第十四話 「心配かけて…」

僕は乾樹市。星陵ヶ丘高校一年。柔道部のマネージャーをしてる、クリーム色の猫。

その僕は、湿布やテーピングが入ったスポーツショップのビニール袋を抱えたまま、途方に暮れていた。

明後日の日曜日は、いよいよ県大会だ。

夕食の後、念のためにテーピングを買い足しに出て来たんだけれど…、運悪く買い物をしてる間に雨が降り出しちゃった…。

お店の軒下で雨宿りしながら空を見上げるけれど、雨は一向に弱まる気配を見せない。

コンビニで傘を買って帰ろうかとも考えたけど、その出費がちょっと勿体なく思えて止めた。

…うん。貧乏性なんだ、僕。

恋人とおそろいの腕時計を見れば、時刻はもう八時半…。

門限も迫ってるし、濡れるの覚悟で走って帰ろう。



「ただい…っきしゅっ!」

部屋に入るなりくしゃみをした僕を見て、テーブルに教科書類を広げていた大きな熊が、ビックリしたように目を丸くした。

「びしょ濡れじゃねぇか!?何やってんだキイチ!」

「なかなか止まなくて、結局走って来ちゃった…」

僕は部屋の入り口で、耳をパタタッと振って水滴を落としながら答える。

玄関で払ってはきたけれど、すっかり染み込んでるからあまり効果はなかったな…。

僕がそうしてる間にも、慌てた様子で立ち上がったサツキ君は、ドスドスとキッチンに入って行って、タオルを取って来て

くれた。

「傘ぐれぇ何処でも売ってんだろ?」

サツキ君は呆れたように言いながらも、広げたタオルで頭をごしごしと擦ってくれた。

かなり身長差があるから、こうしてると親に頭を拭いて貰ってる子供みたいかも…。

「だって、なんだか買うのも勿体なかったんだもん…」

「だから買い出しなら俺が行くって言ったのに…」

「だってサツキ君は、試験勉強とか柔軟とか筋トレとか、いろいろとやる事があっ…、っきしゅんっ!」

「あ〜あ〜…、風邪引いちまうぞぉ?出費極力避ける精神は立派だけどよ、こんな時までやんなくたって良いだろうに…。仕

方ねぇなぁもう…!」

サツキ君は、またくしゃみをした僕の顔をごしごしと拭うと、ちょっと屈んで太い腕を僕の両脇に入れる。

そして、ひょいっとかかえ上げて抱き締めてくれた。…あ〜、あったかい…。

長い被毛と脂肪に覆われた、柔らかい胸とお腹にモフっとめり込んだ僕を抱えて、サツキ君は寝室に向かって歩き出した。

「さっさと着替えんぞ?でもってすぐ風呂だ。風邪でも引いたら大変だからな」

気遣われるのは嬉しいけれど、心配させちゃうのは心苦しい。

クローゼットの前で下ろされた僕は、素直に頷いて濡れそぼった服を脱ぎ始めた。

この時はもちろん、傘を買うのを渋ったせいであんな事になるなんて、思ってもみなかった…。



「何か元気ねぇなぁ?やっぱり体冷しちまったんじゃねぇのか?」

夜もだいぶ更けて、パジャマに着替えてる僕を眺めながら、サツキ君は難しい顔をした。

ちなみに、サツキ君の方はブリーフ一枚。これが彼の寝る時の格好だ。

「そんな事ないよ?」

と、応じはしたものの、何となく頭が重いような気もする。

僕は走るのが遅いから、結構長い事雨に当たってたしね…。ちょっと冷しちゃったのかも?

でも、県大会直前のサツキ君に、こんな事で心配かけたくないし…、実際のところ、そんなに気分が悪い訳でもないからね。

黙っとこう。

「…ホントに平気か?」

サツキ君は僕の額に手を当てて、熱が無いか確認する。

「やだなぁ、平気だってば」

サツキ君は僕の額から手を離すと、きゅっと抱きしめてくれた。

大きな熊の胸や腹にたっぷりついた脂肪と、柔らかな被毛…。安心できる暖かな感触…。

最近はだいぶ蒸して来ているけれど、寒気を覚えている今は、あったかくて心地良い…。

「大会直前なんだ。無理すんじゃねぇぞ?」

…それは僕の為?主将を部に留めてあげる為?それとも君自身の試合の為?

