第四十一話 「ペイル・ブルー・ドット」

 なんて事だ。

 指先が震える両手を見ながら、ボクは気付いた。調子良かったマッサージだが、不慣れさはこんな形で現れるのだと…。

 指が動かし辛い。親指から肘の付け根までが微妙に苦しい。これ、筋肉痛とか筋肉疲労とかか…!辛いほどじゃないが反動が

こんな形で…!

 布団から起き上がり、すっかり明るくなったカーテンの向こうを見遣って、時間を確認する。

 朝九時。…ボクにも疲労があったんだろう、グッスリだったな…。

 着替えて部屋をそっと出る。先生がまだ寝ているかもしれないから、静かに…。と思ったら。

「おはようございます」

「お…?おはよう、ウツノミヤ」

 居間を横切って台所に入ろうとしていたトラ先生が、振り返って挨拶を返した。そしてファ~…と欠伸する。

 寝起きであちこち寝ぐせだらけ、ランニングシャツとトランクスは皺だらけ、寝起きで一層眠そうな顔…。生活臭濃いめの先

生は、それはそれで魅力的だとここ数日で感じるようになった。いやまぁ白衣とかもいつもヨレてたから、生活臭は普段から滲

み出ているが…。

「もう起きたのか…、フア…」

 先生は再び生あくび。昨夜マッサージ中に寝てしまって、少しして目を覚ました後の済まなそうな顔と満足そうな欠伸を思い

出す。

「グッスリでしたけれどね。先生は…?」

「もう少し寝ていたかったが、腹が減ってなぁ…」

 高校生の食欲か。…と、高校生のボクが突っ込みたくなる。

「二度寝しても良いんじゃないですか?夕方まで時間がだいぶありますから」

 あまりにも眠そうだからそう提案すると、先生は「それだとウツノミヤが暇するだろう?」と応じた。

「構いませんよ。寮に戻ったらオシタリが居るし、ゆっくりできるのも今日までですから」

「ははは、もしかして部屋では意外とおしゃべりなのか?オシタリは」

「口数はそうでもないんですけれど、…動きが唐突です」

 これはいつか言ってやらなくちゃいけない。アイツ前動作とか予兆とか無しにいきなり立ち上がったり、急に隣の部屋に行っ

たり、唐突に冷蔵庫に向かったりするんだが、動作がいちいち、ガバッ、ザッ、バッ、…と音を伴って急なんだ。時々不意打ち

でビビる。

「なるほど、喋らない分、なおさら急な動きが気になるのかぁ…」

「ええ。野生動物か子供みたいに、です」

 ボクの表現で先生は笑い、「ウツノミヤもパン食べるかぁ?」と訊いてきた。

「あ、はい。せっかくなので朝食にします」

 ここ数日の朝の風景。けれどそれも今日まで…。

 何だったらしばらくこうでも良かったなぁと、ボクは思っている…。

 

「そういえば、ウツノミヤ」

 マーガリンと餡子たっぷりの餡子トーストにかぶり付きながら、先生は眠そうな目をボクに向ける。軽めの朝食…なんだが、

先生はモリモリ食べている。

「腕、疲れてないかぁ?」

 ギクドキ。

「大丈夫です。元々非力ですから、筋肉痛になるほど力を入れられませんから」

「そうかぁ。普段使っていない筋肉を働かせただろうから、疲れたんじゃないかと。有り難うなぁ」

 先生がホニャッと柔らかく笑う。…そんな顔をされると悪い気がしないどころか、また肩でも揉んであげたくなる…。

「ウツノミヤは、今日はしたい事とか何かないかぁ?今日ぐらいは外出してもいい、行きたい所があれば連れて行くから言いな

さい」

 流石に今日はもう張り込まれないからと、先生は言ってくれたが…。

「大人しくしています。コダマさんが会見してくれるのに、ボクがフラフラしているのもちょっと…」

「ははは、義理堅いんだなぁ」

 義理堅い?ボクが?そうかな…。

「買い物とかも良いのか?」

「必要な物は特に無いので…」

「そうかぁ。じゃあ、昼飯も出前で良いかな?何か食いたい物があれば言ってみなさい」

「特に…。あ、いえ、ありました」

 何でも良いと思ったが、一つ思い浮かんだ。

「ラーメンとか」

 先生が軽く眉を上げた。

 食べたくなっていたんだよな、ラーメン。コダマさんがラーメンの出前の話とかしてて、そういえばしばらく食べて無いなっ

て気付いたら…。

 

