第四話 「ルームメイト」(後編)

以下の話は、シンジョウが聞かせてくれた、あいつの過去だ。

オシタリは、ここから電車を乗り継いで三時間ほどの、そこそこ都会的な町で生まれ育った。

父親はシェパードで、サラリーマン。

母親は人間で…、シンジョウは詳しい説明を避けたが、どうやら水商売をしていたらしい。

両親はオシタリが四つの時に離婚し、あいつは母の元で育てられた。

父親はまっとうな人だったらしい。

転勤して遠く離れた蒼森に行っても、オシタリの養育費を遅れずに振り込み続けた。

だが、オシタリの母親は、育児熱心では無かったそうだ。

元夫から受け取ったオシタリの養育費は、ほとんど自分を着飾るために、そして、離婚した後に付き合い出した男との交際

に使っていたらしい。

給食費も滞納する有様で、家でもろくに食事を用意して貰えなかったオシタリは、もちろん身なりも良くはなく、辺りの子

供達から迫害された。

親の愛も受けられず、友人もできず、オシタリは孤独に小学生時代を過ごした。

オシタリは中学に入る頃にはすっかり荒れていて、喧嘩にあけくれる日々を送るようになる。

警官に補導された事も、一度や二度じゃなかったらしい。

自暴自棄になって、その日その日を刹那的に生きていたオシタリに転機が訪れたのは、あいつが中学三年に上がる春休みの

事だった。

遠く離れた町で暮らしていた父親は、転勤してオシタリの住む街に戻ってきた。

十年ぶりに再会し、目にした我が子の姿に、父親はどれほど驚いただろうか?

養育権は取り上げられていたものの、父親は折を見てはオシタリに会い、出来る限りの愛情を注いだ。

あいつのことだ。勿論初めは拒絶したんだろう。

それでも、親から注がれる無償の愛に、荒んだあいつの心は、次第に癒されていたはずだ。

中学最後の一年間、あいつが一度も問題を起こさなかったのが、そのなによりの証拠だろう。

だが、その後もオシタリに注がれるはずだったその愛情が、残酷な形で断ち切られた事を、ボクらはシンジョウの口から聞

かされた…。

「去年の八月、オシタリ君の十五歳の誕生日でもあったその日は、記録的な豪雨だったらしいわ」

シンジョウは言葉を切り、哀しげにため息を漏らした。

「バケツをひっくり返したような雨が降る中、彼はレストランの前で、父親が来るのを待っていた。その晩は、誕生日のお祝

いに、一緒に外食する約束をしていたそうよ…」

シンジョウから聞かされたのは、聞いていて、目頭が熱くなるような話だった。

オシタリは、約束の時間になっても現れない父親を、ずっと待ち続けた。

携帯に電話をかけたが、父は電話に出ず、職場にかけても随分前に出たという返事が返された。

それでも、オシタリはずっと父親を待っていた。

友人もおらず、母には見向きもされず、荒んだ生活を送っていたオシタリも、ただ一人、父親の事だけは信頼していたから。

二度目に電話をかけた時、オシタリはどんな気持ちだったのだろう?

電話に出た父ではない人物の声に、どれほど驚いただろう?

そして、その救急隊員の言葉を、どんな気持ちで受け止めたのだろう?