…ふふっ…!こんな事考えるのは意地悪かな?

「判ってるってば。平気だよ…」

僕は目を閉じて、最愛のひとの匂いと温もり、感触を噛み締めながら、樽みたいな胴に腕を回して抱き返す。…太過ぎて腕

が回りきらないけれど…。

サツキ君は擦って暖めようとでもするように、僕の背中や頭を分厚くて大きな手でさすさすと撫で回す。

「悪寒とかねぇか?具合悪ぃなら遠慮しねぇで言えよ?」

モフモフしてあったかいサツキ君に抱きしめられながら、僕は苦笑いしつつ、彼の脇腹をポンポンと叩く。

「ホントにだいじょうぶだよ。ありがとう」

お礼を言って離れた僕は、さっさとハシゴを登って、上の段のベッドに上がった。

念には念を入れて、おやすみのキスは避けておこう。もしも風邪気味だったら、うつしちゃうかもしれないし…。

「じゃあ、おやすみさっちゃん」

「…おう。おやすみ、キイチ」

ベッドの縁からおやすみの挨拶をした僕に、大きな熊は釈然としないような顔で挨拶を返してきた。



やっぱり、風邪をひいちゃったみたい…。

一晩過ぎたら、体がダルくて頭が重かった。

県大会を明日に控えた今日は、稽古は調整のための軽いもので、短時間で終わった。

主将とサツキ君には悟られないように気をつけて、僕はいつもどおりに二人を応援しながらマネージャーとしての業務をお

こなった。

一応風邪薬は飲んだから大丈夫なはず…。暖かくして早めに休んで、体調を戻そう…。



その晩…、真夜中の事だった。

「…イチ…?キイチ…?」

薄く目を開けると、暗がりの中に、サツキ君の顔が見えた。

僕の寝床は二段ベッドの上段。でも、上背があるサツキ君にしてみれば、ちょっと背伸びするだけで覗ける高さだ。

実際今も、体の右側を下にして横になってる僕の顔を、ハシゴも使わずに覗き込んでる。

「…どう…、した、の?」

尋ねる声が、寝起きのせいか掠れた。

…あれ?なんだか、頭が重い…?

「どうしたって…、お前こそどうしたんだよ?えらくうなされてたぞ?恐ぇ夢でも見たのか?」

心配してくれていたのか、サツキ君は表情を曇らせてる。

僕、うなされてたんだ?…ごめんねさっちゃん、こんな夜中に起こしちゃって…。

大丈夫だよって微笑みかけた僕を見つめて、サツキ君は眉間に皺を寄せた。

「キイチ…?お前、息がなんかおかしくねぇか?」

言われて初めて気が付いた。なんでか、息が上がってる?

サツキ君はおもむろに腕を伸ばすと、大きな手を僕の額に当てた。

「…キイチ!?お前、熱あんじゃねぇか!?」

驚いたようにサツキ君が声を上げて、僕は戸惑いながら身を起こす。

いや、身を起こしかけたけど、腕に力が入らなくて、そのまま枕にぼふっと突っ伏した。

あ、あれ?何だか、体の調子がおかしい?体が怠くて、手足に力が入らない…?

