第九話「軽く受けるには重い荷」

ボクは宇都宮充。伊達眼鏡がクール&クレバーな星陵の一年生。化学部所属の狐獣人だ。

そんな成績優秀品行方正、外見もそこそこイケている非の打ち所の無いボクにも、悩みの一つや二つはある。その一つが…、

「…ふぅ…」

この、珍しく勉強机に座っていると思ったら、何をするでもなくぼーっとして、ちょくちょくため息をついているジャーマ

ンシェパードだ。

ボクと異なり、不幸なほど強面で気の毒なほど頭が悪くて可哀相なほどコミュニケーション能力が欠如しているこのルーム

メイトは、家庭の事情により学費の支払いが困難なため、特例措置を受けている。

その特例を受け続ける条件の一つが、一定の成績維持する事。…まぁ、基本的に赤点を回避し続ける事が条件だ。

ところが、ボクにとっては造作のないこの事も、寂しいオツムをしているオシタリにとってはなかなかにハードルが高いら

しい。

ギリギリだった。本当にギリギリだった。前回は。

映画でも味わえないスリルを味わったぞ。ボクが。

なのに「赤点じゃねぇから良い」と言う。本人は。

そんな赤点タイトロープウォーカー、お脳がスベスベシェパードは、最近勉強に身が入っておらず、輪を掛けて物覚えが悪

い。正にバカ犬状態だ。

こいつはこいつなりに最近何か悩んでいるらしいが、オシタリは自分からそういった事を喋るタイプじゃない。

以前と比べれば格段にマシにはなったものの、口数自体そう多くないし。

はっきり言って面倒事には首を突っ込みたくないし、こいつの悩みなんてどうでも良いんだが、それで勉学に身が入らない

というなら話は変わって来る。

ボクにも面子という物がある。こいつの成績について引き受けた手前、勉強できない状況に陥られては困る訳だ。

シンジョウ辺りに、「やっぱり重荷だったのね」なんて思われたら腹が立つ。

よって…、有り難く思えオシタリ。聞いてやろうじゃないか、たぶん下らないと予想されるその悩みを。

「悩み事か?」

パソコンを弄りながら尋ねたボクに、オシタリは「ちげーよ」と、つっけんどんに返事をする。

「そんな事はないだろう?悩んでいる顔と態度だ」

「うるせえ。てめぇは尻尾の毛艶の事でも悩んでろ」

なっ!?最近尻尾の…特に中程の最もフサフサした辺りの毛の艶が悪くなって密かに悩んでいた事が、何故このバカ犬にば

れている!?

そもそもこれはきっとストレスが原因なんだ。いわばお前のせいなんだぞオシタリ!?

