第四十話 「ボクにできる恩返し」

「行ってらっしゃい。気を付けて」

「安全運転で、行ってきます」

 そろそろ馴染み始めた朝の挨拶。先生は今日もボクに見送られて学校に向かう。

 微笑みながらドアを閉めた先生が施錠して、玄関に少し留まっていたボクは、戻ってこない事を確認してから居間に移動した。

 朝食は、昨夜残ったピザをコーヒーで頂いた。なんだかんだで先生は胃袋が若い、脂っこいのもお構いなしでパクパクいって

いた。居間には食事の名残のコーヒーの香りが漂っているが、少しずつ薄れていく。

 少し意外だったが、ボクはここでの生活を悪くないと感じている。寮以上に狭い範囲で外出不自由とか、ストレスが溜まるん

じゃないかと思っていたんだが、そこは苦もなく我慢できた。…外での楽しい事や、やりたい事については、あまり考えないよ

うにしているというのもあるが…。

 とにかくだ。先生を送り出して、部屋の掃除や自習をして、先生の帰りを待つ…。このサイクルが割とこう…、悪くない?

 ボクは自衛の為に昔の記憶に蓋をしてきたからか、家族との生活については細かい所をあまり思い出せない。だからなんだろ

う、ここに来てトラ先生と暮らす生活は…。

「家族生活…っていう気がする…」

 卓袱台に頬杖をついて呟く。

 そうなんだ。ボクはトラ先生を見送って、迎えて、一緒に朝食を摂って、夕食を共にして、就寝間際まで顔を合わせているこ

の暮らしに、一般家庭の生活という印象を持っている。かつてはあったのにボクの人生からは失われてしまった物だ。

 …考えてみればトラ先生って、割と一般的なパパのイメージを備えている気がする…。太っていて、穏やかで、だいたいガミ

ガミママとセットにされているアニメや漫画のパパキャラに通じる物が…。

 父性を感じているんだろうか?

 単にヌボーッとしていると感じていた第一印象は、理知的で聡明な教師という中身が判って来る内に塗り替えられた。

 だらしなく太った体つきだと思っていたのに、趣向や見方が変わって好意的に見れるようになった。

 眠そうな目もノッソリした動きもユーモラスな仕草も、今ではマイナスとは感じない。むしろ…。

 ボクは、かつて父を見送ったり迎えたりしていた。…なのに、当時はどんな気持ちだったのか、今ではもう殆ど思い出せない。

映像記録のように一部の光景をはっきりと思い浮かべる事もできるんだが、…、光景は覚えていても、感情についてはまったく

だ。まるで記録からも抹消してしまったように、他人事のような実感を伴わない思い出としてしか記憶できていない。

 ボクは父とも、こんな気分で毎日顔を合わせていたんだろうか?そして…。

「…代償行為…っていうヤツなのかな…」

 世話になっているからからなのかな。それとも、できなかった親孝行の代償行為なのかな。先生に何かしてあげたいっていう

この気持ちは…。疑似家族めいたやり取りを、ボクは先生との生活の中で楽しんでいるのかもしれない…。

 自分では、もっと利己的で無駄を嫌う性格だと思っていたんだが、この事しかり、オンラインゲームの事しかり、意外とボク

の心にも遊びがあったんだな…。

 …考え事に没頭していたらニ十分近く経っていた。先生はもう職員室に入った頃かな。

 トラ先生拘りの水出しアイスコーヒーをコップに注ぎ、ボクは携帯を操作してアブクマに送って貰ったレシピとアドバイスの

メールを確認する。

 ブーちゃんメールによると、素人のボクがここにある食材で作れるだろう料理は…。

 恩返しというにはささやかな、ちょっとしたサービスでトラ先生に喜んで貰おう。

 

「味噌汁ねぇ…」

 レシピを読みながらボクは眉根を寄せた。

 若干パッとしないが、まぁ良いだろう。いきなりフルコース的な物はいくら何でも無理だし、変に難易度が高い物だと全力投

球っぷりで先生に引かれる可能性もある。サッと手間をかけずに作りました的な物がベターだな。その点で言えば味噌汁は良い。

 ええと、具の白菜はオーケー。味噌もオーケー。調理器具は潤沢ではないが一通りある。

 棚の食器で気になるのは土鍋だが…、先生は冬とかに鍋しているのか?居間で?独りで?黙々と?