オシタリの父親は、待ち合わせているレストランに向かう途中で、事故に遭っていた。

叩き付けるような雨に、冠水している道路。

雨でスリップして、そのワゴンは歩道に突っ込んだそうだ。オシタリの父親が歩く、すぐ先へ。

オシタリの父親の前には、母親と手を繋いで歩く、小さな男の子の姿があった。

彼は、その親子に駆け寄って後ろから突き飛ばし、その直後、突っ込んで来たワゴンに…。

…見ず知らずの親子の命を、救うために…

「…オシタリ君のお父さんに突き飛ばされて、親子は車の進路からはずれて、かすり傷程度の怪我で済んだわ。…でも、病院

へ運ばれる前にオシタリ君のお父さんは…」

シンジョウは目を伏せて、言葉を切った。

「…遺体は…、外傷が殆ど見えないほど、綺麗だったそうよ…」

ボクらの間に、沈黙が落ちた。

店内を流れる流行の歌が、なぜかよそよそしく聞こえた。

「…英雄的な行為だと思う。誰にでも真似出来る事じゃ無いわ…。オシタリ君は、そんな偉大なお父さんが若い頃に住んでい

たこの街に…、母校である星陵に来たかったのね…」

…そうか…。オシタリの父親は、この街で暮らしていたのか…。

あいつが、学力に不相応な星陵に無理して入って来た訳が、やっと解った…。

「…せ、星陵は…、ひっく…!…な…、亡くなっちゃった、お父さんの…、えうっ…、母校…だったんだぁ…?」

ふと見れば、なんだか口調がおかしくなってるアブクマは、グシグシと目を擦っていた。

…無理もないか。昔から涙もろいブーちゃんが、こんな話を聞かされて、涼しい顔をしていられるはずもない…。

「事情は分かったよ…。ありがとう、そしてごめんシンジョウさん…。辛い事まで調べさせちゃって…」

ズビッと鼻をすすり上げるアブクマにハンカチをさし出しながら、イヌイが口を開いた。

哀しげな表情は隠しきれていないが、こちらはしっかりしている。

「ボクも良く分かった。あいつが荒れていた理由も、今は大人しくなったわけも。あとは、バイトが何のためのものなのかが

気になるが…」

「バイト?」

ボクが情報を整理しながら呟くと、シンジョウは興味を覚えたように身を乗り出した。

オシタリがアルバイトを、校則違反とは知らずにやっていた事を話して聞かせると、彼女は納得したように何度も頷いた。

「ありがとう。これで全部繋がったわ…。一つだけ調べ切れていなかった事まで、全部ね」

「どういう事?」

イヌイが問い掛け、ボクが首を傾げると、シンジョウは鞄からルーズリーフを取りだし、懐から出した手帳を覗き込みなが

ら、何やら書き始める。

オシタリと、あいつを取り巻く関係者、起こった事件を書いた簡単な相関図だ。

要所が上手く纏められているその図解を、さらさらと手早くかき上げる様は、実に手際が良かった。

「オシタリ君のお母さんは、殆ど彼を放置しているわ。元旦那から送られていたオシタリ君の養育費を、自分の事に使い込ん

でいた事は、先に話したわね?」

ボクらが頷くと、彼女は手にしたペンでオシタリの母にバツ印をつけた。

「つまり、彼女からじゃない…。次に親族だけど、これも調べた限りはみんな疎遠…。彼をサポートしているらしい人物は無し」

彼女は次々にバツ印をつけ、ようやく落ち着いたらしいアブクマが、目を擦りながら首を傾げた。

「こりゃ、何を消してんだ?」

「ライフラインの可能性が無い人を消しているのよ」

…あ…!

