第四十二話 「初恋」

「ウツノミヤ!ロケット大会参加者名簿さ、宣伝になるから今の時点での参加予定者張り出したいんだけどどう思う?」

「良いと思います。こんなに出るなら…とか考える生徒も居るでしょうし、お祭り好きなら人数を見て参加を決めるかもですし」

「オッケー!じゃあそっちの方向でトラ先生にも話してみる!」

「ウツノミヤ、大会レギュレーションの告知と研究成果発表の教室案内、別々に分けるのどう思う?」

「う~ん…。片方だけ見て、「化学部の告知はもう見た」と勘違いして残りの方を見られない可能性もありますよね?一緒の紙

面で、上下か左右に分割するのが安全パイかなと」

「それもそうだな!数貼れば良いってもんでもなし」

「ウツノミヤ、お前確かシンジョウ女史と仲良いよな?」

「女史って…。いやまぁ、仲が良いかどうかはともかく接点は多少ありますけど」

「じゃあちょっと口利きしてくれる?印刷の順番あるから原稿の持ち込み納期は厳守って言われてんだけど、ちょっと後にずら

せないかって…。他の部とかの告知と順番入れ替えるとかさ」

「判りました、交渉してみます。でも、ボクが作成手伝って早まるなら、そっちの方が何処にも影響なくて良いかと思いますが」

「お?いいの?じゃあ手伝って貰って納期間に合わせるか!」

「あ、ウツノミヤ」

「ウツノミヤ、少し良いか?」

「ウツノミヤ終わったらちょっと…」

 

