いた。
ケアだ。コダマさんとこうしてやり取りする事が、ボクの内面のケアになっている…。
「コダマさんみたいに訊いてくれるなら、取材に応じても良かったかもしれないです。…と言うか、気持ちが整理できてきても
う取材されても対応できそうな気がしました」
すっかり気を許したボクの、苦手意識が薄れたからこそ出た発言に…、
「いや、ブン屋を甘く見ちゃいけないよ?」
と、コダマさんは顔を盛大に顰めて応じた。
「自分で言うのもなんだけどネ、僕ら記者には情報に貪欲で、拡散に節操がない連中が多いんだよ。中には、自分が報道したい
ように誘導して証言を引き出す輩も居る。哀しい事にネ」
「報道したいように、引き出す…?」
「例えばだけど…、ウツノミヤ君に、「あの男を捕まえる時、この野郎許すもんか!…と思った?」とか訊いて、ウンって頷き
でもしたら「本人はそう堪え切れない憤りを述べた」って記事に書いちゃうよ。自分が書きたい発言を、否定しなかった事で本
人の発言としてネ」
「否定しない事で、そう言った事にしてしまう…!?えげつない…」
「そうだよ。えげつないんだ本当にネ…。取材対象の都合も気持ちもお構いなしで、水面のエサに群がる肉食魚みたいに押しか
ける…。遺憾だけどネ」
「あ!済みません、コダマさんを悪く言うつもりは…!」
コダマさんは立ち位置的にそちら側だ。ボクは慌てて謝った。
「いやいや、良いんだよ。今のは正に僕の意見と感想そのままだしネ」
気を悪くした様子もなく笑って応じたコダマさんは、「何度も、何処ででも、見て来たよ」と溜息をついた。
「一番に情報を発信したい…。独自の情報を掘り起こしたい…。名誉欲だったり仕事意識だったりもするけど、そんな違いは取
材される側には関係ない事だよ。競争意識に駆られた報道合戦…。行き着く先は大概、行き過ぎた過熱報道だよ。それが事件以
上に酷い家庭崩壊を招いたケースを、僕はいくつも知ってるよ…」
そう在るべきではない。そう為すべきではない。コダマさんはいつもそんな風に自問し、自戒しながら、取材をするそうだ。
「報道する事は正しい。自分の行ないは正しい。そう思い込んで自分を正当化しちゃうとね、最低限の善性も見失う物なんだよ。
大義名分は簡単にひとを酔わせる…。正義に泥酔して独りで溺死するだけならまだマシだけどナ、だいたいの果てにあるのは、
誰も幸せにしない報道だよ」
良く見えないが、コダマさんは目線を少し上の方に向けているようだった。遠くを見るようにして何を思い出しているのか、
ボクに判るはずもないんだが、話の流れと雰囲気から、「そうなってしまった」記者か事態を知っているんだろう…。
「さて、そろそろ続きに戻るよ」
「はい。よろしくお願いします」
そうしてまた聞き取りが再開されて、予想される質問に対しての答えも用意して…。
「夏もだけど、アイスは残暑の醍醐味だナ」
抹茶とバニラの二色カップアイスに匙を入れながら、コダマさんは満足げな顔。食事の様子を見ていても体型を見ても判るが、
アブクマやトラ先生並の健啖家だ。
もっとも、満足しているのはコダマさんだけじゃない。ボクも満足して、そして安心して、コーヒーフロートを食べている。
取材会見用の聞き取りは終わった。あとはこれを元にコダマさんが纏めて、近日中に代理会見が済めば全て片が付く。
「海外の色んな所へ行くそうですけれど」
ボクはコダマさんについての先生の説明を念頭に、ちょっと思いついて質問してみた。
「「雷龍の国」って、行った事がありますか?」
「あるよ」
あっさり頷いたコダマさんは、「君のお父さんが、あの国での企画に携わっていたんだったネ」と、内心を見透かすように言
う。…その辺りの情報は押さえているし、押さえている事を隠そうともしないんだな。誠実である証拠か…。
「はい。…ただ、あまり考えないようにしてきたし、子供の頃に教わったくらいしか知らなくて…」
良い国だよ、とコダマさんは言った。
「特徴としては…そうだネ、国民の八割がレッサーパンダの獣人とか…」
は!?そんなに!?