体はじっとりと汗ばんでるのに、寒くて仕方ない。

頭が重い…。目の奥が…、眉間が痛む…。こめかみがぎゅっと押されてるみたいに苦しい…。

悪寒と吐き気がある。首筋や背中がゾクゾクして、胃の辺りがムカムカする…。

「キイチ?おい!大丈夫か!?」

サツキ君は慌てた様子でハシゴに足をかけ、ベッドの上に身を乗り出して来る。

「だい、じょ…ぶ…」

何とか返事をしたけど、掠れた酷い声になってた。

体に力が入らなくてぐったりしてる僕を、そうっと仰向けにひっくり返すと、サツキ君は改めて僕の額に手を当てて、それ

から首回りを探る。

サツキ君の顔が、みるみる強ばった。

「うそだろ!?凄ぇ熱だ…!」

あぁ。寝ぼけて頭がしゃっきりしてないんじゃなく、熱のせいで頭がぼーっとするのかな?

ちょっとズレた分析をしてる僕の首の後ろと腰の下に、サツキ君は大きな両手をぐいっと入れて来た。

そして、タオルケットごと僕の体を軽々と抱き上げる。

動いた途端に、頭がズキンと痛んだ。

「んうぅっ!」

「キイチ!?」

思わず呻き声を上げて、顔を顰めた僕を抱えたまま、サツキ君はワタワタとベッドから降りる。

ハァハァと、浅くて速い呼吸を繰り返す僕の顔を、サツキ君は今にも泣き出しそうに顔を歪めながら覗き込んだ。

「キイチ!?キイチ!し、しっかりしてきっちゃん!」

サツキ君は僕の名前を何度も呼びながら、自分も苦しいみたいに、顔を歪ませてる。

そのままサツキ君は、ブリーフ一丁の格好で寝室を飛び出し、照明が抑えられた薄暗い廊下に駆け出る。

勢い良く開いたドアが、騒々しい音を立てて壁に当たった。

「お医者!病院っ!病院にっ!きっちゃん!しっかりしてきっちゃん!」

階段の位置を忘れる程に動転してるのか、サツキ君は左右に首を巡らせる。

声をかけようにも、悪寒がさらに酷くなって、頭がガンガン痛んで、グルグル目が回って、声が出せない…。

騒ぎに気付いたのか、両隣や近くの部屋のドアが立て続けに開いて、寮生達が顔を出す。

「うるせぇ…。こんな夜中に何騒いでやがる…」

廊下に出てきたオシタリ君は、目を擦りながら、不機嫌そうに呟く。

反対側の部屋から出てきた二人は、サツキ君と僕の様子を見て、訝しげな顔をした。

「き、きっちゃんが!熱!すごい熱出てっ!苦しそうで…!」

サツキ君がたどたどしく説明を始めると、訝しげに眉根を寄せてるオシタリ君の隣に、眼鏡をかけていない狐獣人が並んだ。

「一体何の騒ぎだよ…」

「う、ウッチー!きっちゃんが、きっちゃんが大変なんだ!」

いつもとは大違いの、オロオロと取り乱してるサツキ君の様子を見て、ウツノミヤ君は胡乱げに目を細くする。

そしてつかつか歩み寄ると、サツキ君に抱き上げられてる僕の顔を覗き込んだ。

それから額に手を当てると、「う?」と呻いて顔を顰める。

「オシタリ!警備室に内線!」

「あ?」

意味が判らずに眉根を寄せているシェパードに、ウツノミヤ君は苛立たしげに叫んだ。

「ボサボサするな!病人一名!緊急!」

寮監じゃなく、警備室に連絡。つまり、寮生の手に余ると咄嗟に判断したらしい。

オシタリ君が表情を改めて、身を翻して部屋の中に消えると、ウツノミヤ君はサツキ君の顔を見上げた。

「ほらブーちゃん!揺らさないように屈んどけ!」

落ちかけていたタオルをかけ直してくれたウツノミヤ君は、サツキ君の腕を掴んで屈むように促した。

その難い表情を見るに、僕は自分で思っている以上に酷い有様に見えてるのかも…。

「電話した。すぐ来る」

ややあって戻ってきたオシタリ君は、屈んだサツキ君に歩み寄ると、その腕の中で、ハカハカと浅い呼吸を繰り返す僕の顔

を見下ろした。

