第十一話 「ナデナデ」
「くそっ…、ふぅ…!ちっこいのに…、ひぃ…!速ぇなぁ…!」
息を切らして四階まで駆け上った俺は、反対側の階段めがけて突っ走ってく仔猫…キイチ二号をドタドタ追いかける。
俺は阿武隈沙月、星陵ヶ丘高校一年。柔道部所属で、胸の白い月輪がトレードマーク。
どういう訳か二号に警戒されちまって、一人だけナデナデさせて貰えなくて、ちょこっとへこんでる熊獣人だ…。
まぁ、汗臭ぇからとか、顔が恐ぇからとか、そういう事で嫌われてた訳じゃねぇらしい事も判った。
誤解をとく事はできる!俺達は解り合えるはずなんだ二号!
…にしても…、う〜っ…!腹が痛ぇ…!
さっき二号を足止めする為のペットボトルに見事に引っかかって、コケた拍子に鳩尾にヅグッと入ったんだが、ここまで強
烈なボディブロー貰ったのは生まれて初めてだぜ。…中学の頃に隣町の学校の豹に膝入れられた時の倍ぐれぇ効いた…。
二号にゃ効果ねぇみてぇだったし、いったいぜんたい誰用に設置されてたんだよあの罠…。
シパタタタッと足をパタパタさせて曲がり、突き当たりの角から階段に駆け込む二号。
あそこからは下の階にしか行けねぇ。でもって三階にはウッチーが行ってる。上手く挟み撃ちにできりゃあ良いんだが…。
「あ、サツキ君!」
階段を駆け下りた俺は、下から上がってきた小柄なクリーム色の猫…って言ってもこっちは猫獣人、キイチ一号と鉢合わせ
た。…いや、元祖キイチ?まぁとにかく本人。
「下に降りてったか?」
「ううん、来てないよ!じゃあ三階だね?」
一緒に角を曲がって廊下に出ると、二号は廊下の真ん中で止まってた。
その視線の先、向こうサイドに立ってるのは…、オシタリとウッチー!首尾良く挟み撃ちの格好になったぜ!
この階は二年生の先輩方が暮らしてんだけど、都合良く今は誰も廊下に出てねぇ。
俺達はじりじりと間合いを詰める。オシタリがちっちっちっちっと口を鳴らしてるが、まだ興奮してんのか、二号はあいつ
のトコにも行かねぇ。
けど、もう逃げ場はねぇぞ。今度こそちゃんと捕まえられ…。
ガチャッと、二号の右横でドアが開いたのは、俺達と二号との距離が、それぞれ3メートルも無くなった頃だった。
「ん?」
俺に気付いた灰色の狼がこっちを向いた途端、二号はその足下から部屋の中に駆け込んだ。
「おっ?何だ何だ?」
足下をすり抜けた白猫を目で追ったシゲさんは、「あ…」と声を漏らして目を丸くする。
「のわぁあああああああああああああああああああああああああああっ!?」
次の瞬間、部屋の中から迸ったのは野太い悲鳴…。
慌てて駆け寄った俺達が部屋の中を覗くと、座卓の上に飛び乗っている虎と、開いていた窓の枠に飛び乗るチビ猫のすが…、
「ぎゃああああああああああっ!二号ぉおおおおおおおおおおおおっ!?」
俺が悲鳴を上げた時には、二号は窓から外に向かって飛び降りてる!こ、こここここここ三階だぞぉっ!?
走り寄った俺達は、窓際でぎゅうぎゅう押し合いながら外を覗く。
「…あ!見て!木にひっついてる!」
俺の腹と窓枠の間に挟まったキイチが指さす先には、寮の脇に立つ白樺の木にしがみつく、白いポワポワの姿…。
…ほっ…。無事かぁ二号…。ビックリさせやがってよぉ…。
爪を立てて木にしがみついてる二号は、そのまま器用にスルスルと、尻を下にして伝い下りてく。
「ルパンかあいつは…」
カリカリと爪を立てつつ降りてく二号を眺めながら、ウッチーが呟いた。
「とにかく下だ。くそっ!外じゃなおさら捕まえ難いぜ…」
くしゃみを連発しながら鼻をかんでるマガキ先輩を残し、ドタドタと部屋を駆け抜けた俺達は、
『失礼しました』
「ん?ああ…」
入り口で首を傾げてるシゲさんに声を揃えて一礼して、そのまま廊下を走って下に向かった。
「くそっ…。どこ行っちまったんだよ二号…」
「飼い主の所に帰ったんじゃないのか?」
ブロック塀の上から余所様の庭を覗き込みながらため息をつくと、横を歩いてるウッチーがそっけねぇ調子で応じる。
「だったら良いんだけどよ…」
あの後外に出た俺達は、丁度外に出てた寮生数人に仔猫を見なかったか訊ねてみた。
その寮生の中の一人が、敷地から飛び出してった二号の姿を偶然見てたんで、とりあえず出てった方向は判ったんだが、そ
の方向ってのがマズい。
つまり、俺達が歩いてるココ…、車の往来も激しい県道添いに出ちまったんだよ…。
県道添いに出てから、俺達は二手に分かれた。で、オシタリとキイチは反対方向に向かって、二号を探して行ってる。
…もしも…、もしも車に轢かれちまったりなんかしたら俺のせいだ…。
俺を嫌がって逃げなけりゃ、こんな事にはなんなかったのによぉ…!
