第十六話 「幸せだったと思います」

僕、乾樹市。

星陵ヶ丘高校一年。柔道部のマネージャーをしてるクリーム色の猫。

大事な時に最悪のタイミングで風邪を引いちゃって、現在病床に伏せる身…。

「よしよし、熱は上がっていないなぁ。これなら一安心」

体温計を確認した大きな虎は、人の良さそうな丸顔に満足げな微笑を浮かべ、ベッドに寝ている僕の額をそっと撫でた。

このほにゃ〜っとのんびり柔らかな印象を受ける虎獣人は、僕らの担任をしている寅大先生。

トラ先生は大きいだけじゃなく、どこもかしこもまん丸く太っていて、虎なのに見た目も厳つくないし、言動も穏やかでの

んびりしてる。

先生は今夜、風邪をひいて寝込んでしまった僕の面倒を見るために、泊まりで寮に来てくれてるんだ。

嬉しいし有り難いんだけど…、申し訳ないなぁ…。

先生の後ろには、明日の県大会に備えてサツキ君と主将が出発した後から、わざわざ部屋に来て僕の様子を見ていてくれた

ウツノミヤ君と、応援団の夕刻練習後にお見舞いに来てくれたオシタリ君にウシオ団長の姿。

熱が続いたせいか、まだ体は怠いし頭も少し重いけど、気分は割と良くなって来た。

見ていて体調が良くなってきている事が解るのか、団長は今朝方と比べてだいぶ表情を緩めて口を開く。

「栄養吸収が良い粥にして正解でしたな。気が利かずに鰻をあてがおうとした自分が恥ずかしい…。常識的に考えて、急にこっ

てりした物を食わせるのは避けるべきでした」

ウシオ団長が苦笑いすると、先生は緩んだ顔をますます緩め、恥ずかしげに耳を伏せた。

「いやいや、私も最初は鰻にしようかと思っていたんでなぁ…。たははぁ…」

そう。先生は最初、僕の夕食にと鰻重を頼むつもりだったそうだ。「栄養を摂らないとなぁ」って言って。

確認された時に「できればあっさりした物が良い」と訴えたら、お粥にしてくれたけど…。

しかしその後、応援団の練習を終えたウシオ団長とオシタリ君は、差し入れに鰻重を持ってきてくれた。

曰く、「体力を回復させる為には鰻が良いだろう」と…。

…皆どうして鰻が思い浮かんだのかな…?シンクロニシティ?

「忘れないようにもう一度念を押しますが…、先生とイヌイの分は、明日にでも温めて食ってください。ウツノミヤもな」

「はい!有り難くご馳走になります!」

注意を促したウシオ団長に、ウツノミヤ君がビシッと気を付けして応じる。

…フサフサの尻尾がくねるようにして、ゆっくり左右に揺れてる…。

彼にしては珍しいなぁ。見て判るぐらいに機嫌が良いなんて。…ひょっとしてウツノミヤ君、鰻好き?

「礼ならトラ先生にだ。結局先生の奢りにして貰ったからな」

ウシオ団長がそう言うと、寡黙なオシタリ君が口を開く。

「好きじゃねぇならオレが食ってやるぜ?」

「靴紐でもしゃぶってろダメ犬」

「んだとコラ!?」

鋭い棘を含む言葉で切り返した狐に、シェパードが剣呑な表情で歯を剥いて見せる。

「こら。静かにせんか、病人の前だぞ?」

ウシオ団長は二人を軽く窘めると、ベッドサイドの時計に目を向けた。

「む…、もう十一時か。そろそろイヌイを休ませんと…」

大牛の言葉に「そうだなぁ」と大虎が頷く。

「ウシオもウツノミヤもオシタリも、そろそろ部屋に戻って休みなさい。今夜は私が見ておくからなぁ」

「はい。ではワシらはここで…。行くぞオシタリ、ウツノミヤ」

「おす」

「はい」

ウシオ団長に促され、二人がそれぞれ返事をする。

「お休みイヌイ」

「ゆっくり休め」

「…じゃあな」

「はい。有り難うございました団長。ウツノミヤ君とオシタリ君も、有り難う」

三人が気を使うように静かにドアを閉め、寝室から出て行くと、トラ先生は「さて…」と口を開いた。

「寝る前に、枕の氷を換えておこうなぁ」

「お手数をおかけします…」

中の氷がかなり小さくなっている枕を抜かれながら、僕は先生の大きな手を見た。

…なんだろうこれ…?懐かしい感じ…?