 申し開きをさせてくれ。こんな事になると思って提案した訳じゃない。

 十二時四十五分。朝食の時間に合わせて少し遅くした出前が届いた。

 ボクはシンプルに醤油ラーメン。鶏ガラがきいたあっさり系だ。先生はチャーシューメン大盛り。肉も麺もとにかくボリュー

ム満点だ。

 何でも美味そうに食べるなぁと、ほのぼのと眺めていたボクは、数分で目のやり場に困り始めた。

 冷房は最大にきかせてある。にも関わらず…、トラ先生はあっという間に汗だくになって、薄いランニングシャツが透けてき

ていた…!豊満な胸の下側の曲面に、薄く透けて見える違う色は乳首だろうか…!

 本人は自覚がない…というよりもボクが男だから目を気にしていないんだろうが、布巾で汗を拭いながらハフハフ食べている

その姿は、ホモになった上にふくよか体型が好みになったらしいボクにとっては眼福…ではあるが困るほど魅惑的…!ただでさ

え色んな所を触って感触を確かめてみたい欲求があるのに…!

 しかし先生、家の中ではこうまで無防備になるのか…。いや自宅でも警戒や緊張をしながら四六時中生活するヤツはそうそう

居ないだろうが…。

「いやぁ、美味いが汗をかくなぁ」

 先生は満足げ。ボクも満足だ。色々と…。

 胡坐をかいた足は、トランクスの裾がピチピチで切れそう。太腿は逞しいとかわいいの中間…この体を支えるだけあって太ま

しいが、柔らかそうな肉付きだ。

 二の腕も太いがふっくらしている。手は大きく厚く、太過ぎる指は対比で短く見える。

 肩から背中まで分厚い肉を被ったラインはなだらかな曲面。首が妙に短く見えるし、顎下の丸みも愛らしい。

 弛み気味の胸はふくよかで、前にせり出してシャツを押し上げている。腹は座っていると足の付け根に乗るほどの肉量、動く

たびに一番目立って揺れるのがここだ。

 目が弱っていて良かった。隅々まではっきり見えていたら、あまりに魅惑的で常に落ち着かなかっただろう…。触ってみたい

衝動に、どこまで抵抗できたか…。

 空になったラーメンどんぶりを下げる。流しで洗うボクの隣で、先生が拭いて水気を取る。食器洗いとか普段は面倒な雑事で

しか無いのに、今はちょっと、印象違うかな…。

 この数日の、朝から晩までのサイクルは、結構気に入っていた。

 おはようと挨拶を交わして顔を合わせる居間。

 トースターから跳ねる食パンと、焼けた匂い。

 淹れて貰ったコーヒーの、室内を満たす香り。

 着替える先生の部屋から聞いた仏壇の鐘の音。

 玄関で見送り、交わす挨拶と閉じられるドア。

 他の住民の生活音も聞こえない、静かな日中。

 帰りを待つ夕方の部屋と窓から射し込む西日。

 おかえりただいまを言い交わして迎える玄関。

 ふたりで挟んだ卓袱台と、並べられた夕食…。

 …名残惜しいな…。

 隣でキュッキュッとリズミカルにどんぶりを拭う先生を、ボクは横目でチラ見していた。

 

