第八話 「意外な表情」

「起きていて大丈夫なのか?」

寝ているものだとばかり思っていたから、こっそりとドアを開けて寝室を覗いたボクは、ベッドの上で上体を起こしている

小柄な猫の姿を目にして、少し驚いた。

手元を覗き込んでいたイヌイは、声をかけられてやっと気付き、ボクの方を見る。

「あ、ウツノミヤ君…」

本来はルームメイトの寝床である二段ベッドの下段で毛布にくるまり、イヌイは携帯を弄っていた。

ボクは宇都宮充。星陵の一年生で、伊達眼鏡がスタイリッシュな化学部所属の狐。

クラスでは学級委員を務め、自他共に認める優等生でもある。

そして、クラスメートでもあり寮生仲間でもあるこのイヌイとは、部屋が隣同士という縁がある。

そのイヌイ、実は昨夜遅くに高熱を出し、救急センターで診療を受けた。

ルームメイトであり恋人の、アブクマの慌てぶりときたら、普段の様子からは想像もつかない程凄いものだったが…、彼で

なくとも取り乱しそうになるほどに、イヌイの状態は悪かった。

そんな、ぐったりしていて呼吸も荒く、ひっきりなしに咳をしていた昨夜の様子と比べれば、今のイヌイはかなり体調も良

さそうに見えるが…。

「具合は?寝ていなくて平気か?」

「長く熱が出てたせいか、少し頭が重いけれど…、体調はだいぶ良いよ」

イヌイは笑みを浮かべて見せたものの、その表情は陰り気味だ。

高熱を出して体が疲れているのもあるだろうが…、理由はそれだけじゃない。

明日は、イヌイがマネージャーを務めている柔道部が、念願の県大会に挑む。

ルームメイトであり恋人でもあるアブクマが出場する大会に同行できず、応援も手伝いもできなくなってしまったから、気

分が晴れないんだろう。

「多少体調が良くなっても油断はダメだ。無理をしてぶり返し、こじらせて悪化する…。「もう大丈夫」は重症化のセオリー

だからな」

「そうだね…。このメールだけ送ったら、大人しく横になるよ」

イヌイは耳を寝せて微苦笑を浮かべ、ボクの忠告を素直に受け入れた。

何処かのひねくれシェパードとは大違いだな。あいつもイヌイ並に賢くて素直だと助かるんだが…。

…いや却下だ。あいつが素直で賢かったらむしろ気色悪い…。

「…で、メール?アブクマにか?」

ベッド脇に歩み寄り、折り畳み式の小さな椅子に腰を降ろしたボクが尋ねると、イヌイは操作を続行しながら、何故か少し

照れているように顔を綻ばせた。

「大した内容じゃないんだけど…、間近で応援できないから、せめてメールで声かけしようかなぁって…。「ホテルに忘れ物

しないでね?」とか、「明日に備えて早めに寝てね?」とか…」

…いじらしい…。が、なんだか寂しい…。

珍しい事にいたたまれなくなったボクは、微笑みを浮かべてメールを作成しているイヌイから目を逸らし、レースのカーテ

ンがひかれた窓に目を遣った。

現在午後五時。夏に向かって日毎に日差しが強くなって来る今の時期、この時間帯に眺める空は、落ちる寸前まで血気盛ん

な太陽によって、鮮やかなオレンジ色に染め上げられている。

「…そろそろ来ると思う」

出し抜けにボクが言うと、メールを送信し終えたらしく、横になろうとしていたイヌイは、動きを止めて「え?」と小首を

傾げた。

「トラ先生が」

「ああ…」

得心したらしいイヌイは、急に浮かない顔になると、横になって毛布を鼻先まで引っ張り上げた。

「…申し訳ないなぁ…。先生にまで迷惑をかけて…」

「気にしない事だ。教師は頼られると嬉しい生き物だからな」

実際には頼られるのが面倒だったり重荷だったりする教師も居るだろうが、ボクは今のイヌイに適当な言葉を選んだ。…今

はあえて余計な事に言及する必要はないだろう。

「それにしても、昨夜のブーちゃんの取り乱し様といったらなかったな。寮監や皆にバレるんじゃないかと気が気でなかった」

気を紛らわせようと軽口を叩いてみたが、しかしイヌイは愛想笑いすら浮かべず、困っているような顔になった。

…ん?どうしたんだ一体?

