第七話 「懐かしい味」

「ウッチー、オシタリ、夕飯食いに来るだろ?」

ドアを開けて部屋を覗き込んで来た物凄くデカい熊が、机に着いて読書していたボクと、床に寝転がって漫画本を読んでい

たジャーマンシェパードに声をかける。

「…行く」

尻尾を一度だけフサッと振りながら顔を起こしたオシタリが、短く返答した。

「悪いな、今夜もご馳走になろう」

「おう!じゃあ、出来たら呼びに来るからな!」

寮の隣人にしてクラスメートのアブクマは、それだけ言い残すと、ドアを閉めて出て行った。

大会から丸々二週間が経った。

一時はイワクニ寮監が敗れた事でかなりショックを受けていたようだが、タフな大熊は数日で立ち直り、目前の県大会に集

中している。

デカくて太くてゴツい見た目からは想像しにくいが、アブクマが作る料理は美味い。

下手をすると、そこらの食堂で出される料理よりよっぽど美味い。

個人的には寮食で出る物より美味いと感じるので、休日のちょっとした楽しみになっている。

…そういえば、彼の兄も料理が上手かった。

まだボクが東護に住んでいた頃、遊びに行った際に数回ご馳走になっただけだが、かなり歳が離れた彼の兄が作ってくれた

オムライスは、最高のオムライスとして今でも記憶に残っている。

…何故か赤と黄色だかの二色地に、四肢に玉を掴んでいる龍が描かれた国旗が立っていたが…、普通日の丸とかだろ?

そもそも、ブータンの楊枝旗なんてマイナーな物、何でわざわざ選ぶんだ?っていうか、そもそも何処で売っているんだ?

もっとも、その兄が今どうしているのかは判らない。

一度訊ねてみたところ、ブーちゃんは「ちょっとな…」と言うなり困ったような顔で黙り込んだ。

イヌイは事情を知っているらしいが…、まぁ、あちらも本人が黙っている以上話すつもりは無いらしい。

だから突っ込んだ所までは訊いていないし、情報源としてはそれなりに信用できるシンジョウにも確認していない。

こう見えても、気を遣うべき所はわきまえているつもりだ。

…話が逸れたが、ボクらが生活している寮の食堂は、休日は朝しか開いていない。

なので、昼と夜は各自別個で食事を摂らなければいけない訳だ。

隣室の寮生である二人の好意もあって、ボクとオシタリは、殆どの場合休日の夕食を、時には昼食も隣室で頂いている。

ちなみに、ボクが読んでいるのは学校の図書室から借りて来た森林公園の解説が含まれている郷土史。

来たる林間学校に向けて、利用できる設備の情報や、ブーちゃんが喜びそうなウンチクを仕入れる為のチョイスだ。

オシタリが読んでいるのは応援団の鼓手である二年生、虎獣人の磨垣亜虎(まがきあとら)先輩から借りたらしい漫画本。

駅で主人を待ち続けたあの有名な犬の話を漫画化した物だ。

ちなみに、オシタリは猫派…というかネコマニアだが、マガキ先輩は完全な犬派だそうだ。

自身も猫科の獣人のくせに猫アレルギーで、猫は全種、仔猫から老猫まで全て苦手というマガキ先輩に、「猫よりも犬の方

が良い」と、読んでみるよう勧められたそうだ。

…わざわざ漫画を勧めるあたり、犬派というよりイヌマニアなのかもしれない。オシタリのような。

なお、先輩は高い所が苦手で、柑橘類や泳ぎが好きなのだとか…。

そのものとは違うとはいっても、どこまで猫科らしくないんだあの先輩?

…まぁ、見た目は我らが担任と違って非常に虎らしいが…。

さて、自己紹介しておこう。

ボクは宇都宮充。伊達眼鏡が知的な星陵高校一年の狐獣人。

クールに学級委員を務め、クレバーに化学部として活動している。



ご馳走になる上に、わざわざ呼びに来させるのはさすがに気が引けたから、ボクとオシタリは適当な所で読書を切り上げ、

隣室へお邪魔した。

「いらっしゃい。もうちょっとかかると思うよ?」

出迎えてくれたクリーム色の小柄な猫は、テーブルについて何やら書き物をしていた。

「作文か?」

歩み寄ったオシタリが、イヌイの手元を覗き込む。…何故作文なんて発想が出るんだ…?