 名残惜しい半日が過ぎる。

 ボクはテレビがついた居間で、先生とずっと話していた。

 勉強の事でも、学校の事でもなく、ワイドショーが提供する話題でつらつらと…。

 時計の針が進むにつれて、もっと過ごし方があったんじゃないかと少し悔やんだ。

 ボクは柄でもなく、恩返しが足りていないなんて殊勝な事を考えていた。先生にしてあげられる事が、掃除とか以外にもあっ

たんじゃないか…。コダマさんへのお礼の言い方も、あれではまだまだ足りていないんじゃないか…。

 気にしなくて良いと、きっと言われるんだろう。でも、ボク自身はそれで満足できない。納得できない。

「忘れ物とか、大丈夫かぁ?」

 そろそろ荷物を纏めるようにと先生が促す。

「はい。一纏めにしておきました」

 いつでも出られる状態にはしてある。部屋も掃除したし、布団も広げて陽に当てている。

「お世話になりました」

 改まって頭を下げると、先生は「居させただけだ。あんまり世話はできていなかったなぁ」と笑って頬を掻いた。

「我慢の数日だったが、頑張ったなぁ」

 先生は普段から緩い表情をさらに緩めている。

「大変だったが、乗り切った」

「いえ。乗り切れたのはボクの力なんかじゃなく…。それどころか意外と弱かったです、ボクは。それが残念というか、ショッ

クだったというか…」

 本音だ。耐えたようなそうでないようなボクは、実質的に事態が好転するのを守られながら待っていただけ。ボク独りでは何

も解決できていないし、心境的にも成長したり強くなれた訳じゃない。

 別に腕っぷしの強さとかは欲していなかったし、今も要るとは思わない。

 ただ、精神的には結構強い方だと思っていたんだ。家族を失ったのも乗り越えたとか、恵まれない家庭環境でも耐えて来られ

たとか、ちょっとした自負にもなっていたかもしれない。

 ところが、そうでもなかった。

 ボクは弱い。思っていたよりずっと。それがまぁ少しばかり残念にも思えて…。弱さを自覚したのは一歩進んだと言えるかも

しれないが。

 今回の件で思い知ったその事を、悔恨混じりに口にすると…。

「良いじゃあないか。多少弱い所があったって」

「でも、弱いよりも強いに越した事はないでしょう?何だってだいたい強い方が良い」

「ウツノミヤ。弱酸性は、悪か?」

「………」

 今なんて?