顔を横に向け、寮監に貰ったという柔道着姿の熊の縫いぐるみを見遣っているイヌイは、迷っているような、そして何かを

思案しているような表情だ。

「…もしかして、バレたらしい感触でもあるのか?」

ボクが問いかけると、イヌイはますます難しい顔になった。

この反応…、寮監達が気付いていると思えるような、心当たりみたいな物でもあるのか?

…う〜ん…。気にはなるが、今はあまり悩ませない方が良いだろう。

「またしばらく休めよ。先生が来たら声をかけるから。夕食の事もあるしな」

「う、うん…」

頷いたイヌイは、ボクが腰を上げると目で追ってきた。

「ごめんね?ありがとう…」

「どういたしまして」

そっけなく返事をしたボクは、隣室へ戻り、静かにドアを閉めた。

さて、夕食か…。

今日は寮食が休みだし、普段食事を用意してくれるブーちゃんも居ない。

…先生は…、確か料理は得意じゃないと言っていたな…。

ちょっと考えた後、ボクはブルルッと首を横に振った。

まさかとは思うが…、病気の生徒の為に、張り切って料理する…とか言い出さないだろうな?

…危ない…。ビーカーやフラスコ、アルコールランプを利用してコーヒーなんかを作るひとだぞ?料理の方も危険な香りが

プンプンする…。

…いやいや、調理器具は揃っているんだ。まさかフラスコやビーカーを持ち込んで料理するとかは無いだろう…。

…いやいやいや、「使い慣れた器具が良い」とか言って持ち込みするという線はどうだ!?使い慣れているっていうのもア

レだが、持ち込みは絶対に無いと言い切れるか!?

ボクの胸中に、不安という名の暗雲が、にわかに低く垂れこめ始めた…。



どこもかしこもでっぷりと肥えた大虎が巨体を揺すってやって来たのは、午後六時少し前だった。

前をはだけてシャツを晒す、休日仕様のジャージ姿で現れた先生は、まずはイヌイの具合を確認し、受け答えからだいぶ体

調が良さそうだと察すると、満足げに頷いていた。

「済みません先生…。わざわざ…」

「ん〜」

恐縮して詫びるイヌイの頭に、ぼってりと肉がついた分厚い手を乗せ、いつも以上に目を細めた先生は、緩んだ笑みを浮か

べる。

「まだ熱はあるが、この分なら大丈夫かなぁ」

目の高さに上げた体温計を眺めて笑みを浮かべると、先生は氷枕の感触を確かめ、「そろそろ氷をかえようなぁ」と、イヌ

イを促して枕を抜き取った。

そのままのそのそと台所へ向かった先生を追いかけたボクは、

「ボクがやりますよ」

と、枕を預かって氷を換える作業を始める。

そして手を動かしながら、心配事について確認を取った。

「先生、夕食はどうしましょうか?」

「ん〜。店屋物にしようかと思っていたんだ。何か作ってやれれば良いんだろうが、料理の方はからっきしでなぁ」

先生の返事は、ボクを心の底から安堵させた。

…実験器具で作った飯などを食わされる心配は無さそうだ…。良かった、常識があって…。

「こんな時は、栄養のある物を摂らせてあげるのが良いだろうなぁ」

ボクがホッとしている事には気付いた様子もなく、腕組みをしたまま細い目を天井に向けてしばし考え込んだ先生は、やが

て何かを思いついたらしく、

「おお、そうだ。蒲谷屋さんの鰻重を取ろうかなぁ」

と、おもむろにポンと手を打って言った。

「カバヤヤ?」

微妙に言い辛い名前をぼくがオウム返しにすると、

「うん。今年来たばかりのウツノミヤ達は知らないだろうが、創業八十年の老舗鰻屋なんだぞぉ?実は息子が星陵に在学して

いてなぁ、去年私が受け持ったんだ」

と、先生は丁寧に説明してくれた。

それは知りませんよ先生。鰻なんて高級品は、普通の高校生の外食候補には上がりませんから。

…ん?在校生のカバヤ?