もうナデナデしてぇとか抱っこしてぇとか贅沢言わねぇから、無事で居てくれよぉ二号ぉ〜…!
トボトボと歩きながらしばらく二号を探してると、ウッチーが「あ」と声を漏らした。
「どした!?二号居たかっ!?」
塀の向こうを覗き込んでた俺が振り返ると、ウッチーは前を見たまま首を横に振る。
「いや、担任が居た」
ウッチーの視線の先を見ると、横道から県道沿いに出てくる、眼鏡をかけた太った虎の姿…。俺達の担任、トラ先生だ。
向こうもこっちに気付いて、ただでさえ細ぇ目をさらに細めて笑みを浮かべる。
先生は色が薄くなった紺色のジャージの上下にサンダルって格好だ。
ジャージの上は前を開けっぱなしで、むっちりした胸と丸い腹でピチピチのタンクトップが剥き出し。
いつもの格好…つまり、ワイシャツにズボン、上に白衣って格好を見慣れてるせいか、なんかこういう格好は新鮮だ。
…そう言えば、この先生の普段着姿を見んのは初めてだな…。
「おはようございます」
「おはよっす、トラ先生」
「おお、おはよう。二人でお出かけかね?」
にこやかに笑いながら応じた先生に、俺とウッチーは揃って首を横に振る。
「んん?何で困り顔なんだぁ二人とも?」
不思議そうに首を傾げた先生に、ウッチーが「実はですね…」と、事情を説明し始めた。
「ふぅ〜ん…。にゃんこなぁ…」
俺とウッチーの間を歩きながら、説明を聞いたトラ先生は首を傾げた。
先生は、今日は特に予定も無いから、一緒に探してくれるって言ってくれた。…ホントにありがてぇ…。
「にゃんこっていうのは、長く走るようにはできていない。それこそ仔猫だ。寮の中をそんなに駆け回ったんなら、もうかな
りバテてるんじゃないかなぁ?」
「…俺がビックリさせちまったから…」
耳を伏せて呟いた俺に、トラ先生は微苦笑を見せる。
「いやぁ、そういう意味で言ったんじゃあないんだぞぉアブクマ?疲れて物影で休憩でもしているんじゃあないかと思ってなぁ」
ソレを聞いたウッチーが、何かを思い出したように耳をピンと立てた。
「ああ、そうか…。チーターとか速い動物のイメージがあったけれど、あれも短距離か…」
「その通り。にゃんこは走る時に全身を使うんだなぁ。動きがダイナミックだろう?柔軟な体全体をバネにするから初速はか
なりの物だが、何せ全身運動だからなぁ。瞬間的な加速を得られる代わりに消耗も大きい。仔猫の体で高校生を振り切るよう
なダッシュを繰り返したなら、それは疲れるだろう」
さすが先生だ。頭の悪ぃ俺でもこの説明だと何となく判る。
「それに、にゃんこは睡眠時間が長い生き物だし、疲れて眠くなってどこかその辺で昼寝なんかして…」
いつもの眠そうな目で周りを見回したトラ先生は、急に足を止めた。
「どうかしたんですか?」
ウッチーが尋ねると、トラ先生は道路の向こう側を見ながら、ゆっくりと口を開いた。
「…イヌイみたいな色のにゃんこだって、言っていたなぁ…?」
「…ええ。なので二号と呼んでいましたが…」
「…あそこの、違うかぁ?」
俺とウッチーは先生が向いてる方向に顔を向けて…、二号を見つけたっ…!