「…で、味噌の溶き方にも出汁の種類でちょっと工夫があってよ…。ウッチー、どうした?」

「え?」

 エプロン姿の大きな熊が、味噌を溶く実演の最中にお玉を止めた。

「ボーっとしてねぇか?」

「そうか?ゴメン、集中できていなかったか」

 学生寮の一室、アブクマの部屋のキッチンでナメコ汁作りのレクチャーを受けていたボクは、怪訝な顔の熊に詫びる。

「良いんだけどよ、最近疲れてんじゃねぇのか?」

 アブクマは作業を再開しながらそう言った。「文化祭の準備も追い込みだし、疲れてんのかもな」と。

「疲れては…いるかもな、もしかすると」

 否定しようとしたものの、ちょっと思い返すと確かに、ブーちゃんの指摘は正しいような気もする。

「ただ、ヘトヘトでヤバいとか、くたびれてしんどいとか、そういった疲れはない。充実しているし、満足感も手応えもある」

 これも本音だ。熊は「無理すんなよ?」と口角を上げる。

「うん。催しが終わってようやく完了だからな。準備段階でノックアウトなんて冗談じゃない。ここまでやったんだから最後ま

で見届けないと割に合わないし」

「ま、本番前にバテちまっちゃ仕方ねぇやな。気張り過ぎねぇ程度に気張ってけ」

「忠告、ちゃんと聞いておくよ。今日のレシピと一緒に脳みそに刻んでおく」

「そういや…。ウチのロケット、優勝しちまうかもしれねぇぜ?先輩とキイチが本気だ。目の色にちょっと引くぜ」

「イヌイは意外と本格的にこるタイプだったみたいだしな…。寮監は細かい手作業は好きだし得意だって、いつだか言っていた」

「熱中する性格だしなぁ…」

「で、邪魔にされたのか?」

「いや、試作が上がるたびに仕上げは任されてるぜ」

「流石は未来の大工。その辺りは信頼されているんじゃないか」

「デザインの方では邪魔にされてるけどよ」

「どうして?」

 アブクマは、星条旗とかハート柄とか、そういったデザインに柔道部の文字を重ねる案などを出していたそうだが…。

「何で星条旗とかハート?」

「そういうの流行ってんだろ?パンツの柄になってんだしよぉ」

「いや…。あるかもしれないがボクは見た事ないし、流行っているというのも初耳なんだが…」

「ダチが穿いてんだよ。そんなヤツを」

「という事は…。ボクが知らないだけで、ひそかなブームなのか?」

 クツクツ言い始めた鍋を覗き込み、軽くお玉を回す格好で混ぜたアブクマは、小皿に少し取ってから吹いて冷まし、味見する。

 …この慣れた動作が何となく主婦っぽい…。エプロン姿も、体格がいいオバサンっぽいっていうか…。

「おっし、上々!ホレ、ウッチーも味見してみろ」

「うん。それじゃあ失礼して…」

 …なるほど。ナメコ汁はとろみもついて、口で感じる温度も他の味噌汁とはちょっと違うし、舌触りや味も異なる。それで味

噌や出汁の配分量を調節して、美味しくなるように最適なバランスを整えるのか…。

「何と言うか、自信を喪失するな。一つ及第点になっても、違うのに取り掛かるたびに学び直しだ。奥深いな味噌汁は…」

「ぬはははは!まぁそう言ってやるなって!ウッチーは頑張ってるし筋も良い、褒めてやれって、自分!」

「君がそう言うなら多少は見所があるんだろうが…、っと、失礼」

 ボクは断りを入れてスマートフォンをポケットから取り出す。モニターの表示は…。

「悪いシンジョウ。どうだった?」

『スケジュール確認したけど、一つ後ろの予約と入れ替えで何とかなるわよ。間に合わせて貰うのが一番良いけれど、最悪の場

合は一日ぐらいずらせますって、先輩に伝えてあげて』

「ありがとう、助かる。勿論、納期を守れるように最前は尽くすが、少しは先輩も気が楽になるだろう」

『どういたしまして。それにしても…』

 電話の向こうでシンジョウが笑う。

『変わったわよねー、貴方』

 聞こえたのか、隣でアブクマもウンウン頷く。

「皆に言われ過ぎて、そろそろ聞き飽きたぞ?それ」

『まぁまぁ、褒めてるんだから』

 通話を終えて携帯をしまうボクを、アブクマはニヤニヤしながら見つめていた。

「シンジョウが何回も言うのも判るぜ?雰囲気とか随分変わったからよ、ウッチーは」

「そんなにか?」

「そんなにだ。最近部活の仲間達に頼られんのもそのせいだろ」

「前はとっつき難かった、と言われたら心外だが…」

 何せ、円滑な関係が築けるよう気を配っていたんだからな。

「とっつき難くはなかったけどよ、今の方が、少し砕けた感じで話し易いぜ。距離が近くなったっつぅか、な」