…とは思った物の、ここでムキになったら負けだ。クールに、そう、クールにいけミツル。

「季節柄、夏毛に変わる途中だからこうなんだよ。秋にはフサフサさ」

「ふぅん…」

気のない返事を返すオシタリは、もうまともに話を聞いていなかった。またため息をついている。

こいつにこんな態度を取られると、馬鹿にされているようで腹が立つな…。

「恋煩いか?」

「こっ…!?」

声を上げたオシタリは、椅子をひっくり返して勢い良く立ち上がり、ボクに向き直って口をパクパクさせた。

何か言おうとしているらしいが、言葉にならないようだ。

「ばっ…、ばばっ…、ばばば馬鹿野郎っ!そんなんじゃねえよ!変な事言うんじゃねえ!ぶっ飛ばすぞ!」

おーおー取り乱しちゃって。

「恋煩いじゃないなら何の悩みだ?」

「か、関係ねえだろてめぇに…」

「ほー。言えないという事はやっぱり恋煩いか。そうかそうか」

「だから違うって言って…!」

「なら何に悩んでるんだ?」

「うるせぇ!てめぇにゃ関係ねえっつってんだろが!しつけえんだよ!」

焦っている。そう、オシタリは分かり易いぐらい焦っていた。

「そうだな。恋の悩みならボクには関係ない。恋愛は自由だからな」

「違うっつってんだろ!うぜえぞてめぇ!」

「違うなら話せ」

声を荒らげるオシタリに対し、ここで始めて向き直ったボクはピシャリと言った。

「勉強に身が入らないようなら、キミ個人の問題じゃない。皆の支えがあって在学できている事は、まさか忘れちゃあいない

よな?」

「…忘れてなんかねえよ…」

オシタリの勢いは、弱みを突かれて少し削がれる。

「それが恋愛の悩みだっていうなら、キミが望まない限り口出しはしないさ。ボクだってそこまで野暮じゃない」

からかいと真面目な口調を使い分ける巧みな話術。単純なオシタリの反抗心はこれだけですぐにナリを潜める。口は相変わ

らず悪くとも、一応きちんと話を聞く態度にはなるのだ。

短い付き合いでも、コイツの極めて単純な性根は把握済みだ。

「…けれど、それ以外の事なら話してみろ。例えボクが力になれないような悩みでも、話して気が楽になる事もある。勉強に

身が入る程度に落ち着けるなら、愚痴でも悩みでも聞いてやるから。時間を割いて貰える事を心の底から感謝しつつ打ち明け

てみろ」

「…何でてめぇはいつもそう偉そうなんだよ…」

顔を顰めたオシタリだったが、これ以上チクチクつつかれるのが嫌なのか、それともボクの説得でその気になったのか、倒

れた椅子を直して腰を下ろした。

筋肉質な太い腕を胸の前で組んだオシタリは、不満げな顔をしながらも口を開く。

「団の事だ…。ある役目の話が来てよ…。それで…、考えてるっつぅか、悩んでるっつぅか…、悩みかどうか微妙だけどよ…」

「役目?引き受けるかどうかで悩んでいるのか?」

ボクが先回りして尋ねると、オシタリは顔を顰めたまま頷く。

相当悩んでいたんだな。眉間に深い皺が刻まれて、悩んでいるのか怒っているのか判らないほど目つきと顔つきが悪くなっ

ている。

しかし、ウシオ副寮監の言うことは何でも素直に聞く程に懐いたコイツが、役目を振られて悩むっていうのはどういう事だ?

「役目っての…旗手なんだ…、旗持ち…」

ボクは何度も目にしている応援団の全体図を思い出す。

確かに居る。ばかでかい旗を持ったのが居る。

あれは確か体格の良い馬獣人…たぶん三年生だ。

「大抜擢といった所か?」

「…あ?…タイマン的?」

アホヅラで首を傾げるシェパード。

…ダメだ。ちょっと難しい言葉になると理解できないのはいつもの事だが、抜擢も守備範囲外らしい。

「つまり、一年生には勿体ないような役が、不意に振られたって事なのか?」

言い直したボクに、オシタリは納得顔になって頷いた。

「そんなトコだ。だから悩んでんだよ…」

「何故だ?部外者のボクには良く判らないが、それは嬉しい事なんじゃないのか?」

「嬉しい?…かもな…。あてにされたって、実感できて…、嬉しいかもな…」

オシタリはボソボソとそう言うと、ため息をついた。

「けど簡単じゃねえ。旗手ってのは、大事なモンだ…」

そこから始まったオシタリの要領が悪い説明によれば、旗手、そして応援団の旗…団旗というものはとても重要な物らしい。

応援が始まってから終わるまで、旗を下ろす事は許されない。

ポール部分を地面に付けるのもダメで、どこかへ立てかけるなんてもってのほか。旗部分が地面に触れよう物なら一大事だ

そうだ。

そんな、ただのシンボル以上の存在…、応援団の象徴とも言える団旗を掲げる旗手は、責任重大な役目らしい。

ところが、だ。

県大会を目前にしたこの時期に、旗手だった三年生が腕の筋を痛めたらしい。

大会シーズンでの連日の応援。そこへ、強風の中の応援で、旗を持って行かれまいと無理をした結果、全治二ヶ月の負傷だ

とか…。

判りづらいオシタリの説明を得ていくらか理解したぼくは、ますます判らなくなった。

怪我をした先輩に代わってそんな重要な役目に抜擢されるなんて、願ってもない光栄な事じゃないか?何で悩むんだ?