「…かけてろ」

いつも無愛想なシェパードは、痛ましいものでも見るように目を細くしながら、部屋の中から取ってきたらしいタオルケッ

トを、僕の上にそっとかけてくれた。

口調はいつものようにぶっきらぼうなものだったけれど、口の端っこがちょっと下がって、心配そうな顔になってる。

やがて警備員さんが、続いて、オシタリ君が同時に連絡していたのか、主将とウシオ団長がやって来て、僕達を取り囲んだ。

「車に乗せて救急病院へ。付き添いは…」

「あ、ぼくが…」

「いや、ワシが行きます」

警備員さんの問いかけに、手を上げかけたイワクニ主将を制して、ウシオ団長がそう申し出た。

主将は何か言いかけた様子だったけれど、大きな牛が少し背を屈めて何か告げると、納得したように頷いた。

「アブクマ君、この子の保険証は?」

「あ…、へ、部屋に…」

警備員さんに聞かれたサツキ君は、抱いたままの僕の顔を見下ろして、一瞬躊躇する。

「イヌイはワシが預かる。保険証を取って来い」

そう断って腕を伸ばしたウシオ団長から、サツキ君は何故か身を引きかけた。

まるで、僕を誰かに渡すのを嫌がるように。

ウシオ団長は一瞬訝しげに目を細くして、手を止めた。

けれど、結局はサツキ君の腕から、体格に見合ったその腕力で、軽々と僕を抱き取った。

「ほらアブクマ。さっさと取って来んか」

再度促されたサツキ君が大慌てで部屋の中に戻って行くと、歩み寄った主将は僕の顔を覗き込みながら、額に触れてきた。

「イヌイ…」

安心させようとしてか、主将は僕の額から頭を、すっすっと、毛をすくように撫でてくれる。

真夜中にこんな騒ぎを起こして、皆に心配かけちゃって、申し訳ない気分になる…。

サツキ君は程なく、探し当てた僕の保険証を手にして戻ってきた。

その間に応援を呼んでいた警備員さんは、サツキ君から保険証を受け取ると、ウシオ団長と僕に頷きかけた。

「すぐに行こう。車を回すから、しっかり厚着をさせて、寮の表口で待っていなさい」

警備員さんが足早に歩き去ると、サツキ君はウシオ先輩と僕に近付いた。

そして、ウシオ団長に抱きかかえられている僕を、自分の手で抱き上げようと、腕を伸ばす。

「団長!お、俺が…!」

「アブクマ、部屋に戻っとれ」

ウシオ団長の言葉に、サツキ君はブンブンと首を横に振る。

今のサツキ君には、いつもの堂々とした、どっしり構えたあの雰囲気は、全く無い。

引っ込み思案で泣き虫だった、小さかったあの頃に戻ってしまったかのような、不安げな顔をして、オロオロしている。

「お、俺、俺は…!俺はきっちゃんの傍に居なきゃ…!」

サツキ君が、こんなに取り乱すなんて…。

心配をかけちゃって、申し訳ない気分になりながら、不謹慎にも、僕はちょっと嬉しかった。

「おい。静かにせんかアブクマ…」

「きっちゃん…!大丈夫!?大丈夫だよね!?」

泣き出しそうな表情で僕の顔を覗き込み、困り顔のウシオ団長の腕から僕を抱き上げようとするサツキ君。その時、

「えぇい…、うっざくらしぃわ、こんだらぁっ!!!」

ウシオ団長が、物凄い大声でサツキ君を怒鳴りつけた。…言った内容は良く判らなかったけど…。

怒鳴られたサツキ君は、その物凄い大声に耳を伏せて、顔を顰める。

間違いなく寮内全部に響き渡った、とんでもない大声に続いて、しんとした真夜中の静けさが戻る。

大声を上げた当の本人、ウシオ団長は、「む…」と唸って顔を顰めると、軽く咳払いした。

「…オタオタするな。お前がその調子では、イヌイが落ち着けんだろうが」

変化は劇的だった。

一喝されたサツキ君は、細めていた眼をキョトンと見開くと、僕を見下ろして頭を掻いた。

