第十二話 「苛立ってる」
「アブクマがおかしい?」
教室後ろの壁に寄りかかったシェパードが、片方の眉を上げた。
「うん…。昨日、寮に帰ってからずっと…」
すぐ隣で壁に寄りかかって俯いたまま、声を潜めて僕が答えると、オシタリ君は教室の前の方に視線を向けた。
自分の席で、話をせがむクラスメート達に囲まれて笑顔を浮かべ、大会の事を話している大きな熊に。
お昼休みの空き時間、クラスの皆は、一年生でありながら地区予選で優勝したサツキ君に、詳しい話を聞きたがった。
サツキ君は笑顔で皆に話を聞かせてあげてるけど…。
「ご機嫌じゃねえか?」
「僕も最初はそう思ってたんだけど…。オシタリ君は、サツキ君見ててヘンな感じしない?」
シェパードは眉根を寄せて、じっとサツキ君を観察する。
「ヘンっていやあ…、確かにヘンか?なんっつうか…、やけに笑ってやがる…」
そう。サツキ君はずっとニコニコしてる。…なのに、なんだか違和感があるんだ…。
「まだ囲まれてたのか?」
耳に届いた声に首を巡らせると、後ろのドアから入って来た伊達眼鏡をかけた狐が、ぼくらに歩み寄って来る所だった。
サツキ君の方に視線を向けながら歩いて来ると、
「盛り上がるのは結構なんだが、皆我が事のように浮かれ過ぎだ」
呆れたように目を半眼にして、ウツノミヤ君はそう呟いた。
彼はお昼休みに時々居なくなる。何でもトラ先生に付き合ってるらしい。
午後一番で受け持ちの授業がある日、トラ先生は授業の用意をしながら準備室…通称「虎の巣」でお昼を食べるらしいけれ
ど、その手伝いなんかをしてあげてるんだって。…本当に真面目…。
けれど、少し前までシンジョウさんはウツノミヤ君の事を警戒していた。
癖なんだろうけれど、僕らに向ける値踏みするような視線が気になったそうで。
冷静過ぎる所があって、ちょっとドライだけれど、彼はサツキ君の友達だ。悪いひとだとは思えないし、思いたくない。
僕も少しだけ協力してひとしきり調べた後、シンジョウさんは「心配要らないわ」と僕に伝えてきた。
今じゃもう警戒していないみたいで、時々廊下なんかで二人で話をしてるのも見かける。
確かに、何を考えているのか判らなくなる時もあるけれど、それはきっと彼の頭の回転が凄く速くて、ズンズン先に行っちゃ
うから、こっちがついて行けてないだけなんじゃないかな?
成績は僕の方が上だって言ってくれるけど、発想の柔軟さや思考の瞬発力は、僕なんかよりもずっと優れてると思う。
頭が良い事に加えて、発言もドライでクールだから、観察力のあるシンジョウさんに違和感や警戒心を持たれちゃったんだ
ね、きっと。
…まぁ、オシタリ君に勉強を教えてあげてる時なんかは、クールどころかヒートしてるけど…。
「…まったく、ブーちゃんは本当に人がいいな…。本当は嫌がっている癖に、そんなそぶりは全然表に出さない」
「嫌がってるだぁ?」
「やっぱり…」
訝しげに眉根を寄せたオシタリ君と、顔を俯けた僕は同時に呟く。
「やっぱりってのは、何だ?」
尋ねてきたシェパードに、ぼくは曖昧に頷いた。
「笑ってはいるけど、あんまり喜んで無いんだ…。…たぶん、主将の事を思い出させられるから…。良い所まで行ったのに、
一緒に県大会までは行けなかった事が頭から離れてないから…。自分だけ皆に誉められて、申し訳ない気分になってるんだと
思う…」
「まったくお優しい事だ。そんな気分になったところで、寮監も喜んだりはしないのにな」
肩を竦めたウツノミヤ君は、
「結果はどうあれ、見ていた連中が息を飲むような試合をしたんだ。今朝見た限りは寮監も満足気な様子だった事だし、そろ
そろブーちゃんも気分を切り替えれば良いのに」
と、ため息混じりに呆れているような顔で呟いた。
…あれ?何だか…、実際に見てたような口ぶり…?