「人間は少ないんだよネ、あの国。だいたいレッサーパンダ、人間が二割くらい、龍人が少し。世界的に見ても珍しい部類だネ。
雷龍王は立派な方だし、穏やかで過ごし易い国だよ」
イメージでしかなかったが、やっぱりそんな雰囲気なのか…。と考えていたら、コダマさんが「あとネ!」と大きな腹を卓袱
台に乗せるような勢いで身を乗り出して来た。
「料理が独特で結構イイよ!お米が独特でネ、赤米なんだけどナッツみたいな後味が面白いんだナ~!ヤクの肉を初めて食べた
のもあそこだったけど、独特な料理が多かったよ。ダツィ料理…チーズ料理なんかはバラエティ豊かだネ。あと辛い物が多いっ
ていうか、唐辛子なんかの香辛料を野菜扱いする文化だから、サラダと思って食べると口から火を吐く思いをしたりもするけど
ネ!いやー、ビックリだったナ!あはははは!」
やっぱり食べる事が好きなのか、コダマさんは雷龍の国で経験した食生活について、面白おかしく、そしてだいぶ詳しく教え
てくれた。
「幸せな国って聞きますけど、豊かなんですか?」
「それは、豊かさの基準によるネ」
コダマさんは言う。この国と比べれば決して裕福ではなく、贅沢でもない。むしろボクらから見れば質素な暮らしに見えるだ
ろう、と。
「足りる事を知っている人達なんだよ。過度に求めないし、適度な所で充分だと満足する…。それを幸せだと言える在り方をし
ているんだよ。そういう意味ではとても裕福だと言えるネ」
コダマさんは、医療費とか学費とか、様々な物が無償だという話もしてくれた。
「…だから教育その物の支援じゃなかったんだ…。教育の場…学校の建造が喜ばれるから…」
そんなボクの呟きに、コダマさんはゆっくり深く頷いた。
「しばらく前の話になるけどネ。あっちに居た時、学校を建てる現場で働く日本人の大工と会ったよ。若い熊でネ、「建てるっ
て約束したからよ」って言っていたっけナ」
「…それって…」
ボクは言葉に詰まる。コダマさんは「もしかしたら「そう」かもネ」とだけ言った。
シマが金を持って逃げたせいで頓挫した、父が関わったプロジェクト…。あれは、資金を出すだけじゃなく、教育施設を建築
する技師や、国際情勢や外国語を教えられる教師も派遣する事業だった…。
プロジェクトに乗りかかっていた人達の中には、仕事として取り組んでいただけじゃなく、それがやりたくて関わっていたひ
とも居たんだろう。だから、企画が無くなっても各々で関わる事を続けていて…。
「シマが取った金って、返って来るんでしょうか…」
全額は無理なんだろうなと思いながらも、ボクは問わずにいられなかった。
「全て弁済するのは無理だろうネ。例えばそのお金が不動産なんかに変えられていたなら、売却するなりして取り戻せる分はあ
るけど、どうも消費しちゃってたみたいだしネ」
ただ、とコダマさんは続ける。「事情通によると、海外の口座にある程度纏まった資金は積んであったらしいよ」と。
「国外逃亡も視野に入れていたんだろうネ。その分でいくらかでも被害は補填されるかもしれないナ」
「そうですか…」
ボクは想像する。レッサーパンダだらけの国…。そこに父は夢を見たんだろうか?遣り甲斐のある仕事だと感じたんだろうか?