「す、すんません団長…。つい、取り乱しちまった…」

ただ一声で落ち着きを取り戻させた団長は、「ふむ」とサツキ君に頷くと、

「ついてくると言うなら、好きにしろ」

と言って、部屋に向かって顎をしゃくった。そしてニカッと笑う。

「それと、ついて来たいならまずは服を着て来んか。その格好ではさすがにまずいぞ」

サツキ君は一瞬キョトンとした後、自分の体を見下ろし、

「んがぁ!?」

ブリーフ一枚の格好だった事にやっと気付いて、大慌てで部屋に引っ込んで行った。

さっきの団長の大声で目を醒ましたのか、次々にドアが開き、皆が何事かと顔を出す。

「では、ワシは先に行っておく。アブクマが出てきたら、急ぐように言っておいてくれんか」

ウシオ団長にそう言われた主将は、短く頷いて、僕の頭を撫でてくれた。

「皆にはぼくから説明して落ち着かせておく。そっちは頼んだぞ、…ウシオ」

「うむ。任された」

力強く頷くと、団長は僕の顔を見下ろして、眼を細くして笑みを見せた。

「少しの辛抱だからな、イヌイ」

野太い声は優しい響きを伴って、自分の心音がうるさく響いている僕の耳に滑り込んだ。

その声で安心したのか、それとも熱のせいなのか、急に眠くなってきた…。

ウシオ団長が歩く、ゆったりしたリズムで揺られながら、僕はまどろみの中に沈んで行く…。



診察して貰ったお医者さんの話では、この春に流行った風邪の症状だって。

どうやら僕は、流行遅れでそれに引っかかっちゃったらしい。

たぶん。夕立でびしょ濡れになって、体を冷やしたのが原因。

物凄く太い注射をされた僕は、何だか臭くなった自分の息に顔を顰めながら、会計を終えた後の待合室で縮こまっていた。

サツキ君はというと、気遣うように僕の様子を覗いながら、じっと傍に寄り添ってくれていた。

うつっちゃいけないから離れててって言ったんだけど、やっぱりって言うか何て言うか、聞き入れてくれなかった。

ウシオ団長も、サツキ君の隣に座って、時々僕に視線を向けていた。

悪寒も頭痛も、少しは落ち着いた気がする。

とんだ迷惑をかけちゃった…。こんな事になるなら、早めに病院に来るべきだったな…。

迷惑にならないように、心配させないようにって、思ってたのに…、結局はサツキ君どころか、沢山のひとにまで迷惑をか

けて、心配かけちゃった…。

「イヌイ」

ウシオ団長が口を開き、僕とサツキ君は視線を向ける。

「具合が悪いのを黙っておくのは、いかんぞ?心配させたくないと気を遣いたくなる気持ちは判るが、こうしてルームメイト

に迷惑をかける事にもなる」

「…はい…」

俯いて返事をした僕に、ウシオ団長は口調を明るくして続けた。

「まぁ、説教はこれで止めておこう。ワシも人の事は言えんからな」

ん?首を捻った僕とサツキ君に、大きな牛は苦笑いして見せた。

「いや実は…、ワシも似たような事でイワクニに迷惑をかけた事があってな…」

頬を掻きながら言ったウシオ団長は、視線を前に向けて立ち上がった。

警備員さんが回してくれた車のライトが、病院の玄関を照らしてた…。



「とりあえず、アブクマはぼくらの部屋で寝るんだ」

部屋に戻って、下の段…サツキ君のベッドに寝かされた僕の顔を覗き込みながら、イワクニ主将が口を開いた。

「うむ。それが良いだろうな」

ウシオ団長が大きく頷いて同意を示す。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ主将!キイチは…」

慌てた様子で口を開いたサツキ君に、主将は微笑みかける。

「安心してくれ。何もイヌイを一人にしようなんて言わない。ぼくがついておこう」