 アブクマの言葉は、表現が雑なようでも要点を突いて来て、理解し易いし納得し易い。

 以前からやり取りが少なかった訳じゃないんだが、確かに最近は距離が近くなった…つまり、前よりも会話が多い関係になっ

ている気がする。アブクマに料理を習ったり、イヌイと一緒にマッサージの勉強をしたりと、接点が増えているというのもある

だろうが、やり取りの頻度や軽さは…、言われてみると前とは随分違うかもしれない。

「しかしよぉ。一生懸命になったよなぁ、ウッチー」

「え?一生懸命?」

 表現が何だかアレなアブクマは、ボクの疑問に「おう」と頷く。

「要領とか良いし、何でもやれるから、ウッチーって余裕みてぇなのがあったじゃねぇか。悪い意味でよ」

「悪い意味の余裕と言うと…、手抜きとか?本気じゃないとか?」

「それとか、「こんなもんでいいか」って適当に切り上げるのとかよ」

「ストレートだな…。いや否定はしない、かなり合っている気がする…」

「ところがだ、今のウッチーは何にでも身を入れるっつぅか、腰を据えてかかるっつぅか…」

「判るのか?そういうの」

「柔道の稽古してても、腰入れてねぇ奴と本腰入れてる奴の違いは判るからよ。似たようなモンだ」

 …いや、それ絶対にアブクマの勘とか感覚とかだろう?もしそうなら柔道経験者全員がいろいろ見抜くヤバい奴じゃないか。

「あ~…、そうだ!「熱心」だって言やぁいいのか?」

「ああ、それは判り易い。熱心…、うん。言われると納得だ。労力に見合うかどうかでボクが手を抜いていた部分は大きかった

な。最近は…、君の言葉を借りるなら、本腰を入れた方が手応えもあるし判り易いと、気付いたからな」

 さっと目で流すより、顔を近付けて見た方が細部まで判り易い。おそらくそういった事とも似て、気持ちを入れた方が物事を

掴み易いんだ。要領よくこなしている気になって、理解度を得にくいスタンスで生きていたんだなボクは…。

「そんな訳でだ」

 ブーちゃんはニカッと歯を見せる。

「焼き魚はユリカのお墨付き、味噌汁は俺から免許皆伝だ」

「…え?」

 きょとんとしてしまったボクにブーちゃんは言う。「合格だよ、合格」と。

「基本はもうしっかり身についてる。バリエーションの全部なんか教えてらんねぇけど、もう十種も覚えたんだ、あとは応用と

匙加減で行ける」

「こんな簡単に!?」

「いや、味噌汁が簡単じゃなかったらまずいだろ?毎日飲める、すぐできる、そういうモンだ。高級料亭の御吸物とか高級レス

トランのスープとかみてぇな、特別なモンって考えんなよ?身近なモンってのが、味噌汁の完成形だ。まぁ料理人として極める

とか言ったら話は別だけどよぉ」

 これなら毎日作れるし、違う種類でローテーションも組める。それがアブクマが出したボクへの免許皆伝。

「おっし!これでトラ先生にお礼しに行けるな!」

「それはまぁ、行けるかもしれないが…」

 ここに来てボクは思った。深刻で重大な問題があった…

「何だよウッチー?厳しい顔んなってよぉ?」

「アブクマ。質問なんだが…、味噌汁を振舞う時の事について…」

「おう?」

「味噌汁を鍋に作って持ち込むのと、トラ先生の部屋で作るの、どっちが良いんだ?」

「そりゃあ…」

 答えかけ、瞬きし、アブクマは唸る。

「出来立てなら向こうで作った方が…。だが鍋に作ってくなら失敗する心配はねぇ…」

「だろう?味噌汁ビギナーとしては難しい問題だ」

 結局、オシタリの勉強を見てくれていたイヌイが戻り、アドバイスをくれるまで、ボクとアブクマは悩み続けて…。

 

「味噌汁で涙目になってた…かぁ」

 テーブルを挟んでレモンティーを啜るボクに、アブクマはしみじみと言う。

 ボクが味噌汁に拘る理由について、先生が懐かしさ背ホロッと来ていたという話をしたところだ。

「俺らなんかは別に珍しい事でも懐かしいモンでもねぇけど、先生ぐれぇになると違うのか…。なぁ?」

 アブクマが視線を向けると、胡坐をかいているその脚にスッポリ収まって座るイヌイが「うん」と頷いた。

「懐かしかったり恋しかったりするのかも?食堂とか行けば食べられるけれど、家で味噌汁の匂いって、なかなか無いのかもね」

 曰く、鍋で作る味噌汁から匂いが立ち込めるのと、インスタントで一杯分の香りでは違う。後者はおそらく前者ほど懐かしさ

を刺激しない、と…。そしてイヌイは続けた。

「そういう事なら、お味噌汁は現地で作った方が先生は嬉しいかも?」

『それだ!』

 ボクとブーちゃんが声を重ねた。流石はイヌイ!今日も冴えている!