昨日はボート部の応援に行ってたから、こっちの応援には顔を出せなかったって言ってたけど…。
「ま、若干ピリピリはしてるが、キレる事はないだろう。皆も皆で県大会出場を決めたクラスメートが物珍しいだけだろうし、
明日になって興奮が冷めれば落ち着くだろうさ」
「ピリピリ…?そうか?」
オシタリ君は胡乱げな表情を浮かべたけれど、僕はウツノミヤ君の言葉でハッとした。
確かに、表に出して無いけれど、ピリピリっていうか…、カリカリっていうか…、サツキ君、何か我慢して苛立ってるよう
な感じ…。
…良く見てるぁ、ウツノミヤ君…。
何を我慢してるのか良く判らないけれど、少なくともそれは質問責めに対してなんかじゃない。
「サツキ君が元気出せるような事…。気持切り替えられるような事…。探してみよう…」
「ま、ブーちゃんにはキミが一番の薬だろう」
僕の言葉に、ウツノミヤ君は小さく頷き、
「なるほどな…、ありゃ空元気か…」
オシタリ君は、眉根を寄せて顔を顰めていた。
そうそう自己紹介っ!
僕、乾樹市。星陵ヶ丘高校一年生、柔道部のマネージャーをやってるクリーム色の猫獣人。
「珍しいねぇ?イヌイ君があたしに用だなんてさ」
廊下に出てきてくれた大柄な女子は、僕の顔を見下ろしてニッコリ笑う。
シンジョウさんに呼んでもらったこの女子は、笹原百合香(ささはらゆりか)さん。
シンジョウさんのルームメイトで、空手部所属のムックリしたパンダさんだ。
「突然ごめん。けど、ちょっと相談に乗って貰いたい事があって…」
僕が話をすると、フンフンと頷いて聞いてくれたササハラさんは、
「とぉふぅ?」
と、素っ頓狂な声を上げた。
「豆腐なんて何処でも売ってるじゃん?コンビニにも置いてるし…」
「そうなんだけど…。僕、どんなお豆腐が美味しいか良く判らないから…」
「まぁ…、確かに色々あるけどさぁ…。サツキ、豆腐なんて好きなん?」
「うん。冷や奴とか、湯豆腐とかが大好きなんだ」
「…渋い好みだねぇ…」
意外そうな顔をしたササハラさんに、僕は手を合わせてお願いする。
「そこで、お料理にも詳しい君に、アドバイス貰えないかなぁって…。この通り」
ササハラさんは「ふぅん…」と小首を傾げた後、
「良いよぉ。あたしも今日買出し行くつもりだったし、一緒に豆腐見に行こっか?」
と、にぃ〜っと笑いながら頷いてくれた。
周りで料理に詳しいひとって、サツキ君と陽明のネコヤマ先輩を除くとササハラさんしか知らない。
急だったけど、相談に乗って貰えて助かったぁ〜…。
断られたらどうしようかと思ってたんだけど、ササハラさんは嫌な顔一つしないで快諾してくれた上に、積極的に待ち合わ
せ場所と時間を決めてくれた。
「タイムセール狙いの時間だから、寮のご飯はキャンセルねぇ?心配させないように、サツキとかウッチーにちゃ〜んと言っ
ときなよぉ?」
「うん。有り難う!よろしくお願いします!」
頭を下げた僕に、ササハラさんは「良いって良いって」と、ニコニコしながらパタパタ手を振る。
「やっぱりアレ?サツキ大会で頑張ったから、ご褒美とお祝いってヤツ?」
「う〜ん…。まぁ、そんな所…かな?」
「気配りできる男子なんだねぇイヌイ君は。サツキもきっと喜ぶと思うよぉ?」
曖昧に言葉を濁したぼくに、ササハラさんは笑顔でウンウン頷いた。
そして、放課後の夕方…。
部活が休みの僕は一度寮に帰って着替え、サツキ君に断ってから外出した。
最初は「なんなら俺も一緒に行くか?」って言ったんだけど、それはマズい…。サツキ君には悪いけれど、適当に理由をつ
けて同行は遠慮して貰った。
ちょっと早めに着いた僕は、待ち合わせ場所になってる商店街入り口付近の本屋さんに入って、新刊のコーナーをチェック。
…特に目ぼしい本は無いかな…。
既刊の本棚もチェックしてから店を出ようとした僕は、雑誌のコーナーで、見慣れた二人組みの姿を目にして足を止めた。
「主将!団長!」
重ねられている雑誌から顔を上げた、優しげな顔に短髪の人間と、ガッシリした体付きの大きな牛は、僕の方へ首を回す。
「やあイヌイ」
「お…、う…、お…!?い、イヌイ…?」
笑みを浮べる主将と、何故か目を大きくして呻くような声を漏らすウシオ団長。
「アブクマは一緒じゃないのかい?」
店内を見回した主将は、僕が頷くと首を傾げた。
「アブクマ…、どんな様子だい?今朝見た時、若干様子がおかしかったような気がしたんだけど…」
…あ…。主将、気付いてる…?