ボクとイヌイは思わず顔を見合わせる。アブクマだけが取り残されたように首を傾げっ放しだった。

「ライフ…何だって?」

「気付かないかブーちゃん!?キミが星陵で学園生活を送るのに、金銭面で補助してくれているのは誰だ!?」

「そりゃあ親だけど…。…あ!?」

理解できたのか、アブクマは声を上げた。

「お袋さんは駄目、だろ?親父さんは亡くなってる…。じゃあ、あいつの学費って…?」

「まさにそこだったのよ。調べがつかなかったのは」

アブクマに応じたシンジョウは、オシタリの周囲に書いた関係者の名を、全てバツで潰し終え、それからあいつの父の名を、

バツの上から丸で囲む。

「お父さんの遺産はあるはずよ。それこそ保険金やら貯金やら、いろいろとね。でも、未成年のオシタリ君は、お父さんから

与えられるはずだった遺産全部を、直接どうこうする事はできないわよね」

「…えぇ〜と…、何でだ?それって、あいつのもんなんだよな?」

いちいち話の腰を折るなぁブーちゃん…。申し訳なさそうに尋ねた熊に、

「自分のものであっても、この国の法律上、未成年は直接全てを管理する事はできないんだ。ある程度は自由になるお金はあ

るだろうけれどね。後見人の制度とかの絡みがいろいろあるんだけど、後で説明してあげるから…」

イヌイが小声で言い、アブクマはしぶしぶ頷く。

「それじゃあ、彼はどうやって学費を工面しているのか…?答えはきっと、そのバイトね」

シンジョウは図を指先でトントンと叩きながら続けた。

「入学金も必要だったし、学費の他にも色々とお金がかかるわ。いずれにしても、彼が自由にできるお金はそれほど大きくな

くて、それだけじゃ学費を賄えないんだと思う…」

「…なるほどな。オシタリのやつ、学費のためにバイトしていたのか…」

時給いくらだか知らないが、自由にできる遺産で足りない分は、自力で稼いで学費を納めていたのか…。

「じゃあ、バイト止めちまったら、オシタリは?金が払えなくなっちまったら…、学校にゃ…」

アブクマの言葉に、ボクらは黙り込んで、誰も答えられなかった。

オシタリのやつ…、どうするつもりなんだ…?