「それじゃあ、お料理のレッスンも終わった所で…」

「おう。今度は俺が材料だな?」

 イヌイに視線で促され、アブクマが頷いた。そしてヒョイッとイヌイの両脇に手を入れて持ち上げ、脇に下ろすと、横向きに

なる…つまりイヌイに背中を向ける。

「じゃあ、基本に立ち返って肩揉み。その発展版から」

「よろしくお願いします。イヌイ先生!」

 ここからはマッサージ講師のイヌイによる、アブクマを実験台にしての実技練習だ。まぁブーちゃんは先生と違って肩凝って

いないんだが、肉厚さでは上を行く。丁度いい練習台になってくれている。

 イヌイは肘を使うグリグリマッサージとか、色々な物を伝授してくれた。説明も理論的で判り易い。とはいえ…。

「マッサージの才能とかあるのかもしれないよ?ウツノミヤ君、最初から普通に上手いもん」

 と褒められている。…なんだそのピンポイントな才能…。

 しかし実際の所悪くはないようで、実験台のアブクマも気持ち良いという感想を述べる。

「痛くなるほどの負荷はかけない力加減とか、考えないで無意識にしてるのかもよ?だからポイントとかツボとか、揉み方の工

夫とかを覚えるだけで良いと思う」

 イヌイはそう言って、実際に揉む手の力は問題ないからと、技術と知識の習熟に絞って教えてくれた。

「日に日に上手くなるよなぁ、ウッチー」

「そうだよねぇ、僕なんかすぐ追い抜かれちゃう」

 そう言って笑い合うカップルは、どうも本心でそう言っているらしい。…本当にそんなピンポイント才能がボクにあるのか…。

「トラ先生寝ちゃったんでしょ?」

「俺、途中で寝るのなんてヘトヘトな時だけだぜ」

「それは先生がアブクマほど若くないからじゃないのか?」

「その可能性もあるけど…」

「気持ち良くなかったら寝ねぇだろうし、なぁ?」

 アブクマの肉厚な肩を後ろから揉み、雑談しながら、ボクは先生との違いを再確認する。

 若いから…というか現役の柔道家だからか、アブクマの体は分厚い脂肪の下に、弾力がある筋肉がミッチリとついている。脂

肪層の感触が先生と違っていて…、トラ先生の肉はもっとプヨプヨしていて緩い感触だが、アブクマは贅肉までムチッとしてい

て張りがある。

 筋肉量の違いなのか?内側から圧がかかっているような手応え…筋肉に押し上げられているという事なんだろうか?体に張り

があるって、こういう事を言うんだろうな。

「それはあるかも?浅い位置まで筋肉の圧が届いている部分はそんな感じで、お腹の下側とか、内側に筋肉が詰まっていない所

は柔らかくてポヨポヨしているから」

 イヌイの解説は理解し易い。ついでに言うとボクと同意見のようだ。

「それに、先生の方が体温があるな」

「え?」

 何気ないボクの一言に、イヌイが意外そうな声を漏らした。

「トラ先生、体温高めなんだ?」

「おかしいかな?」

「おかしいって言うか、若いのかもね?だって若い内の方が体温高いって言うし」

「それもそうだな。先生は特別そうなのかもしれない。暑がりだしな。ずいぶん涼しくなったのに、まだ時々汗を拭っている」

「ぬはは!俺も暑がりだし汗っかきだけど、先生はもっとだなぁ!」

 アブクマが肩を揺すって笑う。全くだ。筋肉量が多い上に若くて体も大きいブーちゃんより、先生の方が暑がりで汗っかき、

体温も高いなんて…。肉体年齢は意外と若いんじゃないか?

「サツキ君はジットリすると汗臭くなるもんね~」

「うお、チクッと来んなぁ…!」

 バカップルが言葉でじゃれつき始める。放っておくとボクが居る事を忘れてイチャついてしまいそうなので、「先生はそんな

に臭わないぞ」と口を挟んでおく。

「いや、正確に言うと匂いがしない訳じゃないんだが、不快じゃないというか、気にならない匂いだな」

「………」

「………」

「ん?何だふたりとも?急に黙って…」

 熊と猫はボクをじっと見ている。目を丸くして。

「いや、何でもねぇ…。ちょっと驚いただけ…」

「驚いた?何に?」

「そういう所の表現とかも、マイルドになったなぁってちょっとビックリして…」

「…あ、そうか。もうちょっとくらい毒舌だったかもな」

『もうちょっとくらい』

 イヌイとアブクマが声を揃えた。毒舌なのはちょっとじゃなかったと言いたそうな顔だ…。

 