「弱酸性…?あの…、成分の?」

「うん」

「いやそれは…。用途によると言うか…」

「だろう?適した形質や性質という物がある。ひとは色々と変えていける生き物だが、変えられない所には折り合いをつけて行

くしかない。ウツノミヤはウツノミヤで、その性質で世間に適応し易い部分も大きい。勿論、強くなければと思う気持ちは立派

だが、必ずしも強くなければならない訳ではない。誰かの弱さに共感し易いのは、自分の弱さを知る者だ」

 先生はそう言うと、「これは、あるヤツの受け売りだがなぁ」と続けた。

「強いだけの社会は脆い。例えば、戦時中の国には強さが求められる。侵攻するために、防衛するために、打ち倒す強さや屈服

しない強さが。飢餓に苦しむ時代なら生産性の強さが求められる。贅沢を排斥し、弱音を閉じ込め、歯を食い縛って耐えながら

乗り切る強さと、切り捨てる強さが。そんな時世には弱さを許容する余裕がない、故に、社会的弱者を受け入れられないという

点で脆く、その緊張状態を持続させれば疲弊してゆくという意味でも脆い」

 …一理ある。許容性と多様性がひとの強みであり、余剰や無駄を許せる余裕がある社会状況が文化の発展の土壌だって、オウ

ニギイナリの著書でも何度か触れていた。

「しかしだ。私達は幸福な事に、平和な時世に生きている。財政的な強さ、肉体的な強さ、立場的な強さ、社会的な物も含めて

様々な強さは価値ある物と認識されるが…、強くなくてはできない事など、今の社会では実はさほど多くない」

 先生が語る内容、その観念と理屈は、ボクにとっては新しいものではなかった。これまで読んできた好きな本の向こうに、軽

妙な文章の中に、漂って見えていた物を浮き彫りにして、はっきりと判り易い形に整えて提示するような物で…。

「今は飢饉の最中でもないし、戦時中でもない。弱者を排斥したり、無駄を切り捨てたり、敵を打ち倒したりしながらでなけれ

ば生きていけない訳じゃない。私達は、お互いの弱さを許し合っていい時代と国に生きているんだ」

 だから、すんなりと受け入れられた。

「だから、私は弱酸性でいい。まぁ、頑張っても強酸性にはなれないがね。ははは」

 先生は笑う。ボクは、素直な気持ちで頷けた。

 そう。ボクらは弱くていい。

 ひとの弱さを許せるなら自分の弱さを許して良いのだと…、自分の弱さを許すならひとの弱さを許さなければならないと…、

好きな本の中で何度も読んできたのに、今まで掴む事ができなかった。

「ボクも」

 思えたんだ。「そう」なるのも良いかなって…。

「弱酸性がいいです」

 自分の事じゃないのに、先生もコダマさんも助けてくれた。競争を強いる社会を生き抜きながら、弱さを悪い事だと思ってい

ない大人達が、弱いボクを助けてくれた。

 将来やる事はまだ決まっていない。どんな大人になるのかも判らない。

 けれどボクは、大人になるなら先生みたいな弱酸性がいい。

「そうかぁ」

 先生が目を細める。

「じゃあ、洗剤仲間だなぁ」

「はい」

 ボクも目を細める。

 目が良く見えなくて助かった面もあった数日間だが、今はちょっと残念だ。先生の顔をはっきり見られないのが…。

「今度、お礼にまた味噌汁を作りに来ます」

「それは…。そうだなぁ、また頼もうか」

 先生はあの懐かしがっているような顔だ。

「肩揉みもします」

「いや、そこまでは…」

 こっちは遠慮しようとした先生だったが…。

「もしかして、下手糞でしたか?ボク…」

「そんな事はないぞぉ?機会があったらまた頼もうか」

 案の定、上目遣いで覗ったら簡単に折れた。

 悪くない…それどころかとても満ち足りた数日だった。帰るのが勿体ないと思えるほど…。

 

 

 