「ううん。柔道部のスケジュール表を直してたの」

イヌイが手を除けて見せたのは、パソコンで作成したと思われる月単位の予定表だった。

どうやら変更がある所を赤ペンでチェックしていたらしい。

早々にイヌイの脇に腰を下ろしたオシタリを残し、ボクは手伝える事は無いかとキッチンを覗いて見る。

…と、野菜等を炒めている心地良い音と香りに満ちたキッチンには、意外にも大熊の他に、もう一人の姿があった。

「早いなウッチー?」

「お?来たな」

アブクマと共にこっちを向いて口元を綻ばせた灰色狼に、ボクは意外さを隠しながら会釈する。

「珍しいですね?先輩も夕食一緒だなんて」

「いつも通りアトラと一緒に出かけるつもりだったんだけどな。遅くなるって言って午後から出かけてさ。他の友達も予定入っ

てるみたいだし、一人で外食も味気ないからアブクマとイヌイに予定聞いたら、夕飯作るからと誘ってくれたんだ。ははは!

渡りに舟だった!」

どうやらアブクマの手際を間近で見物していたらしいシゲ先輩は、楽しげに笑ってから肩を竦めて見せた。

「普段ならサトルさんと団長に声かけるとこなんだが、一緒に外出するみたいだし、邪魔したくなかったからなぁ…」

「邪魔だなんて思わないでしょうに…」

「だよなぁ、主将と団長だぜ?」

ボクが呟き、フライパンを振っている大熊も同意する。

「…ま、二人きりも良いだろう?」

先輩は意味深にニヤリと笑う。…何か隠しているような気配が…、気のせいか?