三方向が民家の塀で囲まれた、売り地の看板が出てる空き地の奥、背が低い雑草が茂ったそこに、二号は居た…。
どうやら無事に県道を渡りおおせて、この空き地に入り込んだらしい。…ヒヤっとすんなぁオイ…!
道を渡った俺達は、壁際からそっと空き地を覗き込みながら、捕獲作戦の打ち合わせを始めた。
二号は空き地の奥側、左右から見てほぼ中央、放置されてるタイヤの上に伏せて目を閉じてる。
うたた寝してるみてぇにも見えるが、耳は立ったままでピクピク動いてる。
「足元には雑草、おまけに雨上がりのぬかるみ…。近付こうとすれば確実に気付かれるな」
ウッチーが空き地を見回しながら呟き、走ってって捕まえようとか単純な事しか考えてなかった俺は若干恥かしくなる…。
「塀際のあれ…廃車なぁ…。あれの下に入り込まれたら、捕まえるのは大変だろうなぁ…」
先生の言葉通り、空き地の一番奥には所々塗装がハゲて錆びてる白いワゴン。
中にはゴタゴタと廃材みてぇなもんが詰め込まれてて、車輪はホイールだけになってる。
立ってる看板は色褪せて字が読み辛くなってるし、雑草もぼうぼうだ。かなり長い間放置されてんだろうな、この空き地。
「バレずに近付くのは無理だろうし、ボクが一人で行ってみます。ボクの事は怖がらなかったし、ブーちゃんは異様に警戒さ
れてる。どうやら大きい相手を怖がるようだから、先生も怖がられるかもしれません。ぼくだけで行くのが安全かも…」
「確かに…、そうかもな…。悪ぃウッチー、任せる…」
「ん。じゃあ、私もここで待ってるなぁ」
頷いたウッチーは、口元を少しだけ歪めた。
「…つくづく人を見る目の無い猫だな…。善人を避けて、よりによってボクを避けないとはね…」
「ん?何だ?」
ボソボソ声だったから良く聞き取れなくて小声で聞き返した俺に、
「いや、なんでも無いよ」
と、少しだけ笑みを浮べて応じたウッチーは、鉄線の間に体を滑り込ませて空き地の中に入った。
ウッチーが言った通り、雑草の擦れる音と湿った足音で気付いたらしい二号は、パッと目を開けて首を起こした。
が、歩み寄ってるウッチーの姿を見ても逃げようとしねぇ。もしかして、割とあっさり捕まえられるんじゃねぇか!?
期待を込めて身を乗り出したその時、俺は自分が大失敗をやらかした事を悟った。
ウッチーの足の間から、二号と俺の目があった。
その直後、二号は身を翻して奥へ走り、廃車のホイールにくっついて置かれてた三角の木材にガタンとぶつかりながら、そ
の下に駆け込む。
…やっちまった…。また俺のせいで…。
ため息をついて肩を落としたウッチーの後姿を、まるで責められてるような気分で見つめながら、俺は空き地の中に入った…。
後ろに続いたトラ先生と一緒に歩み寄った俺を、ウッチーは肩越しに振り返る。
「悪い、駄目だった…。ボクなら逃げられないと思ったんだが…」
耳を倒して顔を顰めながら詫びたウッチーに、俺は慌てて首を横に振る。
「違うんだ、俺が気付かれちまったんだよ!大人しく顔引っ込めてりゃ良かったのに…」
俺が小さくなりながら謝ると、トラ先生がポンと肩を叩いた。
「まぁ、責任がどうこうよりも、これからどうするかだなぁ…」
「ですね…。あの下となると、先生方は勿論、ボクだって入れません」
俺の失敗を責めるでもなく、ウッチーと先生は廃車を見遣る。
廃車は奥の壁にぴったり寄る形になってて、下の隙間は15センチもねぇ。そこらへんは低くなってんのか、雑草の間から
泥が見えてぬかるんでる。
おまけにでかいワゴン車だ。手ぇ伸ばしたって逃げ場はいくらでもある。…まぁ、俺も先生も腕すら入んねぇけど…。
「三方向で張りますか?ブーちゃんが脅かせば、他の二方向に逃げて来るかも…」
「脅かすのは気が引けるけれどもなぁ…。手が出ない以上、にゃんこの方から出てきて貰うしか無いかぁ」
「…判った。それでやってみようぜ」
これ以上嫌われんのは嫌だけどよ、仕方ねぇじゃねぇかこの場合…。俺のせいなんだし…。
トボトボと歩き出し、ワゴンの後ろ側に回って…、
ギシッ…
妙な音が聞こえて、俺は足を止めた。
何だ?今の何か擦れたような音?