「それじゃあゆっくりしていってネ!」

「はい、ありがとうございます」

 六人掛けのテーブル席に通されたボクは、わざわざ挨拶に来ながらオーダーを取りに来てくれた店主に会釈で応じる。

 小太りで愛嬌のある顔立ちをしている狸のおじさんは、サイズこそだいぶ違うが、改めて見るとコダマさんを連想させる面影

があちこちにあった。笑顔を絶やさない所もそっくりだし、口調も似ている。模様というかカラーパターンなんかは完全に一緒

だな…。

 和菓子屋の店舗販売分を、カフェのスタイルで座席提供する形にして成功した店…。それがここ、和菓子かふぇ、こだまや。

 コダマさんの実家で、ボクがシマに突っかかったタイミングが良かったせいで、ギリギリ詐欺被害から逃れられた店。偶然に

過ぎないとはいえ恩人扱いのボクは、来店するなり大歓迎された。

「ホントにヒーロー扱いなんだ…」

 向かいの席に座るジャイアントパンダが感心する。

「ヒーローなんかじゃないんだけれどな。偶然で、たまたま。まぁそれでも、助かって良かったとは思うよ」

 応じるボクに、ササハラの隣に座った眼鏡女子が「恩を売ろうとか活用しようとか、思わないのね」と、辛辣な物言いで率直

な感想を述べる。

「別に煽っている訳じゃないと理解はしているが、そういった物言いは正に、少し前のボクのようだぞシンジョウ?」

「おっと、いけないいけない」

 舌を出して悪戯っぽく笑ったシンジョウは、「つくづく変わったなぁって、思ってたのよ」と言うが…。

「変わった変わったと皆から言われ過ぎて、ボクの中では「変わった」がゲシュタルト崩壊しそうだ。ボク自身ではどこがどの

ぐらい変わっているんだかあまり把握できないから、乗っかって「変わったとも」と肯定してやるしかない」

「そういう所もよ。「皆が言うんだからやっぱり変わったんだろう」って、突っぱねないで素直に受け入れようとするあたり、

良い方向に変わった…ううん、成長したと思うわ。何歩か先行ったなぁ~って思うもの」

「そうだな。裏を探らずに君の評価を受け止められるよう、努力しよう」

「あら。裏なんか無いわよ?今は」

「今は、か」

「前はあったかも」

「正直だな」

「相手が正直な時はね」

「それはどうも」

「なんかさ~」

 ボクとシンジョウのやり取りに、のんびりした声が挟まる。

「仲良くなったよねぇ、ミサトとウッチー」

『そう?』

 ボクとシンジョウの声が完全に重なった。意外に感じているという口調も含めて。

 今日この店に来たのは、ふたりへのお礼を兼ねての事だ。

 シンジョウには、化学部の掲示物印刷の融通を利かせてくれたお礼。結局期限ギリギリになって迷惑をかけてしまったから。

 ササハラには、魚の種類ごとの美味しい焼き方、焼き加減、素人でもできるひと手間工夫など、事細かに念入りに丁寧にコー

チングして貰ったお礼だ。

 ボクもコダマさんの実家に来てみたかったし、ふたりが好むこの店は丁度良いかなって。

「はいお待ちどうさんだよ!」

 やがて、注文した品はおじさんが手ずから運んできてくれ…、ん?

「あ、先輩!お邪魔しています!」

 シンジョウが腰を浮かせて頭を下げると、「いつもどうもナ!大歓迎だよ!」と若い狸が応じた。

 …おじさんじゃないと気付いたボクに、シンジョウは紹介してくれた。星稜のOBでこの店の息子、ヒビキさんと言うのだと。

ボクの目が本調子じゃないのもあるが…、そっくり親子か。

 ヒビキさんと、シンジョウの師匠のヨークシャーテリアとは、一年違いの先輩後輩で一緒に活動していたそうで、新聞部…い

や、合併吸収される前の写真部だったらしい。

 …コダマさんが所属した部、最後の写真部が甥っ子のヒビキ先輩とは…、皮肉とも縁とも取れるな…。

 ボクの事はおじさんから聞いていたようで、ヒビキ先輩からも丁寧にお礼を言われた。…やっぱり口調とかがコダマさんと似

ている…。一家特有の物なんだろうか?