オシタリは、バイトを辞めたらしい。

食後に出て行ったと思ったら、すぐに戻って来た。

調べ物にも身が入らず、ボクは生徒手帳を閉じる。

「オシタリ」

名を呼ぶと、シェパードはタウン誌から顔を上げ、面倒臭そうにボクを見た。

無愛想なのは相変わらずだが、これまでの完全無視と比べれば、少しは距離が狭まったと言っていいだろう。

「バイト止めたら、学費はどうするんだ?」

「…てめぇには関係ねぇだろ…。何とかす…」

オシタリは言葉を切り、ボクをギロッと睨んだ。

「…てめぇ…、何で知ってやがる…?」

「噂で、生活結構苦しいんだって聞いてな、それで察しただけだ」

これはもちろん嘘だ。

こいつに関する噂は荒れてたって事だけ。シンジョウの情報と推理が無ければ気付きようがない。

だが、とりあえず信じたらしいオシタリは、苛立たしげに「ちっ!」と舌打ちした。

「なぁオシタリ。ここに居たいか?」

ボクの問いに、オシタリは眉根を寄せる。

「星陵に居たいか?どうしても?」

「うるせぇ。てめぇには関係ねぇ事…」

「答えを聞かせろよ。卒業するまで居たいのか?それとも学費滞納で中退でも良いのか?」

言葉を遮り、ボクはオシタリの目をじっと見つめた。

「…卒業してぇに…決まってんだろ…」

オシタリは、ボクから目を逸らし、悔しげに呟いた。

「…分かった…」

ボクはオシタリに背を向け、机の上に広げていた学校案内や資料類を片付けた。

オシタリが学校に残る手段について、一つだけ案がある。

もちろん校則には違反しない、規則に則った正規の手段だ。

ただし、これはボクら学生だけじゃどうしようもない。大人の協力者が必要になる。

…まったく、らしくもない事をしているな…。放っておけばいいのにと、自分でも思う。

似たような境遇だから、同情でもしているんだろうか…。



「…と、そういう訳だ。どうだろう?」

翌日の夕刻、ボクらは寮の食堂には行かず、近場の食堂、飯煮馬瑠にやって来た。

食堂を利用しなかった理由は簡単。

オシタリが居るとまずいという事と、他の生徒に話を聞かれたくないという事。

それから、シンジョウも話に加われるようにという、三点からのチョイスだ。

食堂の奥まった場所、畳敷きの席に陣取った昨日と同じメンバーを見回したボクは、昨夜の内にイヌイと話し合った案につ

いて意見を求めた。

「僕には勿論異論は無いよ」

「おう。俺も賛成だ!」

「私も異議無しよ。…でも、説得できる?」

シンジョウが眼鏡の奥の目を細め、難しい顔つきで言うと、アブクマが顎を引いて頷きながら応じた。

「片方はまぁ、俺とキイチで当たってみる。あとは…」

「そっちはボクが説得してみる。任せてくれ」

請け負うと、三人は揃って頷いた。

「それと、交渉条件としてボクらがだな…」

ボクらはオシタリを学校に留めるための、細かい打ち合わせに入った。

食事を終えても真剣に話し合いを続けるボクらを、店主の馬獣人は追い出すでもなく、お茶やコーヒーを出してくれた。

気になってはいるようだが、何も訊かずにいてくれるのが有り難かった。

何度も見落としがないか確認しあい、引き上げた時には、もう門限が迫っていた。



「先生」

ボクは部活が始まる前に、担任であり部活の顧問の先生を、廊下で捕まえた。

いつもと同じくよれよれの白衣を羽織っている、でっぷり太った虎獣人、寅大先生は、これまたいつもと同じく眠たげな顔

でボクを振り返る。

 別に眠たい訳じゃあないだろうが、目が細められているせいでそう見える。

「ん〜?どうしたウツノミヤ?」

「実は、先生にご相談したい事があります。少しお時間を頂けませんか?」

トラ先生は「ん〜…」と言いながらベルトの革が擦り切れて痛んだ腕時計を覗き込み、それから頷いた。

「ん。聞こうか」

ボクが所属し、トラ先生が顧問をしている化学部の活動が始まるまで、まだ結構余裕がある。

その辺りも抜かりなくシミュレート済みだ。

ボクは先生に連れられ、化学準備室に足を運んだ。



狭いスペースに棚が並び、そこにごちゃごちゃと瓶詰めの薬品類が押し込められている化学準備室。…通称トラの巣。

トラ先生は丸っこく肥えたでかい尻を、窮屈そうに肘掛け付きの椅子に押し込み、抗議の軋みを上げさせた。