そういえば小さい頃は…、風邪を引いたときなんかには、お母さんにこうして看病して貰ってたっけ…。

お母さんが亡くなってからはお祖父さんとお祖母さんに、こうして世話をして貰った…。

けど…、その二人も亡くなって、東護に移ってからは、誰からもこうして貰った事は無い…。

今のお父さんとお母さんの子供になってからは、幸いにも体調を崩した事は無かったし…。

「どうしたんだイヌイ?私の顔に何かついてるのかぁ?」

「え?」

気が付くと、僕は先生をじっと見つめてしまっていた。

「す、済みません。ぼーっとしてただけで、何でもないんです」

不思議そうな顔をしていた先生は、僕が慌てて謝ると、「そうかぁ」と言って額に手を伸ばした。

「ん〜…、やっぱり熱は上がっていないようだなぁ…。まぁ、熱も長い事続いたからそのせいでぼーっとするんだろう」

分厚い手を僕の額に乗せ、熱を確認した先生は、「すぐ戻るからなぁ」と言い残してドアに向かう。

…あ…。

僕は反射的に布団から手を出し、先生の背中に伸ばしかけた。

呼び止めようとした僕は、しかし結局何も言わずに口をつぐみ、大きな背中はそのままドアの向こうに消える。

…僕…、どうして先生を呼び止めようとしたんだろう?

何か言いたい事があったような気もするけど、何て言いたかったのか判らない…。

いけない…、ちょっとぼーっとしちゃってるな…。

寝室に一人きりになった僕は、ちょっとぼんやりしている頭の中で、昨夜からの騒動を振り返った。

…たくさん迷惑かけちゃったのは申し訳ないけど、皆からこんなに良くして貰えて、僕は幸せ者だな…。

サツキ君と主将は、今頃は明日に備えて寝てるかな?たぶん今日は遅くならないように休むだろうし…。

…県大会…、応援に行きたかったな…。サツキ君、勝ち残れるかなぁ?

中学の時は全国出場してるサツキ君だけど、高校はレベルが違うって言ってた。

何より、中学二年生の時に柔道を始めたから、二つ上の選手と当たるのは今年が初なんだって。

だから、全国出場経験があるサツキ君でも、どれほどの強豪と当たるか見当もつかないそうだ。

学校の違いという垣根を越えて、色々お世話になってきたネコヤマ先輩も、今年最後の高体連…。

僕やサツキ君にとっては、他校の生徒とはいえ、柔道部の先輩と言っても過言じゃない存在だし、実際にそう思って接して

いる。良い結果を残して欲しい…。

傍で応援できないのは残念だけど、思い切りやって、主将に良いとこ見せてあげてね?さっちゃん…。頑張ってくださいね?

ネコヤマ先輩…。

明日の県大会に挑むサツキ君とネコヤマ先輩、そして間近で試合を見届けるイワクニ主将と、顧問でもあるホシノ理事長の

事を考えていると、

「入るぞぉ」

との声とノックに次いでドアが開き、入り口を塞ぐような縞々の巨体が、のっそりと寝室に入ってきた。

サツキ君を見慣れているせいであまり違和感がないけど、トラ先生も相当大きいんだよね…。縦にも横にも…。

氷枕を僕の頭の下に入れてくれた先生は、掛け布団を丁寧に整えてくれてから、やり残した事は無いか確認するように僕の

周りを見回した。

「それじゃあ、そろそろお休みイヌイ。私は隣に居るからなぁ。何かあったら我慢しないで声をかけるんだぞぉ?」

そう言い残してベッドから離れ、先生は僕に背中を向けた。

「…あ…!せんせ…」

僕はまた何故か反射的に手を布団から出して伸ばし、先生の…、縞々の太い尻尾を捕まえていた。

「んん〜?どうしたイヌイ?」

去り際に尻尾を掴むという、極めて非常識な引き止め方をした僕の顔を、先生は半分振り向く格好で見下ろし、不思議そう

に目を細めた。…僕に掴まれた尻尾を少しくねらせながら…。

けれど、何故そんな事をしたのか自分でも解らなかったから、どうした?と問われても、僕は返答に詰まってしまう。

体が本調子じゃなくて、不安だったから?