その事を尋ねると、オシタリは苛立ったような顔になった。

「本当は上級生の役目だ。一年坊なんかに回るはずがねえ大事な役目なんだ。先輩を差し置いて、オレが受けるなんて…」

…おや?

ボクは不思議になって首を傾げた。

つまりオシタリは、周りや先輩の事を考えて、大抜擢を素直に喜べないでいたのか?

へぇ…。一匹狼気取りで協調性皆無だったこいつが…、短い間に随分成長したもんだ。

「なら断れば良いじゃないか?」

「団長直々に声かけて来たんだぞ?簡単に断れるかよ…」

オシタリは顔を顰めて苦悩の表情を浮かべる。…複雑なヤツだなぁ…。

だがまぁ、そんな事なら話は簡単だ。

本人が悩んでいる間に、副寮監に話をしてちゃちゃっと解決してしまおう。

時は知なり。

悩む時間が勿体ない。さっさと解消して勉学に励んで貰うとしようか。



オシタリだけでなく、隣室のブーちゃんとイヌイを交えて過ごす、いつも通りの賑やかな夕食後、ボクは寮監と副寮監の部

屋を訪問した。

が、目当てのウシオ副寮監は不在だった。

「寮内に居るからすぐ戻って来ると思うよ?少なくとも点呼三十分前までには。少しここで待つかい?」

いがぐり頭の人間男子、寮監のイワクニ先輩は、そう言ってボクを部屋に招き入れた。

中までお邪魔するのは今回が初めてだが、寮監と副寮監という肩書きを持つ寮生の部屋に相応しく、綺麗に整頓された過ご

しやすそうな居住空間だ。

勉強机にテーブル、そして棚、どこもきちんと片付いている。たぶん寝室も散らかっていないだろう。

フローリングの床には、暑くなるこれからの時期に備えてか、涼しげなゴザ風の敷物が敷いてあった。

整頓された棚に乗っている造花は、どうやら芳香剤としても機能しているらしく、清涼感のあるハーブレモンの香りを微か

に漂わせている。

パソコンは一台。少し前の型のノートだ。

ボクらの部屋とは違ってパソコンはテレビ兼用になっていない。そこそこ大きい薄型テレビが別にある。…あれ?これ結構

新しい?っていうか新品なんじゃないのかこれ?

…あ。あのカラープリンターって、年末に出た新型じゃないか?テレビでコマーシャルしてるバカ売れしたってヤツ。

長くここで過ごしている三年生だからなのか、ボクらの部屋と比べると私物が多い。

…二人の私物が混在しているんだろうけれど、好みが似通っているのか、部屋全体を見れば調和が取れている。そして何よ

りハイソだ。

もしかして、寮監と副寮監の実家は結構金持ちなんだろうか?