 夕食も済み、入浴は少し待って、時計を見る。

 そろそろコダマさんの会見が終わる頃だ。済んだら先生経由でボクにも連絡が来る事になっている。

「落ち着かねぇのか?」

 シェパードがテレビのリモコンを取りながら口を開いた。

「まぁね。試験の答案を返されるのを待っているような気分だ」

「そいつは…、落ち着かねぇな」

 骨身に染みたという様子で理解を示すオシタリ。久しぶりに帰ってきた寮の部屋は、やっぱり落ち着いた。慣れた感じという

か…、安心感がある。何がどこにあるか判るし気も使わない。決してトラ先生の部屋は気が休まらなかった訳じゃないんだが、

それでも汚さないようにとか、奇麗に使おうとか、意識はしてしまうからな。

「…終わんのか。全部」

「そのはずだ」

 意図的に報道番組を避けてチャンネルを変えるオシタリに、ボクは頷く。

「元通りになれんのか」

「そのはずだ」

 ドッと笑いが弾けるバラエティショーを眺めるオシタリに、ボクは頷く。

「じゃあ、後はお前の目玉だな」

「まぁそうなる。…ダメならダメで、伊達眼鏡が普通の眼鏡に切り替わるだけだ。不自由はそんなにないかもな」

「目が治っても、眼鏡は作り直すんだろ?」

 オシタリは言う。「トレードマークだからな」とボクは応じる。

「せっかくだ。思い切って良いデザインのを選べよ」

「ん?似た物にするつもりだぞ?」

 オシタリとボクは視線を交わした。

「…もっと派手で格好良いヤツとかよ、あんだろ?」

「いや派手さは要らない。っていうか格好良くなかったか?」

「真面目そう過ぎる形だったろ」

「そこが良いんじゃないか」

 んん…。格好良いの基準もひとそれぞれか…?遺憾な事にボクの伊達眼鏡がオシタリには格好良く見えていなかったらしい。

「そういえばオシタリ。君、味噌汁好きか?」

「普通だ。何でだ?」

 ボクはキッチン側に目を遣る。持て余していたが、こうなると自炊できる寮部屋というのは有り難いな。

「練習したいんだよ。先生が喜ぶから」

「そりゃ、良い事だな。恩返しの練習台なら付き合うぜ。サツキに相談して、美味いのの作り方ミッチリ仕込んで貰って、先生

にご馳走してやれ」

「うん。恩返し、だな…」

 コダマさんにもお返しをしたい。ささやかだが、今度シンジョウに案内して貰って和菓子かふぇとやらに行ってみよう。色々

助けて貰ったし、イヌイやアブクマ…勿論オシタリも誘って。

「そうだ。せっかく自由の身になれるんだから、外出したい所を考えておくか」

「ラーメン屋とか、ファーストフード店とかか?」

 違うと言いたい所だが、俗な事に今のボクにはそんな欲求もある。日頃はそんなに欲さないのに、食べられないとなると欲し

くなる物なんだろうか?コダマさんが買ってきてくれたモフバーガーの品、どれも美味かったな…。

「とりあえず外食とかは付き合うだろう?キミの方が美味い飯屋には詳しそうな気もする」

「知ってるトコなんて偏ってんぞ?」

「それでもいいさ」

「…お前、よぉ」

 オシタリは怪訝そうな顔になった。

「先生のトコに泊まってる間に、何かあったのか?」

「何もなかったよ。本当になんにもなくて、安全で、静かで、穏やかな数日だった。変わったって言いたいなら、まぁそれでた

ぶん合っている。色んな事を考える時間と環境が、整っていたからな」

 疑問を先取りして、ボクはオシタリにそう言ってやった。そして…。

「そんな環境で、弱酸性になろうと決めたからな」

「???」

 オシタリは眉根を寄せた。「肌に優しいとか、宣伝で言ってるアレか?」と。

「そう、その弱酸性だ」

「ウツノミヤ」

 オシタリがテーブルに視線を向ける。ボクも気付いて携帯に手を伸ばす。

 シェパードがテレビの音を消して、「はい、ウツノミヤです」と応答したボクの耳に、トラ先生の声が届いた。

『コダマさんから連絡があって、会見は無事に終わったそうだ。質問などやり取りの内容は後日説明してくれるそうだが、とり

あえずはまぁ、知りたがられていた事には全部説明をつけられて、満足させられたと思う、との事だ。良かったなぁ』

「はい。コダマさんにも本当に助けられました」

 肩の力みが抜けるのが自分でも判った。

 終わったんだ…。シマと遭遇したのを皮切りに、思ってもいなかった騒動に発展した今回の件は、やっと…。

 オシタリがじっと見ている。警戒している獣のような顔だったから、ボクは頷く事で応じた。良い知らせだと。

 これで安心できたら、あとは目の治療に集中だ。早く復学しないと遅れが気になって精神衛生上良くないし、オシタリのテス

ト対策にも影響が出るからな。

 

 

 