 …かわいそう。

 いやまぁそれはともかくとして今夜の味噌汁だ。

 アブクマ曰く、具の組み合わせで色々なバリエーションがあるものの、火の通り方で具ごとに食感も変わるから、最初はシン

プルに具一種のみで作るべきだそうだ。

 …素人でも美味しく作れる組み合わせには油揚げと白菜というペアがあるらしいが、油揚げはこの部屋に無い…。よって今回

は白菜オンリー。

 なになに?白菜は部分で切り方を変える、と。厚い所は食感を楽しめるように帯状に、薄い葉の部分は汁と絡みやすいように

やや細かめにザク切り。ふむふむ…。

 切り終わったら、出汁を混ぜた水でそれらを鍋で煮込む。火は強くし過ぎないように注意、焦げ付いてしまうから強火は避け

る事、と。なるほど。熱が通って柔らかくなったら、お玉なんかで掬った味噌を、ゆっくりとかき混ぜながら溶き入れる。と…。

 よし、できるぞ。この説明なら理解し易い、素人のボクでもちゃんとできる。流石アブクマ!

 …ん?しかしこれ、工程にかかる所要時間予想を見ると、かなり短時間で済んでしまうような…?どうせなら出来立てで飲ん

で貰えるように、夕方になってから取り掛かった方が良いか…。

 とりあえず材料と器具の確認だけ済ませたボクは、自習に取り掛かった。イヌイノートのコピーは参考になるが、直に見聞き

している勉強とは勝手が違う。学習の遅れが気になるな…。

 

 そして夕刻…。

 ふふふ、流石はボクだ。レシピ通りとはいえ不慣れな味噌汁作りも完璧だ!