 覇気の無い顔に間延びした口調。どこもかしこも贅肉がついてぶよぶよ太った体。極めつけはワイシャツのボタンが飛びそ

うなほどにむっちりした、歩くだけで揺れる出っ腹。

 実のところ、ボクはこの先生の事があまり好きではなかった。

 身なりはだらしなくて、その私生活の不摂生を象徴するかのようにでっぷり肥えたこの先生の事が。

 …が、不思議な物で、最近では腹を揺すってのたのた歩いている姿を見ても、間延びした口調で話しかけられても、殆ど不

快感を覚えなくなった。…慣れっていうのは凄い物だ…。

ボクは向かい合う形で、薄く埃を被ったパイプ椅子から埃を払い、腰を下ろす。

…それにしても、何度来ても汚い部屋だ…。

ここの管理はトラ先生のはずだけど、だらしないのは身なりだけじゃない。整理整頓についても相当だ…。

「で、何の相談だぁ?」

眼鏡越しに眠そうな半眼で見つめてくるトラ先生に、ボクは…、

「お願いがあります!」

と、まずは頭を下げた。

オシタリのためなんかに頭を下げていると考えると、何とも妙な気分だ…。

「んん〜…?」

トラ先生は、訝しげな、そして少し驚いているような声を漏らした。

「実は、うちのクラスのオシタリの事で…」

ボクは顔を上げ、トラ先生の目を真っ直ぐに見つめながら、オシタリの事情を話し始めた。

交渉というのは、駆け引きとハッタリ、立場関係と誠意が重要なファクターになる。

担任と生徒というボクと先生の関係を鑑みれば、部活の教え子であり、学級委員でもあるボクの立場はプラスの要素に働く。

ボクが交渉役を買って出たのは、自分が交渉に向くこれらのカードを備えている事を、重々承知しているからだ。

「ん〜…、オシタリの家の事情は、私も少しは知っていたがなぁ…。そうか、そんなに大変だったのかぁ…」

ボクの口からオシタリの置かれている状況を聞くと、トラ先生はうんうんと頷いた。

そして、母親からの援助がまず求められない事、それから他の親類も頼れない事等を、念を押すように尋ねて来る。

先生からの質問が落ち着いた後、ボクは再び深々と頭を下げた。

「お願いします。オシタリの為に、学費免除措置の保証人になってあげてくれませんか?」

これが、ボクらが考えたオシタリの救済策だ。

星陵ヶ丘高校の特例措置の一つ、学費の一時免除措置。

元々は、学費を支払うのが厳しい、苦学生用に設けられた特例で、本来は毎月収めるべき学費等の諸費用を学校側が立て替

えしておき、本人はそれを七年の猶予期間内に返済するという制度だ。

ただし、この制度を受ける為には血縁者以外の、身元のはっきりしている成人の保証、それも最低でも二人分が必要になる

んだが…。

この事実上の一時的な費用免除が受けられれば、オシタリは学校に残る事ができる。

「オシタリの母親は、彼の為に学費なんか出しません。あいつが学校に残る為には、特例措置を受けるしか無いんです。ボク

ら友人の親が保証人に名乗り出ても、あいつは必ず断ります。他に頼れる大人は、先生達しか思いつかなくて…」

先生はいつも重たそうな瞼を少しだけ上げ、ボクを見つめていた。

「ボクとアブクマ、イヌイ、それにもう一人の生徒が二次的な保証人になります。卒業後に必ず返済させると、ボクらが約束

しますから…」

ボクは三度、深々と頭を下げる。

言うべき事は言った。あとは受け入れて貰えるかどうかだ。

しぶるようなら他にも二、三の説得手段を考えてきている。

こんな事を頼める関係にある先生は、他にはまだ居ない。何としても、この先生に保証人の一人になって貰わなくてはなら

ないのだ。

「ん。分かった」

短い沈黙のあと、先生はこっくりと頷いた。

やけにあっさりと引き受けてくれたので、ボクは意表を突かれて目を丸くしてしまった。

「ただ、私が良くても、いくつか確認しなければならないぞぉ?」

トラ先生は太い指を広げて見せた。

「一つは、この特例対象となった生徒が、特例継続中に三回赤点を取った場合…。三度目の赤点を取ったその学期で措置は打

ち切られる」

人差し指を折り曲げた先生に、ボクは頷く。

それについてはイヌイと相談済みだ。ボクらでオシタリの勉強を見てやる。

オシタリだって学校に居たいんだ、本人も必死にやるさ。

二回までは見逃して貰えるが、あいつの成績はギリギリラインだ。多少不安はあるけどな…。

「二つめは、オシタリ本人の意志。本人が嫌だと言えば、もちろん申請できないぞ?」