「ところで、今日は何なんだ?」

ボクが訊ねると、アブクマは巧みにフライパンを操りながら応じる。

「ヤキソバだ。昨日実家から仕送り届いたんだがよ、今回は地元のヤキソバ入ってたんだ。あと笹カマな」

見れば、流しの脇に詰まれている食材類の中には、ボクにとってはかなり懐かしいものが混じっていた。

「へぇ…、懐かしいな、茶色いヤキソバなんて。それに笹カマボコとは…」

袋に入っている、焼く前から色がついている麺と、箱入りの笹カマボコを眺めていると、オシタリがキッチンを覗き込んで

来た。

「…ども」

「よ。もうちょっとかかるみたいだぞオシタリ」

ぼそっと挨拶する無愛想なシェパードに、灰色狼がほがらかに応じる。

オシタリは食材群の中の袋に目を遣ると、訝しげに首を傾げる。

「懐かしいって…、ヤキソバは茶色いじゃねえか?普通」

「焼く前は白いんだよ。普通。…カップヤキソバとか、ソースかける前は白いだろう?」

「…そういやそうだな…」

あの、お湯を注いで作るインスタントヤキソバ…。実際には焼いていないから「ヤキソバ」という名称には違和感があるん

だが…、まぁ良いか、細かい事は…。

ボクが応じると、オシタリに続いてイヌイがドアの陰からひょこっと顔を覗かせた。

「僕らにとっては故郷の味だよね」

イヌイの言葉を聞いて、オシタリは何か考え込むように目を細くする。

「…故郷の味なら、シンジョウに食わせてやれば喜ぶんじゃねえのか?」

お?こいつにしてはなかなか気の効いた提案だな。

「シンジョウにはさっきキイチが届けて来てくれたぜ。ユリカが調理してくれるってよ」

手を休めないままブーちゃんが応じると、オシタリは「そうか」と頷く。

…なにやら満足気だな?借りがあるシンジョウの事を相変わらず気にかけているようだが…、ボクに対してはそういう気配

りをするつもりはないのか?オシタリよ。

「ササハラさんも珍しがってた。「ほへ〜?最初っから茶色いのぉ?」って」

「ははは!やっぱり珍しいよなぁ。最初から色がついてるなんてさ」

イヌイが真ん丸パンダの口調を真似して言うと、シゲ先輩が声を上げて笑う。

「…ところでよ…。皆で見てても早く出来たりしねぇんだから、そっちで待っててくれねぇか?」

アブクマが苦笑いしながら言い、ボクは「ああ…」と頷く。

「邪魔になっちゃ悪いから、そうさせて貰おう」

「そうだな、皆で居たらさすがに狭いよな」

「サツキ君一人でも結構窮屈そうだしね」

「デブ過ぎんだよアブクマは」

「おい…!最後の二人、セリフにちょっと棘があんぞ!?」

出て行こうとしているボクらを、顔を顰めて振り返るブーちゃん。

…棘どころか、オシタリのは露骨に悪態だろう。



やがて、目玉焼きが乗せられたヤキソバがリビングへ運ばれてきた。

香ばしく焼き上がったヤキソバの匂いが部屋に漂って、空腹感を倍増させる。

『いただきます』

テーブルを囲んだボク達は、声を揃えてから食事に取りかかる。

小柄なイヌイとボクが同じ辺に並び、ボクの右隣がシゲ先輩、イヌイの左隣がオシタリ、ボク達の正面にアブクマが座って

いる。

ちょっと窮屈だが、体格からいってボクとイヌイが並ぶのが妥当だ。

オシタリは結構ガタイが良いし、スマートに鍛えられているシゲ先輩だってボクよりは大柄だ。当然ブーちゃんは論外。

「オシタリ君、紅生姜は?」

「いい、好きじゃねえ」

「これ美味いなぁアブクマ」

「へへへ!手間はかかってねぇんすけどね」

「何となく、懐かしい味のような気もするな…。慣れ親しんだ感じの味」

「欲しけりゃ遠慮無くお代わり言ってくれよ?まだ三人前ぐれぇ作ってあるからな」

「…これ、笹カマボコだっけ?槍の穂先みたいだな?」

袋を破いて皿の上に乗せた笹カマボコを見つめて、シゲ先輩が首を傾げる。

「ぬははははっ!笹型とか言ってくれよシゲさん。ってか食った事ねぇのか?」

「んー、無いな。名前は聞いた事あるんだが…」

「このまま食うのか?」

「うん。ご飯のおかずにするならお醤油をかけてもいいし。大人はお刺身みたいに切り分けて、ワサビ醤油で食べたりもする

よ?」

オシタリが尋ねると、イヌイは丁寧に対応する。

結局そのまま食う事にしたらしく、オシタリは肉厚で大振りな笹カマを箸でつまみ上げて、しげしげと眺めた後にかぶりつ

いた。