 熱が通った鍋からは味噌汁の良い香りが立ち昇っている。白菜はちょっと切り方が不揃いになったが…、片目がまともじゃな

い事を考えれば許容範囲だろう。

 味噌の濃さも良し。出汁の顆粒の代わりの隠し味に、漬け物の素を加える事をアブクマから提案されたが、うん、少量だけど

たぶん効果はあった。味に深みが出ているような気がする。

 なんてこった、寮食の味噌汁と比べても劣らない物になってしまったぞ。自分の才能が怖いな。

 さあ、トラ先生早く帰って来ないかな…!そう言えば今夜の食事は何だろう?またピザっていう事だけは無いだろうが、和食

だと良いな。

 しかし、だ。ボクがソワソワし始めたこのタイミングで、ここ数日はだいたい同じ時間に帰って来ていた先生から、少し遅く

なるというメールが入った。

 先に、冷蔵庫にある物で夕食を済ませておいて良いと言われたけれど、…詳細は伏せるが…帰りを待って一緒に食べますと返

信しておいた。

 出来立てを提供できないのは残念…。味噌汁は温め直そう。

 やがて時計は七時を示した。

 いつもだと、先生と居間で食事している時間だ…。気にしていなかったが、何だろうこの気持ち…。夕暮れ過ぎて暗くなると、

この部屋に独りって寂しい物なんだな…。

 風呂は湯を張るだけにして、味噌汁はいつでも温め直せるようにして、エアコンもきかせて、疲れて帰って来るはずの先生を

待つ…。長いな、独りの時間…。

 …そうか。ボクは春に寮に入ってから、ずっと誰かと一緒に日没後を過ごして来た。それが当たり前になっているから落ち着

かないんだろう…。自分で思っていたよりタフじゃない点は、最近次々発見されてきた…。

 いつもの帰宅時刻から一時間ほど経った頃、玄関でガチャガチャ音がした。

 急いで立ち上がったボクが玄関に出ると…。

「ただいま」

 先生は少し疲れたような顔に、いつもの緩んだ微笑を浮かべた。

「おかえりなさい。お疲れ様でした」

 先生の手には手提げの紙袋。幅があるソレにはハンニバルの文字…。ボクが待っているって言ったから、夕食を買って来てく

れたんだ。

「随分待たせてしまったなぁ。腹が減っただろう?今夜は豚の生姜焼き定食だぞぉ」

「ありがとうございます。実は、今日はちょっと、せめて一品と思って…、白菜とか少し使わせて貰いました」

「お」

 先生が目と口を丸くした。

「何か作ってくれたのか?」

「簡単な物しか作れませんけれど」

 謙遜じゃなく実際そう。ただし今日の味噌汁は完璧だと自負している。ふはは。

「大したものじゃありませんが…」

 意気揚々と先に立って台所へ。コンロに上がっている鍋を見た先生は…。

「おお、鍋かぁ!米だけあれば良かったなぁ!」

 即座に鍋と決め付けて大喜び。…って違う!鍋じゃないんです先生!ハードルが…!ハードルが上がったぁっ!

「あの…、本当に大した物作れなくて…。味噌汁なんです…」

 おずおずと一言添えたボクに、先生は「そうなのか?いや味噌汁だって立派な物だ。私も作らないしなぁ」と笑う。…よかっ

た。ガッカリはしていないようだ。

「食材もろくに無いし、よく作れたなぁ」

「ええ、まぁ…」

 材料がないから出来栄えは期待しないで下さいと言うと、先生のせいにしているようにも聞こえてしまうから、そこは言い訳

しないでおく。

「レパートリーがシンプルな物だけなので、あまり期待はしないで下さいね?」

 角が立たない謙遜に留めて鍋の蓋を開ける。再加熱は必要だが、籠っていた味噌汁の匂いがフワッと漂った。

「う…」

 覗き込んだ先生が小さく喉を鳴らした。反応にドキドキする…。

「………」

 先生が黙って眼鏡を外して、目の辺りを押さえた。

 え!?ボクは平気だが、もしかして臭い!?目にきた!?それとも、そんなに時間経っていないのに気温のせいで変わってし

まった!?あるいは、トラ先生の体質的にダメな味噌汁だった!?

「ど、どうしました先生!?」

 先生は俯きがちになって眉間の辺りを押さえている。鼻にきたのか!?

「い、いや…」

 ようやく発した先生の声は、鼻声だった。

「懐かしい…。家で味噌汁なんて、何年ぶりだろうってなぁ…。そう考えたら何だかグッと来てしまって…。歳をとると涙腺が

緩くなっていかんなぁ、ははは…!」

 え…?家で味噌汁が久しぶりで、懐かしくてウルッと来た…のか…?

 先生は目尻を拭う。見れば太い指に大粒の涙が乗っていた。

 …かわいい…。

 ん?いや、これかわいいっていう感覚か?キュンとしたのは確かだが…。かわいい、のかな…。

「生姜焼き定食を選んだのはいい偶然だったなぁ。作ってくれた味噌汁にピッタリの夕食だ」

 眼鏡をかけ直した先生は嬉しそうに笑っていた。作って良かったという安堵感と、何とも言えない満足感…。あまり味わった

事が無い、充足したこの気持ちは何だろう…。

 

 ブーちゃんやパンダっ娘が料理に打ち込む理由が判った。

 ハフハフ、ズズズ、と味噌汁を啜るトラ先生を見ていると、凄く…、満足感がある…!作った甲斐があったと言うか、美味そ

うに食われると嬉しくなってくるな。これが料理か…!