中指を折った先生に、ボクは再び頷く。

こればかりは全員で説得するしかない。まぁ、あいつ自身辞めたくないんだ。それほど難しくはないだろう。

「三つめは…、あ、あ痛…、あいたたたぁっ…!」

「せ、先生?大丈夫ですか?」

薬指を折り曲げようとした先生は、顔を顰めて手を押さえた。

…どうやら指を攣ったらしい。…何やってるんだか…。

「あぁ、ありがとう…」

立ち上がって手を取り、指を揉みほぐしてやっているボクに、先生は決まり悪そうにガリガリと頭を掻いた。

「三つめは、教師の私が保証人になる事が認められるかどうかだ。私が知っている限り、この学校の教師が保証人になった事

例は無いからなぁ。保証人除外の取り決めでは、この学校の教師であるかどうかは触れられてはいないが、これは理事長に確

認してみないと…」

「そっちは手を回してあります」

指を軽く引っ張ってやりながら言うと、トラ先生は「うん?」と首を傾げた。

まるで僕の話が終わるのを待っていたかのように、丁度いいタイミングで携帯が鳴ったので、ボクは「失礼します」と先生

に告げて電話を手に取る。

手を放した途端にまた攣ったらしく、「あ、いた、いたたたた…」と呻いた先生に背を向け、ボクはイヌイからの電話に出た。

『ミッションコンプリートっ!理事長は快くオーケーをくれたよ!教師が保証人になる事も、特に問題はないって!』

「お見事!こっちも先生に了承を貰えたぞ!あとはオシタリ次第だな!」

通話を終えたボクは、振り向くと、また先生の手を取って指を引っ張ってやる。

「あぁ、ごめんなぁ、助かる…」

「アブクマが話をしてくれていましたが、もう一人の保証人…、理事長は、先生が保証人になる事を認めてくれるようです」

「手際が良いなぁ」

トラ先生は微かな笑みを浮かべて頷いた。

「それなら私が引き受けよう。あ、そろそろ大丈夫そうだ。ありがとう」

ボクが手を放すと、先生は手首をほぐすようにぶらぶらさせた。

「こちらこそ、ありがとうございます。先生」

お辞儀したボクに、トラ先生は笑みを浮かべた。

いつも半眼の眠そうな顔をしているので、笑みを浮かべると、寝ぼけて笑っているようなトロンとしているような顔になる。

「ウツノミヤ」

「はい?」

「いい子だなぁ」

トラ先生は笑みを深くする。ただでさえ細い目がさらに細くなり、ほとんど目を瞑っているように見えた。

「一見、冷めているようには見えても、結構友達思いなんだなぁ、ウツノミヤは」

…いいえ、ボクは冷たいヤツですよ先生。

今回の事だって、アブクマやイヌイに「いいヤツ」という印象を与える為のデモンストレーションでもあるし、こうして先

生からの人格評価に繋がるという打算があったから動いただけだ。

そういった見返りがなくては、オシタリなんかの為に動いたりはしない。

「うん。いい子だ、いい子だ」

先生はニコニコと笑いながら、ボクの頭を大きな手で撫でる。

小さな子供じゃあるまいし、相手を見て欲しい。

…とは思うものの、先生が頭を撫でる感触は、不思議にもそれほど不快ではなかった。

無神経に撫でられて髪型を崩される事にも、何故か、腹は立たなかった。



「邪魔すんぞ〜」

「おじゃましま〜す」

夕食の後、アブクマとイヌイがボク達の部屋にやってきた。

すでにオシタリには話している。最初はやっぱり怒っていた。「勝手な真似しやがって」とね。

だが、背に腹は代えられない、結局は特例措置の申請を決意したようだ。

むっつり黙り込んでいるオシタリに代わって、ボクがその事を話すと、

「んじゃ、俺からの先祝いだ」

と言ったアブクマは、来るときに持ってきたスーパーの大袋を机の上に置いた。

中には缶コーヒーが10本程入っている。

オシタリが無言のまま視線を向けると、アブクマは情け無さそうに眉を八の字にし、鼻の頭を掻いた。

「飲もうと思って買い込んどいたんだけどよ、キイチが減量用に作ってくれた計算表見たら、缶コーヒーはダメらしい…。結

構砂糖多いんだな…」

そして深々とためいきをつく。

「体絞んなきゃいけねぇから、しばらくコーラも缶コーヒーも我慢だ…」

「…ぷっ…」

妙な音が聞こえたので、ボクらは揃って首を巡らせた。

オシタリは俯き、肩を震わせていた。