冷やした番茶をあてがわれたボクは、しばし寮監と他愛もない身の回りの話をしながら時間を潰した。

「あまり協調性が無いオシタリが応援団に入った時も驚きましたが、ウシオ副寮監に対する態度の変化は、それ以上に驚きで

した」

「ああ、最近急に丁寧になったな」

ボクは副寮監とオシタリが喋っている場面を殆ど見たことがない。

ふと気付けばいつの間にか態度が変わっていた。…そんな認識だったんだが、そうか、変化は急だったのか。

「何かきっかけでもあったんでしょうかね?」

「ん?オシタリからは何も聞いていないのかい?」

「え?いや何も聞いてませんが…。アイツは元々自分の事をあまり喋りませんし…」

寮監は「ああ、なるほど」と納得顔で頷いた。

「たぶんこれがきっかけになったんだろう…っていう出来事は、シン…ウシオから聞いている。あくまでたぶんだけど」

「それは、ボクが尋ねても良い事でしょうか?」

寮監は微苦笑すると、「まぁ良いんじゃないかな?」と、その一件について話してくれた。

「オシタリはあまり敬語なんかに慣れていないらしいけれど、一度、他校の団長…、陽明の団長に少し失礼な態度で接したら

しい。それを見たウシオがまぁ…その…、軽くキレたらしくてね、「身内のワシらならばともかく、他校の団の頭にその態度

は何だ!?」って、叱ったそうだ」

「叱った?」

「正確には、頭に拳骨落としてどやしつけたって言っていたな」

…ゲンコツ…。

「けれどまぁ、大した物だよオシタリは」

寮監は面白がっているように笑いながら言う。

「ウシオの本気拳骨貰っても、涙目になって屈み込む程度だったらしい。大概は一撃で昏倒して、その後の説教までは聞いて

いないから」

ボクは想像する。

あの大牛の巨体から繰り出される巨大拳骨は、確かに物凄く破壊力がありそうだ。

「その直後からかな?オシタリ、ぼくにも割ときちんとした敬語で話すようになった。ちょっとたどたどしいけれど」

…なるほど、そんな事があったのか…。

ゲンコツがよほど堪えたのか、それとも注意された内容に納得できたからなのかは判らないが…、副寮監に対しての態度が

改まった物になったという事は、相当効いたんだろう。

「ウシオ曰く、「団長はその団の顔であり頭だ。他校の団の顔に泥を塗る行為は絶対に許せん」…だそうだ。当然ウチの応援

団内でも上下関係は結構厳しいけれど、他校の団の団長や上級生には、それ以上の敬意を払うべきなんだってさ」

なるほど、あの牛なら言いそうな事だ。

「…ウシオ個人は上下関係にややぬるいけれど、団内の事となったら事情は違うからなぁ。思わず手が出ちゃったんだろう。

それに案外、オシタリを見ていると、昔の自分を思い出すのかもしれない…」

「昔の自分?オシタリを見て?」

断片的な言葉をオウム返しにしたボクに、寮監は苦笑いを見せた。

「あはは!ウシオにもやんちゃな時期があったって事さ!」

ボクは頭の中に、無愛想で顔と頭の悪いシェパードと、声がでかくて人の良い大牛を並べて思い浮かべた。

…ちっとも似ていないと思うんだが…、以前の副寮監は無愛想だったんだろうか?

首を捻るボクの耳が、ドアノブが回る音を捉え、思考は中断させられる。

「おかえり」

「うむ。…む?」

開けたばかりのドアの前で寮監に応じた焦茶色の大牛は、ボクに気付いて少し意外そうな顔をする。

それはそうだろう。部屋にお邪魔するのは始めてなんだから。

「お邪魔しています、副寮監」

「うむ。珍しいなウツノミヤ」

会釈したボクに応じたウシオ副寮監は、「ウシオを待っていたんだよ。用事だって」とイワクニ寮監に言われ、首を傾げつ

つテーブルに着いた。

寮監と向きあうボクの右手側に座った大牛は、寮監から冷えた番茶をコップに注がれつつ、

「ウツノミヤがワシに用事とは、これも珍しい」

と、興味深そうに、そして不思議そうに言う。

校内最大の生徒であるアブクマと上背が殆ど変わらない巨漢の牛は、骨太の体にがっちりと筋肉が付いた頑強そうな体付き

をしている。

身長193センチ、体重169キロもある焦茶色の体躯はとにかくごつくて太くて分厚く、まるでごろっとした大岩のよう。

ボディビルダーのような逆三角形じゃなく、どっちかと言えば労働職のおっさんみたいなガタイだが、何をしていたらこん

な体になるんだろうか?

ラグビー部やアメフト部の選手顔負けのガタイだが…、何だ?応援団は体も鍛えているのか?