 自分で言うのも何だが味は良い。素人にしてはよくやった。ふふん。

「お代わり、少しならありますから」

「うん。有り難く貰おうかなぁ」

 先生は嬉しそうに顔を笑み崩している。

 アブクマのアドバイスには作り過ぎないようにしろとあったから、小鍋に一つ、4杯分ぐらいの量だが…、こんな事なら味噌

汁だけで腹いっぱいになれる量を作っておくべきだったかもしれない。

 生姜焼き定食と白菜の味噌汁は相性が良かった。先生だけじゃなくボクも満足…。

「ウツノミヤ。不便をかけたが、明日には寮に戻って良いぞぉ。丁度週末だしなぁ」

「え?」

 箸を止めて、ボクは先生の顔を見た。唐突で、一瞬理解が遅れた。

「コダマさんの交渉が効いたようだ。今日も警備員さん達には警戒して貰っていたが、報道関係者らしい姿は急に減って、夕方

にはもう見られなくなったそうだ」

「昨日、会見のための話を纏めたのに、もうですか?」

「うん。一昨日の内から打診はしていたそうだから、本格的な話を持って行ったところで、各社一斉に引き上げたんだろう。フ

リーの記者についても何らかの情報網を共有しているのかもしれないな」

 そういえば、初めに会った夜の口ぶりからすると、打診だけはしておいたような事だった…?手際が良いって言うか、スピー

ド勝負なんだろうな、記者の世界って。

 でも、だ。コダマさんを信用しない訳じゃないし、あの案より良い物がある訳でもないけれど、もしも…。

「もしも、ですよ?それで引き下がらないのが居たら?協定を破るペナルティは会見への参加なんですから…、会見が終わった

後でボクへの取材を敢行されるっていう可能性は…」

 ボクはそこを考えずにいられない。協定を破れば記者会見に参加できないが、その後は?記者会見が終わったら取材への抑止

効果が無くなるんじゃないかと…。

「ゼロじゃあないな」

 先生はあっさり頷いた。

「が、コダマさんもその辺りは把握しているようだなぁ。私も、事後の取材に抑止効果はあるのか訊いてみたんだが…。曰く、

「協定を破れば業界から干される。取材会見で均等に情報を撒かれて、世間の関心も落ち着いた後、トクダネになりそうもない

物を目当てにリスクを冒す事はないだろう」という事だったぞぉ」

「なるほど…。各社一斉に記事にして、それで世間が納得するかスッキリすれば、それ以上あまり旨味が無いのに、ボクに食い

つき続けるのはデメリットでしかない、と…」

「そういう事だなぁ」

 記者連中の信用問題とかスタンスとかが根拠なら、それこそ個人差があるから眉唾だが、メリットとデメリットの話になれば

納得だ。

 これで元の生活に戻れる…。

 ………。

 …何でだろう?良かったはずなのに、ボクは胸が少し苦しかった。

 