 その数日後。ボクは先生にお願いして、ある人物と改めて会った。

「上手く行って何よりだったよ」

 鳥ガラ出汁がしっかりきいた、鳥ハムがチャーシュー代わりに乗っている塩ラーメンをハフハフ食べながら、小山のような狸

が口を開く。

「ええ、完全に鎮静化しました。寮の周りも学校周辺も、あの時点を境に記者が姿を消しましたよ」

 モヤシとキャベツとキクラゲと挽肉がゴッソリ乗った味噌野菜ラーメンをズルズル啜りながら、トラ先生がウンウン頷いた。

「コダマさんのおかげです。ボクのメンタルじゃ説明とか会見とか無理でしたから…」

 千切りネギがシャキシャキした香ばしいニンニク醤油ラーメンを味わいながら、ボクはしみじみと振り返る。

 ここは県道沿いの家電量販店駐車場、その端に開かれた軽トラ屋台ラーメンの席。今回のお礼を言いたいとボクがお願いした

ら、先生は夕食を一緒にする事を提案してくれた。今度はもう何処に出掛けても大丈夫だから、外へ行こうかと。

 結局、希望を聞かれたコダマさんが提案したのがこの屋台。軽トラックの後部が展開して厨房になり、ベンチとカウンターを

組み付けて簡易客席にし、軽トラックの荷台を挟んで店主が客に品物を提供する形式だ。

 店主は一見すると暴力団のように目つきが鋭い焦げ茶色のヤマネコ。引き締まった筋肉質な体にピッタリした紺色ティーシャ

ツ、腰エプロンという格好。ボソボソと低い声で喋り、寡黙で何やら迫力がある。

 味はいい。スープは塩、味噌、醤油の基本三種で、注文によって擦りおろしニンニクが加わったりチャーシューが増えたりと、

フレーバーとトッピングが変わる。醤油ラーメンはあっさり目で飽きが来ない味だった。素朴だがどこか懐かしい味のスープに、

プリプリの麺がよく合っている。

 …大男ふたりに挟まれる格好で座るボクは、その重量でベンチが壊れないか心配だったが、鉄骨入りの頑丈な席はビクともし

なかった。
少し前なら息苦しさを覚えただろう、肉付きの良い巨漢ふたりに挟まれての食事も、今は何でもない。むしろ息遣い

や勢い、咀嚼音に、美味そうに食べているという好印象しか抱かない。

 ふたりの健啖ぶりに影響されて食欲が増したのか、ボクもサイドメニューにニラ入り餃子を追加注文してしまった。

「ああ、そうそう」

 トラ先生が思い出したように話を変えた。

「一冊、サインして欲しいのがあるんですが、お願いしても?」

「突然だネ?良いですよ。何処のかナ?」

「新書の、ドイツの旅行記にお願いできればと」

 そう言えばコダマさんは写真集とか出しているんだった。著者サイン入りかぁ…。ボクもコダマさんの著書を手に入れておけ

ば良かったな…。お礼というか何というか、仕事の成果について一読者として感想でも伝えられれば、喜んで貰えたかもなと今

更思った。

「誰かに贈り物なんです?」

「ええ。これから目のリハビリを頑張る生徒に」

 ………。

「え?」

 ボクは左右を見る。コダマさんは「なるほどナ」と、トラ先生は「見たい写真集があれば、目を治す励みになるだろう」と、

笑っていた。

「それじゃあ明日中にサインするよ」

「有り難うございます。早い時間に伺いますから、よろしく」

「え、ええと…。済みません…、ありがとうございます…!」

 自分で買っておいてサインをお願いするならともかく…、いや、サインをねだるのもどうかと思うが…、サイン入りをプレゼ

ントされる事になるのは流石に恥ずかしい…。いやありがたいが…。

 それにしても、気軽にサインをお願いして、それを二つ返事で引き受けるあたり、トラ先生とコダマさんはボクが思っていた

よりずっと親しい間柄なんだろう。今回ボクを助けてくれたのは、学校のOBだからとか、実家の詐欺被害が未遂で済んだとか、

理事長の依頼だからとか、そういう事だけが理由の全てじゃないのかもしれない。

 ボクの両脇で大男ふたりが丼を両手で捧げ持ち、ズズズ~ッとスープを啜り込んで、同時にゴトンと置く。

「お代わり!ニンニク味噌ラーメンお願いしますよ!」

「醤油チャーシューメンをお願いします」

 健啖家なふたりはもう三杯目…。モリモリ食べる姿は見ていて感心するほどだ。

 ヤマネコの店主は低い声で「あいよ。ニンニク味噌、醤油チャーシュー」と復唱する。傍から見ていても手際が素早い。これ

がプロの料理人の手さばきか…。味噌汁も物凄く美味しく作れるんだろうな…。

 聞けば、コダマさんは明後日にはまた出国するそうだ。たぶん今回の帰国は予定にない物で、仕事のスケジュールの間に何と

か時間を作ってくれたんだろう。もう渡航準備はできているそうで、今度は南米に向かうと…。

「南米とか、素人の印象だと麻薬密売組織とかで危ない印象がありますけど…。あと派手なお祭りとか」

「鋭いネ。その麻薬密売組織のボスに会いに行くんだよ」

『は?』

 ボクと先生の声がハモった。

「先月逮捕されてネ、今は収監中。獄中インタビューっていうヤツだよ」

「そ、そんな事できるんですか!?」

「やるよ?本人に呼ばれたからネ」

『は!?』

 再びボクと先生の声がハモる。コダマさんは悪戯っぽく片目を瞑って見せた。

「そのボスとは昔ちょっとあってネ。当時は相手の素性も知らなかったけど…。それでまぁ、獄中で自伝を書く気になったから

アドバイス欲しいとかライターを紹介して欲しいとか…。その代わり単独インタビューを受けるからって、誘われたんだよナ~」

 え?これ何?凄い事を聞いているのに普通に喋られるせいで凄さの規模が判らないぞ?