音が聞こえたほうへ反射的に向いた耳はそのままに、俺は視線を動かした。
音の出所は、ホイールだけになった前輪辺り。さっき二号がぶつかった三角の木片が、奥側にずれてるのが見えた。
元はホイールにぴったりくっついてたんだろうな。車止めみてぇな感じで。
…ん?…車止め?止めてたのか?アレでも?
そういやあのホイール、不自然に傾いてねぇか?上側が車体側に、下側が外側に斜めになってて…。
またギシッと音がして、俺は目を見開いた。
車輪が内側に倒れ込むように動いて、メキメキ音を立てて廃車の前側が低くなる!
「な、何だ急に!?」
驚いて声を上げるウッチーの横で、トラ先生が小さく唸った。
俺は気が付いた。あの木片はやっぱりタイヤを止めとく物だったんだ!
それが、何年もの間放置されて、地面がぬかるんだり乾いたりを繰り返してる内にゆるんで、下がぬかるんでる今は、仔猫
がぶつかっただけでも少しずれちまうぐれぇになってた!
ボロボロに錆びてるし、だいぶ古い車だ。支えを無くしてホイールが動いた途端に、腐食が進んでた車軸が折れちまったんだ!
くそっ!二号っ!二号は無事か!?
ぬかるんだ地面に這いつくばって下を覗き込んだ俺は、こっちを見てる二号と目があって、ほっと一安心する。
「二号は大丈夫だ!潰れてねぇ!」
が、そう言った直後に俺の全身の毛が逆立った。
二号は、低くなった車体に背中と頭を押さえつけられた格好になって、ぬかるんでる地面に顎をくっつけてた。その顎が…、
泥ん中に半分沈み込んでるっ…!
そして、またギシッと音がして、車体がまた傾く…!
「やべぇ…!このまんまじゃ、潰れなくても窒息しちまう!」
「はっ!?」
ビックリしたような声を上げたウッチーに、俺は手短に状況を説明した。
「次から次へと…、どんな災難を背負って来たんだあの猫はっ!」
苛立たしげに舌打ちするウッチー。尻尾を小刻みに揺らしながら、湿った地面を爪先で叩いてる所を見るに、二号を助け出
すにはどうすれば良いか、必死に頭を巡らしてくれてるみてぇだが…。
ギシシッ…。
何度目かの音が耳に届いたその時、俺はもう居ても立っても居られなくなった。
廃車にひっつき、腰を落として下に手をかけた俺は、渾身の力を込めてワゴンを引っ張り上げる。
だが、ちょっとしか浮かねぇ…!中に詰め込まれてる廃材を引っ張り出しゃあいくらかマシになるんだろうが…、下手に動
かすのはヤバイし、手を離したら一気に沈み込んじまいそうで怖ぇ…!
俺はギリッと歯を噛み締めて、心の中で自分を怒鳴りつける。
情けねぇぞサツキ!てめぇの図体はでけぇばかりで役立たずか!?今根性見せねぇでいつ見せるんだよ!
息を止めたまま気張る俺の横に、ずいっと、丸っこい影が進み出た。
俺がチラッと横目を向けると、トラ先生は腰を落としてワゴンの下に手を入れながら、俺に視線を返して寄越した。
「一気に上げるぞアブクマ。気合入れて踏ん張れよ?」
顎を引いて頷いた俺の横で、心なしか顔つきと口調が変わったような気がするトラ先生は、
「せぇので俺に合わせろ、良いな?」
そう言うなり、すぅっと大きく息を吸い込んだ。
「せぇ…のっ!」
「おうっ!」
同時にグッと力を込めた俺達の手が、ワゴンを軋ませながら僅かに上げる。
次の瞬間、俺と先生の間、足元を、白い小さなモンが駆け抜けた。
「出ました!もう大丈夫、出てきましたよ!」
背後からウッチーの声が聞こえ、俺と先生はゆっくりとワゴンを下ろす。
「…はぁ〜…」
思わずぬかるみにへたり込んだ俺の横で、先生もため息をつきながらワゴンによりかかり、ズルズルッドチャッと尻餅をつく。
はぁはぁ息をしてる俺と先生の視線の先には、ウッチーに抱きかかえられた、泥で汚れた白い仔猫…。
「無事かぁ、二号…」
「あぁ…、良かった良かった…。あ〜…、腰に効いたぁ…」
顔を顰めた先生を横目で見遣って、俺は声を漏らしながら笑う。