「相撲部のカバヤ先輩の実家ですか?三年生の?」

「おお、知ってるのかぁ?」

「それはまぁ、有名人ですから名前ぐらいは…」

聞き返してきた先生に応じ、ボクは素早く思考を巡らせる。

名前を聞いたら、それに引っかかって何かが頭の奥から…。

はて、何だった?相撲部主将のカバヤに関連して、最近誰かと何か話をしたはず…。

…あぁ、思い出した。名物生徒の一人として、シンジョウが取材対象としてリストアップしていたはずだな?

先生が前に受け持っていたのは好都合だ。知り合いが居れば随分と話が通しやすくなる。

…もっとも、相撲部やカバヤという先輩本人が、新聞部に対して協力的か否かまでは判らないが…。

まぁ、そこからはボクが口をだしてやらなきゃいけない事じゃあない。新聞部とシンジョウの問題だな。

…ん?待てよ?トラ先生の受け持ちだったって事は…。

「それじゃあカバヤ先輩は、ウシオ副寮監ともクラスメートだったんですね?」

質問というよりは確認としてそう口にすると、トラ先生は「そうとも」と頷いた。

「副寮監とは仲は良いんでしょうか?」

「仲が良いというか…」

先生は途中で言葉を切ると、緩んだ笑みを浮かべた。

「まぁ、後で本人に尋ねてみると良いだろう」

ん?何だそれ?

…まぁいい、これだけでも有意義な情報…。小さいながらもシンジョウに恩を売れそうだ。

ああいう変に勘が鋭くて頭が回る手合いは、抱き込んでおくに限るからな。餌付けで機嫌を取っておきたい。

「じゃあ、それで良いかイヌイにも訊いてみるか。当然ウツノミヤも晩飯はまだだろう?」

「えぇまぁ…」

「ウツノミヤは、鰻は大丈夫かぁ?」

「え?嫌いじゃありませんが…」

「よし、三人前取ろうなぁ」

お?ボクも鰻重をご相伴できるのか?これはついてる!

鰻は嫌いじゃないどころか好きだ。いや、好きどころか大好きだ。

鰻本体もそうだが、あのタレがかかって茶色く染まったご飯が何より好きだ。

形だけ軽く遠慮しつつ、しかし予想通りに「いいからいいから」と押し切りに出た先生に、ボクは「それではご馳走になり

ます」と、恐縮している風を装って頭を下げた。

鰻重だ鰻重!前に食べたのは一年ほど前だろうか?ご馳走にならない手は無い!

パタパタしそうになる尻尾を意志の力で押さえ付け、ボクは恐縮しきりといった様子を装いつつ、中身を換えた氷枕を手に、

先生の後に従ってイヌイが休んでいる寝室に入る。

…だがここで、舞い上がっていたボクを奈落へ突き落とすような出来事が待っていた…。

「あの…、お気持ちは嬉しいんですけど、先生…。今は僕、お腹が受け付けないかも…。もうちょっとあっさりした物なら…」

「そうかぁ、こってりしたのは、まだ胃が受け付けないかぁ…」

ベッド上のイヌイは申し訳なさそうにそう言い、先生は「無理もないなぁ」と頷く。

…あれ…?この流れは…。

「粥ならどうだろうなぁ?私は作れないから、コンビニ物になるが…」

「あ、はい。お粥なら大丈夫だと思います」

「よし、それじゃあ粥にしよう。私も付き合って、久し振りに粥を食ってみるかなぁ…」

鰻が粥に!?うそだろっ!?

ショックを受けて立ち竦むボクを振り向き、

「ウツノミヤも粥で良いかぁ?」

先生はボクの気も知らないで、そう尋ねて来た。

「…はい。お粥で…」

平静を装って応じたボクの声は、しかしやや力が抜けた物になっていた。

…鰻…。



先生は一度席を外すと、コンビニでレトルトの粥を大量に買って戻って来た。

梅に生姜に山菜、鮭に鶏…、カレー?カレー粥!?