「人脈が広いですね」

 と言ったのは先生。途方もない話で面食らっているのか、心なしか流石のトラ先生もぼんやり気味…。

「悪縁奇縁に腐れ縁…。こんな事を仕事にしているとネ、ひととの関りはどんどん増えて行く物なんですよ。何処のどんな国で

も、ストレンジャーを受け入れてくれるひとは居る。世界は捨てたものじゃないよ」

 体も気持ちも仕事のスケールも大きい狸は、そう言ってカラカラと気持ちよく笑った。

「大変な仕事でしょうけれど、何でフリージャーナリストになろうと思ったんですか?出版社の記者じゃなく…」

 ボクの素朴な問いは、よく考えてみると不躾だったかもしれない。でもコダマさんは気を悪くする事無く答えてくれた。

「事件を報道したいから、というのが第一だったら何処かに入社していただろうネ。でもボクは、単に「知りたい」という所か

ら始まってたからナ」

 コダマさんはそう言って、首を縮めて見せた。

「写真が好きだったのは、その瞬間に見た物を他の誰かにも見せられるから…だったよ。話題を共有できる、体験を共有できる、

ってネ。まぁ…、写真の出来によっては、全然感動が伝わらなかったりもするんだけどナ!当時は失敗の方が多かったよ、あっ

はっはっはっ!」

 そうして写真の腕を磨いて、その内に人生の転機となる出来事があったそうだ。

 コダマさんは高校生の頃、外国の少年…出稼ぎ労働者と出会った。詳しくは話してくれなかったが、彼の国の事を全然知らな

い事が発端になって、その国の事を自分の目で見たくなって、渡航して、カメラにおさめて…。

「それが、きっかけだったナ。僕は自分で思っていたよりもずっと無知で、知識にあるはずの物ですら正しく認識できていなく

て、何より、感覚的な感触…、その国に対する概念や視座が全くなっていなかったんだよ。それでネ、普通に国内で生きてたら

触れられない情報や、見られない景色、そんな物を発信して行きたいと思ったんだよ」

 そこに行かなければ知れない事はある。軽く触りの知識を得て判った気になり、それ以上を知ろうとしなくなる事も多いから、

正しく詳しく知る機会は、現代人にはそれほど多くない。

「まぁ、そういう事を知って役に立つかどうかは別だけどネ。ウツノミヤ君は、「ペイル・ブルー・ドット」っていう写真の事、

知ってるかナ?」

 ペイルブルー…。青白い?何だっけ、ええと、いつだったか確か授業中に…。天体の話だったかな?テストとかには出ない、

こぼれ話みたいな物で…。あ!

「宇宙探査機からの写真でしたっけ?」

 記憶を探り合ててピンと来たボクの声は、少し大きくなって勢いがあった。コダマさんは「そう!それだよ!」と嬉しそうに

頷いて、目を細くした。

「前人未踏の距離にある、この星から最も遠い人工物…今も星の海を航海し続ける只一隻の舟から届いた一枚、それがペイル・

ブルー・ドット。現状、最も遠くからこの星を撮った写真でネ、もう遠すぎて拡大しても青白い点にしか見えないぐらいだよ」

 ああ思い出した…!本当に小さな点でしかない写真だって…。

「その写真はネ、発案から八年近くもかけて撮影されたんだよ。撮るかどうかですらモメちゃってネ」

「八年も?そんな貴重な写真を撮る機会なのに、どうしてモメたりなんか…」

「科学的にはあまり意味がない行為だったからなんだよ。あまりにも遠すぎて点でしか写らない事は想定できたしネ。それで何

らかの科学的発見が得られるとは思えないのに、宇宙探査機にわざわざ指令を送って、姿勢制御をさせて、乏しいエネルギーを

使わせてまで写真を撮るのに意味があるのかって」

「ああ、それは…」

 判る話だ。理屈は。でも…、何でだろう、しっくり来ない?合理的で間違ってないはずのその理屈が、撮らない理由になる事

にしっくり来ない…。

「え?でも結局写真は撮られたんですよね?」

 そうだ。だったらどうしてだろう?どうして写真は撮られた?どうしてペイル・ブルー・ドットはこの星に届いた?