…愚問だな、そうでなければあんなに一所懸命打ち込んだりしていなかっただろう…。
「ご家族の事、思い出しちゃうかナ?」
コダマさんは過度に気遣うでもなく、何気ない調子でボクに訊ねた。
「判りません。正直なところ、ずっと思い出さないようにして来ていたから…」
自分でも意外だったが、適当に濁して煙に巻くでも、見栄を張って何でもないと言うでもなく、率直な気持ちを告げていた。
「コダマさんは…、ボクの家族の事も詳しく調べたんですよね?」
「事件の概要を多少知っていたのと、トラ先生や校長からの情報提供で、ある程度はネ」
ボクは少しの間黙って、それから軽く頭を振る。
「思い出さないようにして、自分のメンタルを守っていたっていうのもあるんですけれど…。あの時…、心中する家族にボクだ
けおいてけぼりにされたような感じで…。本当の所は今でも整理がついていないんです」
これも正直な気持ちだ。もう自分も連れて行って貰いたかったと言う気はないが、家族がボクを置き去りにして何処かに行っ
てしまったような気持ちは消えていなくて…。
「頭じゃ判っているんです。でも、もう居ないっていう実感が、今でも薄いんです…」
「そうなんだネ…」
コダマさんは相槌を打って、五秒くらい黙ってから口を開いた。
「気持ちは判る。…なんて軽々しく言う気はないよ。君の苦悩も悲哀も君だけの物で、それを正確に推し量る事なんて誰にもで
きないからネ。でも…」
大きな狸はまた少し黙って、「嫌な物だよ」と、ポツリと呟いた。
「ひとは死ぬよ。誰だっていつか必ず居なくなるよ。でもネ、伝え合う事も不十分なまま、サヨナラもなく居なくなられると、
気持ちの整理がずっとつかない。…嫌な物だよネ。サヨナラも無しにお別れされるのは…。黙って居なくなられても、忘れられ
るはず無いんだよ…」
コダマさんが口にした言葉は、ボクの中で整理もつかずにずっとモヤモヤしていた不満を、そのままズバリと言い当てるよう
な物だった。
同時に、気付いた。
このひとも、親しい誰かにサヨナラを言って貰えなかったんだな、と…。
「ちゃんと、気持ちの区切りくらいつけさせて欲しいですよね。まったく…!」
ボクが素直な不満を口にすると、コダマさんは顔を綻ばせた。「その通りだよ!」と。
夕暮れが近付く頃、資料に必要な聞き取りは全て終わった。
ボクはコダマさんとカップのバニラアイスを食べながら、言い残した事などは無いかと確認され、最後の雑談に入った。
正直名残惜しい。話しただけで判ったが、コダマさんは頭が良くて話題も豊富、話し上手で聞き上手だ。もっといろいろ話し
て、いろいろ教わりたかった。
「怪我の方はどんな具合かナ?」
「症状に慣れてきた…いえ、注意深くなったから危ない事には成り難くなってきました」
「大変だろうけど、根気よく付き合って行かなきゃだネ」
「はい。でもそろそろ受け入れられました。上手く治るかどうかは五分五分らしいって聞いて、最初は戸惑ったんですが、慣れ
ればまぁ大丈夫かなって…」
「うん。完治に限って言うなら、確率では五分五分らしいね」
「…?完治に限って?」
聞き返したボクに、「トラ先生から経過を聞いたけどネ」と、コダマさんは言った。
完全に元通りという結果だけを見るなら、確かに五分五分だそうだが、例えば機能の八割九割程度までの回復、六割七割辺り
までの治癒、という事であれば、もっと…。
「多少後遺症が残るとしても、今より悪化っていう事はまずないと思うよ?この国のお医者さんは優秀だし、医療体制も整って
る。それに、トラ先生も君の経過が思わしくなかった時の為に、知り合いの医師を頼って良い眼科医を探して貰ってるって言っ
てたしネ」
「そう…なんですか…?」
思えば、ボクは点眼液を渡されているものの、本格的な治療みたいな物はあまりしていなくて、テストというか症状の経過観
察とチェックばかり受けているような気がする。もしかしてあれは、どんな治療をするのが適しているか調べるのが中心になっ
ているのか?
「良いお医者さんの良い治療、受けられると良いネ」
コダマさんがニッコリ笑って、ボクは大きく「はい!」と頷いた。
そして夕刻…。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
出迎えたボクに、先生が笑みを見せる。差し出されたその両手には…、
「今夜はピザにした」
ピザ屋の大箱が四つ積み重ねられていた。…四つ!?