 食後、先生と冷たいお茶を啜りながら、今後の事について話をした。

 記者の姿は見えなくなったが、念の為明日の日中は様子を見て、夕方には寮に戻る方向で行く。カナデさんの取材会見は明日

の午後…、タイミングを合わせた移動だ。

「晴れて自由の身だ。良かったなぁ」

「はい…」

 トラ先生に笑いかけられて、ボクは微笑を返す。

「ストレスも溜まっていただろう。休学ももうすぐ終わる、適度に羽を伸ばしたらいい」

「そうですね。登校に備えて体調も整えておかないと」

「真面目だなぁ。ははは」

 先生が笑う。真面目に振舞うメリットがあるからそうしているだけなんだが…。

 ボクが戻った方が先生も不便なく伸び伸びできる。普通に戻るのは良い事なのは判る。だが、正直に言う。

 判ってしまった。ボクは、寂しいと感じている。

 寮に帰ればオシタリが居る。アブクマやイヌイ、寮の仲間達も居る。孤独じゃない。にも拘らず寂しさを覚えるのは…、先生

が、他の誰とも違うから…。

 知っている。先生は部屋にいるボクを独りにしないよう、早く帰って来るようにしていたが、それで仕事の方で不便をしてい

た事を…。

 ボクをかくまう前だってそうだ。記者連中の目を盗んだ外出、病院への送り迎えで時間を費やして貰っていた…。

 居間の灯りは毎晩夜遅くまでついていた。あれはきっと早く帰って来るせいで、ミニテストの問題なんかを職場で作る時間が

なくて、持ち帰って来ていたから…。

 先生は、ボクが起きている間は仕事をしないで、忙しい様子も見せないようにして、心理的な負担もかけないように…。

 仕事だから、指導者だから、そういう教職員の範疇を越えた所まで保護して貰ったせいか、ボクは、先生を…。

「私も明日の日中は出かける用事がない。もしも、勉強が判らない、何か訊きたい、という事があったなら、ミニ学習会をして

も良いぞぉ」

 明日、土曜の日中は先生も学校に出ないらしい。それならなおさら、もうボクのために時間を使わせないで、体を休めて貰う

べきだろう…。

「それなら、ボクは長寝していたいんですけれど…」

 週末は朝に起き出さないで昼まで寝ている事が多いのだと、ボクは先生に言った。

 嘘だが。

 トラ先生は少し目を大きくして意外そうな顔をしたが、「そうなのかぁ」と頷いて…。

「寝る子は育つというしなぁ、それも良いだろう。また環境が変わるんだ、体を休めて備えるのも良い事だ」

 どうやら疑われずに済んだらしい。

「そうだなぁ…。なら私もゆっくりしようか」

 先生はそう言って首を傾け、首の付け根を揉んだ。…時々見て来たオッサンっぽい仕草の中には、こんな風に疲労が窺える物

もあって…。

「あ、先生」

「うん?」

「肩、揉みますよ」

 物凄く昔の記憶が頼りだが、カタモミカタタタキ、これらは子供の嗜みとして一応やった事がある。しかし先生は喜ぶどころ

か、少し困った顔になった。

「いや、生徒にそんな真似をさせる訳には…」

 あ。労働の強要的な?教師としては生徒にそうさせるのは宜しくないというヤツか?しかし先生から求められた物じゃないし、

ボクが言い出した事、教師が立場を利用して生徒に奉仕させるのとは違うだろう。

「ボクがやりたいんです。お世話になってもお返しとか、不慣れな味噌汁作り程度しかできなかったし…。それだって部屋にあ

る物を使わせて貰った物で…。でも、肩揉みならできます。両親にも喜ばれましたし」

 嘘だ。した事はあったと思うが、喜んでいたかどうかなんて覚えていない。こう言えばボクの家庭環境を知っているトラ先生

が断り難くなると考えての発言だ。

「そうかぁ…。そういう事ならまぁ、ちょっとだけやって貰おうかな…」

 先生はしぶしぶと言った具合だったが顎を引いた。よし!

「それじゃあ早速…」

 腰を上げたボクは、先生の傍に寄って背中を向けて貰った。広い肩だな、それに厚い…。テレビを眺めている時なんかのオシ

タリの後ろ姿もガッシリしていると感じていたが、先生はそれよりだいぶ肉厚だ。胡坐をかいて座っていると、脇腹の肉が左右

にも丸みを帯びて張り出していて、ちょっとダルマっぽい。

 …しかしだ。言い出したは良いがボクは特に肩揉みに精通している訳でも慣れている訳でもない。ここは当たり障りなくやる

しか…。

 先生の肩に両手を置く。ランニングシャツの薄い生地は範囲が狭いから、先生の被毛に直接触れる面積も大きい。前に伸ばし

た指先が肩の曲面上部を出ない…。鎖骨の辺りまで指が届かない程の厚みだ。

 そんなに握力も無いし、力を込めたら長続きしない。力加減の適正も判らないから、まずは優しくやんわりと…。

「ん…」

 肉を寄せて掴むイメージで、ゆっくりと指を曲げて揉み始めると、先生が鼻の奥を鳴らした。痛かったりしただろうかと一瞬

ビクついたが、どうやら気持ち良かったようで長い息がその後に続いた。

「力加減どうですか?あまり力が強くないから物足りないかもしれませんけれど…」

「いや、気持ち良い、丁度いい塩梅だ…」

 無理して疲れない程度に、乱暴にして痛めない程度に、ボクは先生の肩を揉みほぐす。プヨプヨの皮下脂肪の奥に、少し感触

が違う肉があるのは筋肉の層だろう。ムキムキな硬さじゃなくて弾力が強いといった所だが…、加齢で衰えた筋肉ってこういう

感じなのか。ムキッじゃなく、モチッだな。

 揉みながら少しずつ手の位置を移動させて、肩の外側…腕の付け根の上側に移動すると、ちょっとした驚きがあった。

 肩の関節から先で弾力が強く…つまり筋肉の感触が増した。馬鹿力だとブーちゃんも言っていたが、先生の腕は脂肪で太いだ

けじゃなく、筋肉もがっしりついているんだな。肩の所から丸みを帯びて盛り上がっているのって、よく考えたら格闘家やアス

リートの半裸で見る、あの筋肉の付き方だろう?