「えれぇ腕力っすね先生。化学なんて教えてっから、体力仕事はあんま得意じゃねぇんだろうなって思ってたっすよ」
「ははは…、いやいや、得意じゃあないなぁ…。だが、学生の頃はウェイトリフティングをやっていたからなぁ、昔取った杵
柄ってヤツだ…。あ、いた…、いたたた…!脇腹つった…!」
立ち上がった俺は、右脇腹の背中寄りを押さえて身悶えする先生の右手を掴んで、上に伸ばすように引っ張ってやる。
「お疲れ様です先生。ブーちゃんもご苦労。腰とか平気か?二号は、見た限りはどこも怪我していないようだ」
「俺の方は問題ねぇ。いやぁ〜…、良かった良かった…」
ほっと一安心した俺を、ウッチーの手の中から見つめて来る二号。
綺麗な白い毛は泥だらけになって汚れちまってるけど、苦しがってる様子もねぇし、ウッチーが言うとおり無傷みてぇだ。
ほっ…。無事で良かったぜホント…。
相変わらず警戒してんのか、俺をじっと見てる二号を見下ろしたウッチーは、訝しんでるみてぇに眼を細めた後、俺達に近
付いた。
「おいウッチー、こっち来んなって!また怯えて逃げちまう!」
「さぁ、今度はどうかな…?」
注意した俺に、ウッチーは片方の眉をちょっとだけ上げて、ニヤリと笑って見せた。
もう一回止まるように言おうとした俺は、二号の顔を見て口を閉じた。…何か…ゴロゴロ言ってる?
俺のすぐ傍まで来たウッチーは、腋の下に両手を入れて差し出すようにして、二号を俺に向かって突き出した。
二号は、今度は暴れねぇで俺をじっと見て、喉を鳴らしてる…。
引っ張ってた先生の手を離した俺は、二号の鼻先に恐る恐る手を伸ばしてみた。
もしかしたらガブッとやられるんじゃねぇかと思ったが、二号は俺の指先をフンフン嗅いだ後、顔を斜めにして額を擦りつ
けて来た。
「猫畜生なりに理解したんだろうな、キミが敵じゃないって事と、助けて貰ったって事…」
ウッチーは俺に押し付けるように、ズイッと二号を差し出す。
おっかなびっくり腋の下に手を入れて受け取って見ると、二号はゴロロッと大きく喉を鳴らした。
「…は…、ぬははっ…!やっと触らして貰えた…!」
そっと、胸に抱えるようにして抱いて顎の下に指を入れると、二号は俺の太い指にグリグリと顔を擦りつける。
…くぅ〜っ…!可愛いなぁおいっ!
「仔猫を抱いたぐらいで、何でそこまで嬉しそうに出来るんだ?」
「あ、痛い…、いたたたたっ…!またきた…!」
不思議そうに呟いたウッチーは、トラ先生がまた脇腹背中寄りを押さえて顔を顰めると、俺がやってたように先生の手を上
に引っ張った。ため息をつきながら…。
「とにかく、急いで帰って着替えないとな。ここからなら寮までそう歩かないし」
ぬかるんだ空き地の地面を踏み締めて引き返しながら、ウッチーは俺とトラ先生の格好を見回してそう言った。
…確かに…、すっかり泥だらけだし、パンツまで染みて来て気持ち悪ぃ。早ぇとこシャワー浴びて着替えてぇな…。
ウッチーの提案で、とりあえずは先生も一緒に寮まで来て貰う事にした。
先生は幅もあるし体もでけぇけど、俺の服なら着れるだろうし、着替えた方が良いやな。
二号もびしょ濡れだ。こんな小せぇんだ、冷えて風邪ひいちまったら大変だし、温かくしといてやらねぇと…。
ちっこい頭をナデナデしてやりながらちょっと考えた俺は、ジャージの前をあけて二号を中に入れた。
でもって下に落ちてかねぇように、ジャージの上から当てた手で下側を支えて抱いてやる。これでなんぼかでも温けぇだろ。
ウッチーが携帯でキイチ達に連絡して、二号が見つかった事、元気だって事を伝えてると、空き地から歩道に戻ったトラ先
生は、「ん〜?」と首を傾げて右の方、寮と逆方向を見遣った。
そこには、電柱前にわらわらたかってる黒いスーツを着込んだ男達の姿。
七人の黒服達は獣人と人間の混合で、ビシッとしたスーツにグラサンっていうおそろいの格好。…やっちゃん…?