しばしモグモグと咀嚼した後、シェパードの発した言葉は、「…美味え…」とただ一言、それだけだった。

よほど気に入ったのか、三分の二程になった笹カマを箸で目の前に吊したまま、じっと見つめているオシタリに、ブーちゃ

んが笑いかける。

「だろ?俺らの地元じゃあ有名な店のカマボコなんだぜ?」

そう言うと、ブーちゃんは全長13センチ程の笹カマを一口で頬張る。…何とも豪快な食いっぷりだ。

「味もそうだが、食感も良いなぁこれ。プリプリしてて」

シゲ先輩も気に入ったらしく、ご満悦な笑顔だ。

「主将とか団長とか、知り合いにやる分は別に取ってあるから、出してある分はみんな食っちまおうぜ。生物だからあんまり

長く取っておけねぇしな」

「生魚やお刺身は苦手なのも多いけど、僕も笹カマは大好き」

ちょっと驚きな発言をしたイヌイに、シゲ先輩とオシタリの視線が注がれた。

ウチの担任も虎らしくないが、イヌイも時々猫らしくない…。

そう言えば運動が苦手だし、あまり機敏でもないよな。

「は?生魚がダメ?」

「…猫なのにかよ?」

「う〜ん…、猫だけど、魚介類には苦手なのが多いんですよぉ…。お刺身とか、赤身は特に苦手だし、アワビとかウニなんか

はもう見るだけでもダメです」

「どっちも高級品じゃないか…。しかも、お郷は太平洋の傍なのに…」

「勿体ねえなぁ…」

「魚はフライとか、ホタテはバター焼きとか、アサリなんかは酒蒸しにすりゃ食えんのになぁ…。ウニなんかはどうしようも

ねぇや」

テーブルを囲んでわいわいと取る食事…。

すっかり慣れたが、この感覚もまた懐かしいな…。

東護に住んでいた頃は、まだ家族皆一緒に居て…。

こうして手軽に作れるヤキソバなんかを食べたりもした…。

「…ウッチー?どうした?」

ヤキソバを見つめていたボクは、ハッとして顔を上げる。

正面に座っているアブクマが、ボクの顔を見つめていた。

「どうかしたの?固まっちゃって…」

傍らのイヌイも、ボクの顔を横から覗いている。

「目玉焼きに卵の殻でも入っていたのか?」

良いタイミングで入った良い内容のシゲ先輩の言葉に、ボクはようやく作り笑いを浮かべて応じた。

「違いますよ。もしも殻が入っていたら即座に文句を言っています」

「そりゃそうだ。口うるせえコイツが黙ってるわけがねえ」

オシタリが納得顔で頷く。…何かムカつくな…。

「懐かしいなぁと、思ってさ。何年も経つから」

アブクマは「あ〜…」と、半開きにした口から声を漏らした。

「そうだ!夏休み中、暇見て東護に来たらどうだ?ウチで良けりゃ布団貸すから、泊まってゆっくりしてくとかよ!」

「…考えておこうかな…」

そう応じたボクだが、実際にはアブクマの提案に乗るつもりなんてさらさらない。

昔を懐かしんでどうなる?想い出に浸って何が変わる?

振り返るなんて下らない。そんな余裕なんて有りはしない。

今のボクは、前を見ていくだけで精一杯のはずだ。

いつものように本音は隠し、平静な顔をしながら、ボクは皆との食事を続けた。



寮を出たのは、食後間もなく、自室に戻ったすぐ後だった。

返却期限が近付いていたDVDを返しに行く為なのだが、格好の外出理由になった。

というのも、アブクマやイヌイの話に興味を持ったらしいオシタリが、珍しく積極的に話を聞きたがったので、正直鬱陶し

かったのだ。

すっかり暗くなった道を歩み、本屋と一緒になっているレンタルショップに入店したボクは、レンタルスペースになってい

る二階に上がってさっさと返却を終え、新作タイトルが顔を連ねる壁のポスターをチェックした。

…イマイチなタイトルが並んでいる…。今は借りたい物も特にないな…。新刊だけチェックして行こう。

早々と一階に降りて、ボクは小説のコーナーへ足を向けた。

文庫本が並ぶスペースは、それほど広いとは言えない。

品揃えもあまり良くないんだが、それでも新刊はちゃんと入荷している。

どうして漫画やゲームの本、雑誌類のスペースはかなり広いのに、文庫本のテリトリーは狭いんだ?

ハードカバーを買うにも二の足を踏む、小説好きな学生の懐事情を考慮して欲しい所だぞ経営者よ。

今は買うだけの余裕が無いものの、一応ハードカバーもチェックしておこうか…。

次いで足を向けた新刊の台、その中央には、ボックスを展開させた本置き兼看板が乗っていた。

そこには本日発売の新刊、人気小説家、多嘉見涼(たかみすず)の最新作が!