「…どうしたんです?こんなにたくさん…」

「はっはっはっ!予想以上に色々と種類があってなぁ。どれが良いか迷ってしまって、決めかねたんだ。ほら、これなんて山

菜十種入りだそうだ。七草粥より多いぞぉ」

「はぁ…」

太鼓腹を揺すって愉快そうに笑った先生は、曖昧に頷くボクを尻目に、粥のパックが入った大袋を抱えて寝室のイヌイに希

望を訊きにゆく。

…何人前買ってきたんだ?10パック以上あったぞ…。



「おお?」

熱湯の中に沈めた粥パックを見つめていたボクは、突然声を上げた先生を振り返る。

食器棚をあさって手頃な器を探していた先生は、太い縞々尻尾を垂直に、ビンッと立てていた。

「小振りな土鍋があるぞぉ。これは粥に雰囲気もピッタリだなぁ」

ブーちゃん達の私物であるらしい小さめの茶色い土鍋を手にして、肥満虎はやけに嬉しそうな笑みを浮かべている。

…ビーカーやフラスコでコーヒーを作る割に、器の好みはあるのか…。

「粥はそろそろ温まったかなぁ?」

「まだ一分少々ですよ?」

ボクは半ば呆れながら応じる。…さすがにまだです先生…。

バンドが色褪せている古びた腕時計と、煮立った湯の中に沈められているパックを、待ち遠しそうに交互に見ている肥満虎

の様子は、ボクに笑みを浮かべさせた。

インスタントラーメンを作る時もそうだが、普段はのんびりしているくせに、食べ物の事となるとせっかちだ。

いい歳をしているくせに、まるで食べ盛りの子供だなぁ。

…などと考えるボクこそまさにそういう年頃だった。まぁむしろ、イヌイ程ではないにしろ食が細い方なんだが…。

「…そろそろですかね?」

「よしきた」

ボクが口を開くと、待ってましたとばかりに腕まくりした先生は、まずはイヌイの分である梅粥のパックを、お玉を使って

サルベージし始めた。



ビバ、レトルト粥。

袋のまま熱湯に浸して温めるだけだから、料理の知識も腕もないボクと先生のコンビでも問題なく作れた。

梅粥を所望したイヌイはベッドの上で身を起こし、熱々の粥をハフハフと、美味しそうに食べている。

昼までは食べる気が全く起きなかったそうだが、どうやらようやく食欲も出てきたようだ。…一安心だな。

先生はイヌイに、パックの半分程度の粥をあてがった。

「急にたくさん食べても、胃がビックリするだろうからなぁ」

というのが先生の弁。

病み上がりで胃が正常に機能していない上、極めて小食な彼の事を考えての措置だ。

半分は冷蔵庫に入れておいて、レンジで温めて後で食べさせるらしい。

食事を終えたイヌイの熱を計り、少し上がっている事を確認した先生は、

「まぁ、粥を食った事もあるだろうが…、まだ布団から出ない方が良いだろうなぁ」

と、イヌイを再び寝かしつける。

「気分はだいぶ良いんですけど…」

「油断と過信は禁物だぞぉ」

首元まで掛け布団を引っ張り上げられ、首元を整えられながらおずおずと言うイヌイを、先生はにこやかに窘めた。

「風邪は万病の元、ありふれていながら厄介だ。用心用心、重ねて用心また来て用心、爪楊枝…」

………。

一瞬固まったイヌイは、どうやら聞かなかった事にしたらしく、気を取り直して口を開いた。

「でも…、もうこんなにして貰わなくとも…」

もう大丈夫だとアピールしたいらしいイヌイの言葉を、軽く手を上げる身振りで遮った先生は、ボクを振り返って口を開く。

「ウツノミヤ。私達の粥を用意しておいてくれるかぁ?あ、私のは湯を沸かした鍋にそのまま入れるから」