黒服達が電柱を囲むように立ってるが、その中央、電柱の真ん前にはすみれ色の着物を着た狐の姿があった。
…あれ?狐は袖で目を拭って…、泣いてる?…何だ?何かトラブルか?
「コセイ様…、そう気を落とされませぬよう…」
「必ずや見つかりますとも…!」
「えぇえぇ、私共が必ずや探し出しますので…!」
トラブルっつぅか…、俺が一瞬考えたのとは違うらしい。黒服達は狐にインネンつけてんじゃなく、慰めてやってるっぽい。
狐は袖で目を拭いながら、電柱に張り紙をしてるが…。
「サクラさん、どうかしたんですかなぁ?」
トラ先生が声をかけると、狐獣人がこっちを向いた。
目の周りを涙で濡らしたその人は、男…?うん、男だな…。一瞬女の人に見えたけど…。
「何か困り事でも?」
どうやら先生の知り合いらしい、中性的な、えらく整った顔立ちの狐は、のそ〜っと歩み寄るトラ先生を潤んだ目で見なが
ら口を開く。
「ああ…、ヒロさん…。実は我が家の者が昨日から行方不明に…」
着物の袖で顔を覆い、さめざめと泣く狐。声は確かに男だけど、顔つきやら仕草やらは女みてぇだ…。
「警察にはもう届け出を?屋敷のどなたですか?」
心配そうに訊ねる先生に、狐は電柱を…、そこに張った張り紙を指さす。
「我が家の新しい家族なんです…。昨日の夕方までは庭で遊んでいたのに…、日暮れ直前辺りから急に姿が見えなくなって…」
俺とウッチーは揃って電柱を眺め、目を丸くする。
A4版サイズのその張り紙には、「この子知りませんか?」の文字。そして、白い仔猫の顔写真…。
「二号じゃないか…?あれって…?」
「俺もそんな気がする…」
トラ先生も同じ事を考えたのか、しばらく張り紙を眺めた後、俺達を振り返った。
前に進み出た俺がジャージの前を開けると、二号がひょこっと顔を出す。
「あぁっ!?雪丸っ!」
声を上げた狐は俺に駆け寄ると、差し出した二号を抱き上げて、泥で汚れてるのも構わずに頬ずりした。
ユキマルって名前だったのか、二号…。
飼い主と再会できてよっぽど嬉しいんだろうなぁ、ゴロゴロと盛大に喉を鳴らす二号…もといユキマル。
じーんとして再会の様子を見守る俺の後ろで、ウッチーがキイチ達に電話をかけてた。
「もしもしイヌイ?飼い主見つかったから。うん。やっと厄介払いできたな」
…ドライ…。
銭湯かと思うような馬鹿みてぇに広い浴室で、俺はその内装に見入った。
広いだけじゃねぇ、ばかでっかい湯船は…檜風呂だよおい…。
「とんでもねぇなぁこりゃあ…」
改めて周りを見回しながら呟いた俺の隣で、トラ先生が緩んだ笑みを浮かべてる。
…そう言や、先生の眼鏡外した顔見るのって初めてだな…。
ここはユキマルの飼い主、さっきの狐さんのお屋敷だ。
ユキマルを保護してくれたお礼とか言われて、黒塗りの高級車に押し込まれて半ば無理矢理連れて来られたんだけどよ…。
泥だらけの俺やトラ先生を、汚れる事にも頓着しねぇで高級車に乗せるあたり、懐が広いっつぅか何つぅか、変わった人だ
よなぁ…。
「どういう人なんすか?あの人…」
「サクラさんはなぁ、古くからの名家…この神座家の当主なんだ。この辺じゃあ有名な旧家なんだぞぉ?」
木の椅子に腰掛けて、並んでシャワーを浴びながら訊ねると、トラ先生はそう教えてくれた。
へぇ…。とんでもねぇ豪邸だとは思ってたけどよ…、そっか、豪商か大地主なんかな?サクラさん。
そういや造りもだいぶ古ぃな?昔からの名家って事もそうだけど、オジキの家とちょっと似てるかも知れねぇ。
感心して頷きながら、俺はチラッと先生の方を見る。
ひとの事言えねぇけど、先生の体はだいぶ弛んでる。
ぼよんと出た腹に垂れた胸。体を洗ってる動きに合わせて、贅肉がタプタプ揺れてる。
…でも、馬力は凄ぇ。一人じゃてんで持ち上がらなかったあのワゴンが、先生と二人がかりでなら何とか持ち上がった。
ウェイトリフティングやってたって言ったよな?この体、筋肉が緩んでこんなんなっちまったのかなぁ…?