「少し疲れてたみたいです。昨夜も、大会が終わって気が楽になったのか、テンションが上がってなかなか寝られなかったみ
たいですから…」
「そうか。寝不足だったのか。…いや、何となく普段と違うなぁって、そんな気がしてさ」
鋭いなぁ、主将…。知り合ってからまだ二ヶ月程度なのに、サツキ君の様子に違和感を覚えてたんだ…。
「サツキ君は…、大丈夫ですよ。まだ主将と一緒に柔道ができるんだって、喜んでました」
「それは良かった。こんなぼくを慕ってくれるのは、正直とても嬉しいよ」
少し照れ臭そうに笑った主将は、ふと何かを思い出したように「あ」と声を漏らすと、
「…ところでイヌイ。彼女…居たっけ?」
と、出し抜けに妙な事を訊いてきた。
「いいえ、居ませんけど…」
…サツキ君は彼氏だもん。ウソにはならないよね?
「じゃあ、デートとかそういう経験も?」
「お、おいサトっ…!イワクニっ!?」
何故か上ずった声を上げる団長。サツキ君もだけど…、今日はウシオ団長も何だか様子がおかしくないですか?
「特定の女の子とは無いです。僕もそんなに出歩かない方だから、友達と出かける程度しか…」
正直に告げる訳にも行かないし、僕とサツキ君の逢引は、人目を避けて室内がメインだった。
だからデートらしいデートの経験自体、ダイちゃんやジュンペー君との合同デートを含めて数回しか無い。
何だかさっきから落ち着かない感じの団長は、コホンと咳払いしてから口を開いた。
「時にイヌイは…、友人と出かける際はどういう所へ行く?」
「えぇと…、男友達となら…」
地元に居た頃、サツキ君と一緒に出かけた先の内から銭湯とかを除いて、これはたぶん普通だろうという場所をチョイスし
て告げると、
「なるほど、スケート場か…」
「そうか、カラオケねぇ…」
と、団長と主将は口々に呟いてウンウン頷く。
「僕よりも、他の男子に訊いた方が適切なデートを提案してくれると思いますけど…。ところで、どうしてそんな事を?」
尋ねた僕は、その直後にピーンと来て、「ははぁん…」と口元を綻ばせた。
「主将、団長、ひょっとして…」
二人は僕の視線を交互に受けると、表情を硬くした。
「付き合い始めたばかりのカップルから、相談されたんですね?」
僕はクスクス笑いながら、団長が手にしているタウン誌を見遣る。
この二人、あんまり遊び歩いてそうに見えないもん。デートスポットの相談か何かをされて困っちゃったんだな、きっと。
「ま、まあそんな所でな…」
「イヌイ。一応ヒミツの事だから、ぼくらが調べて回っていた事とか、周りには言わないでおいてくれるかい?」
「はい。あ、でもそういう事なら遠慮なく訊いてください。調べ物とか好きですから。デートスポット探しぐらいなら、僕で
もお役に立てるかもしれませんし。…経験談とか言われると困っちゃいますけど…」
微笑みながらそう答えたら、二人はホッとしたように表情を緩めた。
きっと、ヒミツの相談を受けたものの、不得意分野(?)で困ってたんだね。
一体誰だろう?もしかしてシゲ先輩?だったら学校中が震撼する大事件だけど…。
「じゃあ、ぼくらはそろそろ行くよ?」
「時間を取らせて済まんな、イヌイ」
「いえ。僕、時間を潰そうと思ってたところでしたし」
笑みを浮かべて応じた僕から離れて、二人はタウン誌を買って店を出て行った。
それにしても…。主将、まるっきり自然体だ…。
大会の結果、満足したって言っていたけど…、こうしてると、本当に清々しい笑顔を見せてくれてる…。
…強いひとなんだなぁ、本当に…。
適当に新刊を冷やかした僕が本屋から出ると、
「やっ、おまたせぇ」
石畳をのしのしと歩いて来た大柄なパンダっ娘が、僕を見つけてにこやかに片手を上げた。
ノースリーブのシャツに膝下までのハーフパンツ、そしてゴッツいバッシュ…。
そのボーイッシュな格好は、彼女に良く似合ってるように感じられた。
「ササハラさん有り難う。今日はよろしくお願いします」
ペコッと頭を下げると、ササハラさんは「ニヒヒ〜」と歯を見せて苦笑いした。
「よしてよぉ堅苦しいなぁ。それはそうと、まだ時間あるねぇ」
サツキ君からのプレゼント、彼とは色違いの腕時計を見れば、まだ待ち合わせの時間の二十分前。…お互いに時間前行動派?