「え?あ、はい。…って、全部ですか?」

一度頷いたボクは、眉をひそめて聞き返す。

ボクが選んだパックの他に、四パックが湯にかけられているんだが…。

「うん。ミックス粥にするつもりだ」

…先生…。いえ、何でもありません…。

言いたい事というか、突っ込みたい事はあったが、ボクは「判りました」とだけ返事をしてリビングに戻った。

…ん?何だかボソボソと声が…。

どうやら部屋に残した二人が会話をしているらしい。

ドアの向こうから微かな声が聞こえて、反射的に足を止めたボクは耳をそばだてる。

だが、ドア越しに微かに漏れる先生とイヌイの声はあまりにも小さく、内容までは解らない。

…まぁ、具合の確認だろう。

そう判断して興味を失ったボクは、キッチンへ向かって食事の準備に取りかかった。

先生は大鍋を使うが…、えぇと、ボクの器は…、そうだ、せっかくだからこの小さい土鍋を借りよう。

実は、先生が買ってきた粥の中には、なんと鰻入りの物があった。

ほぐした身が入っているだけで、あの濃厚なタレは味わえないが、それでも鰻だ。選ばない手は無い。

先生がチョイスしたのは…、鮭のほぐし身が入っている物と、鶏肉入り鶏ガラ粥、山菜ミックスとカレーか。

…混ぜて良いんだよな本当に?どうなっても知りませんよ先生…。

…いやいや、待てミツル。本人がああは言っていても、常識的に考えてここにカレー味の粥を加えるのは不自然だ。

せめてカレーだけは別の器にわけよう。どうしても混合にしたければ、自分で器からあけて混ぜるだろうし…。

…ちょっと待てよ?湯を沸かすのに使ったこの鍋…、これにそのまま混合粥を入れたら、粥が金物臭くなるんじゃないだろ

うないか?

さっきは土鍋を見つけて喜んでいたものの、やはり器には拘らないタイプなのか?

う〜ん…。ここはやはり別の器を使うべきだろう。何か丁度良い物は…。

…お?大きい土鍋があるじゃないか?

皆で囲んでつつくのに適したサイズの鍋だが、金物よりはよっぽど良いし、粥を三パック入れても余裕がありそうだ。これ

を使おう。

先生がああ言ったんだから、言われた通りにやれば良いのに…、我ながら少々細かいな…。



しばし経って寝室からのっそりと出てきた肥満虎は、混合粥が収まった大鍋と、小さい土鍋に入ったカレー粥を目にすると、

「あ〜、済まんなぁ。気を遣ってくれたのかぁウツノミヤ…。ありがとうなぁ」

緩んだ笑みを浮かべて頭を掻きながら、喜んでいるような照れているような顔で、そう礼を言った。

「食べていて良かったのに、わざわざ待っていてくれたのかぁ。悪かったなぁ」

「いいえ。ご馳走になる身分ですから、病人のイヌイはともかく、先に食べるのはちょっと…。それに、まだ熱いぐらいです

から」

さらりと返事をしながら、ボクは胸の内でほくそ笑む。

しめしめ…。何となく落ち着かないからやっただけなんだが、思いがけず好感度アップだ。

「それじゃあ、冷めない内に食おうか」

先生はテーブルの向こう側に回ると、ボクと向かい合う形でどすっと腰を降ろす。

…しかし凄い…。

もうだいぶ見慣れているが、本当に凄い。

立ったり座ったり歩いたりするだけで、いちいちゆさゆさ揺れる腹とか、たぷたぷする顎下の肉とかが…。

質量で言うならブーちゃんの方が上だが、この弛みっぷりは凄い。…羨ましいとは決して思わないが。

…大きなお世話だろうが、これだけの脂肪を着込んでいて、日常生活に不自由はないんだろうか…?