 そこから時間をかけてゆっくりと、折り返して揉んで来て、首の付け根近くに来ると…。

 ゴリッ…。

「あっ」

 ん?

 先生が声を漏らし、ボクは妙な感触を指先に覚えて手を止める。

 何だここ?硬い…っていうか、中で筋か何かが一本通っているように、コリコリとすじばっていて…。あ!これが凝りってい

うヤツか!

 首の後ろから肩甲骨の間の方に繋がる所、両肩の間で筋肉がガチガチになっているのが素人でも判った。腕近くの筋肉みたい

な柔らかい弾力とは全然違う、力が籠って硬くなっている時の筋肉みたいだ。

「ここ、凝っていますね?」

「ん~…」

 先生は鼻の奥で唸った。顔は見えないが少し恥ずかしそうに感じる。

 しかしここ、肩みたいに掴んで揉める所じゃない。押してコリコリさせれば効くのか?どうするのが一番良いんだ?…えぇと、

指圧とか、ピンポイントで押すのもマッサージになるんだろうがやり方が判らない。とりあえず、親指の腹を固くなっている部

位に押し付けてみたが、ボクの非力さじゃ押してほぐすのは難しい。仕方がないから、肩を掴んだ状態で両手の親指を押し付け、

円を描くようにグリグリする。毛皮と皮下脂肪が硬くなった筋肉の上を滑るように動くから抵抗はないが…。

「はぁ…」

 先生が息を漏らした。今のは…、気持ち良い溜息に間違いない…!

「先生、どうですか?痛みとか無いですか?」

「ああ、うん…。気持ち良い…」

 心なしか先生の声はこもり気味だった。舌の動きが悪くなっている?