ササハラさんの話だと、目当てのタイムセール開始まで、まだ三十分以上もあるらしい。
どう時間を潰そうかと考え始めた僕は、ふと気になって彼女に尋ねてみた。
「ササハラさん。今、誰かと付き合ってる?」
パンダっ娘はキョトンとした後、首をプルプル振った。
「ナイよぉ?どしたん急に?」
「えと…。彼氏が居るならさ…、今日の事知られたら、隠れてデートしてるとか、誤解させるかもって思って…」
「あぁ〜…。あははははぁ!心配無いよぉ!あたし顔も良く無いしこんなんだし、恋人とか出来た試しが無いしねぇ。せめて
もぉちょっと痩せないと出来そうもないよぉ」
ササハラさんは可笑しそうに笑うと、でっぷ…いや…、豊満なお腹をムニ〜っと摘んで見せた。
「そうかな?ササハラさんは十分可愛いと思うよ?」
「ニヒヒッ!あんがとっ。お世辞でも嬉しいよ」
いや、お世辞じゃなくて本当に、結構可愛い方だと思うんだけど…。僕の美的感覚の問題?
…それにしても…。サツキ君に負けず劣らず、手触りが良さそうなお腹してるなぁ…。
って何考えてるの僕っ!?ダメダメ!ササハラさんに失礼だからっ!
「で、デートって言えばさ!例えばだけど、ササハラさんならどういう所に行くのを想像する?」
頭を切り替えようとして、僕はさっき主将達と話をした事を思い出しつつ、ササハラさんに尋ねてみた。
「う〜ん、経験無いけどぉ…、たぶん映画とかゲーセンとかそういうトコ?あとはホラ、ひろ〜い公園なんかを話しながらの
んびり散歩とか?」
「あぁ…。ゲームセンターもそういうスポットになるんだ…」
自分が行かないから盲点だった…。
言われてみれば、人形が取れるゲームとか、プリクラとか、デートの雰囲気作りに貢献してくれそうな物も結構ある。
後で主将達にも教えてあげよう。…あと、今度サツキ君とプリクラ撮ろう…。
…サツキ君ってばジュンペー君とツーショットで撮ったヤツ持ってるんだし…、僕とも撮ってくれなきゃズルイよ…。
「そだ。デートって訳じゃないけど、少しゲーセンで時間潰す?」
ササハラさんの提案に、僕はすぐさま頷いた。
あまり入った事無いから、主将達に提案する前に体験した方が良いだろうしね。
「あ〜、あっつぅ〜!動いた動いた!」
ベンチをギシっと軋ませて座ったササハラさんは、シャツの襟を掴んでパタパタ空気を入れた。
少年のようなその格好のせいなのか、胸元が大きくのぞいてもいやらしさは無い。
ササハラさんは、ダンスのゲームを何なのか判らず見つめていた僕に、どういう物なのか説明して、さらに実演して見せて
くれた。
太っ…いや…、ぽっちゃりしてるのに、ササハラさんはとっても機敏で軽快で、凄く上手に踊って見せてくれた。
「上手なんだね?ササハラさん」
意外過ぎてちょっとビックリしながら、目の前に立ってアイスココアを手渡すと、ササハラさんは「あんがとぉ〜」と、目
を糸みたいに細くして笑い、受け取った。そして、プルタブをあけながら言う。
「でもねぇ、大した事ないんだよあのくらいは。上手いひとは無茶苦茶上手いし、画面見ないで踊るんだなぁこれが」
「見ないで踊れるの?」
「丸暗記しちゃうんだってさ。あははぁ〜、あたしはソコまでは流石にムリ〜」
「凄いねぇ…。出来るっていうのもそうだけど、そこまで入れ込めるっていうのが…」
「こういうのはねぇ、大会なんかも結構あるから、好きなひとは本当に夢中になるんよぉ?他にもドラムのヤツとかあってね。
こういうのって見てる方も盛り上がれるからさ、大会なんか結構熱気ムンムン!」
相槌を打った僕も、ミルクティーのタブを起こして口をつける。
ちなみにジュースは僕のおごり。安くて申し訳ないけれど、せめてものお礼って事で。
「ところで、何で座んないのイヌイ君?」
ササハラさんは立ったままの僕に、首を傾げながら尋ねてきた。
「え?いや、何となく…」
並んで座ってたら、カップルみたいに見られて、彼女に迷惑かもだし…。