「嫌いじゃないかなぁ?」
「嫌いではないですけれど、多過ぎませんか?」
「コダマさんも居るしなぁ」
靴を脱ぎかけている先生が落としてしまわないように、ずっしりしたピザ重ねを受け取ったボクは…。
「え?」
「え?」
首を傾げて止まる。先生も止まる。
「コダマさんの夕食に…」
「帰りましたよ?」
「え?」
「え?」
どうやらやり取りに不備があったらしい…。
すぐにも纏めに取り掛かるからと、コダマさんは帰って行った。先生は夜まで居る物だと思っていたらしいが…。
「どうしましょう…」
「………」
先生は数秒間を空けてから…。
「私が頑張って食べよう…。腹に入りきらなかったら明日の朝と、ウツノミヤの昼ご飯に…」
わーい…。数食ピザ続きだー…。
種類も取り揃えたピザを広げて、夕食を楽しみながら、ボクは気になって訊ねてみた。
「ビール飲まないんですか?」
「ん~…?」
ツナコーンを頬張っている先生のコップにはウーロン茶。冷蔵庫には缶ビールがギッシリ入っているのに、トラ先生がそれを
飲んでいる所をボクは見ていない。
「まぁ、一応なぁ。未成年者の前だ、飲酒したくなっては困る」
つまり、美味しそうに飲んでいるのを見てボクが飲みたくなったらまずい、という事らしい。
「心配要らないですよ。ボクは規則を守ります」
違反して面倒になるのは嫌だから、これは本当。
「ただでさえ厄介になっているのに、遠慮されて負担をかけるのは心苦しいです」
「…そうかぁ…」
先生は少しの間コップを見つめていたが…、
「じゃあ、飲むかなぁ」
やがてのっそりと腰を上げた。
そう、それがいい。ただでさえ生徒を自宅にかくまって不自由な生活をしているんだ。我慢しなきゃいけない事は少ない方が
良い。そうでないと申し訳ない。
「注ぎます。コツとか判らないので下手かもですけれど」
「いやそこまでは…」
冷えた缶を取ったボクに、先生は遠慮したが、結局プルタブを起こしたら諦めてコップを差し出した。
「こう…ですか?」
炭酸だから泡ばかりになっても困る。母さんはどんな風にやっていたか、今ではもう全然思い出せないが、遠のいて色褪せて
ぼやけてしまった夕食風景を記憶の底から呼び起こして、先生にビールを注ぐ。
「そうそう、そんな感じで…。もういいぞぉ。有り難うなぁ」
タイミングを見て先生がストップをかけると、盛り上がるビールの泡はコップのフチギリギリで丁度止まった。
家族団欒の風景っぽい?ピザを挟んでビールを飲む先生と、コーラを飲むボク。
プハーッと、半分ぐらいゴクゴクッと飲んだ先生が満足げな息を吐いた。ボクも何故だかちょっと嬉しい気持ちになる。
「コダマさん、どうだったぁ?」
「はい。いいひとでした。…凄く頭が良いひとだなって、やり取りで感じました」
内容的な物だけじゃない。和ませる雑談や、頭のストレッチを促すような会話、話していて楽しいと感じられるのは溢れるイ
ンテリジェンスの証拠だ。何より…。
「…話ができて良かったです。だいぶ、気が楽になりました。いろいろな事の…」
先生はボクのそんな言葉を聞くと、満足げに大きく頷いていた。
…もしかして、トラ先生はこういうのも見越していたんだろうか?どうしてとも訊かないし、意外そうな顔も見せないし…。
それから、先生が後ろ手をついて、一回り膨れた腹をさすってギブアップするまで夕食は続き、残りのピザは明日に持ち越し
になり…。
「ウツノミヤ…」
先に入浴する事になったボクに、動くのも億劫な様子で腹を撫でながら、先生は声をかけた。
「これでもう、大丈夫だからなぁ」
「…はい。ありがとうございます…」
ボクは宇都宮充。助けた気なんか無いのに助けた事になっていて、それを恩として返されて…。
いい事をした、か…。
ボクは、周囲の厚意にちょっと甘えても、許されるのかな…。