ファンタジーや戦記物など、バトルアクションを多く手がける多嘉見涼は、ボクの中では櫻和居成に次ぐ順位に居座ってい

る作家だ。

負傷や出血の描写が時にグロいが、アクションシーンを描くのが上手く、個性的で魅力的な多数の登場人物が入り乱れて織

りなすストーリーは、緻密で奥深い。

おそらくは山積みになっていたんだろうけれど、新刊は残り四冊…。

分厚いハードカバーは、税込みでお値段1980円…。

ボクはしばらく迷った末、手持ちが足りていない事を思い出して苦笑した。

…諦めるしか無いんだよな…。

今月はまだ長い。今二千円も使ったら、付き合いや食事に割く金が後々苦しくなるし…。

小さくため息をついたボクは、

「ん〜?ウツノミヤかぁ?」

不意に後ろから名を呼ばれて振り返る。

ボクのすぐ後ろには、ジャージを着たやけにデカい虎が立っていた。

眼鏡の奥でトロンと眠そうに細められた目が、ボクの顔を見つめている。

「こんばんは、先生」

ボクは肥満体の大虎に頭を下げて挨拶した。

ボク達の担任で、化学部の顧問でもある寅大先生は、虎獣人でありながら非常に虎らしくない。

覇気に欠ける緩んだ顔つきに、いつも眠そうに細められている目。

丸みを帯びた膨れ頬に、首が見えない程たっぷり贅肉が付いた顎。

どこもかしこも丸いでっぷり肥えた体に、ぼよんとだらしなく突き出た腹。

身に付けているのは、すすけて色褪せた紺色のジャージの上下。

上着の前はジッパーが閉められておらず、開けっ放しで、ボリュームのある垂れ胸と出っ腹でピッチリ引き延ばされた白い

肌着が見えている。

…腹が邪魔でジッパーを閉められないか…、あるいは閉めると苦しいのかもしれない…。

「買い物かね?」

先生は首を伸ばしてボクの後ろの新刊台を覗きながら尋ねて来る。

「あ、いいえ、レンタルしていたDVDを返却していました」

応じたボクの顔を、先生は少しだけ目を大きくして見つめた。

まぁ、大きくなったとは言っても、常に眠たそうに細められている目が人並みの大きさに開かれた程度だが…。

「ボクがDVDを借りるのは意外ですか?」

「ん?あぁいや…、意外という訳じゃあないんだが、どんなものを借りるのかなぁと、少し興味が湧いてなぁ」

トラ先生は目をいつもの細さに戻してそんな事を言う。

「人狼探偵、サードファイルです」

先生が原作を知っている事を前提に、ボクは簡潔に告げた。

これは、故、櫻和居成の小説シリーズが原作になっている映画、その三作目だ。

相手の目を見れば好きな物を見抜けるという奇妙な特技を持った元弁護士の人間女性と、元外国人部隊所属の凄腕傭兵の狼

という探偵コンビが、一筋縄では行かない難解な事件の解決に挑むサスペンスアクションシリーズ。

学生時代に恋人であった探偵が亡くなり、彼が見ていた視点を体験するべく、優秀だったにもかかわらず弁護士を辞めて自

らも私立探偵となった女性…。

そして、場末のバーで用心棒をしていた所を彼女に拾われた、極端に寡黙な上に人間不信で人見知りが激しく、外国生活が

長くてこの国の常識になじんでいない狼…。

この作品は、単なるサスペンスアクションではなく、ラブストーリーとしての側面も持ち合わせている。

少々生き方が不器用な二人が、お互いの長所と短所を組み合わせ、補いあってゆき、徐々に仕事を超えた信頼関係に至って

行くという、昨今の風潮からすればエンターテイメントとしては非常に珍しい、人間と獣人の恋愛についても主題として触れ

ている。

この実写映画も、小難しい推理部分はともかく、俳優の熱演もあって、アクション物が好きらしいオシタリも楽しめる良作

だった。

「ああ。私も全作観たが、主役二人は見事にハマリ役だったなぁ」

「先生も観たんですか?」

「私も原作のファンだからなぁ」

ボクの問いに先生は緩んだ笑みを浮かべて応じる。

「配役についてはボクも同感です。こういった物ならオシタリも観られるので、チョイスとしては有りかなぁと」

「んん?オシタリの為に借りたのか?」

先生はまた、眠たげな目を少しだけ大きくした。

「いえ、そういう訳では…。オシタリはあまり喋る方じゃないので、会話に困るんです。それで、休日などにはこうして、ア

イツも観そうな物を借りたり…」

「なるほど、気を遣ってやってるんだなぁ」

ウンウン頷く先生。…気を遣う?ボクが?オシタリに?

…どうだろう?自分自身の居心地を良くする為の行動であって、これがオシタリの為かというと…。

…意図していなかったが、これでオシタリが喜んでいるなら、アイツのボクの対する評価が上がっているかもしれない訳で、

勿論少しは歓迎すべき事ではあるんだが…。

ボクがそんな事を考えていると、先生は「ところで…」と、話題を変えるように口を開いた。

「ため息をついていたようだが、どうしたね?困り事かぁ?」

「え?い、いや別に困っているという程の事じゃあ…」

ため息を漏らしていた事、気付かれていたのか?