…なんていう本音は、変に気を遣わせちゃいそうだから黙っとこう…。
「これこれ。冷や奴で食べるならこれなんか良いと思うよぉ?」
冷房の利いたスーパーの食料品売り場。
買い物カゴを手にしたササハラさんは、お椀みたいな形のお豆腐のパックを僕に差し出して見せた。
「絹ごし豆腐?」
「そぉ。その絹ごし豆腐ねぇ、甘みがあって舌触りも滑らか。鰹節とか千切りにしたネギをチョチョッと振りかけて、お醤油
で食べるだけ。お豆腐そのものに甘みがあるから、お醤油の質によっては味にもメリハリ利くんだなぁこれが。豆腐用のたれ
なんかと合わせると、すんごく美味しいんだからっ!」
「そうなんだ?有り難う!これにしてみる!それと…お豆腐のたれって?」
「豆腐にあう醤油。部屋には無さそう?」
「たぶん。サツキ君、お料理なんかも刺身醤油っていうヤツで全部やってるみたいだから」
「んじゃ買ってって試して見ても良いかもねぇ。小さいビンのもあるからさ。えっと、確かあっちに置いてあったかな?」
パンダっ娘は天井から下がってるプレートを見遣りながら、品物の置き場所を確認する。…ササハラさん頼りになるなぁ…。
「…あ。あたしも買って帰ろ…」
ササハラさんは荷物が大量に詰め込まれたカゴに、お豆腐を二つ追加する。
…申し訳ない上に情けないんだけど…。荷物持ちも買い物後半からはササハラさん…。
最初は僕が持ってたんだけど、大根とかミリンとかペットボトルのお茶、牛乳パックやお醤油なんかでズッシリ重たくなっ
たカゴは、途中から僕の両腕じゃ支えきれなくなって…。
「無理しなくていぃよぉ。あたしが持つから」
そう言って途中から代わってくれたササハラさんは、あの重たいカゴを片腕で、しかも軽々と扱ってる。
黒い毛に覆われた腕の太さは伊達じゃない。逞しいなぁ…。
目当ての物を買い揃えて会計を済ませた僕らは、店内のファーストフード店で夕食を摂る事にした。
僕は照り焼きバーガーとサラダ、コーラのセット。
小食な僕は、以前は食べ切れなくて残してたけれど、今はちゃんとセットメニューも完食できるようになった。
外見通りの健啖家なササハラさんは、セットの他に単品でいくつも頼んで、僕の五倍以上にもなる量をペロリと平らげてる。
…この豪快なハンバーガーの食べっぷり…、ダイちゃんを思い出す…。
今日のお礼って事で、注文後の会計は僕が全部出した。ササハラさんはビックリして、
「えぇ〜?奢りはいくらなんでも悪いよぉ、あたしがかなり得しちゃうじゃん!」
って遠慮してたけど、僕は「良いの。せめてものお礼!ほら、後ろに並んでるひとも居るから早くしなきゃ…」と急き立て
つつ、強引に代金を払った。
出費は結構痛かったけれど、そんなの気にならないくらい助かったもん。
日が落ちて暗くなった帰り道、女子寮前まで送るって言った僕は、ササハラさんにやんわり断わられた。
…まぁ、僕が付き添った所であまり意味が無いのは確かかな…。
ササハラさんは空手部の実力者だし、不審者なんか返り討ちにしちゃいそう…。
彼女と二人きりで話をするのは今日が初めての事だったけれど、不思議な事に全然緊張しなかった。
いろいろあったせいで人見知りする傾向が強い、この僕が…。
ササハラさんはとても朗らかで、話しやすくって、凄く自然体で、「女子」っていうイメージよりも先に「友達」っていう
イメージが沸く。
…サツキ君と気が合う訳だなぁ…。
やがて、別れ道に差し掛かると、ササハラさんは足を止めて僕を見下ろした。
「んじゃ、気をつけて帰ってねぇ?」
「うん。ササハラさんも気をつけて。今日は本当に有り難う!」
僕がお辞儀すると、ササハラさんもペコっと頭を下げて、「いえいえ、ごちそー様でした!」と、楽しげに笑った。
「サツキによろしくね〜?お休みぃ」
「シンジョウさんにもよろしく。お休みなさい」
手を振ってササハラさんと別れ、寮への帰路につきながら、僕はちょっと申し訳ない気分になった。