いざ食事に取りかかると、腹を空かしていたらしい肥満虎は、ハフハフ言いながらかなり早いペースで粥を食べ始めた。

向き合うボクはあくまでも上品に、ゆっくりと粥を食べる。

…あ。しっかり鰻の味がする。薄いけれどタレの味も利かせてあるし…。これ悪くないな。うん。

尻尾をこっそり左右へ泳がせながら、ボクは会話に適した話題を探す。が、先生は一心不乱に粥を食べている。

…今は下手に話しかけて邪魔しない方が良いだろう。

しばらくは舌を楽しませる事にして、ボクも黙々と粥を口へ運ぶ。

やがて、大鍋の中身が肥満虎の胃袋にすっかり収まり、カレー粥を口元へ運ぶペースが落ちてきた頃合いを見計らって、ボ

クは先生に話しかけた。

「さっき、イヌイと何か話をしていたんですか?」

「ん?ん〜…、何と言うか…、まぁ、軽い説教だなぁ」

ほんのちょっとだけ気になっていたその疑問に、先生は手を止めて答える。

「説教…、ですか?」

「うん」

頷いた先生は、カレー粥を匙ですくいながら続けた。

「イヌイは、前日には調子が悪くなっていたのに、皆に心配をかけたくないから黙っていたそうだなぁ」

「えぇ、そう聞いています」

その事は寮監経由でボクも聞いている。

まぁ、皆というか、実質的には大会を控えたアブクマに心配をかけたくなかったんだろう。

昨夜の取り乱し様を見れば、イヌイが口をつぐんでいたかった気持ちも判る。

大概の事には大雑把で、多少の事には動じない、図太く鈍感なブーちゃんだが、ああ見えて結構細やかな部分もある。自分

の事はともかく、他人の事については。

イヌイを心配する余り大会に集中できない…、なんて事にもなりかねない。

結果的には体調不良が悪化して、バレて大騒ぎになってしまったが、イヌイの判断を責める気には…。

「そいつはダメだ…」

先生がボソリと呟き、ボクは思考を中断した。

「心配をかけたくないから具合が悪いのを黙っている…。そいつはダメな事だ」

ぼそりと呟いた先生の声は、押し殺されているように、いつも以上に低くなっていた。

「…具合が悪いのを隠されてるってのは…、嫌なもんだ…」

驚いたという程でもないが、少し意外に感じたボクは、まじまじと先生の顔を見つめた。

カレー粥に視線を落としているトラ先生の顔は、…何と言うか…、違っていた…。

眼鏡の奥の細められた目は、しかしいつものトロンとした眠そうな様子じゃなく、物思いに…、そう、辛い事でも思い出し

ているかのように、切なげな哀愁の光を帯びていた…。

「…大事な相手であればあるほど…、苦しさや辛さを隠されるのは…、嫌なもんだ…」

心なしか、口調もいつもと少し変わっているような…?