先生は再び首を伸ばし、ボクの背後の台を覗き見る。

「ああ、新刊かぁ。ハードカバーは結構するからなぁ」

呟きながら納得したように頷く先生。

…あっけなくバレた…。欲しいオモチャを前にして、小遣いが足りなくてガッカリしている子供みたいに見えたんじゃない

だろうか?…これは恥ずかしい…。

ここは何か気の利いた事でも言って、「実はそれほど気になっている訳でも無いんですよ」的な流れに持って行きたい。

脳を高速回転させ始めたボクは、

「なんなら私のを貸そうか?」

との、先生の一言で思考の流れをぶった切られた。

「…はい?先生の?」

聞き返したボクに、肥満虎はゆっくり頷く。

「プレゼントする訳には行かんが、読みたいなら貸すぞぉ?」

「先生も、多嘉見涼を読むんですか?」

「うん。昔からのファンだ」

少々意外だ…。この先生が多嘉見涼を…。

もしかすると、この先生の読書の好みは、結構ボクと近いのかもしれない…。

「どうだ?借りてみるか?」

「は、はい!是非っ!あ、そのっ…!ご、ご迷惑でなければですが…!」

や、ややヤバイ!嬉しくて尻尾が勝手に!

競争率の高い図書館の貸し出しを狙うとしても、数週間は読めない物と諦めかけていたのに、まさかこんなにも早く読める

なんて!

ボクはそれとなく手を後ろに回して、左右に揺れる尻尾の根本をガッチリ掴む。

クールに!クールに行けミツル!

「なら、明日にでも学校で渡すなぁ」

「え?いや、良いですよそんな…!先生が読み終わってからで…」

そうとも!二日や三日、四日や五日なんて何でもない!今日はツイてる!

表向きはちょっと遠慮しながらも、内心ではうかれまくっているボクに、

「ああ、私はもう読み終わったから、そこは気にしないでいいぞぉ」

と、先生は訳の判らない事を言い出した。

…え…?読み終わった?

「おっと、いつまでもこんな所で立ち話をしていると、迷惑になるなぁ…」

疑問に思っているボクから視線を外し、先生は周囲を見回す。

「ウツノミヤの方は、用事は済んだのかぁ?」

「え?ええ。もう寄るべき所も無いので、真っ直ぐ寮へ帰ります」

遅くまで出歩いていると、先生に与える印象も悪くなるだろう。

寄り道せずに帰寮する事をほのめかしつつボクが答えると、

「なら、もう暗いし、送って行こうなぁ」

と、先生は緩んだ笑みを浮かべながら言う。

「え?いや良いですよ。一人で帰れますから」

ボクが遠慮すると、先生は首を横に振った。

「そう遠慮するな。大して遠回りじゃあないからな、乗せてくぞぉ」

…乗せる…?って、もしかして…?