そんなウシオ副寮監と同学年の人間男子である寮監は、身長も体格も標準クラスだ。

大会に備えてブーちゃんと集中トレーニングに打ち込んだせいなのか、出会ったばかりの春頃と比べて、腕や肩なんかは僅

かばかり逞しくなったようにも見えるが。

…まぁ、あの小山のようなデブデブのブーちゃんと取っ組み合ってる訳だし、逞しくなって当然か…。

寮監と副寮監は二人並ぶとかなりデコボコなんだが、どういう訳か揃っている姿が絵になる。

毎日揃って点呼にやって来る姿を見慣れているせいだろうか?セットで居る姿が実に自然で、違和感が無い。

そう、アブクマとイヌイのコンビと同じように。

…さて、点呼開始時間も迫っているな…。あまり足止めしても悪いと思ったボクは、早速話を切り出した。



「…と言うわけで、オシタリのヤツ、過ぎた大役だと尻込みしているらしく、大いに悩んでいます。勉強にも身が入らず、食

事の量も減っているような減っていないような…」

ボクがやや脚色してオシタリの状況を伝えると、ウシオ副寮監は困った顔になって顎の下をさすった。

「…そうか。悩んでいたか」

「ええ、大いに悩んでいるようです」

ボクは繰り返して強調する。

旗手という役が応援団にとって大事なのは何となく判った。

が、オシタリがその役に就くのは、ボクとしてはあまり好ましくない。

不相応な重荷を背負い込んで労力を使うなら、その分を勉強に回して欲しい所だからな。

そう。ボクは今、オシタリに代わって旗手辞退の申し出をしようと思い、ここに来ている。

が、そんなボクに与えられた情報は、その考えを改めなければいけないような物だった。

しばし顎を撫でていた手をテーブルの上に移したウシオ副寮監は、考え込むような顔つきのままコップを掴み上げ、冷やし

た番茶をグビッとあおってから口を開いた。

「実は…、現団員の中で、旗手にはオシタリが最も適任なのだ。知っての通り旗手は体力勝負なのでな」

「いや「知っての通り」じゃないから。体力要るのかいあの旗持ちって?」

横から寮監が突っ込み、ウシオ副寮監は「む?常識だろう旗手のキツさは?」と、明らかに一般的ではない知識を常識カテ

ゴリーにねじ込もうとする。

「団旗は大きく、そして重い。それが強風をはらんだ際には、旗その物の重量もさることながら、きつい風圧にも耐えねばな

らん。よって我が校の旗手は代々、体力は勿論として体重や体格も選考基準にしている。…まぁ、簡単に言うと獣人が向いと

るんだが」

「獣人だったら…、二年生にアトラが居るじゃないか?」

ボクが思った事を、寮監が先に質問してくれた。

そう。ここの寮生でもある二年生、虎獣人のマガキ先輩は、オシタリ同様体格が良い。

上背はそう変わらないが、ゴツさで言えば上を行くだろうに…、あの先輩じゃダメなのか?

「残念ながらアトラは除外だ。あいつには鼓手を務めて貰っとる。一年生何人かに太鼓を仕込んどるが…、まだ代役が務まる

程モノになっとらんのでな。アイツが一年の時からずっと任せて来たが…、まさか代役を用意せんかった弊害がこんな形で表

面化しようとは…。当然、仕切らねばならんから団長のワシは無理だ。となると…」

なるほど、別の役目があるのか…。

「他に獣人はおらん。人間でもできん訳では無いし、実際に打ち合わせでは数人候補に上がったが、結局の所、三年団員全て

がオシタリを最有力候補に挙げた」

選択の余地無し、か…。こうなると方針変更だな。

オシタリ本人が遠慮しても、状況は遅かれ早かれアイツを旗手にしてしまうだろう。

避けられないなら、さっさとケリをつけて気分的にすっきりさせてやるのが最善か…。

だが、ボクから言っても素直に首を縦に振らないだろうな。…となると…。

少し考えた後のボクの頭には、説得に適任の者…というよりも、オシタリに限っては簡単に焚きつける事ができる者の顔が

浮かんでいた。

こんなケースならブーちゃんよりも、イヌイよりも、アイツがずっと適任だろう。

団長から直々の打診でもなお決心がつかないような事でも、アイツから言って貰えば簡単におちるはずだ…。

幸いにもアイツが欲しがっていた情報もある事だし、一つ頼んでみるか…。



翌日の昼休み、ボクは眼鏡女を裏庭の遊歩道へ呼び出した。

「カバヤ先輩の情報、欲しがっていたよな?仲が良い先輩を見つけたぞ」

人目のない位置に着くなり開口一番、自信満々に切り出したボクに、しかしシンジョウは何故か微妙な表情を見せた。

「ああ…、ご免なさい。言っていなかったけれど…、その件はもう良いの」

「…何だと?」

シンジョウは、意表を突かれて絶句しているボクに、カバヤ先輩とはちょっとした事で知り合ったから、もう情報を求めて

はいないのだと告げた。

しかも何という事か、何という事なのか、何という事だっ!