 店は繁盛しているようで、ヒビキ先輩は他の個室から呼ぶ声に応えて、すぐに行ってしまった。先輩の他にもウェイターが、

客同士の顔が見えない個室だらけの店内で、ひっきりなしに通路を行き来している。

 …というか、ガタイが良い、そして若い店員が多いな…。ボクらとそう歳が変わらなそうな、ポヨンと丸くて浅黒い肌の、長

めの髪を束ねて後ろで尻尾みたいに結んでいる人間とか。ヒビキさんとすれ違って空のトレイと食べ物満載のトレイを交換しつ

つ厨房側に戻って行く、兵士みたいな精悍な顔をしている人間男子とか。…防犯とか用心棒兼務の人選でもしているのか?見か

けるのは体格が良いウェイターばかりだ。

 なお、ボクのオーダーはシンジョウイチオシの葛切り。お椀にたっぷりの黒蜜ソースに搦めて頂くと、プルプルした葛切りが

トロリと口に滑り込み、ひんやりと心地良い食感が楽しめる。

 あまり食べる機会は無かったが、黒蜜は上品な甘さだな。ただ単純に甘いんじゃなく、蜜だからこその酸味がほんのりあって、

葛切りのような薄味の食材と一緒になると全体を包み込むような味付けをしてくれる。甘味と酸味の優しい刺激…、うん、これ

はいい。これも弱酸性だ。

 シンジョウとササハラは白玉ぜんざいを頼んでいる。それも美味そうに見える。というか絶対に美味い。今度来たらそっちも

試してみよう。

 和風スイーツも良い物だな。ここまで本格的な和菓子はあまり食べて来なかったが、これはハマるし好きにもなる。

「それにしても、女子二人を誘うとか、大胆ねぇ。意外だったけど人目とか気にしないの?」

「いや。こう言うと何だが、誤解されても困らないからな。弁解は簡単だ」

「簡単?」

「それはそうさ。何せ…」

 …いや、よく考えたら簡単でもない、か…?ボクはホモだからこの女子達を別にそういう目的で誘ったりしていない、とか言

える事でもないな…。

「簡単じゃなかった。誤解は困るな」

「真面目に困った顔やめてくれる!?」

 流石に驚き顔になるシンジョウ。済まん。だがボクも驚いている。意外と不自由だな、ホモって…。

「…それで、どんな話をしたの?」

 急にシンジョウが話題を変えた。

「どんなって?」

「だから…、話したんでしょう?ヒビキ先輩のおじさん…、その…」

「ああ、コダマさんと?」

 シンジョウは神妙な顔で頷いた。

「どんな話をしたの?どういう人だった?何か気になる事とか言ってなかった?」

 勢いよく質問を重ねる割に、問いの内容がフワッフワだ。どう答えれば良いか困ってしまうし、彼女が何を知りたいのか判ら

ない。そもそも、シンジョウは落ち着きない様子で木の匙をクルクル手で回していて、普段の彼女に見られるふてぶてしい程の

落ち着きっぷりが全く窺えない。

 新聞部に吸収された写真部のOB…、シンジョウから見てコダマさんが大先輩という位置付けなのは判るが…。

「何かミサトさぁ」

 パンダッ娘がのんびり口を開く。とりあえず口の中の物は飲み込むといい。行儀が悪いぞ。

「気になる男子の話を聞きたがってるみたいだねぇ。そんな前のめりになっちゃって」

「え?」

 言われて気付いたシンジョウは、座り直してコホンと咳払い。

「…そういう事じゃありませんよ」

 何で敬語だ。

「ただ…、う~ん、そうねぇ」

 シンジョウは長い髪を首の横で押さえながら、遠くを見るように目を細め、微笑んだ。夢見るような表情…とはこの事かもし

れない。

「ある意味、初恋のひと…なのかもしれないわ」

『はい?』

 ボクとササハラが食いつくような勢いで身を乗り出す。

「私が今こうして活動しているのも、星稜に進学したのも、あのひとがきっかけなんだもの。そういう意味では運命の相手でも

あるわね。私に人生を選ばせたひと…という事で」