…サツキ君を元気付けようと思って買い物に行ったのに…、僕自身がすっかり楽しんじゃったよ…。
カッカッカッカッと軽快な音を立てて、大きな熊はお皿に盛ったお豆腐の残りを掻き込んだ。
「あ〜…美味ぇっ…!」
お皿を座卓に戻したサツキ君は、満面の笑みを浮かべて息をついた。
不慣れな僕の手にかかって、乗せたネギは不恰好な切り方になったけど…、お豆腐本体は美味しかったらしい。…有り難う
ササハラさんっ…!
「…にしても、どういう風の吹き回しだ?キイチが俺に食い物寄越すなんてよ」
サツキ君は少し不思議そうに僕の顔を見る。
「まぁね。今日のは大会頑張ったご褒美!…それに、体もだいぶ仕上がったみたいだし、食事制限そろそろ少し緩めてもいい
かなぁって。…もちろんリバウンドには注意でね!」
無差別級で体重制限が無いとはいえ、体を絞る必要があったサツキ君は、今も減量中。
これまでに僕が間食を勧める事は、カロリーの多少に関わらず無かった。
お腹に何か半端に入って、胃が物足り無さを覚えたら困るから、規則正しい三食以外は、飲み物を勧めるだけにしてたんだ。
…けど、見た目は変わってないものの、サツキ君の贅肉はだいぶ筋肉に入れ替わったし、柔道素人の僕が見ても、春先より
ずっと動きが良くなってる。
「ぬははっ!良いのか本当に?ぬか喜びさせるなんて無しだぜ!?」
嬉しそうに笑ったサツキ君は、「けどよ」と、口調を改めた。
「本当は、それだけじゃねぇんじゃねぇのか?わざわざ好物なんてあてがってよ」
真っ直ぐ見つめて来るサツキ君に、僕は一瞬口ごもった後、小さく頷いた。
…参ったなぁ…。お見通し…か…。
考えてもみれば、自称鈍感単純のサツキ君だけど、僕の事に関しては自分でも気付けないくらい些細な事まで気を回してく
れる。
きっと、好物を用意した僕が何か考えてるって事も、敏感に察知したんだ…。
「違ってたらごめん。…サツキ君、イライラしてない?」
単刀直入に尋ねると、サツキ君は目をまん丸にして僕の顔を見つめた。
「参ったなぁ…。お見通しかよ…」
頭をガリガリと掻きながら呟くと、サツキ君は長く、重々しいため息を吐き出した。
「バレちまってんなら仕方ねぇな…。自覚はあるんだがよ…。けど、こればっかは上手く切り替えられねぇんだ…」
素直に認めたサツキ君は、顔を俯き加減にして、小さく呟いた。
「察しは…何となくついてんだろ?主将の事でよ…」
…やっぱり…。イライラの原因は、間違いなく大会や主将に関わる事だろうとは思ってたけど…。
「俺…、主将にどんな態度取りゃ良いか…、判んねぇんだ…」
サツキ君は空になったお皿をじっと見つめながら話し始めた。
「前はよ…、中学の頃は、俺が残ってる間は先輩も残ってた…。オジマ先輩なんかは全国まで勝ち残ってたしよ…。初めてな
んだよ、俺だけ残るっての…。だから、俺だけ大会に向けて稽古して、先輩がその付き合いだけってのが…。…まだ、上手く
受け止められてねぇんだよな…」
サツキ君は「ふぅ〜…」とため息をついて、一度黙り込んだ後、肩を落として口を開いた。
「そりゃ嬉しいさ。主将が一日でも長く残ってくれんのは勿論嬉しいぜ?でも…」
寂しげな様子のサツキ君は、またしばらく間を開けてから、ポツポツと話し始める。
「でもよ、寮に帰って来て主将と別れて、落ち着いて考えてみたら判ったんだ…。主将が残ってんのは、自分の為じゃねぇ…。
俺の世話やいてくれる為に残ってんで、自分が挑む大会に備えてる訳じゃねぇ…!自分が主役じゃねぇんだ…!裏方としてあ
れこれやる為に残ってくれてんだ…!」
俯いているサツキ君が歯を噛み締めるギリッという音が、僕の耳に届いた…。
「俺がいくら頑張ったトコで、主将はもう試合場に立てねぇ…。主将の勝ち負けは俺にどうこうできた事じゃねぇって事は判っ
てる…!けどよ…、俺じゃなく他の誰か…、せめて体格が近ぇ部員でも居りゃあ、ちっとは変わってたんじゃねぇかって…!