「車なんですか?」

ボクが尋ねると、先生は「まぁ、あまり立派な車じゃあ無いが…」と、浮かべていた笑みを微苦笑に変えた。

…いや、先生ぐらいの歳なら、車を持っていても不思議じゃない。不思議じゃないどころか、所持していて普通だろう。

けれど、この先生が車を運転している所なんて想像した事も無かったから、何だか新鮮だ…。

先生がなおも勧めるので、どんな車に乗っているのか興味が沸いたボクは、表向きはやや遠慮がちに応対しながらも、勧め

に従う事にした。



肥えた体を揺すってのっそのっそと歩く、縦にも横にもデカい肥満虎のやたらと広い背中を眺めながら、ボクは駐車場の端

に向かって歩いた。

「これだ。ちょっと狭いが、勘弁なぁ」

そう言って足を止めた先生の前に停まっているのは、小さな黄色い軽自動車だった。

車にはあまり詳しくないからはっきりした事は言えないが…、結構古い型式なんじゃないだろうか?ボディに光沢が殆ど無

いし…。

それにしても、ライトイエローのこぢんまりとした軽自動車は、この先生の巨体と見比べると、なんとも不釣合いに可愛ら

しい。…コンパクトさがかなり引き立つな…。

…まぁ、サイズはともかく、全体的に丸みを帯びている辺りや色合いなんかは、所有者に似ていると言えない事もないか…。

「長く乗ってらっしゃるんですか?」

ボクがそう尋ねると、先生は視線を上に向ける。

「ん〜?えぇと…。あれは…、直前辺りだったから…」

何かを思い出しながらブツブツ呟いていた先生は、「もう11年近くになるなぁ」と、感慨深そうに言った。

…やっぱり、結構長く乗られているんだな、この車…。

けれど、傷らしい傷や錆も見当たらない。

身なりのだらしないこの先生にしては意外だが、それなりに大事に乗っているのかもしれないな。

先生は窮屈そうに身を屈めて、肥えた体を運転席に押し込むと、腕を伸ばして助手席のロックを外した。

…ロックも完全に手動なのか。ますます古いなぁ…。

「お邪魔します」

断りを入れてから助手席に乗ったボクは、思わず吹き出しそうになった。

やっぱり狭いらしく、椅子を大きく下げているにもかかわらず先生は少々窮屈そうで、小振りなハンドルを大きな両手で掴

んでいる姿勢は、なんともユーモラスに見えた。

「それじゃあ、寮までドライブと行こうかなぁ」

「済みません。隣に乗っているのが女子だったら、楽しいドライブになるんでしょうけれど」

冗談めかしてボクが言うと、先生は太鼓腹を揺すって、さも愉快そうに笑った。

「はっはっはっ!女子だったら車に誘うなんて真似はしなかったなぁ。下心でもあると勘違いされそうだ」

そうだろうか?無害そうだから勘違いはされないと思うが…。

まぁ、単純に肥満中年と狭い車内で一緒になりたくないという女子は居るかもしれない。

年頃の女は難しい上に、先生は太っているせいで、暑い日は若干ムワッとオーラが漂うからな。

…まぁ、今も若干中年の香りがボクの鼻先まで漂って来ているんだが…。

慣れたせいか、出会った当初のような嫌悪感は、見た目にも言動にもその他にも、今では殆ど感じなくなった。

人類の順応力は大したものだと、改めて実感できる…。

軽自動車はゆっくりとスタートし、ボクは先生と当たり障りの無い会話をしながら、寮まで送って貰った。



翌日、部活を終えて帰寮したボクは、いそいそと鞄をあけ、先生から借りた本を取り出した。

重厚なハードカバーの一冊…。まさかこんなにも早く読めるなんて!

オシタリはまだ戻っていない。夕食の時間まで間があるし、少しだけ読んでみようか…。

着替えもせずに机についたボクは、分厚い本を裏表紙やカバーの折り返しまでチェックする。

…ん?裏表紙の裏側に、何か書いてある…?

分厚い裏表紙を捲ったら目にとび込んできたそれを、ボクはじっと見つめた。

…なになに…?


 −ヒロさんへ 応援感謝っ! 涼−

 

…ちょっと待て。これサイン本じゃないか!?

サイン会での先行販売分?いや、そんなイベントなんて聞いた事無いぞ?

タカミ先生は露出を極端に嫌う事でも有名だ。今までだってサイン会の一回も開かれていないらしいし…。

けれど、先に入手していたっていうなら、発売日当日にトラ先生が読み終わっていたっていう謎の現象にも説明はつく。

…いや、いやいや待て待て。もう一度確認…。

…「ヒロさんへ」…。これはトラ先生の事だよな?

これ、名指しのサインじゃないかっ!?

…まさか…、先生は多嘉見涼と個人的な知り合いなのか!?

ボクは半ば呆然としながら、プライベートの一切が謎に包まれている人気作家と、冴えない中年である我が担任の関係につ

いて思いを巡らせる。

名前入りのサインを書いて貰った以上、少なくとも面識があるか、何らかの接触はしているんだろうし…、明日にでも訊い

てみようかな…。

…あの丸っこい大虎が、なんだか急にミステリアスな存在に思えて来たぞ…。