しばらく先生の体を眺めた俺は、視線をこっそり下へ…。
…や、やっぱ気になんだろ?大人のあそこってさ…。
シャワーを頭からかぶりながらワシワシしてる先生の股間。ぼよんと突き出た親近感が沸く出っ腹の下には…。
…太ぇっ!?うお!?太ぇ!物凄くっ!
長さはまぁ、たぶん普通…、なのか?俺と似たり寄ったりの親父の以外、大人のなんぞ殆ど見た事ねぇから、標準がどんぐ
れぇなのかは良く判んねぇけど…。
とりあえず、長さはキイチほどじゃねぇが、太さは五分五分…。ちょっと羨ましい…。
…が、ここで重要な点が一つ…。
先生のは皮を被ってた。そりゃもう先っちょまでスッポリ…。
…大人んなっても、皮がそのままって事もあんだな…。なんだかちょっとホッとした…。
「どうしたぁ?そんなにマジマジ覗き込んで…」
「うぇ!?い、いや何でもねぇっす!」
シャワーを止めた先生が、俺の視線に気付いたっ!
慌てて前を向いた俺の横顔を見つめた先生は、次いでそのまま視線を下に…やべっ!
「…あぁ〜…、なるほどなぁ。気になったのか」
ペタンと足を閉じたものの、隠すのは…間に合わなかった…。
どうやらバッチリ見られちまったらしく、納得したように呟いた先生を、俺はちらっと横目で見た。
口元を緩めて笑いながら、「あんまり悩まなくて良いと思うぞぉ?」と、先生は言う。
「で、でも…。俺のって、皆のと比べても明らかにちっこいし…。やっぱ、恥ずかしいっすよ…」
「大きさばかりが全てじゃないぞぉ?」
慰めてくれてんのか、いつも通りののんびりした口調で言ったトラ先生に、俺はもじもじしながら続ける。
「それに俺…、真性で、ちっとも剥けねぇし…。…先生のは、ソレ…、剥けるんすよね…?」
「うん。…だがなぁ、そっちもあんまり、気にする事はないと思うぞぉ?」
先生はそう言うと、口元に手を当てて、耳打ちするように身を乗り出した。
「…実はなぁ、私もアブクマぐらいの頃は全然剥けなかったんだ…」
「うえっ!?」
驚いて聞き返した俺に、先生は片目を瞑りながら口元で人差し指を立てる。
「ははは。これはナイショだぞぉ?個人差はあるからなぁ、周りと比較して敏感になり過ぎる必要は無いと思うぞぉ」
ちょっと驚きながら頷いた俺は、ゆっくりと、表情を緩めた。
…そっか…。先生も昔は剥けなかったのか…。
「神座狐成(さくらこせい)と申します。この度は、我家のユキマルが大変お世話になりました」
深々と頭を下げた狐は、顔を上げると俺達に柔らかく微笑みかけた。
その正座してる脚の上じゃあ、洗って貰ってすっかり綺麗になったユキマルが丸くなってる。
俺達が案内されたここは来客用の広間らしい。畳敷きの和室で、四十畳ある。
廊下側は襖で、上座には青銅の虎の置物と、雲の中で身をくねらせる龍の掛け軸。
下座側は土塗りの壁で、襖と反対側には開け放たれた障子、その向こうには立派な庭園が広がってる。
ちなみに、先にここに通されてたウッチーは、借りた浴衣姿になった俺と先生を見るなり、「相撲取りのようだ…」って呟
いてサクラさんを笑わせた。
…にしても、俺が着られるサイズの浴衣が普通に用意してあんのか…。つくづく凄ぇなぁ。
俺達が先生から簡単に紹介され、ウッチー、俺の順番で名乗ると、
「あれ…?アブクマ…。アブクマ…?」
サクラさんは何か引っかかったのか、首を傾げてた。まぁ、あんまり多くねぇ名字だしなぁ。珍しいんだろう。
聞いた話だと、サクラさんは先生の一つ下、今年で三十六歳だそうだ。
これには俺もウッチーもビビッた。だって、サクラさんは顔も声も若くて、せいぜい二十代前半にしか見えねぇから…。に
しても…。
俺はチラッとウッチーの横顔を見て、それから改めてサクラさんの顔を見る。
…何となくだけど、ウッチーと似てる?