しばらく前にお近づきになっていたというシンジョウは、あろう事かカバヤ先輩の家にお邪魔して鰻重までご馳走になった

とか!しかも二度!

何て羨まし…じゃない遠慮しろ!高級品の鰻重を無償でご馳走になっただと!?恥を知れ恥を!せめてボクも誘え!皆をと

までは言わないからボクだけでも!

…鰻…。

…コホン…!

しかし困った。他には交渉材料になりそうな情報は無いぞ?

切り札になると思っていたこの情報があったからこそ、引き受けさせるのは簡単だと目論んでいたんだが…。

「何か頼み事でもあったの?」

察しの良いシンジョウは、ボクが何か持ちかけようとしていた事には、当然気付いていた。

…まぁ、こうなったら後払いという事で頼むとしようか。正直なところ、この女にはあまり借りを作りたく無いんだが…。

オシタリの置かれている状況をかいつまんで説明すると、シンジョウは「へぇ…」と、感心しているような顔つきになる。

「それって、結構凄い事じゃないかしら?前歴が殆ど無いわ」

ゴタゴタしている部活の関係上、各委員会や部活について以前に輪をかけて詳しくなったシンジョウは、応援団の事につい

ても十分な知識を得ているらしい。

ボクが詳しい説明をしなくとも、オシタリに振られた役目の重大さを認識していた。

「私が知っている限りだと、最後に一年生が旗手を務めたのって十年近く前よ?それも、病欠した正規旗手に代わって、練習

試合で一度就いただけだったはず…」

「だが、オシタリの置かれている状況は、その当時よりも深刻だ」

シンジョウは「そうね…」と、神妙な顔で頷く。

「三年生の正規旗手の復帰が絶望的、という事は…」

「そうだ。引き受けたら、しばらくはそのまま旗手として活動する事になるらしい」

「それだけじゃないわね。怪我した先輩がもし復帰できたとしても、夏の大応援祭が済んで引退してしまったら、そのまま正

規旗手のポジションに据えられるかも…」

「その可能性は極めて高いだろうな。オシタリが最も適任だと、ウシオ副寮監自身が太鼓判を押しているんだから」

「で、貴方は心情的には反対な訳ね?」

「良く判ったな?」

「口ぶりでね。オシタリ君の勉強の事が心配なんでしょう?重役を背負わされたら、身が入らなくなるんじゃないかって…」

「その通り。あいかわらず薄気味悪いぐらいに察しが良いなキミは」

「失礼ね」

「これでも褒めているつもりだ」

「それでもあまり嬉しくないわ」

軽口を叩き合った後、シンジョウは「う〜ん…」と唸った。

「それで…、避けられそうにないから辞退させるのは諦めた…。ってところかしら?」

「ご明察。だから、早々に決心を固めて貰って、気分的にだけでもスッキリさせてやりたい」

シンジョウは何故か、何かを面白がっているような微妙な笑みを浮かべる。

「随分熱心ね?常々「あんなヤツ知るもんか」って毒づいてる割に」

「成績については面倒を見ると、キミを含めて皆に約束したからな」

約束は守る。これは人脈を築く上で必須だ。

そして何より、あの約束を反故にするのはボク自身のプライドが許さない。

オシタリ一人程度の面倒を見るなんてどうって事ない。ボクなら確実にやれる事だ。

そう、オシタリが旗手というキツい役目に就いても、成績はキープさせて見せる。

少しの間、不愉快なニヤニヤ面をしていたシンジョウは、

「そういう体面にこだわる所だけは、信用してるわよ」

と、悪戯っぽく笑った。

「良いわ。そういう事情なら交換条件なんか無しで協力するわよ」

「ほう…?良いのか?無償奉仕で」

「貴方の私欲に関する事なら、当然ギブアンドテイクの協力関係に基づいた見返りは要求するけれどね」

「オシタリには優しいんだな?キミは」

「傘を貸してくれたもの」

「その程度の恩義でただ働きしてくれるならボクも貸すぞ?予備の折り畳みで良ければ。なんならコンビニでビニール傘を買っ