 トラ先生は答えを知っているんだろう、口を挟まずにラーメンを啜っている。ただ、耳は興味深そうに立ってやり取りを聞い

ていた。

「…概念…と、視座…?」

 ボクはポツリと、我知らず呟いていた。さっきコダマさんが口にした言葉だ。

「その通りだよ」

 コダマさんは満足げに頷いた。

「小さな小さな青い点。それ自体を見ても科学的には何も新たに発見する事はできないだろうナ。でも、「この星は宇宙の中の

小さな点に過ぎない」っていうその知識的な情報が、その写真一枚で万人が理解できる概念になって、見たひとはその視座を共

有できたんだよ」

「「そんな事は判っていた」…」

 トラ先生が口を開いた。

「「そんな話は知っている」「そんな事を聞いていた」「勿論知っているとも」…。多くの人は、この星が宇宙の中のちっぽけ

な点である事を聞いても、そんな反応だろう。だがなぁウツノミヤ。60億キロメートル向こうから届けられたその写真を見た

誰もが、こう思わずにはいられなかったんだ」

 大きな虎の優しい目がボクを映した。

「「知っていた。でも本当にこんな景色だったのか…」となぁ」

 どうしてコダマさんがペイル・ブルー・ドットの話を持ち出したのか、ボクはやっと理解できた。

 教えたいとか、広めたいとか、そういう事よりも、コダマさんは皆に気付きを与えたいんだ。きっと、外国人労働者の少年の

国に行って知る事が出来た自分のように、そこに居ない誰かに、コダマさんのペイル・ブルー・ドットを送りたい…。

「新たな視座が得られる事や、新たな気付きが得られる事。大発見ばかりじゃないけれど、見て知って感じる事は心の刺激にな

るよ。そういった刺激や驚き、感激をネ…」

 大きな狸はニンマリ笑う。

「「ロマン」って、ひとは呼ぶんだナ。僕は皆にそういった物を提示したくて、気ままなフリーになったんだよ」

 ストンと腑に落ちる話だった。特ダネに飛びつきたい記者特有のガツガツした印象や、ギラギラした感じをコダマさんから全

く受けないのは、きっと根っ子が「こう」だからなんだろう。

「ウツノミヤ君は、もう将来の夢とかやりたい事とか、決まってるのかナ?」

 コダマさんからそう質問を返されて、ボクは言葉に詰まった。

 安定した輸入が見込める将来。漠然とそんな事を考えていたが、やりたい事となると…。

「未定…ですかね?普通に会社勤めになるとか、そういうイメージしかなくて…」

「今はまだそれでも良いと思うよ。世界は可能性に満ちている…って、トラ課長なら言いそうだよネ」

 コダマさんは将来を決めていないボクを嗜めるでもなく、先生に話を振った。…ん?トラ課長?

「アレに言わせるままにしておくと、世界は可能性に満ち過ぎて混沌としているように感じますがねぇ」

 先生は苦笑い。…もしかして、トラ先生のお兄さんの事か?コダマさんはお兄さんとも面識があるのか?

「急いで決める事よりも、満足いくまで悩んで決めるのが良いよ。全く後悔しない選択なんてそうそうないけど、充分悩んで決

めた道なら頑張れる物だからネ」

「はい。肝に銘じます」

 頷いたボクは想う。

 コダマさんも、トラ先生も、選んだ道を悔やむ事があるんだろうか?と…。

 ボクは宇都宮充。虚勢を張って真面目ぶって自分は打たれ強いと誤認していた狐。

 将来の事はまだ決められないが、とりあえず今の目標は…、弱酸性だ。