「ウツノミヤ、疲れただろう?」

「いえ、まだまだ大丈夫です」

 強がりじゃない。無理しない程度を心掛けて適度に力を抜きながら揉んでいるから、ボクの手はまだ疲れていない。

 それに…。ムニュッとした表面と、ミチッと詰まった密度ある中身。揉んでいるこっちの手にも心地良い…。先生の肩は癖に

なりそうな感触だ。

 先生は気遣いを見せたが、まだ行ける。いくらかでもこの背中の凝りをほぐしてあげないと…。

 ん?ちょっと待てよ?ここは首の付け根だから、首の後ろから頭まで繋がっていて…。

 押している親指の位置を少しずつ移動させて、うなじに差し掛かると、やっぱり!背中ほどじゃないがここもムチッと弾力が

強くなっている。おまけに先生の呼吸がちょっと弾んだ。反応を見るにここも疲労が溜まっているのは間違いない。

 肩に両手を乗せた格好から、親指を首の後ろを押すポジションに変更、手が支えになっているから指で押し易い。素人の仕事

だから正しいフォームや揉み方なのかは判らないが、たどたどしい所は目を瞑って貰おう。

 首の後ろを頭蓋骨の付け根まで、親指でグリグリしてゆく。その動きで頭が小さく前後に揺れている先生は、時々深い息を気

持ちよさそうに零す。よし、この揉み方は少なくとも不正解ではない。

 それからボクは、ちょっと気になって先生の肩から手を離した。

「ん、ああ~…。楽になった。有り難うなぁウツノミヤ…」

「いえ、まだ途中です」

 終わったと思って両肩を上げ下げする先生の、肉付きが良い背中を見つめる。

 首…、その重さを支える肩の間、背骨と背筋…。骨格と筋肉の繋がりで言えば、ここも…。

 ボクは先生の背中の中央…肉付きが良過ぎて判り易い背骨のラインを挟んで左右に手を置き、親指を背骨の左右に当てた。そ

うしてゆっくり押すと…。

「んおっ…!」

 先生が今までと違う声を漏らした。

「背中…いや、背筋?だいぶ凝っているみたいですね」

「ん~…、この体型、この体重だからなぁ。背中にも腰にも負担がかかっているんだろう」

 他人事みたいな言葉だが、声が若干恥ずかしそうだった。

「先生、俯せに寝てください」

 思い付いたのは、俯せに寝て背中のマッサージを受ける、テレビで見た芸能人の様子。あれだと下向きに押すから体重もかけ

られる訳だなと、合理的な利便性と機能性に今になって気付いた。

「いや、そこまでして貰うのは…」

「せっかくですから」

 遠慮しようとした先生だったが、案外ボクのマッサージは気持ち良いのか、強く拒否はしなかった。申し訳なさそうにノッソ

リ腰を上げて、その場でうつ伏せに寝転がる。

 …見下ろして抱いたのは、浜辺に寝転がる海洋哺乳類のようだという感想…。うつ伏せになって畳との間で潰れた腹は、横に

はみ出て広がっている。それでも腰の高さが厚みのある尻と同等なんだから、腹回りは推して知るべし。…俯せだとこんなに広

がるのか先生の体…。

 ボリューム的には圧倒されるが、しかしどことなく可愛いとも思える。

「失礼します」

 先生を跨ぐ格好で背中に手を当てて、いざ揉もうとすると…。

「ウツノミヤ、立ったままじゃ疲れるだろう?構わないから跨る格好で座りなさい」

「え?座るって…」

 先生に…跨る?

「尻の辺りとか。なに、ウツノミヤの体重ぐらい何でもないぞぉ?私はその何倍も重いんだからなぁ。ははは」

 とりあえず、言われたようにそっと先生の尻に跨る。幅があってだいぶ足が開くし、膝が畳につかないから100パーセント

体重をかけてしまうが…。

「大丈夫ですか?重くないですか?」

「平気だとも」

 先生はビクともしない。無理している風でもなく平気そうだった。

「それじゃあ、失礼してこの格好から…」

 確かに、先生の両側に足を開く格好で立って、真下に向かって屈んで揉むよりも、そうした方が体勢はずっと楽だろう。テレ

ビで見たマッサージ店みたいに台に寝ている相手を揉むんじゃないんだから、こういった格好になるのも仕方ないか…。

 最初は不安定に感じたが、先生の尻は肉厚で、柔らかくて、座り心地が良い。上質な作業椅子に座って背中に手をつき、前屈

みで体重をかけて背骨に沿って押してゆくと…。

「ウツノ…ミヤ…。上手い…んだ、なぁ…」

 背中を親指で押されている先生は、押し出される息混じりにそう言ってくれた。

「手慣れている…というか…。丁寧で…。気持ち良い…」

「それは良かったです」

 素っ気ないような返事をしながらも、内心ではガッツポーズ。手慣れていると先生が誤解する程度には形になっているらしい。

丁寧にやっているのは確かだが、詳しい訳でもないからちゃんと凝りをほぐせるかは心配だったんだが…、先生が気持ち良いな

ら万々歳だ。

 腕を組んで枕にして、その上に顎を乗せている先生の頭で、耳がぺったり寝ている。先生も気持ち良いがボクも気持ち良い。

背中の肉感もムチムチポヨポヨ、手触りがとても良い。

 時々喉を鳴らすような音を息と一緒に漏らす先生。それを聞いていると幸せな気持ちになって来るのが不思議だ…。満足感、

かな?上手くできているっていう…。

 …あ。

 しばらく経ってボクは気付いた。先生の呼吸が寝息に変わっている事に。

 眠ってしまうほど気持ちが良かったのか?そう考えるとまんざらでもない。

 疲れないように手抜きしながら素人がやるマッサージで、ぐっすり眠ってしまった大きな虎を、ボクは起こさないように静か

に揉み続ける。こんなに疲れてたんだな…。いつも暑そうに、ダルそうに、時々しんどそうにしていたけれど、疲れがたまって

いたんだろう。肩こりも酷いぐらいだったんだから。

 ボクは宇都宮充。もしかしたらマッサージの才能とかあったりするんじゃないだろうか?と、ちょっと自分を見つめ直し始め

た狐だ。

 …しかし、アレだな…。

 流石にマッサージする必要が無い部分だから触れる訳には行かないが、腹とか胸とかもどんな揉み心地なのか、確かめてみた

い気持ちはあるな…。頬とか、顎の下とか、どんな感触だろう…。