てプレゼントしてやろうか?」

「そういう確実な見返りを求める善意モドキは結構よ。それと、傘は間に合っているわ」

まったくもって可愛くない女だ。

「それに何より、オシタリ君がその件で集中できなくて赤点でも取っちゃったら困るじゃない?ただでさえ…、その…、アレ

だったんでしょう?中間テスト…」

そう声を潜めて言ったシンジョウは、分厚い眼鏡の奥で目を細め、やや不安げな顔になった。

判ってらっしゃる。

「ボクが何とかするさ。本人が集中さえできるならな」

ボクはニヤリと笑って見せ、思い描いていたシナリオをシンジョウに打ち明けた。



その日の放課後。

昼休みの密談が行われたその場には、眼鏡女と馬鹿犬の姿があった。

さすがだオシタリ。練習直前の時間でも、シンジョウに呼ばれれば文字通り尻尾を振ってついて行くんだからな。

しばし話をした後、オシタリの声が大きくなった。

「ど…、どっから聞いたんだ?団内だけでの話だぞ?」

動揺するオシタリに、演技派のシンジョウはチッチッチッと指を左右に振りつつ応じた。

「私の所属部をお忘れかしら?校内の事には耳が早いのよ」

流石だシンジョウ。あの簡単な打ち合わせでも、不足分は完璧なアドリブで補っている。

「旗手ってステキね。旗にばっかり目が行くけれど、それを支える大変な役目…、一年生なのに候補に挙げられるなんて、オ

シタリ君は期待されているのね?」

「そ…、そんなんじゃ…ねえよ…」

そっぽを向きながらゴモゴモと応じるシェパード。柄にもなく照れているのかオシタリよ?

「凄く大変な役目でしょうけれど、旗手って絵になるわよね…」

シンジョウは思い出すかのように視線を空に向け、分厚い眼鏡の奥で目を細めた。

「その旗手を務めるのがオシタリ君だったら、私もちょっと鼻が高いかも?あの旗を支えているのは知り合いなんだって、周

りに自慢できるし…、張り切って記事が書けるわきっと」

不意に首を曲げたシンジョウに微笑みかけられ、オシタリは硬直した。ガッチガチに。

よし!手応え有り!ボクが考えたセリフとシンジョウの演技は、どちらも完璧だ!

しばし黙り込んでいたオシタリは、少し俯き加減になりつつ、ぼそぼそと呟いた。

「…あんたが…、記事にし易いって言うなら…、やってみるかな…、旗手…」

ぃよしっ!

「今は…色々…大変なんだろ…?あんたの記事に役立つなら…、オレが旗を持ってみる…」

ボクは物陰に身を潜めたまま、ガッツポーズを取った。

男相手には何かとつっかかるシェパードだが、女子であるシンジョウ相手には突っ張り切れないのか、割と素直な態度を見

せる。

面識も殆ど無かったのに間接保証人となってくれたシンジョウには、多大な感謝の気持ちと少なからぬ好意を抱いているら

しい。

彼女がウチの寮に遊びに来て帰りが遅くなった時には、女子寮前まで送る忠犬ぶりを発揮する程だ。

「本当に?そうねぇ…、きっと凄く絵になると思うわ、旗手のオシタリ君は!目を引く記事が書けそう!」

シンジョウが嬉しそうに笑う。

その笑顔を遠くから眺めていたボクは、ふと疑問に思った。

…真に迫ってはいるが…、あれは本当に演技か?もしかして本心から喜んでるんじゃないのか?



「真に迫っていた?それはそうよ本心だもの」

オシタリの単純馬鹿が鼻息を荒くして練習に向かった後、隠れていた物陰から出て尋ねてみたら、シンジョウはあっさりそ

う言った。

「だって似合いそうじゃない。想像してご覧なさい?オシタリ君が星陵の団旗を掲げている光景を」

そう言って視線を上へ飛ばしたシンジョウにつられ、ボクも頭上を見遣る。

空を切り取る屋上の手すりを越えて、練習を始めた応援団の声が響き始めた。

その向こうの青空に、ルームメイトが大きな旗を掲げている姿を重ねてみる。

…ちょっと癪だったが、シンジョウの言うとおり、確かにアイツは絵になるかもしれないと感じた。