トラ先生の顔から、ボクは何故か目が離せなくなった。

それはきっと、先生からいつものぼ〜っとした雰囲気が消えて、様子がまるっきり違っていて、まるで別人のように見えた

からだ。

普段なら簡単な受け答えの一つや二つできるはずなのに、何と応じて良いか判断がつかず、ボクは頷くことすらできないで

黙り込んだ。

気詰まりに感じた数秒間の沈黙は、トラ先生の声で破られた。

「…まぁ、そんな訳でだなぁ。具合が悪くなったら、遠慮せず正直に打ち明けるようにと話していたんだ」

再び口を開いた先生の声は、いつもの間延びした物に戻っていて、微笑を湛えたその表情も、普段通りの緩んだ物になって

いる。

落ち着かなくさせるというか…、放っておけない気分にさせるというか…、初めて見る表情を浮かべていた先生からは、何

故か痛々しさと寂しさが感じられて…。

…上手く説明できないが…、トラ先生の普段と同じ表情を見たボクは、どういう訳か途端にほっとしていた。

気が付いたら、先生の前にある粥は、カレー粥も含めてすっかり無くなっていた。

「あ。先生、おかわり食べますか?あと五つぐらいありますし、良ければ温めますが…」

話題に困っていたボクは、これ幸いと先生に尋ねる。

「いや…、さすがにこれ以上は入らないなぁ…。もう腹がタポタポで…、粥がこの辺りまで来てる」

先生は白い毛に覆われた喉元を太い指でトントン叩いて示すと、シャツを押し上げる出っ腹を、円を描くようにしてさすり、

「うぇっぷ!」とげっぷを漏らす。

「おっと失礼…。ふぅ〜…。粥もたまには良いなぁ」

満足げに息をつく先生を見ていたら、ボクの顔は自然に綻んだ。

このひとはこうでなくちゃ。そんな風に感じている。

ボクらの倍以上は生きているんだ。それは勿論辛い事もあっただろうし、苦しい事も経験しているんだろう。

けれど、ある意味非常に落ち着いてのんびりしているトラ先生からは、そんな「過去」なんて感じられない。

哀しそうな顔や辛そうな顔をしている所なんて、これまで目にしていなかったし、想像もしてみなかった。

ずっと昔から、いつだってこの笑みを浮かべて、何があっても動じずに、のんびりマイペースにやってきたような印象を受

ける。

…この先生にはやはり、眠そうな目をして、ぼへ〜っとして、悩みも無さそうに緩んだ笑みを浮かべているのが一番似合っ

ている…。

「どうしたぁ?私の顔に何かついてるのかぁ?」

気付けばボクは、長い事見つめてしまっていたらしい。

先生は怪訝そうな顔をして、米粒でもついていると思ったのか、口の周りを手で撫でさする。

その仕草がまた可笑しくて、「いいえ。何もついていませんよ」と応じつつ、ボクは笑いを噛み殺した。

なら何で見ていたのか?そんな風に訝る顔になった先生は、しかし疑問を口にする前にボクから視線を逸らし、ボクもまた

背後のドアを振り返った。

ノックに続いて部屋に入って来たのは、副寮監である大柄な牛と、頭の悪そうな仏頂面シェパード。

「いやぁ、すっかり遅くなってしまった。イヌイに変わりはないかウツノミヤ?…おぉトラ先生!面倒をおかけします」

「…おす…」

先生に頭を下げるウシオ副寮監とオシタリ。

…ぼくはここでやっと気が付いた。オシタリの夕食の事をすっかり忘れていた事に…。

そう言えば副寮監も来ると言っていた。オシタリはともかく、これは失態だ。

まぁ、粥が余りまくっているから問題な…、ん?ひょっとして先生、二人の分も見越して多く買ってきたのか?

今日も練習を頑張っていたらしい応援団に型どおりの労いの言葉をかけながら、ボクはそんな事を考えた。

その間に部屋に入ってきた副寮監は、机の上に目を遣って「む?」と声を漏らす。

…ん?あれ?こ、この匂いは…、まさか…!?

「むぅ…。食事はお済みでしたか?先に連絡を入れておくべきだったか…」

そう残念そうに呟くウシオ副寮監の手には、大きな風呂敷包み。

そこから、ボクの深い部分を刺激する濃厚な香りが流れ出ている…。

「カバヤに頼んで、人数分の特盛鰻重を用意して貰いました。こんな時は栄養がつくものでもと思いまして…」

…う…鰻っ!鰻重がそこに!

ボクと先生は、何も言えずに顔を見合わせた。

…ボクはもう食べられない…。先生ももう満腹だと言っていた…。

「イヌイには粥を食わせたぞぉ…。あっさりした物の方が良いと言ったからなぁ…」

大牛にそう告げる肥満虎の顔に、一抹の寂しさが浮かんでいるように見えたのは、きっと気のせいじゃないだろう。

…鰻…。

「代金はどうしたんだぁ?相当しただろう?」

「いや、ワシの懐事情もあり、拝み倒して来月までツケて貰う事にしたのですが…」

「じゃあ、後で私が払いに行こうなぁ。生徒に払わせたとあっては立つ瀬が無い」

「面目ない、助かります…。では、ワシとオシタリの分以外は冷蔵庫に入れておきますので、イヌイの朝飯にでもしてやって

下さい」

ウシオ副寮監はそう言って、ボクの顔を見下ろした。

「済まんなぁウツノミヤ。飯の支度をしてくれているとは思わなんだ…。一旦冷してからで悪いが、明日にでも食ってくれ」

「は、はい!」

やばい。声が上ずった。

「ゴホン!…あの、副寮監は、カバヤ先輩と仲が良いんですか?」

咳払いをして誤魔化しがてらに訊ねると、ウシオ副寮監は「うむ」と頷いた。

「マブダチだ」

…マブダチって…。まぁ良い…。

…そうか…、副寮監は鰻屋のせがれと仲がいいのか…。

これまで以上に親密になっておいた方が良さそうだ…。いや、親密になるべきだ…。

ボクは暴れる尻尾を意思の力で捻じ伏せて、明日の朝食になるはずの鰻重をキッチンへ運んでゆく大牛の背を見送った。

「…どうした?ぼーっとしてよ」

背後からオシタリに声をかけられたボクは、心の底から言った。

「…副寮監はいいひとだな。オシタリ…」

「…あぁ…?」

ルームメイトのシェパードは、ボクの顔をマジマジと見つめて、

「…イヌイの風邪がうつったか…?」

と、気味の悪い物でも見たように、少し顔を引き攣らせながら距離を取った。

…失礼なっ!