よほど可笑しかったんだろうか?オシタリは肩を震わせ、含み笑いを漏らしている。

「くっ…、くくっ…、ふっ!ははは、はははははははっ!」

ボクは目を丸くした。あのオシタリが、声を上げて、仰け反って、心底可笑しそうに笑っていた。

普段の仏頂面からは想像もつかないが、オシタリの笑顔は、何処にでもいる、普通の少年の笑顔だった。

「祝いとか言いながら、結局は処分に困って持って来たんだろうが?」

「ん?う〜ん、そうなるか…」

アブクマが困ったようにまた鼻を掻くと、オシタリは一度袋を覗き込み、それからニヤリと笑った。

今度の笑みはなんとも不敵な、実にこいつらしい笑い方だ。

「仕方ねぇから貰ってやるよ。お前がまたブクブク太ったら、イヌイが作った表も無駄になるんだろうしな」

こいつなりに気を利かせたらしいその言葉に、イヌイは苦笑いした。

寡黙なシェパードは、今までにない表情を見せ、これまでにない程言葉を吐いた。

少しは、ボクらに気を許したのかもしれない。

「だがオシタリ、油断はできないぞ?」

ボクはまじめ腐った顔でオシタリに釘を刺す。

「赤点を三回取ったら措置は打ち切りなんだ。ボクが勉強見てやるから、気を抜くんじゃないぞ?」

「誰が頼んだよそんな事?」

「キミがこれから頼むんだよ。「どうか勉強を教えてください」ってな」

「冗談じゃねぇ、誰が…!」

「はっきり言ってキミの成績、赤点を抜けるかどうかのギリギリなんだろう?そんなんで大丈夫だっていう自信はあるのか?」

「…うっ…!」

これはさすがに効いたらしい。オシタリはいつも攻撃的にピンと立たせている耳を、後ろにさっと伏せた。

こいつがたじろぐ様子なんて滅多に見られないから、なかなかに痛快だな。

「ルームメイトのよしみで面倒見てやるから、ありがたく思うように」

「っく…!」

オシタリは悔しげに唸る。…ま、弄るのはこれぐらいにしておくか…。

「ぬはは!大変だなぁオシタリ。学級委員と相部屋になんかなるもんじゃねぇな!」

可笑しそうに笑ったアブクマに、

「サツキ君も他人事じゃないでしょ?試験が終わるまでは逃がさないから、そのつもりでね?」

イヌイがニコニコしながら釘を刺した。

「…うっ…!…お手柔らかにお願いします…」

アブクマは耳を伏せて小さくなり、攻撃の矛先から逃れたオシタリがニヤリと笑う。

「大変だなアブクマ。学年トップと相部屋になんかなるもんじゃねぇな?」

アブクマは情け無さそうな顔でガリガリと頭を掻いた後、不意に口の端を吊り上げた。

「初めて普通に呼んだな?」

「気に食わねぇなら今まで通りに呼ぶか?デブ」

「ぬははっ!名前のが良いに決まってんだろ!」

そうやって、ボク達は時折声を上げて笑いながら、点呼を挟んで夜中まで、長々と話し込んだ。



朝のホームルームと一時間目の授業の間に、オシタリはトラ先生と一緒に理事長へ特例制度の申請を出してきた。

ボクらが帰ってきたオシタリに目で問うと、あいつは口の端を微かに吊り上げて見せた。

「なんていった?シンジョウ…って名前だったか…。その女子も加わってたんだろ?まだ顔も判らねぇが、後で礼言っておか

ねぇとな…」

オシタリは照れ臭そうに頬を掻きながら、それでも仏頂面を決め込んでそう言った。

その様子が可笑しくて小さく吹き出したら、ボクはギロリとオシタリに睨まれた。

…実は、少しばかり気になっている事が、一つある。

オシタリの特例措置について頼み込んだあの時、トラ先生は、目を少し大きくしていた。

特例なんかを持ち出されて驚いていたのかとも思ったが、それにしては二つ返事でオーケーしてくれた上に、問題点も考え

ていたようだ。

ボクから事情を聞いた後、質問してよこしていたのは、自分でも特例措置に思い至ったからじゃないだろうか?

あれは、驚いていたんじゃなく、ボクがオシタリを庇うような行動を取った事を、意外に思っていたんじゃないか?

あの肥満虎。ああ見えて、結構切れ者かもしれない。

良い子を装っているにも関わらず、ボクが申し出た事を意外に感じたのなら…。

もっとも、どうやら今回の件で株は上げられたらしい。…頭撫でてくれたしな…。

今後も好印象を与えて行けるように気を配ろう。安泰な学校生活のために。

さて、面倒臭いルームメイトの一件も、やっと片付いた。これでようやく平穏な生活が訪れる。

…そのはずだ…。うん…。