それとも、寮に入ってからはずっとサツキ君と一緒だったから、一人で寝るのが寂しい?

それで僕は先生を引き留めようとしたの?

先生の尻尾をきゅっと握ったまま、ちょっとぼんやりしている頭の中で自問する。

…そう言えば、さっきもそうだった…。

枕の氷を換える為に寝室を出て行こうとした先生を、呼び止めたい衝動に駆られた…。

どうしてだったんだろう?僕は、どうして先生を…?

そうだ。確か何か言いたかったはずだ。そのはずなのに、それが何なのかが…。

…あ…。

僕は腫れぼったい瞼を上げて、目を大きくした。



それは、数時間前の事だ。

先生は僕と二人きりになった時、こんな事を言った…。

「心配かけないようにと黙っていられるのはなぁ、かえって辛いもんなんだぞぉ…」

ベッドの脇に屈み込んで、手すりに腕を乗せてもたれかかる格好になったトラ先生は、僕の顔を覗き込んでそう言った。

「昔なぁ…、親しい相手に、病気の事を何ヶ月も黙っていられた事がある…。平気な振りをして、苦しいのもひた隠しにして、

何でもない顔をして、毎日を過ごしていた…」

元々細い眼鏡の奥の目がさらに細くなって、昔を懐かしんでいるような…、そして少し寂しそうな…、そんな風に見える微

笑が、先生の顔に浮かんだ。

「我慢強かったんだなぁ…。情けない事に、私はそいつの顔を毎日見ていながら、ちっとも気付いてやれなかった…。バレれ

ば入院させられるからと、必死になって隠していたそうだ…」

…入院…?その人、風邪なんかじゃなく、もっと重病だったんだ…。

「結局倒れるまでずっと隠されててなぁ…。やっと知った時には流石に怒った。「何故もっと早くに打ち明けてくれなかった

んだ?」と…」

トラ先生はそこで言葉を一度切って、ため息をついた。

…とても哀しそうで、寂しそうな顔で…。

「黙っていたのにはそいつなりの理由があってなぁ…。その時は言い返せなかったが、それでも到底納得はできなかった…。

自分が信用されていなかった、頼りにされていなかった、そんな気がしてしまってなぁ…。そうじゃない事は、頭で判ってい

ても…」

…先生…。

僕は返事もできずに、黙って先生の顔を見つめていたけれど、ついに耐えきれなくなって目を逸らした。

…僕もきっと、サツキ君にそんな思いをさせちゃったんだ…。

良かれと思って黙っていたとはいっても、結局はそう…。

急に罪悪感が込み上げて来た僕の頭に、先生の大きな手がそっと添えられた。

「辛かったら辛いって言って良い。苦しかったら苦しいって言って良い。お前の事を大切に思っているヤツはなぁ、正直に打

ち明けて貰った方がよっぽど嬉しいぞぉ?遠慮せず甘えて良いんだ。甘えられて頼られる事は、結構嬉しいものだからなぁ。

アブクマもきっと、そう思っているだろう…」

「…はい…。次からは、無理も背伸びもしません…。辛かったら、必ず、正直に言います…」

僕がそう答えると、先生は満足げにニンマリと笑って、「良い子だ」と、分厚い手で優しく頭を撫でてくれた…。



数時間前の会話を詳細に思い出し、僕は自分が何を言いたかったのか、はっきり悟った。

力を緩めた僕の手の中から、先生の尻尾がするりと抜ける。

「先生…、あの…」

尻尾を放されて向き直った先生に、僕は少し緊張しながら尋ねる。

「さっきのお話で言っていた…、病気の事を黙っていたひとって…」

…そのひとはきっと、もう居ないんだろう…。その病気で亡くなったのかも…。

先生の表情や口ぶりから、僕には何となくそう察せられた…。

「…そのひとって…、先生の…、奥さんだったんですか…?」

僕の問い掛けに、先生は目をまん丸にした。