 前々から知っていた口ぶり、まさかと思うが…。

「何処かで会った事あるのか?コダマさんと…」

「ず~っと昔、ね。それ以上はヒミツ」

 シンジョウはウインクする。鼻につくような誤魔化し方だと以前なら感じただろうが…。

「そうか。なら我慢する」

 ボクは大人しく引き下がった。

 彼女の表情を見て、何となく思ったのは…、余人に触れられたくない宝物のような物を、隠す乙女にシンジョウが見えたから。

「初恋はそれとして」

 のんびり胆力オバケのササハラが流れお構いなしで口を開いた。「それ」って…。

「今の恋はどうなのミサト?」

「今?恋とかしてる余裕なんて無いわよ。忙しいもの」

「…はぁ~…。カワイソ…」

 パンダッ娘は盛大な溜息をついた。…ん?その「カワイソ」は誰に対しての物だ?

「ところでウッチーは?」

 また唐突に話を振るなこのパンダは…。

「未経験だ」

「そう?」

「そうだよ」

「そっかー」

「…何だか含みがある顔だな?」

 ササハラはニッと笑って言う。

「だって、熱心に料理勉強とか、好きなひとが出来た後みたいな行動だな~、って思ってたから」

「いや、単純に先生へのお礼だからな」

「それだけ?」

「それだけだとも」

「ホントに?」

「本当に」

 別に誤魔化しとかじゃなく、先生以外に食べさせてやりたいっていう気持ちは無い。あくまでも先生用だ。まぁブーちゃん達

とかなら時々振舞っても良いが。

「まぁそれならそれでもいいけど、これからもジャンジャン料理練習で頼ってよ!お礼は今日みたいなのでいいから!」

 結構ちゃっかりしているササハラの発言に、ボクだけでなくシンジョウまで苦笑いした。

 初恋、か…。

 ボクは宇都宮充。初恋とかボクにはいつの話になるんだろうなと、女子連中とスイーツをつつきながら物思いに耽る狐だ。

 

 

 

「トラ先…」

 部室…放課後の化学室、その準備室に入ったボクは、呼び掛ける声を途中で飲み込んだ。

 大きな太った虎が椅子に座っている。脇の机にはフラスコで沸かし、ビーカーで飲んでいた半分のコーヒー。それはいつもの

光景で、もう見慣れたものなんだが…。

 足音を忍ばせて歩み寄る。先生は椅子の背もたれに体重を預けて、首を反らして上を向く格好で居眠りしていた。

 微かな寝息が聞こえて、ワイシャツを押し上げる豊かな胸と腹部がゆるやかに上下している。

 先生が学校で居眠りしているのは初めて見るが、ボクとしては部屋に住まわせて貰っていた数日を思い出す、ちょっと懐かし

いシチュエーション。

 起こした方が良いんだが、何だか少し可哀そうな気もして、ボクは開いた口を閉じた。

 文化祭も近いし、その準備に中間テストも重なって、先生はここしばらく忙しかったはず…。きっと疲れているんだろう…。

 丸顔眼鏡、たっぷり顎に大きな鼻、でっぷりした体にぶっとい手足。

 スタイリッシュとはとても言えない、太った中年…。でも、格好いいという事の、本質を少し理解できたボクには、先生の姿

はもうだらしない中年とは見えない。

 ずいぶん涼しくなったのにまだ暑いのか、先生はちょっと寝苦しそうで、呼吸が浅くて額が汗ばんでいた。ブーちゃんももう

暑くないって言っているのに…。

 幸いまだ部活まで時間があって、ボクは一番乗り。せめて他の部員の声が化学室から聞こえるまでは、このまま寝させてあげ

ようと、ボクは先生の傍に立って寝顔を眺める。

 ………。

 幸せな気持ち…。何だろうな、この感情は…。

 ふと、飲みかけのコーヒーが残るビーカーが目に留まった。

 ボクは特に何かを考えるでもなく、ビーカーを取り、気付けば一口啜っていた。

 だいぶ温くなったコーヒーは、それでも香り豊かで、気持ちばかりの甘みがあった。