今更こんな事、言っても考えても仕方無ぇって判ってる…。けど…、けど俺っ…!」
…やっと、判った…。
サツキ君は、主将自身の大会は終わってるっていう事を、頭では理解してるんだ。…けれど、気持ちの整理ができてない…。
きっとそのズレに戸惑って、どうすれば修正できるか判らなくて、苛立ってたんだ…。
悲しいとか、悔しいとか、寂しいとか、そんな気持もごちゃ混ぜになってるから、気持ちの整理はなかなかつかない。
おまけに、サツキ君自身は大会で優勝して、周りからは誉められて祝福されるから、自分の沈みがちな気持ちと、周囲から
の声援の温度差で混乱もしてるだろうし…。
サツキ君は裏表の無い単純な性格…。確かに神経は太いけれど、心根はとにかくピュアだ。
その純粋な心は、他人の痛みや苦しみ、寂しさを知った時も自分の事みたいに傷付く。
僕の過去を知った時もそうだったように、まるで、音叉が共振するようにして…。
「…気ぃ遣わせて悪ぃな…。けどよ。こいつは俺の気持ちの問題だ。主将はもう頭を切り替えてる。俺は俺でちゃんと前向か
なきゃならねぇって事は、頭じゃ判ってんだ」
サツキ君はそう言った後、顔を上げて苦笑いした。
「情けねぇよなぁ…。図体ばっかでかくてよ、こんなウジウジしちまって…。でも、大丈夫だキイチ。今すぐってのはちょっ
と難しいけどよ、俺、ちゃんと気持ちの整理つける。でねぇと、主将ともまともに顔あわせらんねぇもんな」
少し恥かしがってるサツキ君の苦笑いを見ていたら、僕は少しホッとした。
…なんだ…。サツキ君、ちゃんと自分の気持ちを理解してたんだ…。
「あ〜あっ!頑張ってみたのに…!」
僕が口を開いて大きな声を出したら、サツキ君はキョトンとする。
「力になってあげたいなぁって思ってたのに、サツキ君ってば、一人できちんと考えてるんだもん!」
僕が気を回すまでも無く、サツキ君は自分の気持ちと向き合って、理解して、乗り越えようとしていたんだ。
恋人がここまでしっかりしている事が、誇らしくて、ちょっとだけ悔しい。
「こういう時、「どうしたら良いか判んない!助けてキイチ!」ぐらいしてくれると、僕も「よしよし…」ってしてあげられ
るのになぁ」
サツキ君は大人だ。以前の僕みたいに一人でいつまでも抱え込んだままでいるのとは違う。抱え込むだけじゃなく、消化し
て、乗り越えてるんだ。
…きっと、ミヅキさんの事もそうやって…。
逞しいと思う。サツキ君は体だけじゃなく、心も逞しくて頑丈だ。
…けれど、にこやかにしてるサツキ君を見ながら、今、微かに感じてるこの不安は…、一体何なんだろう…?
何で?主将の事もちゃんと受け止めて消化しようとしてるサツキ君なのに、その笑顔を見ていると、何で不安になるの?