それから口を開き、閉じ、また開き、何かを言おうとしているのに言葉が出て来ないように、パクパクと口を開け閉めする。

そして、しばらく金魚みたいにパクパクやった後、先生は「ふむぅ…」と、笑いとも嘆息ともつかない微妙な息を、鼻と口

から吐き出した。

「…まぁ、似たようなものかなぁ…。結婚はできなかったがね」

僕の問い掛けを面白がっているように、先生は表情を緩めていた。

…そうなんだ…、やっぱり…。

先生、結婚はできなかったって言った…。

奥さんと似たようなものだっていう、その恋人か婚約者だったひと…、やっぱり亡くなってるんだ…。

「鋭いなぁイヌイは。どうしてそう思ったんだぁ?」

そう先生に問われたけれど、何となくそう感じただけだから、僕はそのまま「何となくなんですけど…」と、歯切れ悪く応

じる。

「両親か、兄弟か、お友達か…、凄く親しいひとだったんだろうなって思えたんです…、けれど、もしかしたら恋人の事なの

かもって…。先生は独身だって聞いてましたけど、結婚経験が無いとは聞いてなかったから、奥さんだったのかもしれないっ

て思って…」

…本当は、ひょっとしたら奥さんを病気で亡くして独身になったんじゃないかとか、そんな予想もしてて…、だからそのひ

とがもう亡くなってるんじゃないかって、ピンと来たんだけど…。結婚する前に亡くなってたんだ…。

「なるほど…、大した勘の良さだなぁ…。普通はこんな私なんかに恋人が居たとは思わないぞぉ?」

先生は苦笑いしたけれど、僕にはそれほど不自然な事には思えなかった。

サツキ君とつきあっているせいかな?大きくて太っている先生の外見には個人的に好感を持っているし、優しくて頼り甲斐

があると感じてる。十分魅力的だと思うけど…。

「あの…、先生…?」

「うん?」

口を開きはしたものの、言って良い物かどうか一瞬迷った僕は、

「そのひとはきっと、幸せだったと思います…。先生が、そんなにも大切に思ってくれていたんだから…」

少し逡巡の間を開ける形で、結局その事を口にした。

…だって…、そのひとの事を懐かしそうに口にしたときの先生が、あまりにも哀しそうで、寂しそうに見えたから…。

だから僕は、慰めたくて…、元気付けたくて…、言ってあげたかったんだ…。

トラ先生は不意に表情を消して、じっと僕の顔を見つめてきた。

…詳しく知りもしないのにって、気分を悪くさせちゃったかな…?

やっぱり軽はずみに口にするべきじゃなかったかもと、僕が心配になっていると、

「…本当に良い子だなぁ、イヌイは…」

先生は優しげに目を細めて、口元を微かに緩めると、僕の頭を少し乱暴にワシワシっと撫でながら言った。

「さぁ、もうお休みイヌイ。明日は頑張って来たアブクマを、できれば元気に迎えてやりたいだろぉ?」

ニンマリと笑う先生に頷いた僕は、また口を開く。

「…あの、先生?」

「んん?」

今度は一体何だ?とでも言うように、怪訝そうに眉根を寄せた先生に、

「有り難うございます」

僕は心の底からの感謝を込めて、お礼の言葉を伝えた。

「ん。気にしない気にしない」

先生は少し照れ臭そうに、黒い縁取りがある耳をペタッと寝せていた。



目が醒めたのは、まだ薄暗い時間帯だった。

首を動かして窓に目を遣れば、カーテンの向こうはそれほど明るくない様子。

…えぇと、時間は…、まだ朝五時か…。

日中ずっと寝ていたせいかな?普段は極めて寝起きの悪い僕なのに、いつもよりかなり早く目が醒めちゃった。

布団の中から手を出して、額に当ててみる。

今まで布団の中にあった温い手と比べて、額の温度は低い。手の平が涼しさを感じるぐらいに。

もしかして、熱が下がってる?

頭は痛くない。むしろすっきりしてる。

…あ。しつこかった悪寒もすっかり消えてる?