ウッチーは目が切れ長で、茶色い被毛はサクラさんより少し色が濃い。
サクラさんはやや垂れ目で、毛は油揚げみてぇなきつね色。
目の位置とか、顔の輪郭とかが近いのか?受ける印象はだいぶ違うのに、どういう訳か似てるって感じる…。
ウッチーが眼鏡外したら、なおさら似てんだろな。
サクラさんは姿勢が良くて上品で、表情は柔らかくて口調も優しい。
「良い生徒さん達ですね、ヒロさん」
しばらくお互いの話をした後、サクラさんは柔っこい笑みを浮かべてそう言った。
「ははは、今年も良い子揃いでしてねぇ。手間がかからない出来た生徒ばかりで助かってますよ」
トラ先生はちょっと照れ臭そうに笑いながら、頬をポリポリ掻いて応じる。
にしても、トラ先生の様子がいつもとちょっと違う。なんだか時々もじもじして…、またどっか攣りそうなのか?
「せめてものお礼に、夕食なんてどうかなぁとか思ったんですが、如何でしょう?他のお二人の生徒さんもお招きして…」
そう提案してくれたサクラさんは、柔和な微笑みを浮かべて付け足した。
「身内びいきをするわけじゃあないんですけれど、うちの料理長、腕は確かですよ?」
一度寮に引き上げた俺達は、夕方に黒服さん達…、つまりお屋敷の使用人さん達が黒塗りの車で迎えに来てくれて、またサ
クラさんのお屋敷にお邪魔した。
立派な屋敷を見たキイチとオシタリは、そりゃもうかなりビックリしてる。
トラ先生は別に迎えが行ってたみてぇで、俺達より先に屋敷に来て、サクラさんと二人で庭をのんびり歩きながら、何やら
話をしてた。
「そうか、ユキマルって名前だったのか二号」
「名前判ったんだから、もう二号よしてよ…」
畳の上を転げ回るユキマルを屈んで撫でてやるオシタリに、キイチは憮然とした表情で抗議する。
サクラさんの屋敷で夕飯をご馳走になる事になった俺達は、昼間通された部屋の半分ぐれぇの客間に案内されてくつろいでる。
客間っぽいけど、ここもすげぇ…。大型プラズマテレビやマッサージ機なんかが置いてあるぜ…。
…俺が座っても大丈夫そうだよな、このマッサージ機?後でちょっと使わせて貰おうかな…。
ウッチーは感心しながらテレビ画面を眺めてる。何でも、有線とか衛星とか、いろんなチャンネルが見れるようになってん
だってよ。
「…ねぇ、サツキ君」
テレビを見てるウッチーと、ユキマルと遊んでやってるオシタリから離れたキイチは、窓から庭を眺めてた俺の傍に寄って
きた。
「ん?」
「さっき会ったサクラさん、何となくウツノミヤ君と似てると思わない?」
「ああ。やっぱそう思うか?まぁ、ウッチー本人はそうも思ってねぇみてぇだけどよ」
「狐だから似て見えるだけさ。毎日鏡で自分の顔を見てればそうは思わない」
聞こえてたのか、テレビを見てたウッチーは、首を巡らせてそう言った。
「サクラさんだって、別に僕の顔をまじまじ見てたりしなかったろう?そう似てる訳でもないと思うけどな。ボクとしては、
どうして似て見えるのか逆に気になる」
「あぁ、言われてみりゃそうだなぁ」
ウッチーが訝るように眉根を寄せ、俺とキイチは納得して頷くと、ユキマルと遊んでたオシタリが、
「明らかにこっちのが悪そうな顔してんじゃねぇか」
と、ウッチーに向かって顎をしゃくる。
「何を言うんだオシタリ。品行方正、成績良好、非の打ち所のない優等生を捕まえて」
肩を竦めてしゃあしゃあと言ったウッチーは、不意に首を傾げた。
「…それで、どういう知り合いなんだろうな?先生とサクラさん…」
そりゃ俺も気になる。前々からの知り合いだって事しか言わなかったもんなぁ、先生。
…追伸。サクラさん家の料理は無茶苦茶豪勢で美味かった。
美味くて美味くて箸が止まんなくなっちまって、調子に乗って食い過ぎた俺は、食後しばらく動けなくなった。
針でつつけばパンクしちまいそうに膨れた腹を抱えてひっくり返り、う〜う〜唸る俺の傍に、今日ばかりは減量の事に触れ
なかったキイチは、可笑しそうに笑みを浮かべながらついててくれた。
…あとユキマル。中身出そうだから腹の上に乗んねぇでくれ…。