根拠の無い感覚を…、自分でも理解できないし、理由も原因も解らない不安を持て余して、僕は黙り込む。
けれど、サツキ君が大きなお腹を揺すって可笑しそうに笑うから、僕の不安は波に洗われた砂山みたいに崩れて消えた。
「ぬははっ!きちんとなんて考えてねぇよ。頭ん中はグッチャグチャだぜ?…だからよぉ、「よしよし」してくれて…良いん
だぜ…?」
笑いながら言ったサツキ君は、最後の方だけ真顔になってた。…妙なところで甘えん坊…。
「まぁ、とにかく…、気ぃ遣わせちまったな?悪ぃ…」
そう言ったサツキ君は、首を縮めて少し恥かしそうに耳を寝せながら、僕を上目遣いに見て来た。
「悪ぃとは思うけど…、その…。こういう風にして貰えたの…。すっげぇ嬉しい…。ありがとな…。きっちゃん…」
丸耳を斜め後ろにペタンと伏せて、モジモジしながら恥かしげにお礼を言うサツキ君は、昔の内気で引っ込み思案な頃に戻っ
たみたいで、反則な程可愛かった…。
あんまり可愛いから…、顔が…、カーッと熱くなる…。
「と、ところでさ!さっき話に出たオジマ先輩って確か…、イイノ君の恋人の先輩?」
ポーっとした頭を切り替えつつ、念の為に確認すると、サツキ君は意外そうに目を丸くした。
「覚えてたのか?先輩の話をしたのって…、二回ぐれぇしかねぇんじゃねぇか?」
「あれ?そうだったっけ?」
「だよ。確かな。イイノと…ほれ、バレンタインに話した時とよ、ジュンペーとダイスケ入れて皆で遊びに行った時。確かそ
んぐれぇだ」
「話に出たのはそれだけかもしれないけど、僕にとっては、イイノ君のカップルは忘れられない存在だもん」
ぼくの答えに、サツキ君は「んん?」と首を捻る。
「それはまぁ、ぼくはその先輩と話をした事も無いし、顔もよく思い出せないけど…、虎獣人は学校に一人しか居なかったか
ら漠然とだけど印象に残ってるよ」
「あぁ、そういやそうか…。狼や虎は少ねぇもんな」
納得したように頷いたサツキ君に、ぼくは続けた。
「何よりね、僕、実はあの頃…」
ぼくは少し迷った後、心を決めて言う事にした。
「僕…。自分とサツキ君が同性のカップルで、本当に上手くやって行けるのか…、今と違って不安に思う事もあったんだ…」
ぼくは顔を伏せて、耳を寝せながらサツキ君に告げる。
サツキ君が僕を好きだと言ってくれて、嬉しかった。
けれど、周りは皆男と女のカップル。夫婦って言葉はあっても、夫夫なんて聞いた事ない。
理解が進んでる国もあるけど、この国じゃ同性愛は決してポピュラーじゃない。むしろ異端と言っても良い。
その風潮に手放しで賛成する訳じゃないけど、ポピュラーじゃないって事にはそれなりの理由があるはず…。
同性愛は、世間一般の常識や感覚に照らし合わせれば、確かに受け入れられ難い。
だから、周囲に知られる事を恐れてビクビクしてる内に、恋愛に疲れてしまうから長続きしない…。
または、周囲に知られて、その目に耐え兼ねて、ダメになってしまう…。
そういった風な理由があって長続きしないから、ポピュラーじゃないんじゃないか?そんな事をちょっと考えた。
そうして考えてる内に、僕がサツキ君を好きだという気持に偽りは無くても、本当にずっと上手くやって行けるんだろうか?
サツキ君が僕に飽きちゃうんじゃ無いか?普通の女の子の恋人なんかができて別れる事になるんじゃないか?…って、不安に
なったりもした。
「厳しいひとなんだっけ?」
「おう。まぁ、とんでもなく頑固者だけど、分からず屋じゃあなかった。イワクニ主将とはかなりタイプが違うけどよ、今で
も尊敬してる」
そう言ったサツキ君は、懐かしそうに目を細めて微笑んだ。そして…、
「ところで、「よしよし」っての、してくんねぇのかな…?」
何かを期待するような顔をしながら、大きな体をモジモジ揺すって、僕に尋ねてきた。
…まぁ、ご褒美っていうのもあれだけど…。
「じゃあ、お風呂終わったらしてあげる。ベッドでねっ」
僕が応じると、サツキ君は「え!?」と声を漏らしつつ、目を丸くして耳をピンと立てた。
…あれ?もしかして、ソフトなのを想像してた…?