栄養を摂って十分に休んだからかな?急に体調が良くなった感じ…。

何処も痛くないし苦しくないけれど、喉だけ凄く乾いてる…。

僕はベッドの上でそっと布団を退け、静かに体を起こす。

大丈夫。目眩もしない。それどころか頭は凄くすっきりしていて、気分もすこぶる良い。

…看病してくれた皆に感謝だなぁ…。

水を飲もうと思った僕は、ベッドを降りようとして首を巡らせ、

「………?」

ベッドのすぐ脇の床に転がる、見慣れない物を目にして首を捻る。

床に布団を敷いて、その上にごろんちょしてるのは…、大きくて太ってる虎だった。

トラ先生!?…あれ?何で?確か隣で寝るって言ってたはず…。

先生は布団の上で仰向けになり、口をポカーンとあけて、「ふご〜…すか〜…」と寝息を立ててる。

その気持ち良さそうな寝顔を眺めながら、僕は気が付いた。

…去り際に引き留めたりしたから、僕が心細く感じてるのかもって、気を利かせてくれたのかな…。

それで、あれからすぐ僕が寝た後、布団をこっちに持ってきて、傍についててくれたのかも…。

小さな子供を気遣うような対応を取られて、ちょっと恥ずかしくなりながら、僕は先生に感謝した。

横に投げ出されている縞々の太い尻尾を踏んづけないように注意して、静かにベッドを降りた僕は、よく眠っている先生の

脇に屈み込んだ。

下はジャージのズボン、上はタンクトップ一枚の、普段着を流用した寝間着だ。…パジャマ着ない派なのかな?

タンクトップが鳩尾辺りまでめくれて、こんもり山になったお腹が出てる。

縞模様って、脇腹の途中…背中側までしか無いんだ?へぇ〜…、お腹側は白いんだなぁ、新発見。

…それにしても…、おヘソ丸出しだ…。お腹冷やしちゃいますよ先生?

そういえばサツキ君も寝るときはパンツだけで、大概は上半身裸。

…太ったひとって、お腹出して寝ててもへっちゃらなのかな?

「今度は先生が風邪ひいちゃいますよ?」

僕はくすくす笑いながら、規則正しく上下しているお腹に、めくれていたタンクトップをそっと降ろしてあげた。

…ついでにちょっとお腹に触ってみたけど、お肉はぽよぽよ、白い毛はぽわぽわで、とっても手触りが良かった。

…何だか急にサツキ君が恋しくなって来ちゃった…。

先生を起こさないように気を付けて、静かに寝室を出てキッチンに向かった僕は、冷たいミネラルウォーターで喉を潤しな

がら、県大会に臨む恋人に想いを馳せた。

…あと数時間か…。いよいよだねさっちゃん…。

僕は祈るような気持ちで、声には出さず、遠く離れたサツキ君にエールを送った。



それから数時間後のリビングで、

「はっはっはっ。そんなに慌てて食べなくとも、鰻は逃げないぞぉ?」

レンジでチンしてホカホカになった鰻重をハフハフ言いながら食べている僕に、既に鰻重とお粥二パックを食べ終えた先生

は、口元を緩めて微笑みながらお茶を勧めてくれた。

先生こそ、飲み込むようにして、あっという間に食べちゃったじゃないですか?

…とは思ったけれど、鰻重を食べるのに忙しい僕は、あえて反論しない…。

急に食欲が出た僕は、鰻重を食べた上に、昨日の残りの梅粥半分も平らげた。

不足した栄養を体が求めてるのかな?普段の僕からはとても考えられない食欲。自分でもビックリ。

老舗の鰻重は凄く美味しかった。

一度冷蔵庫に入れてからレンジで温め直したのに、文句なしの美味!できたてだったらどんなに美味しいんだろう?

鰻はおいそれと手が出せない高級品だけど、サツキ君にも教えてあげたい。これはアリだ。うん。

満腹になった僕は薬を飲んで、先生とゆっくり食後のお茶を楽しんだ。

時刻は午前八時。サツキ君はもうじき大会なのに、僕だけこんなにのんびりしてて良いのかなぁ…?

あ。考えたら急にそわそわして来ちゃった…。

大丈夫かなぁサツキ君?忘れ物とかしてない?柔道着をホテルに置いたまま出ちゃったりとかしてないよね?