隣でまた頷いた団長は、「む?」と首を傾げ、それから慌てた様子で声を上げた。

「いや!ダメだサトル!ワシがつく!」

団長が慌てた理由は、すぐに判った。

「だいじょぶ、です…。僕、一人で寝れますから…」

サツキ君や先輩達に風邪をうつす訳にはいかない。掠れた声で訴えたぼくに、主将は首を横に振った。

「イヌイは何も心配しなくていいんだ。でも、念のために誰かがついておかないと」

「その通りだ。が、ここはワシが…」

「それこそダメだ。万が一にもウシオにまで風邪を引かれたら、この時期の応援団は大変な事になる。幸い、ぼくはもう出番

がないからな。県大会を控えてるアブクマの方が大事だ」

「ワシは風邪なんぞ引か…」

「俺の事なんかどうでも…」

口々に反論しかけたウシオ団長とサツキ君を、主将は手を上げて制した。

「頼む。このわがまま、聞いてくれ…」

主将の言葉に、二人は黙り込む。

判ってる。県大会出場…、それは、イワクニ主将の…、代々の柔道部の悲願だ…。

それをなし得たサツキ君が、風邪を引いて本番で実力を出せないなんて事態は、僕としてももちろん避けたい。

「…主将…、お願いします…」

弱々しい声しか出せなかったけれど、僕は主将にそうお願いした。

「で、でもキイチ…」

なおも食い下がろうとしたサツキ君に、

「…大丈夫だから…、ね、お願い…」

僕は目を細めて、そう懇願した。

サツキ君はじっと僕の顔を見つめた後、顎を引いて頷く。

「…主将、すんません…」

「うん。任せてくれ…」

頭を下げたサツキ君に微笑んだ主将は、ウシオ団長に向き直って、パタパタと手を振った。

「さぁ、出てった出てった!そろそろイヌイを休ませてやれ」

「…うむ…」

「うす…」

ウシオ団長は不承不承頷いて、サツキ君と一緒に寝室を出て行く。

が、ドアを閉める直前に、二人は隙間からこっちをじっと見つめて来た。

下がサツキ君。上がウシオ団長、顔を縦に並べて覗き見するみたいに…。

「そんな捨てられた子犬みたいな顔をしてもダメだ。二人とも、部屋に行ってさっさと寝る!」

イワクニ主将にそう言われると、二人は耳を伏せながらそっとドアを閉めた。

…悪戯がばれた子供が締め出されてるみたいで、なんだかちょっとおかしい…。

「さ、もう寝るんだイヌイ。幸い明日は休みだ。しっかり休んで、日曜は一緒に、アブクマを応援しような…」

「はい…済みません…。有り難うございます、主将…」

イワクニ主将は僕の額に手を当てて、そっと、優しく撫でてくれた。

「うん…。あ。それと、これ…」

主将は急に思い出したように表情を変えると、自分の部屋から持って来たらしいスポーツバッグに手を突っ込んだ。

そして、タオルなどを詰め込んだバッグをしばらくまさぐり、「あったあった…」と、中から縫いぐるみを取り出して、僕

の枕の横に置いた。

それは熊の縫いぐるみで、柔道着を着込んでる。

…何だか…、やけにサツキ君に似てる…。

「昨日ゲームセンターで取れたんだ。アブクマに似てると思わないかい?」

主将はそう言って笑いながら、僕の頭の横で仰向けに寝ている縫いぐるみの鼻をつつく。

「御守り代わりっていう訳じゃあないが、あげるから持っておいて」

「あ…、有り難うございます…」

微笑んだ主将になんとか笑みを返した僕は、首を捻って縫いぐるみを見る。

顔立ちに、ややお腹が出たフォルム…、オマケに柔道着…。まるでサツキ君をモデルにしたみたいにそっくりだ…。

傍に置かれた縫いぐるみがさっちゃんに似てて、気分が和らぐのか…、それとも、主将が傍についていてくれるから安心し

たのか…、目を閉じた僕は間もなく、安らかな気分で眠りの中に引きずり込まれた…。