「イヌイ」

「はいっ!?」

不意に名前を呼ばれて、考え事を中断させられた僕は、上ずった声で先生に返事をした。

「体調が良くなっても油断は禁物だからなぁ?食休みが終わったら横になるんだぞぉ?」

「え?でも、眠くないですし…」

「無理に眠らなくてもいいんだ。本を読んでいてもいいから、とにかく布団に入って体を温めたままにして、休んでおきなさ

い。脅す訳じゃあないが、今はたまたま小康状態なだけかもしれないぞぉ?ぶり返さないとも限らないからなぁ」

先生は緩んだ笑みを浮かべながら忠告してくれた。

「そうですね…。治りがけが肝心ってよく言いますし…、大人しくしています」

頷いた僕に、先生は「うん。良い子だ」とニンマリ笑う。

「腹も膨れた事だし、布団の中で本を読んでいれば、その内眠くなるかもしれないしなぁ。夜には、帰ってきたアブクマとイ

ワクニに、元気な顔を見せてやろうなぁ」

「はい!」

正直、県大会の事を考えてドキドキしてきちゃったけど、先生の言う通り体は休めておかなくちゃ…。

ここでまた体調を崩したら、それこそ色々世話をやいてくれた皆に申し訳無いもん…。



待ちに待っていたその電話が入ったのは、時計の針が午後四時を指す直前だった。

「主将からです!」

枕元に置いていた携帯を掴んで、「岩国主将」という表示を目にした僕は、丁度お茶を持って来てくれていた先生と、今日

も一日付き合って外出しないでいてくれたウツノミヤ君にそう告げる。

この時間まで連絡が無かったんだから、相当上位に食い込んでいるはず…。

…それとも、もしかしたら序盤で負けちゃって、電話し辛くてこの時間に…?

ドキドキしながら通話ボタンを押した僕は、携帯を耳元に寄せた。

「はい、イヌイです!主将!?」

勢い込んで口を開いた僕の耳に響いたのは、しかし何故か主将の声じゃなかった。

『いや違う、俺だよ!ぬははっ!』

聞き馴染んだ、そして今一番聞きたかった声…。

「サツキ君!?あれ?通知が主将の…」

『今、閉会式終わったばっかでな、主将の携帯借りてんだ!』

「そうだったんだ?」

思いがけずにサツキ君の声が聞けたから、不意を突かれてビックリしちゃった…。

『で、具合どうだ?』

サツキ君の声は、少し心配そうに硬くなった。

体調はすこぶる良くなった事と、皆にとても良くして貰った事を、僕は手短に告げる。

『…そっか。ん、良かった…』

安心したのか、サツキ君の声がちょっと柔らかくなった。

「それとね?トラ先生が念の為にって、一晩泊まってくれたの」

『え?お〜…、後でかわってくれ、俺からも礼言っときてぇ』

「うん。…それと、その…。サツキ君?大会の方は…?」

『ん?あぁ、そうだった!』

サツキ君は言われてやっと思い出したように、苦笑の響きを声に滲ませた。

『結果な…』

サツキ君のその声に続いて、すぅ〜っと、大きく息を吸い込むような音…、風の流れが電波に乗って届く。

…何この溜め?

少し考えた僕はすぐに気付き、電話を耳から離して、先生とウツノミヤ君にも聞こえるように外部スピーカーをオンにした。

『次は全国だ!』

サツキ君の大声がビリビリと携帯を震えさせて、僕らに結果を知らせた。

トラ先生は一瞬目を丸くした後、瞑っているように見えるほど目を細め、ほにゃ〜っと顔を緩ませる。

「なにも叫ばなくたって、普通に言えばちゃんと聞こえるのにな」

呆れたように肩を竦めて呟いたウツノミヤ君も、口元を綻ばせていた。

『おいキイチ?聞こえてるか?優勝したんだぜ、ゆーしょー!…もしもし?キイチ?…あれ?…んっと…、通じてねぇのか?

…す、済んません主将…。大声出し過ぎて携帯…壊しちまったかも…』

じーんとしている僕の手の中で、携帯がサツキ君の声で喋り続けていた。

やった…!やった!優勝したんだ!全国だって!

帰って来たら、心配かけちゃった事と、黙ってた事を改めて謝って、いっぱいおめでとうを言って、それから、それから…!

あぁ!早く会いたいよさっちゃん!